神を知る(3)

日々の神の御言葉 抜粋 83

言葉を用いて万物を創造する神 (抄出)

創世記 1:3-5 神は「光あれ」と言われた。すると光があった。神はその光を見て、良しとされた。神はその光とやみとを分けられた。神は光を昼と名づけ、やみを夜と名づけられた。夕となり、また朝となった。第一日である。

創世記 1:6-7 神はまた言われた、「水の間におおぞらがあって、水と水とを分けよ」。そのようになった。神はおおぞらを造って、おおぞらの下の水とおおぞらの上の水とを分けられた。

創世記 1:9-11 神はまた言われた、「天の下の水は一つ所に集まり、かわいた地が現れよ」。そのようになった。神はそのかわいた地を陸と名づけ、水の集まった所を海と名づけられた。神は見て、良しとされた。神はまた言われた、「地は青草と、種をもつ草と、種類にしたがって種のある実を結ぶ果樹とを地の上にはえさせよ」。そのようになった。

創世記 1:14-15 神はまた言われた、「天のおおぞらに光があって昼と夜とを分け、しるしのため、季節のため、日のため、年のためになり、天のおおぞらにあって地を照らす光となれ」。そのようになった。

創世記 1:20-21 神はまた言われた、「水は生き物の群れで満ち、鳥は地の上、天のおおぞらを飛べ」。神は海の大いなる獣と、水に群がるすべての動く生き物とを、種類にしたがって創造し、また翼のあるすべての鳥を、種類にしたがって創造された。神は見て、良しとされた。

創世記 1:24-25 神はまた言われた、「地は生き物を種類にしたがっていだせ。家畜と、這うものと、地の獣とを種類にしたがっていだせ」。そのようになった。神は地の獣を種類にしたがい、家畜を種類にしたがい、また地に這うすべての物を種類にしたがって造られた。神は見て、良しとされた。

第一の日、神の権威により、人類の昼と夜が生まれ、確立した

では、最初の聖句を検討しましょう。「神は『光あれ』と言われた。すると光があった。神はその光を見て、良しとされた。神はその光とやみとを分けられた。神は光を昼と名づけ、やみを夜と名づけられた。夕となり、また朝となった。第一日である」(創世記 1:3-5)。この聖句では、創世における神の最初の業、そして昼と夜がある、神の過ごした最初の日が描かれています。しかし、この日は特別でした。神は万物のために光を用意し始め、さらに光と闇を分けたのです。この日、神は言葉を語り始めましたが、神の言葉と権威は隣り合わせに存在していました。神の権威が万物の前に示され、言葉によって神の力が万物に及びました。この日以降、神の言葉、権威、そして力により、万物が創造されて確立し、また神の言葉、権威、そして力のおかげで、それらのものが機能し始めました。神が「光あれ」と言ったので、そこには光がありました。神は何らかの仕事に取りかかったのではなく、神の言葉によって光が現われたのです。それは、神が昼と呼ぶ光であり、現在も人間が生存するのに必要な光です。神が命じたために、その本質と価値は変わったことがなく、それらが消えたこともありません。光の存在は神の権威と力を示し、創造主の存在を宣言するとともに、その身分と地位を繰り返し確認するものです。その光は形なきものでも架空のものでもなく、人間が見ることのできる実際の光です。そのとき、「地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり」という空虚な世界に、最初の形あるものが生み出されました。それは神の口から発せられた言葉によって生み出され、神の権威と発した言葉により、万物創造の最初のものとして現われました。その直後、神は光と闇が分かれるように命じました……。神の言葉によってすべてが変化し、完了したのです……。神はその光を「昼」と呼び、闇を「夜」と呼びました。そのとき、神が創造しようとしている世界に最初の夜と朝が創られ、神はそれを第一の日と言いました。この日は創造主による万物創造の初日であり、創造の始まりであり、自ら創ったこの世界に創造主の権威と力が示された最初のときでした。

