第11節 いかに神の認識へと至るかについて

453. 三つの段階の働きが人類を救う神の働きの全てなのだ。人は、人類を救う働きの中で、神の働き、そして神の性質を認識しなければならず、この事実なしには、あなたの神に対する認識は、ただ無意味な言葉でしかなく、机上の空論にすぎない。そのような認識では、人を納得させることも征服することもできず、そのような認識は実情にそぐわないし、また真理でもない。その認識がたとえ十分で、聞こえの良いものであっても、神の元来の性質と合致しないのであれば、神はあなたを容認しない。神はあなたの認識を称賛しないだけでなく、神を冒涜した罪人としてあなたに天罰を下す。神を認識する言葉は軽々しく語られるものではない。たとえあなたが流暢で弁が立ち、あなたの言葉が優れているために黒いものを白いと、白いものを黒いと議論して説得できるとしても、神に対する認識を語ることに関しては素人同然である。神は、あなたが急いで判断を下したり、気軽に褒めたり、また無頓着に中傷したりできる対象ではない。あなたは誰でもどんな人でも褒めるが、それでもなお神の大徳と恩恵を描写する適切な言葉に悪戦苦闘し、これは全ての失敗者が体験することなのである。神を描写することのできる言語の専門家は大勢いるが、その描写の正確さは、神に属し、限られた語彙しか持たずとも豊かな経験を身に着けている人々によって語られる真理の百分の一にすぎない。よって神への認識は、巧みに言葉を使うことや豊富な語彙によるものではなく、正確さと現実性にかかっていること、また人の知識と神への認識は、全く関係がないことが見て取れる。神を認識するという学びは、人類のどの自然科学よりも高尚である。それは、神を認識することを探し求める非常に少数の人間によってのみ達成できる学びであって、才能があれば誰でも達成できるわけではない。よってあなたがたは、神を認識することと真理を追求することを、ほんの子供でも達成できる、という見方をしてはならない。あなたは、家庭生活、仕事の経歴あるいは結婚生活においては完全に成功を収めているかもしれないが、真理および神を認識する学びに関しては、自分では見せられるものは何も持たないし、また何の成果も上げていない。真理を実践するとはあなたがたにとって非常に難しいことであり、神を認識することは更に困難な問題であると言ってよい。これはあなたがたにとって困難なことであり、同時に人類全体が直面している難事である。神を認識するために何らかの達成した人たちの中で、標準レベルに達する人はほとんどいない。人間は、神を認識することが何を意味するのか、あるいはどうして神を認識する必要があるのか、またはどの程度で神を認識していると見なせるのかを知らないのである。これは人類を非常に困惑させるものであり、ごく簡単に言うと人類が直面する最大の謎であり、誰もこの質問に答えることができないし、誰も進んで答えようとはしないのだが、その理由は、今日まで人類のうち誰一人としてこの働きの研究に成功したことがないからだ。おそらく、三つの段階の働きの謎が人類に明らかにされるときは、神を認識する才能集団を成す人たちが次々と現れるだろう。もちろん、そうなることをわたしは望むし、さらにわたしはこの仕事を実践中であり、近い将来そのような人材がもっとたくさん現われることを願う。彼らは、三つの段階の働きの事実を証しする者となり、そしてもちろん、三つの段階の働きを証しする最初の者となるだろう。神の働きが終わる日になって、もしそのような才能ある者がいなかったならば、あるいは一人か二人しかいなかったならば、そしてこの一人か二人は受肉した神によって完全にされることを自ら受け入れていたとしたら、これ以上悲しく、また悔やまれることはない。もちろんこれは最悪のシナリオにすぎないが。いずれの場合も、真剣に追及する者がこの祝福を得られることを願う。世の始まりの時から、このような働きはかつて一度も存在しなかったし、人類の発展の歴史の中で、かつてなかった仕事である。もしあなたがたが本当に最初に神を認識する者達の一人になることができるならば、被造物全ての中で、最も名誉なことではないだろうか。人類のなかで神によってこれ以上に称賛される人がいるだろうか。このような仕事は簡単に達成できるものではないが、それでも最終的には成果を収める。性別や国籍に関わらず、神を認識することのできる人々は皆、最後に神から最高の名誉を受けるだろうし、また神の権威を備える唯一の者たちとなる。これが今日の仕事であり、未来の仕事でもあるが、要はこれが最終の、また過去六千年の働きの中で達成される最高の仕事ということであり、それによって人間の各区分を明らかにする仕事の一手段である。人に神を認識させるための働きを通して、人の異なるランクが明らかにされる。つまり、神を知る者は神の祝福を受け、神の約束を受け取る資格があるが、一方で、神に対する認識を持たない者は神の祝福を受ける資格、神の約束を受け取る資格がないことになる。神を知る者は、神の知己であり、神に対して認識を持たない者は神の知己とは呼ばれない。すなわち、神の知己は、神のあらゆる祝福を受けることができるが、神の知己でない者は、神の働きのどれにも値しない。苦難であれ、精錬あるいは裁きであれ、全ては人が最終的に神に対する認識を得られるようにするためであり、人が神に服従するようになるためである。これが最終的に達成される唯一の成果である。

