日々の神の御言葉: 神を知る | 抜粋 182

2020年8月2日

神は万物を造り、それらの境界を定め、その中であらゆる生物を養いましたが、一方で人類のための様々な生存手段も用意したので、人間が生き延びる方法は一つだけでなく、生存環境も一種類だけでないことがわかります。先ほど、神が人間のために様々な食料や水源を用意したことについて話しましたが、それらは人類が肉体的に生き続けるうえで不可欠なものです。しかし、人類の全員が穀物を食べて生存しているわけではありません。地理的環境や地形の相違のために、人間には様々な生存手段があります。これらの生存手段は、すべて神が用意したものです。したがって、すべての人間が主として農耕に従事しているとは限りません。つまり、すべての人が耕作によって食料を得ているわけではないのです。これが、本日お話しする三番目の部分です。境界が発生したのは、人類の生活様式が多様だからです。それでは、人間の生活様式として、他にどのような種類のものがありますか。様々な食料源という観点から見たとき、他にどのような種類の人々がいますか。そこには主なものが数種類あります。

一番目は狩猟の生活様式です。それが何か、みなさん知っていますね。狩猟で生きる人は何を食べますか。(獲物です。)こうした人々は森で獲った鳥や獣を食べます。「獲物」とは現代の言葉です。狩人はそれを獲物とは考えず、食料、日々の糧と考えます。たとえば、狩人は鹿を獲ります。狩人が鹿を獲るのは、農民が土から作物を得るのと同じです。農民は土から食料を得るので、その食料を見たとき、喜んで安堵します。家族は作物を食べることができるので、飢えることはありません。農民の心は不安から解放され、満足します。狩人も獲物を見て安堵し、満足します。これ以上食料の心配をせずに済むからです。次の食事で食べるものがあれば、飢える必要はありません。これが生活のために狩猟をする人です。狩猟を生業とする人々の大半は山の森で生活します。農耕はしません。そこで耕作に適した土地を見つけるのは困難なので、様々な生物、すなわち獲物を食べて生存します。これが普通の人々と異なる生活様式の一番目です。

二番目は牧畜民の生活様式です。牧畜で生活する人は土地を耕すこともしますか。(しません。)では、何をしますか。ここにモンゴル系の人がいれば、遊牧民の生活様式について話してください。(生活の大半を牛や羊の飼育に費やし、農耕は行いません。冬に家畜の屠殺を行ってそれを食べます。主食は牛肉と羊肉で、ミルクティーを飲みます。牧畜民は四季を通じて多忙ですが、食事は豊かです。ミルク、乳製品、肉が豊富にあります)モンゴル人はおもに牛肉と羊肉を食べ、羊の乳と牛乳を飲み、牛や馬に乗って風を髪に受け、顔に日光を浴びながら、野原で牧畜を行います。彼らが現代生活のストレスに晒されることはありません。広大な青空と草原を一日中眺めているのです。牧畜で生計を立てている人の大半は草原に住み、何世代にもわたって遊牧民の生き方を続けられてきました。草原での生活はいささか孤独ですが、とても幸福な生活でもあります。悪くない生き方です。

三番目は漁をして暮らす生き方です。人類の中には、沿岸部や小さな島に住む人々がごく一部存在します。彼らは水に囲まれ、海に面しています。これらの人々は漁を生業としています。漁を生業とする人々の食料源は何ですか。そのとおり、彼らの食料源には様々な魚や海産食物や海産物が含まれます。香港が小さな漁村に過ぎなかったころ、当時の住民は漁を生業としていました。彼らは大地を耕さず、その代わり毎日漁に出ていました。主食は様々な魚や海産物で、時々それらを米や小麦粉や日用品と交換することがありました。これが沿岸部に住む人々の、他とは異なる生活様式です。海の近くに住む人々は食料を海に頼っており、漁は彼らに食料をもたらすだけでなく、彼らが生計を立てる手段でもあるのです。

農耕を行う以外に、人類の大部分は上記三種類の生き方にしたがって暮らしています。しかし、大半の人々は農耕を生業としており、牧畜や漁や狩猟によって暮らす人々の集団は少数しかありません。それでは、農耕を生業とする人々は何を必要としますか。彼らが必要とするものは土地です。彼らは何世代にもわたり、地中に作物を植えることで暮らしており、野菜を植えようと、果実を植えようと、あるいは穀物を植えようと、彼らが食料と日々の必需品を得るのは大地からなのです。

こうした様々な人間の生活様式を支える基本条件は何ですか。人々が生存できる環境を基本的な水準に維持することが絶対に必要ではありませんか。つまり、狩猟で暮らす人が山や森、鳥や獣を失ったとしたら、彼らの食料源はなくなってしまいます。この民族、およびこうした人々が向かうべき方向は不確実なものになり、彼らが消えてしまう恐れすらあるでしょう。また、牧畜を生業とする人々はどうですか。こうした人々は何に頼っていますか。彼らが頼っているのは家畜ではなく、家畜が生存できる環境、すなわち草原です。草原がなければ、牧畜民はどこで家畜を放牧すればよいでしょうか。牛や羊は何を食べればよいでしょうか。家畜がなかったとしたら、これら遊牧民には生活の糧がなくなるでしょう。生活の糧を得る源がないとしたら、これらの人々はどこへ行けばよいでしょうか。生き続けることが極めて難しくなり、未来はなくなるでしょう。水源がなくなり、河川や湖沼が干上がってしまったら、水に頼って暮らすすべての魚はそれでも存在するでしょうか。存在しないでしょう。水と魚に生活の糧を頼る人々は、引き続き生存できるでしょうか。こうした人々の食料や、生活の糧を得る源がなくなったとしたら、生存し続けることは不可能でしょう。つまり、ある民族が生活の糧や生存に関する問題に直面した場合、その民族は存続できず、地球上から消えて絶滅するでしょう。また、農業を生業とする者が土を失い、ありとあらゆる植物を植えてそこから食料を得られなくなったら、その結末はどうなるでしょうか。食料がなかったとしたら、人間は餓死するのではないでしょうか。人間が餓死しつつあるなら、その人種は消滅するのではないでしょうか。そうしたわけで、これが多種多様な環境を維持する神の目的なのです。神が様々な環境や生態系を維持し、そしてそこに住む様々な生物をすべて維持する目的は、ただひとつしかありません。その目的とは、様々な人々、様々な地理的環境の中で暮らす人々を養うことです。

すべての被造物がそれぞれの法則を失ったとしたら、それらは存在しなくなるでしょう。万物の法則が失われたとしたら、万物のうち、あらゆる生物が存続できないでしょう。人類もまた、生存のために頼っている環境を失うでしょう。人類がそのすべてを失うとしたら、これまでのような世代を超えた繁栄と繁殖は継続不可能になるはずです。人間が現在まで生存してきたのは、神が人間にすべての被造物を与え、様々な方法で人類を養ってきたからです。人類が現在まで、今日まで生存してきたのは、ひとえに神が様々な方法で人類を養っているからです。自然の法則が整然としている、固定された好ましい生存環境により、地球上のありとあらゆる人々、ありとあらゆる人種が、予め定めた領域の中で生存できるのです。これらの領域や境界を越えられる人はいません。なぜなら、それらを定めたのは神だからです。神がこのように境界を定めたのはなぜですか。このことは全人類にとって大いに重要な問題です。本当に重要な問題なのです。

『神を知ることについて』「唯一無二の神自身 9」(『言葉』第2巻)より

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