神の働きを認識する(2)

日々の神の御言葉 抜粋 188

終わりの日における神の働きと、神が今日あなたの中で行なっている、神の計画の働きとを受けることで、自分がいかに究極の称揚と救いを得てきたかを、神を信じる一人ひとりが正しく認識すべきである。神は人々のこの集団を、宇宙全体におよぶ神の働きの唯一の焦点に据えた。神はあなたがたのために、心血を残らず注いだのである。神は宇宙全体の霊の働きをことごとく取り戻し、あなたがたに与えてきた。だから、あなたがたは幸運な人たちなのである。そのうえ、神はイスラエルから、すなわち自身の選民からあなたがたへと自らの栄光を移し、この集団を通じて自身の計画の目的が完全に現れるようにする。ゆえに、あなたがたが神の遺産を受け取る者である。それ以上に、あなたがたは神の栄光の相続人である。あなたがたはみな、この言葉を覚えているだろう。「なぜなら、このしばらくの軽い患難は働いて、永遠の重い栄光を、あふれるばかりにわたしたちに得させるからである」。あなたがたはみな、この言葉を以前耳にはしたが、その本当の意味は誰も理解していなかった。今日、あなたがたはこの言葉の真の意義を深く認識している。この言葉は、神によって終わりの日に実現され、また、赤い大きな竜がとぐろを巻く地で、その竜から熾烈な迫害を受けている人たちにおいて成就する。赤い大きな竜は神を迫害し、神の敵であるから、この地において、神を信じる者は辱めと迫害を受け、またその結果として、これらの言葉があなたがた、つまりこの人々の集団において成就する。神の働きは、神に敵対する地で始まるので、その働きはことごとく熾烈な妨害にあい、神の言葉の多くが成就するまで時間がかかる。したがって、人々は神の言葉の結果として精錬されるのだが、それはまた苦難の一部でもある。赤い大きな竜の地で、神が自身の働きを成し遂げるのは非常に困難である。しかし、神はこの困難を通じて働きの一段階を行い、自身の知恵と不思議な業を明らかにし、これを機にこの人々の集団を完全にする。また、人々の苦しみ、人々の素質、そしてこの不浄の地にいる人々のあらゆるサタン的性質を通じて、神は清めと征服の働きを行うが、それは、このことを通じて栄光を勝ち取るため、自身の業を証しする人々を得るためである。これが、この集団のために神が払ったあらゆる犠牲の全体的な意義である。つまり、神は自身に盾突く者を通じて征服の働きを行い、またそれを通じてのみ、神の偉大な力が明らかになるということである。言い換えれば、不浄な地に住む者だけが神の栄光を受け継ぐに値するということであり、そうしてこそ神の偉大な力が浮き彫りになる。ゆえに、神の栄光は不浄の地から、また不浄の地に住む人々から獲得されるのである。それが神の旨である。イエスによる働きの段階も同じだった。イエスは自分を迫害するパリサイ人の中でこそ栄光を得ることができた。パリサイ人による迫害とユダの裏切りがなければ、イエスは嘲笑されることも、中傷されることもなく、ましてや十字架にかけられることもなかっただろう。それゆえ栄光を得ることもなかったはずだ。神が各時代に働くところ、神が肉において働くところは、神が栄光を得るところ、神が得ようとする人たちを得るところである。これが神の働きの計画であり、神の経営である。

『神の出現と働き』「人が想像するほど神の働きは簡単なものか」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 189

数千年にわたる神の計画のうち、二つの働きが肉において行われた。一つは磔刑の働きであり、これゆえに神は栄光を得る。もう一つは終わりの日における征服と完成の働きであり、これゆえに神は栄光を得る。これが神の経営である。従って、神の働きや、あなたがたに託された神の任務が簡単なものだと思ってはならない。あなたがたはみな、神が溢れんばかりにもたらす永遠の栄光の重みを受け継ぐ人なのであり、このことは神によって特別に定められたのである。二つの部分から成る神の栄光のうち、一つはあなたがたにおいて現れる。神の栄光の一部分がことごとく、あなたがたに授けられるのだが、それがあなたがたへの遺産となろう。そのことは、神があなたがたを称揚しているのであり、はるか昔に神が予定した計画でもある。赤い大きな竜が住む地で神がなした働きの偉大さからすれば、この働きがもしも別の場所に移されていたら、とうの昔に大きな実を結び、人にたやすく受け入れられたことだろう。さらには、神を信じる西欧の聖職者にも実に易々と受け入れられたはずだ。イエスによる働きの段階が前例としてあるからである。これが、栄光を得るという現段階の働きを、神が別の場所では成し遂げられない理由である。その働きが人々に支持され、国家に認められているとき、神の栄光を確立させることはできない。これがまさに、この地で現段階の働きを確立させることの重要な意義である。あなたがたのうち、法律で守られている人は一人もいない。むしろ法律の制裁を受けている。さらに問題なのは、人々があなたがたのことを理解しないことである。親戚であれ、親であれ、友人であれ、同僚であれ、誰一人あなたがたのことを理解しない。神に「捨てられ」たら、あなたがたは地上で生き続けることができない。たとえそうでも、人々は神から離れていることに耐えられない。それが、神が人々を征服することの意義であり、神の栄光なのである。今日あなたがたが受け継いだものは、各時代の使徒や預言者が受け継いだものを超えており、モーセやペテロが受け継いだものよりも大きい。一日二日で祝福を得ることはできない。祝福は、多大な犠牲を通じて獲得されなければならない。つまりあなたがたは、精錬を経た愛、大きな信仰、そして神があなたがたに獲得することを求めている、数多くの真理を自分のものにしなければならない。さらには、怯えることも逃げることもなく、正義に真正面から向き合い、神に対して死ぬまで不変の愛をもたなければならない。あなたがたは不屈の意志をもたなければならず、自分のいのちの性質に変化が生じなければならず、堕落は癒されなければならず、神の指揮をことごとく、不平を言わずに受け入れなければならない。また、死に際しても従順でなければならない。これが、あなたがたが達成すべき神の働きの最終目標であり、神がこの人々の集団に求めることである。神は、あなたがたに与えるからには、必ずや見返りを求め、適切な要求をあなたがたにする。ゆえに、神の働きにはすべて理由があるのであって、そのことは、高い基準と過酷な要求を定める働きを神が繰り返し行う理由を示している。それゆえ、あなたがたは神への信仰で満ちていなければならない。つまり、あなたがたが神の遺産を受け継ぐにふさわしくなれるよう、神の働きはことごとくあなたがたのために行われるのである。それは神自身の栄光のためではなく、あなたがたの救いのため、そして不浄の地でひどく苦しんできたこの人々の集団を完全にするためである。あなたがたは神の旨を理解しなければならない。そこでわたしは、洞察力も理知もないあまたの無知な人に忠告する。神を試すな。神に二度と抵抗するな。神は、人には耐えられない苦しみをすでに耐え忍んできた。人に代わって、はるか以前にもっとひどい屈辱を耐え忍んだ。あなたがたに手放せないものなど他にあろうか。神の旨以上に大事なものがあろうか。神の愛以上に高いものがあろうか。この不浄の地で神が働きを成し遂げることだけでも、十分困難である。その上、もし人が分かっていながら意図的に過ちを犯したら、神の働きは延長せざるを得ない。要するに、延長など誰のためにもならず、誰の利益にもならないのである。神は時間に縛られない。神の働きと栄光が最優先である。ゆえに神は、どんなに時間がかかろうとも、自身の働きのためにあらゆる代価を支払う。これが神の性質である。神は自身の働きを全うするまで休まない。神が二つ目の栄光を獲得して初めて、神の働きは終わる。全宇宙において、栄光を得る働きの第二の部分が完成しなければ、神の日は決して到来せず、神の手は自身の選民から決して離れず、神の栄光はイスラエルの上に降りず、神の計画は完結しない。あなたがたは、神の旨を見ることができなければならず、また神の働きが天地と万物の創造ほど簡単なものではないことを知らなければならない。それというのも、今日における働きとは、感覚が麻痺しきっている堕落した人間を変えることであり、創造されながらサタンによって加工されてしまった人たちを清めることだからである。それはアダムとエバの創造でもなければ、まして光やあらゆる動植物の創造でもない。神は、サタンに堕落させられたものを清めたあと、それらを新たに自分のものとする。それらは神に属するものとなり、神の栄光となる。これは人が想像するようなことではなく、天地とそこにある万物の創造、あるいはサタンを奈落の底に突き落とす呪いの働きほど簡単なことでもない。むしろ、それは人を変える働きであり、否定的で神に属さないものを、肯定的で神に属するものへと変えるのである。これが、現段階における神の働きの背後にある真実である。あなたがたはこのことを理解し、物事を過度に単純化することを避けなければならない。神の働きは普通の働きとは違う。その素晴らしさと知恵は人の知性を超えている。現段階の働きにおいて、神が万物を創造することはないものの、万物を破壊することもない。代わりに、自身が創造した万物を変え、サタンに汚された万物を清める。神はこのようにして偉大な事業へと乗り出すのであり、それが神の働きの全体的な意義である。神の働きは本当にかくも簡単であると、あなたはこれらの言葉の中に見出すだろうか。

『神の出現と働き』「人が想像するほど神の働きは簡単なものか」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 190

六千年にわたる神の経営の働きは、律法の時代、恵みの時代、神の国の時代の三段階に分かれている。これら三段階の働きはすべて人類の救いのためである。すなわち、それらはサタンによってひどく堕落させられた人類の救いのためなのだ。けれども、それは同時に、神がサタンと戦うためでもある。したがって、ちょうど救いの働きが三段階に分かれているように、サタンとの戦いも三段階に分かれており、神の働きにおけるこの二つの側面は同時に行われる。サタンとの戦いは実際、人類の救いのためであり、また、人類を救う働きは一段階で見事に成し遂げられるものではないから、サタンとの戦いもまたいくつかの段階と期間に分けられる。そして戦いは、人間の必要と、サタンによる人間の堕落の程度に応じて、サタンに対して遂行される。おそらく人は、二つの軍勢が戦うのと同じように、神が武器を取ってサタン相手に戦うのだろうと、想像の中で考えているだろう。これが人の知能で想像できる限度であり、この上なく曖昧で、非現実的な考えだが、人はそう信じている。そして、人の救いの手段はサタンとの戦いだと、わたしがここで言うものだから、人はそのような戦いの様子を想像する。人の救いの働きは三段階で実行された。つまり、サタンとの戦いは三段階に分割され、それによってサタンを完全に打ち負かすのだ。しかし、サタンとの戦いという働き全体に秘められた真相は、人に恵みを施し、人の罪の捧げ物となり、人の罪を赦し、人を征服し、人を完全にするといういくつかの段階を通して、その効果が達成されるということである。実際、サタンとの戦いは、武器を手にしてサタンに立ち向かうものではなく、人の救い、人のいのちへの働き、そして人の性質を変えることであり、それによって人は神を証しする。サタンはこのようにして打ち負かされるのだ。人の堕落した性質を変えることを通して、サタンは打ち負かされる。サタンが敗北すると、つまり、人が完全に救われると、辱めを受けたサタンは完全に縛られ、こうして人は完全に救われることになる。ゆえに、人の救いの実質はサタンとの戦いであり、サタンとの戦いはおもに人の救いに反映される。人が征服される終わりの日の段階は、サタンとの戦いの最終段階であり、また、人をサタンの領域から完全に救う働きでもある。人の征服の秘められた意味は、サタンの化身、つまりサタンに堕落させられた人間が、征服に引き続いて創造主のもとへと戻ることであり、これによって人はサタンを捨て、完全に神へと立ち返る。このようにして、人は完全に救われることになる。したがって、征服の働きはサタンとの戦いにおける最後の働きであり、サタンを打ち負かす神の経営の最終段階である。この働きがなければ、人の完全な救いは最終的に不可能で、サタンの完全な敗北も不可能なはずだ。そして、人類は決して素晴らしい終着点に入ることができず、サタンの影響から自由になることもできない。したがって、人の救いの働きを、サタンとの戦いが終結する前に完了させることはできない。なぜなら、神の経営の働きの核心は人類の救いだからである。最初の人類は神の手の中にあったが、サタンによる誘惑と堕落によって、人はサタンに縛られ、悪しき者の手中に落ちてしまった。こうしてサタンは、神の経営の働きで打ち負かされる対象となった。サタンは人間を自分の所有物としたが、人は神による経営全体の資本なので、人が救われるには、サタンの手から取り戻されなければならない。すなわち、サタンの虜となった人間を取り戻す必要があるのだ。かくしてサタンは、人間の古い性質の変化、人間の本来の理知を回復する変化によって打ち負かされなければならず、こうして、虜となっていた人間をサタンの手から取り戻すことができる。人がサタンの影響や束縛から自由になると、サタンは辱められ、人は最終的に取り戻され、サタンは打ち負かされる。そして人はサタンの暗闇の影響から解放されたので、この戦い全体の戦利品となり、戦いが終わるとサタンは懲罰の対象となる。その後、人類を救う働き全体が完了するのである。

『神の出現と働き』「人間の正常な生活を回復し、素晴らしい終着点へと導き入れる」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 191

神は中国本土、つまり香港や台湾の同胞が言うところの「内地」において受肉した。神が天から地上に来た時、天地の誰もそれに気づかなかった。これが、神が隠れて戻る本当の意味だからである。神は長い間、肉において働き、生活してきたが、誰もそれに気づかなかった。今日に至ってさえ、誰もそのことに気づいていない。おそらく、これは永遠に謎のままだろう。神が今回肉において来たことは、誰一人気づけることではない。聖霊の働きの影響がいかに大規模で強力だとしても、神はいつも平然としており、決して何もさらけ出さない。神の働きのこの段階は、天の領域で行なわれているも同然だと言うことができる。そのことは、目が見える全員にとって明白なのだが、誰もそれに気づかない。神がこの段階の働きを終える時、全人類がそれまでの態度を捨て去り[1]、長い夢から目覚める。かつて神が、「今回肉において来たのは、虎のねぐらに落ちるようなものだ」と言ったことをわたしは覚えている。これが意味するのは、今回の神の働きにおいて神は肉となり、そしてさらに、赤い大きな竜の住み家で生まれるので、今回地上へ来たことで、神は以前にも増して非常な危険に直面するということである。神が直面するのはナイフと銃、そしてこん棒である。神が直面するのは試みである。神が直面するのは殺意に満ちた顔つきをしている群衆である。神は今すぐにも殺される危険を冒している。神は怒りを携えてきた。しかし、神は完全化の働きを行なうために来た。つまり、贖いの働きの後に続く自身の働きの第二部を行なうために来たのである。この段階の働きのために、神は精一杯考え、配慮し、考え得るすべての手段を用いて試みの攻撃を避けており、謙虚に身を潜め、決して自身の身分を誇示しない。イエスは人間を十字架から救うにあたり、ただ贖いの働きを完成させていただけで、完全化の働きはしていなかった。ゆえに、神の働きは半分しか行なわれておらず、贖いの働きを終えることは神の計画全体の半分でしかなかった。まもなく新しい時代が始まり、古い時代が遠ざかろうとする中、父なる神は働きの第二部を検討し始め、そのための準備を開始した。過去において、この終わりの日の受肉は明確に預言されず、そのため今回神が肉において来たことについて、その隠匿性が増す土台となった。夜が明けるころ、神は大衆に知られることなく地上に来て、肉における生活を始めた。人々はこの到来の瞬間に気づかなかった。みなぐっすり眠っていたかもしれないし、注意深く目を覚ましていた多くの人が待っていたかもしれない。そして多くの人が天の神に無言で祈っていたかもしれない。しかし、これら多くの人の中に、神がすでに地上へ到着していることを知る者は一人としていなかった。神は自身の働きをより円滑に実行し、よりよい結果を達成するために、このようにして働きを行なったのであり、それはさらなる試みの機先を制するためでもあった。人が春の眠りから覚める時、神の働きはそのずっと前に終わっており、神は地上を歩き回って逗留する生活に終止符を打ち、旅立つだろう。神の働きは、神が自ら行動し、語ることを必要としており、人に邪魔する術はないので、神は地上に来て自分で働きを行なうために、極度の苦難に耐えてきた。人が神に代わってその働きを行なうことはできない。そのため、神は恵みの時代よりも数千倍大きな危険をものともせず、自分の働きを行なうために赤い大きな竜が住むところに降りてきて、貧困に陥ったこの人々の一団、糞土にまみれたこの人々の一団を贖うべく、思考と配慮のすべてを費やす。たとえ誰も神の存在について知らなくても、神は悩まない。そのほうが大いに働きのためになるからである。誰もが極度に凶悪かつ邪悪であることを考えると、そのような人がどうして神の存在に耐えられるだろうか。そのため、地上に来た神は無言を貫くのである。人が最悪なほど残酷になったとしても、神はそれをまったく苦にせず、天なる父から託されたより大きな使命を果たすべく、なすべき働きを続けるだけである。あなたがたの誰が神の素晴らしさに気づいているのか。父なる神の重荷に対し、誰が父の子以上に配慮を示しているのか。父なる神の旨を誰が理解できるというのか。天にいます父なる神の霊はしばしば悩まされ、地上の神の子は心が裂けるほど心配しつつ、父なる神の旨のために絶えず祈りを捧げる。子に対する父なる神の愛を知る者がいるというのか。最愛の子が父なる神を恋しく思う心を知る者がいるというのか。両者は天地の間に引き裂かれ、絶えず遠くから互いの姿を見つめており、霊において互いに付き従っている。ああ、人類よ。あなたがたはいつ神の心を思いやるのか。いつ神の意図を理解するのか。父と子は絶えず互いを頼ってきた。それならば、なぜ彼らは別れていて、一人は天に、一人は地上にいるのだろう。子が父を愛するように、父は子を愛している。それではなぜ、父はそのように深く苦しく子を切望しながら待たねばならないのか。彼らは長い間離れていたわけではないかもしれないが、父が苦しく切望しながら何昼夜にわたって待ち焦がれてきたか、愛しい子がすぐに戻ってくることをどのくらいのあいだ切望してきたか、知る者はいない。父は注視し、静かに座り、そして待つ。父が行なうことはどれも、愛する我が子がすぐに戻ってくるためのものである。息子は地の果てまでさまよい歩いた。いつになったら二人は再会するのか。ひとたび再会すれば二人は永遠に一緒にいるはずだが、どうして父は何千昼夜もの別離、すなわち一人は天に、もう一人は地上にいることに耐えることができるのか。地上における数十年は、天における数千年に感じられる。どうして父なる神が心配しないでいられよう。神は地上に来る時、人と同じく人間世界の浮き沈みを無数に経験する。神には罪がないのに、なぜ人間と同じ苦しみを味わわなければならないのか。父なる神が子を熱心に切望するのも驚くには当たらない。神の心を誰が理解できようか。神は人に多くを与えすぎる。どうしたら人は神の心に十分報いることができるだろう。しかし、人が神に与えるものは少なすぎる。したがって、神はどうして心配しないでいられようか。

『神の出現と働き』「働きと入ること(4)」(『言葉』第1巻)

脚注

1.「それまでの態度を捨て去る」は、ひとたび神を知るようになった人々の、神についての観念や考えがどのように変化するかを指している。


日々の神の御言葉 抜粋 192

人間の中で、神の差し迫った心理を理解している者はほとんどいない。人間の素質があまりに劣り、霊が極めて鈍感なので、誰一人として神が何をしているかに気をつけることも、注意を払うこともしていないからである。そのため、人の野蛮な性質が今にも突出するとでもいうように、神は人について絶えず不安を覚えている。そのことから、神の地上への到来は極めて大きな試みを伴っていることが、よりいっそう明確にわかる。しかし、神は人々の一団を完全にすべく、栄光に満ち溢れ、人に何も隠すことなく、すべての意図を告げた。神はこの一団を完全にしようと堅く決心してきた。従って、いかなる困難や試みが来ようと、神は目をそらしてそのすべてを無視する。神は、いつか自分が栄光を得るようになった時、人は神を知ると堅く信じて、また、人が自分によって完全にされた時、神の心をすべて理解するだろうと信じて、静かに自分の働きを行なう。目下のところ、神を試みたり、誤解したり、責めたりする人々がいるだろう。神はそうしたものを何一つ気にしない。神が栄光の中に降り立つ時、人々はみな、神が行なうすべてのことは人類の幸福のためだと理解し、また誰もが、神が行なうすべてのことは、人類がよりよく生存できるようにするためだと理解するだろう。神は試みにとともに到来し、また威厳と怒りも伴って来る。人のもとを去る時、神はずっと以前に栄光を自分のものにしており、栄光と戻る喜びに満ち溢れて去っていくだろう。地上で働きを行なう神は、人々がどれほど神を拒絶しても物事を気にかけない。ひたすら自分の働きを行なうだけである。神の天地創造は何千年も前のことである。神は地上に来て計り知れない量の働きを行ない、人間世界の拒絶や中傷を完全に経験した。誰も神の到着を歓迎しない。神は冷たく迎えられるのである。この数千年にわたる苦難の過程で、人の行動はかなり前から骨の髄まで神を傷つけてきた。神はもはや人々の反逆には注意を払わず、その代わりに人を変えて清めるもう一つの計画を立てた。愚弄、中傷、迫害、苦難、磔刑の苦しみ、人による排斥などは、神が受肉してから経験したことだが、神はこれらを十分に味わった。また人間世界の苦難について言えば、受肉した神はそれらのすべてに徹底的に苦しんだ。天にいます父なる神の霊は、ずっと以前からこのような光景は耐えがたいと思い、顔をそらして目を閉じながら、愛する子の戻りを待った。神が望むのは、人類が耳を傾けて従い、神の肉体の前でこの上ない恥ずかしさを感じ、神に逆らうのをやめることだけである。神が望むのは、人類が神の存在を信じられるようになることだけである。神があまりに大きな代価を支払ってきたのに、人は呑気に構えており[1]、神の働きをこれっぽっちも心に留めていないので、神はかなり前から人により大きな要求をするのをやめたのである。

『神の出現と働き』「働きと入ること(4)」(『言葉』第1巻)