『神の出現と働き』「神の三段階の働きを認識することは、神を認識する道である」(『言葉』第1巻)

454. 神が所有するもの、神の存在そのもの、神の本質、神の性質――これらはすべて、神の言葉の中で人間に知らしめられています。神の言葉を体験するとき、人間はその言葉を実践に移す過程で、神が語る言葉の背後にある目的と、その言葉の根源や背景を理解するようになり、そしてその意図された効果を理解し認識するようになります。こうしたことはすべて、真理といのちを得て、神の意図を把握し、性質を変えられ、神の支配と采配に服従できるようになるために、人間が経験し、把握し、獲得しなければならないことなのです。こうしたことを経験し、把握し、獲得すると同時に、人間は徐々に神を理解するようになり、そしてそのときには神に関する認識もさまざまな程度で獲得しています。この理解と認識は、人間が想像したり作り上げたりした物事からではなく、心の中で理解し、経験し、感じ、確認した物事から生まれます。そうした物事を理解し、経験し、感じ、確認して初めて、人間の神に関する認識は中身のあるものとなります。このときに人間が得る認識だけが、実際的で現実的かつ正確であり、そしてこの神の言葉を理解し、経験し、感じ、確認することで神に関する真の理解と認識を得るという過程こそが、まさしく人間と神との真の交わりなのです。こうした交わりの中で、人は神の意図を真に理解し把握し、神の所有するものと神の存在そのものを真に理解し知るようになり、神の本質を真に理解し知るようになるとともに、神の性質を徐々に理解し知るようになって、神があらゆる創造物を支配しているという事実についての確信と正しい定義に到達し、神の身分と地位についての確かな姿勢と認識を得ることになります。こうした交わりの中で、人の神に関する考えは徐々に変化し、人は根拠もなく神について想像したり、神への疑念を勝手に膨らませたりすることをやめ、神を誤解したり、罪に定めたり、神を裁いたり、疑ったりもしなくなります。その結果、神と議論することや対立することが減り、神に反抗する機会も減ります。そして逆に神への思いやりと服従が強くなり、神への畏敬の念がより現実的で深遠なものとなっていきます。こうした交わりの中で、人間は真理の供与といのちの洗礼を受けるだけでなく、同時に神に関する真の認識を得ることになります。こうした交わりの中で、人間はその性質を変えられて救いを得るだけでなく、同時に被造物としての神に対する真の畏敬と崇拝を獲得することになります。こうした交わりを経ることで、神への信仰はもはや白紙の状態でも、言葉だけの約束でも、一種の盲目的な追求や偶像化でもなくなります。こうした交わりによってのみ、人間のいのちは成熟に向かって日々成長することになり、そのとき初めてその性質が徐々に変えられて、神への信仰は漠然とした不確実なものから、少しずつ本物の服従と思いやりへ、本物の畏敬へと変化していきます。そして神に付き従う過程で、人は次第に消極的な態度から積極的な態度へ、否定的な者から肯定的な者へと進歩していきます。このような交わりによってのみ、人間は神に関する真の理解と把握、そして真の認識に到達するのです。

『神を知ることについて』「序文」(『言葉』第2巻)

455. 神の権威と力、神自身の身分、および神の本質に関する認識は、人間の想像に頼ったところで得られません。神の権威を知る上で想像に頼れないのであれば、どうすれば神の権威に関する真の認識を得られますか。それは神の言葉を飲み食いすること、交わりを行なうこと、そして神の言葉を経験することです。そうすることで、あなたは徐々に神の権威を経験してそれを確かめ、神の権威に関する認識を次第に積んでゆくのです。神の権威を認識するにはこの方法しかなく、近道はありません。あなたがたに想像を行なわないよう求めたとしても、それは何もせずひたすら滅びを待つようにさせることでも、あらゆる行動を禁止することでもありません。自分の頭脳で考えたり想像したりするのを避けることは、論理を用いて推測したり、知識を用いて分析したり、科学を根拠としたりせず、その代わり、自分の信じる神に権威があること、神が自分の運命を支配していること、そして神は唯一の神自身であると、神の力が常に証明していることを、神の言葉を通じて、真理を通じて、そして生活の中で直面するすべてのことを通じて理解し、確かめ、納得するということです。これが神を認識する唯一の方法なのです。中には、その目的を達成する簡単な方法を見つけたいという人もいますが、そのような方法を考えつくことはできますか。考えるまでもなく、それ以外の方法は存在しません。神が発する一つひとつの言葉、神が行なう一つひとつの業を通じ、神が所有するものと神そのものを誠実に、かつ着実に認識して確かめるのが唯一の方法です。神を知るにはこの方法しかありません。なぜなら、神が所有するものと神そのものは空虚なものではなく、現実のものだからです。

