第2節 人間に対する神の励ましと慰め

623. 今日、神はあなたがたを裁き、あなたがたを罰し、あなたがたを罪に定めるが、罪に定めることの要点はあなたが自分を知るためであることを知らなければならない。神は罪に定め、のろい、裁き、刑罰を与えるが、これはあなたが自分を知るため、あなたの性質が変わるためである。そしてさらに、あなたが自分の価値を知り、神の行動はすべて義であり、それは神の性質と神の働きが要求することに適っていること、神は人を救う計画に従って働くこと、神は人を愛し、救い、裁き、罰する義なる神であることを理解するためである。もしあなたが、自分は地位が低く、堕落して、不従順であることだけを知り、神が今日あなたに行う裁きや刑罰を通して救いを明らかにしようと望んでいることを知らないならば、あなたは経験を得るすべがなく、ましてや前に進み続けることはできない。神は人を殺したり、滅ぼしたりするためにではなく、裁き、のろい、罰し、救うために来た。神の六千年の経営(救いの)計画が終了するまで、つまり神が範疇ごとの人間の結末を明らかにするまでは、地上における神の働きは人の救いのためであり、その目的は神を愛する人を純粋にすっかり完全にし、神の統治の下に服従させることである。神がどのように人を救おうとも、そのすべては人を古いサタン的な性質から脱却させることによってなされる。すなわち、神は人にいのちを求めさせることで救うのである。人がそうしなければ、神の救いを受け入れることはできない。救いは神自身の働きであり、いのちを求めることは救いを受け入れるために人が負わなければならないものである。人の目から見れば、救いは神の愛であり、神の愛は刑罰、裁き、呪いであるはずがない。救いは愛、憐れみ、さらには、慰めの言葉を含んでいなければならず、神から授けられる無限の祝福も含んでいなければならない。神が人を救う時は、神は人を祝福と恵みで動かし、人が心を神に捧げることによって救うのだと人は信じている。すなわち、神が人を動かすのは神が人を救うことなのである。このような救いは取引によって行われる救いである。神が人に百倍のものを授けて初めて、人は神の名の前に服従し、神のために尽くして栄光をもたらそうと努力する。これは人類のための神が意図することではない。神は堕落した人類を救うために地上で働きに来た。このことに嘘はない。もしあれば、神が働きを行うために自ら来ることは絶対になかっただろう。過去において、神の救いは最大限の慈愛と憐れみを見せることで、神は全人類と交換するために自らのすべてをサタンに与えたほどであった。現在は過去とはまったく違っている。今日、あなたがたに与えられる救いは終わりの日に、各人を種類ごとに分類するときに起こる。あなたがたの救いの手段は愛や憐れみではなく、人が徹底的に救われるための刑罰と裁きである。従って、あなたがたが受けるのは刑罰、裁き、容赦のない鞭だけである。知りなさい。この無情な鞭打ちの中に罰はほんの少しもない。わたしの言葉がどんなに辛辣であったとしても、あなたがたに降りかかるのは、あなたがたにはまったく無情だと思われるかもしれないほんの数語だけであり、わたしがどれほど怒っていようとも、あなたがたに注がれるのは教えの言葉であり、わたしはあなたがたに危害を加えるつもりはないし、あなたがたを殺すつもりもない。これはすべて事実ではないのか。今日、義の裁きであろうと、無情な精錬や刑罰であろうと、すべては救いのためであることを知りなさい。今日各人が種類に応じて分類されようと、人の範疇が露わにされようと、神の発する言葉と働きのすべての目的は本当に神を愛する人を救うことである。義の裁きは人を清めるためにもたらされ、無情な精錬は人を浄化するために行われる。厳しい言葉、あるいは懲らしめはどちらも純化のためであり、救いのためである。従って、今日の救いの方法は過去のものとは違う。今日、義の裁きを通してあなたがたに救いはもたらされ、これは種類に応じてあなたがたを分類するためのよい道具である。さらに、無情な刑罰はあなたがたに最高の救いとして機能する。このような刑罰と裁きに直面して、あなたがたは何と言うのか。あなたがたはいつも、初めから終わりまで救いを享受してきたのではなかったのか。あなたがたは受肉の神を見たし、神の全能と知恵も悟った。そのうえ、あなたがたは繰り返し鞭打たれ、訓練も経験した。しかし、あなたがたは最高の恵みも受けたのではないのか。あなたがたの祝福は他の誰のものより大きくないのか。あなたがたの恵みはソロモンが享受した栄光や富よりも遥かに豊富である。考えてもみなさい。もしわたしが来た意図があなたがたを救うことではなく、罪に定め、罰することであったなら、あなたがたはこのように長く生き続けていただろうか。肉と血から成る罪深い存在であるあなたがたは今日まで生き残れていただろうか。もしわたしの目的がただあなたがたを罰するためであったなら、なぜわたしは肉となり、そのような大きな事業に着手していたのか。ただの人間にすぎないあなたがたを罰するには、わずか一言発するだけで済んだのではないのか。わたしはあなたがたをわざわざ罪に定めた後でもなお滅ぼす必要があるのだろうか。あなたがたはわたしのこの言葉をまだ信じないのか。わたしには愛と憐れみだけで人を救うことができるだろうか。それともわたしは人を救うために十字架しか使えないのだろうか。わたしの義なる性質は人を完全に従順にさせるのをさらに促進しないだろうか。それは人を完全に救うことがさらにできるのではないのか。

『神の出現と働き』「地位の祝福は脇に置き、人に救いをもたらす神の心意を理解するべきである」(『言葉』第1巻)

