第14章 人間の結末を決める神の基準、および各種の人間の最後についての言葉

675. 人類が安息の中に入る前に、各々の種類の人が罰せられるか、それとも報われるかどうかは、彼らが真理を求めるかどうか、神を知っているかどうか、目に見える神に従うことができるかどうかによって決まる。目に見える神に奉仕してきたが神を知らない人や従わない人はみな真理のない人である。このような人たちは悪を行う人であり、悪を行う人は間違いなく罰を受ける対象である。しかも彼らは、彼らの悪行に応じて罰せられる。神は人による信仰の対象であり、また人が従うに値する存在である。だが、漠然とした目に見えない神だけを信じる人たちはみな神を信じない人たちである。その上、彼らは神に従うことができない。もしこのような人たちが神の征服の働きが終わるときに、依然として、目に見える神を信じることができず、しかも目に見える肉の神に従わず、逆らい続けるなら、このような「漠然派」は疑いなく滅ぼされる。それは、あなたがたのうちにも見られる。つまり、あなたがたのうち、口先では肉となった神を認めるが肉となった神に従うという真理を行うことができない人は誰でも、最後には排除され、滅ぼされる。また、口先では目に見える神を認め、しかも目に見える神が表現した真理を飲み食いするが、漠然とした見えない神を追い求める人はなおさら将来滅ぼされる。このような人々の誰も、神の働きが終わった後の安息の時まで生き残ることができない。このような人はだれも安息の時まで生き残ることができない。悪魔の類の人はみな真理を実行しない人である。彼らの本質は神に逆らい、不従順なものであって、彼らは神に従う意図が少しもない。この様な人々はみな滅ぼされる。あなたが真理をもっているかどうか、神に逆らっているかどうかは、あなたの本質によって決まるのであり、あなたの外貌あるいは時折の言行によって決まるのではない。人が滅ぼされるかどうかは、その人の本質によって決まる。すなわち、彼らが事を行い、真理を追い求める過程で外に現れる本質によって決まるのである。同様に働きをし、しかも同じ程度の量の働きをする人々のうち人間性の本質が善であり真理を持っている人々が生き残る人々であり、人間性の本質が悪であり、目に見える神に背く者は、滅ぼされる人々である。人類の終着点に向けられた神の働き及び言葉の何もかもが、人類を、各人の本質に従って適切に取り扱う。そこには何の偶然も無ければ、無論僅かな誤りもない。人が働きを行うときにのみ、人間の感情や意味が混じるのである。神が行う働きは最適である。神はいかなる被造物についても事実を歪曲して罪に陥れることは決してない。

『神の出現と働き』「神と人は共に安息へと入る」(『言葉』第1巻)

676. 死んだ人の魂であれ、肉としてまだ生きている人であれ、すべての悪を働く者、すべての救われなかった者は、人類の中の聖なるものたちが安息の中に入る時、滅ぼされる。これらの、悪を働く魂と悪を働く人々、或いは義人の魂と義を行う人々が、どんな時代に属していたとしても、悪を行う者はみな滅ぼされ、義なる人はみな生き残る。人あるいは魂が救いを受けるかどうかは、終わりの時代の働きによってのみ決まるのではなく、むしろ、彼らが神に逆らってきたかどうかあるいは神に背いてきたかどうかによって確定されるのである。もし前の時代の人が悪を働き、救われなかったなら、彼らは間違いなく罰を受ける対象になる。もし今の時代の人が悪を働き、救われないなら、彼らもまた、確実に罰の対象になる。人々は、善と悪にもとづいて分離されるのであって、時代にもとづいて分離されるのではない。ひとたび、善と悪によって分離されたら、人々は直ちに罰を受けたり報いを与えられたりするのではない。むしろ神は、終わりの日における征服の働きを遂行した後はじめて、悪を行う者を罰し、善を行う者に報いる働きを行う。実は、神が人類に対して働きをはじめた時からずっと、神は人類を分けるために善と悪を用いている。神は自身の働きを終えて初めて、義なる人を報い、悪である者を罰するのである。最後に働きを終えて悪者と義人を分けて、それからすぐ悪を罰し、善に報いる働きに着手するのではない。悪を罰し、善に報いるという神の最終的な働きは、全て全人類を完全に清めるために行われる。そうすることによって、完全に清くなった人類を永遠の安息に導き入れることができる。神のこの段階の働きは最も重要な働きであり、神の経営の働き全体の最後の段階である。