『神を知ることについて』「唯一無二の神自身 I.」(『言葉』第2巻)

456. 神は裁きと刑罰の働きを行なうが、それは人が神についての認識を得られるようにするためであり、また神の証しのためでもある。神が人の堕落した性質を裁かなければ、人は犯すべからざる神の義なる性質を知ることができず、神についての古い認識を新たにすることもできない。神はその証しのため、そして神の経営(救い)のため、その存在すべてを公にし、それによって人は、その神の公的な出現を通して、神の認識に到達し、性質を変化させ、明確な神の証しを立てられるようになる。人の性質の変化は、神のさまざまな働きを通して成し遂げられる。そのような性質の変化なくして、人は神の証しを立てることができず、神の心にかなうこともできない。人の性質の変化は、人がサタンの束縛と闇の影響から解放され、真に神の働きの見本かつ標本、神の証人、そして神の心にかなう者となったことを意味する。今日、受肉した神はその働きを行なうため地上に到来した。そして神は、人が神を認識し、神に服従し、神の証しとなって、神の実際的な普通の働きを知り、人の観念と合致しない神の言葉と働きのすべてに従い、神が人間を救うために行なうあらゆる働きと人間を征服するために成し遂げるあらゆる業の証しをすることを求めている。神の証しをする人々は、神についての認識を持たなければならない。この種の証しだけが正確かつ現実的であり、この種の証しだけがサタンを恥じ入らせることができる。神はその裁きと刑罰、取り扱いと刈り込みを経験することで神を知るようになった人々を用いて、自らを証しさせる。神はサタンにより堕落させられた人々を用いて自らを証しさせると同時に、性質が変わったことで神の祝福を得た人々を用いて自らを証しさせる。神は人による口先だけの称賛を必要とせず、神に救われていないサタンの同類による称賛や証しも必要としない。神を知る人々だけが神の証しをする資格があり、その性質が変化させられた人々だけが神の証しをする資格がある。神は人が意図的に神の名を汚すことを許さない。

『神の出現と働き』「神を知る者だけが神に証しをすることができる」(『言葉』第1巻)

457. 神の本質を知るようになることは、ささいな事ではないのである。あなたは、神の性質を理解しなければならない。そうすることによって、知らないうちに神の本質を少しずつ認識するようになるだろう。これを認識するとき、あなたはより高尚で、より美しい状態へと邁進するだろう。最後には、自分の醜悪な魂を恥だと感じるようになるであろう。さらには、その恥から隠れられる場所がどこにもないと感じるだろう。その時、あなたの行為において神の性質を侵害することがますます減り、あなたの心はますます神の心に近づき、徐々に神への愛が心の中に育つであろう。これは、人類が美しい状態に入っているしるしである。しかし、あなたがたはまだこの状態に達していない。あなたがたは皆、自分の運命のためにあちこち奔走しているが、努めて神の本質をよりよく知ろうと思う者がいるだろうか。この状態が続くならば、神の性質をほんのわずかしか分かっていないために、無意識のうちに行政命令に背くことになるだろう。今あなたがたが行なっていることは、神の性質を侵害する行為の礎を築くことではないだろうか。あなたがたに神の性質を理解するよう求めることは、わたしの働きに相反するものではない。と言うのは、頻繁に行政命令に背くならば、あなたがたのうち懲罰を逃れることができる者がいるであろうか。そうならば、わたしの働きの全てが無駄になるのではないか。このため、わたしは今もあなたがた自身の行いを入念に吟味することに加え、自らの歩みに注意を払うようにあなたがたに求めるのである。これは、あなたがたに対するより高度な要求であり、あなたがたが皆これについてよく考え、真剣に扱うことを願う。あなたがたの行いがわたしの激しい怒りを買う日が来るならば、その結果はあなたがただけが考慮するものであり、あなたがたの代わりに罪を負う人は他にいないのである。

『神の出現と働き』「神の性質を理解することは極めて重要である」(『言葉』第1巻)