624. あなたがたはみな罪と放蕩の場所で生きており、あなたがたはみな淫らで罪深い。今日、あなたがたは神を見ることができるだけではなく、もっと重要なことに、刑罰と裁きを受け、真に深い救い、つまり、神の最大の愛を受けた。することすべてにおいて、神はあなたがたに真に愛情深く接している。神に悪意はまったくない。神があなたがたを裁くのは、あなたがたの罪ゆえであり、それはあなたがたが自省し、このすばらしい救いを受けられるようにするためである。これはみな人間を完全にすることを目的として行われる。始めから終わりまで、神は人間を救うために全力を尽くしており、神が自らの手で創造した人間を完全に破壊したいという願望はない。今、神は働くためにあなたがたのもとに来ており、このような救いはもっと偉大ではないのか。もし神があなたがたを憎んでいるのなら、あなたがたを直接導くためにそれ程大きな働きをするだろうか。なぜ神がそのように苦しむ必要があるのか。神はあなたがたを憎んでいないし、あなたがたに何の悪意ももっていない。あなたがたは神の愛が最も真実な愛であることを知らなければいけない。神が裁きを通して人を救わなければならないのは、唯一人が不服従だからである。そうでなければ、人を救うのは不可能であろう。あなたがたはいかに生きるべきかを知らず、いかに生きるべきかに気づいてもいないため、また、あなたがたはこの淫らで罪深い地に住み、あなたがた自身が淫らで汚れた悪魔であるため、神はあなたがたがいっそう堕落してゆくままにしておくことに耐えられず、また、あなたがたが現在のようにこのような汚れた地で生活し、サタンの思うままに踏みつけられるのは見るにしのびず、あなたがたがハデスに落ちてゆくままにしておくことには耐えられないのである。神はただこの集団の人たちを獲得し、あなたがたを完全に救いたいと願っている。これがあなたがたに征服の働きを行う主要目的である。ただ救いのためである。もしあなたに為されていることはすべて愛と救いであるということがわからないのなら、これが単なる方式の一つ、人間を苦しめる方法の一つであり、信用できないものであると考えるのなら、あなたは自分の世界に戻り苦痛と苦難を受けた方がいいであろう。もし自らこの流れの中に身を置き、この裁きとこの大いなる救いを楽しみ、人間世界のどこにも見いだせないこの祝福のすべてとこの愛を享受したいなら、善であれ。この流れの中に留まり、完全にされるように征服の働きを受け入れなさい。今、あなたは神の裁きのために苦痛と鍛錬を少々体験しているかもしれないが、この苦痛には価値と意味がある。人間は神の刑罰と裁きにより精錬され、容赦のない暴露を受け、その目的は罪ゆえに人を罰し人の肉体を罰することであるが、このどれも肉を罪に定めて滅ぼすことを意図してはいない。言葉による厳しい暴露はすべてあなたを正しい道に導くためである。あなたがたはこの働きの多くを直接に体験しており、明らかにそれはあなたがたを悪の道へとは導かなかった。それはすべてあなたに正常な人間性を実際に生きさせるためであり、これはみなあなたがたの正常な人間性をもって達成できる。神の働きの一つひとつの段階はあなたの必要にもとづいて、あなたの弱点と実際の背丈に沿っており、荷えないような重荷は一つとしてあなたがたの上には置かれていない。今日あなたにはこのことが明らかではなく、まるでわたしがあなたに厳し過ぎるように感じている。わたしが毎日あなたを罰し、裁き、責めるのは、わたしがあなたを憎んでいるからだと確かにあなたはいつも思っている。しかし、あなたが受けて苦しむのは刑罰と裁きだが、これは実際はすべてあなたへの愛であり、最も偉大な保護である。もしこの働きの深い意味が把握できないのなら、あなたが経験を続けることは不可能である。この救いはあなたに慰めをもたらすべきである。我に返るのを拒んではならない。ここまで来たのだから、この征服の働きの意義はあなたにはっきりわかるはずである。このことについて、もはやあれこれと考えを抱いてはならない。

『神の出現と働き』「征服の働きの内幕(4)」(『言葉』第1巻)

625. すべての人々は、神の言葉によって精錬を受けている。神が受肉していなかったなら、人類はそのような苦しみにあずかるという祝福を受けることなどなかっただろう。言い換えれば、神の言葉による試練を受け入れることができる人々は、みな祝福されている。人々はその元来の素質、行動、そして神に対する態度に基づいて考えれば、このような精錬を受けるには値しない。この祝福を享受しているのは、神によって高められたからである。人々はかつて、自分は神の顔を見るに値せず、神の言葉を聞く資格もないと言っていた。現在人々が神の言葉による精錬を授かっているのは、もっぱら神によって高められたことと、神の憐れみのおかげである。これが終わりの日に生まれた者一人一人に与えられる祝福なのだ。あなたがたは自分自身それを体験しただろうか。人間がどの側面で苦難や挫折を体験するかは、神によって予め定められており、人間自身の要求によって決まるものではない。これはまぎれもない事実である。神を信じるものは皆、神の言葉による試練を受け入れ、その言葉の中で苦しむ能力を持っていなければならない。このことをはっきりと理解できるだろうか。だからあなたは、経験した苦難と引き換えに、今日の祝福を得たのである。神のために苦しまなければ、神の称賛を得ることはできない。

『神の出現と働き』「神への真の愛は自発的なものである」(『言葉』第1巻)

626. 神の言葉の裁き、刑罰、打撃、そして精錬を受け入れることができ、またそれ以上に、神が託す任務を受け入れられることは、はるか昔に神が予め定めたことなので、刑罰を受けるときはあまり悲嘆してはならない。あなたがたの中でなされた働き、あなたがたに授けられた祝福、そしてあなたがたに与えられたすべてのものを取り去ることは誰にもできない。宗教の人々はあなたがたとの比較に耐えられない。あなたがたには聖書に関する偉大な専門知識がなく、宗教理論もないが、神があなたがたの中で働いたので、過去の時代の誰よりも多くのものを得た。つまり、これがあなたがたの最大の祝福である。そのため、あなたがたは神に対してさらに献身的でなければならず、よりいっそう神に忠実でなければならない。神があなたを引き上げるので、あなたはますます努力せねばならず、霊的背丈を整えて神が託す任務を受け入れなければならない。神から与えられた場所にしっかり立ち、神の民の一人になることを追い求め、神の国の訓練を受け入れ、神によって得られ、最終的には神への栄光の証しとならねばならない。あなたにその決意があるのか。このような決意があれば、あなたは最後に間違いなく神によって得られ、神への栄光の証しとなるだろう。託されたおもな任務は神によって得られること、そして神への栄光の証しになることだと、あなたは理解しなければならない。それが神の旨である。

『神の出現と働き』「神の最新の働きを知り、神の歩みに従え」(『言葉』第1巻)

627. わたしの声を聞いたすべての兄弟姉妹たちへ。あなたがたはわたしの厳格な裁きの声を聞き、非常な苦しみに耐えてきた。しかし、あなたがたは、わたしの厳しい声の後ろにはわたしの意志が隠されていることを知るべきである。わたしがあなたがたを鍛錬するのはあなたがたを救うためである。わたしの愛する子らのためにわたしがあなたがたを訓練、刈り込み、まもなく完全なものにすることをあなたがたは知るべきである。わたしの心は非常に切望しているが、あなたがたはわたしの心を理解せず、わたしの言葉に従って行動しない。今日のわたしの言葉はあなたがたに向けられ、神が愛する神であることをあなたがたに本当に認識させる。そして、あなたがたはみな神の真摯な愛を経験している。しかし、わかったふりをしている人々も少数いて、他の人々の悲しみを見れば、彼らも目に涙を浮かべるだろう。表面上は神に負い目を感じているように見える人々もいて、表面では後悔しているように見えるが、心の中では本当には神を理解しておらず、神について確信を持っていない。むしろそれは見せかけにすぎない。わたしはこのような人々をもっとも嫌う。遅かれ早かれ、このような人々はわたしの都から追い出されるだろう。わたしの考えは、熱心にわたしを欲する人々をわたしは欲するのであり、真心からわたしを求める人々だけがわたしを喜ばせることができるのだ──このような人々に対してわたしは自分の両手を差し出して援助し、彼らはどんな災難にも出会わないことを保証する。本当に神を欲する人々は進んで神の心を思いやり、わたしの意志を行うだろう。そのようにして、まもなくあなたがたは現実性に入り、わたしの言葉をあなたがたのいのちとして受け入れるはずである──これがわたしの最大の重荷である。もし諸教会と聖者たちがすべて現実性に入り、すべてがわたしと直接交流することができるならば、わたしと向かい合い、真理と義を実行できるならば、そのとき初めて、彼らはわたしの愛する子らとなり、わたしは彼らに十分満足し、あらゆる大きな祝福を与えるだろう。

