日々の神の御言葉「神の働き、神の性質、そして神自身 3」抜粋79

復活後のイエスによる弟子への言葉

ヨハネによる福音書 20:26-29 八日ののち、イエスの弟子たちはまた家の内におり、トマスも一緒にいた。戸はみな閉ざされていたが、イエスがはいってこられ、中に立って「安かれ」と言われた。それからトマスに言われた、「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手をのばしてわたしのわきにさし入れてみなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい」。トマスはイエスに答えて言った、「わが主よ、わが神よ」。イエスは彼に言われた、「あなたはわたしを見たので信じたのか。見ないで信ずる者は、さいわいである」。

ヨハネによる福音書 21:16-17 またもう一度彼に言われた、「ヨハネの子シモンよ、わたしを愛するか」。彼はイエスに言った、「主よ、そうです。わたしがあなたを愛することは、あなたがご存じです」。イエスは彼に「わたしの小羊を養いなさい」と言われた。イエスは三度目に言われた、「ヨハネの子シモンよ、わたしを愛するか」。ペテロは「わたしを愛するか」とイエスが三度も言われたので、心をいためてイエスに言った、「主よ、あなたはすべてをご存じです。わたしがあなたを愛していることは、おわかりになっています」。イエスは彼に言われた、「わたしの羊を養いなさい」。

これらの聖句が述べている事柄は、復活後の主イエスによる弟子への言動です。まず、復活の前後における主イエスの違いを検討しましょう。復活後の主イエスは、以前のイエスと同じでしたか。この聖句には、復活後のイエスを描写する「戸はみな閉ざされていたが、イエスがはいってこられ、中に立って『安かれ』と言われた」という一文が含まれています。当時の主イエスがもはや肉体に宿っておらず、霊体になっていたことは明らかです。なぜなら、扉が閉ざされていたにもかかわらず、人々の前に出て姿を見せることができたなど、肉の限界を超越していたからです。これが肉において生きていた復活前の主イエスと、復活後の主イエスの最も大きな違いです。その際の霊体の外見と、それ以前の主イエスの外見との間には何の違いもありませんでしたが、その瞬間の主イエスは、その人たちにとって見知らぬ人と感じられるような存在になっていました。と言うのも、主は死から復活した後に霊体となり、以前の肉体に比べると、人々にとって謎めいた存在、戸惑いを感じさせる存在となっていたからです。それはまた、主イエスと人々との距離をさらに広げ、人は心の中で、その時の主イエスがより不思議な存在になったと感じました。人々は自分が抱くこれらの認識と感覚により、見ることも触れることもできない神を信仰していた時代へと、突如として戻されたのです。そうしたわけで、復活した主イエスが最初に行なったのは、誰でも自分を見えるようにし、自分が存在すること、および復活した事実を確信させることでした。加えてこの業により、イエスと人々との関係は、イエスが受肉して働きを行ない、人々が見て触れることのできるキリストだったときの関係に戻りました。そこから生じた結果の一つに、十字架にかけられた主イエスが死から復活したことについて、人々が何の疑いも抱かず、同時に人類を贖う主イエスの働きについても疑問をもたなかったことがあります。またもう一つの結果として、主イエスが復活後に人々の前に現われ、彼らが主を見て触れられるようにしたことで、恵みの時代が人類の間に定着し、このとき以降、主イエスが「失踪」した、あるいは「無言で立ち去った」からという表向きの理由で、人々が以前の律法の時代に戻ることはなくなった、ということが挙げられます。イエスはこのようにして、人々が前進し続け、主イエスの教えと働きに従うようにしたのです。かくして、恵みの時代の新たな働きが正式に始まり、これ以降、律法の下で暮らしていた人々は正式に律法から脱し、新たな時代、新たな始まりへと入りました。以上が、復活後の主イエスが人々の前に現われたことの、多岐にわたる意義です。