458. 神を知るとはどういうことでしょうか。それは神の喜び、怒り、悲しみ、幸せを人間が理解できることを意味します。それが神を知ることです。あなたは神を見たことがあると言いますが、神の喜び、怒り、悲しみ、幸せを理解しておらず、神の性質も理解していません。また、神の義も憐れみ深さも理解しておらず、神が何を喜び何を嫌うかも知りません。これは神を知っていることではありません。ゆえに、中には神に従うことができる人もいますが、そのような人が本当に神を信じられるとは限りません。そこに違いがあります。神を知り、理解し、神の旨の一端を把握できれば、あなたは真に神を信じ、神に服従し、神を愛し、崇拝することができます。こうしたことを理解していなければ、あなたはただ流れに身を任せる追随者に過ぎませんそれを真の服従、真の崇拝と呼ぶことはできないのです。真の崇拝はどのように生じますか。神を本当に知る人はみな例外なく、神を見て崇拝し、神を畏れます。そうした人はみな、ひれ伏して神を崇拝せずにはいられないのです。現在、受肉した神が働きを行なっている一方で、受肉した神の性質、および彼が所有するものと彼そのものについて理解すればするほど、人はますますそれらを大事にし、受肉した神を畏れるようになります。一般的に、理解が少なければ少ないほど軽率になり、ゆえに神を人間として扱います。真に神を知り、神を見たならば、人は畏れで身体を震わせるでしょう。なぜヨハネは、「わたしのあとから来る人はわたしよりも力のあるかたで、わたしはそのくつをぬがせてあげる値うちもない」と言ったのでしょうか。彼は心の奥にそれほど深い理解をもってはいませんでしたが、神が畏れを生じさせることは知っていたのです。今日、どれほど多くの人が神を畏れることができるでしょうか。神の性質を知らなければ、どうして神を畏れることができるでしょうか。人はキリストの本質を知らず、神の性質も理解していませんし、ましてや神を真に崇拝することなどできません。キリストの普通かつ正常な外見しか見ず、その本質を知らなければ、いとも簡単にキリストを単なる普通の人間として扱ってしまいます。そうした人はキリストに不敬な態度をとり、キリストを騙し、キリストに抵抗し、キリストに服従せず、キリストについて勝手な判断を下すことができます。そうした人は独善的であり、キリストの言葉を真剣に受け止めることができず、神に対する観念、断罪、および冒涜を生じさせることさえできます。これらの問題を解決するには、キリストの本質と神性を知らなければなりません。これが神を知ることの主要な側面であり、実際の神を信じるすべての人が入って成し遂げなければならないことなのです。

『終わりの日のキリスト講話集』「第三部」(『言葉』第3巻)

459. 神を信じ、神を知ることは、天の法則であり地上の原則である。そして今日、受肉した神がその働きを自ら行なっているこの時代は、神を知るのに特に良い時である。神を満足させることは神の旨の理解を基盤として達成されるものであり、神の旨を理解するためには、神について多少の認識をもつことが必要になる。この神に関する認識とは、神を信じる者が持つべきビジョンであり、人の神に対する信仰の基礎である。この認識がなければ、人間の神への信仰は曖昧な状態で、空論のただ中に存在することになるだろう。このような人々が神に従う決意を持っていたとしても、何も得るものはない。この流れの中で何も得るものがない人々は皆、排除される者であり、たかり屋である。…… ビジョンを受け取ることができなければ、神の新しい働きを受けることはできず、神の新しい働きに従うことができなければ、神の旨を理解することはできず、神についての認識も結果的に無に帰すであろう。神の言葉を実行する前に、まず神の言葉を知らねばならず、つまり神の旨を理解しなければならない。そうなって初めて、神の言葉は正確に、神の旨にかなう形で実行されることになる。これは真理を求めるすべての者が所有しなければならないものであり、神を知ろうとするすべての者が経なければならない過程でもある。神の言葉を知る過程は、神と神の働きを知る過程でもある。そのためビジョンを知るということは、受肉した神の人間性を知ることを意味するだけでなく、神の言葉と働きを知ることも意味している。人々は神の言葉によって神の旨を理解するようになり、神の働きによって神の性質と、神であるものを知るようになる。神への信仰は神を知ることの第一歩である。この初期の信仰から最も深い信仰へと進んでいく過程は、神を知るようになる過程であり、神の働きを経験する過程である。もしあなたの信仰が、あくまで信仰のためだけの信仰であり、神を知るためのものでないなら、そこに現実はなく、その信仰が純粋になることはできず、そのことに疑いの余地はない。人が神の働きを経験する過程で徐々に神を知るようになると、その人の性質は徐々に変化し、その信仰はますます真実なものになる。このように神への信仰において成功を収めると、その人は完全に神を得たことになる。神が自らその働きを行なうため、これほどの苦労をして再び肉となった理由は、人間が神を知り、神を見ることができるようにするためだった。神を知ること[a]は、神の働きの最後に達成される最終的な成果であり、神が人類につきつける最後の要求である。神がこれを行なう理由は、神の最終的な証しのためである。神は人が最終的に完全に神に向き合えるよう、この働きを行なっているのである。人は神を知ることによってのみ神を愛せるようになり、神を愛するには神を知らなければならない。人はどのように求めようと、何を得ることを求めようと、神についての認識に到達できなければならない。そうして初めて、神の心を満足させることができる。人は神を知ることによってのみ神への真の信仰を持つことができ、そして神を知ることによってのみ、神を真に畏れ従うことができる。神を知らない人々は、神への真の服従と畏敬に決して到達しない。神を知るということには、神の性質を知り、その旨を理解し、神の存在そのものを知ることが含まれる。しかしどの側面を知るにせよ、人は必ず代価を払い、従う意志を持つことを要求される。その意志がなければ、誰も最後まで従い続けることはできないだろう。

『神の出現と働き』「神を知る者だけが神に証しをすることができる」(『言葉』第1巻)