『神の出現と働き』「神と人は共に安息へと入る」(『言葉』第1巻)

677. 人が人を判断する基準は人の振る舞いである。行いが善い者は義なる人であり、行いが悪い者は邪悪な者である。神が人を判断する基準は、その本質が神に従順であるかどうかである。つまり、その人の振る舞いが良いか悪いか、語る言葉が正しいかそうでないかに関わらず、神に従順な者は義であり、不従順な者は敵であり、悪者である。一部の人は善い行いによって未来のよい終着点を獲得しようと思い、一部の人はよい言葉によって未来のよい終着点を手に入れたいと考える。人々はみな、神が人の行い、或いは人の言葉によって人の結末を定めると間違った信じ方をし、ゆえに多くの人は偽ってこれらを用いて恵みを獲得しようとする。後に安息の中で生き残る人々はみな苦難の日を経験し、しかも神のために証しをしてきた人である。彼らはみな自分の本分を果たしてきた人であり、神に従おうとする人である。仕える機会を利用して真理の実践を免れようと思う人たちはみな、生き残ることができないだろう。神がすべての人の結末を定めるのは、適切な基準に基づいている。神は人の言行だけに基づいてそれを決定するのでもなく、一定の期間の行いに基づいて決定するのでもない。神は人がかつて神に仕えたからといって、そのすべての悪行に対して寛大に対処することは決してなく、また、人が神のために一時費やしたからといって彼の死を免除することもない。だれ一人として自分の悪の報いから逃れられず、また、だれ一人として自分の悪行を隠して滅びの苦しみから逃れることもできない。もし人が本当に自分の本分を果たすことができるのであれば、祝福を受けるにしろ不運に苦しむにしろ、その人が神に永遠に忠実であり、報いを求めないという意味である。祝福が見えれば神に忠実であり、祝福が見えない時は忠実ではなくなり、結局神のために証しをすることができず、尽くすべきように本分を尽くすこともできないこのような人たちは、かつては神に忠実に仕えた人であっても、やはり滅ぼされる。要するに、邪悪な者は永遠に生きることはできず、安息の中に入ることもできない。義なる人のみが安息の主人である。

『神の出現と働き』「神と人は共に安息へと入る」(『言葉』第1巻)

