日々の神の御言葉: 神の働きを認識する | 抜粋 162

2020年8月1日

こう聞く人もいるだろう。「受肉した神によってなされる働きと、昔の預言者や使徒のそれとでは、何が違うのか。」ダビデは主と呼ばれていたし、イエスもそう呼ばれていた。二人の働きは違ったが、呼ばれ方は同じだった。「それなのに、なぜふたりの身分は同じではなかったのか」とあなた方は聞くだろうか。ヨハネが見たものは一つのビジョンであり、聖霊から出たものでもあり、そしてヨハネは聖霊が伝えようとする言葉が話せたのに、なぜヨハネの身分はイエスのそれと違ったのか。イエスによって話された言葉は、完全に神を現すことができ、神の働きを全て現すことができた。ヨハネが見たものは一つのビジョンであって、神の働きを完全に現すことはできなかった。ヨハネ、ペテロ、そしてパウロは、イエスの様に多くを語ったが、彼らがイエスと同じ身分を持たないのはなぜか。彼らの働きが違ったからというのが主な理由である。イエスは神の霊を現し、神の霊が直接働いていたのである。イエスは、新しい時代の働き、それまで誰もしたことのない働きをしたのである。イエスは新しい道を切り開き、ヤーウェを現し、神自身を現したのである。一方で、ペテロやパウロやダビデは、彼らが何と呼ばれていたかに関係なく、被造物としての身分を現しただけか、イエスかヤーウェに遣わされただけであった。それだから、彼らがいかに多くの働きをしようとも、どれほど素晴らしい奇跡を行おうとも、やはり神の被造物にすぎず、神の霊を現すことはできなかったのである。彼らは神の名によって、または神に遣わされて働いたのである。更に、彼らはイエスあるいはヤーウェによって始められた時代の中で働いたのであり、彼らの働きはその時代と切り離されたものではなかった。結局のところ、彼らは単なる被造物にすぎなかった。旧約では多くの預言者が預言を語ったり、預言書を書いたりした。誰一人として自らが神だとは言わなかったが、イエスが現れるやいなや、イエスが言葉を発する以前に、神の霊がイエスを神であると証ししたのである。それはなぜか。あなたは、この時点で既に知っているはずだ。以前に使徒たちや預言者たちが様々な書簡を書き、また多くの預言を残した。それを後になって人が幾つかを選び抜いて聖書に収めたが、紛失した書もあった。彼らによって発っせられた言葉は全て聖霊から出たものだと言う人たちが居るのなら、それらの言葉の内、良いとされているものと悪いとされているものがあるのはなぜか。そして選ばれたものとそうでないものがあるのはなぜか。それらが本当に聖霊によって話された言葉ならば、人が選抜する必要があったのか。なぜイエスによって話された言葉とイエスの行った働きの記録が四つの福音書のそれぞれで異なるのか。これは、福音書を記録した人間によるミスではないのか。「使徒書簡は、パウロおよびほかの新約の作者によって書かれ、彼らの働きは部分的には人の意思から出ているものであり、人の観念も混ぜられているのだから、あなた(神)が今日話す言葉の中に人間の不純さはないのか。それらの中に人間の観念は本当に含まれていないのか」と聞く人もいるだろう。神によるこの段階の働きは、パウロや多くの使徒そして預言者が行った働きとは全く異なっている。身分に違いがあるだけでなく、基本的に実行された働きの内容が違うのである。パウロが打たれて神の前に倒れた後、彼は聖霊に導かれて働き、遣わされる者となった。だからパウロは諸教会に書簡を書き送ったが、その書簡は全てイエスの教えを手本とするものであった。パウロは、主イエスの名によって働くために主に遣わされたが、神自身が来たときは、誰かの名によって働くことはなく、その働きにおいて神の霊のみを現した。神は、直接自身の働きをするために来た。神は人によって完全にされることはなく、人の教えに基づいてその働きがなされることもなかった。この段階の働きの中で神は、自らの経験を語ることによって導くのではなく、自身が持つものに従って直接働きを実行する。例えば、奉仕者の働き、刑罰の時代の働き、死に関する働き、神を愛する働き等々。これらは全てこれまでなされたことがない働きであり、人の経験というよりこの時代の働きである。わたしが発した言葉の中で、どれが人の経験であるのか。それは全て神の霊から直接出たもの、そして神の霊によって発せられたものではなかったか。あなたの力量が乏しいために真理を見極めることができないだけである。わたしが話す実践的ないのちの道は、進むべき道を示すものであり、今まで誰も語ったものはなく、この道を経験した者もなく、この実情を知った者もない。わたしがこれらを話すまでは誰によっても語られなかった。誰もこのような経験を語る者はなく、詳細にそのような話をする者もなく、さらに誰もその様な状況を指摘して、これらのことを明るみに出す者もいなかったのである。