日々の神の御言葉: 神の働きを認識する | 抜粋 161

2020年7月4日

恵みの時代、イエスもまた多くを語り、多くの業を為した。イエスはイザヤとはどう違っていたのだろうか。イエスはダニエルとどこが違っていたのか。イエスは預言者だったのだろうか?何故彼はキリストだと言われるのだろう。彼らの間の違いとは何であろう。彼らは皆言葉を語ったが、彼らの言葉は、人間にはだいたい同じもののように思われた。彼らは皆語り、働きを行った。旧約の預言者は預言し、同様にイエスもそれができた。なぜそうなのか。ここでの違いは、働きの性質による。このことを識別するには、肉の性質を考慮することはできない。また、語られた言葉の表面的な深さ浅さを考察すべきではない。いつもまず、イエスの働きと、その働きが人間の内にもたらした成果を第一に考えなければいけない。当時イザヤによって告げられた預言は、人間にいのちを与えなかった。また、ダニエルのような人々の受け取った言葉は単なる預言であって、いのちの道ではなかった。ヤーウェの直接の啓示がなければ、誰一人その仕事ができなかっただろう。何故ならそれはただの人間には不可能なことだからだ。イエスもまた、多くを語ったが、その言葉はいのちの道で、そこから人間は実践の道を見出すことができた。つまり、第一に、イエスは人間にいのちを与えることができた。何故ならイエスはいのちだからだ。第二に、イエスは人間の逸脱したところを正常に戻すことができた。第三に、イエスの業はヤーウェの業をひき継ぎ、その時代を進めるものだった。第四に、イエスは人間の内なる必要を把握し、何が人間に欠けているのかを理解できた。最後に、イエスは古い時代を終わらせて、新しい時代を招き入れることができた。だから、彼は神、そしてキリストと呼ばれたのだ。イエスはイザヤだけではなく、他のすべての預言者とも異なっていた。比較のため、イザヤを例に預言者たちの働きをみてみよう。第一に、イザヤは人間にいのちを与えることができなかった。第二に、彼には新たな時代の先駆けとなることができなかった。イザヤはヤーウェに導かれて働いたのであって、新たな時代の到来を告げるためではなかった。第三に、彼の語ったことは、彼自身にも理解できないことだった。彼は神の霊から直接啓示を受けていたのだが、他の人々はそれを聞いても理解できなかった。これらの点をみただけでも、イザヤの言葉は預言にすぎなかったこと、ヤーウェのために行った働きの要素の一つでしかなかったことがわかる。しかしながら、イザヤは完全にヤーウェの代理となることはできなかった。彼はヤーウェのしもべで、ヤーウェの働きの道具であった。イザヤはただ律法の時代にヤーウェの働きの範囲内で働いていただけだ。イザヤは律法の時代以外では働かなかった。それに対して、イエスの働きは異なっていた。イエスはヤーウェの働きの範囲を超えていた。イエスは受肉した神として働き、すべての人間を贖うために十字架につけられた。つまり、イエスはヤーウェの行った働きの範囲外で新たな働きを行ったのだ。それが新たな時代を招き入れたということだ。もう一つのは、イエスは人間には達成することが不可能なことについて語ることができた。イエスの働きは神の救いの働きの計画に属するもので、全人類に関わるものだった。イエスはほんの数人のために働きかけたのではないし、その働きは限られた数の人間を導くものでもなかった。神がどのように受肉して人間になったか、聖霊が当時どのように啓示を与え、聖霊が働きを為すためにどのように人間の上に降臨したのか。こうしたことは人間には見ることも触れることもできないことだった。これらの事実が、イエスが受肉した神であるという証拠になることは、まったくありえない。だから、人間にも具体的に理解できる神の言葉と働きにおいてのみ、判断できるのだ。これだけが現実的だ。何故なら、霊のことはあなたの目には見えず、神自身にだけはっきり知られているものだからであり、受肉した神でさえ、すべてを知っているわけではないのだ。イエスが神であるかどうかは、その働きによって確かめられるだけだ。その働きを見ると、まず、イエスは新たな時代を開いた。第二に、イエスは人間にいのちを与え、行くべき道を示すことができた。イエス自身が神であることを証拠立てるにはこれで充分なのだ。少なくとも、イエスの行う業は神の霊を完全に表している。そうした働きから、神の霊がイエスの内にいることがわかるのだ。受肉した神の行った働きは、主に新たな時代、新たな働きを先導し、新たな状況を開くことであったが、これらのいくつかの条件だけでも、イエス自身が神であることを実証するのに充分である。つまり、これがイエスがイザヤやダニエル、他の偉大な預言者たちとの違いである。イザヤ、ダニエル、そして他の預言者はみな、高度な教育を受けた教養ある人間だった。彼らはヤーウェの導きの下にあった非凡な人々であった。受肉の神の「肉」もまた、豊かな知識をもち、知性もすぐれていたが、イエスの人間性はごく普通の人間のそれだった。イエスは普通の人間で、人間の目には特に変わった点は見当たらず、その人間性に他人と異なる点は何もなかった。イエスはまったく超越的でも特異でもなく、また、高度な教養や知識、理論は備えていなかった。イエスの語ったいのちと、イエスの導いた道は理論や知識、人生経験、あるいは家庭内の教育に基づいたものではなかった。そうではなく、霊と受肉した神の肉とが直接働いていたものなのだ。それは、人間は神についていろいろな観念を持っているからだ。とりわけ、そうした観念はあまりに多くの漠然とした、超自然的な要素を含んでおり、人の目には、人間の弱さをもち、しるしや不思議を行うことのできない普通の神というのは、とうてい神とは思えないのだ。これらは人間の誤った考えではないのか。もし受肉の神の肉体が普通の人間のものでなければ、どうして人間になったと言えるだろうか。肉の体をもつということは、普通の正常な人間であるということだ。もしそれが超越的な存在なら、それは肉による存在ではなかったであろう。自分が肉による存在であることを証明するために、受肉した神は普通の人間の体をもつ必要があった。これは単に受肉の意味を完全なものにするためだった。しかしながら、これは預言者や人の子では違っていた。彼らは多くの賜物を与えられ、聖霊に用いられた人々であった。人の目には、彼らの人間性はとりわけ偉大で、彼らは普通の人間性を超えたことを多く行った。そのために、人は彼らを神とみなした。さて、あなたたちはみな、この点を明らかにしておかなければいけない。と言うのは、この問題は過去の時代のほとんどの人々によって、誤解され続けてきたことであるからだ。さらに言えば、受肉は最も神秘的な奥義であり、受肉した神は人間にとって最も受け入れ難いものだ。わたしの述べていることは、あなたたちが自分の役割を果たし、受肉の奥義を理解する助けとなる。これはみな、神の経営、ビジョンに関連している。あなたたちがこれを理解することは、ビジョン、つまり救いの働きについての認識を得るためにいっそう役に立つだろう。このようにして、あなたたちはまた、さまざまな人々が果たすべき本分について多くを理解するだろう。これらの言葉は、あなたたちに直接道を示さないが、それでもあなたたちの進歩の大きな助けとなる。というのは、あなたたちの現在の生活にはビジョンがひどく欠けており、これがあなたたちのいのちの道への大きな妨げとなるであろうからだ。もしあなたたちがこれらの事がらを理解できないままであれば、いのちの道へ入ることを促す動機は何もないだろう。また、そうした努力がどうしてあなたたちが本分を果たすための助けになるだろうか。

『神の出現と働き』「受肉した神の職分と人間の本分の違い」(『言葉』第1巻)より

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