第7章 神の性質、および神が所有するものと神そのものについての言葉

255. 神には神そのものと神が持っているものがある。神が表し、明らかにするものは、全て神の本質と神の身分の表れである。神そのものと神が持っているもの、および神の本質と身分は、人が取って代わることができるものではない。神の性質には、人類への神の愛、人類への慰め、人類への憎しみが包含されており、しかも人類に対する完全な理解が包含されている。しかし、人の性格は楽観的、活気的、または無感覚である。神の性質とは、万物と全ての生けるものの支配者、全ての創造物の主に属するものである。彼の性質は尊厳、権勢、崇高さ、偉大さ、そして何よりも至高性を表す。彼の性質は権威の象徴であり、あらゆる正義の象徴であり、また、あらゆる美と善の象徴である。しかもそれは、暗闇やいかなる敵の勢力にも圧倒されず、侵害されることのない者の象徴[a]であり、同時に、いかなる被造物も背くことができない(そして背くことが許されない)者の象徴[b]である。彼の性質は最高権力の象徴なのである。一個人であれ複数であれ、いかなる人間も神の働きや性質を阻害できないし、阻害してはならない。しかし人間の性格は、動物よりもわずかに優位であることの象徴に過ぎない。人間は、自身の中にも自身においても、何の権威も自主性も、自分自身を超越する能力もないが、本質的に、様々な人々、出来事、または物に振り回されて怖じ気づく者である。神の喜びとは、正義と光の存在と現れに起因し、暗闇と邪悪の消滅の故である。彼は、人類に光と良い生活をもたらしたことを喜ぶ。彼の喜びは正義の喜びであり、あらゆる肯定的なものの存在の象徴、そして何よりも吉兆の象徴である。神の怒りは、不義の存在と、それによる妨害が自身の人類に害をもたらしていることに起因し、それは邪悪と暗闇の存在、また、真理を駆逐するものの存在の故であり、そしてそれ以上に、良いものと美しいものに反するものの存在の故である。彼の怒りは、全ての否定的な物事がもはや存在しないことの象徴であり、さらには、彼の聖さの象徴である。彼の悲しみは、彼が望みを持っているにも関わらず暗闇に落ちた人類に起因し、彼が人のためにする働きが彼の期待にかなわず、彼が愛する人類がみな光りの中で生活できるようになっていないからである。彼は罪のない人類、正直だが無知な人、そして善良だが自分の見解を持っていない人に対して悲しみを感じている。彼の悲しみは彼の善良さと憐れみの象徴であり、美しさと慈愛の象徴である。彼の幸せは、もちろん彼の敵を打ち負かすこと、そして人の真心を得ることからもたらされる。さらに、それは全ての敵の勢力の駆逐と消滅、そして人類が良き平和な生活を得ることから生じる。彼の幸せは人の喜びとは異なり、むしろそれは良い実を集めるときの気持ちであり、それは喜びにまさる感情である。彼の幸せとは、人類が今後苦しみから解き放たれ、光の世界に入ることの象徴である。一方、人類の感情は全て己の利益の目的のために生じ、義、光、または美しいもののために生じるのではなく、ましてや天の恵みのために生じるものではない。人類の感情は利己的で暗闇の世界に属している。それは神の意志のために存在するものではなく、ましてや神の計画のために存在するものではないため、人と神のことを同等に語ることは決してできない。神は永遠に至高かつ尊厳ある方であり、一方人間は永遠に下劣で、価値もない。これは、神が永遠に犠牲を払い、人類のために自身を捧げているからである。しかし人は、いつも自分の為に得る努力しかしない。神は人類の生存のために永遠に労苦しているが、人が光や義に寄与することは全くない。人が一時期働いたとしても、それは貧弱過ぎて、一回の打撃にも耐えることができない。人の働きは常に自分のためであって、他の人のためではないからである。人は常に利己的であるが、神は永遠に無私無欲である。神は公正なもの、良いもの、そして美しいもの全ての源であるが、人は醜いものと邪悪なもの全てを継承し、表現する者である。神が自身の義と美しさの本質を変えることは決してないが、人はいかなる時や状況においても、義を裏切り、神から遠く離れてしまう可能性がある。

『神の出現と働き』「神の性質を理解することは極めて重要である」(『言葉』第1巻)

256. わたしは義であり、誠実であり、人の心の奥底を探る神である。わたしは誰が正しく誰が不正かをただちに暴く。恐れることはない、すべてはわたしの時に従って行われる。わたしを心から求めているのは誰か、そしてそうでないのは誰かを、一人一人教えよう。あなたがたがわたしの前に来るときは、ただ注意してよく食べ、よく飲み、わたしに近づくだけでよい。わたしが自らの働きを行う。すぐに成果を得ようと焦ってはならない。わたしの働きは一度にすべて成し遂げられるものではない。この働きにはわたしの段階と知恵があり、そのためわたしの知恵を露わにできるのだ。わたしの手で何がなされるかをあなたがたに見せよう――それは悪を罰し、善に報いることだ。わたしは決して誰もひいきしない。ただわたしを心から愛する者を心から愛し、わたしを心から愛さない者には常に怒りをもって臨む。わたしが真の神であり、人間の心の奥底を探る神であることを、彼らが永遠に忘れないように。本音と建前を使い分けてはならない。わたしにはあなたのすることがすべてはっきりと見えている。他の人を欺くことはできても、わたしを欺くことはできない。わたしにはすべてがはっきりと見えているのだ。何も隠すことはできない。すべてはわたしの手の中にある。小賢しい計算で有利な結果を得られたからと言って、自分がとても賢いなどと思ってはならない。言っておくが、人間が何千何万と計画を立てたところで、最終的にわたしの手からは逃れられないのだ。万事万物はわたしの手に支配されているのだから、一人の人間など尚更である。わたしを避けたり、隠れたり、おだてようとしたり、隠し事をしたりしてはならない。わたしの栄光に満ちた顔貌、怒り、そして裁きが公にあらわされていることが、あなたにはまだわからないのか。わたしを心から求めない者はみな、ただちに容赦なく裁かれる。わたしの憐れみはすでに尽きた。もうこれ以上偽善者であることをやめ、狂気じみた無謀な生き方を捨て去りなさい。

『神の出現と働き』「キリストの初めの言葉、第四十四章」(『言葉』第1巻)