これらの言葉により、人間は神の権威と神の言葉の権威、そして神の力を見ることができます。このような力をもつのは神だけであり、ゆえに神だけがこのような権威をもっています。そして神はこのような権威をもっているので、神だけがこのような力をもっています。人間や物がこうした権威と力をもつことはできるでしょうか。何か思いつきますか。神以外に、被造物やそうでないものが、このような権威をもっているでしょうか。書籍や出版物の中で、そうした物の例を見たことはありますか。誰かが天地と万物を創ったという記録はありますか。そのようなことは他のどの書籍や記録にも書かれていません。それらは当然ながら、神の壮大な創世に関する、権威と力がある唯一の言葉であり、聖書の中に記されています。つまりそれらの言葉は、神だけがもつ権威と身分を語っているのです。こうした権威や力は、神独自の身分を象徴するものだと言えるでしょうか。それらは神だけがもつものと言えるでしょうか。神だけがこのような権威と力をもっていることに、疑いの余地はありません。被造物であれ、そうでないものであれ、この権威と力をもつことはできず、それに取って代わることもできません。それは唯一無二の神自身がもつ特性の一つですか。あなたがたはそれを目の当たりにしたことがありますか。人々はこれらの言葉のおかげで、神が独自の権威と力をもち、至高の身分と地位にあることを、迅速かつ明瞭に理解することができます。以上の内容から、自分の信じている神が唯一無二の神自身であると言えますか。

『神を知ることについて』「唯一無二の神自身 I.」(『言葉』第2巻)

日々の神の御言葉 抜粋 84

言葉を用いて万物を創造する神 (抄出)

第二の日、神は自身の権威によって水と大空を創り、最も基本的な人間の生存空間を創った

「神はまた言われた、『水の間におおぞらがあって、水と水とを分けよ』。そのようになった。神はおおぞらを造って、おおぞらの下の水とおおぞらの上の水とを分けられた」(創世記 1:6-7)。神が「水の間におおぞらがあって、水と水とを分けよ」と述べた後、どのような変化が起きましたか。聖書には、「神はおおぞらを造って、おおぞらの下の水とおおぞらの上の水とを分けられた」と記されています。神が言葉を語ってこの業を行なった結果は、どのようなものでしたか。その答えは、聖句の中の「そのようになった」という箇所にあります。

これら二つの短い一節には壮大な出来事が記録され、素晴らしい光景が描かれています。その光景とは、神が水を支配し、人間が存在できる空間を創造したという、途方もない業の様子です……。

この場面では、水と大空が一瞬にして神の眼前に現われ、神の言葉の権威によって互いに離れ、神が命じた通り「上」と「下」に分かれました。つまり、神が創った大空は下にある水を覆っただけでなく、その上にある水を支えていたのです……。ここで人間は、創造主が水を移動させ、水に命令し、大空を創るという神の権威の力と壮麗な光景を、息を呑み、茫然と見つめるより他ありません。神は自身の言葉と力、そして権威により、偉大な業を再度成し遂げたのです。これは創造主の権威の力ではありませんか。ここで神が行なった業を、聖句を使って説明しましょう。神は言葉を語り、その言葉のために、上下の水の間に天がありました。同時に、神によるこれらの言葉のために、この空間で途方もない変化が生じましたが、それは普通の意味の変化ではなく、無が有になるという、一種の置き換えでした。それは創造主の考えから生まれ、創造主が語った言葉のために無から有になったのです。さらに、その後は創造主のためにしっかり存在し続け、創造主の考えに従って移動し、変化し、再び新しくなりました。この一節では、創世における創造主の二番目の業が描かれていますが、それもまた創造主の権威と力を表現するものであり、創造主による前例のない業なのです。この日は、創造主が世界を創造してから二日目であり、この日も創造主にとって素晴らしい日となりました。光の中を歩み、大空をもたらし、水を整え支配するとともに、自身の業、力、そして権威が、この新しい日に駆使されたのです……。

神が言葉を語る以前、水の間に大空はありましたか。もちろんありません。それでは、神が「水の間におおぞらがあって」と語った後はどうですか。神が意図したものが現われました。つまり、水の間に大空が生まれるとともに、神が「水と水とを分けよ」と述べたために、水が二つに分かれたのです。このようにして、神がもつ権威と力の結果、神の言葉に従って二つの新しいもの、新たに創られた二つのものが万物の間に出現しました。これら二つの新しいものが出現したことについて、あなたがたはどう感じますか。創造主の力の偉大さを感じますか。創造主がもつ唯一無二のとてつもない力を感じますか。こうした力の偉大さは神の権威に由来するものであり、また神の権威は神自身を表わすものであって、神自身だけがもつ特性でもあります。

