日々の神の御言葉: 神の三段階の働き | 抜粋 12
六千年にわたる経営計画は三段階の働きに分けられる。どの一段階も、それだけで三つの時代の働きを表わすことはできず、全体の一部しか表わせない。ヤーウェの名が神の性質全体を表わすことはできないのである。ヤーウェが律法の時代に働きを行なったという事実は、神が律法の下でしか神でいられ…
神の働きは人間の働きと違うのであり、またそれ以上に、神の表現が人間の表現と同じであるなどどうしてあり得ようか。神には神自身に特有の性質があり、人には尽くすべき本分がある。神の性質は神の働きに表われ、人の本分は人の経験において具現化し、人が追求することに表われる。したがって、なされる働きを通じて、あることが神の表現なのか人間の表現なのかが明らかになる。それを神自身が説明する必要はなく、人間が努力して証しする必要もない。そのうえ、神自身が人を押さえつける必要もない。それはどれも自然に明らかになるのであり、強制されるものでも、人間が干渉できるものでもない。人の本分はその経験を通じて知ることができ、人が追加の実験的な働きを行なう必要はない。人の本質はすべて、人が本分を尽くす中で明らかになり得る。一方、神はその働きを行ないつつ、神に固有の性質を表わすことができる。人の働きであれば、覆い隠すことはできない。神の働きであれば、神の性質を人が覆い隠すのはさらに不可能であり、ましてや人が操ることなどできない。神だと言える人は誰もおらず、人の働きや言葉を聖いものや不変のものとみなすこともできない。神は肉をまとったので人間だと言うことはできるものの、神の働きを人間の働きや人間の本分と考えることはできない。さらに、神の発した言葉とパウロの手紙を同等に扱うことはできず、神の裁きや刑罰と人間による教えの言葉を同列に語ることはできない。したがって、神の働きと人間の働きを区別する原則がある。両者は、働きの範囲や一時的な効率によってではなく、それぞれの本質に応じて区別される。この問題について、大半の人が原則を取り違えている。なぜなら、人は自分が成し遂げることのできる外面を見るが、神は人類の肉眼では観察できない本質を見るからである。神の言葉と働きを平均的な人の本分と見なし、人間による大規模な働きを人が尽くす本分でなく、肉をまとった神の働きと捉えるなら、原則を誤解しているのではないのか。人の手紙や伝記は簡単に書けるが、聖霊の働きを土台としなければならない。しかし、神の言葉と働きは、人間が容易に成し遂げられるものでも、人間の知恵や思考で実現できるものでもない。また、人が探求したところで徹底的に説明することもできない。このような原則に関することで、あなたがたに何の反応も起きないのであれば、あなたがたの信仰は真実でも、洗練されたものでもないことは明らかである。それは曖昧さに満ち、混乱して原則がないとしか言えない。神と人に関する最も基本的かつ本質的な問題さえも理解していなければ、そのような信仰には知覚が完全に欠けているのではないか。
『神の出現と働き』「十三通の手紙をいかにとらえるか」(『言葉』第1巻)より
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今こそ、わたしは一人一人のために終わりを決めるときであり、人に働きかける段階ではない。わたしの手帳にひとりひとりの言葉や行動、わたしに従った道、本来の属性や最後の行いなどを書き留める。こうすることで、どのような人であってもわたしの手から逃れることはなく、あらゆる人たちはわたしが定…
人々の外面的性質を取り扱うことも神の働きの一部である。例えば、人々の外面の異常な人間性、あるいはライフスタイルや個人的習慣、生活様式や慣習、ならびに外面的実践や熱心さなどを、神は取り扱う。しかし、神が人々に真理を実践し、性質を変えるよう要求する時、主に取り扱われるのは彼らの心の中…
神は、ただ神の選民だけの神ではないことを人々に知らせることです。現在あなたがたは神に付き従っており、神はあなたがたの神ですが、神に付き従う人々以外の人々にとって、神は彼らの神でもありますか。神は、神に付き従う人々以外の、あらゆる人々の神ですか。神は万物の神ですか。(はい。)それで…