460. 神を知るための学びの成果は、一日や二日で達成できるものではない。人は経験を重ね、苦しみを経て、真の従順を成し遂げなければならない。まず神の働きと神の言葉から始めなさい。必ず理解しなければならないのは、神についての認識に何が含まれるのか、その認識にいかに到達すべきか、そして自分の経験の中でいかに神を見るべきかということである。これはまだ神を知らない人々が皆しなければならないことである。神の働きと言葉を一挙に把握することは誰にもできないし、神の全体像を短期間で認識することもできない。経験という必要な過程があり、それなしには誰も神を知ることも、神に真摯に従うこともできない。神が働きをすればするほど、人は神を知るようになる。神の働きが人の観念と異なっていればいるほど、神についての認識は改められ深みを増す。もし神の働きが永遠に固定された不変のものであれば、人の神についての認識はあまり多くならないことだろう。天地創造から現在に至るまで、神が律法の時代に行ったこと、恵みの時代に行ったこと、そして神の国の時代に行なうことについて、あなたがたはこの上なく明確なビジョンを持たなければならない。あなたがたは神の働きを知らなければならない。

『神の出現と働き』「神を知る者だけが神に証しをすることができる」(『言葉』第1巻)

461. イエスに従っている間、ペテロはイエスについて多くの意見を持ち、常に自らの観点からイエスのことを判断していた。ペテロはある程度は霊について理解していたけれども、その理解がいささか曖昧だったので、彼は「天の父によって遣わされたお方に従わなければならない。聖霊によって選ばれたお方を認めなければならない」という言葉を発したのである。ペテロはイエスが行なったことを理解していなかったし、それについて明瞭さを欠いていた。しばらくイエスに従った後、ペテロはイエスが行なうこと、言うこと、またイエス自身に次第に興味を持ちはじめた。ペテロはイエスが愛と尊敬の念を呼び起こすのを感じるようになり、イエスと交わり、イエスのそばにいたいと思うようになった。そして、イエスの言葉を聞くことによって彼は、満たしと助けを得た。長らくイエスに従って、ペテロはイエスの生活の全て、つまりイエスの行動、言葉、動作、表情などを観察し、心に留めた。ペテロはイエスが尋常の人のようではないことを深く理解した。イエスの人間としての外観は極めて普通であったが、イエスは人間に対する愛、憐れみ、寛容で満ちていた。イエスが行なったこと、言ったことの全てが他の人々の大きな助けとなり、ペテロはイエスの側で今まで見たことも得たこともないことを見たり学んだりした。イエスには大きな背丈や並外れた人間性はなかったが、実に驚くべき非凡な雰囲気があることをペテロは見た。ペテロはそれを完全には説明できなかったけれども、イエスの行動が他の誰とも違っていることを見ることができた。というのは、イエスが行なったことは、普通の人が行なうこととまったく異なっていたからである。ペテロはイエスと接するようになってから、イエスの性格が普通の人とは違っていることにも気づいた。イエスは常に落ち着いて行動し、決して焦ることも、誇張することもなく、物事を控えめに表現することもなく、ごく普通で称賛に値する性格を表わすような生活を送った。イエスは会話においては、上品で、優雅で、率直で、朗らかでありながらも、穏やかで、働きを実行するときも決して威厳を失うことはなかった。ペテロは、イエスがあるときは無口になったり、またあるときは絶え間なく話したりするのを見た。イエスは嬉しさのあまり、あちこち動き回ってはしゃいでいる鳩のように見えることもあれば、悲しみの余り、まるでくたびれ疲れ果てた母親のように、まったく口をきかないこともあった。時としてイエスは、勇敢な兵士が敵を殺すために突進するように、また時には吠え猛るライオンのように憤りで一杯になることさえあった。イエスは時には笑い、時には祈り泣くこともあった。イエスがどのように行動するかに関わらず、ペテロは限りのない愛と敬意をイエスに抱くようになった。イエスの笑い声はペテロを幸せで満たし、イエスの悲しみはペテロを嘆きに落とし入れ、イエスの怒りはペテロを脅かしたが、その一方、イエスの憐れみ、赦し、そして人々に対する厳しい要求によって、ペテロはイエスに対して真の畏敬と憧れを抱くようになり、ほんとうにイエスを愛するようになった。もちろん、これらのこと全ては、ペテロが数年イエスのもとで生活して、次第に分かってきたことである。

『神の出現と働き』「ペテロはいかにしてイエスを知るに至ったか」(『言葉』第1巻)