脚注

1.「呑気に構えており」は、人々が神の働きに無関心で、重要視していないことを示している。


日々の神の御言葉 抜粋 193

恵みの時代、神が第三の天に戻った時、全人類の罪を贖う神の働きは、実のところもう最後の部分に移っていた。地上に残っていたのは、イエスが担いだ十字架、イエスを包んでいた上質の亜麻布、いばらの冠、そしてイエスが着ていた緋色のローブだけだった(これらはユダヤ人がイエスを嘲笑するために使ったものである)。すなわち、イエスの磔刑の働きが大きなセンセーションを引き起こした後、物事は落ち着きを取り戻したのである。それ以降、イエスの弟子たちはイエスの働きを行ない始め、各地の教会で人々を牧養して潤した。彼らの働きの内容はすべての人に対し、悔い改め、自分の罪を告白し、洗礼を受けるよう求めることだった。そして使徒全員がイエスの磔刑の内情、つまりそのありのままの記録を広めたので、誰もがイエスの前にひれ伏して自分の罪を告白せざるを得なかった。さらに、使徒たちは至る所に行ってイエスの話した言葉を伝えた。その時から恵みの時代の教会建設が始まったのである。その時代にイエスが行なったのは、人間の生活や天なる父の旨について語ることでもあったのだが、それらの語られたことや実践の多くが今日のものとかなり違っていたのは、ひとえに時代の違いのためである。しかし、本質的に両者は同じであり、どちらも神の霊の肉における働きに他ならない。この種の働きと発言は今日に至るまでずっと続いており、そのため、その類のことがいまだに今日の宗教団体で共有されており、それはまったく変わっていない。イエスの働きが完結し、諸教会がすでにイエス・キリストの正しい軌道へ乗っていた時、神はそれにもかかわらず働きの別の段階、つまり終わりの日の受肉という事柄に関する計画を始めた。人の見るところ、神の磔刑はすでに神の受肉の働きを完結させ、全人類を贖い、神がハデスへの鍵を握るようにした。誰もが神の働きは完全に成し遂げられたと考えている。だが実際のところ、神の視点から見れば、働きのほんの一部が成し遂げられたにすぎない。神が行なったのは人類を贖うことだけで、人類を征服してはおらず、ましてや人のサタンのような顔つきを変えてなどいない。そのため神は「受肉したわたしの肉は死の苦しみを経験したが、それだけがわたしの受肉の目標ではなかった。イエスはわたしの愛する子で、わたしのために十字架に釘で打ち付けられたが、わたしの働きを徹底的に完了させたわけではない。その一部を行なったに過ぎないのである」と言う。したがって、神は計画の第二弾を開始し、受肉の働きを続けたのである。神の最終的な意図は、サタンの手中から救われた人々を残らず完全にし、自分のものとすることであり、そのため、神は肉において到来するという危険を再び冒す準備をした。「受肉」という言葉の意味が指しているのは、栄光を伴わず(神の働きがまだ完了していないからである)、愛する子の身分で現われ、神が十分満足しているキリストである者、である。そのため、これは「危険をものともしない」ことだと言える。受肉した肉体にはわずかな力しかなく、極めて慎重にそれを行使しなければならない[1]。そしてその力は天なる父の権威と正反対である。ゆえに、彼は肉の職分だけを成就し、他の働きに関わることなく、父なる神の働きとその使命を完了させるだけであって、働きの一部を完了させるに過ぎないのである。そのため、神は地上に来るや否や「キリスト」と名付けられたのであり、これがその名前に内包されている意味である。到来には試みが伴うと言われる理由は、働きの一部分だけが完了するからである。さらに、父なる神が彼を「キリスト」、また「愛する子」と呼ぶだけで、栄光のすべてを与えなかった他ならぬ理由は、受肉した肉体は働きの一部分を行なうために地上に来るのであって、天なる父を代表するためではなく、むしろ神に愛される子としての職分を遂行するためだからである。神の愛する子が肩に担ったすべての使命を完了させる時、父は彼に父の身分とともに、完全なる栄光を与えるだろう。これは「天の掟」だと言うことができる。肉となった者と天なる父は異なる領域にいるので、両者は霊において互いを見つめ合うだけで、父は愛する子から目を離さないが、子は父を遠くから見ることができない。肉が行なえる機能は小さすぎ、彼は今すぐにも殺される可能性があるので、この到来は最大級の危険をはらんでいると言える。そのことは、神が愛する子を再び手放し、虎の口に押し込むのと同じである。そこで彼の命は危険に晒され、サタンがもっとも集中している場所に置かれる。そのような恐ろしい状況にあっても、神は愛する子を、穢れと不道徳に満ちた場所にいる人々の手に渡し、彼らに「成人まで育て」させる。そうすることが神の働きを適切かつ自然なものに見せる唯一の方法、父なる神の願望を残らず成就し、人類のあいだで神の働きの最終部分を完成させる唯一の方法だからである。イエスは父なる神の働きの一段階を成し遂げたに過ぎなかった。受肉した肉体によって課せられた障壁と、完成させるべき働きにおける違いのために、イエス自身は二度目となる肉への帰還があることを知らなかった。それゆえ、聖書解説者や預言者の中に、神は終わりの日に再び受肉する、つまり神は再び肉において到来し、肉における働きの第二の部分を行なうとあえてはっきり預言した者はいなかった。したがって、神がずっと前から肉の中に隠れていたことに誰も気づかなかったのである。それも無理はない。と言うのも、イエスがこの使命を受け入れたのは、彼が復活して天に昇った後のことであり、それゆえ神の二回目の受肉に関する明確な預言は存在せず、それを人間の頭脳で推し測ることはできないからである。聖書にある数多くの預言書のどこにも、このことにはっきり言及している言葉はない。しかしイエスが来て働きを行った際、乙女が子どもとともにあり、息子をもうけるという預言、つまり聖霊を通じてその子を受胎するという明確な預言がすでに存在していた。だとしても、そこには死の危険が伴うと神は言った。ならば、今日においてはそれにも増してそうではないのか。今回の受肉は恵みの時代に引き起こされた危険より何千倍も大きな危険に晒されている、と神が言うのも無理はない。神は多くの場所において、秦の地で勝利者の一団を得るだろうと預言してきた。勝利者が得られるのは世界の東方なので、神が二度目の受肉で降り立つ場所は間違いなく秦の地であり、それはまさに赤い大きな竜がとぐろを巻いているところである。その地において、神は赤い大きな竜の子孫たちを自分のものにし、それによって竜は完全に敗れ、辱められる。神は重い苦しみを背負ったこれらの人々を目覚めさせ、完全に目が覚めるまで立ち上がらせて、彼らが霧の外へと歩み出て、赤い大きな竜を拒むようにさせるつもりである。彼らは夢から目覚め、赤い大きな竜の実質を認識するとともに、自分の心を残らず神に捧げ、闇の勢力の圧迫から身を起こし、世界の東方で立ち上がり、神の勝利の証しになれるだろう。そうすることでのみ、神は栄光を得る。ひとえにこの理由のため、神はイスラエルで終わった働きを、赤い大きな竜がとぐろを巻いている地にもたらし、地上を去ってからほぼ二千年後、恵みの時代の働きを続けるために再び肉となって来たのである。人間の肉眼で見れば、神は肉において新しい働きを開始しているように見える。しかし神の視点から見れば、恵みの時代の働きを続けているのであり、ただ数千年の時が空き、働きの場所と計画が変わっただけのことである。今日の働きにおいてその肉体が取った姿はイエスとまったく異なるように見えるが、両者は同じ実質と根源から生じたものであり、同じ源から来ている。おそらく、両者は表面上数多くの点で異なっているが、彼らの働きの内なる真実は完全に同一である。結局、時代の違いは昼と夜のようなものである。それならば、どうして神の働きが不変のパターンを辿るだろうか。あるいは、神の働きの各段階がどうして互いを妨げられるだろうか。

『神の出現と働き』「働きと入ること(6)」(『言葉』第1巻)

脚注

1.「わずかな力しかなく、極めて慎重にそれを行使しなければならない」は、肉の困難があまりに多く、行われる働きがあまりに限られていることを示す。


日々の神の御言葉 抜粋 194

人間は、自らに欠落しているものが霊的いのちの供与と神を知る経験だけでなく、それ以上に重要な事として、自らの性質の変化であることを現在になってようやく認識した。人類の歴史や古代の文化について完全に無知であるために、人間は神の働きについても認識がない。人間は皆、心の奥深くで神を慕いうることを望む。しかし、人間の肉は過度に堕落しており、また無感覚で愚鈍なため、そのせいで神について何も認識できずにいる。今日、神が人間の元に来る目的は、人間の思想や精神、そして人間が心の中に数百万年にわたり抱いてきた神の像を変化させるために他ならない。神はこの機会を利用して、人間を完全にする。つまり、神についての人間の認識を用いて、神を知るようになる方法と神への態度を変化させ、神を知ることで人間に輝かしい再出発を図らせ、人間の心と霊が一新され、変化されるようにする。取り扱いと鍛錬は手段であり、目的は征服と革新である。漠然とした神について人間が抱いてきた迷信的思想を払拭することが神の永遠の心意であり、それは最近になって神の喫緊の課題となった。この状況を考えるにあたり、あらゆる人が長期的な視点をもつことが望まれる。この神の喫緊した心意が早急に実現し、地上における神の働きの最終段階があますところなく完成するように、各人は経験の方法を変えなければならない。あなたがたが示すべき忠義を神に示し、最後にもう一度神の心に安らぎをもたらしなさい。この責任を回避したり、その身振りだけをしたりする兄弟姉妹が誰もいないことを願う。今回、神が受肉して来るのは、招かれてのことであり、人間の状態に的確に答えてのことである。つまり、神は人間が必要とするものを人間に授けるために来るのである。神は要するに、素質や育ちを問わず、人間が神の言葉を理解できるようにし、神の言葉から神の存在と顕現を理解し、神による人間の完全化を受け入れられるようにする。それにより、人間の思想と観念が変化し、神の本来の素顔が人間の心に深く根付くようになる。神の地上における望みはこれだけである。人間の持って生まれた本性がどれほど偉大であろうと、人間の本質がどれほど貧しかろうと、人間の過去におけるふるまいがどのようなものであろうと、神はそうした事を考慮しない。神はただ、人間が自らの心に抱く神の印象を一新し、人類の本質を知るようになり、よって人間の思想的な観点を変化させ、神を心から待ち望むことができるようになり、神に永遠の愛慕を寄せることを願っているだけである。これが神の人間への唯一の要求である。

『神の出現と働き』「働きと入ること(7)」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 195

終わりの日における神の働きが行われるのは、これまでわたしが何度も述べてきたように、大いなる傷を受けた人間の心が一新されるように各人の霊を変化させ、魂を変化させるためであり、それより邪悪に深く傷ついた人間の霊を救うためである。それは人間の魂を目覚めさせ、凍えた心を温め、それらが活力を取り戻せるようにするためである。これが神の偉大な心意である。人間のいのちと経験がどれほど高尚で深淵かといった話はさておき、人間の心が目覚め、夢から醒めて、赤い大きな竜が与えた傷を十分に理解した時、神の職分の働きは完了している。神の働きが完了する日は、神を信じる正しい道へと、人間が正式に足を踏み出す日でもある。その時、神の職分は終わりを迎えている。肉にある神の働きはあますところなく完了し、人間は正式に尽くすべき本分にとりかかる。つまり、人間としての務めを行うのである。これが神の働きの諸過程である。ゆえに、このような事の認識を基礎として、あなたがたは自分が入っていく道を模索するべきである。これらはすべて、あなたがたが理解すべきことである。人間の入りは、心の深部で変化がない限り向上しない。なぜなら、神の働きは、贖われた人間、いまだ闇の力の下で生き、目覚めていない人間を、この悪魔の集会場から完全に救うことだからである。それにより、人間が数千年の罪から解放されて神に愛され、赤い大きな竜を完全に打ち倒して神の国を建て、早く神の心を安らげるようにである。また、あなたがたの胸を満たしている憎しみを遠慮することなくぶちまけ、かび臭い菌を根絶し、牛や馬同然の生活から脱出し、もはや奴隷ではなく、赤い大きな竜に意のままに踏みつけられたり支配されたりすることがなくなるためである。もはやあなたがたは、この失敗した民族のものではなく、凶悪な赤い大きな竜に属さず、赤い大きな竜に奴隷とされることはない。この悪魔の巣窟は確実に神により粉砕され、あなたがたは神の傍らに立つ。あなたがたは神に属すのであり、この奴隷の帝国には属さない。神はこの暗黒社会を久しく骨の髄から忌み嫌っている。神は歯ぎしりし、この邪悪な憎悪すべき老いたへびが再び立ち上がって人間を虐待しないように、へびを踏みつけたがっている。神はへびの過去の行いを許さず、へびが人間を騙すことを容赦せず、へびの遠い昔からの罪のひとつひとつに報復する。神がその諸悪の首謀者[1]を取り逃がすことは決してなく、へびを完全に破滅させる。

『神の出現と働き』「働きと入ること(8)」(『言葉』第1巻)

脚注

1.「諸悪の首謀者」とは、年老いた悪魔を指す。この句は強烈な嫌悪を表現している。


日々の神の御言葉 抜粋 196

神は人類の働きのために幾度も眠れぬ夜を過ごした。神は遥かな高みから深淵へと、人間が生活する生き地獄まで降り、人間と共に日々を過ごし、人間の卑しさに不平を漏らしたり、人間の不従順を咎めたりしたことがなく、自ら働きを行ないながら最大の屈辱に耐えている。どうして神が地獄に属していられようか。どうして神が地獄で生活できようか。しかし、全人類のため、また全人類が一刻も早く安らぎを得られるようにするため、神は屈辱に耐え、不義に苦しんでまで地上に来て、人間を救うべく自ら「地獄」と「ハデス」、すなわち虎穴に入った。どうして神に反抗する資格が人間にあろうか。神について不平を述べるどんな理由が人間にあるというのか。どうして人間は厚かましくも神を見上げられるのか。天なる神は最も汚れたこの悪徳の地に来て、決して不満を漏らさず、人間について不平を言ったことがなく、人間の略奪[1]や抑圧を黙って受け入れる。人間の不合理な要求に反撃したことも、人間に対して過度の要求や不合理な要求をしたこともない。教えること、啓くこと、叱責、言葉による精錬、注意の喚起、勧告、慰めること、裁くこと、暴くことなど、人間が必要とするすべての働きを、神は不平を言わずに行なうだけである。神の諸段階のうち、どれが人のいのちのためではなかったというのか。神は人間の前途や運命を取り去ったが、神によって行なわれた段階のうち、どれが人間の運命のためではなかったというのか。その段階のうち、どれが人間の生存のためではなかったというのか。それらのうちどれが人間をこの苦難から、夜のように黒い闇の勢力の抑圧から解放するためではなかったというのか。どれが人間のためではなかったというのか。愛情溢れる母のような神の心を、誰が理解できるというのか。神の真剣な心を、誰が理解できるというのか。神の情熱的な心と熱心な期待は、人間の冷酷な心、冷淡かつ無関心な眼差し、そして非難と侮辱の繰り返しによって報われてきた。つまり、辛辣な言葉と皮肉、蔑み、嘲笑、蹂躙と拒否、誤解と愚痴、疎外と忌避、そして他ならぬ欺瞞、攻撃、および苦しみで報いられてきたのである。温かい言葉に対しては、敵意の表情と、冷淡な反抗の意味をこめて振られる千本の人差し指が向けられた。神は我慢して頭を下げ、おとなしく従う牛のごとく人々に仕えるしかない[2]。神は幾度となく太陽と月と星を見上げてきた。神は幾度となく日の出と共に発ち、日の入りと共に戻って来て、父のもとを去った時より千倍大きな苦痛、人間の攻撃と打撃、そして取り扱いと刈り込みを耐え忍びながら、悶々として眠れぬ夜を過ごしてきた。神の謙虚さと慎ましさは、人間の偏見[3]、不当な意見、不公平な扱いで応じられ、また神が世に知られず静かに働きを行なう様、神の忍耐強さ、そして寛容さは、人間の強欲な眼差しで報いられ、人間は何のためらいもなく神を踏みにじり、足蹴にして殺そうとする。神に接する人間の態度は、「類い希なる聡明さ」の一つであり、人間に虐待され、侮蔑された神が幾万もの人の足で踏みつぶされる一方、人間は意気揚々として立っている。それはあたかも丘陵に住む王のようであり、絶対的権力の掌握[4]を望み、陰で宮廷を支配し、神を誠実で規則に従い、逆らったり問題を起こしたりすることを許されない、裏方の主事にしようとしているかのようである。神は『末代皇帝』の役を演じ、何の自由もない操り人形[5]にならなければならない。人間の所行は筆舌に尽くしがたい。それならば、どうして神にあれこれ要求する資格が人間にあろうか。どうして神に提案する資格が人間にあろうか。どうして人間の弱点に同情するよう神に求める資格が人間にあろうか。どうして人間が神の憐れみを授かるのにふさわしいのか。どうして人間が神の寛大さを何度も得るのにふさわしいのか。どうして人間が神の赦しを何度も得るのにふさわしいのか。人間の良心はどこにあるのか。人間ははるか昔に神の心を傷つけ、それを砕け散ったままにして久しい。神は、たとえわずかな温厚さしか伴わなくても、人間が神に思いやりをもつことを期待して、生き生きと眼を輝かせ、溌剌として人間の中に来た。しかし、神の心が人間によって慰められることは一向になく、神が受けてきたのは、激しさを増す一方の[6]攻撃と責め苦のみである。人間の心は過度に貪欲であり、人間の欲望は大きすぎ、人間は決して飽き足りることを知らず、常に問題を起こし、無鉄砲であり、神に自由や発言の権利を決して与えず、神は恥辱に屈し、人間によって好きなように操られることを余儀なくされている。

『神の出現と働き』「働きと入ること(9)」(『言葉』第1巻)

脚注

1.「略奪」は人類の不従順さを暴くために用いられている。

2.「敵意の表情と、冷淡な反抗の意味をこめて振られる千本の人差し指が向けられ、我慢して頭を下げ、おとなしく従う牛のごとく人々に仕える」は、原文では一文だったが、意味をより明確にするために、ここでは二文に分けてある。この文の最初の部分は人間の行為を指し、次の部分は神が受けた苦難と、神が謙虚に隠れていることを示している。

3.「偏見」は人々の不従順な振る舞いを指す。

4.「絶対的権力の掌握」は人々の従順でない振る舞いを指す。人間は自らを高く掲げ、他者を束縛し、自分に従わせ、自分のために苦しませる。そうした者が神に敵対する勢力である。

5.「操り人形」は、神を知らない者を揶揄するために用いられている。

6.「激しさを増す一方の」は、人々の卑しい行動を強調するために用いられている。


日々の神の御言葉 抜粋 197

神の受肉はあらゆる宗教や各界に衝撃波を送り、宗教界の本来の秩序を「混乱に陥れ」、神の出現を待ち望むすべての人の心を揺るがした。慕わない者がいるだろうか。神に会うのを待ち焦がれない者がいるだろうか。神は長年にわたり自ら人間のもとにいるが、人間はまだそれに気づかない。現在、神自身が現われ、大衆に自らの身分を示した。それが人間の心に喜びをもたらさないことが、どうしてあり得ようか。神はかつて喜びや悲しみを人間と共にし、現在は人間と再会して、過ぎ去った日々の話を人間と分かち合っている。神がユダヤから去った後、人々は神の消息をまったく掴めなくなった。彼らは神との再会を待ち望んでいるが、今日すでに神と再会し、再び神と共にあることをほとんど知らない。このことが過去の思いを呼び起こさないことがどうしてあり得ようか。二千年前の今日、ユダヤ人の末裔シモン・バルヨナは救い主イエスを目の当たりにし、同じ食卓で食事をとり、長年にわたって付き従った後、主に対していっそう深い愛慕を抱いた。シモンは心の底から深く主イエスを愛した。冷たい飼葉桶に生まれた金髪の赤ん坊がどういうわけで神の受肉の最初の姿であるのか、ユダヤの人々はまったく知らなかった。彼らはみな、イエスは自分たちと同じだと考え、違うと考える者はいなかった。この平凡でありふれたイエスに、人々がどうして気づけるだろうか。ユダヤの人々は彼のことを、当時のユダヤ人の息子と考えた。イエスを愛しむべき神として見上げる者はいなかったのである。そして人々は彼に対して、豊かで溢れんばかりの恵みと平和と喜びを授けてほしいなど、やみくもに要求するだけだった。そうした者は、イエスは億万長者のように人が望むすべてのものをもっているとしか認識せず、彼を愛されている存在として扱うことはなかった。当時の人々は彼を愛さず、彼に反抗し、不合理な要求を彼に突きつけるだけだった。彼は決して抵抗せず、それどころか、人間が彼を知らなかったにもかかわらず、人間に絶えず恵みを与えた。彼は人間に温もり、愛、そして慈しみを黙々と与えるだけで、またそれ以上に、人間に新たな実践方法を与え、人間を律法の束縛から導き出した。人間は彼を愛さず、ただ彼を羨み、彼の並外れた才能を認めるだけだった。愛しむべき救い主イエスが人類のもとに来た時、いかに大きな屈辱を受けたかなど、目が見えない人類にどうしてわかるだろうか。彼の苦痛を考えた者、父なる神に対する彼の愛を知る者、彼の孤独を知り得る者は、一人としていなかった。たとえマリアが彼の産みの母親だったとしても、憐み深い主イエスの心にある考えを、どうして彼女が知り得ただろうか。人の子が耐えた筆舌に尽くしがたい苦難を、誰が知っていたというのか。当時の人々は彼に要求を突きつけた後、冷淡にも彼を心の奥へと追いやり、外へ追い出した。それゆえ、彼は来る日も来る日も、毎年毎年、長年にわたって往来を彷徨いながら、苦難に満ちた三十三年間の生涯を過ごしたが、その期間は長くもあり短くもあった。人々は彼を必要とする時、笑顔で彼を自宅に招き、彼に要求しようとした。そして彼が施しを行なった後、彼らは直ちに彼を家から追い出した。人々は彼の口から授けられた物を食べ、彼の血を飲み、彼が授けた恵みを享受する一方、彼に反抗した。なぜなら、自分にいのちを与えたのが誰かを知らなかったからである。最終的に、人々は彼を十字架にかけたが、それでも彼は黙していた。現在も彼は黙したままである。人々は彼の肉を食べ、彼の血を飲み、彼が人々のために作る食べ物を口にし、彼が人々のために拓いた道を歩んでいるが、なおも彼を拒もうとしており、自分にいのちを授けた神をなんと敵とみなし、自分と同様の奴隷を天なる父として扱う。そうすることで、人々は故意に神に反抗しているのではないか。イエスが十字架で死ぬに至ったのは、どういうことだったのか。あなたがたは知っているのか。彼は、自分に最も親しく、かつ彼を食べ、彼を享受したユダに裏切られたのではないか。ユダがイエスを裏切ったのは、イエスが取るに足りない普通の教師に過ぎなかったからなのか。仮に人々が、イエスが非凡であり、天に由来する者であることを本当に理解していたのなら、どうして彼の身体が息絶えるまで、二十四時間にわたり十字架にかけられたのだろうか。誰が神を知り得ようか。人間は飽くことのない貪欲さで神を享受するばかりで、いまだに神を知らない。人々はひさしを借りると母屋を取ろうとし、「イエス」を自分の指令や命令にすっかり服従させる。これまでに誰が、枕する所もないこの人の子のために、憐れみといえるものを示したのか。これまでに誰が、彼と力を合わせて父なる神の使命を成し遂げようと考えたのか。これまでに誰が、彼のことを少しでも考えたのか。これまでに誰が、彼の困難に配慮したのか。人間には微塵の愛もなく、彼を押しのけたり引っぱったりする。人間は自分の光といのちがどこから来たかを知らず、人間のあいだで苦難を経験した二千年前の「イエス」をいかにして再び十字架にかけようかと、密かに企てるだけである。「イエス」は本当にそうした憎しみをかき立てるのか。彼が行なったことは、遠い昔にすべて忘れ去られたのか。数千年にわたって募った憎しみは、最後に爆発するだろう。あなたがたはユダヤ人と同類である。あなたがたがそこまで強く憎むほど、「イエス」がいつあなたがたに敵意を抱いたというのか。彼はかくも多くのことを行ない、かくも多くのことを語った。そのどれもが、あなたがたにとって有益ではないのか。彼は何の見返りも求めることなく、自分のいのちをあなたがたに授け、自分のすべてをあなたがたに与えた。それでもなお、あなたがたは本当に彼を生きたまま食べたいというのか。彼は自分のすべてをあなたがたに与え、何一つ出し惜しみせず、この世の栄光や人間の温もり、人間の愛、あるいは人間の祝福を享受することもなかった。人々は彼に対して極めてさもしいのに、彼は地上の富を一切享受せず、誠実さと情熱に溢れた心を残らず人間に捧げ、また自身のすべてを人類に捧げた。では、彼に温もりを与えた者がかつていただろうか。誰がいまだかつて彼に慰めを与えたというのか。人間は彼にあらゆる圧力をかけ、すべての不幸をもたらし、人間の中で最も不幸な経験を押しつけ、あらゆる不義を彼のせいにし、そして彼はそれを無言で受け入れてきた。彼がいまだかつて誰かに反抗したことがあるのか。わずかな報いを誰かに求めたことがあるのか。彼に同情を示した者がかつていたのか。普通の人間であるあなたがたのうち、ロマンに満ちた幼年期を過ごさなかった者がいるだろうか。色鮮やかな青春を過ごさなかった者がいるだろうか。愛する者の温もりを知らない者がいるだろうか。誰が親類や友人の愛を知らないというのか。誰が他人に尊敬されていないというのか。誰が暖かい家庭をもたないというのか。誰が心を通わせる者の慰めを知らないというのか。しかるに、神はそのどれかをかつて享受しただろうか。誰が彼に少しでも温もりを与えたというのか。誰が彼に少しでも慰めを与えたというのか。誰が彼に少しでも人間の倫理を示したというのか。誰が彼に対して寛容だったというのか。誰が困難な時に彼と共にいたというのか。誰が彼と共に困難な生活を送ったというのか。人間は彼に対する要求を緩めたことがない。人間は何の良心の呵責もなく、彼に対して要求を突きつけるだけであり、それはあたかも、人間の世界に来た彼は、人間の牛馬や囚人となって、自分のすべてを人間に与える必要があると言わんばかりである。さもなければ、人間は決して彼を許さず、彼に対して手を緩めず、彼を神と呼ばず、決して彼を高く評価しないだろう。人間は、神に対してあまりに厳しい態度をとり、それはあたかも人間が神を苦しめて殺そうと躍起になり、その後初めて神に対する要求を緩め、さもなければ神に対する要求の基準を決して下げないかのようである。そのような人間が神に忌み嫌われないことが、どうしてあり得ようか。それが現在の悲劇ではないのか。人間の良心はどこにも見られない。人間は神の愛に報いると言い続けるが、神を切り裂き、苦しめて死に至らしめる。これぞまさに、人間が祖先から受け継いだ、神への信仰の「秘訣」ではないのか。「ユダヤ人」が見つからない場所はなく、彼らは今なお同様の働きを行ない、神に反抗する働きを続けているが、自分たちは神を高く掲げていると信じている。人間がどうして自らの眼で神を認識できようか。霊に由来する受肉した神を、肉において生きる人間がどうして神として扱えようか。人間のうち、誰が神を知ることができるというのか。真理は人間の中のどこにあるのか。真の義はどこにあるのか。誰が神の性質を知り得ようか。誰が天の神と争えようか。神が人間のもとに来た時、誰も神を知らなかったので、神が拒まれたのも無理はない。人間がどうして神の存在を容認できようか。光がこの世の闇を追い払うことを、どうして人間が許せようか。これらはどれも人による貴ぶべき献身ではないのか。人間の正しい入りではないのか。そして、神の働きは人の入りを中心にしているのではないのか。あなたがたが神の働きと人の入りを融合し、人間と神の良好な関係を築き、人間が行なうべき本分を全力で尽くすことを、わたしは望む。このように、神が栄光を得ることを結びとして、神の働きは完了するだろう。