257. わたしは初めであり、終わりである。わたしは復活した完全なる唯一の真の神である。わたしはあなたがたの前でわたしの言葉を語る。そしてあなたがたはわたしが言うことを固く信じなければならない。天地は滅び行くが、わたしが言うことの一点、一画としてすたれることはない。これを憶えておきなさい!憶えておきなさい!いったんわたしが語れば、一言も取り消されることはなく、一つひとつの言葉が成就されるのだ。

『神の出現と働き』「キリストの初めの言葉、第五十三章」(『言葉』第1巻)

258. 全宇宙と万物はわたしの手中にある。わたしが語ることは実現し、わたしが定めることはその通りになる。サタンはわたしの足下にあり、底なしの穴に沈んでいる。わたしの声が発せられると、天地は滅んで無に帰り、すべてのものは新たにされる。これは何の間違いもない不変の真理である。わたしはこの世に打ち勝ち、すべての邪悪な者に打ち勝った。わたしはここに座り、あなたがたに語っている。耳のある者はみな耳を傾け、生ける者はみな受け入れなさい。

『神の出現と働き』「キリストの初めの言葉、第十五章」(『言葉』第1巻)

259. わたしは自分の言うことを固守し、固守することをわたしは必ず完成させ、このことは誰も変えることはできない。これは絶対である。わたしが過去に言った言葉であろうと、将来言う言葉であろうと、わたしはそれらすべてを一つひとつ実現させ、全人類にそれが実現するのを見せる。これがわたしの言葉と働きの背後にある原理である。……宇宙で起こるすべてのことのうち、わたしが最終的な決定権を持たないものはない。わたしの手の中にないものなどあるだろうか。わたしの言うことは何であれ実行されるが、人間のうちの誰にわたしの心を変えられるというのか。それが、わたしが地上で結んだ契約なのか。わたしの計画が前進するを妨げるものは何もない。わたしは働きにも経営(救いの)計画にも同様に存在している。人間のうちの誰が手を出して介入できるというのか。これらを直接準備したのはわたしではないのか。今日この領域に入ることは、わたしの計画やわたしが予知したことから外れていない。すべてわたしがずっと以前に決めていたことである。あなたがたのうちの誰がわたしの計画のこの段階を推測できるというのか。わたしの民は確実にわたしの声に耳を傾け、わたしを本当に愛する人は一人ひとり確実にわたしの玉座の前に戻って来る。

『神の出現と働き』「全宇宙への神の言葉、第一章」(『言葉』第1巻)

260. 心からわたしのために尽くし、わたしに身を捧げるすべての者をわたしは愛する。わたしから生まれていながらわたしを知らず、わたしに反抗さえするすべての者をわたしは憎む。心からわたしのためにある者をわたしは誰一人捨て去ることなく、それどころかその祝福を二倍にする。恩知らずでわたしの思いやりを無にする者には二倍の懲罰を与え、容易に赦しはしない。わたしの国には何の不正も欺瞞もなく、世俗性もない。つまり、死臭は存在しない。かわりにすべては清廉かつ義であり、すべては純粋で開放されており、何一つ隠されず覆われてもいない。すべてが新鮮で、すべてが喜びであり、すべてが高揚である。それでもまだ死人の臭いを漂わせる者は誰であれわたしの国に残ることはできず、わたしの鉄の杖に支配される。

『神の出現と働き』「キリストの初めの言葉、第七十章」(『言葉』第1巻)

261. わたしはすべてを焼き尽くす火であり、背きを許さない。人間はすべてわたしが造ったのだから、わたしが何を言い何を行なおうと、人間は従わなければならず、抵抗してはならない。人はわたしの働きに干渉する権利をもたず、ましてやわたしの働きや言葉の何が正しく何が間違っているかを分析する資格などない。わたしは創造主であり、被造物はわたしへの畏敬の念をもって、わたしが求めるすべてのことを成し遂げるべきである。また、わたしに理を説こうとしてはならず、抵抗などなおさらするべきではない。わたしは権威をもって我が民を統べるのであり、わたしの創造の一部を成す者はすべてわたしの権威に従うべきである。今日、あなたがたはわたしの前にあって大胆で厚かましく、わたしがあなたがたを教えるのに用いる言葉に従わず、恐れを知らない。それなのに、わたしはあなたがたの反抗にただ耐えているだけである。取るに足らない小さな蛆虫が糞の山で汚物を掘り返しているからといって、わたしは腹を立てて働きに影響を及ぼすようなことはしない。わたしは父の旨のために、忌み嫌うすべてのものが存在し続けるのに耐える。わたしの発言が完了するまで、わたしの最後の瞬間までそうするのである。

『神の出現と働き』「落ち葉が土に還る時、あなたは自分の行なったあらゆる悪事を後悔する」(『言葉』第1巻)

262. あなたはもうわたしに仕える決意を固めているので、わたしはあなたを手放さない。わたしは悪を嫌う神であり、人類に嫉妬する神である。あなたはすでに祭壇で誓ったのだから、あなたがわたしの目の前で逃げ出すことも、二人の主人に仕えることも許しはしない。わたしの祭壇で、わたしの目の前で誓った後に、二番目の愛する対象をもてると思ったのか。人がそのようにわたしを笑いものにすることを、わたしが許すことなどあろうか。あなたは自分の舌でわたしに軽々しく誓いを立てられるとでも思ったのか。いと高き者であるわたしの玉座に誓いを立てることなどどうしてできたのか。誓いなどすでに消え去ったとでも思ったのか。あなたがたに言っておくが、たとえあなたがたの肉体が消え去ろうとも、あなたがたの誓いが消えることはあり得ない。最後にわたしは、あなたがたの誓いに基づいてあなたがたを断罪する。しかし、あなたがたは言葉をわたしの前に置くことでわたしに対処できると信じ、自分の心は穢れた霊と邪悪な霊に仕えることができると考える。わたしを騙すこうした犬や豚同然の人間を、どうしてわたしの怒りが容赦できようか。わたしは行政命令を執行し、わたしを信じるこれらの堅苦しく「敬虔な」者たちを穢れた霊どもの手から奪い返さなければならない。そうすることで、彼らは規律正しくわたしに「仕え」、わたしの役牛となり、馬となり、わたしのなすがままに殺される。わたしはあなたに以前の決意を取り戻させ、もう一度わたしに仕えさせる。わたしを騙すどのような被造物も許さない。あなたはわたしにただ気まぐれに要求し、わたしの前で嘘をつくことができると思ったのか。あなたの言動をわたしが見聞きしていないとでも思ったのか。あなたの言動がわたしの目に触れないことなどあるはずがない。人がそのようにしてわたしを騙すことを、どうしてわたしが許せようか。

