日々の神の御言葉: 宗教的観念を暴く | 抜粋 288
2020年9月2日
その際、イエスの働きの一部は旧約聖書と一致しており、律法の時代におけるモーセの律法とヤーウェの言葉とも一致していた。これらのすべてを、イエスは自身の働きの一部を行なうために使ったのである。イエスは会堂で人々に説教し、教えを伝えた。そして自身に敵対していたパリサイ人を叱責するために旧約聖書の預言者たちの預言を用い、また彼らの不従順さをあばいて非難するために聖書の言葉を用いた。というのも、彼らはイエスがしたことを軽蔑し、特に、イエスの働きの多くが聖書の律法に沿っていなかったこと、そしてさらに、イエスの教えが自分たちの言葉より高尚であり、聖書の預言者たちが預言したことよりもさらに高尚だったことを忌み嫌ったからである。イエスの働きは人類の贖いと十字架のためだけにあった。そのため、イエスは人を征服するために、それ以上の言葉を語る必要はなかった。イエスが人に教えたことの多くは聖書の言葉から来ており、たとえイエスの働きが聖書を越えなかったとしても、イエスはやはり十字架の働きを達成することができた。イエスの働きは言葉の働きでも、人類を征服するためになされた働きでもなく、人類を贖う働きであった。イエスは人類のために罪のいけにえとして行動しただけで、人類のための言葉の源泉として行動したのではなかった。イエスは異邦人の働き、つまり人間を征服する働きはしなかったが、十字架の働き、つまり神の存在を信じた人々のあいだでなされた働きをした。たとえイエスの働きが聖書に基づいて実行され、またパリサイ人たちを非難するために、昔の預言者によって言われたことを用いたとしても、これは十字架の働きを完成するのに十分であった。もし今日の働きが依然として聖書にある昔の預言者たちの預言に基づいて実行されるなら、あなたがたを征服するのは不可能であろう。というのも、旧約聖書にあなたがた中国人の不従順さと罪の記録はなく、またあなたがたの罪の履歴もないからである。ゆえに、この働きがまだ聖書に残っているなら、あなたがたは決して屈しないであろう。聖書に記録されているのはイスラエル人の歴史の一部だけであり、あなたがたが善か悪かを判断したり、あなたがたを裁いたりすることができるものではない。わたしがイスラエル人の歴史に従ってあなたがたを裁くと想像してみなさい。今日のように、あなたがたはわたしに従っているだろうか。あなたがたは自分たちがどれほど難しい人間かわかっているのか。この段階で言葉がまったく話されなかったら、征服の働きを完成することは不可能であろう。わたしは十字架にかけられるために来たのではないので、あなたがたが征服されるよう、聖書とは別の言葉を話さなければならない。イエスが行なった働きは、旧約聖書より高位にある一段階に過ぎなかった。それはひとつの時代を始めるため、その時代を先導するために使われたのである。なぜイエスは「わたしは律法を廃するためではなく、成就するために来たのである」と言ったのであろうか。しかしイエスの働きには、旧約聖書のイスラエル人が実践した律法、および彼らが従った戒めと一致しないことがかなりあった。それは、イエスが来たのは律法を守るためではなく、成就するためだったからである。律法を成就する過程には、多くの現実的な事柄が含まれていた。イエスの働きはもっと実際的かつ現実的であり、さらにそれはより一層生きたものであり、規則への盲従ではなかった。イスラエル人は安息日を守っていたのではないか。イエスは来たときに安息日を守らなかった。なぜなら、人の子は安息日の主であるとイエスが言ったように、安息日の主が来たときには、自由に振舞うものだからである。イエスが来たのは旧約聖書の律法を成就し、それを変えるためだった。今日なされるすべてのことは現在を基にしているが、やはり律法の時代におけるヤーウェの働きが基盤になっており、この範囲を超えることはない。たとえば、言葉に気をつけること、姦淫を犯さないことなどは、旧約聖書の律法ではないだろうか。今日、あなたがたに要求されていることは十戒だけに限らず、以前にもたらされたものより高次の戒めや律法から成り立っているが、これは以前のものが廃止されたという意味ではない。というのも、神の働きの各段階は以前の段階を基盤にして実行されるからである。ヤーウェがイスラエルに伝えたこと、たとえば犠牲を捧げ、父と母を敬い、偶像崇拝をせず、他人に暴行を加えたり呪ったりせず、姦淫を犯さず、喫煙や飲酒をせず、死肉を食べず、血を飲まないよう人々に求めたことなどについて言えば、それは現在でもあなたがたの実践の基盤を形作っているのではないか。過去の基盤の上に、働きは今日に至るまで行なわれてきたのである。もはや過去の律法が語られることはなく、新しい要求が課せられるようになったからといって、過去の律法は廃止されたどころか、より高い状態に引き上げられたのである。過去の律法が廃止されたということは、前の時代が期限切れになったことを意味する一方、戒めには未来永劫守らなければならないものがある。過去の戒めはすでに実践されてきており、すでに人間の在り方となっているので、喫煙をしてはならないとか、飲酒をしてはならないといった戒めをことさら強調する必要はないのである。この基盤の上に、あなたがたの今日の必要性にしたがって、あなたがたの霊的背丈にそって、現在の働きに合わせて、新しい戒めが定められるのである。新時代の戒めを制定することは、旧時代の戒めを廃止することではなく、この基盤の上でさらに高く持ち上げ、人間の行動をさらに完全なもの、現実とより調和したものとすることである。今日、あなたがたがイスラエル人と同じように、戒めに従い、旧約聖書の律法を守ることしか要求されず、ヤーウェによって制定された律法を暗記することさえ求められていたら、あなたがたが変われる可能性はないだろう。これらの限られた戒めを守ったり、数えきれないほどの律法を暗記したりするだけならば、あなたがたの古い本性は深く根ざしたままで、それを引き抜く方法はないであろう。そのため、あなたがたはますます堕落し、あなたがたのうち誰ひとりとして従順にならないであろう。つまり、少数の簡単な戒めや数知れない律法は、あなたがたがヤーウェの業を知る上で助けにはならないということである。あなたがたはイスラエル人と同じではない。律法に従い、戒めを暗記することによって、彼らはヤーウェの業を目の当たりにし、ヤーウェだけに献身を捧げることができた。しかし、あなたがたがそれを成し遂げることはできない。そして、旧約聖書時代の僅かな戒めは、あなたがたに心を捧げさせることも、あなたがたを守ることもできないだけではなく、それどころかあなたがたをだらしなくさせ、ハデスに落とすだろう。わたしの働きは征服の働きで、あなたがたの不従順さや古い本性に向けられているからである。ヤーウェとイエスの優しい言葉は、今日の厳しい裁きの言葉に比べてはるかに劣っている。そのような厳しい言葉がなければ、何千年ものあいだ服従してこなかった、不従順の「専門家」であるあなたがたを征服するのは不可能であろう。旧約聖書の律法はずいぶん前にあなたがたへの力を失い、今日の裁きは古い律法よりはるかに手ごわい。あなたがたに最もふさわしいのは裁きであって、律法という取るに足らない制限ではない。なぜなら、あなたがたはごく最初の人間ではなく、何千年ものあいだ堕落してきた人間だからである。人間が今成し遂げなければならないことは、今日の人間の現状に即しており、現代人の素質と実際の霊的背丈にそったものであり、規則に従うことは要求されない。それはあなたの古い本性に変化を生じさせ、あなたが自分の観念を捨てるようにするためである。
『神の出現と働き』「神の働きのビジョン(1)」(『言葉』第1巻)より
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