日々の神の御言葉: 終わりの日における裁き | 抜粋 93
終わりの日の神の裁き、懲らしめの働き、すなわち、最後の清めの働きの中でゆるがず耐え抜ける人たちが、神と共に最後の安息の中に入る人たちである。したがって、安息の中に入る人はみな、神の最後の清めの働きを経て初めて、サタンの支配から振りほどかれ、神によって得られたに違いない。最終的に神…
現段階においては、まず真理を知り、次にそれを実践し、真理の本当の意味をさらに身につけることが極めて重要である。あなたがたはその達成を追い求めるべきである。他人を自分の言葉に従わせることを追い求めるだけでなく、他人に自分の実践を見習わせなければならない。そうすることでのみ、あなたは有意義なものを見出すことができる。自分に何が起きようと、誰に遭遇しようと、自分に真理がある限り、あなたは揺るぎなく立つことができる。神の言葉は人に死でなくいのちをもたらすものである。神の言葉を読んだ後も、いのちを得ずに依然として死んでいるのであれば、あなたには何らかの問題がある。しばらく神の言葉をたくさん読み、実践的な説教を数多く聞いた後も、あなたが死んだ状態であるなら、それは、あなたが真理を重視する者でも、真理を追い求める者でもないことを証明している。真剣に神を得ようとしているのであれば、教義を身につけることや、高尚な教義で他人を教えることに重点を置かず、神の言葉を経験し、真理を実践することに集中するはずだ。それこそが、今あなたがたが入ろうとすべきことではないのか。神が人間の中で働きを行なう時間は限られているが、あなたが神に協力しなければ、どのような結末になり得るだろうか。ひとたび神の言葉を理解したらそれを実践するよう、神があなたがたにいつも求めているのはなぜか。それは、神が自身の言葉をあなたがたに示したからであって、あなたがたの次なる段階はそれを実際に実践することである。あなたがたがそれらの言葉を実践する限り、神は啓きと導きの働きを行なう。それはこのようにしてなされる。神の言葉によって人間はいのちを開花させることができ、また神の言葉の中に、人間が逸脱したり消極的になったりする原因となり得る要素はない。あなたは、自分は神の言葉を読んでそれを実践したのに、いまだに聖霊から働きを受けたことがないと言う。あなたの言葉は子供騙しに過ぎない。あなたの意図が正しいかどうか、他の人たちは知らないかもしれないが、神にもわからないことがあり得ると思っているのか。他の人たちが神の言葉を実践して聖霊の啓きを受けているのに対し、あなたがそれを実践しても聖霊の啓きが得られないのはどういうことか。神には感情があるのか。あなたの意図が本当に正しく、あなたが協力的であれば、神の霊はあなたと共にあるだろう。いつも自分の旗を立てたがる人がいるのに、神が彼らを立ち上がらせて教会を導かせることがないのはなぜか。また、ただ自分の役割を果たし、自分の本分を尽くしているだけなのに、知らぬ間に神の承認を得た人もいる。そんなことがどうしてあり得るのか。神は人の心の奥底を調べるが、真理を追い求める人は、正しい意図で追い求めなければならない。正しい意図のない人は、揺るぎなく立つことができない。あなたがたの目的の核心は、神の言葉が自分の中で効果を発揮するようにすることである。言い換えれば、自分が神の言葉を実践する中で、その言葉を真に理解することである。おそらく、あなたがたが神の言葉を理解する能力は乏しいだろうが、あなたがたが神の言葉を実践する時、神はこの欠点を直すことができる。そのため、あなたがたは数多くの真理を知るだけでなく、それらを実践しなければならない。これが無視することのできない最大の重点である。イエスは三十三年半の生涯において数多くの恥辱と苦しみに耐えた。彼がかくも大いに苦しんだのは、ひとえに真理を実践し、あらゆることにおいて神の旨を行ない、神の旨しか大事にしなかったからである。この苦しみは、イエスが実践を経ずに真理を知っていたとすれば、決して受けたはずのないものである。イエスがユダヤ人の教訓に従い、パリサイ人に従っていたとすれば、彼は苦しまなかったことだろう。人間に対する神の働きの効果は人間の協力から生じるものであるということを、あなたはイエスの業から学ぶことができる。そしてそれは、あなたがたが認識しなければならないことである。イエスが真理を実践しなかったとしたら、彼はあのように十字架の上で苦しんだだろうか。イエスが神の旨に従って行動していなかったとしたら、あれほど悲痛な祈りを捧げていただろうか。それゆえ、あなたがたは真理を実践するために苦しむべきである。それが人間の受けるべき苦難である。
『神の出現と働き』「いったん真理を理解したら、それを実践すべきである」(『言葉』第1巻)より
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終わりの日の神の裁き、懲らしめの働き、すなわち、最後の清めの働きの中でゆるがず耐え抜ける人たちが、神と共に最後の安息の中に入る人たちである。したがって、安息の中に入る人はみな、神の最後の清めの働きを経て初めて、サタンの支配から振りほどかれ、神によって得られたに違いない。最終的に神…
人間が本分を尽くすということは、実際のところ、人間に本来備わっているもの、即ち、人間に可能なことをすべて成し遂げることである。すると、人間は自分の本分を尽くしたことになる。奉仕する最中の人間の欠点は、徐々に経験を積むことと裁きを体験する過程を通して少しずつ減少する。それらは人…
あなたがたは、今では神と人類の最大の違いを感じますか。それでは、万物の支配者は誰ですか。それは人間ですか。(いいえ。)それでは、万物の取り扱い方における神と人間の相違は何ですか。(神様は万物を支配して取り決められ、人間はそのすべてを享受します。)あなたがたはこの意見に賛成ですか。…
マクロ的観点とミクロ的観点から神の権威を理解すること 神の権威は、唯一無二である。神の権威は、神自身の身分の性質の表出であり、特定の本質である。創造物やそれ以外の物事のうち、そうした性質の表出と特別な本質があるものは存在しない。その種の権威があるのは、創造主のみである。すなわち、…