『神の出現と働き』「あなたがたは人格が卑しすぎる」(『言葉』第1巻)

263. わたしは唯一無二の神自身であり、さらに唯一の神の本体である。またそれ以上に、わたしという肉全体が、神の完全な顕現なのだ。わたしを畏れない者、その目に反抗を表す者、反逆する言葉を話す者は、誰でも必ずやわたしの呪いと怒りによって死ぬだろう(わたしの怒りによって呪いが引き起こされるのだ)。さらに、わたしに忠誠や子としての愛を示さず、わたしをごまかそうとする者は、必ずやわたしの憎しみによって死ぬであろう。わたしの義と威厳と裁きは永遠に続いていく。当初、わたしは愛と憐れみに満ちていたが、それはわたしの完全な神性の性質ではない。義、威厳、そして裁きこそが、完全な神自身であるわたしの性質をなすものなのだ。恵みの時代、わたしは愛と憐れみに満ちていた。わたしは終えなければならない働きのために慈愛と憐れみを持っていたが、その後はそうしたものは必要なかったのだ(そしてそれ以降は一切必要ない)。すべては義と威厳と裁きであり、それがわたしの普通の人間性と完全な神性が一体となった完全な性質なのだ。

『神の出現と働き』「キリストの初めの言葉、第七十九章」(『言葉』第1巻)

264. わたしはすべてを支配しており、完全な権威をふるう知恵のある神であり、誰に対しても情け深くないと言った。わたしはまったく非情であり、私情は一切持ち合わせない。わたしは誰であろうとも(どれほど口が上手でも容赦しない)わたしの義と清廉と威厳をもって扱い、同時にわたしの業の不思議と、わたしの業が意味するものがすべての者にさらによく見えるようにする。わたしは悪霊を一つずつ、それらが犯したあらゆる行いゆえに懲罰し、それぞれを奈落の底へ投げ落とした。わたしはこの働きを時が始まる前に終え、それらから地位を奪い、業を行う場所を奪った。わたしの選民、つまりわたしが予定し選択した者の誰一人として悪霊に取りつかれることはなく、常に聖くある。わたしが予定し選択していない者はサタンに引き渡し、これ以上留まることは許さない。わたしの行政命令にはあらゆる面で、わたしの義と威厳が関わっている。わたしはサタンの働きを受けている者を誰一人として見逃さず、その体ごと冥府へ投げ落とす。わたしはサタンを憎むからである。サタンを決して簡単に許しはしないどころか、徹底的に打ち破り、その業を行う機会を一切与えない。

『神の出現と働き』「キリストの初めの言葉、第七十章」(『言葉』第1巻)

265. わたしはわたしから生まれていながらまだわたしを知らないすべての者を罰し、わたしのすべての怒りと大いなる力、そして完全なる知恵を示そう。わたしの中ではすべてが義であり、不義、欺瞞、不正はまったく存在しない。不正で不正直な者はみな、冥府で生まれた地獄の子に違いない。わたしの中ではすべてが明白である。わたしが達成されると言うことはすべて達成され、確立されると言うことは確立され、それを変えたり真似たりできる者はいない。わたしが唯一の神自身だからだ。

『神の出現と働き』「キリストの初めの言葉、第九十六章」(『言葉』第1巻)

266. わたしは悪人を罰し、善人に報い、わたしの義を実践し、わたしの裁きを実行する。わたしは言葉を使ってすべてを成し遂げ、あらゆる人とあらゆるものにわたしの刑罰の手を体験させる。そしてあらゆる人々に、わたしの栄光のすべて、知恵のすべて、豊かさのすべてを見せる。わたしの中にはすべてが完成されているため、立ち上がって批判する者は誰もいない。そしてここで、あらゆる人にわたしの名誉のすべてを見せ、わたしの勝利のすべてを味わわせよう。わたしの中にはあらゆるものが現れるからだ。ここからわたしの偉大な力と権威を見ることができる。誰もあえてわたしを憤慨させようとはせず、誰もわたしを妨げようとはしない。わたしの中ではすべてのことが明らかにされる。誰があえて何かを隠そうとするだろうか。わたしはそのような者には決して憐みを示さない。そのような惨めな者はわたしの厳しい罰を受け、そのような屑はわたしの目の前から追放されなければならない。わたしは鉄つえをもって彼らを支配し、わたしの権威を用いて彼らを裁く。一切の哀れみをかけることも、彼らの気持ちを考えることもない。なぜならわたしは神自身であり、感情を持たず、威厳に満ち、侵すことのできない者だからだ。すべての者がこのことを理解し、目にしなければならない。そうでないと、「原因や理由もなく」わたしに打ち倒され、滅ぼされることになる。わたしの鉄のつえはわたしに背くすべての者を打ち倒すからだ。わたしは彼らがわたしの行政命令を知っていようがいまいが気にはしない。それはわたしにはまったく重要ではない。わたしの本体は誰の背きも許さないからだ。このため、わたしは獅子だと言われているのだ。わたしが触れる者は誰でも、わたしに打ち倒される。そのため、今ではわたしを憐れみと慈しみの神と呼ぶことは冒涜だと言われているのだ。本質的に、わたしは子羊ではなく、獅子である。誰もあえてわたしに背くことはなく、わたしに背く者は誰であれ、わたしがただちに容赦なく死をもって罰する。

『神の出現と働き』「キリストの初めの言葉、第一百二十章」(『言葉』第1巻)

267. わたしの声は裁きであり、怒りである。わたしは誰一人優しく扱わず、誰にも憐れみを示さない。わたしは義なる神自身であり、憤怒を備え、燃え盛る炎を備え、清めを備え、破滅を備えているからだ。わたしの中に隠されたものや感情的なものは一つもなく、逆にすべてが開かれており、義であり、公平である。わたしの長子たちはすでにわたしと共に玉座に就き、すべての国とすべての民族を支配しているので、不正な不義の物や人々は裁かれ始めている。わたしは彼らを一つずつ精査し、何一つ見逃すことなく完全に暴く。わたしの裁きは完全に露わにされ、完全に開かれており、何一つ隠されてはいないからだ。わたしの旨に適わないものはすべて投げ棄て、永遠に底なしの穴で滅ぼし、そこで永遠に焼き尽くさせる。これがわたしの義であり公正さである。誰もそれを変えることはできず、すべてはわたしの命令に従わなければならない。

『神の出現と働き』「キリストの初めの言葉、第百三章」(『言葉』第1巻)

