日々の神の御言葉: 神の働きを認識する | 抜粋 163

2020年7月31日

イザヤ、エゼキエル、モーセ、ダビデ、アブラハム、そしてダニエルは、選ばれし民であるイスラエルの指導者または預言者であった。なぜ彼らは神と呼ばれなかったのか。なぜ聖霊は彼らを証ししなかったのか。聖霊はなぜイエスが働きを始め、語り始めると同時にイエスを証ししたのか。なぜ他の者たちは証とされなかったのか。肉の人間であった彼らはみな「主」と呼ばれた。その呼び名に関係なく、彼らの働きがその存在と本質を表し、その存在と本質が彼らの身分を表していた。彼らの本質は、その呼び名とは関係がない。彼らの本質は、彼らの表現したこと、そしてその生き方に現されるのである。旧約の中では誰かが「主」と呼ばれるのは、いたって普通の事であり、どのような呼び方をしてもよかったが、その人の本質と本来の身分は永遠に変わらないものであった。イエスや預言者の名を語る者、あるいは人を騙す者の中にも神と呼ばれる人が居るのではないか。ではなぜ彼らは神ではないのか。それは、彼らが神の働きをすることができないからだ。彼らは、根本的に人であり、人々を騙す者たちであり、神ではなく、よって神の身分は持ちえない。ダビデも十二部族の中で主と呼ばれていたのではなかったか。イエスも主と呼ばれていたが、なぜイエスだけが受肉した神と呼ばれたのか。エレミヤもまた「人の子」として知られていたのではなかったか。イエスも「人の子」として知られていたのではなかったか。なぜイエスは神の身代わりとして十字架につけられたのか。それは、イエスの本質が違っていたからではないのか。イエスの行った働きが他とは違うものだったからではないのか。呼び名は関係あるのだろうか。イエスも人の子と呼ばれたが、イエスは最初に受肉した神であり、権力を得るために、そして贖いの働きを達成するために来たのである。これは、イエスとイエス以外の「人の子」と呼ばれた人たちの身分と本質が異なることを証明している。聖霊に用いられた人の言葉は全て聖霊から出た言葉であるとあえて言う者が今日いるだろうか。そんなことをあえて言う人はいるだろうか。もしあなたがそのように言うのであれば聞きたい。「なぜエズラの預言書が排除され、昔の聖人や預言者たちが書いた書物も同じようにされたのか」と。それらの全てが聖霊から出たものであるなら、どうしてそのような気まぐれなことをするのか。あなたに聖霊の働きを選ぶ資格があるのか。イスラエルから出た他の書も多く排除された。このような過去の書が全て聖霊から出たものであると信じるなら、そのような書が一部排除されたのはなぜか。聖霊から出たものであれば全て保管されて、諸教会の兄弟姉妹が読めるよう送られるべきである。それを人間の意思によって選抜したり処分したりしてはならない。そのようなことは間違っている。パウロとヨハネの経験には個人的に見たことが含まれると言われるのは、彼らの経験と認識がサタンから出たものということではなく、彼らが直接経験したり見たりしたものから得たものがあったということである。彼らの認識は当時の経験から生まれたものであり、それが全て聖霊から出ていると誰が言えるだろうか。仮に四つの福音書が全て聖霊から出たものとするなら、マタイ、マルコ、ルカ、そしてヨハネがそれぞれイエスの働きに関して異なる記述をしているのはなぜか。異なる記述があることを信じないというのなら、聖書の中の、ペテロがイエスを三度否定する箇所を読んでみなさい。四つの書すべてが違うと同時に、それぞれ特徴を持っている。無知な人の多くは言う。「受肉した神もまた人だったのなら、そのお方の語った言葉は全て聖霊から出たものだったのか。もしパウロとヨハネの言葉が人の意思と混じっていたのなら、受肉した神の言葉は本当に人の意思が混ざっていないのだろうか」と。そんなことを言う人は盲目であり無知なのだ。四つの福音書をよく読んでほしい。イエスがした事、そしてイエスが語った事に関して何が書かれているのかを読んで欲しい。それぞれの記録が単純に違っていて、異なる視点が含まれている。これらの福音書の作者が書いたものが全て聖霊から出た言葉ならば、全て同じ内容で一致するはずだ。どうして矛盾があるのか。そんなことも見抜けないというなら人はあまりに愚かではないだろうか。もしあなたが神に対して証しとなることを求められたならば、どのような証しをすることができるだろうか。そのような認識で神を証しできるだろうか。もし人が「ヨハネとルカによる記録に人の意思も含まれているというなら、あなたがたの神の発せられる言葉にも人の意思が混ざってはいないのか」と尋ねたら、あなたは明確な答えを出せるのか。ルカとマタイは、イエスの言葉を聴きそしてイエスの働きを見た後、自らの認識を、イエスの行った事実を詳しく述べていく回想という形で語っていたのである。あなたは、彼らの認識が完全に聖霊によって明らかにされたものと言えるか。聖書以外にも、彼らより認識のある霊的な人が大勢存在したのだから、なぜそういう人たちの言葉は後世の人によって取り上げられなかったのか。彼らも聖霊に用いられた人ではなかったのか。今日の働きにおいて、わたしはイエスの働きの土台に立ってわたしが見たものを話しているのでもなく、イエスの働きの背景に立ってわたしの認識を伝えているのでもないと知って欲しい。イエスは当時どんな働きをしたのか。そしてわたしは今日どんな働きをしているか。わたしがすること話すことには前例が存在しない。わたしが今日歩む道は誰も歩んだことのない道であり、過去の時代世代を通して誰も歩んだことのない道なのである。今日、この道が開かれたわけだが、これが霊の働きでないことなどあろうか。過去の指導者たちは、たとえそれが聖霊の働きであっても、他の人達の作った基礎の上に自らの働きを行ってきたのである。しかし、イエスの段階の働きがそうであったように、神自身の働きはそのようなものとは違う。神は新しい道を切り開いた。イエスはこの世に来、天国の福音を語り、人は悔い改めて罪を告白すべきだと説いた。イエスがその働きを終えた後、ペテロやパウロそして他の人間がイエスの働きを引き継ぐことを始めたのである。彼らは、イエスが十字架にかけられ天に召された後、十字架による救いを広めるために霊によって遣わされたのである。パウロの語った言葉は称賛されたが、それらもイエスによって築かれた土台に立っており、その土台とは忍耐、愛、試練に耐えること、頭を覆うこと、バプテスマを受けること、その他の守るべき規則などである。これらすべてがイエスの言葉に基づいていたのである。彼らに新しい道を切り開くことはできなかった。神に用いられた人に過ぎなかったからである。

『神の出現と働き』「呼び名と身分について」(『言葉』第1巻)より

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