日々の神の御言葉: 人類の堕落を暴く | 抜粋 317

2020年8月10日

人はサタンの影響から解き放たれることはなく、鎖につながれ暗闇の中で生きて来た。サタンに大きく影響を受けてから、人の性質はますます堕落してしまった。すなわち、人は絶えず堕落したサタンの性質を持ち、真に神を愛することもできず生きている。今後、人が神を愛したいと願うなら、独善、自尊心、高慢、うぬぼれ、そしてサタンの性質に属するすべてのものを取り除かねばならない。さもなければ、人の愛は不純で、まさにサタンの愛そのものであり、そのままで神の承認を受けることなど断じてできない。もし人が聖霊によって直接完全にされ、扱われ、砕かれ、刈り込められ、訓練され、懲らしめ、練られるのでなければ、誰も神を真に愛することはできない。もしあなたが自分の性質の一部は神を現していて、よって、神を真に愛することができると言うなら、あなたは傲慢な言葉を語る人で、非常識な人である。そのような人たちは大天使である!人の生まれつきの性質のままでは神を体現することはできない。人は神の完全化を通して生まれつきの性質を取り除き、聖霊の働きを通して神の心を探り、神の心を行って初めて、その生き方が神によって認められる。聖霊によって用いられる人でなければ、肉によって生きる者はそのままでは誰も神を体現することはできない。しかも、聖霊に用いられている人の性質であっても、その人の生き方が神を完全に体現しているとは言えない。その人の生き方は聖霊によって支配されているとしか言えない。その人の性質が神を体現することはできない。

人の性質は神によって定められている――これに議論の余地はなく、肯定的なことと考えることができる。しかしサタン­­によって大きく影響されて来た。だから人の性質は全てサタンの性質なのである。神の働きはその性質の通り、まっすぐで分かりやすい。だから自分もまたそのように振る舞っているのだと言う人もあるだろう。人もまた神と同じこの種の性格を持っていて、彼の性格は神を体現していると言う。そのような事を言うのはいったいどんな人だろうか。堕落したサタンの性質が神を体現することなどできるのだろうか。自分の性質は神を現していると宣言する人は誰でも神を冒涜しており、それは聖霊に対する侮辱である!聖霊がどのように働くかを見ると、神の地上での働きは征服することのみで、人間の堕落したサタンの性質は大半が清められないままだ。人の生き方は依然としてサタンのイメージを伴っている。それは人の善性で肉の行動を現している。もっと正確に言うなら、それはサタンを体現し、決して神を体現するものではない。たとえ人が地上において天国の生活を楽しむことができるほど神をすでに愛し、「わたしがどれほど神を愛しても、十二分に愛したとは言えません!」とさえ言うことができ、最高の領域に達していても、あなたは神を生き、神を体現しているとは言えない。人の本質は神の本質とは違うからだ。人は決して神を生きることはできないし、ましてや神のようになることなどできない。聖霊に支配されて人が何かしたとしても、単にその人のする事が神の願うことと一致しているだけである。

サタンの行いの全ては人を通して示されている。今や人の行い全てはサタンの表現であり、よって人が神を体現することはできない。人はサタンの化身で、人の性質は神の性質を体現することはない。良い性格の人たちも中にはいて、神がそのような人たちの性格を通して働き、その働きが聖霊によって支配されることもあるが、人の性質が神を体現することはない。神が彼らに働くのはただ彼らがすでに持っている物を用い、それを拡張しているに過ぎない。昔の預言者や神によって用いられた人たちでも、誰も神を体現することはできない。全ての人たちは置かれた状況から衝動的に神を愛するようになるが、ひとりとして自覚を持って神と協調しようとする者はいない。肯定的なものとは何だろうか。神から直接もたらされるものはすべて肯定的である。しかし、人の性質はサタンの影響を大きく受けており、神を体現することはできない。肉となった神――その愛、苦難を受ける覚悟、義、従順、へりくだり、目に見えない肉となった内なる神――これらのみが直接神を体現できるのである。これは彼が来た時、罪の性質を持たず、神から直接来たからである。彼はサタンの影響を受けていない。イエスは罪なる肉の姿を取っているけれど、決して罪を体現してはいない。だから、十字架を通して(十字架の苦難も含めて)働きが達成される時まで、イエスの行動、行なった業、言葉は直接すべて神を体現している。イエスの事実は、罪の性質を持っている人は誰も神を体現することができず、人の罪はサタンを表わしていることを証明するに足りる。すなわち、罪は神を体現することはなく、神には罪がない。聖霊によって人になされた働きも、聖霊によって支配されていたと言えるだけで、神に代わって人がそれを成したと言うことではない。人に関する限り、彼の罪も性質も神を体現することはない。今日、また過去にも聖霊によって人になされた働きを見ると、ほとんど聖霊によって成し遂げられている。それゆえに、人は真実を生きることができる。しかしこれはひとつの側面に過ぎない。聖霊によって扱われ、訓練されて尚真理を生き抜くことができる人はほとんどいない。すなわち、聖霊の働きが存在しているだけで、それに対する人の協調がないからだ。わたしの言うことがはっきり分かるだろうか。それでは、聖霊と一致してひたすら励み、本分を尽くすには何をしたらいいのだろうか。

『神の出現と働き』「堕落した人間は神を体現できない」(『言葉』第1巻)より

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