268. わたしが語るすべての文は権威と裁きを備えており、誰もわたしの言葉を変えることはできない。わたしの言葉が発せられると、物事は間違いなくその言葉に従って成し遂げられる。それがわたしの性質である。わたしの言葉は権威であり、それを改変する者は誰であれわたしの刑罰に背いているため、打ち倒さなければならない。深刻な場合、彼らは自分自身のいのちに破滅をもたらし、冥府か底なしの穴に落ちることになる。これはわたしが人類を取り扱う唯一の方法であり、人間にそれを変える術はない――これがわたしの行政命令である。このことを憶えておきなさい。誰もわたしの行政命令に違反してはならず、物事はわたしの旨に従って行われなければならないのだ。これまでわたしはあなたがたに甘くし過ぎて、あなたがたはわたしの言葉だけに直面してきた。わたしが人々を打ちのめすことについて語った言葉は、まだ実現していない。しかし今日からはあらゆる災害(わたしの行政命令に関連する災害)が、わたしの旨に従わないすべての者たちを罰するため、次から次へと降りかかるだろう。事実の到来がなければならない、そうでないと人々はわたしの怒りを見ることができず、繰り返し放蕩に耽るだろう。これはわたしの経営(救いの)計画の一段階であり、わたしが次の段階の働きを行うやり方である。このことをあらかじめ伝えておくのは、あなたがたが過ちを犯して永遠の地獄に落ちることを避けられるようにするためだ。すなわちわたしは今日から、わたしの長子を除くすべての人々を、わたしの旨に従って適切な場所に就かせ、一人ずつ罰する。誰一人として見逃しはしない。もう一度放蕩に耽ろうとしてみるがよい。もう一度反抗しようとしてみるがよい。以前、わたしはすべての者に対して義であり感情のかけらもないと言ったが、それはわたしの性質が侵すべからざるものであることを示している。これがわたしの本体であり、誰もそれを変えることはできない。すべての人がわたしの言葉を聞き、すべての人がわたしの栄光に満ちた顔貌を見る。すべての人はわたしに完全に、そして絶対に従わなければならない――これがわたしの行政命令である。全宇宙と地の隅々に至るまで、すべての人々がわたしを賛美し、その栄光を讃えなければならない。わたしは唯一の神自身であり、神の本体であるからだ。誰もわたしの言葉や発言、話やふるまいを変えることはできない。それらはわたしだけの問題であり、太古の時代からわたしが所有してきたもので、永久に存在するからである。

『神の出現と働き』「キリストの初めの言葉、第百章」(『言葉』第1巻)

269. すべてはわたしの言葉で成し遂げられる。誰一人、手を出すことはできない。また、誰一人、わたしのしている働きをすることはできない。わたしは全地の空気をきれいに拭い、地上にいる悪魔たちの痕跡を一掃しよう。わたしはすでに始めている。そして、わたしの刑罰の働きの第一段階を赤い大きな竜のすみかで始める。そうして、わたしの刑罰が全宇宙に及ぶと、赤い大きな竜とあらゆる不浄な霊が無力で、わたしの刑罰を免れないことがわかる。わたしは全地を調べるのだから。地上でのわたしの働きが完了すると、つまり、裁きの時代が終わると、わたしは正式に赤い大きな竜を刑罰する。わが民は、わたしが赤い大きな竜に与える義の刑罰を見る。人々は、わたしの義のゆえにたたえをささげ、わたしの義のゆえに、永遠にわたしの聖なる名を称える。そこで、あなたがたは、正式に本分を果たし、全地で正式にわたしをたたえる。永遠に絶えることなく。

『神の出現と働き』「全宇宙への神の言葉、第二十八章」(『言葉』第1巻)

270. 今こそ、わたしが一人一人の終わりを決めるときであり、人間への働きを開始する段階ではない。一人一人の言動、わたしに従うためにたどった道、生来の属性や最終的にどのようにふるまったかをわたしは記録帳に一つずつ書き留める。こうすることで、どのような人であってもわたしの手から逃れることはなく、みながわたしが定めるように同類の人と共にいることになる。わたしは、一人一人の終着点を、年齢や年功、苦しみの量、とりわけ憐れみを誘う度合いではなく、真理を自分のものにしているかどうかに基づいて決める。これ以外の選択肢はない。神の旨に従わない人はみな懲罰されることをあなたがたは悟らなければならない。これは不変の事実である。よって、懲罰される者はみな神の義ゆえに、その数々の邪悪な行為への報いとして懲罰されるのである。

『神の出現と働き』「終着点のために十分な善行を積みなさい」(『言葉』第1巻)

271. あなたがわたしを長年信仰し、わたしと長らく関わってきたにもかかわらず、わたしから遠く離れたままならば、あなたは度々神の性質に背いており、あなたの最後は実に測りがたいものになるはずだ、とわたしは言う。わたしと長年関わっても、それによってあなたが人間性と真理を有する人物へと変化せず、その上さらに、あなたの本性に悪の道が根付き、傲慢さが以前の倍になるだけでなく、わたしに関する誤解も増大し、わたしを単なる仲間と見なすまでになってしまったのならば、あなたの厄災はもはや皮膚の表面どころではなく、まさに骨まで貫いていることになる。あなたに残されたのは自分の葬儀の準備が整うのを待つことだけである。その時になって、あなたの神になるようわたしに懇願するには及ばない。あなたは死に値する罪を、許されざる罪を犯したからである。たとえわたしがあなたを哀れむことがあったとしても、天の神はあなたの命を取り上げると断言するだろう。あなたが神の性質に背いたことはありふれた問題などではなく、非常に重大な性質をはらむ問題だからである。その時が来ても、前もって教えてくれなかったとわたしを責めてはならない。話は全てここに戻ってくる。あなたがキリスト、すなわち地上の神を普通の人間と見なして関わるならば、つまり、その神は一人の人間にすぎないと信じるならば、そのときあなたは滅びることになる。これが、あなたがた全員に対するわたしの唯一の警告である。

『神の出現と働き』「どのように地上の神を知るか」(『言葉』第1巻)