『神の出現と働き』「働きと入ること(10)」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 198

現在、わたしは中国における神の選民の中で働きを行ない、彼らの反抗的性質をすべて明らかにし、彼らの醜さのすべてを暴く。これが、わたしが言うべきことすべての背景となる。後にわたしが全宇宙を征服する次の段階の働きを行うとき、あなたがたへの裁きを用いて全宇宙のあらゆる人の不義を裁く。なぜなら、あなたがたは人類の中の反抗的な者たちの代表だからである。向上できなければ、単なる引き立て役、仕える者となるが、一方、向上できるならば用いられる。なぜわたしは向上できなければ引き立て役にしかなれないと言うのか。それは、わたしの現在の言葉と働きはみな、あなたがたの背景を標的にしており、また、あなたがたが全人類の反抗的な者たちの代表、典型となったからである。後にわたしは、あなたがたを征服するこれらの言葉を外国に伝え、そこの人を征服するために用いる。しかしその時、あなたはそれらを獲得していないであろう。それではあなたは引き立て役になるのではないか。全人類の堕落した性質、人間の反抗的行為、人間の醜い姿と顔はみな、あなたがたを征服するために用いられる言葉の中に記録されている。わたしは、これらの言葉を用いて、あらゆる国と教派の人々を征服する。なぜならあなたがたは原型であり先例だからである。しかし、わたしは意図的にあなたがたを最初から捨てようとして始めたのではない。もしあなたがたの追求がうまく行かず、したがって、あなたがたが救いようのない者であることを証明するならば、あなたがたはただの道具、引き立て役になるのではないのか。かつてわたしは、わたしの知恵はサタンの計略に基づいて実行されると言った。なぜそう言ったのか。それは、わたしが今言っていること、行っていることの背後にある真実ではないのか。もしあなたが向上することができず、完全にされるのではなく、むしろ罰されるのなら、引き立て役になるのではないのか。あなたは時に応じて充分に苦しんだかもしれない。しかし今なお、あなたは何も解かっていない。あなたはいのちに関連するあらゆることについて無知である。罰せられ裁かれたにもかかわらず、まったく変わらず、あなたの奥底ではまだいのちを獲得していない。あなたの働きを試す時が来ると、あなたは火のように激しい試練と、さらに大きな患難を体験する。この火はあなたの全存在を灰にする。いのちを持たない者として、内に一かけらの純金も持たない者として、いまだに古い堕落した性質から抜け出せない者として、引き立て役としてでさえ良い仕事ができない者として、どうしてあなたが淘汰されないことなどありえようか。一文の価値もなく、いのちを持たない者が、征服の働きに役立てようか。その時が来ると、あなたがたの日々はノアやソドムよりも困難になる。その時あなたの祈りは何の役にもたたない。救いの働きがすでに終わっているのに、どうして後で戻ってきて最初から悔い改めることができるというのか。一度すべての救いの働きが完了すれば、それで終わりである。その時には、邪悪な者たちを罰する働きが開始される。あなたは抵抗し、逆らい、自分で悪だと分かっていることをする。あなたは厳しい罰の対象ではないのか。わたしは、あなたのためにこのことを今日、一字一句説明している。あなたが耳を傾けないのなら、後に患難があなたに臨む時にやっと後悔し、信じ始めたところで、それはもう遅過ぎるのではないのか。わたしは今日、あなたに悔い改める機会を与えているが、あなたはそのつもりはない。あとどれほど待つつもりなのか。刑罰の日までか。わたしは今日、あなたの過去の背きを憶えてはいない。わたしはあなたを幾度も幾度も赦し、あなたの消極的な面から目をそらし、あなたの積極的な面だけに目を留める。なぜなら、わたしの現在の言葉と働きはすべて、あなたを救うためであり、わたしはあなたに対して何の悪意もないからである。それでもあなたは入ることを拒む。あなたは善悪を区別することができず、優しさの価値を認識できない。このような人は懲罰と義なる報復をただ待っているのではないのか。

『神の出現と働き』「征服の働きの内幕(1)」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 199

モーセが岩を打ったとき、ヤーウェが授けた水がほとばしり出たのは、モーセの信仰のためだった。ダビデがわたしヤーウェを賛美して琴を奏でたとき、ダビデの心は喜びに満ちており、それは彼の信仰のためだった。ヨブが山々を埋め尽くすほど多くの家畜や膨大な量の財産を失い、その体が腫物で覆われたのは、彼の信仰のためだった。彼がわたしヤーウェの声を聞き、わたしヤーウェの栄光を見ることができたのは、彼の信仰のためだった。ペテロがイエス・キリストに付き従うことができたのは、ペテロの信仰によるものだった。彼がわたしのために十字架に釘づけにされ、栄光ある証しとなることができたのも、彼の信仰によるものだった。ヨハネが人の子の輝かしい姿を見たのは、彼の信仰によるものだった。そして彼が終わりの日の幻を見たのも、なおさら彼の信仰のためであった。数多くのいわゆる異邦の民がわたしの啓示を受け、わたしが人々のもとで働くために肉となって再来したことを知るようになったのも、また彼らの信仰のためだ。わたしの厳しい言葉に打ちのめされつつも、それによって慰められ、そして救われたすべての者たちは、みな信仰のゆえにそうなったのではないか。人は信仰ゆえに多くのものを受けた。受けるのはいつも祝福だとは限らない。ダビデが感じたような幸せと喜びを受け取らないかもしれず、モーセのようにヤーウェから水を授からないかもしれない。例えば、ヨブは信仰ゆえにヤーウェによって祝福されただけではなく、災いも受けた。祝福されようが、災いを受けようが、どちらも祝福された出来事である。信仰なくして、この征服の働きを受けることはできず、ましてやヤーウェの業が今日、目の前で展開するのを見ることなどできない。見えないであろうし、ましてや受けることなどできはしない。これらの懲罰、災難、すべての裁き、もしこれらがあなたに起こらなければ、あなたは今日ヤーウェの業を見ることができるであろうか。今日、あなたが征服されることができるのは信仰のゆえであり、征服されるからこそ、ヤーウェのあらゆる業を信じることができる。ただ信仰のゆえに、あなたはこのような刑罰と裁きを受ける。この刑罰と裁きを通して、あなたは征服され、完全にされる。今日受けているような刑罰と裁きなしには、あなたの信仰は虚しい。なぜなら、それなしにはあなたは神を知ることがないからである。どれほど神を信じていても、あなたの信仰は現実に基づかない、むなしい表現の一つである。あなたを完全に従順にする、この征服の働きを受けてはじめて、あなたの信仰は真実で確固としたものになり、あなたの心は神の方へ向く。たとえこの「信仰」という言葉のために大いに裁かれ呪われるとしても、あなたは真の信仰をもち、最も真実で、最も現実的で、最も貴重なものを得る。なぜなら、裁きの過程においてでなければ、あなたには神の創造物の終着点が見えないからである。この裁きの中で、あなたは創造主が愛すべき方であることを知る。こうした征服の働きの中に、あなたは神の腕を見る。この征服の中であなたは人として生きることを完全に理解するようになる。この征服の中で、あなたは人として生きる正しい道を獲得し、「人間」の真の意味を知るようになる。この征服の中でのみ、あなたは全能者の義の性質と美しい栄光に満ちた顔を見る。この征服の働きの中で、あなたは人間の起源と全人類の「不滅の歴史」を理解する。この征服の中で、あなたは人類の祖先と人類の堕落の起源を理解するようになる。この征服の中で、あなたは喜びと慰め、また、絶え間ない懲らしめと訓練、創造主が自ら創造した人類に送る叱責の言葉を受ける。この征服の働きの中で、あなたは祝福と、人間の受けるべき災難を受ける……。これはすべて、あなたのわずかばかりの信仰ゆえではないのか。これらのものを得た後、あなたの信仰は成長しなかったのか。あなたは膨大なものを得たのではないのか。あなたは神の言葉を聞き神の知恵を見ただけではなく、神の働きの各過程を自ら体験した。信仰がなければ、このような刑罰や裁きを受けて苦しまなかったのではないか、と言うかもしれない。しかし、信仰がなければ、こうした刑罰も、全能者からのこのような配慮も受けることができないだけでなく、創造主に会う機会も永遠に失うであろう。人間の起源を知ることは決してないだろうし、人生の意義を知ることも決してないであろう。たとえ体が死んで魂が離れても、あなたはまだ創造主の業のすべてを理解していないであろう。ましてや、創造主が人類を創造した後、このような偉大な働きを地上で行なったことを知りはしないであろう。神が創造したこの人類の一員として、あなたは不可解にも自ら進んでこのように闇の中に落ちて永遠の罰を受けようというのか。もし今日の刑罰と裁きから離れたなら、あなたにはいったい何が起こるであろうか。ひとたび今の裁きから離れてしまえば、この困難な生活から逃れられるとでも思っているのか。もし「この場所」を去ったなら、悲痛な苦悶と悪魔が加える残酷な傷害に遭遇するのではないのか。耐え難い苦しみを日夜受けることになるのではないのか。今日この裁きを逃れたからといって、将来の責め苦を永久に避けられるとでも思っているのか。あなたには何が起こるであろうか。それはほんとうに望みどおりの理想郷であろうか。今しているようにただ現実から逃げることで、その後の永遠の刑罰を逃れられるとでも思っているのか。今日より後、このような機会や祝福を再び見出せるであろうか。災厄が襲ってきた時、それを見出せるであろうか。全人類が安息に入るとき、それを見出すことができるであろうか。あなたの現在の幸福な生活と調和あるささやかな家庭が、永遠の終着点にとって代われるであろうか。もしあなたに真の信仰があるならば、そして信仰ゆえに多くのものを得るのなら、それはすべて、あなたというひとつの被造物が獲得すべきものであり、元来もっていたはずのものである。あなたの信仰といのちにとって、このような征服よりも有益なものは他にない。

『神の出現と働き』「征服の働きの内幕(1)」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 200

今日、気づいているべきことは、どのように征服されるのか、征服された後、人はどのように振る舞うのかである。あなたは自分はすでに征服されていると言うかもしれないが、死に至るまで服従できるのか。自分の前途があるかどうかにかかわらず、最後まで従うことができなければならない。また、まわりの状況に関わらず、神への信仰を失ってはならない。最終的に、証しの二側面を達成しなければならない。ヨブの証し、すなわち死に至るまでの従順、そしてペテロの証し、すなわち神への至上の愛である。一側面では、ヨブのようでなければならない。ヨブは物質的な財産をすべて失い、肉の痛みに苦しめられたが、それでもヤーウェの名を捨てなかった。これがヨブの証しである。ペテロは死に至るまで神を愛することができた。ペテロは十字架につけられ死に直面してもなお神を愛していた。彼は自分の前途のことを思わず、輝かしい願いや途方もない思いを追い求めなかった。ひたすら神を愛し、神のはからいのすべてに従うことだけを求めたのである。証しを立てたと見なされることができるまでには、また、征服された後で完全にされた人となるまでには、このような水準に達しなければならない。今日、もし人がほんとうに自分の本質や地位を知っていたなら、なおも自分の前途や願いを求めるだろうか。あなたが知っているべきことは、こうである。神がわたしを完全にするかどうかにかかわらず、わたしは神に従わなければならない。神が今していることはみな良く、それはわたしのために行われている。それは、わたしたちの性質が変わり、わたしたちが自分からサタンの影響を取り除くことができるようになり、汚れの地で生まれたものの、自分自身から不純物を取り除き、汚れとサタンの影響を振り払い、サタンの影響を捨て去ることができるようにするためである。もちろん、これはあなたに要求されることだが、神にとっては、人が従う決意をして神の采配のすべてに従うようになるように行う征服にすぎない。このようにして、ものごとは成し遂げられる。今日、ほとんどの人はすでに征服されているが、その内面にはいまだに反抗的で不服従なものが沢山ある。人の真の霊的背丈はまだあまりに小さいが、希望と前途があるなら、活力に満たされることが可能である。希望と前途がなければ、人は消極的になり、神から離れることさえ考える。さらに、人には正常な人間性を生きようとする強い願望がない。これは容認できない。だから、わたしは征服についてまだ話さなければならないのである。実のところ、完全にされることは征服と同時である。征服されるにつれ、完全にされることによる最初の成果も得られる。征服されることと完全にされることに違いが見られるのは、人における変化の度合いによるものである。征服されることは、完全にされることの最初の一歩であって、その人がすでに完全に完成されたというわけではなく、また、完全に神のものにされたことを証明してもいない。人が征服されると、その性質にはいくつかの変化が起こる。しかし、そのような変化は完全に神のものとなった人に見られる変化には遥かに及ばない。今日、完了しているのは人間を完全にする最初の働き、つまり征服である。そして、もし征服されることができないのなら、完全にされるすべはなく、完全に神のものとされることもない。ただわずかばかりの刑罰と裁きの言葉を受けるだけだが、それはあなたの心を完全に変えることはできない。したがって、あなたは淘汰される者の一人となる。それは、豪華な食卓をただ目にするだけで、食べないのと同じである。これはあなたにとって悲劇的な筋書きではないだろうか。だから変化を求めなければならない。征服されることであれ、完全にされることであれ、いずれもあなたの内に変化があるか、従順であるかどうかに関係があり、これがあなたが神のものとなり得るかどうかを決定する。「征服されること」と「完全にされること」は、ただ変化と従順さの度合い、また人の神への愛がどれほど純粋であるかに基づいていることを心に留めなさい。今日求められているのは、あなたがすっかり完全にされることができることだが、まず初めに、征服されなければならない。つまり、あなたは神の刑罰と裁きについて充分に認識していなければならず、従うための信仰を持っていなければならず、また変化を求め、神を知ろうとしなければならない。その時初めて、あなたは完全にされることを求める人となる。完全にされる過程において征服され、征服される過程において完全にされるということを理解すべきである。今日、完全にされることや、外側の人間性における変化と素質の向上を求めることができる。しかし、最も重要なことは、神が今日行うことにはみな意味があり有益であるということを理解できることである。それにより、汚れに満ちた地で生まれたあなたは汚れを逃れ、払い落とすことができる。それにより、あなたはサタンの影響を克服し、サタンの闇の影響から離れることができる。そして、これらに集中することによって、あなたはこの汚れの地において守られる。最終的にどのような証しを立てることをあなたは求められるのか。あなたは汚れの地で生まれたが、聖くなることができ、二度と汚れることがなく、またサタンの支配下に生きているが、サタンの影響から脱け出すことができ、もはやサタンにとりつかれたり悩まされたりすることもなく、全能者の手の中で生きることができる。これが証しであり、サタンとの戦いに勝利した証拠である。あなたはサタンを捨てることができ、自分の生においてサタン的な性質を表わすことはもはやなく、その代わり、神が人間を創造したとき、人間に達成するよう求めたことを生きる。それはすなわち、正常な人間性、正常な理知、正常な見識、神を愛そうという正常な決意、神への忠実である。これこそが神の創造物が立てる証しである。あなたは言う。「わたしたちは汚れの地で生まれたが、神の守りのおかげで、神の導きのおかげで、また、神がわたしたちを征服したおかげで、わたしたちは自分からサタンの影響を取り除いた。わたしたちが今日従えるのもまた神による征服の成果であり、わたしたちが良いからでも、わたしたちが自然に神を愛したからでもない。神がわたしたちを選び、予め定めたからこそ、わたしたちは今日征服されており、神に証しを立てることができ、神に仕えることができるのである。また、神がわたしたちを選び、守ったから、わたしたちは救われ、サタンの支配から助け出され、赤い大きな竜の国にあっても汚れを捨てて清められることができる」。

『神の出現と働き』「征服の働きの内幕(2)」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 201

終わりの日の働きはあらゆる規則を打ち破る。そして、あなたが呪われているか罰せられているかに関わらず、わたしの働きを助け、今日の征服の働きの役に立つ限り、また、モアブの子孫であろうと赤い大きな竜の末裔であろうと、この段階の働きで神の創造物としての本分を果たし、出来る限りの努力をするのなら、必要な成果は得られる。あなたは赤い大きな竜の末裔であり、モアブの子孫である。要するに、肉と血から成る者はみな神の被造物であり、創造主に創られた。あなたは神の創造物であり、他に選択の道はないはずである。これはあなたの本分である。もちろん、今日、創造主の働きは全宇宙に向けられている。誰の子孫であるかにかかわらず、何よりもあなたは神の創造物のひとつである。あなたがたモアブの子孫は神の創造物の一部であり、唯一の違いは、あなたがたは地位が低いというだけである。今日、神の働きはすべての創造物のもとで、全宇宙に向けて行われているので、創造主は働きを行なうためにどの人や物事を選ぼうと自由である。神は、あなたが誰の子孫であったかなど気には留めない。あなたが神の創造物のひとつである限り、また、神の働き、すなわち征服と証しの働きに有益である限り、神はあなたの中でためらうことなく働く。これは人の伝統的な観念を打ち砕く。すなわち、神はけっして異邦人のもとでは、とりわけ呪われた卑しい者のもとでは働かず、それは呪われた者は後世も永遠に呪われており、けっして救われる機会がないからだとか、神は聖いので、けっして異邦人の国に下り働くことも汚れた国に足を踏み入れることもないとかいうものである。このような観念はすべて終わりの日の神の働きによって粉砕されている。神はあらゆる創造物の神であり、天と地と万物を支配しており、イスラエル人だけの神ではないことを知りなさい。したがって、中国でのこの働きには極めて大きな意義がある。そして、それはあらゆる国に広まるのではないのか。未来の大いなる証しは、中国だけに限られない。もし神があなたがただけを征服したなら、悪魔は説き伏せられるだろうか。悪魔には征服されることや、神の偉大な力は理解できない。全宇宙の神の選民が、この働きの究極的成果を目にして初めて、すべての創造物が征服されるのである。モアブの子孫ほど後進的で堕落した者はいない。もしこのような人たちが征服されたなら、つまり最も堕落して、神を認めず、神が存在することを信じてもいなかった人たちが征服されようものなら、そして、その口で神を認め、神を讃え、神を愛せるのなら、それこそが征服の証しである。あなたがたはペテロではないが、ペテロの姿で生きており、ペテロの証しを自分のものとすることができる。ヨブに関しても然りであり、それは最も偉大な証しである。最終的にあなたはこのように言う。「わたしたちはイスラエル人ではなく、見捨てられたモアブの子孫だ。またペテロでもなく、彼の素質にわたしたちは及ばない。またヨブでもない。神のために苦しみ、神に自らを捧げ尽くしたパウロの決意には匹敵することさえできない。そして、わたしたちはひどく遅れている。だから、わたしたちは神の祝福を享受する資格がない。それにもかかわらず、今日、神はわたしたちを引き上げた。だからわたしたちは神を満足させなければいけない。また、素質や資格が不十分であっても、わたしたちには神を満足させたいという思いがある。わたしたちにはその決意がある。わたしたちはモアブの子孫で、呪いを受けた。これは神の定めたことで、わたしたちには変えることはできない。しかし、わたしたちの生きざま、わたしたちの認識は変えられる。そしてわたしたちは神を満足させようと固く心に決めている」。このような決意があったなら、それはあなたが征服されることへの証しを立てた証拠となる。

『神の出現と働き』「征服の働きの内幕(2)」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 202

征服の働きで達成される成果は、まず何よりも人間の肉がもはや反抗しないことである。つまり、人間の知性が神についての新たな認識を得、人間の心が完全に神に従うようになり、人間が神のために存在することを望むようになることである。人の性格や肉体が変わっても、その人が征服されたとは言えない。人の考え、意識、理知が変化すれば、つまり、精神的な態度全体が変われば、神に征服されたのである。従うことを決意し、新たな心的態度を自分のものとし、もはや神の言葉や働きに独自の観念や意図を持ち込まず、頭脳が普通に考えることができるならば、つまり、神のために心を尽くして努力できるなら、このような人は完全に征服された人である。宗教において、多くの人は肉体を抑制し、十字架を負い、生涯にわたって大いに苦しむ。最期の息を引き取るまで苦しみ忍耐し続けることさえある。死ぬ日の朝まで断食を続けている人もいる。このような人はよい食物やよい衣服を生涯自ら拒否し、苦しみだけを重視する。肉体を抑制し、自らの肉を捨てられる。苦しみに耐える精神は賞賛に値する。しかし、このような人の考え方、観念、精神的態度、そしてまさに古い本性はほんの少しも取り扱いを受けたことがない。彼らには真の自己認識が欠けている。彼らが心に抱いている神の姿は、伝統的な抽象的で漠然としたものである。神のために苦しもうという彼らの決意は熱意、そして彼らの人間性の善良な性格から来ている。神を信じてはいるが、神を理解していないし、神の心意も知らないのである。彼らは神のためにただ盲目的に働き、苦しむだけである。識別というものを一切重視せず、自分の奉仕が実際に神の心意を満たすようにするにはどうするべきかなどは、ほとんど考慮しない。また、神を知るに至るためにはどうするかということもほとんど気づいていない。彼らの仕える神は本来の姿のものではなく、自分たちが想像してきた神、人から聞いたか、あるいは書物の伝説で読んだ神に過ぎない。彼らは豊かな想像力と敬虔な心をもって神のために苦しみ、神が行なおうとする働きに取り組む。彼らの奉仕は不正確なあまり、実際には神の旨に沿ってほんとうに奉仕を行なえる人は誰もいない。彼らが嬉々としてどれほど苦しもうと、彼らが持つ奉仕についての元来の考え方と神の姿は変わらないままである。なぜなら、彼らは神の裁きと刑罰、精錬と完成を経験していないからであり、真理に導かれたことがないからである。たとえ救い主イエスを信じていても、彼らの誰一人として救い主を見たことがない。ただ伝説と噂から救い主のことを知っているだけである。その結果、彼らの奉仕は盲人が父親に仕えるように、目を閉じて行き当たりばったりに仕えるにすぎない。このような奉仕で最終的に何を達成できるであろうか。そして、誰がそれを認めるのであろうか。最初から終わりまで、彼らの奉仕はまったく変わらないままである。彼らは人間の作り出した教えしか受けず、自分たちの本性と好みだけに基づいた奉仕をする。それがどんな褒美をもたらすというのか。イエスを見たペテロでさえ神の心意にあわせて仕えるにはどうするべきかを知らなかった。ペテロにこれがわかったのは最後、老年になってからである。このことから、取り扱いも刈り込みもまったく経験したことがなく、導いてくれる人もいなかった盲人について何が言えるであろうか。現在あなたがたのうちの多くの人の奉仕は、そうした盲人の奉仕のようではないのか。裁きを受けていない人、刈り込みと取り扱いを受けず変わらずにいる人、こうした人はみな、不完全にしか征服されていないのではないか。そうした人が何の役に立つのか。考え方、人生の理解、神についての理解が何の変化もなく、本当には何も得たものがないのなら、けっして奉仕によって顕著な成果を得られない。ビジョンと神の働きについての新しい認識なしでは、征服されることはない。そうであるなら、あなたの神に従う方法は、苦しみ断食する人たちと同じである。つまり、ほとんど無価値なのである。彼らのすることには証しがないからこそ、その奉仕が無駄だとわたしは言うのである。こうした人は生涯をとおして苦しみ、監獄で過ごし、いつまでも忍耐を示し、愛にあふれ、永遠に十字架を背負い、世の中からけなされ、拒まれ、あらゆる苦難を経験する。彼らは最後まで従うが、それでも征服されておらず、征服されたことについて何の証しもできない。彼らは少なからぬ苦しみを経ているが、心の中ではまったく神を知らずにいる。彼らの古い考え方、古い観念、宗教的実践、人間がつくった知識、人間の考えは取り扱いを受けていない。そこには新しい認識がまるでない。彼らが神について理解していることは、少しも真実でも正確でもない。彼らは神の心意を誤解している。それが神に仕えるということであろうか。過去にどのように神を理解していたとしても、今日もそれが同じままで、神が何をしようと、自分なりの観念や考えに基づいて神を理解し続けているならば、つまり、神について新しい真実の認識が一切なく、神の真の姿や性質を知ることができないならば、そして神をまだ封建的な迷信的な考え方に基づいて、人間の想像や観念に導かれて理解しているならば、あなたはまだ征服されていないのである。わたしは今、あなたに多くの言葉を語っているが、そのすべてはあなたに理解させ、それがあなたをより正しく新たな理解へと導くようにするためである。それはまた、あなたの古い観念や理解を一掃して、新たな認識を得られるようにするためでもある。もしほんとうにわたしの言葉を飲み食いするなら、理解は大きく変わる。従順な心で神の言葉を飲み食いするなら、視点は逆転する。繰り返し刑罰を受け入れられる限り、古い考え方は徐々に変化する。新たな考え方が古いものに完全に取って代わるなら、実践もまたそれに伴って変わっていく。このようにして、奉仕はますます適切なもの、ますます神の心意にかなうものになっていく。もし自分の生活、人生についての認識、神についての多くの観念を変えられるなら、持って生まれた性質は徐々に減じる。これが、そしてこれこそが、神が人間を征服したときの成果であり、これが人間に見られる変化である。神への信仰において、自分の体を抑制し、耐え、苦しむことしか知らず、それが正しいことなのか悪いことなのか、まして、それが誰のために行われるのかわからないなら、どうしてそのような実践が変化につながるであろうか。

