日々の神の御言葉: いのちへの入り | 抜粋 491

2020年10月7日

人々が想像するのと違い、肉にある期間中、神が人々に求める従順さに、判断や抵抗を避けるといったことは含まれない。むしろ、自身が生きる上での原則、および自身の生存の基礎として神の言葉を用い、神の言葉の本質を絶対的に実践し、神の旨を絶対に満たすことを神は要求する。受肉した神に服従するよう人々に求めることについて、その一つの側面は神の言葉を実践することであり、もう一つの側面は神の普通性と実際性に従えることを指している。これらは両方とも絶対的でなければならない。これらの側面を両方とも成し遂げられる者はみな、心の中に神への真の愛を抱く者である。彼らはみな神によって得られた者であり、自分のいのちを愛するように神を愛する。受肉した神の働きには、普通かつ実際的な人間性がある。このように、受肉した神の普通で実際的な人間性の外殻は、人々にとって巨大な試練となり、最大の困難となるのである。しかし、神の普通性と実際性は避けることができない。神はあらゆる手を尽くして解決策を探したが、普通の人間性の外殻を自分から取り除くことは結局できなかった。つまるところ、彼は受肉した神であり、天なる霊の神ではないからである。受肉した神は人間が見ることのできない神ではなく、被造物の一員という外皮をまとった神である。ゆえに、その普通の人間性の外殻を自分から取り除くのは、決して容易ではない。したがって、受肉した神は何があっても、依然として肉の見地から自ら望む働きを行なう。この働きは普通で実際の神の表われなのだから、人々がそれに従わなくてよいことがどうして有り得ようか。神の行動について人々にいったい何ができようか。受肉した神は望むことを何でも行ない、自身が満足しているものはすべてそのままである。それに従わないのであれば、他に健全な策があるだろうか。今のところ、人々を救えてきたのは服従だけであり、それ以外の優れた発想をした者はいない。神が人々を試すことを望むなら、それについて何ができるというのか。しかし、これらはどれも天なる神が考え出したことではなく、受肉した神によって考え出されたことである。受肉した神がそうすることを望むのだから、それは誰にも変えられない。天なる神は受肉した神が行なうことに干渉しないのだから、それはなおさら人々が彼に従うべき理由になるのではないか。彼は実践的かつ普通であるものの、それは完全に受肉した神である。彼は自身の考えに基づいて、望むことを何でも行なう。天なる神はすべての任務を彼に委ねている。彼が何をしようと、あなたはそれに従わなければならない。彼には人間性があり、極めて普通であるものの、そのすべてを意図して采配したのだから、人々が目を見ひらき、非難の眼差しで彼を睨みつけることがどうしてできようか。普通であることを望めば、彼は普通である。人間性の中で生きることを望めば、彼は人間性の中で生きる。神性の中で生きることを望めば、彼は神性の中で生きる。人々はそれをどのようにでも考えることができるものの、神はいつまでも神であり、人間はいつまでも人間である。幾つかの細かいことを理由として、彼の本質を否定することはできない。また一つの些細なことを理由として、彼を神の「位格」の外へ追い出すこともできない。人には人間の自由があり、神には神の尊厳があり、両者が相互に干渉することはない。人は神にわずかな自由も与えられないのか。神がすこしだけ気ままなことに我慢できないのか。神に対してそう厳しくなってはいけない。それぞれが互いに寛容になるべきである。そうすれば、万事解決しないだろうか。それでも仲たがいが残るだろうか。そうした些細なことに我慢できなければ、寛大な人、あるいは真の人間になることを、どうして考えることさえできようか。神が人類に困難を引き起こしているのではなく、人類が神に困難を引き起こしているのである。人間はいつも、もぐらの塚を山にすることで物事に対処している。些細なことを大袈裟に受け止めるが、これは本当に余計なことである。神が普通の実際的な人間性の中で働くとき、行なうのは人間の働きではなく、神の働きである。しかし、人間は彼の働きの本質を見ず、常に彼の人間性の外殻しか見ない。人間はそのような大いなる働きを見たことがないのに、神の普通かつ正常な人間性を見ることに固執してそこから離れない。どうしてそれを神の前での服従と呼べるだろうか。天なる神は今や地上の神へと「変身」し、地上の神が今や天なる神なのである。両者の外見が同じかどうか、両者がいったいどう働きを行なうのかは関係ない。結局、神自身の働きを行なうのは神自身である。好むと好まざるとにかかわらず、あなたは従わなければならない。これはあなたに選択権がないことなのである。神は人間に服従されなければならず、人間は一切見せかけることなく神に完全に服従しなければならない。

受肉した神が今日得ようと望む人々の集団は、神の旨にかなう者たちである。彼らはひたすら神の働きに従い、天なる神という考えに絶えず囚われるのをやめ、漠然とした状態で生きたり、受肉した神に困難をもたらしたりしなければそれでよい。受肉した神に従えるのは、その言葉を絶対的に聞き、その采配に従う者たちである。そうした人たちは天なる神が実際にはどのような存在か、天なる神が現在どのような働きを人間のあいだで行なっているかを一切気にせず、自身の心を地上の神へ完全に捧げ、自分の全存在をその前に置く。決して自らの安全を考慮せず、受肉した神の普通性や実際性に関して騒ぎ立てることも決してない。受肉した神に従う者は、受肉した神によって完全にされることができる。天なる神を信じる者は、何も得ることがない。なぜなら、人々に約束と恵みを授けるのは、天なる神ではなく地上の神だからである。人は地上の神を単なる凡人と見なしつつ、天なる神を絶えず過大に見ていてはならない。それは不公平である。天なる神は偉大で素晴らしく、驚異的な知恵をもっているが、そんなものはまったく実在しない。地上の神は至って普通で取るに足らない存在であり、極めて平凡でもある。地上の神は非凡な精神をもたず、地を揺るがすような業を行なうこともない。至って普通に、かつ実際的に働きを行ない、話をする。地上の神は雷鳴を通じて語ったり、雨風を起こしたりはしないが、まことに天なる神の受肉であり、人間のもとで生活する神なのである。人は、自分が理解でき、自分の想像に合う存在を神として誇張しつつ、自分が受け入れられず、想像もつかない存在を卑しいものとみなしてはならない。そうしたことはどれも人間の反逆性に由来するのであり、神に対する人間の反抗の源である。

『神の出現と働き』「神の実際性に絶対的に服従できる者は真に神を愛する者である」(『言葉』第1巻)より

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