『神の出現と働き』「キリストの初めの言葉、第二十三章」(『言葉』第1巻)

628. 現在、あなたは自分がどのようにして征服されたかにだけ満足していてはならず、将来歩んで行く道についても考慮しなければならない。あなたは完全にされることへの熱意と勇気を持たなければならず、自分は無能だと常に思うべきではない。真理は人を選り好みするだろうか。真理は故意に人間に反対できるだろうか。あなたが真理を追求するなら、真理はあなたを圧倒できるだろうか。あなたが正義のために固く立つなら、正義はあなたを打ち倒すであろうか。いのちを追求することが本当にあなたの願望であれば、いのちはあなたから逃れることができるだろうか。あなたに真理がないのであれば、それは真理があなたを無視するからではなく、あなたが真理から遠ざかるからである。あなたが正義のために揺るぎなく立つことができないのであれば、それは正義に問題があるからではなく、あなたが正義は事実に一致しないと思っているからである。あなたが何年いのちを追求しても、いのちを得られずにいるのは、いのちがあなたに対して良心を持っていないからではなく、あなたがいのちに対して良心を持っておらず、いのちを追い払ったからである。あなたが光の中で生活しつつも、光を得ることができないのであれば、それは光があなたを照らせないからではなく、あなたが光の存在に注意を払わなかったので、光が静かにあなたから去ったからである。あなたが追求しないのであれば、あなたは価値の無い屑であり、自分の人生において全く勇気がなく、暗闇の勢力に対抗する霊がないと言う他ない。あなたは弱過ぎるのである。あなたは、自分を包囲するサタンの勢力から逃れられず、このような安全で平穏な生活を送り、無知のまま死ぬことのみを望んでいる。あなたが追求すべき事は、征服されることであり、それがあなたに課された本分である。自分が征服されたことに満足しているなら、あなたは光の存在を追い払うことになる。あなたは真理のために苦難を受け、真理に自分を捧げ、真理のために恥辱を忍ばねばならず、より多くの真理を得るためには、より多くの苦難を受けなければならない。これこそがあなたの為すべきことである。あなたは平穏な家庭生活のために真理を投げ捨ててはならず、一時的な享楽のために、あなたの一生の尊厳や品位を失ってはならない。あなたは、すべての美しく良いこと、また一層有意義な人生の道を追求すべきである。あなたがこのような俗悪な生活を送り、何の目的も追求しなかったならば、あなたは人生を無駄にすることになるのではないか。そのような人生から何が得られるであろうか。あなたは、真理のために肉の享楽をすべて捨て去るべきであり、僅かばかりの享楽のために全ての真理を投げ捨ててはならない。このような人々には、品位も尊厳もなく、彼らの存在には何の意味もない。

『神の出現と働き』「ペテロの経験――刑罰と裁きに関するペテロの認識」(『言葉』第1巻)

629. しかし、神に付き従うことがそれほど容易だと考えてはいけない。重要なのは神を知り、神の働きを知るということであり、神のために苦難に耐え、自らの命を捧げ、神に完全にされる意志を持たねばならないのだ。これが、あなたが備えねばならないビジョンである。いつも恵みを得ることばかり考えていても何にもならない。神がただ人間を楽しませ、人間に恵みを与えるためにいると考えてはならない。それは間違いなのだ。自らの命を賭けて神に従い、この世で所有するものすべてを捨てて付き従うことができないなら、その者は絶対に最後まで付き従うことはできない。ビジョンを自分の基盤とする必要があるのだ。いつかその身に不幸が降りかかったら、あなたはどうするべきか。それでも神に付き従うことができるだろうか。最後まで付き従えるかどうかを、軽い気持ちで答えてはならない。まず目を見開いて、今がいつなのか見てみなさい。今あなたがたは神殿の柱のようであるかもしれないが、そのような柱がみな虫に食われて神殿が倒れる時が来る。なぜなら現在、あなたがたには非常に多くのビジョンが欠けているからだ。あなたがたは自分の小さな世界だけに気を配っていて、最も信頼性が高く適切な探求の方法とは何かを知らない。そして現在の働きのビジョンに注意しておらず、それを心に留めてもいない。あなたがたは自分の神が、いつか自分を最も見知らぬ地へ送るということを考えたことがあるだろうか。わたしがいつかあなたがたのすべてを奪い去ったら、自分がどうなるかを想像できるだろうか。その日、あなたがたの活力は今と同じだろうか。あなたがたの信仰は再び現れるだろうか。神に付き従う上で、あなたがたはこの「神」という最大のビジョンを知らねばならない。それが最重要事項なのだ。

『神の出現と働き』「働きを理解しなさい――混乱したまま付き従ってはならない」(『言葉』第1巻)

630. 人は神を信じることで神を知ることができる。これが最終的な目標であり、人が追求するべき目標である。あなたの実践において神の言葉が実を結ぶように、神の言葉を生きる努力をしなければならない。教義的な認識しかなければ、あなたの神の信仰は無駄になる。あなたが神の言葉を実践し、神の言葉を生きる場合にのみ、信仰は完全で、神の心意に一致するとみなされる。この道では、多くの認識を語ることができる人は多いが、彼らが死ぬ時、その目は涙で溢れ、人生を無駄にし、高齢まで無用に生きたことを恨む。彼らは単に教義を理解しているだけで、真理を実践することも、神に証しをすることもできない。代わりに、あちこちをハチのように忙しく駆け回るだけで、死の寸前でようやく真の証しがないこと、神を全く知らないことを悟る。これでは手遅れではないか。なぜ今を生き、愛する真理を追い求めないのか。なぜ明日まで待つのか。人生において真理を求めて苦しむことも、真理を手に入れようとすることもないなら、今際の際に後悔したいということではないのか。もしそうなら、なぜ神を信じるのか。実際、ほんのわずかな努力をすれば、真理を実践し、それによって神を満足させることができる事柄は多くある。人の心が悪魔に取りつかれているからこそ、神のために行動することはできず、肉のために絶えず駆け回り、最終的に達成するものは何もない。このため、人は常に苦しみや困難に悩まされる。これはサタンによる責め苦ではないのか。これは肉の堕落ではないのか。あなたは調子のよいことを言って神をだまそうとするべきではない。むしろ、具体的な行動を取らなければならない。自分を欺くな。それに何の意味があるのか。自分の肉のために生き、利益と名声を得るために奮闘することで何を得ることができるのか。

