日々の神の御言葉: いのちへの入り | 抜粋 487

2020年8月23日

あなたは神を信じているので、あなたは神の言葉とその働きの全てに信仰を持たなければならない。つまり、あなたは神を信じているので、神に従わなければならないということである。それが出来なければ、あなたが神を信じているかどうかなど問題ではない。もしあなたが長年神を信じており、それでも神に従ったことがないか、神の言葉を全て受け入れたことはないばかりか、神が自分に従うよう求めたり、自分の観念に沿って行動するように求めたりするようであれば、あなたは最も反抗的な人間であり、神を信じない者である。そのような人間が、人の観念とは一致しない神の言葉や働きに従うことなど出来るだろうか。最も反抗的な者とは、意図的に神に逆らい拒絶する者である。そのような者は神の敵であり、反キリストである。そのような者は常に神の新しい働きに対して敵対する態度をとり、従う意志など微塵も示さず、喜んで服従を示すことや謙虚になることなど一度たりともないのである。他の人たちの前で得意になり、誰に対しても従うことをしない。神の前では、自分が説教者として最も長けており、他の人に働きかけることに自分が一番熟練していると考える。自分が獲得した宝を決して手放そうとせず、家宝として拝み、説教の題材にし、自分を崇拝するような愚か者への訓戒に用いる。このような人が、教会内に確かに数名存在する。このような人々は、「不屈の英雄」と呼ぶことができ、世代を超えて神の家に留まるのである。彼らは神の言葉(教義)を語ることを自分の最高位の本分と解釈する。何年も、何世代も、彼らは精力的に自らの「神聖で犯すべからざる」本分を続ける。彼らに触れる者は誰ひとりおらず、公然と非難する者もひとりもいない。神の家で「王」となり、何代にも亘ってはびこり、他の者を圧制する。このような悪魔の一団は、互いに手を組んでわたしの働きを潰そうとする。このような生きた悪魔をわたしの目の前に生かしておけるだろうか。半分だけ従っている者でさえ最後まで歩き続けることはできないのに、従う気持ちが微塵もないこのような暴君が最後まで歩き続けられないのは尚更である。神の働きは人間によって簡単に獲得されるものではない。人間が全力を尽くしても、その一部だけを得て最後に完全にされるだけである。そうであれば、神の働きを潰そうとしている大天使の後代はどうであろうか。彼らが神のものとなる望みは更に薄いのではないか。わたしが征服の働きをする目的は、単に征服することそのものにあるのではなく、征服することによって義と不義を明らかにし、人に対する懲罰のための証拠を入手し、邪悪な者を罪に定め、更に、進んで従う者達を完全にするために征服するのである。最後には、全ての人がそれぞれの種類に従って分けられる。完全にされた全ての者には従順に満ちた考えと発想がある。これが最後に完成される働きである。しかし、反抗的なやり方に満ちている者は罰せられ、燃える炎の中に送られ、永遠の呪いの対象となる。時が来れば、過去のいくつもの時代に及ぶ「偉大な不屈の英雄」が最も低い者となり、最も敬遠される「弱く、無力な臆病者」となる。このようにしてのみ、神の義のあらゆる側面を描き出し、人間による少しの反撃も容赦しない神の性質を現わす。唯一これが、わたしの心にある憎しみを鎮める。あなた方も、これが全く理に叶っていると思わないか。

聖霊の働きを経験する者の全てがいのちを得るわけではなく、この流れの中にいる人々全てがいのちを得るわけではない。いのちは全ての人間が所有できるものではなく、性質の変化は誰にでも簡単に達成できるものではない。神の働きに対する服従ははっきりと見て取れるものでなければならず、それを生きたものとして現わさなくてはならない。表面的な服従は神の承認を得ることができず、自らの性質の変化を求めずに神の言葉の表面的な部分だけに従うのであれば、神の心を喜ばせることはできない。神に対する従順と神の働きに対する服従はひとつであり、同じものである。神に服従するだけで神の働きには服従しない者は従順であるとは見なされない。心から従わずに表面的に媚びへつらう者は尚更である。心から神に従う者は皆、神の働きから得るものがあり、神の性質と働きを理解するようになる。そのような者だけが、本当に神に従順なのである。そのような者は新しい働きから新しい認識を得ることができ、新しい働きから新しい変化を経験する事ができるのである。そのような者だけが、神に認められる。そのような者だけが、完全にされる者であり、性質の変化を経験した者である。神の承認を得る者は、喜んで神に従う者で、神の言葉と働きにも従う者である。このような者だけが正しいのである。このような者だけが、心から神を求め、神を追求しているのである。口先だけで神に対する信仰を語り、実際には呪っている者は、仮面を被った、蛇の毒を持つ、最も信用できない者である。遅かれ早かれ、そのような悪党はその酷く不快な仮面を剥がされる。それが今日為されている働きではないのか。邪悪な人間は常に邪悪であり、決して懲罰の日を逃れることはない。善なる人間は常に善であり、働きが終わる時に明らかにされる。邪悪な者が義と見なされることはなく、義なる者が邪悪な者と見なされることもない。わたしが誰かを不当な非難に曝すことなどあるだろうか。

『神の出現と働き』「真心で神に従う者は、必ずや神のものとされる」(『言葉』第1巻)より

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