『神の出現と働き』「征服の働きの内幕(3)」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 203

完全にされるとは何を意味するのか。征服されるとは何を意味するのか。人が征服されるには、どういう条件を満たさなければならないのか。また、完全にされるには、どういう条件を満たさなければならないのか。征服することと完全にすることは、いずれも人間が本来の姿を取り戻し、堕落したサタン的性質とサタンの影響から解放されるように人間を完全にするのが目的である。この征服は人間への働きの過程の初期に行われる。確かにそれは、その働きの第一段階である。完全にするのは第二段階であり、それは終結の働きである。人間はみな征服される過程を経なければならない。そうでなければ、神を知るすべはなく、神がいることに気づくことはない。つまり、人が神を認めることは不可能になる。そして、もし神を認めることができないのなら、人が神に完全にされることも不可能となる。なぜなら、完全にされるための条件をあなたが満たしていないからである。神を認めさえもしないのなら、どうして神を知ることができようか。また、どうして神を追い求めることができようか。神への証しを立てることができないし、まして、神を満足させるような信仰をもつことなどできない。だから、誰でも完全にされたい人にとって、第一段階は征服の働きを経ることでなければならない。これがまず第一条件である。しかし、征服することも完全にすることも人間に働きかけ人間を変えるためであり、それぞれが人間を経営する(救う)働きの一部である。この二つの段階は、人を完全にするために必要であり、どちらもおろそかにすることはできない。確かに「征服される」というのはあまりよい響きではないが、実際のところ、人を征服する過程とは人を変える過程である。ひとたび征服されても、あなたの堕落した性質は完全には取り除かれないかもしれないが、あなたはそれを知ったことになる。征服の働きを通して、あなたは自分の低劣な人間性と、さらには自らの不服従もかなり知るようになっている。これらを捨てることも変えることも征服の働きの短期間にはできないが、あなたはそれを知るようになり、このことがあなたを完全にするための基礎を築く。このように、征服することと完全にすることとはどちらも人間を変え、人間の堕落したサタン的性質を取り除くために行われ、その結果、人間は自身を神に完全に捧げられるようにする。征服されるということは、人間の性質を変えることにおける第一段階でしかなく、また、人間が完全に神に身を捧げることにおける第一段階でもあり、そのため完全にされる段階より低い。征服された人のいのちの性質は、完全にされた人のものよりもずっと変化が少ない。征服されることと完全にされることとは、概念的に互いに異なっている。なぜならふたつは違う段階の働きであって、人に異なった水準を要求するからである。征服において人は低い水準を要求され、完全にする段階では水準は高くなる。完全にされた人は義なる人、聖められた人であり、人間を経営する働きの結晶化、あるいは完成品である。この人は完全な人間ではないが、意味のある人生を生きることを求める。一方、征服された人は神が存在することを言葉で認めるだけである。彼らは神が受肉し、言葉が肉において現れ、神が裁きと刑罰の働きを行うために地上に来たことを認める。また、神の裁きと刑罰、神の鞭と鍛錬はすべて人間にとって有益であることも認める。彼らは最近になって人間のような姿を持ち始めたばかりである。人生について何らかの識見はあるが、それはまだ彼らには漠然としている。言い換えると、彼らは人間性をもち始めたばかりなのである。これらが征服されることの成果である。人が完全への道に踏み出すと、彼らの古い性質は変わることができる。さらに、いのちは成長を続け、人は徐々に真理の中へ深く入っていく。彼らはこの世と真理を追い求めないすべての人を嫌悪をすることができる。彼らはとりわけ自分自身を嫌悪するが、ただそれだけではなく、明らかに自分自身を知っている。彼らには真理によって生きる意欲があり、真理を追い求めることを目標とする。自分の脳が生み出した考えの中で生きるつもりはなく、人間の独善性、傲慢、うぬぼれに深い嫌悪感を持つ。彼らは品格を強く意識して話し、識別力と知恵でもってものごとに対処し、神に忠実で従順である。もし刑罰と裁きとを経験することがあっても、受動的になったり弱くなったりしないどころか、神による刑罰と裁きに感謝する。彼らは神の刑罰と裁きなしではやっていけず、それらは彼らを守ると信じている。彼らは平和と喜びからなる飢えを満たすためにパンを求めるような信仰を追い求めない。一時的な肉の快楽を追いかけることもない。これが完全にされた人に起こることである。人は征服された後、神がいることを認めるが、その承認は、限られた形で人の中に現われる。言葉が肉において現れるということは、実際には何を意味するのか。受肉とは何を意味するのか。受肉した神は何をしたのか。神の働きの目標と意義とは何か。神の働きと肉における神の業をこれほど多く体験した後、あなたは何を獲得したのか。これらのことをすべて理解して初めて、あなたは征服された人となる。神がいることを認めると言うだけで捨て去るべきものを捨てず、捨てるべき肉の快楽を捨てず、その代わりにこれまでと同様に肉の快楽を切望し続け、兄弟姉妹に対する偏見を捨て去ることができず、多くの簡単な実践を行うにおいて一切の代償を払わないならば、それはあなたがまだ征服されていないことの証拠である。この場合、たとえあなたが多くのことを理解していても、それはすべて何の役にも立たない。征服された人とは、ある程度最初の変化を達成し、入り始めた人である。神の裁きと刑罰を体験することによって、人は神についてと真理について認識し始める。さらに深く具体的な真理の現実性に完全に入ることはできないかもしれないが、実際の生活において多くの初歩的な真理を実行することは可能である。例えば、肉の快楽や個人的な地位に関与することなどである。このすべてのことが、征服の過程において人の内で達成される成果である。性質の変化は征服された人にも見られる。例えば、人の服装、身だしなみ、生き方などもすべて変わることがありえる。神への信仰についての見方が変わり、追求する目標を明瞭に理解し、願望はさらに高まる。征服の働きのあいだ、いのちの性質にも対応する変化が起こる。変化はあるが、浅く、初歩的で、完全にされた人に見られるような性質の変化と追求の目的に比べると、はるかに劣っている。もし征服される過程において、ある人の性質がまったく変わらず、真理もまったく自分のものとすることがないなら、この人はゴミであり全然役に立たない。征服されていない人を完全にすることはできない。征服されることのみを求める人は、たとえ征服の働きのあいだに性質にある程度それ相応の変化が見られたとしても、充分に完全にされることはできない。その人は最初に獲得した真理も失うことになる。征服された人と完全にされた人に起こる性質の変化には非常に大きな違いがある。しかし、征服されることは変化の第一歩であり、それは基盤である。この最初の変化が欠けているということは、その人が実際には神をまったく知らない証拠である。なぜなら、その認識は裁きから来るからで、そのような裁きは征服の働きの主要な部分だからである。したがって、完全にされた人はみな最初に征服されなければならない。そうでなければ、その人が完全にされることはない。

『神の出現と働き』「征服の働きの内幕(4)」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 204

今日、わたしは、あなたがた自身の生存のために、あなたがたに警告する。それは、わたしの働きが順調に進み、全宇宙でわたしの幕開けの働きがより適切に、より完全に遂行されるようにし、そうしてすべての国と民族の人々に、わたしの言葉、権威、威厳、裁きを明かすためである。あなたがたのあいだでわたしが行う働きは、全宇宙に及ぶわたしの働きの始まりである。今はすでに終わりの日の時だが、「終わりの日」とは一つの時代の名称に過ぎないことを知りなさい。それは律法の時代や恵みの時代とまったく同じように、一つの時代を指しており、最後の数年間や数カ月ではなく、むしろその時代全体を示している。ただし、終わりの日は、恵みの時代や律法の時代とまったく異なる。終わりの日の働きは、イスラエルで実行されるのではなく、異邦人のあいだで実行される。それは、わたしの玉座の前での、イスラエル以外のすべての国と民族の征服であり、これにより全宇宙に及ぶわたしの栄光が、宇宙と天空に満ちるのである。またそれは、わたしがさらに大きな栄光を得て、地のすべての被造物が、とこしえに世代を超えて、すべての国にわたしの栄光を伝え、天と地のすべての被造物が、わたしが地上で得たすべての栄光を見られるようにするためである。終わりの日に実行される働きは、征服の働きである。これは地上のすべての人の生活を導くことではなく、途絶えることなく数千年続いた、地上における人類の苦難の生活を終わらせることである。そのため、終わりの日の働きは、イスラエルでの数千年にわたる働きとは異なるものであり、またユダヤの地でのわずか数年間の働きでありながら、神の第二の受肉まで二千年続いた働きとも違う。終わりの日の人々が出会うのは、肉となった贖い主の再臨だけであり、彼らは神自身による働きと言葉を受け取る。終わりの日が終結するまでに二千年はかからない。イエスがユダヤの地で恵みの時代の働きを行ったときと同様、終わりの日は短い。これは、終わりの日が時代全体の締めくくりだからである。それは六千年にわたる神の経営計画の完了と終結であって、これによって苦しみに満ちた人類の人生の旅路が終わる。終わりの日は、人類全体を新たな時代へ連れて行くものでも、人類の生活を継続させるものでもない。それは、わたしの経営計画や人間の生存にとって何の意味もない。人類がこのようであり続けるなら、遅かれ早かれ悪魔によって完全に食い尽くされ、わたしに属する魂は最終的に悪魔の手で滅ぼされるだろう。わたしの働きは六千年しか続かない。そしてわたしは、悪しき者による全人類の支配も六千年より長くは続かないと約束した。それゆえ、その時はもう来ている。わたしはこれ以上続けたり遅らせたりはしない。終わりの日、わたしはサタンを打ち負かし、わたしの栄光をすべて取り戻し、わたしに属する地上のすべての魂を取り戻して、これらの苦悩する魂が苦しみの海から逃れられるようにする。これにより、地上におけるわたしの働きがすべて完了するのである。これより後、わたしが地上で再び受肉することは決してなく、すべてを支配するわたしの霊が地上で働くことも二度とない。わたしが地上で行うのはただひとつ、つまり人類を創り直すことであり、それは聖なる人類、そして地上におけるわたしの忠実な都である。しかし、わたしが世界全体を滅ぼしたり、人類全体を滅ぼしたりすることはないと知りなさい。わたしは人類のうち、残りの三分の一、すなわちわたしを愛し、わたしによって完全に征服された三分の一を保ち、イスラエル人が律法の下でそうであったように、この三分の一を、数多くの羊と家畜、そして地のあらゆる豊かさでもって育み、そうして繁栄させる。この人類はわたしのもとに永遠に留まるが、それは現在のどうしようもなく汚れた人類ではなく、わたしに得られたすべての人の集まりとしての人類である。このような人類はサタンによって傷つけられることも、混乱させられることも、また包囲されることもなく、わたしがサタンに勝利した後も地上に存在する唯一の人類となる。それは今日わたしに征服され、わたしの約束を得た人類である。それゆえ、終わりの日に征服された人類は、滅びを免れ、わたしのとこしえなる恵みを受ける人類でもある。これはサタンに対するわたしの勝利の唯一の証拠であり、サタンとの戦いの唯一の戦利品である。これらの戦利品は、サタンの支配下からわたしによって救われたのであり、六千年にわたるわたしの経営計画の唯一の結晶であり、またその果実である。彼らはあらゆる民族や教派の出身であり、また全宇宙のあらゆる場所と国から来る。彼らはさまざまな人種に属し、言語、風習、肌の色もそれぞれ異なっており、地球のあらゆる民族と教派、そして世界の隅々にまで広がっている。最終的に、彼らは完全な人類、サタンの勢力が及ばない人間の集団を形成するために集まって来る。人類のうち、わたしによって救われず、征服されなかった者たちは、深海の底へと音もなく沈み、わたしの焼き尽くす火によって永遠に焼かれる。わたしは、エジプトの長子たちと牛を滅ぼした際、子羊の肉を食べ、子羊の血を飲み、鴨居に子羊の血を塗ったイスラエル人だけを残したが、その時と同じように、極めて汚れたこの古い人類を滅ぼす。わたしに征服され、わたしの家族である人々もまた、わたしという子羊の肉を食べ、わたしという子羊の血を飲み、わたしによって贖われ、わたしを崇めてきた人々ではないのか。このような人々には、わたしの栄光が常に伴っているのではないのか。わたしという子羊の肉を持たない者はすでに、深海の底へと音もなく沈んだのではないか。今日、あなたがたはわたしに逆らっている。そして今日、わたしの言葉は、ちょうどヤーウェがイスラエルの子や孫たちに語った言葉のようである。しかしながら、あなたがたの心の奥底には頑固さがあり、そのせいでわたしの怒りが溜まり、あなたがたの肉体にさらなる苦しみをもたらし、あなたがたの罪にさらなる裁きをもたらし、あなたがたの不義にさらなる怒りをもたらしている。今日あなたがたが、わたしをこのように扱うなら、誰がわたしの怒りの日に滅びを免れようか。わたしの刑罰の目を、誰の不義が逃れられようか。全能者であるわたしの手を、誰の罪が避けられようか。全能者であるわたしの裁きを、誰の反逆が逃れられようか。わたしヤーウェは、異邦人の家族の子孫であるあなたがたにこう語り、わたしがあなたがたに語る言葉は、律法の時代と恵みの時代のすべての言葉を超越する。しかしあなたがたは、エジプトのあらゆる民よりもさらに頑なである。わたしが穏やかに働いているあいだに、あなたがたはわたしの怒りを蓄えているのではないか。全能者であるわたしの日から、どうしてあなたがたが無事に逃れられようか。

『神の出現と働き』「血肉に属する者は誰も怒りの日から逃れられない」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 205

あなたがたは自分のすべてをわたしの働きに捧げるべきである。あなたがたはわたしに益をもたらす働きをすべきである。わたしはあなたがたに対し、あなたがたが理解していない一切のことを喜んで説明し、あなたがたに欠けているすべての物事をわたしから獲得できるようにしたい。たとえあなたがたの欠点が数えきれないほど多かったとしても、わたしはあなたがたに対してなすべき働きをひたすら行い、あなたがたにわたしの最後の慈悲を与え、それによってあなたがたがわたしから利益を得られるようにしたい。そして、あなたがたに欠けていて、世界がこれまでに見たことのない栄光を獲得できるようにしたい。わたしは長年にわたり働いてきたが、わたしを知るに至った人は誰もいない。わたしは他の誰にも話したことのない秘密をあなたがたに話したい。

人間のあいだで、わたしは見ることのできない霊、接触することのできない霊だった。地上におけるわたしの三段階の働き(創世、贖い、破壊)のために、わたしはそれぞれの時代に人々のただ中に現れ(決して公然とではない)、彼らのあいだでわたしの働きを行う。わたしが初めて人間のあいだに出現したのは贖いの時代である。もちろんわたしはユダヤの一家族へと到来した。このように、神が地上に来るのを最初に見たのはユダヤ人だった。わたしが自らこの働きを行なった理由は、わたしの受肉した肉体を贖いの働きの中で罪の捧げ物として使おうとしたからである。したがって、わたしを最初に見たのは恵みの時代のユダヤ人だった。わたしが肉において働きを行ったのもそれが初めてである。神の国の時代において、わたしの働きは征服して完全にすることなので、わたしは再び肉において、羊飼いとしての働きを行う。これが、わたしが肉において行う二度目の働きである。働きの最後の二段階で人々が接触するのは、もはや目に見えない、触れることのできない霊ではなく、霊が肉体として具現化された人物である。ゆえに人の目から見て、わたしはまたしても人になり、神の容貌も雰囲気も持つことはない。そのうえ、人々が見る神は男性だけでなく女性でもあるので、彼らはすっかり驚き、首をひねる。再三再四、わたしの途方もない働きは、長年にわたり抱かれていた古い信念を粉砕し、人々は動転している。神は単に、聖霊、霊、7倍に強化された霊、すべてを包み込む霊であるだけでなく、人間、普通の人間、ことのほか平凡な人間でもある。神は男性だけでなく、女性でもある。彼らはどちらも人間に生まれたという点で同じであるが、一人は聖霊によって受胎され、もう一人は生まれながらに人間であるが、霊から直接派生したという点で異なっている。彼らはどちらも神の受肉した肉体で、父なる神の働きを実行するという点で同じであるが、一人は贖いの働きを行い、もう一人は征服の働きを行うという点で異なっている。どちらも父なる神を表すが、一人は親愛の情と慈悲に満たされた贖い主であり、もう一人は怒りと裁きに満ちた義の神である。一人は贖いの働きを開始した最高司令官であり、もう一人は征服の働きを成し遂げる義の神である。一人は始まりであり、もう一人は終わりである。一人は罪のない肉体であり、もう一人は贖いを完成させ、働きを続行し、決して罪深くない肉体である。彼らはどちらも同じ霊であるが、異なる肉体に宿り、異なる場所で生まれ、数千年も隔てられている。しかし、彼らの働きはすべて相互に補完し合うものであり、決して対立せず、同じ次元で語られる。どちらも人であるが、一人は男の赤子であり、もう一人は女の幼児だった。長い年月のあいだ、人々が目にしてきたのは霊だけでなく、また人間、男性だけでなく、人間の観念と合致しない多くの物事も目にしてきた。このように、人間は決してわたしを十分理解することができないのである。あたかも、わたしは確かに存在するが、同時に幻想的な夢でもあるかのように、人間はわたしを半ば信じ、半ば疑い続けている。そのため今日に至るまで、人々は神が何であるかをいまだ知らずにいる。あなたは単純な一文でわたしを要約することが本当にできるのか。本当に「イエスは他ならぬ神であり、神は他ならぬイエスである」とあえて言うのか。大胆にも「神は他ならぬ霊であり、霊は他ならぬ神である」と言うのか。「神は肉をまとった人間に過ぎない」と抵抗なく言えるのか。「イエスの姿は神の偉大な姿である」と断言する勇気が本当にあるのか。自分の雄弁さを用いて神の性質と姿を完全に説明することができるのか。本当に「神は自分の姿に合わせて男性だけを造り、女性は造らなかった」とあえて言うのか。そう言うのであれば、女性は誰一人、わたしが選んだ者の中に入らず、まして女性は人類の一種ではなくなるだろう。さて、神とは何か、あなたは本当に知っているのか。神は人間なのか。神は霊なのか。神は本当に男性なのか。わたしのなすべき働きを完了させられるのは、イエスだけなのか。わたしの本質を要約するために、上記のうち一つしか選ばないとしたら、あなたは極めて無知な、忠実な信者である。わたしが一度だけ、ただ一度だけしか、受肉した肉体として働かなかったとしたら、あなたがたはわたしのことを規定するだろうか。あなたは本当に一目見て、わたしを完全に理解することができるのか。生きているあいだに経験したものだけに基づいて、わたしを完全に要約することが本当にできるのか。わたしが両方の受肉で同様の働きをしたとすれば、あなたがたはわたしをどのように認識するだろうか。永遠にわたしを十字架に釘で打ち付けたままにしておくのだろうか。神はあなたが言うほど単純なものだろうか。

『神の出現と働き』「神に対するあなたの認識はどのようなものか」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 206

前の二つの時代の働きのうち、一つの段階はイスラエルで、もう一つの段階はユダヤで行われた。一般的に言って、この働きのどちらの段階もイスラエルを出ることはなく、これらはいずれも最初の選民に対して行われた。この結果、イスラエル人はヤーウェ神をイスラエル人だけの神だと考えている。イエスはユダヤで活動し、磔の働きを行ったため、ユダヤ人はイエスをユダヤの民の贖い主とみなしている。ユダヤ人は彼をユダヤ人だけの王であり、他のどの民の王でもないと考えている。イギリス人の罪を贖う主ではなく、アメリカ人の罪を贖う主でもなく、イスラエル人を贖う主であり、イエスがイスラエルで贖ったのはユダヤ人だと考えている。実際には、神は万物の主であり、すべての被造物の神である。イスラエル人だけの神ではなく、ユダヤ人だけの神でもなく、すべての被造物の神である。神の働きのうち前の二つの段階はイスラエルで起き、人々の間にある種の観念を生み出した。人々は、ヤーウェがイスラエルで働きを行い、イエス自らもユダヤで働きを行い、さらに彼は肉となって働きを行ったが、いずれにせよこの働きはイスラエルの外には広がらなかったと考えている。彼はエジプト人の中で働くことはなく、インド人の中で働くこともなく、イスラエル人の中でのみ働きを行った。そのため人々は様々な観念を形成し、神の働きを一定の範囲内で思い描いている。神が働きを行う時は、選民の間で、イスラエルにおいて行われ、イスラエル人以外に神の働きの対象者はなく、神の働きにそれ以上の範囲もないとうのである。彼らは特に受肉した神を抑えつけることに厳格で、神がイスラエルの外に出ることを認めない。これらはすべて、単なる人間の観念ではないのか。神は天と地のすべてを、そして万物を造り出し、被造物のすべてを造り出したのに、なぜその働きをイスラエルのみに限定することができるのか。そうであるなら、神がすべての被造物を生み出したことに何の意味があるのか。神は世界全体を生み出し、神の六千年の経営(救いの)計画を、イスラエルだけではなく、全宇宙の一人ひとりを対象に行った。人々は中国、米国、英国あるいはロシアに住んでいても、みなアダムの子孫であり、みな神により創られたのである。誰一人として神の創造の範囲から離脱することはできず、誰一人として「アダムの子孫」という呼称から逃れることはできない。人々はみな神の被造物であり、アダムの子孫である。そして、アダムとエバの堕落した子孫でもある。神の被造物はイスラエル人だけではなくすべての人々であり、ただ呪われた者もいれば祝福された者もいるだけである。イスラエル人には望ましい点がたくさんあり、神は当初、イスラエル人が最も堕落していない民だったため、イスラエル人に対して働きを行った。中国人はイスラエル人に匹敵するものではなく、はるかに劣っている。そのため神はまずイスラエルの人々の間で働きを行い、神の働きの第二段階はユダヤでのみ行われた。その結果、人間に多くの観念や規則が生じた。実際、神が人の観念に従って行動するのだとしたら、神はイスラエル人の神でしかなく、神の働きを異邦人の諸国に拡大することはできないだろう。被造物すべての神ではなく、イスラエル人だけの神だからである。預言書によれば、ヤーウェの名は異邦人の諸国で讃えられ、異邦人の諸国に広まるとされている。このように預言されているのはなぜか。神がイスラエル人だけの神ならば、イスラエルでしか働きを行わないだろうし、その働きを拡大することもなく、こうした預言も行わないだろう。神がこの預言を行ったからには、神の働きは必ず異邦人の諸国、あらゆる国や土地に拡大されるのである。彼がこのように述べたからには、必ずその通りにされなければならない。これが神の計画である。神は天と地および万物を造り出した主であり、被造物すべての神だからである。神がイスラエル人の間で働きを行おうと、ユダヤ全体で行おうと、神が行う働きは全宇宙の働きであり、全人類の働きである。神が今日、赤い大きな竜の国――異邦人の国――で行う働きも、やはり全人類の働きである。イスラエルは地上における神の働きの基点だったかもしれず、同様に中国も、異邦人の諸国における神の働きの基点であるかもしれない。これで神は、「ヤーウェの名は異邦人の諸国で讃えられるであろう」という預言を成就させているのではないか。異邦人の諸国における神の働きの最初の段階は、神が赤い大きな竜の国で行うこの働きである。受肉した神がこの土地で、これら呪われた人々のあいだで働きを行うことは、人の観念とひときわ相反する。これらの人々は最も卑しく何の価値もなく、当初ヤーウェに見捨てられた人々である。人が他の人々に見捨てられることはあるにせよ、神に見捨てられたならば、それ以上地位のない人はなく、それ以上価値の低い人もない。神の被造物として、サタンに取り憑かれることや人々に見捨てられることはどちらも悲惨なことであるが、被造物が創造主に見捨てられたなら、それはもっと低い地位になりようがないことを意味する。モアブの子孫は呪われて、この遅れた国に生を受けた。モアブの子孫は間違いなく、闇の影響を受けた人々の中でも最低の地位にある。この人々はこれまで最低の地位にあったからこそ、彼らに対して行われる働きは人間の観念を最も効果的に打ち砕くことができるのであり、また同時に神の六千年の経営計画全体にとって最も有益な働きとなる。この人々の間でこうした働きを行なうことは、人の観念を打ち砕くための最良の方法であり、神はこの働きによってひとつの時代を開始する。これにより神は人の観念をすべて打ち砕き、恵みの時代全体の働きを終える。神の最初の働きはユダヤで、イスラエルの境界の中で行われた。異邦人の諸国においては、神は新しい時代を始める働きを全く行わなかった。神の働きの最終段階は、異邦人の間で行われるだけでなく、呪われた人々の間で行われることがさらに重要である。この点はサタンに最も屈辱を与え得る証拠であり、それによって神は、全宇宙の被造物すべての神、万物の主、命あるすべてのものにとっての崇拝の対象になるのである。