『神の出現と働き』「神を信じるなら真理のために生きるべきである」(『言葉』第1巻)

631. いのちを追求しない者が変わることはできず、真理を渇望しない者は真理を得られない。あなたは自分の変化と入りの追求に重点を置かず、その代わりに度を越した欲望や、神への愛を縛り、神に近づくことを阻む物事にいつも重点を置く。そのような物事があなたを変えられるのか。あなたを神の国へと導けるのか。あなたの追求の目的が真理を求めることでないならば、これを機に俗世へ戻ってそこでの成功を目指せばよいだろう。このようにして時間を無駄にするのはまったく価値のないことである。なぜ自分を苦しめるのか。美しい世界であらゆる物事を享受できないことがあろうか。金銭、美女、地位、虚飾、家庭、子供など、このような俗世の産物はどれもあなたが享受できる最高のものではないのか。幸せになれる場所を探して、ここをさまようことが何の役に立つというのか。人の子に枕する所がないのであれば、どうしてあなたが安住の地を得られようか。どうして人の子があなたのために美しい安住の地を造れようか。それは可能なのか。わたしの裁きを除けば、あなたは今真理に関する説教を受けることしかできない。あなたはわたしから安楽を得ることも、日夜思い焦がれている安楽の寝床を得ることもできない。わたしはあなたにこの世の富を与えない。あなたが真に追求するならば、わたしは喜んであなたにいのちの道を残らず与え、あなたを水を得た魚のようにする。あなたが真に追求しないのであれば、わたしはそれをすべて取り上げる。安楽に貪欲で、豚や犬のような者たちにわたしの口から言葉を与えるつもりはない。

『神の出現と働き』「なぜ進んで引き立て役になろうとしないのか」(『言葉』第1巻)

632. 今日、あなたが征服されることができるのは信仰のゆえであり、征服されるからこそ、ヤーウェのあらゆる業を信じることができる。ただ信仰のゆえに、あなたはこのような刑罰と裁きを受ける。この刑罰と裁きを通して、あなたは征服され、完全にされる。今日受けているような刑罰と裁きなしには、あなたの信仰は虚しい。なぜなら、それなしにはあなたは神を知ることがないからである。どれほど神を信じていても、あなたの信仰は現実に基づかない、むなしい表現の一つである。あなたを完全に従順にする、この征服の働きを受けてはじめて、あなたの信仰は真実で確固としたものになり、あなたの心は神の方へ向く。たとえこの「信仰」という言葉のために大いに裁かれ呪われるとしても、あなたは真の信仰をもち、最も真実で、最も現実的で、最も貴重なものを得る。なぜなら、裁きの過程においてでなければ、あなたには神の創造物の終着点が見えないからである。この裁きの中で、あなたは創造主が愛すべき方であることを知る。こうした征服の働きの中に、あなたは神の腕を見る。この征服の中であなたは人として生きることを完全に理解するようになる。この征服の中で、あなたは人として生きる正しい道を獲得し、「人間」の真の意味を知るようになる。この征服の中でのみ、あなたは全能者の義の性質と美しい栄光に満ちた顔を見る。この征服の働きの中で、あなたは人間の起源と全人類の「不滅の歴史」を理解する。この征服の中で、あなたは人類の祖先と人類の堕落の起源を理解するようになる。この征服の中で、あなたは喜びと慰め、また、絶え間ない懲らしめと訓練、創造主が自ら創造した人類に送る叱責の言葉を受ける。この征服の働きの中で、あなたは祝福と、人間の受けるべき災難を受ける……。これはすべて、あなたのわずかばかりの信仰ゆえではないのか。これらのものを得た後、あなたの信仰は成長しなかったのか。あなたは膨大なものを得たのではないのか。あなたは神の言葉を聞き神の知恵を見ただけではなく、神の働きの各過程を自ら体験した。信仰がなければ、このような刑罰や裁きを受けて苦しまなかったのではないか、と言うかもしれない。しかし、信仰がなければ、こうした刑罰も、全能者からのこのような配慮も受けることができないだけでなく、創造主に会う機会も永遠に失うであろう。人間の起源を知ることは決してないだろうし、人生の意義を知ることも決してないであろう。たとえ体が死んで魂が離れても、あなたはまだ創造主の業のすべてを理解していないであろう。ましてや、創造主が人類を創造した後、このような偉大な働きを地上で行なったことを知りはしないであろう。神が創造したこの人類の一員として、あなたは不可解にも自ら進んでこのように闇の中に落ちて永遠の罰を受けようというのか。もし今日の刑罰と裁きから離れたなら、あなたにはいったい何が起こるであろうか。ひとたび今の裁きから離れてしまえば、この困難な生活から逃れられるとでも思っているのか。もし「この場所」を去ったなら、悲痛な苦悶と悪魔が加える残酷な傷害に遭遇するのではないのか。耐え難い苦しみを日夜受けることになるのではないのか。今日この裁きを逃れたからといって、将来の責め苦を永久に避けられるとでも思っているのか。あなたには何が起こるであろうか。それはほんとうに望みどおりの理想郷であろうか。今しているようにただ現実から逃げることで、その後の永遠の刑罰を逃れられるとでも思っているのか。今日より後、このような機会や祝福を再び見出せるであろうか。災厄が襲ってきた時、それを見出せるであろうか。全人類が安息に入るとき、それを見出すことができるであろうか。あなたの現在の幸福な生活と調和あるささやかな家庭が、永遠の終着点にとって代われるであろうか。もしあなたに真の信仰があるならば、そして信仰ゆえに多くのものを得るのなら、それはすべて、あなたというひとつの被造物が獲得すべきものであり、元来もっていたはずのものである。あなたの信仰といのちにとって、このような征服よりも有益なものは他にない。

『神の出現と働き』「征服の働きの内幕(1)」(『言葉』第1巻)