272. わたしの憐れみは、わたしを愛し、自分を否定する人に向けて現わされる。そして、邪悪な者にもたらされる懲罰はわたしの義なる性質の証明そのものであり、それ以上にわたしの怒りの証である。災いがやって来ると、わたしに反抗する者はみな飢饉や疫病に苛まれ、涙を流す。あらゆる悪事を犯してきたが、長年わたしに従って来た者でも罪の償いを免れることはできない。何百万年の時を通して誰も目にしたことのないような災いに陥り、絶えず恐怖と不安の中に生きることになる。そして、わたしだけに忠誠を示して従ってきた人は喜び、わたしの力に拍手喝采する。彼らは言葉に表せないほどの満足感を体験し、わたしが人類にいまだかつて与えたことのないような喜びの中に生きる。わたしは人の善行を宝とし、悪行を忌み嫌うからである。わたしが初めて人類を導き始めたときから、わたしと心を同じとする人の集まりを獲得することを熱望してきた。わたしと同じ心を持たない人については、わたしは決して忘れない。彼らに報いを与え、その様子を楽しみながら眺める機会を待ち望みながら、彼らに心の中で憎み続ける。今日、遂にその日を迎え、もはや待つ必要はない。

『神の出現と働き』「終着点のために十分な善行を積みなさい」(『言葉』第1巻)

273. わたしは人間界の不正義を正す。わたしは世界中において自らの手で働きを行い、サタンがわたしの民に危害を加えるのを禁じ、敵が好き放題に行うのを禁じる。わたしは地上の王になり、玉座をそこに移し、わたしの敵をすべて地面に倒し、わたしの前でその罪を自白させる。わたしの悲しみに怒りが混じり合い、わたしは全宇宙を踏みつけて平らにし、誰も見逃さず、敵の心に恐怖を抱かせる。わたしは全世界を廃墟とし、敵をその廃墟に落とし入れるので、これ以降敵が人類を堕落させることはない。わたしの計画はすでに決定しており、誰も、何者であろうとも、それを変えてはならない。わたしが全宇宙の上方を堂々と荘厳に歩き回るとき、全人類は新しくなり、すべては復活する。もはや人が嘆くことはなく、助けを求めてわたしに叫ぶこともなくなる。そのとき、わたしの心は大いに喜び、人々はわたしを祝うために戻って来る。そして全宇宙が上から下まで喜びに湧きかえる……

『神の出現と働き』「全宇宙への神の言葉、第二十七章」(『言葉』第1巻)

274. シオンよ! 歓呼せよ! シオンよ! 大声で歌え! わたしは勝ち誇って戻ってきた。わたしは勝利して帰って来た。すべての民よ、急いで整列せよ。すべての被造物よ、動きを止めなさい、わたしの本体が全宇宙に向き合い、世界の東に現れるからだ。ひざまずいて崇めようとしない者などあるだろうか。わたしを真の神と呼ばない者などあるだろうか。畏敬の念を持って見上げない者などあるだろうか。讃美しない者などあるだろうか。歓呼しない者などあるだろうか。わたしの民はわたしの声を聞き、わたしの子らはわたしの国で生き残るのだ。山々も川もすべてのものが止むことなく歓呼し、休むことなく飛び跳ねる。今や誰一人退こうとする者はなく、立ち上がって抵抗しようとする者もいない。これはわたしの素晴らしき業であり、そしてそれ以上に、わたしの偉大な力なのだ。わたしはすべてのものに心からわたしを崇めさせ、そしてさらに、すべてのものにわたしを称賛させる。これはわたしの六千年にわたる経営(救いの)計画の究極の目的であり、わたしが定めたことなのだ。一人の人間も、一つの物体も、一つの出来事も、あえて立ち上がって抵抗したり反逆したりすることはない。わたしの民は皆わたしの山(すなわちわたしが後に創造する世界)に流れ着き、わたしの前で服従する。わたしには威厳と裁きがあり、わたしが権威を宿しているからだ。(これはわたしが体に宿っているときのことである。わたしは肉においても権威を持つが、肉の中では時間と空間の制限を超越できないため、完全な栄光を得たとは言えない。わたしは長子たちを肉において獲得するが、それでも栄光を得たとは言えないのだ。シオンに戻り、外観を変えたとき初めて、わたしは権威を備え、すなわち栄光を得たと言えるのだ。)わたしに難しいことは何もない。わたしの口から出る言葉によってあらゆるものが破壊され、わたしの口から出る言葉によってあらゆるものが実現し完全にされる。それがわたしの偉大な力であり、わたしの権威である。わたしは力と権威に満ち溢れているため、わたしを妨げようとする者は誰もいない。わたしはすでにすべてのものに勝利し、すべての反逆の子らに打ち勝った。

『神の出現と働き』「キリストの初めの言葉、第一百二十章」(『言葉』第1巻)

275. 神は人間を創造しました。そして人間が堕落していようといまいと、自らに従おうと従うまいと、神は人間を自分のもっとも大事な愛する者として、人間的な言い方をすれば「最愛の存在」として接しており、玩具のように扱うことはありません。神は自らが創造主で人間はその被造物だと言っており、そこにはやや格の違いがあるように聞こえるかもしれませんが、実際には神が人間のために行ったすべてのことは、そのような関係をはるかに超えるものです。神は人間を愛し、思いやり、配慮してくれるだけでなく、常に絶えることなく人間を養ってくれています。そして心の中でそれを余分な仕事と感じたり、多くの称賛に値すると思ったりもしません。また人間を救い、与え、すべてを授けることを、人類への大きな貢献だとも思っていません。神はただ静かに独自のやり方で、自らの本質と所有するもの、そして神そのものを通じて、人間を養ってくれるのです。人間が神からどれだけの備えと支援を受けようとも、神はそれを手柄と考えたり、手柄をたてようと思ったりもしません。これは神の本質によるものであり、同時にまさしく神の性質の真なる表現でもあります。

『神を知ることについて』「神の働き、神の性質、そして神自身 I.」(『言葉』第2巻)

276. 神は人類の働きのために幾度も眠れぬ夜を過ごした。神は遥かな高みから深淵へと、人間が生活する生き地獄まで降り、人間と共に日々を過ごし、人間の卑しさに不平を漏らしたり、人間の不従順を咎めたりしたことがなく、自ら働きを行ないながら最大の屈辱に耐えている。どうして神が地獄に属していられようか。どうして神が地獄で生活できようか。しかし、全人類のため、また全人類が一刻も早く安らぎを得られるようにするため、神は屈辱に耐え、不義に苦しんでまで地上に来て、人間を救うべく自ら「地獄」と「ハデス」、すなわち虎穴に入った。どうして神に反抗する資格が人間にあろうか。神について不平を述べるどんな理由が人間にあるというのか。どうして人間は厚かましくも神を見上げられるのか。天なる神は最も汚れたこの悪徳の地に来て、決して不満を漏らさず、人間について不平を言ったことがなく、人間の略奪[1]や抑圧を黙って受け入れる。人間の不合理な要求に反撃したことも、人間に対して過度の要求や不合理な要求をしたこともない。教えること、啓くこと、叱責、言葉による精錬、注意の喚起、勧告、慰めること、裁くこと、暴くことなど、人間が必要とするすべての働きを、神は不平を言わずに行なうだけである。神の諸段階のうち、どれが人のいのちのためではなかったというのか。神は人間の前途や運命を取り去ったが、神によって行なわれた段階のうち、どれが人間の運命のためではなかったというのか。その段階のうち、どれが人間の生存のためではなかったというのか。それらのうちどれが人間をこの苦難から、夜のように黒い闇の勢力の抑圧から解放するためではなかったというのか。どれが人間のためではなかったというのか。愛情溢れる母のような神の心を、誰が理解できるというのか。神の真剣な心を、誰が理解できるというのか。

