日々の神の御言葉: 神を知る | 抜粋 69

2021年10月9日

主イエスが恵みの時代に完成させた働きの中に、神が所有するものと神そのものに関するもう一つの側面を見ることができます。それは神の肉によって表わされた側面であり、人々は神の人間性のおかげでそれを見て理解することができました。人々は人の子の中に、受肉した神がどのように人間性を生きたかを見、肉を通じて表わされた神の神性を理解したのです。これら二種類の表われにより、人間は極めて現実的な神を理解し、神に関する別の考えを形作ることができました。しかし、創世から律法の時代の終焉に至るまで、つまり恵みの時代の以前、人々が見聞きして経験した神の側面は、神の神性、無形の領域における神の言動、そして見たり触れたりすることのできない、神の真の実体から表わされた事柄だけでした。これらのことにより、神が圧倒的に偉大であり、自分は神に近づくことができないと、人々は往々にして感じました。神が人間に対して通常与える印象は、神は知覚できることもあればできないこともあるというものです。そして人々は、神の思いや考えはすべて神秘的であり、捉えどころがないので、それらに到達する術はなく、まして理解や認識を試みることすら不可能だと感じました。人間にとっては神に関するすべての事柄が、自分たちには見ることも触れることもできないほどはるか遠くに離れていたのです。神は天高くにいて、まったく存在しないかのようでした。そのため人間にとって、神の心や思い、あるいは神のどんな考えも理解不可能であり、到達することさえ不可能でした。神は律法の時代にある程度の具体的な働きを行ない、また具体的な言葉を発したり、具体的な性質を表わしたりすることで、人間が神に関する真の理解と認識を得られるようにしましたが、結局のところ、神が所有するものと神そのものに関するそれらの表われは無形の領域から生じたものであり、人々が理解したこと、知ったことは依然として、神が所有するものと神そのものがもつ神性の側面でした。人間は、神が所有するものと神そのものにまつわるこうした表われから具体的な考えを得ることができず、彼らの神に対する印象は依然、「出現と消滅を繰り返す、近づきがたい霊体」という範疇に留まっていました。神は物質界に属する特定の物体や姿を用いて人々の前に出現することはなかったので、人々は人間の言葉で神を定義することができないままでした。そして心と頭の中では、たとえば神の身長、体重、外見、好み、そして性格などといったことについて、自分たちの言葉を使って神の基準を定め、神を有形化したい、人間化したいといつも望んでいました。事実、神は心の中で、人々がこのように考えていたことを知っていました。神は人々が必要としているものを極めて明確に理解しており、当然ながら、自分が何をすべきかも知っていたので、恵みの時代には違う方法で働きを行ないました。この新しい方法は神性と人間性の両方によるものでした。主イエスが働きを行なっている間、人々は、神には数多くの人間的な表われがあることを知りました。たとえば、神は踊ったり、婚礼に列席したり、人間と親交したり、人間と会話したり、様々な事柄を話し合ったりすることができました。さらに、主イエスはその神性を示す働きを数多く成し遂げましたが、当然ながらそうした働きはどれも神の性質を表わし、示すものでした。その間、神の神性が普通の肉において具体化され、人々が見たり触れたりできるようになったとき、彼らは神が出現と消滅を繰り返す存在、自分たちが近づけない存在だとは感じなくなりました。それとは逆に、人の子の一挙手一投足、言葉、そして働きを通じ、神の旨を把握したり、神の神性を理解したりすることを試みられるようになったのです。受肉した人の子は、その人間性を通じて神の神性を表わし、神の旨を人類に伝えました。また、神の旨と性質を表わすことで、霊的領域に暮らし、見ることも触れることもできない神を人間に表わしたのです。人々が見たのは、肉と骨から成る、姿形のある神自身でした。そうして受肉した人の子は、神の身分、地位、姿、性質、そして神が所有するものと神そのものを、具体的かつ人間的なものにしました。人の子の外見は、神の姿に関してある程度の制約があったものの、人の子の本質、および人の子が所有するものと人の子そのものは、神自身の身分と地位を完全に示すことができました。ただ表わし方に違いがあっただけなのです。人間性と神性の両方において、人の子が神自身の身分と地位を示していたことは否定できません。しかし、この時期、神は肉を通じて働きを行ない、肉の見地から語り、人の子の身分と地位をもって人間の前に姿を見せたのであり、人々はそれによって、人類の間における神の真の言葉と働きに遭遇し、それらを経験する機会が得られました。それはまた、謙虚さの中にある神の神性と偉大さについて、人間が見識を得ることを可能にするとともに、神の真正さと実在に関する予備的な認識と定義を得ることも可能にしました。主イエスが完成させた働き、イエスが働きを行なう方法、および言葉を述べる観点は、霊的領域にある神の真の実体とは異なるものでしたが、イエスにまつわる一切のことは、人類がかつて見たことのない神自身を真に示しており、その事実は決して否定できません。つまり、神がどのような形で現われるか、どの観点から言葉を述べるか、どのような姿で人類と向き合うかにかかわらず、神は他ならぬ神自身を示すのです。神は誰か一人を示すことも、堕落した人類の誰かを示すこともできません。神は神自身であり、それを否定することはできないのです。

『神を知ることについて』「神の働き、神の性質、そして神自身 3」(『言葉』第2巻)より

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