633. モーセが岩を打ったとき、ヤーウェが授けた水がほとばしり出たのは、モーセの信仰のためだった。ダビデがわたしヤーウェを賛美して琴を奏でたとき、ダビデの心は喜びに満ちており、それは彼の信仰のためだった。ヨブが山々を埋め尽くすほど多くの家畜や膨大な量の財産を失い、その体が腫物で覆われたのは、彼の信仰のためだった。彼がわたしヤーウェの声を聞き、わたしヤーウェの栄光を見ることができたのは、彼の信仰のためだった。ペテロがイエス・キリストに付き従うことができたのは、ペテロの信仰によるものだった。彼がわたしのために十字架に釘づけにされ、栄光ある証しとなることができたのも、彼の信仰によるものだった。ヨハネが人の子の輝かしい姿を見たのは、彼の信仰によるものだった。そして彼が終わりの日の幻を見たのも、なおさら彼の信仰のためであった。数多くのいわゆる異邦の民がわたしの啓示を受け、わたしが人々のもとで働くために肉となって再来したことを知るようになったのも、また彼らの信仰のためだ。わたしの厳しい言葉に打ちのめされつつも、それによって慰められ、そして救われたすべての者たちは、みな信仰のゆえにそうなったのではないか。わたしを信じつつ苦難に耐えている人々も、世界から拒絶されたのではないか。わたしの言葉の外で生き、試練の辛さから逃げている人々は、みな世界を漂っているのではないか。彼らはあちらこちらへひらひらと揺れる秋の葉のようで、休む場所もなく、ましてやわたしの慰めの言葉など得ていない。わたしの刑罰や精錬が彼らを追うことはないにせよ、彼らは天国の外の街路をあてもなくさまよう乞食ではないか。世界は本当にあなたの安息の場所だろうか。あなたはわたしの刑罰を避けることで、本当にこの世から満足の微笑みをわずかでも得ることができるのだろうか。つかの間の楽しみで、心の隠し切れない空しさを真に覆うことができるのだろうか。自分の家族なら騙せるかもしれないが、わたしを騙すことは到底できない。あなたは信仰が貧弱すぎるので、いのちが与える喜びを今日まで見出すことができずにいるのだ。わたしはあなたに呼びかける、人生の半分を真心からわたしのために生きるほうが、人生のすべてを肉のため平凡に忙しく過ごし、耐え難い苦しみに耐えていくよりもましなのだと。自分自身をそれほど大事にして、わたしの刑罰から逃げて何になるのか。わたしの一時的な刑罰から隠れて、かわりに永遠の恥と永遠の刑罰を受けて何になるのか。わたしは実際、誰も強制的にわたしの旨に従わせはしない。誰かが真にわたしのすべての計画に従おうとするなら、その人を粗末には扱わない。しかしわたしはすべての人が、ヨブがわたしヤーウェを信じたように、わたしを信じることを要求する。あなたがたの信仰がトマスのそれを超えているなら、その信仰はわたしの称賛を得ることになり、あなたがたはその忠誠の中にわたしの至福を見出し、必ずや日々にわたしの栄光を見出すだろう。

『神の出現と働き』「本物の人とは何を意味するのか」(『言葉』第1巻)

634. もし今わたしがあなたがたの前に現金を置いて選択の自由を与えたならば、そしてその選択を理由にあなたがたを非難しないならば、あなたがたのほとんどが現金を選び、真理を放棄するであろう。あなたがたのうち優秀な人は現金をあきらめ、しぶしぶ真理を選ぶ。一方、中間の人は片手に現金をつかみ、もう片手に真理をつかむ。あなたがたの真の姿がこのように明らかになるのではないだろうか。真理と自分の忠実の対象のどちらかを選ぶとき、あなたがたは皆このような選択をするが、あなたがたの態度に変化はない。そうではないだろうか。あなたがたのうちには正誤のあいだを揺れ動いた人が多くいるのではないのか。是と非、黒と白の対立において、家族か神か、子どもか神か、平和か分裂か、富か貧困か、地位か平凡か、支持されるか捨てられるかなどについて、あなたがたは自分がした選択を知っているはずである。平和な家族と崩壊した家族では、あなたがたは前者を選び、躊躇することなくそのように選択した。富と本分でも、岸辺に戻る[a]覚悟さえないまま再び前者を選んだ。贅沢と貧困でも前者を選んだ。息子、娘、妻、夫とわたしでも前者を選び、観念と真理でも再び前者を選んだ。あなたがたのありとあらゆる邪悪な行いに直面して、わたしはあなたがたへの信頼を完全に失った。あなたがたの心が柔和にされることにここまで抵抗するとは、わたしはただただ驚く。長年の献身と努力は明らかにあなたがたの放棄と絶望しかわたしにもたらさなかった。しかし、あなたがたへのわたしの希望は日ごとに大きくなる。わたしの日はすべての人の面前に完全にさらけ出されているからである。それなのに、あなたがたは暗く邪悪なものを求めることに固執し、それを手離すことを拒否する。それでは、あなたがたの行く末はどうなるのか。あなたがたはこのことを注意深く考えたことがあるのか。もし再び選択するように言われたならば、あなたがたはどういう立場を取るのか。やはり前者を選ぶのか。やはりあなたがたは失望と痛ましい悲しみをわたしにもたらすのであろうか。やはりあなたがたの心には温かさはわずかしかないのであろうか。やはりあなたがたはわたしの心を慰めるために何をするべきか気づかないのであろうか。この時点であなたがたは何を選ぶのか。わたしの言葉に従うのか、あるいはうんざりするのか。わたしの日はあなたがたのまさに目の前にさらけ出されており、あなたがたが直面しているのは新しい生活と新しい出発点である。しかし、この出発点は過ぎ去った新しい働きの始まりではなく、古いものの終結であることをあなたがたに告げなければならない。すなわち、これは最後の一幕なのである。この出発点について、何が尋常でないかをあなたがたは皆理解できるとわたしは考える。しかし、そう遠くないある日には、あなたがたはこの出発点の真の意味を理解する。だから一緒にそこを通って進み、最終幕を迎え入れよう。しかし、あなたがたに関してわたしが懸念を抱き続けるのは、不正義と正義に直面するとあなたがたは必ず前者を選ぶことである。しかし、それはすべて過去のことである。わたしも、あなたがたの過去についてはすべて忘れることを望んでいるが、それはとても困難である。それでも、そうするのにとてもよい方法がある。未来と過去を入れ替え、あなたがたの過去の影を一掃させ、現在の真のあなたがた自身と取り替えるのである。そのためには、わたしはあなたがたを煩わせて再度選択を迫らなければならない。あなたがたはいったい誰に忠実なのか。

『神の出現と働き』「あなたは誰に忠実なのか」(『言葉』第1巻)

