日々の神の御言葉: 受肉 | 抜粋 111

2020年9月25日

肉となった神は、その働きを自ら実行する間、自分に付き従う人にだけ自身を示すのであり、すべての被造物に示すのではない。神は働きの一段階を完成させるためにだけ肉となったのであり、人に自身の姿を見せるためではない。しかし、神の働きは神自身によって実行されなければならず、よって神が肉においてそうすることが必要なのである。この働きが終わると、神は人間の世界から去る。来たるべき働きの妨げにならないよう、人類のあいだに長期間留まることはできないのである。神が大衆に示すのは、神の義なる性質と神のすべての業だけで、二度肉となったときの姿ではない。なぜなら、神の姿は神の性質を通じてのみ示すことができ、受肉した肉体の姿がそれに取って代わることはできないからである。神の肉体の姿は限られた数の人たちにだけ、つまり神が肉において働く際、神に付き従う人たちにだけ示される。これこそ今、働きが秘かに行われている理由である。また同じように、イエスは働きを行なっていたとき、ユダヤ人にだけ自分自身を示し、他の民族に公然と自身を示すことは決してなかったのである。したがって、ひとたび働きを完成させると、イエスはすぐさま人間の世界から離れ、そこに留まらなかった。それ以降、人間に自らを見せたのは、この人の姿をしたイエスではなく、働きを直接行なう聖霊だった。肉となった神の働きが完全に終わると、彼は人間の世界を離れ、肉となったときと同じような働きは二度としない。その後、働きはすべて聖霊によって直接なされる。この期間中、人は彼の肉の姿をほとんど見ることができない。彼は自身を人にまったく見せず、永遠に隠れたままである。肉となった神の働きの時間は限られており、それは特定の時代、期間、国、そして特定の人々のあいだで行なわれる。その働きは、神が受肉した期間中に行なわれる働きだけを表わしており、その時代に特有のものであり、ある特定の時代における神の霊の働きを表わすものであって、神の働き全体を表わすわけではない。よって、肉となった神の姿がすべての人に示されることはない。大衆に示されるのは、神が二度肉になった際の姿ではなく、むしろ神の義と神の性質全体である。人に示されるのはただ一つの姿でも、二つの姿を合わせたものでもない。よって、神の行なうべき働きが完成されたあと、神の受肉した肉体がすぐに地上から離れることが必須なのである。と言うのも、肉となった神はすべき働きをするためだけに来るのであり、自身の姿を人々に見せるために来るのではないからである。受肉の意義は神が二度肉となったことですでに果たされているが、それでもなお、かつて神を一度も見たことのない民族に対して公然と自身を示すことはない。イエスが義の太陽としてユダヤ人に再び自分の姿を見せることは決してなく、オリーブ山に登って万民の前に現われることも決してない。ユダヤ人が見たのは、ユダヤの地にいた時代のイエスの肖像だけである。肉となったイエスの働きは二千年前に終わったからである。イエスがユダヤ人の姿でユダヤの地に戻ることはないし、ましてやユダヤ人の姿で異邦の民族に姿を見せることもない。なぜならば、肉となったイエスの姿はひとりのユダヤ人の姿でしかなく、ヨハネが見た人の子の姿ではないからである。イエスは自身に付き従う人たちに再来を約束したが、異邦の民の全員に対し、ひとりのユダヤ人の姿で自身を示すことは決してない。肉となった神の働きは時代を開くことであると、あなたがたは知らなければならない。この働きは数年に限られており、神の霊の働きをすべて完了させることはできない。同じように、ユダヤ人としてのイエスの姿が表わせるのは、ユダヤで働く神の姿だけであり、そのときの神は磔刑の働きしかできなかった。肉にあった間、イエスは時代を終わらせる働きも、人類を滅ぼす働きもできなかった。よって、十字架にかけられ働きを終えたイエスは高く昇り、人間の前から永遠に隠れた。それ以降、異邦の民族の忠実な信者たちが目にできたのは、主イエスの顕現ではなく、壁に貼られたイエスの肖像だけだった。この肖像は人が描いたものに過ぎず、神自身が人に見せた姿ではない。二度肉となった際の姿を、神が公然と大衆に示すことはないのである。人類のあいだで神が行なう働きは、神の性質を人々に理解させることである。そのすべてが様々な時代の働きを通して人に示されるのである。それはイエスの顕現を通してというより、むしろ神が知らしめた性質や、神が行なった働きを通して達成される。すなわち、神の姿は受肉した姿を通して人に知らされるのではなく、むしろ、姿と形をもつ受肉した神によって行なわれる働きを通して知らされ、彼の働きを通して神の姿が示され、神の性質が知らされる。これが、神が肉において行なおうと望む働きの意義である。

二度にわたる神の受肉の働きがひとたび終わると、神は異邦の民族のあいだに義なる性質を示し始め、大衆が神の姿を見えるようにする。神は自身の性質を示し、これを通して、様々な種類の人たちの最後を明らかにし、それによって古い時代を完全に終わらせる。肉における神の働きが広範囲に及ぶものでない(ちょうどイエスがユダヤだけで働いたように、そして今日わたしがあなたがたのあいだだけで働いているように)のは、肉における神の働きには範囲と限界があるからである。神は普通の平凡な肉の姿で短期間の働きを行なうだけで、受肉した肉体を用いて永遠の働きをしたり、異邦の民の前に現われる働きをしたりするわけではない。肉における働きは範囲が限られている(ユダヤでしか働かないとか、あなたがたのあいだでしか働かないというように)だけであり、その後、それらの境界内でなされた働きを通して範囲を拡大することができる。もちろん、拡大の働きは霊によって直接行なわれ、もはや神の受肉した肉体の働きではなくなる。肉における働きには境界があり、宇宙の隅々にまで拡張されないからであって、それを達成することはできない。肉における働きを通して、神の霊はそれに続く働きを行なう。したがって、肉においてなされた働きは、ある特定の境界の中で行なわれる始まりの働きなのである。その後、神の霊はこの働きを、さらに拡張された範囲で続ける。

『神の出現と働き』「受肉の奥義(2)」(『言葉』第1巻)より

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