678. 人が祝福を受けるか、それとも災いを受けるかは、その人の本質によって決まるのであって、その人がほかの人と共有する本質によって決まるのではない。神の国にはそのような言い習わしも規則もない。人が最後に生き残ることができるのは、その人が神の要求を満たしたからである。そして、人が最終的に安息の時を生き残ることができないのは、その人自身が神に背き、神の要求を満足させていないからである。どの人にもふさわしい終着点がある。この終着点は各人の本質によって決まるのであり、ほかの人とは全く関係がない。子供の悪行が親になすりつけられることはなく、子供の義も親と共有することはできない。親の悪行は子供になすりつけられることはなく、親の義も子供と共有することはできない。誰もが自分の罪を担い、誰もが自分の幸運を享受する。だれもほかの人の代わりをすることができない。これが義である。人間の考えは、親が幸運を手に入れれば子供も幸運を得ることができ、子供が悪を行えば親がその罪を償わなければならないというものである。これは人の見方であり、やり方である。神の見方ではない。どの人の結末もその人の行動からくる本質によって定められるのであり、それは常に適切に定められるのである。誰も他人の罪を担うことができず、他人の代わりに罰を受けることはなおさらできない。これは絶対的なことである。親は子供をかわいがるが、それは親が子供の代わりに義を行うことができるということではなく、また、子供が親に孝行しても、親の代わりに義を行うことができるということではない。これは「ふたりの者が畑にいると、ひとりは取り去られ、ひとりは取り残されるであろう。ふたりの女がうすをひいていると、ひとりは取り去られ、ひとりは残されるであろう」という言葉の背後にある真の意味である。子供をとても愛するがゆえに、悪を行う子供を安息の中に連れていくことができる者は一人もおらず、自ら義を行うがゆえに自分の妻(或いは夫)を安息の中に連れていくことができる者も一人もいない。これは神の行政上の規則であり、一人として例外はいない。義を行う者はつまるところ義を行う者であり、悪を行う者はつまるところ悪を行う者である。義を行う者は生き残ることができ、悪を行う者は滅される。聖なる者は聖なる者である。彼らは汚れた者ではない。汚れた者は汚れた者であって、聖なる要素が少しもない。悪を行う人の子供が義を行なっても、義人の親が悪を行なっても、邪悪な者はすべて滅ぼされ、義人はすべて生き残る。信仰深い夫と不信仰な妻はもともと関係がなく、信仰深い子供と不信仰な親はもともと関係がない。彼らは相容れない二種類の人である。安息の中に入る前に人には肉親があるが、ひとたび安息の中に入ると、もはや語るべき肉親はなくなる。本分を尽くす者と、本分を尽くさない者は敵であり、神を愛する者と、神を憎む者は敵対する。安息の中に入る者と、滅ぼされた者は相容れることのできない二種類の被造物である。本分を尽くす被造物は生き残ることができ、本分を尽くさない被造物は滅ぼされる。さらに、これは永遠に続く。

『神の出現と働き』「神と人は共に安息へと入る」(『言葉』第1巻)

679. 悪を行う人と、義を行う人はみな、結局のところ被造物である。悪を行う被造物は最後には滅ぼされ、義を行う被造物は生き残る。これは二つの種類の被造物に対するいちばん適切な取り決めである。悪を行なう者は、これまで不従順であったから、彼らが神の創造物であってもサタンによって略奪されてしまい、かくして救われることが不可能になったことを否定できない。義を行う被造物は生き残るが、彼らが神に造られながらもサタンに堕落させられた後に救いを受けたという事実は否定することができない。悪を行う者は神に背く被造物である。彼らは救われることがなく、しかもすでにサタンに徹底的に略奪された被造物である。悪を行う人もまた人である。彼らは極めて深く堕落させられた人であり、救われることのない人である。同じく被造物であり、義を行う者も堕落させられた人であるが、彼らは進んで堕落した性質を脱ぎ捨てようとする人であり、神に従うことができる人である。義を行う人は義で満ちた人ではない。彼らは救いを受け取り、堕落した性質を脱ぎ捨てて神に従う人である。彼らは最後にしっかりと立つことができるが、それは彼らがサタンに堕落させられなかったということではない。神の働きが終わった後、すべての被造物の中には、滅びる者もいれば、生き残る者もいる。これは神の経営の働きの必然的流れである。これはだれも否認できないことである。悪を行う者はみな生き残ることができず、最後まで神に従順でつき従う者は、確実に生き残る。これは、人類を経営する働きであるから、生き残る者もいれば排除される者もいる。これは異なる種類の人々の異なる結末であり、被造物に対するいちばんふさわしい取り決めである。

『神の出現と働き』「神と人は共に安息へと入る」(『言葉』第1巻)

680. わたしは地上において、わたしの追随者となる多くの者を求めてきた。これらの追随者の中には、祭司として仕える人々、先導する人々、神の子、神の民、奉仕をする者たちがいる。彼らがわたしに示す忠誠に基づき、わたしは彼らを分類する。すべての者が種類に準じて分類されたとき、つまり、人間のそれぞれの種類の本性が明らかにされたとき、人類に対するわたしの救いの目的を達成するために、わたしは彼らの一人ひとりをそれぞれしかるべき区分の中に含め、種類ごとに相応しい場所につかせる。わたしが救いたい者をそれぞれの集団ごとにわたしの家に招き、これらの人々すべてが終わりの日のわたしの働きを受け取れるようにする。同時に、わたしは彼らを種類に従って分類し、一人ひとりをその行いに基づいて報いるか、あるいは懲罰する。これがわたしの働きを成す歩みである。