635. 若者は理想や大志、自己を改善したいと望む熱心さに欠けてはならない。前途について落胆したり、生活に希望を失ったり、将来への自信を失ったりすべきではない。人生のすべてをわたしのために費やしたいという願いを実現させるべく、自らが選んだ真理の道を進み続ける忍耐力を持つべきである。真理を持たないでいることなく、偽善や不義を隠し持つことなく、ふさわしい姿勢に硬く立つべきである。ただ流れに身をまかせるのではなく、正義と真理のために身を捧げ戦う強い精神を持つべきである。若者は暗闇の力の圧迫に屈服することなく、自らの存在の意味を変える勇気を持つべきである。逆境の中で諦めるのではなく、赦しの精神をもって兄弟姉妹に対して開放的かつ率直でなくてはならない。もちろんこれは、わたしから皆への助言、また要求である。さらには、これらはすべての若者へのわたしからの慰めの言葉である。わたしの言葉に従って実践せよ。特に、若い人は問題にあたり分別を発揮し、正義と真理とを求める決意がなくてはならない。あなたがたはすべての美しいものと善なるものを追い求めるべきであり、前向きなものの現実性を自分のものにするべきである。自分の人生に責任を持ち、軽んじてはならない。人は地上に来て、わたしと出会うことは稀であるが、真理を追い求めて得る機会を持つこともまた稀である。なぜこの人生で追い求めるべき正しい道として、この美しい時を尊ばないのか。なぜいつも真理と正義をはねつけるのか。なぜいつも人を弄ぶ不義と汚れのために自らを踏みにじり、破滅させているのか。そしてなぜ不義の者がすることに関わる老人のように行動するのか。なぜ古いものの古いやり方を真似するのか。あなたがたの生活は正義と真理と聖さに満ちているべきである。人生はそんな若年のうちに堕落し、人をハデスに落とすべきではない。それはあまりにも不幸だとは思わないのか。あまりにも不公平だと思わないのか。

あなたがたは皆、非の打ち所がない完璧な働きをし、それをあなたがたからわたしへの最善かつ唯一の捧げ物としてわたしの祭壇に捧げるべきである。姿勢を硬く保ち、空の雲のように風が吹くたびに揺れることがあってはならない。半生を懸命に働くのだから、なぜ得るべき終着点を求めないのか。半生を骨折って過ごすのに、豚や犬のような両親が真理と個人の存在意義とを墓まで引きずっていくままにしている。これはあなたへの大いなる不正であると感じないのか。そのように生きることはまったく意味がないと思わないか。このような方法で真理と正しい道とを求める結果、問題を起こし、隣人は不快に思い、家族みんなが不幸になり、致命的な災難を引き起こす。このように生きれば、最も意味のない人生にならないだろうか。あなたの人生よりも幸運なのは誰の人生か。あなたの人生よりも馬鹿げているのは誰の人生か。わたしを求めるのは、わたしの喜びと、あなたを慰める言葉を得るためではないのか。しかし半生を走ったところで、わたしが怒りに満ちて、あなたへの注目も賞賛もなくなるまでわたしを怒らせるのなら、それはあなたの人生すべてが虚しかったということにならないか。それでどうして煉獄から解放された歴代の聖者の魂にぬけぬけと会いに行くことなどできようか。あなたはわたしに無関心で、最後には致命的な災難を引き起こす。この機会を生かし、広い海を喜んで渡る旅をし、わたしの「任命」に従うほうが良いであろう。わたしはずっと前にあなたがたに伝えた。無関心で、しかし去ろうともしない今日のあなたは最後には、わたしが起こす波に囲まれ、飲み込まれるであろうということを。あなたがたは本当に自分を守れるのか。あなたは自分の現在の追求の仕方が、あなたが完全にされることを確証してくれるという自信が本当にあるのか。あなたの心は頑なではないのか。このような従い方、このような追い求め方、このような生き方、このような人格で、どのようにわたしの賞賛を得られるというのか。

『神の出現と働き』「若者と老人に向けた言葉」(『言葉』第1巻)

636. 神は刑罰により人を征服することを望まず、人をいつも無理やり導くことを望まない。神は人が秩序正しく神の言葉と働きに従い、それにより神の心意を満たすことを望んでいる。それなのに人は恥を知らず、常に神に反抗している。わたしたちにとって最善なのは、神を満足させる最も単純な道を見つけること、つまり神の采配に完全に従うことだとわたしは考えている。もしこれを本当に達成できたなら、あなたは完全にされる。これは簡単で喜ばしいことではないのか。進むべき道を選びなさい。他人が言うことは気にせず、考え過ぎてはならない。あなたの未来と運命はあなたの手中にあるのか。あなたは世俗的な道を進みたくて、いつも逃げようとしている。しかし、なぜ逃げられないのか。分かれ道で何年も迷った挙句、結局はまたこの道を選んでしまうのはなぜなのか。何年も横道に逸れた後で、自分でも気づかないうちにまたこの家に戻ってきたのはなぜなのか。これはあなたの判断によるものなのか。この流れの中にいるのに、わたしを信じていないならば、聞きなさい。もしここを去るつもりならば、神がそうさせるか、聖霊があなたをどのように動かすかを見なさい。自分でこれを経験しなさい。率直に言うと、不運に苦しむとしても、この流れの中で苦しまなければならない。もし苦難があるならば、今日ここで苦難しなければならない。あなたは他のどこに行くこともできない。このことをはっきり理解しているのか。一体どこに行こうというのか。これは神の行政命令である。神がこの集団の人たちを選んだことに意味はないと思うのか。今日の働きにおいて、神は簡単に怒ることはないが、人がその計画を邪魔しようとするならば、神の顔は明るい表情から陰鬱な表情に直ちに変わる。だから、腰を落ち着けて神の計画に服し、神があなたを完全にできるようにしなさい。こうする人だけが聡明である。

『神の出現と働き』「道……(7)」(『言葉』第1巻)

637. あなたがたの終着点と運命は、あなたがたにとって極めて重要であり、由々しき懸念である。十分注意して物事を行わなければ、終着点がなくなり、自分で自分の運命を破滅させたことになるとあなたがたは考えている。しかし、自分の終着点のためだけに努力する人は空しい努力をしていることに気が付いたことがあるのか。そのような努力は本物ではなく、虚偽である。その場合、自分の終着点のためだけに努力する人は、今にも最終的な失敗をする極みにいる。なぜならば、神への信仰における失敗は偽りに起因するからである。わたしは媚びへつらわれたり、熱狂的に扱われるのを好まないと前に述べた。わたしの真理や期待と向き合う正直な人をわたしは好む。それ以上に、わたしの心に最大の思いやりと配慮を示し、わたしのために人が何もかも捨て去ることができることを好む。わたしの心が慰められるのは、この方法のみによる。今、あなたがたに関してわたしが嫌いなことはいくつあるのか。今、あなたがたに関してわたしが好むことはいくつあるのか。あなたがたが自分の終着点のために表明したあらゆる醜悪さに、あなたがたの誰も気付いていないということがありえるのか。