あなたがたはこの一節から、神が唯一無二であることを再度深く感じ取れましたか。しかし、それではまったく足りません。創造主の権威と力はそれをはるかに超えるものなのです。神が唯一無二であるのは、いかなる被造物にもない本質があるからだけではなく、神の権威と力が並外れており、無限であり、すべてに優り、すべての上に立つからです。そして何より、神の権威と、神が所有するものと神そのものはいのちを創り、奇跡を生み出し、壮大かつ並外れた一瞬一瞬を引き起こすからです。それと同時に、神は自ら創ったいのちを支配し、自ら創った奇跡と一瞬一瞬を統治することができるのです。

『神を知ることについて』「唯一無二の神自身 I.」(『言葉』第2巻)

日々の神の御言葉 抜粋 85

言葉を用いて万物を創造する神 (抄出)

第三の日、神の言葉によって地と海が生まれ、神の権威によって世界がいのちで満たされた

創世記1章9-11節の最初の文章を検討しましょう。「神はまた言われた、『天の下の水は一つ所に集まり、かわいた地が現れよ』」。神が「天の下の水は一つ所に集まり、かわいた地が現れよ」とひとこと述べた後、どのような変化が生じましたか。また光と大空以外に、その空間には何がありましたか。聖書には「神はそのかわいた地を陸と名づけ、水の集まった所を海と名づけられた。神は見て、良しとされた」と記されています。つまり、その空間にはいまや地と海があり、その地と海が分けられたのです。神が命令するとこれらの新しいものが出現し、「そのようになった」のです。聖書では、神がそうする中で多忙だったと述べられていますか。肉体労働をしている神が描かれていますか。では、神はそれをどのように行ないましたか。神はどのようにして、これらの新しいものが生み出されるようにしたのですか。明らかに、神は言葉を用いてそのすべてを成し遂げ、それら一切のものを創ったのです。

(中略)

次に、この一節の最後の文章を検討しましょう。「神はまた言われた、『地は青草と、種をもつ草と、種類にしたがって種のある実を結ぶ果樹とを地の上にはえさせよ』。そのようになった」。神が語っている間に、それらすべてのものが神の考えに従って存在するようになりました。そして一瞬のうちに、様々な繊細な生物が土からよろよろと芽生え、土を払う間もなく互いに身体を振って挨拶を交わし合い、この世界にうなずき微笑み合ったのです。これらの生物は自分たちにいのちを授けた創造主に感謝し、自分たちが万物の一部であること、そして互いにいのちを捧げて創造主の権威を示すことを世界に告げました。神の言葉が発せられる中、地は青々と緑豊かになり、人に用いられる様々な植物が地表から芽吹くとともに、山々と平野には木や森が生い茂りました……。いのちの痕跡すらなかったこの不毛の地が、豊富な草木で急速に覆われ、緑で一杯になったのです……。草と土の香りが空中に広がり、様々な植物が回りゆく風を一緒になって呼吸し、成長の過程を始めました。同時に、神の言葉と神の考えに従い、すべての植物が永遠の生命周期を始め、成長し、花を咲かせ、実を結び、そして繁殖するようになりました。植物はそれぞれのいのちの過程に厳密に従い、万物の中でそれぞれの役割を果たし始めました……。すべての植物は創造主の言葉のために生まれ、生きていました。それらは創造主による施しと糧を絶え間なく受け取るとともに、創造主の権威と力を示すため、地のあらゆる場所で粘り強く生き延び、創造主から授けられたいのちの力をいつまでも伝えるのです……。

創造主のいのち、考え、権威は並外れたものであり、ゆえにその言葉が発せられると、最終的な結果は「そのようになった」となります。明らかに、神は自らの手で働きを行なう必要がないのです。神は自らの考えと言葉だけを用いて命じ、このようにして物事が成し遂げます。この日、神は水を一ヵ所に集め、乾いた地を出現させた後、地から草木を芽生えさせました。すると種をもつ草が育ち、実を結ぶ樹木が生えました。そして神は植物を一つひとつ種類ごとに分け、それぞれが独自の種をもつようにさせました。これらはすべて神の考えと命令に従って実現されたことであり、その一つひとつが次々とこの新しい世界に出現したのです。

神は働きを始める以前から、成し遂げようと意図しているもののイメージを心にもち、神がそうしたイメージを実現しようとした時は、その内容について神が口をひらいて語り、神の権威と力によって万物が変化し始める時でもありました。神がどのようにそれを行なったか、どのように権威を行使したかにかかわらず、すべては神の計画に従い、神の言葉によって一歩ずつ実現され、また神の言葉と権威のために、天地の間で変化が一つひとつ生じます。こうした変化はどれも創造主の権威と、創造主のいのちの力の非凡さと偉大さを示すものでした。神の考えは単純な発想でも、空虚なイメージでもなく、生命力と並外れた活力をもつ権威であり、万物の変化、復活、再生、滅びを引き起こす力です。このため、万物は神の考えによって機能すると同時に、神の発する言葉によって実現されるのです……。