『神の出現と働き』「招かれる者は多いが、選ばれる者は少ない」(『言葉』第1巻)

681. さて、あなたは、なぜあなたがわたしを信じるか本当に知っているだろうか。あなたはわたしの働きの目的と意義を本当に知っているだろうか。あなたは自分の本分を本当に知っているだろうか。あなたはわたしの証しを本当に知っているだろうか。もしあなたが単にわたしを信じ、わたしの栄光もわたしの証しもあなたの中に見ることができないなら、わたしはとうの昔にあなたを排除していた。そのことをすべて知っている者たちに関して言えば、彼らはわたしの目にはイバラでさえあり、わたしの家では、彼らは単に躓きの石でしかない。彼らは少しも役に立たず、重要でないので、わたしの働きにおいて完全に選り分けなければならない毒麦である。わたしはずいぶん前に彼らを忌み嫌ってきた。証しをしないこれらの者たちに関して、わたしの怒りは永遠にあり、わたしのむちは彼らから離れることは決してない。わたしはずいぶん前に彼らを悪者の手に渡し、彼らはわたしの祝福を少しも持っていない。その日、彼らの刑罰は愚かな女たちの罰よりはるかに痛みを伴う。今、わたしはわたしの義務である仕事だけしている。わたしはすべての麦を毒麦と共に束に縛る。これが今のわたしの仕事である。それらの毒麦はわたしが選び出している時にすべて選別され、麦粒は倉庫に集められ、選り分けられた毒麦は火の中で燃やされ灰となる。わたしの今の仕事はあらゆる人たちをただ束に縛ることで、つまり完全に彼らを征服することだけである。それから、すべての人たちの最後を明らかにするために選別を始めよう。

『神の出現と働き』「あなたは信仰について何を知っているか」(『言葉』第1巻)

682. 追い求める人々と追い求めない人々は今や、2つの異なるタイプの人々であり、彼らは2つの異なる終着点をもつ2つのタイプの人々である。真理に関する認識を追求し、真理を実行する人々は神に救われる者である。真の道を知らない人々は、悪魔であり敵である。彼らは天使長の後裔であり、滅ぼされる。漠然とした神を信じる敬虔な信徒であっても、悪魔ではないだろうか。良心があるが真の道を受け入れないような人々は悪魔である。彼らの本質は神に逆らうものである。真の道を受け入れないような人々は、神に逆らう者である。このような人はたくさんの苦しみに耐えていたとしても、彼らはやはり滅ぼされる。この世を捨てたがらず、父母を離れることに耐えられず、肉の喜びを捨てられないような人々はみな神に従順ではなく、みな滅ぼされる。肉となった神を信じない人はみな悪魔であり、彼らが滅ぼされるのはなおさらである。信じるが真理を行わない人々、肉となった神を信じない人々、神の存在を全く信じない人々はみな、滅ぼされる。生き残ることができる人はみな、精錬の苦しみを受けても堅く立って耐え抜いた人である。これは、本当に試練を経た人である。神を認めない人はみな敵である。すなわち、受肉した神を認めない者はだれでも、この流れの中にあってもなくても、みな反キリストである。神を信じない反抗者でないならば、サタンや悪魔、神の敵となることなどないはずだ。彼らは神に背く者ではないのか。口先だけで信じると言うが真理を持っていない人たちではないのか。祝福を受けることだけは追い求めるが、神のために証しをすることができない人たちではないだろうか。今日あなたは依然としてこのような悪魔と付き合い、良心と愛を悪魔に向けている。そうであれば、あなたはサタンに善意を示しているのではないか。それは、悪魔に同調すると考えられないだろうか。依然として善悪を区別できず、神の旨を求めようとすることも、どんな形であれ神の意図を自分のものとして抱けるようになろうとすることもないまま、無闇に愛情深く、慈悲深くあり続けるなら、そのような人の結末はもっと悲惨だろう。

