日々の神の御言葉: 神を知る | 抜粋 182
神は万物を造り、それらの境界を定め、その中であらゆる生物を養いましたが、一方で人類のための様々な生存手段も用意したので、人間が生き延びる方法は一つだけでなく、生存環境も一種類だけでないことがわかります。先ほど、神が人間のために様々な食料や水源を用意したことについて話しましたが、そ…
神の働きは人間の働きと違うのであり、またそれ以上に、神の表現が人間の表現と同じであるなどどうしてあり得ようか。神には神自身に特有の性質があり、人には尽くすべき本分がある。神の性質は神の働きに表われ、人の本分は人の経験において具現化し、人が追求することに表われる。したがって、なされる働きを通じて、あることが神の表現なのか人間の表現なのかが明らかになる。それを神自身が説明する必要はなく、人間が努力して証しする必要もない。そのうえ、神自身が人を押さえつける必要もない。それはどれも自然に明らかになるのであり、強制されるものでも、人間が干渉できるものでもない。人の本分はその経験を通じて知ることができ、人が追加の実験的な働きを行なう必要はない。人の本質はすべて、人が本分を尽くす中で明らかになり得る。一方、神はその働きを行ないつつ、神に固有の性質を表わすことができる。人の働きであれば、覆い隠すことはできない。神の働きであれば、神の性質を人が覆い隠すのはさらに不可能であり、ましてや人が操ることなどできない。神だと言える人は誰もおらず、人の働きや言葉を聖いものや不変のものとみなすこともできない。神は肉をまとったので人間だと言うことはできるものの、神の働きを人間の働きや人間の本分と考えることはできない。さらに、神の発した言葉とパウロの手紙を同等に扱うことはできず、神の裁きや刑罰と人間による教えの言葉を同列に語ることはできない。したがって、神の働きと人間の働きを区別する原則がある。両者は、働きの範囲や一時的な効率によってではなく、それぞれの本質に応じて区別される。この問題について、大半の人が原則を取り違えている。なぜなら、人は自分が成し遂げることのできる外面を見るが、神は人類の肉眼では観察できない本質を見るからである。神の言葉と働きを平均的な人の本分と見なし、人間による大規模な働きを人が尽くす本分でなく、肉をまとった神の働きと捉えるなら、原則を誤解しているのではないのか。人の手紙や伝記は簡単に書けるが、聖霊の働きを土台としなければならない。しかし、神の言葉と働きは、人間が容易に成し遂げられるものでも、人間の知恵や思考で実現できるものでもない。また、人が探求したところで徹底的に説明することもできない。このような原則に関することで、あなたがたに何の反応も起きないのであれば、あなたがたの信仰は真実でも、洗練されたものでもないことは明らかである。それは曖昧さに満ち、混乱して原則がないとしか言えない。神と人に関する最も基本的かつ本質的な問題さえも理解していなければ、そのような信仰には知覚が完全に欠けているのではないか。
『神の出現と働き』「十三通の手紙をいかにとらえるか」(『言葉』第1巻)より
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要約すると、神への信仰においてペテロの道を歩むとは、真理を追い求める道を歩むことであり、その道はまた真に自分自身を知り、自らの性質を変える道でもあります。ペテロの道を歩むことでのみ、人は神によって完全にされる道を進むのです。ペテロの道を正確に言ってどのように歩むのか、またそれをど…
三つの段階の働きは、神の働きすべての記録であり、神の人類救済の記録であり、そしてそれは架空のものではない。もしあなたがたが、神の性質全体を認識することを真剣に追い求めるのであれば、神によって為された働きの三段階を知らなければならず、しかもどの段階も欠けてはならない。これは神を…
新時代の戒めの公布は、この流れの中にいるすべての人、すなわち今日神の言葉を聞くすべての人が新しい時代に入ったことの証しである。それは神の働きにとって新たな出発であり、6000年にわたる神の経営(救いの)計画の最終部の始まりでもある。新時代の戒めは、神と人間が新たな天と新たな地の領…