万物が出現するのに先立ち、神の心の中では完全な計画がはるか昔に形を成しており、新たな世界が実現されていました。第三の日、地にはありとあらゆる植物が出現したものの、神にはこの世界の創造をここで止める理由がありませんでした。つまり、神は言葉を発し続け、引き続き新しいものの創造を成し遂げるつもりだったのです。神は言葉と命令を発し、権威を行使し、力を示すとともに、これから創る万物と人類のために用意しようと計画していたすべてのものを用意したのです……。

『神を知ることについて』「唯一無二の神自身 I.」(『言葉』第2巻)

日々の神の御言葉 抜粋 86

言葉を用いて万物を創造する神 (抄出)

第四の日、神は再び権威を振るい、人類の季節、日、年が生まれた

創造主は言葉を用いて自身の計画を実現させ、そのようにして神の計画の最初の三日間が過ぎました。この三日間、神は忙しい様子も疲れている様子も見せず、逆に自身の計画における最初の三日間を満喫し、世界を劇的に変化させる偉業を成し遂げました。神の眼前にはまったく新しい世界があり、神の心に秘められていた美しい光景が、ようやく神の言葉において一つひとつ明らかになったのです。新しいものが一つひとつ出現する様子は、まるで赤ん坊が誕生するかのようであり、それまで心にあった光景がいまや生を受けたことに、神は喜びを覚えました。この時、神は心の中でわずかに満足したものの、自身の計画は始まったばかりでした。一瞬のうちに新しい日が訪れましたが、創造主の計画の次なる一ページはどのようなものでしたか。神は何と言いましたか。どのように自身の権威を行使しましたか。一方、どのような新しいものがこの新たな世界に出現しましたか。創造主の導きに従い、ここで神による万物創造の第四の日を検討しますが、その日もまた新たな始まりの日でした。もちろん、創造主にとってはその日も間違いなく素晴らしい日であり、現代人にとって最も重要な日となりました。当然ながら、その日は計り知れない価値をもつ日でした。その日はどのように素晴らしく、どのように重要で、なぜ計り知れない価値があったのでしょうか。まずは創造主の発した言葉に耳を傾けましょう……。

「神はまた言われた、『天のおおぞらに光があって昼と夜とを分け、しるしのため、季節のため、日のため、年のためになり、天のおおぞらにあって地を照らす光となれ』」(創世記 1:14-15)。乾いた地とそこに生きる植物を創った後、神は再び自身の権威を行使し、それを被造物に示しました。神にとって、そのような業はすでに行なったことと同じくらい簡単なものでした。なぜなら、神にはそうした力があり、自身の言葉に忠実であって、その言葉は実現されるからです。神は天に光が現われるよう命じ、その光は空で輝き地を照らしただけでなく、昼と夜、季節、そして年月の目印にもなりました。このように、神が言葉を発すると、神が成し遂げようと望む業はすべて神の意思通りに、神の指定する方法で実現されたのです。

天の光は空にあって光を放つ物体であり、空と地と海を照らすことができます。光は神の命じる周期と頻度で回転し、様々な時間帯に地を照らしますが、このように、光が回転する周期によって地の東西に昼と夜が生み出されるのです。また、光は昼と夜の目印であるのみならず、祭日など人間にとって重要な日も、光の様々な周期によって示されます。また光は、神が定めた春夏秋冬の四季に付随し、それを補足するものとしても最適です。さらに、それと調和する形で、人類の節気と日と年についても、光はそれらを定期的かつ正確に示す目印として機能しました。神が創った光によって節気と日と年は分割され、人類は農業が始まって初めてそれを目にして理解し始めたわけですが、実のところ、今日の人間が理解している節気と日と年は、はるか昔、神による万物創造の四日目に始まったものです。そして人間が経験する春夏秋冬の移り変わりも、はるか昔、神による万物創造の四日目に始まったものなのです。神が創った光によって、人間は定期的に、正確に、かつ明確に昼夜を区別し、日数を数え、歳月をはっきり辿ることができるようになりました。(満月の日が一ヵ月の終わりの日であり、人はそこから光が新たな周期に入ったことを知りました。また半月の日は一ヵ月の半分が経過したことを示し、人はそれによって新たな節気が始まりつつあることを知り、いくつの昼夜で一つの節気になるのか、いくつの節気で一つの季節になるのか、そしていくつの季節で一年になるのかを推測することができました。そのすべてが極めて定期的に生じたのです。)そうしたわけで、人間は光の周期により、節気と日と年を簡単に辿ることができたのです。それ以降、光の周期によって生み出される昼夜と季節の規則正しい移り変わりの中で、人類と万物は無意識のうちに生活しました。これが、第四の日に創造主が光を創ったことの意義です。同様に、創造主によるこの業の目的と意義は、依然として神の権威や力と切り離すことができませんでした。そうしたわけで、神によって創られた光と、それが程なくして人間にもたらした価値もまた、創造主が権威を行使した際の完璧な手腕を示すものだったのです。

