日々の神の御言葉: 人類の堕落を暴く | 抜粋 308
人々は人生を経験するにつれ、「自分は神のために家族も仕事も諦めた。神はわたしに何を与えてくれただろうか。神に与えられたものを全て計算して確かめてみなければ。最近何か祝福を与えられただろうか。わたしはずっと多くを捧げ、ずっと走り回り、多くの犠牲を払ってきた。神はその報いとして何か約…
もしあなたが完全にされることができるなら、見合わねばならない基準がある。あなたの決意、忍耐、良心を通して、またあなたの追求を通して、あなたはいのちを体験し、神の心を成就することができる。これらはあなたの入ることで、完全への道に要求されることである。完全になるための働きはすべての人々に成すことができる。神を追い求める人は誰でも、完全にされることができ、完全にされるための機会と資格が備わっている。ここには鉄則はない。人が完全にされるかどうかは、主にその人が追い求めているものによる。真理を愛し、真理を生きることができる人たちは確かに完全にされることができる。そして、真理を愛さず、神に褒められない人たちは、神が要求するいのちを持っていない。このような人たちは完全にされることはない。完全のための働きは人々を獲得するためだけにあり、サタンとの戦いのステップではない。征服の働きはサタンと戦うためだけに、つまり、サタンを打ち破るために人の征服を用いることを意味する。後者が主な働きであり、どんな時代にも決して成されることはなかった最新の働きである。サタンを打ち負かすよう全ての人たちを征服することがこの段階の主な働きの目標であると言うことができる。人々を完全にする働き──それは新しい働きではない。神が肉において働いている期間中での全ての働きは、人々の征服をその主要目標として持っている。これは恵みの時代の時と同様である。十字架の磔による全人類の贖いが主な働きであった。「人々を獲得すること」とは肉における働きに追加されたもので、十字架の磔の後だけになされた。イエスがやって来て、その働きをした時、イエスの目標は十字架の磔によって死のくびきとハデスに対して勝利することで、サタンの影響に勝利し、サタンを打ち負かすことだった。ペテロが一歩ずつ完全への道に乗り出したのは、イエスが十字架にかかった後のことだった。もちろん、ペテロはイエスが働いている間、イエスに従った人たちの中にいたが、彼はその時はまだ完全にされていなかった。ペテロが次第に真理を理解し、そして完全にされていったのは、むしろイエスが働きを終えた後だった。肉となった神は、重要できわめて重大な働きの段階を完了するためだけに短期間地上にやって来る。彼は地上の人々の中に長い間住んで、意図的に人々を完全にするのではない。彼はそのようには働かない。人が彼の働きを終えるために完全にされるその時まで、彼は待つことはしない。それが神の受肉の目標や意義ではない。彼は人間を救うために短期間の働きをするためにやって来たのであって、人間を完全にするため長期間働くためにやって来たのではない。人間の救いの働きは代表的なものであり、新しい時代に突入することができ、短期間に終わることができる。しかし、人間を完全にするには人をある程度のレベルまで持ってくる必要があり、長い時間がかかる働きである。この働きは神の霊によって成されなければならないが、肉において働いている間、神が語る真理に基づいて成される。あるいはその上に、神が人間を完全にする目標を達成するために、長期間の人の牧養を目的として、使徒たちを育てる。人となった神はこの働きをしない。神が人に真理を実践させるにあたり、常に人に付き添うというのは本来の使命ではないため、神はそのようなことはせず、ただいのちの道について語り、人々に理解させ、真理を与えるだけである。だから、神は人が真理を完全に理解し、真理を完全に手に入れるまで、人に同行するということはしないだろう。人が正式にいのちの真理の正しい道に入るとき、そして人が完全にされるための正しい道に踏み出すとき、肉における神の働きは終わりとなる。これはもちろん神が完全にサタンを負かし、世界に勝利する時でもある。神は人がその時、最終的に真理に入ったかどうかを気にするのでもなく、人のいのちが大きいか小さいかを気にするのでもない。それらのうちどちらも、肉の中の神が管理すべきことではない。肉となった神の働きにあるのでもない。神が一旦意図した働きを終えると、肉における神の働きを終える。だから人となった神がする働きは、神の霊が直接できない働きのみである。さらに、それは短期間の救いの働きで、地上での長期にわたる働きではない。
『神の出現と働き』「完全にされた者だけが意義ある人生を生きられる」(『言葉』第1巻)より
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これで裁きとは何か、真理とは何かを理解できたか。もし理解できたなら、あなたが裁きに従うよう熱心に勧める。さもなければ、神に賞賛されることも、神にその国に連れて行ってもらうことも決してないのだ。裁きは受け入れるが清められることのない者、すなわち裁きの働きの最中に逃げ出すような者…