『神の出現と働き』「神はすべての被造物の主である」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 207

現在、神がどのような新しい働きを始めたのか、まだ理解していない人々がいる。異邦人の諸国では、神が新たな始まりの到来を告げ、新しい時代を開始し、新しい働きを始め、この働きをモアブの子孫に対して行なっている。これは神の最新の働きではないか。歴史上の誰も何者もこの働きを過去に経験したことはなく、聞いたこともなく、ましてや正しく認識したことはなかった。神の知恵、驚異、深遠さ、偉大さ、そして聖さはすべて、世の終わりの働きのこの段階を通して明らかになる。これは人間の観念を打ち砕く新しい働きではないか。そのため人々の中には、次のように考える者がいる。「神はモアブを呪い、モアブの子孫を見捨てると語ったのに、今になってモアブの子孫を救えるのか」と。こうした人々は神に呪われてイスラエルから追放された異邦人であり、イスラエル人は彼らを「異邦の犬」と呼んだ。誰の目から見ても、彼らは異邦の犬であるだけでなく、さらにそれ以下の滅びの子であり、すなわち彼らは神の選民ではない。彼らは元々イスラエルの地で生まれたが、イスラエルの民に属しておらず、異邦人の諸国に追放された。彼らはあらゆる人々の中で最も卑しい者たちである。そして彼らが人類の中で最も卑しい者であるからこそ、神は新しい時代を始める働きを彼らの間で実行する。彼らは堕落した人類の代表だからである。神の働きは選択を伴う的を絞ったものであり、神が今日これらの人々の中で行う働きは、被造物に対して行われる働きでもある。ノアは神の被造物であったし、彼の子孫もそうである。血と肉を持つ世界中の誰もが神の被造物である。神の働きはすべての被造物に向けられており、創造された後に呪われたか否かによって変わることはない。神の経営(救い)の働きはすべての被造物に向けられており、呪われていない選民にのみ向けられるものではない。神は自分の被造物の間でその働きを行うことを望んでいるため、この働きは間違いなく、見事に完了するまで行われるであろう。そして神は、自身の働きにとって有益な人々のあいだで働きを行う。このため、神が人々の間で働くときには、すべての因習が打ち砕かれる。神にとっては、「呪われた」「罰せられた」「祝福された」という言葉には意味がないのだ。イスラエルの選民同様、ユダヤ人は善良であり、優れた素質と人間性をもった人々である。当初、ヤーウェは彼らの間で働きを開始し、最も初期の働きを行ったが、今日神が彼らに対して征服の働きを行うことに意味はないだろう。彼らも被造物の一部であり、多くの肯定的側面を持っているかもしれないが、この段階の働きを彼らの間で行うことに意味はないだろう。その場合、神は人々を征服できず、すべての被造物に確信を与えることもできないだろう。それこそが、赤い大きな竜の国のこうした人々に、神の働きを移すことの意味なのである。ここでの深い意味は、神がひとつの時代を始めること、すべての規則とすべての人間の観念を打ち砕くこと、そして恵みの時代全体における働きを終えることである。もし神の現在の働きがイスラエル人の間で行われたならば、神の六千年の経営計画が終わる時にはすべての人が、神はイスラエル人だけの神であり、イスラエル人だけが神の選民であり、イスラエル人だけが神の祝福と約束を受け継ぐに値するのだと信じることになるだろう。神は赤い大きな竜の国の異邦人の中で終わりの日に受肉することで、神はすべての被造物の神であるという働きを成し遂げる。神は経営(救い)の働き全体を完成させ、赤い大きな竜の国で、神の働きの中心となる部分を完了する。三つの段階の働きの中心は人間の救いであり、すなわちすべての被造物に創造主を崇めさせることである。そのため、働きのどの段階にも大きな意味がある。神は意味や価値のないことは行わない。働きのこの段階は、一方では新しい時代の到来を告げ、前の二つの時代を終わらせる。他方では、人間のすべての観念と、人間の古い信仰や認識方法すべて打ち砕く。前の二つの時代の働きは、異なる人間の観念に従って行われた。しかし今回の段階は、人間の観念を完全に排除し、それによって完全に人々を征服する。モアブの子孫を征服することと、モアブの子孫の間で行う働きを通して、神は全宇宙の人々をすべて征服することになる。これが神の働きのこの段階の最も深い意味であり、神の働きのこの段階の最も尊い側面である。あなたが今、自らの地位が低く、自分にあまり価値がないことを知っているにしても、あなたは最も大きな喜びに出会ったと感じるようになるだろう。あなたは大いなる祝福を受け継ぎ、大いなる約束を手に入れたのであり、そして神のこの偉大な働きの完成を助けることができるのである。神の本当の顔を見ることができ、神の本来の性質を知っており、神の旨を行なっている。神の働きのうち前の二つの段階は、イスラエルで行われた。もし、終わりの日における神の働きのこの段階がやはりイスラエル人の間で行なわれるなら、イスラエル人だけが神の選民なのだと全ての被造物が信じてしまうだけでなく、神の経営計画全体も望ましい効果を上げることはできないだろう。神の働きの二つの段階がイスラエルで行われていた時期、異邦人の諸国では新しい働きは全く行われず、新しい時代を始める働きも行われなかった。現在の、新しい時代を開始する働きの段階は、まず異邦人の諸国で行われるだけでなく、まずモアブの子孫の間で行われ、それによってその時代全体が開始される。神は人の観念にこめられていた認識をすっかり打ち砕き、ひとかけらも残ることを許さなかった。神はその征服の働きにおいて、人間の観念、その古い従来の認識方法を打ち砕いた。神は人々に、神に規則はなく、神について古いものは何もなく、神が行う働きは完全に解放されていて自由であり、そして神はその行う事すべてにおいて正しい、ということを理解させる。あなたは神が被造物の間で行うすべての働きに完全に従わなければならない。神が行うすべての働きには意味があり、それらは人間の選択や観念ではなく、彼自身の意志と知恵に従って行われる。彼は自身の働きにとって有益なことがあればそれを行い、自身の働きにとって有益でないことは、どんなに良いことであっても行わない。彼は働きを行い、その働きの対象者と場所とを、その働きの意味と目的に従って選択する。働きにおいて彼は、過去の規則には固着せず、古い常套手段にも従わない。そうではなく、働きの意義に従ってその働きを計画する。最終的には、働きの真の効果と予期された目的とを達成する。もしあなたが今日これらのことを理解しないなら、この働きはあなたに対していかなる効果ももたらさないだろう。

『神の出現と働き』「神はすべての被造物の主である」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 208

神の働きに対する障害は、どれほど大きいのか。誰か知っているのか。深く根ざした迷信的偏見に囚われている人々の中で、誰が神の素顔を知ることができようか。これほどまでに浅薄かつ愚かな時代遅れの文化的知識で、どうして神の語る言葉を完全に理解できようか。直接顔を合わせて語られ、口移しに糧を与えられたとしても、どうして理解できようか。時には、神の言葉はまったく聞き入れられないかのようである。人は少しも反応せず、首を縦に振るが何も理解しない。これがどうして懸念されないでいられようか。この「かけ離れた[1]古代の文化の歴史と知識」により、このように無価値な人の集団が形成された。この古代文化は、貴重な遺産とされているが、屑の山である。それは遠い昔に永遠の恥辱となり、語る価値はない。そのために人は神に反抗する手口や技術を覚え、国家教育の「秩序だった穏やかな指導」[2]により、人はさらに神に反抗的になった。神の働きは各部分が極めて困難であり、地上における神の働きの各過程は神にとって苦悩の多いものであった。地上での神の働きは、どれほど困難なことか。地上における神の働きの各過程には大きな困難が伴う。人間の弱さ、欠点、幼稚さ、無知、そして人間のすべてのために、神は入念な計画を立て、慎重に考慮する。人間は、誰も敢えて餌をやったり挑発したりしない張り子の虎のようである。少しでも触れると噛み付くか、あるいは倒れて道を失う。それはまた、少しでも集中力を失うと以前の病気が再発し、そうでなければ神を無視したり、親である豚や犬の元へ逃げ戻り、身体の不浄な物事に耽溺したりするようである。何と大きな障害であろうか。神の働きのほぼ全過程において、神は試みを受け、ほぼ全過程において大きな危険を冒す。神の言葉は誠実かつ正直であり、悪意がないが、誰がそれを進んで受け入れるというのか。誰が進んで完全に従おうというのか。そのことが神の心を傷つける。神は人間のために日夜精力的に努力し、人間のいのちについて懸念に苛まれ、人間の弱さに同情している。働きの各過程において、また述べる言葉のそれぞれについて、神は数多くの紆余曲折に見舞われてきた。神は常に苦境の中にあり、人間の弱さ、不従順さ、幼稚さ、脆さを常に幾度となく考えている。誰がそのことを知っていたのか。神は誰に打ち明けることができるのか。誰が理解できるのか。神は人間の罪や、気骨のなさ、意気地のなさを常に忌み嫌い、人間の脆弱さを常に懸念し、人間の前途を熟考している。神は人間の言動を監督していながら、常に憐れみと怒りで満たされ、そのようなことが少しでもあると神の心は必ず痛む。無邪気な人々は、結局のところ麻痺してしまった。なぜ神は必ず人間に困難を与えなければならないのか。弱い人間は忍耐力が完全に欠如している。なぜ神は常に人間に対して衰えることのない怒りを抱いていなければならないのか。弱く無力な人間には活力がまったくない。なぜ神は人間の不従順さを常に叱らなければならないのか。誰が天の神の脅威に耐えられるのか。結局、人間は脆く、絶望的苦境にあり、人間がゆっくりと反省するように、神は自らの怒りを心の奥深くへと押し込んだ。しかし、深刻な困難にある人間は、神の心意を少しも正しく認識しない。人間は老魔王に踏みつけられているが、それにまったく気付かずに、常に神に対抗するか、神に対して熱くなることも冷めることもない。神は無数の言葉を述べたが、誰がそれを真剣に受け止めたであろうか。人間は神の言葉を理解しないが、それでも狼狽することなく、また切望することもなく、老悪魔の実質を本当に知るには至っていない。人間は陰府、地獄で生きているが、海底の宮で生きていると考えている。赤い大きな竜に迫害されているが、自分はその国から「恩恵を受けている」[3]と考えている。悪魔に嘲笑されているが、自分が肉の至高の技巧を享受していると考えている。何と汚れた卑しい恥知らずの一団であることか。人間は不幸に遭遇しているが、それに気付かず、この暗黒社会において、次々と災難に見舞われる[4]が、それに目覚めることがない。いつになったら人間は自分へのいたわりと奴隷的性質を捨て去るのか。なぜ人間は神の心に対してそれほどまで冷淡なのか。黙ってこの弾圧と苦難を容認するのか。闇を光に変えることができる日を望まないのか。義と真理への不正を再び取り除きたいとは思わないのか。人々が真理を捨て、事実を歪めるのを見て何もしないつもりなのか。この不当な処遇に耐え続けることに満足しているのか。奴隷になるつもりなのか。この亡国の奴隷とともに、神の手により滅ぼされるつもりなのか。あなたの決意はどこにあるのか。あなたの野望はどこにあるのか。尊厳はどこにあるのか。高潔はどこにあるのか。自由はどこにあるのか。あなたは自分の生涯のすべてを、魔王である赤い大きな竜のために進んで捨てる[5]つもりなのか。あなたは赤い大きな竜に自分を死ぬまで折檻させて満足なのか。淵のおもては混沌として暗く、庶民は苦悩のため天に向かって叫び、地に向かって苦痛を訴えている。いつになったら人間は堂々としていられるのか。人間はやせ細り、衰えている。どうしてこの残忍な暴君のような悪魔に対抗できようか。なぜできるだけ早く自らのいのちを神に捧げないのか。なぜいまだに躊躇しているのか。いつになったら人間は神の働きを完了できるのか。何の目的もなくそのようにいじめられ抑圧され、人間の生涯は結局無駄となる。なぜそれほど急いでやって来て、急いで去ってゆくのか。なぜ何か貴重な物を残しておいて神に捧げないのか。数千年におよぶ憎しみを忘れてしまったのか。

『神の出現と働き』「働きと入ること(8)」(『言葉』第1巻)

脚注

1.「かけ離れた」は嘲笑的に用いられている。

2.「秩序だった穏やかな指導」は嘲笑的に用いられている。

3.「恩恵を受けている」は、無表情で自己認識がない人を嘲笑するために用いられている。

4.「次々と災難に見舞われる」とは、赤い大きな竜の地に生まれた人は頭を高く揚げていられないことを指す。

5.「自分の生涯のすべてを……捨てる」は軽蔑的な意味である。


日々の神の御言葉 抜粋 209

今日の道はたやすく歩めるものではない。通るのが非常に難しい道だと言えるし、時代を通じてきわめて稀なものだった。しかし、人がその肉のみによって十分に滅ぼされうるなどとは誰が考えただろう。今日の働きは確かに、春の雨のごとく尊く、人への神の優しさのごとく価値あるものだ。しかし、人が神の現在の働きの目的を知らず、あるいは人間の本質を理解していなければ、その尊さや価値の高さについてどうして語ることができようか。肉は人間自身には属していないので、その終着点が実際にどこにあるのか、誰もはっきりと見ることはできない。それでも創造主が被造物である人類を元の地位へと戻し、創造時の元の姿を回復させるということをよく知っておく必要がある。神は自らが人に吹き込んだ息を完全に取り戻し、人の骨も肉も取り戻して、すべてを創造主に返すのである。神は人類をすっかり造り変えて新たにし、人ではなく神の所有物である嗣業のすべてを人から取り戻して、二度とそれを人類に引き渡さない。それらはどれ一つとして、もともと人類に属していたものではないからだ。神はそのすべてを取り戻すが、それは不当な強奪ではなく、むしろ天と地を元の状態に戻し、さらに人を造り変え新たにするために行うのだ。これは人にとって理にかなった終着点だが、おそらく人々が想像するような、刑罰の後に肉が再び取り戻されるということではない。神が求めるものは滅んだ後の肉の残骸ではなく、当初神に属していた、人の元来の要素である。それゆえ神は人類を絶滅させたり、人の肉を根絶したりはしない。人の肉はその人の私有財産ではないからだ。それはむしろ、人類を経営する神に付属するものである。どうして神が、自らの「楽しみ」のために人の肉を絶滅させたりできようか。あなたはもう1銭の価値もない自分の肉をすべて真に放棄したのか。もし終わりの日の働きの30%でも理解することができたなら(このたった30%が、今日の聖霊の働きと、終わりの日における神の言葉の働きを理解することを意味する)、あなたは自分の肉、すなわち長年にわたって堕落した肉に、今日のように「仕え」、「孝行」し続けはしないだろう。人類は今やかつてないほど発展しており、今後はもう歴史の車輪のように前進し続けることはないということを、はっきりと理解すべきだ。あなたのカビ臭い肉にはもう長いことハエがたかっているのに、神が今日まで継続させてきた歴史の車輪を逆回転させる力が、どうしてあなたにあるというのか。沈黙したような終わりの日の時計の針を再び動かし、時を刻ませることがどうしてできるというのか。そんなことで、深い霧に覆われたような世界をどうして再び変えられるというのか。あなたの肉は山や川を蘇らせることができるのか。わずかな機能しか持たないあなたの肉が、あなたが憧れてきたような人間の世界を本当に回復できるのか。あなたは本当に、自分の子孫が「人間」になれるよう教育できるのか。これでわかっただろうか。あなたの肉がいったい何に属しているのか。人を救い、完全にし、造り変えようという神の元来の意図は、あなたに美しい故郷を与えたり、人の肉に安息をもたらしたりすることではなく、神の栄光と神の証しのため、将来における人のよりよい楽しみのためであり、そしてすぐに安らぎを得られるようにするためだった。ただしそれはあなたの肉のためではない。人は神の経営の元手であり、人の肉は単なる付属物にすぎないからだ。(人は霊と体の両方を持つものだが、肉はただ腐敗する物体にすぎない。それは肉が経営計画に用いられる一つの道具であることを意味している。)神が人を完全にし、完成させ、獲得することは、肉に対して剣と強打の他は何ももたらさず、さらに終わりのない苦しみ、大火、無情な裁き、刑罰、呪い、そして果てしない試練をもたらすのだということを知らねばならない。これが人類を経営する働きの内幕であり真実である。しかし、これらはすべて人の肉に向けられたものであり、敵意の鉾先はすべて容赦なく人の肉に向けられている(人には罪がないからである)。そのすべては神の栄光と証し、そして神の経営のためである。それは神の働きが人類だけのためではなく、計画全体のためでもあり、さらに神が人類を創造した時の元来の旨を実現するためでもあるからだ。そのため、人々が経験することのおそらく90%は苦しみと火の試練を伴い、人の肉が憧れてきた甘く幸せな日々は極めて少ないか皆無である。ましてや神と素晴らしい時を過ごす幸せな瞬間を、肉において楽しめることなどない。肉は汚れており、それゆえ人の肉が見たり味わったりするものは神の刑罰以外の何ものでもなく、人にとっては思いやりのないものであり、それはまるで正常な理知を欠いているかのようである。なぜなら神は、「人に対する思いやりがなく」、人の背きを許さず、敵を忌み嫌う自らの義なる性質を表わすからである。神は必要なあらゆる手段を用いて自身の性質全体を公然と明らかにし、それによって六千年にわたるサタンとの戦いの働き、すなわち全人類の救いの働きと古きサタンの打倒とを終わらせるのだ。

『神の出現と働き』「人類の経営の目的」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 210

終わりの日が来て、世界中の国々は混乱状態である。政治的無秩序、飢饉、疫病、洪水、干ばつが至る所で出現している。人間界には大惨事があり、天も災害を地上にもたらした。これらは終わりの日の兆候である。しかし、人々にとっては世界は陽気ですばらしく見え、ますますそうなっていき、人々の心は世界に惹きつけられ、多くの人はそこに陥り抜け出すことができない。数多くの人が策略や妖術を行う者に騙される。進歩しようと努力せず、理想もなく、真の道に自らの根をおろしていなければ、あなたは罪のうねる波に押し流されてしまう。中国はすべての国のなかで最も後進的で、赤い大きな竜がとぐろを巻いている国であり、偶像を崇拝し妖術に携わる人が最も多く、寺院も最も多く、不潔な悪霊が住む場所である。あなたはそこから生まれ、それに教育され、その影響にすっかり染まっている。それに堕落させられ、苦しめられてきたが、目覚めてからは、それに背を向け、完全に神のものとされる。これは神の栄光であり、そのためにこの段階の働きには偉大な意義がある。神はそれほどの大規模な働きをなし、多くの言葉を語り、最終的にはあなたがたを完全に自分のものとする。これは神の経営の働きの一部であり、あなたがたは神のサタンとの戦いにおける「戦利品」である。あなたがたが真理を理解すればするほど、そして教会生活がよくなるにつれて、赤い大きな竜はいっそう屈従させられる。これはみな霊的世界のことであり、霊的世界の戦いであり、神が勝利する時、サタンは辱められ、倒れる。この段階の神の働きは非常な重要性を持つ。神がこのように大規模な働きを行い、完全にこの集団の人たちを救うのは、あなたがサタンの影響から逃れ、聖なる土地に暮らし、神の光の中で生き、その光に導かれ助けられるようにである。そこで生きることには意義がある。あなたがたが食し、着るものは未信者とは異なり、あなたがたは神の言葉を享受し、意味のある生活を送る。では未信者は何を享受するのか。彼らは「祖先の遺産」と「国民精神」だけしか享受しない。彼らはほんのわずかな人間性の痕跡さえ持ち合わせない。あなたがたの衣服、言葉、行動はすべて彼らのものとは異なる。最終的に、あなたがたは完全に汚れから逃れ、もはやサタンの誘惑に陥ることはなくなり、神から日々の施しを得る。あなたがたはいつも注意深くしていなければならない。あなたがたは汚れた場所に暮らしているが、汚れに染まってはおらず、神のそばで暮らし、神の偉大な保護を受けることができる。神はあなたがたをこの黄色い大地にいるあらゆるものの中から選んだ。あなたがたは最も祝福された人ではないのか。あなたは被造物であり、もちろん神を崇拝し、意味のある人生を送るべきである。神を崇拝せず、汚れた肉体のうちに生きるならば、人間の衣装を身に着けた獣にすぎないのではないか。あなたは人間であるから、神のために費やし、すべての苦しみに耐えるべきである。喜んで、確実に、今日直面している小さな苦しみを受け入れ、ヨブやペテロのように意味のある人生を送るべきである。この世で人は悪魔の服をまとい、悪魔が与える食べ物を食べ、悪魔の言いなりになって働き、仕え、汚濁の中ですっかり踏みにじられる。あなたが人生の意味を把握せず、また真の道を自分のものにしないならば、このように生きることに何の意義があるのか。あなたがたは正しい道を追求する人、向上を求める人である。あなたがたは赤い大きな竜のいる国で立ち上がり、神が義なる者と呼ぶ人である。これは最も意味のある人生ではないのか。

『神の出現と働き』「実践(2)」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 211

今日わたしがあなたがたにおいて行う働きは、あなたがたを正常な人間性の生活へと導き入れるためであり、新たな時代の到来を告げ、人類を新たな時代の生活へと導き入れる働きである。この働きは一歩ずつ行われ、あなたがたのもとで直接発展していく。わたしはあなたがたに面と向かって教え、あなたがたの手を引く。あなたがたが理解していないことを何でも教え、欠けているものを何でも授ける。あなたがたにとっては、この働きはすべていのちの施しであり、同時にあなたがたを正常な人間性の生活へと導き入れるものだと言える。そして特に、この働きは終わりの日々にこの集団の人たちのいのちのために糧を与えることを目的としている。わたしにとっては、この働きは古い時代を終わらせ、新たな時代の到来を告げるためのものである。サタンについては、わたしが受肉したのはまさにサタンを倒すためである。今わたしがあなたがたの間で行っている働きは、あなたがたの今日のための糧であり、あなたがたの時宜を得た救いだが、このわずか数年の間に、わたしはあなたがたにすべての真理、いのちの道のすべて、そして将来の働きについてさえも語る。これは将来あなたがたが物事を正しく経験できるようになるのに十分である。わたしの言葉のすべてが、わたしがあなたがたに委ねた唯一のものである。それ以外に勧告は行わない。今日わたしがあなたがたに語る言葉のすべてが、あなたがたへの勧告である。なぜならわたしが語る言葉のうちの多くについては、今日あなたがたは経験がなく、その内面的な意味を理解できないからである。いつか、あなたがたの経験は今日わたしが語ったとおりに実を結ぶ。これらの言葉はあなたがたの今日のビジョンであり、将来あなたがたが依存するものである。それは今日のいのちにとっての糧であり、将来のための勧告であり、これに勝る勧告はない。なぜならわたしが地上で働く時間は、あなたがたがわたしの言葉を経験する時間ほど長くないからである。わたしはただ働きを完了するだけだが、あなたがたはいのちを追求しているのであり、それは生涯を通じた長い旅からなる過程である。多くのことを経験して初めて、いのちの道を完全に手に入れることができる。そのとき初めて、わたしが今日語る言葉の内にある意味を見抜けるようになる。あなたがたがわたしの言葉を手に入れ、一人一人がわたしの委託をすべて受け、わたしがあなたがたに委託すべきものをすべて委託し、言葉の働きが終わりを迎えると、どれほど大きな効果があったかに関わらず、それで神の旨の実現も成し遂げられたことになる。それはあなたが想像しているように、あなたがある程度変えられなければならないということではない。神はあなたの観念どおりには行動しない。