462. 神を知りたい、神を真に知りたいのであれば、ただ神の働きの三段階に限っていてはいけません。神が以前に行なった働きの話だけに限っていてはいけません。そのようにして神を知ろうとするのならば、神を一定の制限内に留めていることになります。神をあまりに取るに足らないものとみなしています。そうすることで人はどのような影響を受けるでしょうか。あなたは神の驚異性や崇高性、神の力や全能性、そして神の権威の範囲を決して知ることはないでしょう。そのような認識は、神が万物の支配者であるという真理をあなたが受け入れる能力、そして神の真の身分と地位に関するあなたの認識に影響を及ぼすでしょう。すなわち、もし神に関するあなたの認識の範囲が限られているならば、あなたが受け取ることのできるものも限られています。範囲を拡張して視野を広げる必要があるのは、このためである。それが神の働きの、神の経営の、神の支配の、あるいは神に支配され管理されている万物の範囲であるかに関わらず、あなたはそれらすべてを知り、その中にある神の業を知るべきです。そのような理解方法により、あなたは神が万物を支配し、管理し、万物にあらゆるものを供給しているということを知らないうちに感じるでしょう。それと同時に、あなたは自分が万物の一部であり、万物の一員であることを実感するでしょう。神は万物を供給するので、あなたも神の支配と供給を受け入れます。これは誰も否定することのできない事実です。

『神を知ることについて』「唯一無二の神自身 VIII.」(『言葉』第2巻)

463. 人々が心の中で神を認識している度合いは、神がそれらの人の心を占めている度合いでもあります。心の中でどれほど神のことを知っているかは、その人の心の中で神がどれほど偉大か、ということでもあります。あなたの知る神が空虚で漠然としていれば、あなたが信じる神もまた空虚で漠然としています。あなたの知る神はあなたの個人的生活の範囲に限定されており、真の神自身と何の関係もありません。ゆえに、神の実際の業、神の現実、神の全能、神自身の真の身分、神が所有するものと神そのもの、神が万物においてあらわした業を知ることは、神の認識を追い求めるひとりひとりにとって極めて重要なことなのです。それらは、人が真理の現実に入れるかどうかに直接関係しています。神に関する認識が言葉だけに限られる場合、あるいは自分自身の数少ない経験や、あなたが神の恵みと考えるものや、あなたのささやかな神の証しだけに限られる場合、あなたが信じている神は絶対に真の神自身ではないと断言します。それだけでなく、あなたが信じる神は想像上の神であり、真の神ではないとも言えます。なぜなら、真の神は万物を支配し、万物の中で歩み、万物を管理する神だからです。その神こそが、人類全体と万物の運命をその手中に握っている神なのです。わたしが話している神の働きと業は、ごく一部の人々に限られるものではありません。つまりそれらは、現在神に付き従う人に限定されないのです。神の業は、万物の中に、万物の生存の中に、そして万物が変化する法則の中にあらわされています。

すべての被造物における神の業を見ることも、それを認識することもできないのであれば、あなたは神の業を何ひとつ証しできません。神の証しをすることができず、自分が知っている小さな「神」、自分自身の考えに限定され、自分の狭い心に閉じ込められた神について語り続けるなら、つまりそのような神について語り続けるなら、神があなたの信仰を讃えることは決してありません。神の証しをするとき、自分がいかに神の恵みを享受し、神の鍛錬と懲らしめを受け、また神の証しをする中でいかに神の祝福を享受しているかという観点からしかそうしないのであれば、それはまったく不十分であり、神に満足してもらうには程遠いものです。神の旨にかなう形で神の証しをしたい、真の神自身の証しをしたいのであれば、神が所有するものと神そのものを神の業から理解しなければなりません。神による万物の支配から神の権威を理解し、神が全人類に施すという真実を理解する必要があるのです。自分の日々の糧や生活必需品が神に由来することを認めるだけで、神はすべての被造物を用いて全人類に施すという真実、また万物を支配することで全人類を導いているという真実を理解できないのであれば、神の証しは決してできません。わたしがこのように言う目的は何ですか。あなたがたがそれを軽視しないようにすること、わたしの話したことは自分のいのちへの入りと無関係であると考えないようにすること、そしてこれらの事項は単なる知識や原理に過ぎないと思わないようにすることです。そうした態度でわたしの言うことを聞くならば、あなたがたは何ひとつ得られません。神を知るこの素晴らしい機会を失うのです。

『神を知ることについて』「唯一無二の神自身 IX.」(『言葉』第2巻)

464. たとえ人間が科学や万物の法則の研究を続けたとしても、それは依然として限界のある範囲内であり、その一方で神は万物を支配しています。それは人間にとって無限です。もし人間が神が行なった極めて小さな何かを研究したならば、生涯を研究に捧げても、何ら実質的な成果を達成しないことがありえます。もしあなたが知識や学習した事柄を用いて神を研究しても、神を知ることも理解することも決してできないのは、このためです。しかし、もし真理を求め、神を求める道を用い、神を知ろうとするという観点から神を見つめるのならば、やがて神の業と知恵が随所にあることを認め、また神が万物の主、そして万物のいのちの源であると言われるのはなぜかを知るでしょう。そうした認識をさらに得れば得るほど、神がなぜ万物の主と呼ばれるのかを一層理解するでしょう。あなた自身を含めた万物、すべてのものは、神から安定した施しを間断なく受け取っています。また、あなたはこの世界で、人類の只中に、万物の存在を支配し、管理し、維持するこのような力と本質をもつことのできるのは、神を除いて存在しないことを明らかに感じることができます。あなたがこうした理解を得る時、あなたは神があなたの神であることを真に認めるでしょう。あなたがこの点に達する時、あなたは神を真に受け入れ、神をあなたの神であり主であるとしたのです。あなたがそうした認識を得、あなたのいのちがそのような点に達した時、神はもはやあなたを試したり、裁いたりせず、またあなたに対して要求しなくなります。なぜなら、あなたは神を理解し、神の心を知り、神をあなたの心の中で真に受け入れたからです。