人類が出現する以前のこの新たな世界において、創造主はまもなく創ることになる新しいいのちのために、昼と夜、大空、陸と海、様々な草木、光、季節、日々、そして年をすでに用意していました。創造主の権威と力は、自ら創った新しいものの一つひとつに現われており、神の言葉とその実現は寸分違わず、時をおかず、同時に生じました。これら新しいものの出現と誕生は、いずれも創造主の権威と力を証明するものでした。神は自身の言葉に忠実であり、神の言葉は実現され、実現された物事は永続します。この事実が過去に変わったことはなく、現在においても変わらず、そして永遠に変わることはありません。これらの聖句を改めて読んで、新鮮に感じられますか。新しい内容や新発見はありましたか。あったとしたら、それは創造主の業があなたがたの心を動かし、その権威と力を知る上での方向性を示し、創造主に関する認識の扉を開くとともに、創造主の業と権威がそれらの言葉にいのちを授けたからです。そうしたわけで、人間はこれらの言葉の中に、創造主の権威が現実的かつ鮮明に表わされるのを目にし、創造主の至高の地位を真に目の当たりにし、創造主の権威と力の非凡さを見たのです。

創造主の権威と力は次々と奇跡を生み出します。創造主は人間の注意を引きつけ、また創造主による権威の行使から生まれた驚くべき業に対し、人間は目を見張らずにはいられません。その驚異的な力は次々と喜びをもたらし、人間は目がくらんだまま歓喜に圧倒され、感嘆して息をのみ、畏敬の念を抱いて大喜びします。さらに、人間は目に見えるほど感動し、自身の中に尊敬の念、崇拝の念、そして愛慕の念が生じます。創造主の権威と業は人間の魂に大きな影響を及ぼし、それを清める効果がありますが、何よりも人間の魂を満たします。神の考え、発する言葉、そして権威の明示の一つひとつが、あらゆる物事の中でも傑出したものであり、被造物たる人類が深く理解し、認識する価値のある偉大な事業なのです。

『神を知ることについて』「唯一無二の神自身 I.」(『言葉』第2巻)

日々の神の御言葉 抜粋 87

言葉を用いて万物を創造する神 (抄出)

第五の日、多種多様ないのちにより、創造主の権威が様々な形で示された

聖書には「神はまた言われた、『水は生き物の群れで満ち、鳥は地の上、天のおおぞらを飛べ』。神は海の大いなる獣と、水に群がるすべての動く生き物とを、種類にしたがって創造し、また翼のあるすべての鳥を、種類にしたがって創造された。神は見て、良しとされた」(創世記 1:20-21)とあります。神がこの日に水中の生物や空の鳥、つまり様々な魚や鳥を創造し、それらを種類ごとに分類したことを、聖書ははっきり伝えています。このようにして、大地、空、水が神の被造物で一杯になったのです……。

神の言葉が語られるに従い、それぞれ異なる形をした新たないのちが、創造主による言葉の中、瞬時に生まれました。これらの生物は歓喜に飛びはねながら、我先にこの世界へと出現しました……。様々な形や大きさの魚が水中を泳ぎ、様々な種類の貝が砂の中で育つとともに、うろこのある生物、殻をもつ生物、脊椎のない生物などが、大小や長短を問わず、様々な形をとりつつ急速に成長していきました。同じように、様々な海藻類も元気よく成長し始め、各種の水生生物の動作に合わせて揺れ動きつつ、淀んだ水にもそうするように促しました。それはあたかも「さあ踊ろう。友だちも連れておいでよ。もう一人ぼっちになることはないのだから」と言っているようでした。神の創造した様々な生物が水中に現われた瞬間から、それまでずっと静まりかえっていた水の中に、新たな生物の一つひとつが活気を与え、新たな時代をもたらしました……。以降、それらの生物と水は寄り添って共生し、互いに距離を置くことはありませんでした。水はその中の生物のために存在し、そこに棲む一つひとつのいのちを育みました。そしてすべてのいのちは自分たちを育ててくれる水のために存在しました。一つひとつの生物が互いにいのちを与え合うと同時に、創造主による創造の驚異と素晴らしさ、そして創造主の権威がもつ至高の力を同じように証ししたのです……。