『神の出現と働き』「働きと入ること(9)」(『言葉』第1巻)

277. 地上に来た時、神はこの世のものではなく、この世を楽しむために肉となったのではない。働きが神の性質を明らかにし、最も意義のあるものとなるのは、神が生まれた場所である。それが聖なる地であれ穢れた地であれ、神がどこで働こうと神は聖い。この世界のあらゆるものは神に創られた。ただ全てがサタンに堕落させられてしまったのである。しかしながら、万物は依然として神のものであり、全ては神の掌中にある。神が穢れた土地に来てそこで働くのは、神の聖さを現すためである。神は自分の働きのためにそうする。つまり、この穢れた地の民を救うために神はひどい辱めを耐え忍び、このような働きを行なうのである。それは証しを立てるためであり、全人類のためである。このような働きが人に示すのは神の義であり、それは神の至高性をさらによく示すことができる。神の偉大さと正義は、他者が蔑むような賤しい人の集団を救うことにおいて表明される。穢れた土地に生まれることは、決して神が賤しいことを証明するのではない。それは専ら神の偉大さと人類への真の愛が万物に見えるようにするのである。神がこのように行えば行なうほど、それは神の人間への純粋な愛、完璧な愛をさらに現わす。神は聖く義である。ちょうどイエスが恵みの時代に罪人たちと暮らしたのと同様に、神は穢れた土地に生まれ、汚れにまみれた人たちと暮らしているが、神の働きは隅々まで全人類の生存のために行われるのではないのか。それは全て、人類が大いなる救いを得られるようにそうなっているのではないのか。二千年前、神は何年間も罪人たちと暮らした。それは贖いのためであった。今日、神は穢れて賤しい人たちの集団と暮らしている。それは救いのためである。神の働きは全てあなたがた人間のためではないのか。もし人間を救うためでなかったとしたら、何ゆえに神は飼葉おけで生まれた後、罪人たちと何年間も暮らし、共に苦しんだのか。そして、人間を救うためでなかったとしたら、なぜ神は再び肉に戻り、悪魔が集まるこの地に生まれ、サタンに深く堕落させられている人たちと暮らすのか。神は忠実ではないのか。神の働きのどの部分が人類のためでないというのか。どの部分があなたがたの運命のためでないのか。神は聖い。これは変わることがない。神は穢れた地に来たが、穢れに汚されることはない。このこと全てが意味するのは、神の人類への愛は極端なほど無私であり、神が耐える苦難と屈辱は極めて大きいということに尽きる。あなたがた全員のため、そしてあなたがたの運命のために、神が受ける辱めがどれほど大きいかをあなたがたは知らないのか。偉人や裕福な権力者の息子を救うのではなく、神は賤しく他者から見下されている人たちを救うことを重視している。このことは全て神の聖さではないのか。このことは全て神の義ではないのか。全人類の生存のために、神は穢れた地に生まれ、あらゆる屈辱を受けることを選ぶ。神はとても現実的であり、虚偽の働きを一切行わない。各段階の働きは、このように実際的に行われるのではないのか。人は皆、神を中傷して神は罪人と共に食卓に着くと言ったり、神を嘲笑して神は穢れた息子たちと暮らすと言ったり、最も賤しい人たちと暮らすと言ったりするが、神はなおも無私無欲に自らを捧げ、依然として人類から拒まれる。神が耐え忍ぶ苦難は、あなたがたの苦難よりも大きくはないのか。神の行なう働きは、あなたがたが払った代価を上回らないのか。

『神の出現と働き』「モアブの子孫を救うことの意義」(『言葉』第1巻)

278. 神は、これほどまで自らを低くしたので、汚れて堕落した人において働きを行い、この集団を完全にするのである。神は人間のもとで生活し、食べ、人々を牧し、人々に必要なものを与えるためだけに受肉したのではない。さらに重要なのは、耐えがたいほど堕落した人を救い征服する大規模な働きを行うことである。あらゆる人が変えられ一新されるように、最も堕落した人を救うために赤い大きな竜の核心に神が来たことである。神が耐える大いなる苦難は、受肉した神が受ける苦難だけでなく、それは何よりも神の霊が受ける極度の屈辱である。神は大いに自分を低くし隠れるために凡人となる。神が正常な人間の生活を送り、正常な人間と同じものを必要としていることを人々が理解できるように、神は受肉して肉の姿となった。神がかなりの程度まで自ら謙ったことは、これで十分証明される。神の霊が肉の姿で現れている。神の霊は極めて高貴かつ偉大であるが、霊の働きを行うため、神は取るに足りない凡人の姿となっている。あなたがた各人の素質、識見、理知、人間性、生活は、あなたがたがこのような神の働きを受ける価値が本当にないことを示している。あなたがたのためにこのような苦難を神に受けさせるだけの価値は、あなたがたにはない。神は極めて偉大である。神は至高の存在であり、人は極めて卑しく下等であるが、それでも神は人に働きを行う。神は受肉して人間に必要なものを与え、人間と話すだけでなく、人間と一緒に生活している。神は極めて謙遜で、愛しむべき存在である。

『神の出現と働き』「実践に集中する者だけが完全にされることができる」(『言葉』第1巻)