主イエスがいまや霊体に宿っているなら、人々がイエスに触れたり、イエスを見たりすることができたのはなぜでしょうか。その問題は、主イエスが人間の前に現われたことの意義と関連しています。先ほど読んだ二つの聖句について、何か気づいたことはありますか。通常、霊体は見ることも触れることもできず、また復活後、主イエスがそれまでに着手していた働きはすでに完了していました。したがって理論的に言えば、イエスが元の姿で人々の前に戻り、彼らに会う必要はまったくなかったのです。しかし、主イエスの霊体がトマスのような人の前に現われたことで、その意義がより具体的なものとなり、人々の心に一層深く刻み込まれました。トマスの前に現われたイエスは、疑いを抱くトマスに自身の手を触れさせ、「手をのばしてわたしのわきにさし入れてみなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい」と言いました。この言葉と振る舞いは、主イエスが復活して初めて伝えたい、行ないたいと思ったことではなく、十字架にかけられる前から伝えたい、行ないたいと思っていたことです。十字架にかけられる前から、主イエスがトマスのような人たちのことを理解していたのは明らかです。このことから何がわかりますか。主イエスは復活後も依然として同じだったということです。イエスの本質は変わっていませんでした。トマスの疑いはこのときに始まったことではなく、主イエスに付き従っている間ずっと彼が抱いていたものでした。しかし、死から復活し、元の姿、元の性質、そして肉にあったときからの人間に対する認識をもって、主イエスが目の前に戻ってきたのです。そのため、主イエスは最初にトマスのところへ行って自身のわき腹に触れさせ、復活後の霊体を見させただけでなく、自身の霊体に触れさせてそれを感じさせ、彼の疑念を完全に払拭したのです。主イエスが十字架にかけられる前、トマスは常にイエスがキリストであることに疑念を抱き、信じることができないでいました。トマスの神に対する信仰は、自分の目で見えるもの、自分の手で触れられるものだけに基づいていたのです。この種の人の信仰について、主イエスはよく理解していました。このような人たちは天なる神だけを信じ、神に遣わされた者も受肉したキリストもまったく信じず、受け入れようとすることもありませんでした。自分が存在すること、および本当に受肉した神であることをトマスに認めさせ、信じさせるため、主イエスはトマスに対し、手を伸ばして自分のわき腹に触れるのを許しました。主イエスの復活前後で、トマスの疑いに異なる点はありましたか。トマスは常に疑っており、主イエスの霊体がトマスの前に直接現われ、身体に残る釘のあとに触れさせる以外に、トマスの疑念を解消して払拭することは誰にもできませんでした。そうしたわけで、主イエスがトマスにわき腹を触れさせ、釘あとがあるのを実感させると、トマスの疑念は消え、主イエスが復活したことを真に知り、主イエスが真のキリストであり、受肉した神であることを認め、信じるようになりました。このとき、トマスはもはや疑っていませんでしたが、キリストに会う機会は永遠に失われていました。キリストと共にあり、キリストに付き従い、キリストを知る機会、キリストによって完全にされる機会を永遠に失ったのです。主イエスの出現と言葉により、疑いに満ちた人の信仰に対する結論、および審判が下されました。イエスは実際の言葉と業によって、疑念を抱く人、天なる神を信じるだけでキリストを疑う人に対し、神はそうした人の信仰も、疑念を抱きながら付き従うことも褒めないと伝えたのです。そのような人が神とキリストを完全に信じる日こそ、神の大いなる働きが完了した日なのです。もちろんその日は、彼らの疑いに審判が下る日でもあります。キリストへの姿勢によって彼らの運命は決まったのであって、頑なに疑いを抱いているせいで信仰は実を結ばず、頑固なせいで希望は叶わなかったのです。そのような人の天なる神に対する信仰は幻想によって育まれており、またキリストを疑うというのが神に対する彼らの本当の態度だったので、たとえ主イエスの釘あとに触れたところで、その信仰は依然として無益なままで、その結末はざるで水を汲むようなもの、つまりすべて無駄だとしか言いようがありませんでした。主イエスがトマスに言ったことはまた、次のことを万人にはっきり述べるものでもありました。つまり、復活した主イエスは、三十三年と半年にわたって人類の間で働きを行なった主イエスだということです。イエスは十字架にかけられて死の陰の谷を歩み、その後復活したにもかかわらず、どの側面も変わることがありませんでした。イエスの身体には釘のあとがあり、復活して墓から出てきたにもかかわらず、その性質、人間に対する認識、人間に対する旨はまったく変わっていなかったのです。また、イエスは人々に対し、自分は十字架から下ろされて罪に打ち勝ち、苦難を乗り越え、死に勝利したと伝えました。その釘あとはサタンに対する勝利の証しであり、罪のいけにえとなって全人類を見事に贖った証しだったのです。さらに、自分はすでに人類の罪を背負い、贖いの働きを成し遂げたとも伝えました。使徒たちの前に戻って来たイエスは、出現という手段によって次のことを彼らに伝えました。「わたしは依然として生きており、ここに存在している。今日、あなたがたがわたしを見て触れることができるよう、実際にあなたがたの前に立っている。わたしは常にあなたがたと共にいる」。また、主イエスはトマスの例を挙げて、未来の人々への警告にしました。つまり、あなたは主イエスへの信仰において、イエスを見ることも、イエスに触れることもできませんが、真の信仰ゆえに祝福されており、真の信仰ゆえに主イエスを見ることができるのであって、このような人が祝福された人なのです。

主がトマスの前に現われたときに述べた、聖書に記されているこの言葉は、恵みの時代のあらゆる人にとって大いに役立つものです。主がトマスのもとに現われたことと、主が彼に語った言葉は、その後何世代にもわたる人々に極めて大きな影響を与え続け、そこには不朽の意義があります。トマスは神を信じながら神に疑念を抱く類の人間を代表しています。このような人は疑い深い性格であり、心に悪意があり、不忠であり、神が成し遂げられる業を信じません。神の全能と支配も、受肉した神も信じません。しかし主イエスの復活は、このような人に平手打ちをくらわせたようなものでした。つまり、自分の疑いに気づいてそれを認識し、自分の不忠を認め、それによって主イエスの実在と復活を心から信じる機会を与えたのです。トマスの身に起きた出来事は後の世代の人々への警告であり、より多くの人がトマスと同じ疑う人にならないよう自戒し、もし疑いで一杯になれば、必ずや闇に落ちると自分を戒めるようにするためのものでした。神に付き従いながら、トマスのように主のわき腹や釘あとに触れ、神が存在するかどうかを憶測し、確かめることをいつも望むのであれば、神はあなたを見捨てるでしょう。それゆえ、主イエスは人々に対し、自分の目で見ることのできる物だけを信じたトマスのようにならず、純粋で正直な人間となり、神に対して疑念を抱かず、神を信じて付き従うことを求めているのです。このような人は祝福されています。これは主イエスが人々に行なうごくささやかな要求であり、また自分に付き従う人に対する警告でもあるのです。

『言葉は肉において現れる』より引用

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