『神の出現と働き』「実践(7)」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 212

神は行うべき働きを行い、言葉による職分を果たすために終わりの日に受肉した。神の心に適う人を完全にすることを目的として、人間のもとで働くために神は自らやって来た。創造の時から現在まで、神がこのような働きを行うのは終わりの日のみである。そのような大規模な働きを行うために神が受肉したのは、終わりの日のみである。神は人間にとっては耐え難いであろう苦難に耐え、偉大な神でありながら凡人となるほどに謙っているが、神の働きのうち遅れている側面はなく、その計画はほんの少しも混乱に陥ったことはない。神は元来の計画どおりに働きを行っている。この受肉の目的のひとつが、人間を征服することであり、もうひとつが神が愛する人を完全にすることである。神は自らが完全にする人をその目で見ること望んでおり、また完全にする人がどのように神を証しするかを自ら見ることを望んでいる。完全にされるのは一人や二人ではない。それは極めて少人数の集団である。この集団にいる人たちは世界各地の様々な国の出身であり、様々な民族である。これだけの働きを行う目的は、その集団を得ること、その集団が神のために立てる証しを得ること、そしてその集団から神が得られる栄光を得ることである。神は意義のない働きも、無価値な働きも行わない。それほど大量の働きを行う神の目的は、神が完全にすることを望む人全てを完全にすることであると言える。その働きの余暇に、神は邪悪な者を捨てる。神がそうした大いなる働きを行うのは邪悪な者のためではないことを知りなさい。それどころか、神に完全にされる少数の人たちのために、神は自らの全てを捧げるのである。神が行う働き、述べる言葉、明らかにする奥義、神の裁きと刑罰は全てそれらの少数の人たちのためである。邪悪な者のために神は受肉したのではなく、邪悪な者が神に大いなる怒りをかき立てるということもなおさらない。神が真理といのちに入ることについて語るのは完全にされるべき者のためである。神が受肉したのも彼らのためであり、約束と祝福を授けるのも彼らのためである。神が述べる真理、入ること、そして人間としての生活は、邪悪な者のために行われるのではない。神は邪悪な者に話をするのを避けることを望み、その代わりに完全にされるべき者に全ての真理を授けることを願う。しかし、神の働きにおいては、邪悪な者が一時的に神の富の一部を享受することが必要とされる。真理を実行しない者、神を満足させない者、神の働きを混乱させる者は皆邪悪である。そうした者は完全にされることができず、神に忌み嫌われ、拒まれる。一方、真理を実践する者、神を満足させることができる者、自らの全てを神の働きのために費やす者は、神に完全にされる者である。神が完成させることを望む者は他ならぬその集団であり、神が行う働きはそうした者のためである。神が述べる真理は、進んでその真理を実践する者に向けられている。神は真理を実践しない者には語らない。神が述べる識見の増加と識別力の成長は、真理を実践できる者を対象とする。完全にされるべき者について神が語る時、神はこれらの人について話している。聖霊の働きは、進んで真理を実践する者に向けられている。知恵や人間性を自分のものにすることなどは、進んで真理を実行に移す人に向けられている。真理を実行しない者は真理の言葉を数多く聞くかもしれないが、彼らの本性は極めて邪悪であり、真理に関心がないので、彼らが理解しているのは教義と言葉と空虚な理論でしかなく、彼らのいのちへの入りにはほんの少しも価値がない。彼らのうちには神に忠実な者はいない。彼らは皆、神を見るが神を得られず、神に断罪される。

『神の出現と働き』「実践に集中する者だけが完全にされることができる」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 213

征服の働きの主な目標は、人間を清め、真理を持てるようにすることである。なぜなら人は真理をほとんど理解していないからだ。そのような人々に対する征服の働きには、とても深い意義がある。あなたがたはみな暗闇の影響下に落ち、深く傷つけられた。そのためこの働きの目標は、あなたがたが人間の本性を知り、それによって真理を生きられるようにすることだ。完全にされることは、すべての被造物が受け入れるべきことである。この段階の働きの内容が人々を完全にすることだけならば、イギリス、アメリカ、イスラエルなどどこでもできるだろうし、どの国の人々に対しても行うことができる。しかし征服の働きは選択的だ。征服の働きの第一段階は短期間で行われ、さらにそれはサタンを辱しめ全宇宙を征服するために用いられる。これが当初の征服の働きである。神を信じる被造物なら誰でも完全にされることができる、と言えるのは、完全にされるということは長期間の変化の後でしか成就できないからだ。しかし、征服されることは別である。征服される者の見本となるのは、最も後れをとり、最も深い闇の中に生き、最も堕落した、最も神を受け入れる気がなく、最も神に不従順な者でなければならない。そのような者こそ、征服されたことを証しできるのだ。征服の働きの主な目標はサタンを打ち負かすことであり、一方人々を完全にすることの主な目標は人々を神のものとすることだ。この征服の働きがここで、あなたがたのような人々に対してなされたのは、人々が征服された後に証しできるようにするためだ。その目的は征服された後に、人々にその証しをさせることなのだ。この征服された人々は、サタンを辱しめるという目的を達成するために用いられる。それでは、征服の主な方法とはどういったものか。それは刑罰であり、裁きであり、呪いであり、暴露である。義なる性質を用いて人々を征服し、神の義なる性質によって人々を完全に確信させるのだ。言葉の現実性と権威を用いて人々を征服し、彼らを完全に確信させること――それが征服するということの意味である。完全にされた者たちは、征服された後に服従できるようになるだけでなく、裁きの働きに関する認識を持ち、自身の性質を変え、神を知ることができるようになる。彼らは神を愛する道を体験し、真理で満たされる。彼らは神の働きを体験する方法を学び、神のための苦難に耐えて自らの意思を持つことができるようになる。完全にされた者とは、神の言葉を体験したおかげで、真理を実際に理解している人々のことである。征服された者とは、真理を知ってはいるが、まだ真理の本当の意味を受け入れてはいない人々のことである。征服された後、彼らは服従するようになるが、その服従はすべて受けた裁きの結果である。彼らは多くの真理について、本当の意味をまったく理解していない。彼らは口では真理を認めるが、真理に入っているわけではなく、真理を理解はできるが、真理を体験したわけではない。完全にされる者たちに対して行われている働きには、刑罰と裁きとともに、いのちの供給が含まれている。真理に入ることに価値を認める人は、完全にされる人である。完全にされる人と征服される人の違いは、彼らが真理に入るかどうかにある。完全にされた者は、真理を理解し、真理に入っており、真理を生きている。完全にされることができない者は、真理を理解せず、真理に入らず、すなわち真理を生きていない。もしそのような人たちが、完全に服従することができるようになれば、彼らは征服される。征服された人々が真理を求めず、付き従ってはいても真理を生きることはなく、真理を垣間見たり聞いたりはしてもそれを生きることを重視しないなら、完全にされることはできない。完全にされる人々は、神の要求に従って真理を実践しながら、完全にされる道を進むのだ。それを通して彼らは神の旨を成就し、そして完全にされる。征服の働きが終わる前に、最後まで付き従う者は、征服された者ではあるが、完全にされた者とは言えない。「完全にされた者」とは、征服の働きが終わった後に、真理を追求し神のものとされることができる人々のことだ。それは征服の働きが終わった後に、患難にしっかりと立ち向かい、真理を生きる人たちのことだ。征服されることと完全にされることの違いは、働きの段階の違いと、人々が真理を理解しそれに入る度合いの違いである。完全への道にまだ歩みだしていない者たち、つまり真理を持っていない者はみな、最終的にはやはり淘汰される。真理を持ち真理を生きる者だけが、完全に神のものとされることができるのだ。すなわち、ペテロの似姿を生きる人々は完全にされる者であり、その他の人々たちは征服される者である。征服される者すべてに対して行われている働きは、呪い、刑罰、そして怒りの顕示で構成され、彼らに訪れるものは義と呪いである。そのような人に働きを行うということは、遠慮も礼儀もなしに示すことであり、彼らの内にある堕落した性質を明らかにして、彼ら自身にそれを認めさせ完全に確信させることである。人が完全に従順になると、征服の働きは終わる。たとえまだ大半の人々が真理を理解しようと努めてはいなくても、征服の働きはそれで終わったことになる。

『神の出現と働き』「完全にされた者だけが意義ある人生を生きられる」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 214

神はどのように人を完全にするのか。神の性質とはどのようなものか。その性質には何が含まれているのか。これらをすべて明らかにすることは、神の名を広めることだとも、神を証しすることだとも、神を高めることだとも言われる。人は神を知ることを基盤として、最終的にそのいのちの性質が変化される。人は取り扱いと精錬を受ければ受けるほど活気づき、神の働きの歩みが多ければ多いほど完全にされる。現在、人の経験の中では、神の働きの歩みの一つ一つが人の観念に反撃しており、すべてが人の知性を超越しその予想を超えたところにある。神は人に必要なすべてのものを与えるが、それはあらゆる点で人の観念と食い違う。神はあなたが弱っているときに言葉を発する。そうすることによってのみ、神はあなたにいのちを与えることができるのだ。神はあなたの観念に反撃することで、あなたに神の取り扱いを受け入れさせる。そうすることによってのみ、あなたは自己の堕落から抜け出すことができるのだ。受肉した神は今日、ある面においては神性の状態に留まって働くが、別の面では普通の人間性の状態で働く。あなたが神のいかなる働きをも否定できなくなり、神が普通の人間性の状態で何を言おうと何をしようとそれに服従できるようになり、神がどのような普通性を表そうとそれに服従しそれを理解できるようになり、そして実際の経験を得たとき、初めてあなたはその方が神だと確信できるようになり、観念を作り出すことを止め、最後まで神に従えるようになるのである。神の働きには知恵があり、神は人間がいかに揺るぎなく神に証しを立てられるか知っている。また神は人の致命的な弱点がどこにあるかを知っており、神の語る言葉はあなたの致命的な弱点を攻撃することができるが、同時に神はその威厳と知恵に満ちた言葉を用いて、あなたに揺るぎない神の証しを立てさせる。こうしたことが、神の奇跡的な業である。神が行なう働きは、人の知性によって想像できるものではない。肉である人間がどのような堕落にとりつかれているか、そして何が人間の本質を成しているか、そうしたことはすべて神の裁きを通して明らかにされ、それによって人間は自分の恥から隠れる場所がなくなるのだ。

神は裁きと刑罰の働きを行なうが、それは人が神についての認識を得られるようにするためであり、また神の証しのためでもある。神が人の堕落した性質を裁かなければ、人は犯すべからざる神の義なる性質を知ることができず、神についての古い認識を新たにすることもできない。神はその証しのため、そして神の経営(救い)のため、その存在すべてを公にし、それによって人は、その神の公的な出現を通して、神の認識に到達し、性質を変化させ、明確な神の証しを立てられるようになる。人の性質の変化は、神のさまざまな働きを通して成し遂げられる。そのような性質の変化なくして、人は神の証しを立てることができず、神の心にかなうこともできない。人の性質の変化は、人がサタンの束縛と闇の影響から解放され、真に神の働きの見本かつ標本、神の証人、そして神の心にかなう者となったことを意味する。今日、受肉した神はその働きを行なうため地上に到来した。そして神は、人が神を認識し、神に服従し、神の証しとなって、神の実際的な普通の働きを知り、人の観念と合致しない神の言葉と働きのすべてに従い、神が人間を救うために行なうあらゆる働きと人間を征服するために成し遂げるあらゆる業の証しをすることを求めている。神の証しをする人々は、神についての認識を持たなければならない。この種の証しだけが正確かつ現実的であり、この種の証しだけがサタンを恥じ入らせることができる。神はその裁きと刑罰、取り扱いと刈り込みを経験することで神を知るようになった人々を用いて、自らを証しさせる。神はサタンにより堕落させられた人々を用いて自らを証しさせると同時に、性質が変わったことで神の祝福を得た人々を用いて自らを証しさせる。神は人による口先だけの称賛を必要とせず、神に救われていないサタンの同類による称賛や証しも必要としない。神を知る人々だけが神の証しをする資格があり、その性質が変化させられた人々だけが神の証しをする資格がある。神は人が意図的に神の名を汚すことを許さない。

『神の出現と働き』「神を知る者だけが神に証しをすることができる」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 215

神がソドムを滅ぼしたときの聖書の場面を思い出してみるがよい。また、ロトの妻がどうして塩の柱になったかも考えてみるがよい。ニネベの人々が荒布をまとい、灰の中に座していかに罪を悔い改めたかを思い返し、二千年前にユダヤ人たちがイエスを十字架に釘づけにしたあと何が起きたかを思い起こしてみるがよい。ユダヤ人はイスラエルから追放され、世界中の国々に逃亡した。多くは殺され、ユダヤ民族全体が、前例のない亡国の苦痛に苛まれた。彼らは神を十字架に釘付けにし――凶悪な罪を犯し――そして神の性質を侵害した。彼らは自分たちが為したことの代価を払い、その行動の責任の一切を取らなければならなかった。彼らは神を罪に定め、神を拒絶したので、たどる運命は一つしかなかった。すなわち、神の罰を受けたのである。これが彼らの支配者たちがその国と民族にもたらした苦い結果と災害であった。

今日、神は働きを行うために世界に戻ってきた。神が最初に留まった所は、独裁的支配の典型、すなわち無神論の頑強な砦、中国である。神はその知恵と力によって一群の人々を獲得した。この間に、神は中国共産党にあらゆる手段をもって追跡され、塗炭の苦しみにさらされ、枕する場所もなく、避難場所を見つけることもできなかった。それにも関わらず、神は意図した働きを続行している。つまり神は声を発し、福音を広める。誰も神の全能性を推し量ることはできない。神を敵と見なす国、中国で、神は決してその働きをやめてはいない。それどころか、ますます多くの人々が神の働きと言葉を受け入れている。神は最大限可能な限り、人類の一人一人を救うからである。わたしたちは、いかなる国家も勢力も神が果たそうと願うものの前に立ちはだかることはできないと信じている。神の働きを妨害し、神の言葉に抵抗し、神の計画をかき乱し阻害する者たちは最終的には神に罰せられる。神の働きに逆らう者は地獄に送られる。神の働きに反抗する国家は滅ぼされる。神の働きに反対するために立ち上がる民族は地上から一掃され、消滅する。すべての民族、国家、そしてあらゆる業種の人々が神の声に耳を傾け、神の働きに目を向け人類の運命に留意することで、神を至聖、至尊、至高たる、人類唯一の崇拝の対象とし、アブラハムの子孫がヤーウェの約束の下に生きたように、最初に神が造ったアダムとエバがエデンの園で暮らしたように、人類全体が神の祝福の下に生きることができるようにすることをわたしは強く勧める。

神の働きは強い波のように打ち寄せる。誰も神を引き留めることはできず、誰も神の前進を停止させることはできない。神の言葉に注意深く耳を傾け、神を探し求め渇望する人々だけが神の歩みをたどり、神の約束を受けることができる。そうしない者は圧倒的な災難を被り、当然受けるべき罰を受ける。

『神の出現と働き』「附録2:神は全人類の運命を支配する」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 216

神の経営の働きは創世の時に始まり、人間はその働きの中心にいる。神が万物を創造したのは、人間のためだと言える。神の経営の働きは数千年に及ぶものであり、ほんの数分や数秒、あるいは瞬時に行われるものではなく、一、二年で行われるものでもないので、神は人類の生存に必要なもの、すなわち太陽、月、あらゆる種類の生物、食物、そして快適な環境などを数多く造る必要があった。これが神の経営の始まりである。

その後、神は人類をサタンに渡し、人間はサタンの支配下で暮らした。そして、これが徐々に、神による最初の時代の働きへと至った。すなわち律法の時代の物語である。……数千年に及んだ律法の時代、人類は律法の時代の導きに慣れ、当然のこととして考えるようになり、徐々に神の保護から遠ざかった。そのため、律法を守っていながら、同時に偶像を崇め、邪悪なことを行った。彼らはヤーウェの加護がないまま、ただ神殿の祭壇の前で暮らしているだけだった。実際、神の働きはずっと以前に彼らのもとを去っていた。イスラエル人はいまだ律法に従い、ヤーウェの名を唱え、自分たちだけがヤーウェの民、ヤーウェの選民だと誇りさえしていたものの、神の栄光は静かに彼らを捨て去った……。

神は働きを行うとき、いつも静かに一つの場所から去り、別の場所でそっと新たな働きをする。これは、感覚の鈍い人間には信じられないことのように思われる。人々はいつも古いものを大事にし、新しく馴染みのないものには敵意を持つか、厄介なものと見なす。そのため、神がいかなる新しい働きを行おうと、最初から最後まで、人間は万物の中で最後にそれを知ることになる。

いつもそうであるように、律法の時代にヤーウェの働きをした後、神は第二段階の新たな働きを始めた。すなわち、人間として受肉し、十年、二十年間、信じる者たちのあいだで語り、働きを行ったのである。しかし、例外なく誰もそれを知らず、ごく少数の人だけが、イエスが十字架にかけられて蘇った後、彼こそ受肉した神だと認めた。……神の働きの第二段階が終わるとすぐ、つまり十字架にかけられた後、人間を罪から取り戻す(つまり、人間をサタンの手から取り戻す)神の働きは成就した。そこで、その時から、人類は主イエスを救い主として受け入れるだけで罪を赦されるようになった。名目上、人間の罪は、救いを得て神の前に出る妨げではもはやなく、サタンが人間を責める手立てではなくなった。それは、神自身が現実の働きを行い、罪深い肉の姿を取ってその前触れとなり、また神自身が罪の捧げ物だったからである。こうして、神の肉、すなわちこの罪深い肉の姿を通じて、人間は十字架から降り、贖われ、救われたのである。そのため、人間はサタンに捕らわれた後、神の前で救いを受け入れることに一歩近づいた。もちろん、この段階の働きは、律法の時代における神の経営よりもさらに深く、さらに発展していた。

神による経営とは、人類――神が何であるか、創造主が何であるか、神をどう崇めるべきか、神に服従することがなぜ必要なのかを知らない人類――をサタンに引き渡し、サタンによる人類の堕落を許すことである。それから神は、人間が完全に神を崇め、サタンを拒むまで、人間をサタンの手から一歩一歩取り戻す。これが神の経営だが、神話のような物語に聞こえ、訳がわからないように思われる。人々がそれを神話のような物語だと感じるのは、過去数千年のあいだにどれほど多くのことが人間に起きたかを知らず、ましてや宇宙と天空においてどれほど多くの物語が生まれたかなど、一切認識していないからである。その上、物質界の外に存在する、さらに驚くべき世界、はるかに恐ろしい世界に気づくことができず、自身の肉眼によってそれを見るのを妨げられているからである。人間には神による人類の救いや神の経営の働きの意義が理解できず、また、人間が最終的にどのようになることを神が望んでいるかを知らないので、それは人間にとって理解できないことである。アダムとエバがサタンによって完全に堕落させられたように、人類もそうなってしまうのか。いや、そうではない。神の経営の目的は、神を崇め、神に服従する人々の集団を得ることである。それらの人たちはサタンによって堕落させられたが、もはやサタンを父と見なしておらず、サタンの忌まわしき顔に気づいて拒み、神の前に出て神の裁きと刑罰を受ける。何が醜いか、それが聖いものとどう対比をなすかを知るようになり、神の偉大さとサタンの邪悪さを認識するようになる。このような人類は、もはやサタンのために働かず、サタンを崇めず、サタンを祀ることもしない。彼らは真に神のものとなった人たちだからである。これが人類を経営する神の働きの意義である。神による今回の経営の働きの期間中、人類はサタンによる堕落の対象であると同時に、神による救いの対象であり、そして人間は、神とサタンが獲得しようと戦う産物である。神は働きを行いつつ、徐々に人間をサタンの手から取り戻しており、ゆえに人間は神に近づきつつある……。

そして、神の国の時代が来た。これは、より実際的な働きの段階だが、人間にとっては最も受け入れ難い働きでもある。なぜなら、人間が神に近づけば近づくほど、神の鞭が人間に近づき、神の顔がより鮮明に人間に明かされるからである。人類の贖いの後、人間は正式に神の家に戻る。人間は、今こそ自分たちが享受する時だと思ったのだが、誰も予測すらしなかった神による徹底的な攻撃に晒されている。実を言えば、これこそ神の民が「享受」すべき洗礼なのである。そうした扱いを受けると、人々は立ち止まり、「わたしは長い間迷っていた小羊で、神が大金を払って買い戻してくれた。それなのに、なぜ神はこのような扱いをするのか。これが、わたしを笑い、さらし者にする神のやり方なのか……」と考えざるを得ない。長い年月の後、人間は精錬と刑罰の苦難を経験し、苦労が風貌に現れるようになった。過去の「栄光」も「ロマン」も失ったが、無意識のうちに人間の行いの原理を理解し、人類を救う神の長年にわたる献身が分かるようになってきた。人間はゆっくりと、自分の野蛮さを厭うようになる。自分の野蛮さ、神への誤解のすべて、神に対して行った不当な要求の数々を憎むようになる。時間を戻すことはできない。過去の出来事は人間の後悔の記憶となり、神の言葉と愛が人間の新たな生活の原動力となる。人間の傷は日ごとに癒え、体力が回復し、立ち上がって全能者の顔を見る……すると、神がずっと傍らにいたこと、そしてその笑顔と美しい顔が依然として心揺さぶるものであることにようやく気づく。神の心は自ら造った人類をいまだ気遣い、神の手は始まりの時同様、いまだ暖かく、そして力強い。それはまるで、人間がエデンの園に戻ったようだが、人間は今回、もはや蛇の誘惑に耳を傾けず、ヤーウェの顔から目をそむけない。人間は神の前にひざまずき、神の笑顔を見上げ、最高の捧げ物をする――ああ! わが主、わが神よ!