『神を知ることについて』「唯一無二の神自身 VIII.」(『言葉』第2巻)

465. 人は神を知ることは簡単ではないとよく言いますが、わたしは、神を知ることは全然困難なことはないと言います。なぜなら神は人間にその業を頻繁に見せているからです。神は人類との対話を止めたことはなく、人間から隠れたことも、人間に知られないようにしようとしたこともありません。神の思い、考え、業はすべて人類に明かされています。したがって、人間が神を知りたいと望む限り、あらゆる方法で人間は神を知ることができます。神が人間を意図的に避け、人類から隠れてきた、神には人間が神を理解し知るようになることを許すつもりがない、などと人間が盲目に考える理由は、人間は神が誰なのかを知らず、神を知りたいとは思っていないからです。そして何よりも、人間は創造主の思い、言葉、業などに無関心だからです……。本当のところを述べると、もし誰かが余暇に創造主の言葉や業に注目して理解しようとし、創造主の思いと、その心の声にほんの少し注意を払ったならば、神の思い、言葉、業は見ることができ、明瞭なものであることに気付くのは困難ではありません。同様に、創造主は常に人間のそばにいて、人間や被造物すべてと会話し、新たな業を毎日行なっていることに気付くのに、努力はそれほど必要とされません。神の本質と性質は、神と人間との対話の中に表出され、神の思いと考えは、神の業に完全に明示されています。神は常に人類と共にあり、人類を見守っています。神は人間や被造物のすべてに、「わたしは天にあり、万物の中にある。わたしは見守り、待っている。わたしはあなたの傍らにある」と、静かに沈黙の言葉で語りかけています。神の手は温かく力強く、神の足取りは軽やかです。神の声は温和で優しく、神の姿は過ぎゆき、また振り返り、全人類を抱擁します。神の表情は優美で、神は立ち去ったことも、消えたこともありません。神は、昼も夜も、常に人間と共にいて、そばを離れません。

『神を知ることについて』「唯一無二の神自身 II.」(『言葉』第2巻)

466. 神を理解せず、神の性質を知らなければ、神に対して真に心を開くことはできません。いったん神を理解すれば、神の心中にあるものを、関心と信仰をもって理解し、味わうようになります。神の心中にあるものを理解して味わうとき、神に対して徐々に心が開かれていきます。神に対して心が開いたとき、自分がしてきた神とのやりとり、神に対する要求、そして自分自身の過度な欲望がどれほど恥ずかしく軽蔑に価するかを感じるようになります。神に対して真に心を開いた時、神の心が無限の世界であることや、自分が未体験の領域へと入ってゆくのがわかります。この領域には嘘や欺瞞、闇や邪悪がまったくありません。そこにあるのは誠実さと忠実さ、光と正しさ、義と優しさだけなのです。この領域は愛と思いやり、慈悲と寛容にあふれ、それを通じて生きていることの幸福と喜びを感じることができます。あなたが神に心を開いたとき、神はこれらのことをあなたに明かすのです。この無限の世界は神の知恵と全能、また神の愛と権威に満ちています。そこでは、神が所有するものと神そのもの、神に喜びをもたらす物事、神が懸念を抱く理由、神が悲しむ理由、神が怒りを抱く理由について、そのあらゆる側面がわかります。心を開いて神が入ってくるのを受け入れた人はみな、これらの事柄がわかるのです。神があなたの心に入れるのは、あなたが神に心を開くときだけです。神があなたの心に入ったときにだけ、あなたは神が所有するものと神そのもの、そしてあなたに対する神の旨を理解できるのです。そのとき、神に関するすべての物事が尊いこと、神が所有するものと神そのものが大切にする価値のあるものだとわかります。それに比べると、あなたの周囲の人々、生活における物事や出来事、そしてあなたの家族や伴侶、あるいはあなたが愛する物事さえ、述べる価値すらありません。それらはとても小さく卑しいものであって、自分が何らかの物体に引きつけられることはない、あるいは何らかの物体が自分を誘惑し、その代価を払わせることは二度とできないと感じるようになります。あなたは神の謙虚さの中に、神の偉大さと至高を目の当たりにします。そのうえ、あなたは神の業の中に、自分がそれまで、神の無限なる知恵と寛容はごく小さなものだと信じていたこと、そして自分に対する神の忍耐、寛容、および理解を目の当たりにします。こうした事柄により、あなたの中に神への愛が育まれます。あなたはその日、人類がとてつもなく汚れた世で生きていること、身近な人々や生活の中の出来事、自分が愛する人や、そうした人のあなたに対する愛、そしていわゆる保護や気遣いさえも、述べる価値すらないものと感じられ、自分が愛するのは神だけであり、自分にとって最も貴重なのは神だけであると感じます。この日が来たとき、次のように言う人々が現われることをわたしは信じています。「神の愛はかくも偉大であり、神の本質はかくも聖なるものだ。神には欺瞞、邪悪、ねたみ、争いが皆無であり、正義と正当性しかなく、神が所有するものと神そのもののすべては、人間が望むべきものである。人間はそれを求めて努力し、熱望すべきだ」では、それを成し遂げる人類の能力は何を基盤としていますか。そうした能力は、神の性質と本質に関する自分自身の理解を基盤としています。したがって、神の性質、そして神が所有するものと神そのものを理解することは、各人が生涯をかけて学ぶことであり、また自分の性質を変え、神を知ろうと努力するすべての人が追い求める目標でもあるのです。