わたしの心の中では、肯定的かつ上向きの大志をもつ心に苦痛を与えることを望まず、またとりわけ忠実に自分の本分を尽くしている者の勢力を減衰させることを望まない。しかし、それでもなお、あなたがたの不足や心の一番奥にある汚れた魂をあなたがた一人ひとりに思い起こさせなければならない。そうするのは、あなたがたがわたしの言葉に対峙するときに真の心を捧げられることを望むゆえである。なぜなら、人間のわたしに対する欺きをわたしは最も嫌悪するからである。働きの最終段階において、わたしが望む唯一のことは、あなたがたが最高の成果を披露でき、自己を完全に献身し、もはや半信半疑ではなくなることである。もちろん、あなたがた全員が好ましい終着点を得ることもわたしは望んでいる。それでもなお、わたしには要求がある。それは、あなたがたがわたしにあなたがたの唯一で最終的な献身をすることで最善の決断を下すことである。もし誰かにその唯一の献身がないならば、その人がサタンの大切な所有物であることは確実であり、わたしがその人を用いるために確保することはもはやなく、その人を家に帰し、その両親に世話をさせる。

『神の出現と働き』「終着点について」(『言葉』第1巻)

638. あなたが将来祝福されるか呪われるかは、今日におけるあなたがたの行動と振る舞いを基に決められる。あなたがたが神によって完全にされるのであれば、それはまさに今、この時代に違いない。将来別の機会が訪れることはないだろう。今、神はあなたがたを完全にしたいと真に望んでいる。そして、これは話だけのことではない。将来あなたがたにどのような試練が降りかかろうとも、何が起きようとも、あるいはどのような災害に見舞われようとも、神はあなたがたを完全にすることを願っている。これは議論の余地がない確かな事実である。どこでそれがわかるのか。それは、各時代や各世代を通じ、神の言葉が今日ほどの高みに登ったことがないという事実からわかる。それは最も高い領域に達し、今日の全人類に対する聖霊の働きは前例のないものである。過去の世代の人のうち、このようなことを経験した者はほとんどいない。イエスの時代にさえも、今日の啓示は存在しなかった。あなたがたに語られた言葉、あなたがたが理解していること、そしてあなたがたの経験はどれも新たな頂点に達したのである。試練と刑罰の中、あなたがた人々は立ち去らないが、それだけでも神の働きが前例のない輝きを得た証拠として十分である。それは人間に行なえることでも、人間が維持していることでもない。むしろ、それは神自身の働きなのである。したがって、神による働きの現実の多くから、神が人間を完全にしたいと望んでいること、そして必ずやあなたがたを完全にできることがわかる。あなたがたがこの識見をもち、この新たな発見をするなら、イエスの第二の到来を待つことはないだろう。その代わり、神が現在の時代においてあなたがたを完全にさせられるようにするはずだ。したがって、あなたがた一人ひとりが全力を尽くし、努力を惜しまず、そうすることで神によって完全にされるようにしなければならないのである。

『神の出現と働き』「一人ひとりが自らの役割を果たすことについて」(『言葉』第1巻)

639. 神の願いは、一人ひとりが完全にされ、最終的に神のものとされ、神によって完全に清められ、神に愛される者となることである。あなたがたは後れているとか、素質が乏しいなどとわたしが言おうと、気にすることはない。これはすべて事実である。わたしがこう言っても、それは、わたしがあなたがたを見捨てるつもりであり、あなたがたに望みを失ってしまったという証拠ではなく、ましてや、あなたがたを救う意欲が無い証拠などではない。現在、わたしはあなたがたの救いのための働きをなすために来ており、すなわちそれは、わたしがなす働きは、救いの働きの続きだということだ。完全にされる機会は各人に与えられている。あなたが進んで受け入れるなら、また、あなたが追求するなら、最後には、その成果を挙げることができ、あなたがたの誰一人として見捨てられることはないだろう。もしあなたの素質が乏しければ、わたしはその乏しい素質に合ったことをあなたに要求する。もしあなたの素質が優れているなら、わたしはその優れた素質に合ったことをあなたに要求する。もしあなたが無知で無学なら、わたしはあなたの無学に合ったことを要求する。もしあなたに教養があるなら、わたしはあなたに教養があるという事実に合ったことを要求する。もしあなたが高齢なら、わたしはあなたの年齢に合ったことを要求する。もしあなたに人をもてなすことができるなら、わたしはそれに合ったことを要求する。もしあなたが人をもてなすことはできず、特定の役割しか果たせないと言うのなら、それが福音を伝えることであれ、教会の管理であれ、その他の一般的なことに対応することであれ、あなたが果たす役割に応じて、わたしはあなたを完全にするであろう。忠誠を尽くすこと、最後の最後まで従うこと、神への崇高な愛を求めること――これこそあなたが達成しなければならないことであり、この三つよりすぐれた実践はない。最終的に、人はこれら三つの事を達成することを要求されている。そして、もしそれらを達成できるなら、その人は完全にされるだろう。しかし何にもまして、あなたは真剣に追い求め、消極的になるのではなく、積極的に前に進み、上を目指さなければならない。すべての人に完全にされる機会があり、完全にされることは可能である、とわたしは既に言った。これは事実だが、だがあなたが、自分の追求において向上しようとしない場合は別である。また、もしこれら三つの必要条件を満たすことができないなら、あなたは最後には排除されなければならない。わたしはすべての人が追い付いて、すべての人が聖霊の働きと啓きを得て、最後まで従うことができることを望んでいる。なぜなら、これは、あなたがた一人ひとりが尽くすべき本分であるからだ。あなたがたがみな本分を尽くし終えたとき、あなたがたはみな完全にされ、響きわたるような証しを持つだろう。証しを持っている者たちは皆サタンに勝利し、神の約束を手に入れた人たちである。そして彼らこそ、素晴らしい終着点で生き続ける人たちである。

『神の出現と働き』「人間の正常な生活を回復し、素晴らしい終着点へと導き入れる」(『言葉』第1巻)