わたしが今日導く道は誰によっても導かれたことのないものである。もし人によって導かれたものであったならば、それは新しい道とはいえない。パウロとペテロを例に取ってみよう。イエスによって導かれた道を歩む前は、彼らは自らの経験は持っていなかった。彼らは、イエスに導びかれて初めてイエスの話す言葉や導かれる道を経験したのである。それによって彼らは多くの経験を得て聖書の中の書簡を書いたのである。よって、人の経験は神の働きとは同じではなく、神の働きは人の観念や経験によって説明される認識とは同じではない。何度も繰り返し言ってきたが、現在わたしは新しい道を導き、また新しい働きを行っているが、わたしの働きやわたしが発する言葉はヨハネなどのような預言者のそれとは異なるのである。わたしは経験を得てからあなた方に話すことはしない——そのようなことは決してない。仮にそうだとしたら、ずっと前にあなた方を遅らせたのではないだろうか。過去に多くの者たちが語った認識も高尚とされているが、その人達の言ったことはみな、いわゆる霊的な人物と言われる人たちの言葉に基づいて語られたにすぎない。そのような言葉は道を導いたわけではなく、語った人の経験や実際に観たものと認識から来ていたのである。それには彼らの観念もあり、また彼らの経験をまとめたものもあった。今日、わたしの働きは、そういう人たちの働きとは全く性質を異にする。わたしは他者によって導かれた経験もなければ、他者から完全にされることを受け入れたこともない。さらに、わたしが語りまた伝えたものはみな他の人のものは異なり、また他の誰かによって語られたことのないものである。今日、あなた方が誰であろうと、あなた方の働きは、わたしが語る言葉に基づいて行われるのである。これらの発言と働きなくして、誰がこのような事(奉仕者や刑罰の時代…)を経験し、誰がそのような認識を語ることができようか。あなた方は本当にこの事を見極めることができないのだろうか。働きのどの段階であろうが、ひとたびわたしが言葉を発すれば、あなた方は直ちにわたしの言葉に従って語り始め、またそれらの言葉に従って働くのであり、それは、あなた方が誰も考えたことのない道なのである。ここまで歩んできたあなた方が、これほど単純明快な問題を理解することができないのか。その道は、誰かが考え出した道でも、霊的と言われる人たちの道に基づくものでもない。その道は新しい道であり、イエスが当時語った多くの言葉でさえもう当てはめてみることができない。現在わたしが語るのは、新しい時代を切り開く働きのことであり、その働きは他から完全に独立したものであって、わたしの行う働きとわたしが話す言葉は全て新しいものなのである。これこそ今日の新しい働きではなかろうか。イエスの働きも当時そのようであった。イエスの働きは、神殿の中の人々の働きとは違い、パリサイ人の働きとも異なり、そしてイスラエルの民全体の働きと似たものでもなかった。人々は、イエスの働きを見た後、それが本当に神の行った事かどうか、はっきりと分からなかった。イエスはヤーウェの律法に固執しなかった。イエスが来て人を教えたことは全て新しく、昔の聖人たちや旧約の預言者たちが語ったものとは違っていたので、人々は確信を得ることができなかった。これは人々にとってとても難しい。この新しい段階の働きを受け入れる前に、あなた方のほとんどが歩んできた道は、霊的と言われる人達の歩みを踏襲し、同じくその歩みの基盤を得る道だった。しかし今日わたしが行う働きはそれとは大きく異なる。そのためあなた方は、それが正しいか間違っているかを判断できない。わたしは、あなたがどんな道を歩んで来たか、どんなものを食べたか、誰を「父」と崇めてきたかには興味がない。わたしは既に来ており、人を導くために新しい働きをしたのだから、わたしに従う者はみなわたしの言葉に従って行動しなければならない。あなたの「家系」にどれほどの力があろうとも、わたしに従わなければならない。これまでの習慣に倣って行動してはならず、「育ての父」はその役目を終えるべきで、これからはあなたの神の前に出て、自らの正当な取り分を求めるべきなのである。あなたの全てはわたしの手の内にあり、育ての父に対する盲目的な信仰に身を投じるべきではない。育ての父があなたを完全に支配することはできない。今日の働きは独立したものである。わたしが今日語ることは全て過去のいしずえに基づいてはいない。これは新しい始まりであって、仮にあなたがそれを人によって作られたものだと言うなら、あなたは、救いようのない盲目な人間である。

『神の出現と働き』「呼び名と身分について」(『言葉』第1巻)より

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