『神を知ることについて』「神の働き、神の性質、そして神自身 III.」(『言葉』第2巻)

467. 神自身は、神自身です。神が被造物の一部となることは決してなく、神が被造物の一員となったとしても、神が本来持っている性質と本質は不変です。したがって、神を知ることは、物を知ることではないのです。神を知ることは何かを分解することでも、人を理解することでもありません。神を知るために、物や人を知る概念や方法を用いるならば、神に関する認識を得ることは不可能です。神を知ることは、経験や想像に依存することではなく、したがって神に自分の経験や想像を押し付けてはなりません。どれほど豊かな経験や想像があったとしても、それには限界があります。さらに、想像は事実に対応するものではなく、ましてや真理に対応するものではなく、神の真の性質と本質とは相容れないものです。神の本質を理解するために想像に依存したなら、成功することはありません。唯一の方法は、神から来るものすべてを受け容れ、徐々に経験し、理解することです。あなたが協力し、真理への飢えや渇きがあれば、ある日、あなたが真に神を理解し、知ることができるように、神があなたを啓きます。

『神を知ることについて』「唯一無二の神自身 II.」(『言葉』第2巻)

468. 「神を畏れ、悪を避ける」ことと神を知ることは、無数の線で不可分に繋がっており、その関連性は自明です。悪を避けたいと望むなら、まず神を真に畏れなければなりません。神を真に畏れることを望むなら、まず神に関する真の認識を得なければなりません。神に関する真の認識を得たければ、まず神の言葉を体験し、神の言葉の現実に入り、神の懲らしめと鍛錬、刑罰と裁きを経験しなければなりません。神の言葉を経験したいと望むなら、まず神の言葉と向き合い、神と顔を合わせて、人や出来事や物事に関わるあらゆる環境の中で神の言葉を体験する機会を与えてくれるよう、神に求めなければなりません。神や神の言葉と向き合うことを望むなら、まず単純で正直な心を持ち、いつでも真理を受け入れる準備をし、苦難に耐える意志、悪を避ける決意と勇気、そして本物の被造物になるという志を持たなければなりません……。このようにして一歩ずつ前進すれば、あなたはますます神に近づき、あなたの心はますます純粋になり、あなたの人生と生きる価値は神に関する認識とともに一層有意義で豊かになり、より輝かしいものとなってゆくでしょう。そしていつの日か、創造主はもはや不可解なものではなくなり、一度も自分から隠されてはいなかったと感じられるようになり、創造主があなたから顔を隠したことは一度もなく、決して遠く離れてはおらず、絶えず頭の中で追い求めても感じ取ることができないようなものではなく、実際にあなたの左右に立って真にあなたを見守り、あなたのいのちを満たし、運命を支配しているのだと感じられるようになります。神は遠く離れた地平の彼方に存在するのではなく、雲の上に隠れているのでもありません。神はあなたのすぐ側で、あなたのすべてを支配しており、あなたが持つすべてのものであると同時に、あなたが持っている唯一のものなのです。こうした神は、あなたが心から神を愛し、神にすがりつき、寄り添い、敬愛し、神を失うことを恐れるようにしてくれるとともに、もう神を放棄したり背いたりせず、神から逃げたり遠ざかったりもしたがらないようにしてくれます。あなたはただ神を思いやり、神に服従し、神が与えるすべてに報い、神の支配に従うことだけを望むようになるのです。そしてもはや神に導かれ、養われ、見守られ、保護されることを拒まなくなり、神があなたに命じることや定めることを拒まなくなります。ただ神に従い、神の横で共に歩むことを望み、そして神を自分にとって唯一のいのちとして受け入れ、唯一の主、唯一の神として受け入れることを望むようになるのです。

『神を知ることについて』「序文」(『言葉』第2巻)

脚注

a. 原文では「神を知る働き」。

前へ: 第10節 神を愛することをいかに追い求めるかについて

次へ: 第12節 いかに神に奉仕し、神の証しをするかについて

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