640. 全能者のいのちの供給から離れた人類は、存在の目的を知らないが、それでも死を恐れている。支えもなく援助もないが、人類は依然として目を閉じようとせず、自らの魂を感じることもない肉の塊として頑なにこの世における下劣な存在を引きずっている。あなたはこのように何の希望もなく生き、他人も何の目的もなく生きている。伝説のあの聖なる者だけが、苦しみにうめきながら彼の到来を待ち焦がれる人たちを救う。この信念は知覚のない人々においてはまだ実現していない。しかし人々はまだそれを切望している。全能者は深い苦しみの中にあったこのような人々に慈しみを抱く。同時に、全能者は何の知覚もないこのような人々にうんざりしている。なぜなら、人間から答えを得るのに、あまりにも長く待たねばならなかったからである。全能者は探したい、あなたの心と霊を探し、あなたに水と食料を施したい、あなたを目覚めさせたいと思っている。それにより、もはやあなたが渇きと飢えを感じないようにである。あなたが疲れているとき、この世の荒廃のようなものを感じはじめるとき、途方に暮れてはならない、泣いてはならない。全能神という、見守る者がいつでもあなたが来るのを抱擁して迎えるからである。彼はあなたのそばで見守り、あなたが立ち返るのを待っている。あなたが記憶を突然回復する日を待っている。すなわち、あなたが神から来たのであり、いつであったかは不明だが道に迷い、いつであったかは不明だが路上で気を失い、いつであったかは不明だが「父」ができたことに気づく日を。さらに、全能者がずっと見守ってきたということ、とても長い間あなたが帰ってくることを待っていたということに気づく日を。全能者は切実な思いで見守り、そして答えのない応答を待っている。全能者の見守りはきわめて貴重であり、それは人間の心と霊のためである。この見守りは無期限かもしれないし、それは終わりの段階にあるのかもしれない。しかし、あなたは自らの心と霊がたった今どこにあるのかを正確に知らなくてはならない。

『神の出現と働き』「全能者のため息」(『言葉』第1巻)

641. 神の愛と憐れみが経営の働きの隅々に行き渡り、人間が神のよき意図を理解できるか否かに関わらず、神はいまだに疲れを知らず成就しようとする働きを続けている。人々がどれほど神の経営を理解しているかに関わらず、神の働きの恩恵と助けはすべての人が理解することができる。おそらく、今日、あなたは神が与える愛やいのちを一切感じていない。しかし、あなたが神を捨てない限り、真理を追究しようという決意を諦めない限り、神の笑顔があなたに顕れる日は必ず来る。神の経営の働きの目的は、サタンの支配下にある人類を取り戻すことであり、サタンに堕落させられ、神に敵対する人類を見捨てることではないからである。

『神の出現と働き』「附録3:神の経営の中でのみ人は救われる」(『言葉』第1巻)

642. 神による救いの働きが行われている間、救われることが出来る人はすべて、最大限まで救われ、誰ひとりとして見捨てられることはない。神の働きの目的は人を救うことだからである。神による人の救いの期間に、自分たちの性質の変化を達成できない者、また、完全に神に従うことのできない者はみな懲罰の対象となる。この段階の働き、すなわち言葉の働きは、人が理解していないあらゆる道と奥義を人に明らかにし、人が神の心意と神が人に要求することを理解できるようにし、神の言葉を実行に移すための前提条件を人が備えられるようにし、性質の変化を達成できるようにする。神は働きを行うためにだけ言葉を使い、人が少し反抗的だからといって罰したりすることはない。今は救いの働きの時だからである。もし反抗的に振舞えば誰でも罰せられるとしたら、誰にも救われる機会がないだろう。誰もが罰せられ黄泉の国に落ちるだろう。人を裁く言葉の目的は、人が自分自身を知り、神に従うようになることである。それはそのような裁きによって人を罰することではない。言葉の働きの期間、多くの人がその反抗性と反逆性を、また受肉の神への不服従を露わにする。しかし、神はこのためにこれらの人をすべて罰したりはしない。そうではなく神は心の芯まで堕落して、救いようのない人を取り除くだけである。神はそのような人の肉をサタンに与え、数は少なくとも場合によっては肉を始末する。残っている者は従い続け、取り扱いと刈り込みを経験する。従っている間もなお取り扱いと刈り込みを受け入れることができず、ますます堕落していくならば、そのような人は救いの機会を失っている。言葉による征服を受け入れた一人ひとりには救いの機会が豊富にある。これら一人ひとりの神による救いは、彼らへの神の最大限の情け深さを示している。つまり、彼らには最大限の寛容さが示されるのである。人が間違った道から引き返し、悔い改めることができる限り、神は人に神の救いを受ける機会を与える。人が初めて神に反抗した時、神には人を殺そうなどという願望はない。それよりは、神は人を救うためにできる限りのことをする。本当に救う余地がない人であれば、神は取り除く。神がある種の人をすぐには罰しないのは、救われることができる人をすべてを救いたいからである。神はただ言葉によって人を裁き、啓き、導くのであって、杖で人を殺さない。人に救いをもたらすために言葉を使うことは、神の働きの最終段階の目的と意義である。

『神の出現と働き』「地位の祝福は脇に置き、人に救いをもたらす神の心意を理解するべきである」(『言葉』第1巻)

643. この広大な世界で、数え切れないほどの変化が起こっている。大海は変じて田園となり、田園は変じて大海となり、これが何度も繰り返されている。宇宙の万物を統治する方を除いては、この人類を導き案内できる者はいない。この人類のために労したり備えたりできる力ある者は存在せず、ましてや人類を光の終着点へと導き、この世の不正から解放できる者などいるはずもない。神は人類の未来を嘆き、人類の堕落を悲しみ、人類が一歩一歩、滅びと戻ることのできない道に向かって進んでいることに心を痛めている。神の心を引き裂き、神を棄てて邪悪な者を求めた人類、このような人類がどこに向かっているのかを考えたことのある者がいるだろうか。まさにこれこそが、誰も神の怒りを感知せず、誰も神を喜ばせる道を求めようともせず、神のもとへ近づこうとすることもなく、さらには、誰も神の悲しみと痛みを理解しようとしない理由である。神の声を聞いた後でさえ、人は自分の道を歩み続け、頑なに神のもとから離れ去り、神の恵みと配慮を避け、神の真理を避けて、神の敵であるサタンに自身を売ることの方を好む。そして、人がこのまま頑なであり続けるなら、後ろを振り向くこともなく神を見捨てたこの人間に対して神がどのようにふるまうかについて、誰が考えたことがあるのか。神が繰り返し人に思い起こさせ、勧告する理由は、人間の肉体と魂にはとうてい耐えられないような、未だかつてない災難を神はその手に準備しているからだということを知る者はいない。この災難は単に肉体の懲罰だけではなく、魂の懲罰でもある。あなたは知らなければならない。神の計画が無駄になり、神の喚起と勧告に反応が無いなら、神はどのような怒りを注ぐであろうか。それは今までどんな被造物も経験したことも聞いたこともないようなものである。だからわたしは、この災難は前例がなく、二度と繰り返されることはないと言う。なぜなら、神の計画とは今回一度だけ人類を創造し、一度だけ人類を救うことだからである。これが最初であり、また最後である。それゆえ、今回人類を救おうとする神の苦心や切なる期待を理解できる者は一人もいない。

『神の出現と働き』「神は人間のいのちの源である」(『言葉』第1巻)

脚注

a.「岸辺に戻る」とは中国語の慣用句で、「悪の道から離れる」という意味。

前へ: 第1節 人間に対する神の要求

次へ: 第3節 人間に対する神の警告

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