日々の神の御言葉「成功するかどうかはその人の歩む道にかかっている」抜粋480

日々の神の御言葉「成功するかどうかはその人の歩む道にかかっている」抜粋480

258 |2020年10月10日

一部の人は次のように言っている。「パウロは、本当に多くの仕事をし、諸教会に対して非常に重荷を感じ、多大な貢献をした。パウロの13通の手紙は、恵の時代を2000年間支え、それは4つの福音書の次に大きな功績だ。そのパウロを誰と比較できると言うのか。ヨハネの黙示録は誰も読み解けないが、パウロの書いた手紙は人にいのちを与え、その働きは全て教会のためになった。パウロでなければ達成できなかったことではないだろうか。それに比べて、ペテロが何の働きをしたのか」と。人は、他人を評価するとき、その人のなした功績によって判断する。神が人を評価するときには、その者の本性を見る。いのちを追い求めている人の中で、パウロは自分の本質を知らない人であった。彼は謙虚でも従順でもなかったし、自分の神に反している本質さえも知らなかった。それゆえ、パウロは、細部にわたる経験を持たず、真理を実践した人ではなかった。だがペテロは違った。彼は自分の不完全さ、弱さ、そして被造物としての堕落した性質を知っていたから、自分の性質を変化させるために実践する経路があった。彼は教義だけで現実性を伴わないという人間ではなかった。変わることができた人は救われて新たにされた人であり、真理を追求する資質がある。それに比べて、変わらない人はありのままが旧式なタイプの人々である。彼らは救われなかった人、つまり神に嫌われ拒否された人々なのである。いかにその働きが素晴らしくても、神に覚えてもらえることはない。あなたがこのことを自らの追求と比べるとき、究極のところペテロとパウロのいずれの方と同じなのかということが、おのずと分かってくるはずである。あなたが追い求めるものの中にやはり真理がなく、今日においても未だパウロのように尊大で放漫で、軽薄で自らを美化するなら、あなたは間違いなく失敗するくずである。あなたがペテロと同じものを追い求め、つまり実践と真の変化を求めて、同時に放漫でも尊大でもなく本分を尽くすことを求めるならば、被造物として勝利を達成できる。パウロは自分自身の本質も堕落も知らず、またどれほど反抗的かについてはほとんど知らなかった。パウロは一度も自分のした卑劣なキリストへの公然たる抵抗には言及せず、十分に悔やむこともなかった。パウロはそれに関して簡単な説明をしただけで、心の奥底では神に対して完全に服従していなかった。パウロはダマスコへ行く道で倒れたが、彼は本当に心の深い部分では自分を反省しておらず、単に絶えず働くことに満足し、自分を顧みてその古い性質を変えることが肝心なことだとは考えなかったのである。彼は真理を話すこと、それによって他者を備えることで自分の良心を慰め、二度とイエスの弟子を迫害しないことで自らを慰め、過去の罪を赦すことで満足していたのである。パウロが目指したのは、単に未来の栄冠と儚い働きでしかなく、また彼の求めた目標は、豊かで溢れんばかりの恵みだった。パウロは、十分に真理を追求せず、また過去に理解できていなかった真理をより深く追求しようともしなかった。だからパウロは、自分自身に対する認識が間違っていたともいえるし、彼は神による刑罰も裁きも受け入れなかった。パウロが働くことができたからといって、彼が自分の本性あるいは本質について認識があったと意味するわけではない。パウロは表面上の実践だけに集中し、何より認識を求めて努力したのであり、変化を求めていたわけではなかった。パウロの働きは、完全にダマスコへの道でキリストと出会った結果だけによるものであり、それは彼が最初から持っていた志ではなく、また自分の古い性質に神の刈り込みを受け入れた後の働きでもなかった。いくら働いても、パウロの古い性質が変わることはなく、よって彼の働きは、彼の過去の罪を償うことはなく、ただ当時の諸教会の間で一定の役割を果たしたに過ぎなかった。このように古い性質が変わらない人、つまり、救いを得ることがなく、さらには真理を知らない者は、主イエスに認められる人には絶対になれない。