279. 神がなすことはすべて実践的で、空虚なものはなく、そのすべてを自ら経験する。神は人類の終着点と引き換えに、苦痛を体験するという代価を払う。これは実践的な働きではないか。親が子のために真剣な代償を払うのは誠実さを表す。受肉した神は当然、そうすることで人類に最も誠実で信実である。神の本質は信実。神は言うことをなし、なすことは必ず成る。神が人のためになすことはすべて誠実。ただ語るだけではない。代価を払うと言うときは本当に代価を払う。人の苦しみを負い、代わりに苦しむと言うとき、本当に人の間で暮らし、身をもってこの苦しみを味わい、体験する。こうして、神がなすことはすべて正しく、義であると宇宙の万物が認める。神がなすことはすべて現実だと。これは力強い証拠と言える。加えて、人類はいずれ美しい終着点をもち、留まる者はみな神を讃える。神の業はまさに人への愛ゆえだと賛美するだろう。神は普通の人として、謙虚に人のもとへ来る。単に多少の働きを行ない、いくばくかの言葉を語り、そして立ち去るというのでなく、本当に人のもとへ来て世の苦痛を経験するのである。この苦痛を経験して初めて、神は立ち去る。神の働きはかくも現実的、実践的であって、留まる者はみなそれゆえに神を讃え、人に対する神の誠実さと親切さを目にするのである。美と善という神の本質は神の受肉の意義の中に見ることができる。神のなすことはすべて誠実であり、言うことはすべて真剣で信実である。神は自身が意図する一切のことを実際に行ない、代価を払うときは実際に払う。ただ語るだけではない。神は義なる神。信実な神である。

『終わりの日のキリスト講話集』「受肉の意義に関する第二の側面」(『言葉』第3巻)

280. このように人間を経営して救うことを、神は何より重要だと考えます。神はこうした業を、自身の考えや言葉だけでそれらのことを行なうのではなく、ましてや軽々しい態度で行なうことなどあり得ません。計画、目的、基準、そして自身の旨にしたがってそれらのことを行なうのです。人類を救うその働きが、神と人間の両方にとって極めて大きな意義をもつことは明らかです。その働きがいかに困難だとしても、障害がいかに大きくても、人間がいかに弱くても、あるいは人類の反逆心がいかに強くても、そのいずれも神にとって困難とはなりません。神はひたすら血のにじむような努力を続け、自身が行なおうとしている働きを経営します。また、神はすべてを采配し、働きの対象となるすべての人間と、完了させたいと望むすべての働きを経営していますが、それらはどれも以前に行なわれたことがないものです。人類を経営して救うという一大事業のために、神がこれらの手段を使い、かくも大きな代価を支払ったのはこれが初めてなのです。神はこの働きを行なう一方、自身の血のにじむような努力、自身が所有するものと自身そのもの、自身の知恵と全能、そして自身の性質の各側面を、人類に対して少しずつ、かつ惜しみなく示して明らかにします。それまで明かしてこなかったこれらのことを明らかにして示すのです。ゆえに、神が経営して救おうとする人間を除き、神にこれほど近づき、親密な関係をもつ生物は全宇宙に存在しません。神の心の中では、自分が経営して救おうとしている人間が最も重要であり、神はこの人類を他の何より大切にしています。たとえ彼らのために大きな代価を支払ってきたとしても、また彼らに絶えず傷つけられ、反抗されたとしても、神は彼らを決して見捨てず、不満を言うことも後悔することもなく、自身の働きをひたすら続けます。と言うのも、人々が遅かれ早かれ自身の呼びかけで目覚め、自身の言葉によって動かされ、神が創造主であることを認めて神のもとへ戻ることを、神は知っているからです。

『神を知ることについて』「神の働き、神の性質、そして神自身 III.」(『言葉』第2巻)

281. 人類に対する神の考えと姿勢を真に理解し、一つひとつの被造物に対する神の気持ちと気遣いを真に認識できるとき、あなたがたは創造主によって創られた一人ひとりの人間に対する神の献身と愛情を理解することができます。そのとき、あなたは二つの言葉を使って神の愛を表わすでしょう。その二つの言葉とは何ですか。「無私」と言う人もいれば、「博愛」と言う人もいます。これら二つのうち、「博愛」は神の愛を表わす言葉として最も不適切なものです。この言葉は、寛大な人、あるいは心の広い人を表わすために人々が使う言葉です。わたしはこの言葉に強い嫌悪を感じます。と言うのも、原則に一切意を払わず、手当たり次第に、そして無差別に慈善を行なうことを指すからです。博愛というのは、愚かで混乱している人々に共通する、過度に感情的な性向です。この言葉を使って神の愛を表わす場合、そこには必然的に冒涜の意味があります。神の愛を表わすより適切な二つの単語を、ここでお教えします。それは何ですか。最初の言葉は「計り知れない」です。この言葉は示唆に富むものではありませんか。二番目は「広大」です。わたしが神の愛を表わす際に用いるこれらの単語の裏には、真の意義があります。文字通りの意味にとると、「計り知れない」という言葉は物事の数量や能力を指しますが、その大きさにかかわらず、それは人間が見たり触れたりできる物事です。なぜなら、それは実在し、抽象的なものではなく、比較的正確に、かつ現実的な形で、人にその概念を与えられるからです。それを二次元の視点で見るか、三次元の視点で見るかにかかわらず、その存在を想像する必要はありません。なぜなら、それは現実に存在するものだからです。「計り知れない」という言葉で神の愛を説明すると、神の愛を計量しているように感じられますが、それと同時に計量不可能であるという感覚も与えます。神の愛は計量可能だとわたしが言うのは、それが空虚なものでも、伝説の存在でもないからです。むしろ、神の支配下にある万物が共有しているものであり、様々な程度で、様々な視点から、すべての被造物が享受しているものです。人々は神の愛を見ることも触れることもできませんが、人生の中で少しずつ明らかにされるにつれ、その愛は万物に糧といのちをもたらし、その人たちは自分が絶えず享受している神の愛を数え上げ、その証しをするようになります。神の愛は計量不可能だとわたしが言うのは、神が万物に施し、糧を与えるという奥義は、万物に対する神の思い、特に人間に対する神の思いと同じく、人間には推し測るのが難しいものだからです。つまり、創造主が人類に注いできた血と涙を知る人は誰もいないのです。自らの手で創った人間に対する創造主の愛の深さや重さを、理解したり認識したりすることができる人はいません。神の愛を計り知れないと説明したのは、その広さと、それが存在するという真実を、人々が理解できるようにするためです。それはまた、「創造主」という言葉の実際の意味を人々がより深く理解し、「被造物」という呼び名がもつ真の意味をさらに深く理解できるようにするためです。「広大」という単語は通常何を表わしますか。一般的には海や宇宙などを表わすために用いられます。「広大な宇宙」「広大な海」といった具合です。宇宙の広さや静かなる深さは人間の理解を超えるものであり、人間の想像力を捉えるとともに、大きな驚異を感じさせます。その神秘と深遠さは、目に見えても手の届くものではありません。海のことを考えれば、その広さが頭に浮かびます。それは果てしないもののように見え、神秘と包容力を感じさせます。そのため、わたしは「広大」という単語を用いることで、神の愛を説明するとともに、人々がその尊さを感じ、神の愛の深遠なる美しさと、無限の広がりをもつ神の愛の力を実感できるようにしたのです。この単語を用いたのは、人々が神の愛の聖さ、そして神の愛を通じて示される神の威厳と不可侵性を感じられるようにするためです。

