日々の神の御言葉: いのちへの入り | 抜粋 494

2020年10月14日

神への本物の愛は、心の奥底から生じる。それは神に関する認識に基づいてのみ存在する愛である。ある者の心が完全に神に向かえば、その者は神への愛を持つことになるが、その愛は必ずしも純粋ではなく、また完全でもない。なぜなら、その人の心が完全に神に向かうことと、その人が神を真に理解し神への本物の敬愛を持つことの間には、まだある程度の隔たりがあるからである。人が神への真の愛を得て神の性質を知るための方法は、心を神に向けることだ。神に真心を捧げると、その人はいのちの体験に入り始めることになる。そうすることでその人の性質は変化し始め、神への愛が次第に成長し、神に関する認識もまた徐々に増してゆく。つまり、心を神に向けることは、単にいのちの体験の正しい道を歩むための前提条件なのだ。人々が神の前に自分の心を置くとき、彼らには神を渇望する心しかなく、神への愛の心はない。なぜなら神に関する理解がないからである。そのような状況で神への愛を多少は持っていたとしても、それは自発的なものではなく、本物の愛ではない。なぜなら、人間の肉から来るものは何であれ感情の産物であり、真の理解から来るものではないからだ。それは一時的な衝動に過ぎず、持続する敬愛にはなりえない。神に関する理解を得ていないと、人は自分の好みや個人的観念に基づいて神を愛することしかできない。この種の愛は自発的な愛と呼べるものではなく、また本物の愛とも呼べない。人の心が真に神に向かうと、その人はあらゆることにおいて神の利益に配慮できるようになるが、神についての理解がなければ、真に自発的な愛を抱くことはできない。その人にできるのはただ教会で何らかの役割を果たしたり、本分をわずかに尽くしたりすることだけで、しかもその行動には基盤がない。そのような人の性質はなかなか変化しない。彼らは真理を追求していないか、あるいは真理を理解していないのだ。また、心を完全に神に向けたとしても、それで神を愛する心が完全に純粋だということにはならない。なぜなら、心に神を持っている者たちが、必ずしも心に神への愛を持っているとは限らないからだ。このことは、神を理解することを追求する者としない者の違いに関わっている。神に関する理解を得ているなら、それはその人の心が完全に神に向いていることと、その心にある神への真の愛が自発的であることを意味する。そのような人だけが、心に神を持っているのだ。心を神に向けることは、正しい道へと踏み出し、神を理解し、神への愛を得るための前提条件である。それは神を愛するという本分を尽くした印でもなければ、神への真の愛を持っているという印でもない。神への真の愛を得るための唯一の方法は、心を神に向けることであり、それは同時に、神の被造物の一つとしてまず行わねばならないことでもある。神を愛する者とは、いのちを求めるすべての人々、すなわち真理を追求し、真に神を求める人々である。彼らはみな聖霊の啓示を得ており、聖霊によって動かされている。彼らはみな神の導きを得ることができるのだ。

『神の出現と働き』「神への真の愛は自発的なものである」(『言葉』第1巻)より

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