パウロは、イエス・キリストに対する愛と畏敬に溢れていたわけではなく、真理を探求することに長けていたわけでもなく、ましてや受肉の奥義を探し求めた人ではなかった。彼は単に詭弁に長けた人、そして自分より優れている人あるいは真理を備えた人に対して従わない人だった。パウロは、自分とは著しく違うあるいは敵対する人や真理を妬み、賜物があって印象深く、豊かな知識を備えた人を好んだ。真理を追い求め真理だけを重んじる貧しい人々と交流するのを好まず、代わりに、教理についてばかり語り、知識が豊富な宗教組織の長老格とばかり交流した。パウロは聖霊の新しい働きに対しては愛情がなく、聖霊の新しい働きの動きにも興味がなかった。代わりに彼は、一般的な真理より高い規律や教理を好んだ。パウロの生まれつきの本質と彼が追い求めたことの全てを見ても、彼は、真理を追求したキリスト者と呼ばれるに相応しくなく、ましてや神の家の忠実なしもべと呼ばれる資格などない。パウロはあまりに偽善的で、あまりに反抗的だったからだ。パウロは主イエスのしもべとして良く知られているが、最初から最後まで彼の行いは義とすることができないことから、彼は、天の国に入る資格を持っているとは全く言えない。よってパウロは、単に偽善の人、そして不義を行う人だが、キリストのために働いたこともある人として見ることができる。パウロを悪とすることはできないが、不義を行う人と呼ぶのが適当なのだ。パウロは多くの働きをなしたが、その働きの量ではなく、その働きの質と本質に基づいて判断されるべきである。そうしてこそ、この問題の真相を究明できる。パウロはこう信じていた。「わたしには神のために働く能力があって、普通の人より優れている。他の人以上に神の負担を思いやることができるし、わたしほど深く悔い改める人もいない。わたしには大いなる光が注ぎ、自分の目でも大いなる光を見たのだから、わたしの悔い改めは誰よりも深いはずだ」。これが、当時パウロが心の内で考えたことであった。パウロの働きが終わるとき、パウロは言った。「わたしはわたしの戦いを戦い抜き、決められた道を完走しました。そして今、わたしのための義の栄冠を受けるばかりです」と。パウロの言う戦い、働き、そして歩みは全て、義の栄冠を受けるためのものであって、彼は積極的に前進しようとしていたわけではなかった。彼の働きにおいて、いい加減ではなかったが、その働きは単に自らの過ちを補うため、そして良心の呵責に悩まされないためのものだったと言える。パウロが待ち望んだのは、与えられた仕事を完了させ、決められた道を完走し、そして戦いをなるべく早く終えて、自分の待ち望む義の栄冠を一日でも早く得ることだけであった。彼が望んだのは、自らが経験と真の認識を備えることで、主イエスに会いに行けることではなく、自らの働きを早く終わらせることで、主イエスに会ったときに、彼の働きに見合った見返りを受け取るためであった。つまりパウロは、その働きによって自らを慰め、またその働きを以て未来の栄冠に換える取り引きをしたのである。パウロが追い求めたものは、真理でも神でもなく、ただ栄冠だけであった。どうして、このような追求が条件に適うといえようか。パウロの動機、働き、支払った代償、そして費やした労力全てに、彼のすばらしく途方もない空想が浸透していて、彼は完全に自分の願望に従って仕事をしたのである。パウロは、彼の働き全体において、心から喜んで代価を払ったことが少しもなく、単に取り引きをしていたのである。パウロは本分を尽くすためには喜んで努力せず、取り引きの目的を達成させるためには喜んで努力した。そんな努力に何の価値があるのか。一体誰が彼の不純な努力を良しとするだろうか。だれがそのような努力に興味を持つだろうか。彼の働きは将来の夢と素晴らしい計画とに溢れていたが、人の性質を変えるような道は含まれていなかった。彼の慈愛のほとんどが見せかけであり、彼の働きはいのちを与えるどころか、偽りの礼儀正しさを装っていただけであった。それは単なる取り引きだったのである。このような働きが、どうして人を本来の本分を回復する道へと導き入れることができるというのか。

『言葉は肉において現れる』より引用

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