『神の出現と働き』「神と人は共に安息へと入る」(『言葉』第1巻)

683. 神を冒涜したり、神に抵抗したり、果ては神を中傷さえしたりする人々、つまり、意図的に神を攻撃したり、中傷したり、呪ったりした人々に対し、神は見ないふりをすることも、聞こえないふりをすることもありません。むしろ、そのような人たちに対する明確な姿勢があります。神はこうした人々を嫌悪し、心の中で断罪します。そして、神には自身を冒涜した人に対する明確な姿勢があること、およびそのような人の結末を神がどう定めるかを人々に知らしめるべく、神は彼らの結末を公然と明らかにします。しかし人は、神がそれらを述べたあとも、神がこうした人々をどのように取り扱うかに関する事実をほとんど理解できず、神が彼らに下す結末や審判の裏にある原則を認識できません。つまり人々は、神が彼らを取り扱う際の具体的な姿勢や手段を理解することができないのです。そのことは、神が業を行なう際の原則と関係しています。神は事実を生じさせることで、一部の人の邪悪な行ないを取り扱います。つまり、神は彼らの罪を宣告するのでも、彼らの結末を定めるのでもなく、事実を生じさせることで懲罰と正当な報いを直接彼らに与えているのです。こうした事実が生じるとき、その懲罰を受けるのは人の肉体ですが、そのことは、その懲罰が人間の目に見えるものであることを意味しています。一部の人々の邪悪な行動を取り扱うとき、神は言葉によって彼らを呪い、それと同時に神の怒りが彼らに及びますが、彼らが受ける懲罰は人の目には見えないものです。それにもかかわらず、この種の結末は、罰せられたり殺されたりといった目に見えるもの以上に深刻な場合があります。このような人を救わない、このような人にこれ以上慈悲や寛容さを示さず、機会を与えることもしないと神が判断したなら、彼らを見捨てるというのが神の姿勢です。ここで言う「見捨てる」とはどのような意味ですか。その言葉の基本的な意味は、「脇にのけてこれ以上注意を払わない」というものです。しかし、神が何かを「見捨てる」場合、その意味は二通りに説明することができます。一つ目の説明は、その人のいのちと、その人に関する一切のものを、神がサタンに与えて取り扱いを任せ、その人にそれ以上責任を負わず、管理することもないというものです。その人が狂気に取り憑かれていたり、愚かであったりしても、あるいは生きていても死んでいても、または地獄に落とされて懲罰を受けていても、そのどれも神には関係なくなるのです。つまり、そのような被造物は創造主と何ら関係がなくなるという意味です。二つ目の説明は、神がその人に対し、自らの手で何かを行なうと決めた、というものです。その人の奉仕を利用したり、彼らを引き立て役として用いたりすることもあるでしょう。または、神にはこの種の人を取り扱う特別な方法があり、パウロに対してそうしたように、特別な方法でその人を扱うかもしれません。この種の人を取り扱うと判断した際、神の心の中には以上の原則と姿勢があります。したがって、人々が神に抵抗し、神を中傷、冒涜したとき、あるいは神の怒りを買ったり、我慢の限界を超えさせたりしたとき、その結末は想像を絶するものになります。神が彼らのいのち、彼らにまつわる一切のことを永遠にサタンに委ねるというのが、最も深刻な結末です。このような人は永遠に赦されません。そのことは、この人物がサタンの餌食になり、玩具になり、そして今後は神と無関係になることを意味します。

『神を知ることについて』「神の働き、神の性質、そして神自身 III.」(『言葉』第2巻)