神の愛と憐れみが経営の働きの隅々に行き渡っており、人間が神の善意を理解できるか否かにかかわらず、神はいまだに疲れも知らず、成就させようとする働きを続けている。人々がどれほど神の経営を理解しているかにかかわらず、神の働きが人間にもたらす支えと恩恵は、すべての人が理解できる。おそらく、今日この日、あなたは神が与える愛もいのちも一切感じていない。しかし、あなたが神を捨てない限り、そして真理を追い求める決意を諦めない限り、神の笑顔があなたに顕れる日は必ず来る。神の経営の働きの目的は、サタンの支配下にある人類を取り戻すことであり、サタンに堕落させられ、神に敵対する人類を見捨てることではないからである。

『神の出現と働き』「附録3:神の経営の中でのみ人は救われる」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 217

すべての人々は地上におけるわたしの働きの目的、つまり、わたしが最終的に何を得ようと望んでいるかと、この働きが完成するまでに、その中でどの程度達成しなければならないかを理解する必要がある。今日までわたしとともに歩みながら、わたしの働きが一体何であるのかを理解していないならば、人々はむだにわたしと歩んできたのではないのか。わたしに従う人々は、わたしの旨を知るべきである。わたしは地上において何千年も働いてきたのであり、今日に至るまでこのように働き続けている。わたしの働きには多くの項目が含まれているものの、その目的は変わらないままである。例えば、わたしが人間に対する裁きと刑罰で満ちていても、わたしの行なうことはやはり人間を救うためであり、また人が完全にされたあと、わたしの福音をよりよく広め、あらゆる異邦人の国においてわたしの働きをさらに展開するためである。ゆえに、多くの人がずっと以前から失望に沈んでいる今日でも、わたしはいまだに働きを続けており、人を裁いて罰するために行なうべき働きを続けているのである。人はわたしの言うことにうんざりしており、わたしの働きに関わりたくないと思っているが、それにもかかわらず、わたしはいまだに自分の務めを果たしている。なぜなら、わたしの働きの目的は変わらないままであり、わたしの本来の計画は打ち破られることがないからである。わたしの裁きが果たす役割は、人間がわたしによりよく従えるようにすることであり、わたしの刑罰が果たす役割は、人間がより効果的に変化できるようにすることである。わたしが行なうことはわたしの経営(救い)のためであるものの、わたしはこれまでに人間に有益でないことを行なったことはない。それは、イスラエルの外にわたしが足場をもてるよう、イスラエルの外のあらゆる民族をイスラエル人と同じくらい従順にし、彼らを真の人間にしたいからである。これがわたしの経営であり、わたしが異邦人の諸国のあいだで成し遂げている働きである。今でさえ、多くの人が依然わたしの経営を理解していない。そのようなことに関心がなく、自分自身の将来と終着点だけを気にかけているからである。わたしが何を言おうと、人々はわたしの行なう働きに無関心なままで、その代わりに将来における自分の終着点だけに集中している。このままであれば、どうしてわたしの働きが拡大できるだろうか。どうしてわたしの福音が世界中に広まるだろうか。わたしの働きが広まるとき、わたしはあなたがたを散り散りにし、ちょうどヤーウェがイスラエルの諸部族の一つひとつを撃ったようにあなたがたを撃つことを、あなたがたは知るべきである。これはすべて、地球のいたるところにわたしの福音が広まり、わたしの働きが異邦人の諸国へと拡大し、わたしの名が大人にも子供にも賛美され、わたしの聖なる名があらゆる国々、あらゆる民族の人々の口から褒め称えられるようにするためである。それは、この最後の時代において、わたしの名が異邦人の民族のあいだで賛美され、わたしの業が異邦人たちに見られ、わたしの業ゆえに彼らがわたしを全能者と呼び、わたしの言葉がまもなく実現されるようにするためである。わたしはイスラエル人の神であるだけでなく、わたしが呪った民族をも含むあらゆる異邦人の民族の神であることを、わたしはすべての人々に知らしめる。わたしがすべての被造物の神であることを、わたしはあらゆる人々に知らしめる。これがわたしの最も大きな働き、終わりの日に向けた働きの計画の目的、そして終わりの日に成就される唯一の働きである。

『神の出現と働き』「福音を広める働きはまた人間を救う働きでもある」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 218

わたしが何千年にもわたり経営してきた働きは、終わりの日においてのみ人間に完全に明らかにされる。今初めて、わたしは自分の経営の奥義の全貌を人間に明かし、人間はわたしの働きの目的を知り、そのうえわたしの奥義のすべてを理解したのである。わたしはすでに、人間が関心をもつ終着点についてすべてのことを人間に告げた。五千九百年以上隠されていたわたしの奥義のすべてを、すでに人間のために明らかにしたのである。ヤーウェとは誰か。メシアとは誰か。イエスとは誰か。あなたがたはこれらのことをすべて知っているはずである。わたしの働きはこれらの名によって定まる。そのことを理解したのか。わたしの聖なる名はいかに宣言されるべきか。わたしのことをわたしの名のいずれかで呼んできた諸民族のいずれかに、わたしの名はいかに広められるべきか。わたしの働きはすでに拡大しており、わたしはその拡充をあらゆる民族に広める。わたしの働きはあなたがたにおいて行なわれてきたのだから、ちょうどヤーウェがイスラエルのダビデの家の羊飼いたちを撃ったように、わたしはあなたがたを撃って、あらゆる民族のあいだに分散させる。終わりの日、わたしはすべての国々を粉々に打ち砕き、その民を新たに分配するからである。わたしが再来するとき、国々はわたしの燃えさかる炎がつくった境界線に沿ってすでに分断されているであろう。そのときわたしは焼けつく太陽として、人類の前に新たに現われ、人間がかつて見たことのない聖なるものの姿で公然と彼らに自分自身を示し、ちょうどわたし、ヤーウェがかつてユダヤの諸部族のあいだを歩いたように、無数の諸民族のあいだを歩く。それ以降、わたしは地上における人類の生活を導く。そこで人々は必ずやわたしの栄光を見、また空中に雲の柱が一本、彼らを生活において導くためにあるのを見る。わたしは聖なる場所に出現するからである。人間はわたしの義なる日を、またわたしの栄えある出現を見る。わたしが地球全体を統治し、わたしの多くの息子たちを栄光に至らせるとき、それは起こる。地上のいたるところで人々はひれ伏し、わたしの幕屋は人類のただ中に、わたしが今日行なう働きの岩の上に堅固に打ち立てられる。人は神殿においてもわたしに仕える。祭壇は汚らしくおぞましいもので覆われており、わたしはそれを粉々に打ち砕き、新たに建てる。生まれたばかりの子羊と子牛が聖なる祭壇の上に積み上げられる。わたしは今日の神殿を打ち倒し、新しい神殿を建てる。今日ある神殿は嫌悪すべき人々で溢れており、それは崩れ落ちる。わたしが建てる新しい神殿は、わたしに忠実なしもべで溢れる。彼らはわたしの神殿の栄光のために再び立ち上がり、わたしに仕える。あなたがたは、わたしが大いなる栄光を受ける日を、またわたしが神殿を倒して新しい神殿を建てる日を必ずや見るであろう。さらに、わたしの幕屋が人間の世界に到来する日を必ずや見るであろう。わたしは神殿を壊すと同時に、あたかも人間がわたしの降臨を見るかのように、わたしの幕屋を人間の世界にもたらす。あらゆる国々を打ち砕いた後、わたしはそれらを新たに集め、その時からわたしの神殿を建て、わたしの祭壇を築くことで、あらゆる者がわたしに生贄を捧げ、神殿でわたしに仕え、異邦人の諸国におけるわたしの働きに忠実に献身できるようにする。彼らは現代におけるイスラエルの民のようになり、祭司の式服と冠をまとう。わたし、ヤーウェの栄光が彼らのただ中にあり、わたしの威厳が彼らの頭上において彼らとともに留まっている。異邦人の諸国におけるわたしの働きもまた、同じ方法で実行される。異邦人の諸国におけるわたしの働きは、イスラエルにおけるわたしの働きと同様である。なぜなら、わたしはイスラエルでの働きを拡大させ、それを異邦人の諸国に広めるからである。

『神の出現と働き』「福音を広める働きはまた人間を救う働きでもある」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 219

現在はわたしの霊が大いなる働きを行い、わたしが異邦人の諸国で働きを開始するときである。それ以上に、わたしがあらゆる被造物を分類し、一つひとつを種類ごとに仕分けし、わたしの働きがさらに早く効果的に進行するようにするときである。だから、わたしがあなたがたに求めるのはやはり、自己の存在の一切をわたしのすべての働きに捧げ、そしてさらに、わたしがあなたにおいて行なったすべての働きを明確に認識、確信し、わたしの働きがより効果的になるよう、自分の全力をそれに注ぎ込むことである。これが理解しなければならないことである。自分たちのあいだで争ったり、後戻りする道を探したり、肉体の快適さを求めたりするのをやめなさい。これらはわたしの働きと、あなたのすばらしい将来を遅らせる。そのようにするのはあなたを守るどころか、破壊をもたらす。それは愚かなことではないだろうか。今日あなたが貪欲に享受しているものが、まさにあなたの将来を台無しにするものであり、一方、今日あなたが苦しんでいる痛みが、まさにあなたを守っているものである。抜け出すのに大変苦労する誘惑に陥るのを避け、濃霧にはまり込み、太陽を見つけられなくなることから逃れるために、これらのことをはっきり認識しなければならない。濃霧が晴れると、あなたは大いなる日の裁きのさなかにいる自分を見つける。その時点で、わたしの日は人類に近づきつつある。どうしてわたしの裁きから逃れるのか。どうして焼けつくような太陽の熱に耐えられるのか。わたしが自らの豊かさを人間に与えるとき、人間はそれを懐で大切にせず、代わりに誰も気づかない場所に投げ捨てる。わたしの日が人間の上に降りるとき、人間はもはやわたしの豊かさを見つけることも、はるか前にわたしが人間に語った苦い真実の言葉を見つけることもできない。光の明るさを失い、暗闇に陥ったので、人間は泣き叫ぶ。あなたがたが今日見ているのは、わたしの口の鋭利な剣に過ぎず、わたしの手にある鞭も、わたしが人間を燃やす炎も見ておらず、そのため、あなたがたはいまだにわたしの面前でも不遜で不節制なのである。そのため、あなたがたはいまだにわたしの家でわたしと争い、わたしが自らの口で語ったことに人間の言葉で反論するのである。人間はわたしを恐れず、今日までわたしと敵対し続けながら、それでもまったく恐れていない。あなたがたの口には不義なる者の舌と歯がある。あなたがたの言動はエバを罪へと誘惑した蛇のもののようで、互いに目には目を、歯には歯を要求しあい、わたしの前で地位、名声、利益を自分のものにしようと奮闘するものの、わたしが密かにあなたがたの言動を見張っていることを知らない。あなたがたがわたしの前に来る以前でさえ、わたしはあなたがたの心の奥底を調べていた。人間はいつもわたしの手中から逃れ、わたしの目の観察を避けようと望んでいるが、わたしは人間の言動から離れたことがない。代わりに、それらの言動をわざとわたしの目に触れさせ、わたしが人間の不義さを罰し、人間の反抗に裁きを下せるようにする。このように、人間の密かな言動は絶えずわたしの裁きの座の前にあり、わたしの裁きは人間から離れたことがない。なぜなら人間の反抗は過度だからである。わたしの働きは、わたしの霊の面前で発せられ行なわれる人間のあらゆる言動を燃やして清めることである。こうすることで[a]、わたしが地上を去るとき、人々は依然としてわたしへの忠誠を保ち、わたしの聖なるしもべがわたしの働きにおいてするようにわたしに仕え、それによりわたしの地上での働きはその完成の日まで続くのである。

『神の出現と働き』「福音を広める働きはまた人間を救う働きでもある」(『言葉』第1巻)

脚注

a. 原文に「こうすることで」の語句は含まれていない。


日々の神の御言葉 抜粋 220

神がこの一団において成し遂げようとしている働きは何か、あなたがたは目の当たりにしただろうか。千年神の国にあってもなお、人々は神の発する言葉に従い続けなければならず、また将来においても、神の発する言葉はカナンの良き地で人の生活を直接導くだろうと、かつて神は言った。モーセが荒野にいたとき、神は直接彼に指示を与え、語りかけた。神は天から人々に食べ物と水とマナを送り、それらを享受させた。そして今日も、神はやはり人々に食べ物や飲み物を送って享受させ、人々を罰するため自ら呪いをかけてきた。このように、神の働きの各段階は、神が自ら実行する。今日、人々は事が発生するのを求め、しるしや奇跡を求めているが、そのような人々はすべて捨て去られる可能性がある。神の働きがますます実践的になっているからである。神が天から降りてきたことを知る人は誰もおらず、神が天から食べ物や栄養物を与えてきたことにも人々はまだ気づいていない。しかし、神は実際に存在するのであり、人々が想像する千年神の国の熱を帯びた場面もまた、神が自ら発する言葉である。これは事実であり、これだけが神とともに地上において支配することと呼ばれる。地上における神との支配は肉を指す。肉でないものは地上に存在しないので、第三の天に至ろうとするすべての人の努力は無駄になる。いつか全宇宙が神に立ち返るとき、全宇宙における神の働きの中心は神の発する言葉に従うだろう。他の場所では、ある人は電話で、ある人は飛行機に乗って、ある人は船で海を渡って、またある人はレーザーを使って、神の発する言葉を受け取るだろう。誰もがあこがれ、渇望し、みな神に近づき、神の前に集い、そして神を礼拝する。そのすべてが神の業なのである。覚えておきなさい。神がどこか別の場所で新しく始めることは決してない。神はこの事実を成し遂げる。彼は全宇宙のすべての人を自身の前に出させ、地上の神を礼拝させる。他の場所での神の仕事は終わり、人々は真の道を求めなければならなくなる。それはヨセフのようだ。誰もが食べ物を求めて彼のもとを訪れ、頭を垂れた。彼が食べ物を持っていたからである。飢饉を避けるために、人々は真の道を求めることを余儀なくされる。宗教界全体が深刻な飢餓に苦しみ、今日の神のみが、人が享受するために提供される、枯れることのない生ける水の泉であり、人々は彼のもとに来て彼を頼る。その時、神の業が明らかにされ、神は栄光を得る。宇宙の至るところにいるすべての人が、この目立つ訳でもない「人間」を礼拝する。これは神の栄光の日ではないだろうか。いつか、老いた牧師たちは生ける水の泉から、水を求めて電報を送ることだろう。彼らは年老いているが、軽蔑しているこの人を崇めに来る。彼らは自身の口で彼を認め、心で彼を信頼する。これはしるしと奇跡ではないのか。神の国全体が喜ぶ時は、神の栄光の日であり、あなたがたのもとに来て神のよき知らせを受け取る者はみな、神によって祝福され、そうした国々と民は神によって祝福され、神の気遣いを受ける。将来の方向性は次のようになる。神の口から発せられた言葉を得る者には、地上において歩むべき道があり、ビジネスマンや科学者であれ、あるいは教育者や実業家であれ、神の言葉のない人は、一歩進むことさえ難しく、彼らは真の道を求めることを余儀なくされる。「真理とともに世界中を歩む。真理がなければ、どこへも至ることができない」とはこのことを言うのである。事実はこうである。神は道(つまり神の言葉のすべて)で全宇宙を指揮し、人類を治めて征服する。人は常に、神による働きの方法が大きく転換することを望んでいる。率直に言えば、神が人を支配するのは言葉を通してであり、あなたは望むと望まざるとにかかわらず、神の言うことをしなければならない。これは客観的な事実であり、すべてのものはこれに従わなければならず、避けることのできない、万人に知られた事実である。

『神の出現と働き』「千年神の国が到来した」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 221

神の言葉は無数の家庭に広まり、万人に知られるようになり、そのとき初めて、神の働きが全宇宙に広まる。つまり、神の働きを全宇宙に広めるには、神の言葉が広められなければならない。神の栄光の日、神の言葉はその力と権威を示す。太古の昔から今日に至る神の言葉の一つひとつが成就し、実現する。このようにして、栄光は地上で神のものとなる。つまり、神の言葉が地上で君臨するのである。悪しき者はみな、神の口から語られる言葉によって罰せられ、義なる者はみな、神の口から語られる言葉によって祝福され、すべては神の口から語られる言葉によって確立され、成し遂げられる。また、神はいかなるしるしや不思議も示さない。すべては言葉によって成し遂げられ、言葉が事実を生み出す。老若男女問わず、地上にいるすべての人が神の言葉を称え、あらゆる人が神の言葉の下に服従する。神の言葉は肉において現れ、鮮明で生き生きとしたそれらの言葉を、人々が地上で見られるようにする。これが、言葉が肉になるということである。神は主に、「言葉が肉になる」という事実を成し遂げるために地上に来た。つまり神は、自身の言葉が肉から発せられるよう来たのである(神の声が直接天から発せられた旧約のモーセの時代とは異なる)。その後、神のすべての言葉が千年神の国の時代に成就し、人の目に見える事実になり、少しの違いもなく、おのおのの目で見ることになる。これが、神の受肉が持つ至高の意義である。つまり霊の働きは、肉を通し、言葉を通して成し遂げられる。これが「言葉が肉になる」および「言葉の肉における出現」の真の意味である。神だけが霊の意志を語ることができ、肉における神のみが霊に代わって語ることができる。神の言葉は受肉した神において明らかにされ、他のすべての人はそれらによって導かれる。例外は誰一人おらず、みなこの範囲内にいる。これらの言葉からのみ、人々は次のことを認識できる。このようにして獲得しない者たちが、自分は天から発せられた言葉を得られると思っているのであれば、それは白昼夢を見ているのである。これが、神の受肉した肉体において権威であり、すべての人を信じさせ、完全に納得させる。最も優れた専門家や宗教界の牧師でさえ、これらの言葉を話すことはできない。彼らはみな、それらに従わねばならず、誰も新しく始めることはできない。神は言葉を用いて宇宙を征服する。受肉した肉体によってではなく、受肉した神の口から発せられた言葉を用いることで、全宇宙にいるすべての人を征服する。これこそが、言葉が肉となるということであり、これこそが、肉における言葉の出現である。おそらく人間には、神がさほど多くの働きを為していないように見えるかもしれないが、神が言葉を発するだけで、人々は完全に納得し、驚嘆する。事実がなければ、人々はわめき散らし、神の言葉があれば、彼らは沈黙する。神は必ずやこの事実を成し遂げる。これこそが、つまり言葉の地上への到来を成し遂げることが、神の長年にわたる計画だからである。実際、わたしが説明する必要はない。地上に千年神の国が到来したということは、地上に神の言葉が到来したということである。天から新しいエルサレムが降るのは、神の言葉の到来であり、神の言葉が人の中で生き、人間のあらゆる行動や内奥の考えに伴うことである。これはまた、神が成し遂げる事実であり、千年神の国の美しさである。これが神によって定められた計画である。言葉は千年にわたって地上に現れ、神のすべての業を明らかにし、地上における神のすべての働きを完了させ、その後人類のこの段階は終わりを迎える。

『神の出現と働き』「千年神の国が到来した」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 222

秦の国が地上で実現するとき――つまり、神の国が実現するとき――地上で戦争が起きることはもはやない。飢饉や疫病や地震は二度と起こらず、人々は武器の生産をやめ、すべての人が平和と安定の中で生き、人同士は普通に関わり合い、国同士も普通に関わり合う。だが、現在の状態はこれとは比べものにならない。天の下ではすべてが混乱しており、各国でクーデターが徐々に起こり始めている。神の発する言葉に続き、人々は徐々に変わっていき、各国の内部がゆっくりとばらばらになりつつある。バビロンの揺るぎない基礎は砂上の城のように揺らぎ始め、神の旨が変わるにつれて、気づかないうちに激しい変化が世界に生じる。そしてありとあらゆる兆候が常に現われ、世界の終わりの日が来たことを人々に示す。これが神の計画であり、神が働きを行なう一連の段階であって、各国は間違いなくばらばらにされる。古いソドムは再度滅ぼされ、そのため神は次のように言う。「世界は崩壊しつつある。バビロンは麻痺している」。神自身以外の誰も完全にこれを理解することはできない。結局、人々の認識には限界がある。たとえば、国内問題を司る大臣たちは、現在の状況が不安定で混乱していることを知っていても、それに取り組むことができない。彼らはただ流れに乗って、堂々と顔を上げられる日が来ることを望み、太陽が再び東から昇り、国中を照らし、この惨めな事態を好転させる日が来るのを切望することしかできない。しかし彼らは、二度目に太陽が昇るとき、その日の出はかつての秩序の回復を意味するのではなく、復活、すなわち完全な変化を指すのだということを知らない。それが全宇宙に関する神の計画である。神は新しい世界をもたらすが、何よりまず人間を新しくする。

『神の出現と働き』「『全宇宙への神の言葉』の奥義の解釈、第二十二章と第二十三章」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 223

世界においては、地震が災いの始まりとなる。まず最初に、わたしはこの世界、つまり地を変え、次に疫病と飢餓が続く。これがわたしの計画であり、これらがわたしの段階であり、わたしはあらゆるものを動員してわたしに仕えさせ、わたしの経営計画を全うする。こうして、わたしが直接関与することもなく、宇宙世界全体が滅ぼされるだろう。わたしが最初に肉となり十字架にかけられたとき、地は激しく揺れたが、終わりの時にもそれと同じことが起こる。わたしが肉から霊的領域に入った瞬間に、地震が起こり始める。そのため、長子たちが災害に遭うことは絶対になく、一方長子以外の人々は災害の中に取り残されて苦しむことになる。それゆえ人間の観点からすれば、誰もが長子になることを望む。人々の予感によれば、それは祝福を享受するためではなく、災難の苦しみから逃れるためだ。これは赤い大きな竜の企みである。だが、わたしは赤い大きな竜を逃がしはしない。竜にはわたしの厳しい罰を受けさせ、その後立ち上がらせてわたしに奉仕させ(これはわたしの子らと民を完全にすることを意味する)、永遠に自分自身の策略に欺かれ、永遠にわたしの裁きを受け、永遠にわたしの炎で焼かれるようにする。これが、効力者たちにわたしを讃美させるということの本当の意味である(すなわち彼らを用いてわたしの偉大な力を示すのだ)。赤い大きな竜はわたしの国に忍び入ることを許さず、わたしを讃美する権利も与えはしない(竜はそれに値せず、将来も決して値しないからだ)。竜にはただ永久に、わたしに奉仕させるだけだ。ただわたしの前にひれ伏されるのだ。(滅ぼされる者たちは、地獄にいる者たちよりまだましである。滅びは単なる一時的な重い罰だが、地獄にいる者たちは永遠に厳しい罰を受けることになる。このためわたしは、「ひれ伏す」という言葉を使うのだ。これらの人々はわたしの家に忍び込み、多くの恵みを享受し、わたしに関する認識をいくらか持っているので、厳しい罰を与える。わたしの家の外にいる者たちについては、無知な者は苦しまないと言うこともできる。)人々の観念では、滅びる者のほうが地獄にいる者より悲惨だと考えられるが、逆に地獄にいる者たちは永遠に厳しい罰を受けなければならず、滅ぼされる者たちは永久に無に帰するのだ。

『神の出現と働き』「キリストの初めの言葉、第百八章」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 224

神の国を迎える祝砲が鳴り響くとき、これはまた七つの雷が轟くときでもあるのだが、この音は天地を激しく揺さぶり、天空を震わせ、すべての人間の心の琴線を震わせる。神の国の讃歌が赤い大きな竜の地で厳かに鳴り渡り、わたしがその国を破壊し、わたしの国を建てたことを証しする。さらに重要なのは、わたしの国が地上に建てられることである。このとき、わたしは我が天使たちを世界のすべての国々に遣わし、わたしの子ら、わが民を牧養できるようにする。これはまた、わたしの働きの次なる段階にとって必要なことを満たすためである。しかしわたしは、赤い大きな竜がとぐろを巻いて横たわる場所に自ら臨み、それと対決する。すべての人間が受肉したわたしを知るようになり、肉におけるわたしの業を目の当たりにできるとき、赤い大きな竜のねぐらは灰となり、跡形もなく消え去る。わたしの国の民として、あなたがたは赤い大きな竜を心の底から嫌っているのだから、自分の行いによってわたしの心を満足させ、それによって竜を辱めなくてはならない。あなたがたは本当に、赤い大きな竜を憎むべきものと感じているのか。本当に神の国の王の敵だと感じているのか。わたしの素晴らしい証しをできる信仰が本当にあるのか。赤い大きな竜を打ち破る自信が本当にあるのか。以上があなたがたに求めることである。わたしが必要とするのは、ただあなたがたがこの段階に達せることである。あなたがたにそれができるだろうか。それを成し遂げるだけの信仰があるのか。人間にいったい何ができるのか。むしろ、わたしが自ら行なうのではないのか。自ら戦いの地に降りるとわたしが言うのはなぜか。わたしが望むのはあなたがたの信仰であって、行いではない。人間は、わたしの言葉をありのままに受け取ることができず、横目で見ることしかできない。それによって、あなたがたは目的を達したのか。そのようにして、わたしを知るに至ったのか。実を言うと、地上の人間のうち、わたしの顔を正面から見ることのできる者は一人もおらず、わたしの言葉の純粋な、ありのままの意味を受け取れる者も一人としていない。ゆえに、自らの目標を果たし、人々の心にわたしの真の姿を植えつけるべく、わたしは前例のない事業を地上で始めた。そうして、観念が人々を支配する時代に幕を下ろすのである。

今日、わたしは赤い大きな竜の国に降り立つだけでなく、全宇宙に向き合い、天空全体を揺り動かす。わたしの裁きが下されない場所が一つでもあるだろうか。わたしの降らせる災難が存在しない場所が一つでもあるだろうか。わたしは行く先々に、ありとあらゆる「災いの種」を蒔いた。これは、わたしが働く方法の一つであり、人間を救う業であるのは間違いなく、わたしが人間に差し伸べるものは依然として一種の愛なのである。わたしは、さらに多くの人々がわたしを知り、わたしを見られるようにするとともに、そうして長きにわたって見られなかった神、いまや現実である神を崇められるようにしたい。どのような理由で、わたしは世界を創ったのか。人間が堕落した後、わたしが彼らを完全に滅ぼさなかったのはなぜか。全人類が災いの中で生きているのはなぜか。わたしが肉をまとった目的は何か。わたしが働きを行なうとき、人間は苦さだけでなく、甘さをも味わう。世の人々のうち、わたしの恵みの中で生きていない者がいるだろうか。わたしが人に物質的な恵みを授けなかったら、この世の誰が富み足りるだろうか。あなたがたが我が民として今の立場にいられるようにしたことは、果たして祝福だろうか。あなたがたが我が民ではなく効力者だとしたら、わたしの恵みの中で生きていないのだろうか。わたしの言葉の起源を理解できる者は、あなたがたの中に一人もいない。人間は、わたしの与えた呼び名を大事にするどころか、じつに多くの人々が内心で「效力者」という呼び名を嫌い、「我が民」という呼び名に心の中でわたしへの愛を育む。わたしを騙そうと試みてはいけない。わたしの目はすべてを見通す。あなたがたのうち、誰が進んで受け取り、誰が完全に従順であるのか。神の国の祝砲が鳴り響かなくても、あなたがたは最後まで真に従うことができるだろうか。人間のできること、考えること、そして人間がどこまでできるかは、どれも遠い昔にわたしがあらかじめ定めたことである。

『神の出現と働き』「全宇宙への神の言葉、第十章」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 225