『神を知ることについて』「神の働き、神の性質、そして神自身 III.」(『言葉』第2巻)

282. 神の本質と性質の中には、非常に見落とされやすく、そして神だけが持っているものがあります。それは人々に偉大だとか善人だとか思われている人想像した神のようだと思われている人も含め、どんな人間も持つことができないものです。それは何かといえば、神の無私の心です。無私について話すと、あなたは自分も非常に無私だと思うかもしれません。なぜなら自分の子供について言えば、子供とは一切交渉などせず気前良く与えているし、また自分の両親のことを考えても、自分は非常に無私だと思うかもしれません。どう思うにせよ、少なくともあなたは「無私」という言葉の意味を理解していて、それを肯定的な言葉と捉え、無私であることはとても立派なことだと思っていますよね。自分が無私であれば、あなたは自分自身を高く評価するでしょう。しかし、人々や出来事、物事、そして神の働きを含む万物に認められる、神の無私の心を見ることができる人は誰もいません。なぜでしょうか。それは、人間があまりに自己中心的だからです。なぜこう言うかというと、人間は物質的な世界に住んでいます。あなたは神に付き従っているかもしれませんが、神がいかにあなたを養い、愛し、気遣っているかを見たり理解したりすることはありません。では何を見ているのでしょうか。それはあなたを愛してくれる、可愛がってくれる肉親です。あなたは自分の肉にとって有益なものに目を留め、自分が愛している人々や物事に心を配っています。それが人間の言うところの無私です。ところがそのような「無私」な人々も、自分にいのちを与えてくれる神のことはまったく気にかけません。神の無私とは対照的に、人間の無私は自己中心的で卑劣なものになります。人間が信じる無私とは、空虚で非現実な、汚れた、神とは相容れないものであり、神とは関係がありません。人間の無私は自分自身のためであり、一方神の無私は、神の本質の真の現れです。人間が常に神によって養われているのは、まさに神が無私であるからです。皆さんはわたしが今日話しているこのテーマにそれほど深く感動せず、ただ頷いているだけかもしれませんが、心の中で神の心を理解しようとすると、いつの間にか気づくことになります――この世で知覚できるすべての人々、出来事、そして物事の中で、ただ神の無私だけが真実で揺るぎないものなのだと。なぜなら神のあなたに対する愛だけが、無条件で汚れがないからです。神以外には、誰のいわゆる無私もすべて見せかけの表面的なものであり、真実ではありません。それは目的や特定の意図を含み、交換条件付きで、試みに耐えることはできず、汚れた卑しむべきものとさえ言えます。

『神を知ることについて』「神の働き、神の性質、そして神自身 I.」(『言葉』第2巻)

283. 神は人間が自らに敵意を抱いたため、人間を忌み嫌いましたが、その心の中にある人間への思い、配慮、憐れみは変わることがありませんでした。人間を滅ぼしたときでさえ、神の心は変わらなかったのです。人間が堕落に満ち、嘆かわしいほど神に不従順だったとき、神は自らの性質と本質のため、そして自らの原則を守るために、その人間を滅ぼさなければなりませんでした。しかしその本質のため、神はそれでも人間を憐れんでおり、人間が生き続けられるよう、さまざまな方法で人間を救いたいとすら願っていました。しかし人間は神に反逆し、神に背き続け、神の救いを受け入れることを拒みました。つまり、神の善意を受け入れることを拒んだのです。神がどれほど人間に呼びかけ、言い聞かせ、与え、助け、寛容に接しても、人間はそのことを理解も感謝もせず、注意を払いもしませんでした。神は苦しみつつも、最大限の寛容さを与えることを忘れず、人間が心を改めるのを待ちました。そして限界に達したとき、神は自らが行わねばならないことを迷いなく行ったのです。言い換えれば、神が人間を滅ぼすことを計画したときから、実際に人間を滅ぼす働きを始めるまでには、一定の期間と過程があったということです。この過程は人間に心を改める機会を与えるためにあったもので、神が人間に与えた最後のチャンスでした。では神は、実際に人間を滅ぼすまでの期間、何をしていたのでしょうか。神は人間に言い聞かせ忠告するために、非常に多くの働きをしていたのです。心にどれほどの痛みと悲しみを抱えていようとも、神は人間を配慮し、気遣い、溢れるほどの憐れみを注ぎ続けたのです。このことから何がわかるでしょうか。疑いもなく、神の人間に対する愛が本物であり、口先だけのものでないことが見て取れます。その愛は実在し、明らかに感じ取ることができるもので、偽物ではなく、混じりけもなく、欺きも飾り気もないものです。神は騙したりイメージを繕ったりして、自らを愛すべき者のように見せることは決してありません。偽証によってその魅力を人々に見せることも、その魅力や聖さを誇示することもないのです。このような神の性質は、人間の愛に値しないでしょうか。崇拝に値しないでしょうか。大切にするに値しないでしょうか。ここでわたしは皆さんに尋ねたいのです。こうしたことを聞いて、皆さんは神の偉大さというものが、単に紙に書かれた空虚な言葉だと思うでしょうか。神の魅力はただの虚しい言葉でしょうか。いいえ違います。絶対に違います。至高、偉大さ、聖さ、寛大さ、愛など、神の性質と本質のさまざまな側面における一つひとつの詳細は、神が働きを行うたび実際に現れ、神の人間に対する旨の中に具現化されており、さらにすべての人間の中に実現され反映されてもいるのです。これまでにあなたがそう感じたことがあるかどうかに関わらず、神はあらゆる方法ですべての人に思いをはせ、その誠実な心と知恵とさまざまな方法を用いて、一人ひとりの心を温め、一人ひとりの霊を呼び覚ましているのです。これは議論の余地のない事実です。

『神を知ることについて』「神の働き、神の性質、そして神自身 I.」(『言葉』第2巻)

脚注

1.「略奪」は人類の不従順さを暴くために用いられている。

a. 原文では「されることがないことの象徴」。

b. 原文では「背くことができない(そして背くことが許されない)ことの象徴」。

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