684. 今こそ、わたしが一人一人の終わりを決めるときであり、人間への働きを開始する段階ではない。一人一人の言動、わたしに従うためにたどった道、生来の属性や最終的にどのようにふるまったかをわたしは記録帳に一つずつ書き留める。こうすることで、どのような人であってもわたしの手から逃れることはなく、みながわたしが定めるように同類の人と共にいることになる。わたしは、一人一人の終着点を、年齢や年功、苦しみの量、とりわけ憐れみを誘う度合いではなく、真理を自分のものにしているかどうかに基づいて決める。これ以外の選択肢はない。神の旨に従わない人はみな懲罰されることをあなたがたは悟らなければならない。これは不変の事実である。よって、懲罰される者はみな神の義ゆえに、その数々の邪悪な行為への報いとして懲罰されるのである。

『神の出現と働き』「終着点のために十分な善行を積みなさい」(『言葉』第1巻)

685. 裁きとは何か、真理とは何かをいま理解しているか。もししているならば、裁かれることに従順に従うよう強く勧める。さもなければ、神に称賛され、神の国に連れて行かれる機会を得ることは決してないであろう。裁きを受け入れるだけで清められることのできない人、つまり裁きの働きの只中において逃げる人は、永遠に神に嫌われ拒絶される。彼らの罪は、パリサイ人の罪よりもさらに多く、深刻である。彼らは神を裏切り、神の反逆者だからである。奉仕することさえ相応しくないそのような人は、さらに過酷で、加えていつまでも終わることのない懲罰を受ける。言葉では一度は忠誠を誓いながらその後、神を裏切った反逆者を神は容赦することはない。このような人は霊、魂、体の懲罰を通して報復を受けることになる。これこそ、神の義なる性質の明示ではないのか。これが人を裁き、明らかにする神の目的ではないのか。神は裁きのあいだにあらゆる邪悪な行いをする人々すべてを邪悪な霊がはびこる場所に引き渡し、邪悪な霊に彼らの肉体を好きなように破壊させる。彼らの肉体は死臭を放つ。これは彼らにふさわしい報復である。神は、それら不忠実な偽信者、偽使徒、偽働き人の罪を一つひとつその記録書に書き留める。そして、その時が来ると、神は彼らを不浄な霊の真中に投げ入れ、不浄な霊が彼らの全身を思うままに汚すようにし、そのため彼らは決して生まれ変わることはなく、二度と光を見ることはない。一時期は神に仕えるが最後まで忠実であり続けることのできない偽善者は、神が邪悪なものに含めて数え、そのため彼らは悪人の言いなりとなり、烏合の衆の一部となる。最後には神は彼らを滅ぼす。キリストに忠実であったことがない人、自らの強みをもって何らの貢献をしたことのない人を神は脇へやり、省みることはなく、時代が変わるときに彼らをすべて滅ぼす。彼らはもはや地上には存在せず、神の国へ入ることなどなおさらありえない。神に誠実であったことはないが、状況のせいで強制的に神を表面的に取り扱うことになった人は、神の民のために奉仕する人に含めて数えられる。これらの人々のうちほんの一部だけが生き残るが、大半は奉仕をする規準にさえ達しない人々とともに滅ぶ。最後に、神と同じ考えをもつ人すべて、神の民と子ら、そして神に祭司となるよう予め定められた人々を、神は神の国に連れて行く。彼らは神の働きの結晶となる。神が制定した範疇のどれにも当てはめることのできない人は、未信者に含めて数えられる。彼らの結末がどうなるか、あなたがたは確実に想像できることであろう。わたしは既に言うべきことをすべてあなたがたに語った。あなたがたが選ぶ道は、あなたがただけの選択である。あなたがたが理解するべきことはこれである。神の働きは神と足並みをそろえることのできない人を誰も待たず、神の義なる性質はどんな人にも憐れみを示さない。

『神の出現と働き』「キリストは真理をもって裁きの働きを行う」(『言葉』第1巻)

前へ: 第3節 人間に対する神の警告

次へ: 第15章 神の国の美しさと人類の終着点に関する預言、および神の約束と祝福についての言葉

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