神の国の建設は正式に始まっているが、神の国の礼砲はまだ鳴り響いていない。現在、それはこれから起こることの預言に過ぎないのである。民がみな完全にされ、地上のすべての国がキリストの国となるとき、それは七つの雷鳴が轟くときである。現在はその段階へと大きく前進するときであり、その日に向かってすでに進撃している。これが神の計画であり、近い将来実現する。しかし、神は自身が語ったすべてのことをすでに達成している。したがって、地上の国々が砂上の楼閣に過ぎず、大波が押し寄せれば揺れ動くのは明らかである。終わりの日は迫っており、赤い大きな竜は神の言葉の下に倒れる。神の計画が成功裏に遂行されることを確実にすべく、天使たちが地上に降り、神を満足させるために最善を尽くしてきた。そして肉となった神自身が出陣し、敵に戦いを挑んできた。受肉した神がどこに現われようと、敵はその場で滅ぼされる。真っ先に滅ぼされるのは中国で、神の手によって破壊される。神は中国を一切容赦しない。赤い大きな竜が次第に崩壊していることは、人々が絶えず成熟していることによって証明されている。これは誰にとっても一目瞭然である。人々の成熟は敵が消滅することの兆候であり、「対決する」という言葉の意味を少しばかり説明している。このように、神に美しい証しを捧げ、赤い大きな竜の醜さである観念が人の心に占めている地位を打ち消すよう、神は事あるごとに人に思い出させた。そうすることで、神は人々の信仰にいのちを与え、自身の働きを成し遂げる。なぜなら、神はこのように言ったからである。「人間にいったい何ができるのか。むしろ、わたしが自ら行なうのではないのか」。人はこのようなものである。つまり能力がないだけでなく、すぐに落胆し、失望する。そのため、人は神を知ることができない。神は人の信仰を蘇らせるだけでなく、絶えず密かに人々へ力を吹き込んでいるのだ。

次に、神は全宇宙に向かって語り始めた。中国で新たな働きを始めただけでなく、全宇宙で今日の新しい働きを開始したのである。働きのこの段階において、神を裏切ったすべての人が再び神の玉座の前に出てひれ伏すよう、神は世界の至るところで自身の業のすべてを表わそうと望んでおり、そのため神の裁きには依然として慈悲と慈しみが含まれる。神は世界中で現在の出来事を用い、人々を狼狽させ、彼らが神を求め、神のもとに戻るようにする。ゆえに、神はこう言うのである。「これは、わたしが働く方法の一つであり、人間を救う業であるのは間違いなく、わたしが人間に差し伸べるものは依然として一種の愛なのである」。

『神の出現と働き』「『全宇宙への神の言葉』の奥義の解釈、第十章」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 226

わたしは地上において権威を振るい、わたしの働きの全体を展開する。わたしの働きの内のことはすべて地上に反映される。地上において人類はけっして、わたしの天国での動きを把握できなかったし、わたしの霊の軌跡や歴程を余すところなく熟考することもできなかった。大部分の人間は霊の実際の状態を理解することができず、霊の表面のごく小さな部分しか把握していない。わたしが人に求めていることは、天にいる漠然としたわたしの存在から来るのでも、地上にいる計り知れないわたしの存在から来るのでもない。わたしは地上にいる人間の霊的背丈に応じて適切な要求をしているのである。わたしは誰をも困難な状況に置いたことはないし、わたしの楽しみのために「血を絞り出せ」と要求したこともない――わたしの要求が、そうした条件のみに制限されることがあり得ようか。地上の無数の被造物の中で、わたしが口にする言葉の采配に従わないものはどれか。これらの被造物の中で、わたしの前に来たとき、わたしの言葉とわたしの燃える炎とで完全に焼き尽くされないものはどれであろうか。これらの被造物の中で、大胆にもわたしの前で誇らしげに自己を「誇示」するのはどれであろうか。これらの被造物のうちわたしの前に頭を垂れないのはどれであろうか。わたしは被造物に沈黙を強いるだけの神だろうか。わたしは、無数の被造物のうち、わたしの意図を満足させるものを選ぶ。人類の無数の人の中から、わたしの心を重んじるものを選ぶ。わたしは、すべての星々の中で最高のものを選び、そうして、わたしの国に微かな輝きを加える。わたしは地上を歩み、いたるところにわたしの芳香を放ち、あらゆるところにわたしの影を残す。一つひとつの場所にわたしの声が響き渡る。いたるところの人々が過日の美しい眺めを恋しく思う。全人類が過去を記憶しているからである……

全人類はわたしの顔を見ることを願っているが、わたし自身が地上に降り立つと、みな、わたしの到来を嫌い、到来する光を追い払う。まるで、わたしが人間の天なる敵であるかのようである。人間は警戒するような光を目にたたえわたしにあいさつし、常に警戒し、わたしが他の企みをもっているのではないかと深く恐れている。人間はわたしを見慣れない友として見ているので、わたしが無差別殺人の意図でも抱いているかのようにわたしを見る。人間の目には、わたしは恐ろしい敵対者なのである。患難の中でわたしの暖かさを体験しても、人間はわたしの愛に気づかないままで、いまだにわたしを退け、わたしに逆らおうとする。わたしは、人間の状況を利用して彼らに対抗するどころか、人間を温かい抱擁の中に包み込み、人間の口を甘味で満たし、その腹を必要な食物で満たす。しかし、わたしの激しい憤りが山々や河川を揺さぶるとき、わたしはもはや、人間の臆病さのために別の形の援助を与えることをしない。今この瞬間、わたしは怒りに燃え、あらゆる生き物に悔い改める機会を与えず、人間に対する希望をすべて捨て、人間にふさわしい報いを与えよう。その時には、雷鳴がとどろき、稲妻がはためき、海原の波が怒りに荒れ狂うように、幾万の山々が崩れ落ちるようになる。人間はその反抗心のせいで雷鳴と稲妻とに打倒され、他の被造物は雷と稲妻とで一掃され、全宇宙が突然混沌の淵に落ち、全被造物は生命の始まりの息を取り戻せない。無数の人間たちは雷鳴から逃れることができない。稲光がはためく中、群れをなした人間たちが次々と急流に転げ落ち、山々から流れ落ちる激流にさらわれていく。突然、人間の「終着点」に「人間」の世界が合流する。死体が広い海面を漂う。全人類がわたしの怒りにより、わたしからはるか遠くに去る。人間がわたしの霊の本質に対して罪を犯し、その反抗がわたしに背いたからである。しかし、水のない場所では、他の人間たちが笑いと歌の中で、わたしが彼らに与えた約束をいまだに楽しむ。

全ての人が静かになったとき、わたしは彼らの目の前に微かな光を発する。すると、人々は頭がはっきりとし、目が明るくなり、もはや沈黙していようとしなくなる。そうして霊的感覚が直ちに心の中に呼び起こされる。それが起こる時、全人類はよみがえる。わたしの発する言葉によって生き残る新たな機会を得て、口には出さない不満を捨て去り、すべての人間はわたしの前に来る。それは、人間はみな地上で生きたいからである。しかし、その中の誰がわたしのために生きる意図をもったことがあるだろうか。捧げてわたしに享受してもらうために、誰が自らの内にある素晴らしいものを掘り出したことがあるだろうか。わたしの魅惑的な香りを誰が感じ取ったことがあるだろうか。全ての人間は粗雑で洗練されていないものである。外側は眩いばかりに見えるが、その実質は心からわたしを愛するものではない。なぜなら、人間の心の奥底には、わたしのどんな要素も存在したことがないからである。人間はあまりに不完全である。わたしと比べると、天と地ほど大きな溝があるように見える。たとえそうでも、わたしは人間の弱くもろい点を突くことはないし、その人の欠点の故にあざ笑うこともしない。わたしの手は数千年もの間、地上で働きをしてきて、その間ずっと、わたしの目は全人類を見守ってきた。しかし、一人の人間の生命もおもちゃのように扱おうと軽々しく奪ったことはない。わたしは人間が経験した苦労を見、人間の支払った代償を理解している。人間がわたしの前に立つとき、その油断に付け込んで懲らしめようとは思わないし、望ましくないものを人間に与えることも願わない。むしろ、わたしはその間ずっと、ひたすら人間に施し、与えてきた。故に、人間が享受するものはことごとくわたしの恵みであり、それはどれもわたしの手から出る賜物である。わたしがこの地上にいるので、人間はけっして飢えに苦しむことがなかった。それどころか、わたしは、わたしの手にあって享受するものを人間が受け取り、わたしの祝福の中で生きられるようにする。全人類はわたしの刑罰の下に生きているのではないのか。山々の深いところに豊かなものがあるように、水の中に豊穣さが秘められているように、今日わたしの言葉の中で生きている人々には、享受して味わう食物がなおさらあるのではないか。わたしは地上におり、人類は地上でわたしの恵みを享受している。わたしが地上を離れるとき、それはまたわたしの働きが完了する時でもあるが、人類は弱いからといって、わたしに甘えることはもはやない。

『神の出現と働き』「全宇宙への神の言葉、第十七章」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 227

あなたがたは、ほんとうに赤い大きな竜を憎んでいるのか。ほんとうに、心から竜を憎んでいるのか。なぜわたしは、こんなに何度も尋ねているのか。なぜわたしは、この問を何度も繰り返しているのか。あなたがたは心の中で、赤い大きな竜について、どんな印象をもっているのか。それはほんとうに除かれたのか。ほんとうに、竜を自分の父とは考えていないのか。すべての人は、わたしの問の中にわたしの意図を理解しなければならない。これは、人々を怒らせようというのではなく、人々の間に反乱を起こさせようというのでもない。また、人間に自分で解決法を見つけさせようというのでもない。すべての人が赤い大きな竜の縛めから自由になれるようにと、していることなのだ。しかし、誰も不安になってはいけない。すべてはわたしの言葉で成し遂げられる。誰一人、手を出すことはできない。また、誰一人、わたしのしている働きをすることはできない。わたしは全地の空気をきれいに拭い、地上にいる悪魔たちの痕跡を一掃しよう。わたしはすでに始めている。そして、わたしの刑罰の働きの第一段階を赤い大きな竜のすみかで始める。そうして、わたしの刑罰が全宇宙に及ぶと、赤い大きな竜とあらゆる不浄な霊が無力で、わたしの刑罰を免れないことがわかる。わたしは全地を調べるのだから。地上でのわたしの働きが完了すると、つまり、裁きの時代が終わると、わたしは正式に赤い大きな竜を刑罰する。わが民は、わたしが赤い大きな竜に与える義の刑罰を必ずや見、わたしの義のゆえに必ずや賛美をささげ、わたしの義のゆえに、必ずや永遠にわたしの聖なる名をたたえる。そこで、あなたがたは、正式に本分を果たし、全地で正式にわたしをたたえる。永遠に絶えることなく。

裁きの時代のさなか、わたしは働きを終えることを急がない。そうではなく、刑罰の時代の証拠を折り込み、その証拠が、わが民みなに見られるようにする。そこからすばらしい実が結ばれるだろう。この証拠は、わたしが赤い大きな竜を刑罰する手段であり、わたしは、わが民がその目で見るようにする。彼らがわたしの性質をよりよく知るようにするためである。わが民がわたしを享受する時は、赤い大きな竜が刑罰される時である。赤い大きな竜の民が立ち上がり、竜に逆らい背くようにするのがわたしの計画であり、これが、わが民を完全にするわたしの方法である。それは、わが民すべてが、いのちにおいて成長する、すばらしい機会である。

『神の出現と働き』「全宇宙への神の言葉、第二十八章」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 228

明るい月が昇ると、直ちに夜の静寂が破られる。月は欠けているが、人間は意気高く、月光の下で静かに座り、月光による美しい風景を眺めている。人間は自分の感情を表現できない。まるで、過去のことを振り返るようだ。未来を見たがっているようだ。現在を楽しんでいるようだ。人間の顔に笑みが浮かぶ。そして、心地よい空気の中、爽やかな香りが漂う。微風が起こり、人間は豊かな芳香を感じ、それに酔い、醒めることができないでいるようだ。まさにその時、わたしが自ら人間の間にやって来るのだ。人間はさらに強い芳香を感じ、それゆえすべての人はこの芳香の中で生きる。わたしは人間と平和的関係にあり、人間はわたしと調和の中で生きる。もはやわたしを別の目で見ることはしない。もはやわたしは人間の欠陥に対する刈り込みをしない。もはや人間の顔に悲しみはない。また、もはや全人類は死に脅かされない。今日、わたしは人間と共に刑罰の時代に進み、人間と並んで進む。わたしは、わたしの働きをしている。つまり、わたしの杖を人間の中で振るい、それは人間の中の反抗的なものを打つのだ。人間の目には、わたしの杖に特別な力があるように見える。それは、わたしの敵である者たちすべてを打ち、容易に彼らを逃さない。わたしに敵対する者たちの中で、杖はその本来の目的どおりの役目を果たす。わたしの手の中にあるものは、どれもわたしの目的にしたがってするべきことをし、けっしてわたしの意にそむいたり、その本質を変えたりしない。その結果、水は轟き、山々は倒れ、大河はばらばらになり、人間は気まぐれになり、太陽は薄暗くなり、月は暗くなり、人間はもはや心安らかに生きられない。もはや地に穏やかな時はない。天はけっして再び穏やかで静かではなく、それ以上耐えることをしない。すべてのものは新たになり、本来の姿を取り戻す。地のすべての家は引き裂かれ、地のすべての国は散り散りになる。夫と妻が再会することはなく、母と息子も二度と会うことはなく、父と娘が再会することも二度とない。かつて地にあったものは、みなわたしが砕く。わたしは人々に感情を解き放つ機会を与えない。わたしには感情がないからであり、人々の感情を極度に嫌うようになったからだ。人々の間に感情があるから、わたしは横に押しのけられ、それでわたしは彼らの目に「よそ者」になった。人々の間に感情があるから、わたしは忘れられた。人間に感情があるから、人間はその機会をつかんで「良心」を拾う。人間に感情があるから、いつもわたしの刑罰にうんざりとしている。人間に感情があるから、人間はわたしが不公平で不正だと言い、わたしが人間の気持ちにお構いなく物事を進めると言うのだ。わたしも地上に身内がいるのか。誰がわたしのように、食べ物や眠りのことを考えずにわたしの経営(救いの)計画全部のために日夜働いてきたのか。どうして人間が神に比肩しよう。どうして人間が神と相容れよう。どうして創造者である神が、被造物である人間と同類であり得よう。どうしてわたしは常に人間と共に地上に生き、行動できるのか。誰がわたしの心を案じることができるのか。それは人間の祈りだろうか。わたしはかつて人間と共に歩くことを承知した――そして、今日まで、人間はわたしの世話と守りを受けてきた。しかし、人間がわたしの世話から離れることができる日はいつか来るのだろうか。人間はけっしてわたしの心を案じたことはないが、誰が光のない世界で生きていけるのか。わたしの祝福があるからこそ、人間は今日まで生きてきたのだ。

『神の出現と働き』「全宇宙への神の言葉、第二十八章」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 229

諸国はひどい混乱に陥っている。神の鞭が地上で役割を果たし始めたからである。地上の状況の中に神の働きを見ることができる。「水は轟き、山々は倒れ、大河はばらばらになり」と神が言うとき、これは地上における鞭の最初の働きであり、その結果、「地のすべての家は引き裂かれ、地のすべての国は散り散りになる。夫と妻が再会することはなく、母と息子も二度と会うことはなく、父と娘が再会することも二度とない。かつて地にあったものは、みなわたしが砕く」。地上の家族の一般的状況はこうしたものとなる。もちろん、まさかひとつ残らずこのような状況にはならないが、ほとんどがこうなる。他方、それはこの流れにいる人が将来経験する事情にも言及している。いったんその人たちが言葉の刑罰を経験し、未信者が災害を受けたならば、もはや地上の人の間に家族関係はなくなると予言している。誰もが秦の国の人になり、みな神の国で忠実になる。このようにして、夫と妻が再会することはなく、母と息子も二度と会うことはなく、父と娘が再会することも二度とない。そこで、地上の人々の家族は引き裂かれ、ずたずたにされるが、これが、神が人間に行なう最後の働きである。そして、神はこの働きを全宇宙に広げるので、この機会をとらえて、人々のために「感情」という言葉の意味を明確にし、それにより神の旨はすべての人の家族をばらばらにすることであると人々にわからせ、神は人類の中にあってすべての「家庭の不和」を解決するために刑罰を用いることを示す。そうでなければ、地上における神の働きの最終部分を終らせる方法はないだろう。神の言葉の最終部分は、人類の最大の弱点、人間はすべて感情の中に生きていることを暴露する。だから、神は人間を誰一人として避けることなく、全人類の心の中に隠されている秘密を暴き出す。なぜ人にとって、感情から自分を切り離すことがそんなにも困難なのか。そうすることは良心の基準を超えるのか。良心は神の旨を達成することができるのか。感情は人が困難を切り抜ける助けができるのか。神の目には、感情は敵と映る。このことは神の言葉にはっきりと述べられていなかっただろうか。

『神の出現と働き』「『全宇宙への神の言葉』の奥義の解釈、第二十八章」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 230

神のすべての言葉には神の性質の一部が含まれている。神の性質を言葉で完全に表すことはできないので、このことから神にどれほどの豊かさがあるかが十分にわかる。人間が見たり触れたりできるものは、結局、人間の能力同様に限られている。神の言葉は明確だが、人はそれを十分に理解することができない。次の言葉を例として考えてみよ。「稲光の中、すべての動物は真の姿を明らかにする。そして、わたしの光に照らされて、人間もまた、かつての聖さを取り戻した。ああ、過去の堕落した世界よ。それはついに汚い水の中へと崩れ去り、水面の下に沈み、溶けて泥となった」。神の言葉のすべてには神の存在が含まれており、人々は皆この言葉に気づいているにもかかわらず、その意味を知る者は誰一人いたことがない。神の目には、神に抵抗する者すべてが敵であり、すなわち、悪霊に属する者は動物である。このことから、教会の真の状態を見て取ることができる。すべての人は神の言葉により照らされ、他の人からの訓戒や懲らしめや直接的な排除を受けることなく、また他の人間的なやり方の対象にされることも、他の人からの指摘を受けることもなく自己を省みる。人間は「顕微鏡的な観点」から自分の内部に実際どれほどの病気があるかを見る。神の言葉において、すべての種類の霊は分類され、その原形が明らかにされる。天使の霊を持つ者はますます光に照らされ、啓示を受ける。そのため、神の言葉は、「かつての聖さを取り戻した」と述べている。この言葉は神が達成した最終的結果に基づいている。もちろん、今はまだ完全には達成できず、これは前触れにすぎない。これを通して、神の旨が見える。すべての人が次第に聖くなる過程で、多くの人は神の言葉のうちに倒れ、敗れることを示すのにこの言葉は十分である。ここでの「溶けて泥となった」という表現は、神が火で世界を焼き滅ぼすことと矛盾せず、「稲光」は神の激しい怒りを意味する。神が激しい怒りを放つと、その結果、全世界は火山の噴火のようなあらゆる種類の災害を経験する。天空に高く立つと、地上ではあらゆる種類の災難が人類全体に日ごとに近づきつつあることがよくわかる。高みから見下ろすと、地球は地震の前に見られるようなさまざまな光景を見せる。火の海が止めどなく襲いかかり、溶岩がそこら中に流れ、山々は動き、冷たい光があたり一面に光る。全世界は炎の中に沈んでいる。これは神が激しい怒りを放つ光景であり、神の裁きの時である。血肉からなる者は誰も逃れることはできない。こうして、全世界を破壊するために国家間の戦争、人々の間の争いは必要ではなくなり、世界は神の刑罰というゆりかごの中で「意識しながら楽しむ」のである。誰もそれを逃れることはできず、誰もがこの試練を一つずつ経験しなければならない。その後、全宇宙はもう一度聖なる輝きできらめき、全人類はもう一度新しい生活を始める。そして神は宇宙の上で安息し、全人類を毎日祝福する。天は耐え難いほど荒涼としてはおらず、天地創造以来失っていた活力を取り戻し、「六日目」を数えるのは神が新しい生き方を始める時である。神と人類はどちらも安息に入り、世界はもはや不透明でも汚れてもおらず、新たにされる。こういうわけで神は次のように言ったのである。「地はもはや、死んだように動きがなくも沈黙してもいない。天はもはや荒涼として悲しいところではない」。天の御国に不義や人間の感情があったことはなく、人類の堕落した性質も一切なかった。サタンによる妨害がそこにはないからである。「人」は皆神の言葉を理解することができ、天国の生活は喜びでいっぱいである。天国にいる者はすべて神の知恵と尊厳を持っている。

『神の出現と働き』「『全宇宙への神の言葉』の奥義の解釈、第十八章」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 231

今日の発言はすべて将来の事柄を預言していると言える。それらの発言は、神が自身の働きの次なる段階を整えているということである。神は教会の人々の中での働きをほぼ完了し、その後は怒りとともにすべての人の前に現われるだろう。「わたしは地上の人々にわたしの行いを認めさせ、わたしの業は『裁きの座』の前で証明され、わたしに従う地上のすべての人のあいだで認められるようにする」と神が言うとおりである。あなたがたはこれらの言葉に何かを見出しただろうか。ここにあるのは神による働きの次なる部分の要約である。第一に、神は政治的権力をふるうすべての番犬を心から納得させ、歴史の舞台から自発的に身を退かせるとともに、地位を巡って争ったり、企みや陰謀に関わったりすることが二度とないようにする。この働きは神を通じて、地上でさまざまな災害を起こすことで実行されなければならない。しかし神が現われるということは決してない。そのとき、赤い大きな竜の国は依然として汚れた地であり、それゆえ神は現われず、刑罰を通じて出現するに過ぎない。それが神の義なる性質であり、そこから逃れることは誰にもできない。その間、赤い大きな竜の国に住むすべての人は惨禍を経験するだろう。当然そこには地上における神の国(教会)も含まれる。これがまさに事実の現われる時であり、よってすべての人が経験し、誰も逃れることはできない。これは神によって予定されたことである。「今こそ壮大な計画を実行する時である」と神が言うのは、まさにこの段階の働きのためである。なぜなら、未来において地上に教会はなく、災いの到来のため、人々は目の前にあるもののことしか考えられずに他の一切を無視し、また災いのただ中で神を享受することは難しいからである。そのため、人々は機会を逃さないよう、この素晴らしい時に心を尽くして神を愛することを求められる。この事実が過ぎ去るころになれば、神は赤い大きな竜を完全に打ち負かしており、かくして民による神の証しの働きは終了している。その後、神は次なる段階の働きを開始し、赤い大きな竜の国を荒廃させ、最終的には世界中の人々を逆さまにして十字架にかけ、それから全人類を絶滅させるだろう。これが神の働きの将来の段階である。したがって、あなたがたはこの平和な環境において、全力で神を愛することを求めなければならない。将来、あなたがたが神を愛する機会はなくなるだろう。人々には肉において神を愛する機会しかないからである。別の世界で暮らすとき、神を愛することを語る者はいないだろう。これは被造物の責任ではないのか。そうであれば、自分の人生の日々において、あなたがたはどのように神を愛すべきなのか。それを考えたことはあるか。死後になるまで神を愛さないつもりなのか。それは空虚な話ではないか。今日、神を愛することを追い求めないのはなぜなのか。多忙でありながら神を愛することが、神への真の愛になり得るのか。神の働きのこの段階はすぐに終わると言われる理由は、神がサタンの前ですでに証しを自分のものにしたからである。ゆえに、人は何もする必要がなく、生きているあいだに神を愛することを追求するよう求められるだけである。これが大切なのである。神の要求は高くなく、そしてさらに、神の心には燃えるような不安があるので、この段階の働きが終わる前に、神は働きの次なる段階の要約を明らかにした。そしてそれは、時間がどれほどあるかを明瞭に示している。神が心に不安を抱いていなければ、これほど早くにこうした言葉を語るだろうか。神がこのように働くのは、時間があまりないからである。あなたがたが自分のいのちを大切にするように、心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして神を愛することが望まれている。それが究極の意義をもつ人生ではないだろうか。他のどこに人生の意義を見つけ得るのか。あなたはそれほどまでに盲目ではないのか。あなたは進んで神を愛するつもりか。神は人の愛にふさわしいのか。人々は人の崇拝に値するだろうか。ならば、あなたは何をすべきなのか。無条件で勇敢に神を愛し、神があなたに何を行なうかを見よ。神があなたを殺すかどうか確かめよ。要するに、神を愛するという務めは、神のために何かを書き写したり書きとめたりすることよりも重要なのである。あなたの人生がより価値をもち、幸せで満ちるように、最も重要なものを最優先にすべきである。そうして、自分に対する神の「判決」を待つべきである。あなたの計画に神を愛することは含まれているだろうか。一人ひとりの計画が神によって成就されるものになり、すべて現実になることを願う。

『神の出現と働き』「『全宇宙への神の言葉』の奥義の解釈、第四十二章」(『言葉』第1巻)

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