海がもはや静かでなくなるにつれ、空にもいのちが溢れ始めました。大小様々な鳥たちが次々と地上から空へ飛び立ったのです。海の生物とは違い、鳥には翼と羽根があり、細長く優雅な身体を覆っていました。その翼を羽ばたかせ、華麗な羽根と、創造主から授けられた特別な機能と能力を誇らしげに披露したのです。鳥は自由に空を飛翔し、天と地の間、草原と森の間を巧みに行き交いました……。鳥は空に愛され、万物に愛されていたのです。鳥はやがて天地を結ぶ存在となり、万物に知らせを伝えるようになります……。鳥はさえずり、嬉しそうに飛び回り、それまで空虚だった世界に喜びと笑い、そして活気をもたらしました……。鳥は澄んだ声で歌うように鳴き、心の言葉を使って、自分たちにいのちを授けてくれた創造主を讃えました。鳥は陽気に踊り、創造主による創造の完璧さと驚異を示すとともに、創造主から授けられた特別ないのちを通じてその権威を証しすることに、自分たちの一生を捧げるのです……。

水中に暮らしているか、あるいは空中に暮らしているかを問わず、これら溢れんばかりの生物は創造主の命令により、異なる生命形態の中で存在していました。それらはまた、創造主の命令により、それぞれの種ごとに群れ集まりました。この法則と規則を変えることは、いかなる被造物であっても不可能でした。それらは創造主によって定められた範囲をあえて超えようとはせず、そうすることもできませんでした。創造主が命じた通りに暮らし、繁殖し、創造主が定めた生涯と法則に厳密に従うとともに、創造主が黙示した命令、創造主が与えた天の命令と訓告を、今日に至るまで意識的に守りました。生物は創造主と独自の方法で語り合い、創造主の意図を理解するようになり、その命令に従いました。創造主の権威から逸脱した生物は存在せず、生物に対する創造主の統治と支配は、その思考の中で行使されました。つまり、言葉が発せられることはなかったものの、創造主に特有の権威が、言語をもたない物言わぬ人類以外の万物を支配したのです。こうした特殊な形で神の権威が行使されたことにより、人間は創造主だけがもつ権威について新たな認識を得て、新たに解釈することを余儀なくされました。この日、創造主の権威が行使されたことで、その独自性が再び示されたことを、ここでみなさんに伝えなければなりません。

次にこの聖句の最後の一文、「神は見て、良しとされた」という文章を検討しましょう。これはどのような意味だと思いますか。この言葉には神の思いが込められています。自ら創った万物が出現し、自らの言葉によってしっかり立ち、徐々に変化し始めるのを神は見ていました。この時、自身の言葉によって創造した様々なものや、自身が成し遂げた様々な業について、神は満足していたでしょうか。その答えは、「神は見て、良しとされた」です。ここから何がわかりますか。「神は見て、良しとされた」というのは、何を示し、何を象徴するものですか。その言葉は、自身が計画したことや命令したことを実現させ、自身が成し遂げようと決めた目的を達成する力と知恵が神にはある、ということを意味しています。一つひとつの作業を完了させた時、神は後悔していましたか。その答えも、「神は見て、良しとされた」です。つまり、神は後悔していなかっただけでなく、むしろ満足していた、ということです。神は後悔していなかったとは、どのような意味ですか。それは、神の計画、力、知恵が完璧であること、そしてこうした完璧さは、神の権威によってしか成し遂げられないことを意味しています。人間が作業を行なう時、その人は神と同じく、それを見て良しとすることができるでしょうか。人間の行なう一切のことが完璧になり得るでしょうか。何かを未来永劫完璧なものにすることはできるでしょうか。人間が言うように、「完璧は有り得ず、より優れているに過ぎない」のであって、人間の行なうことが完璧なものになることはあり得ません。自身が行ない、成し遂げたすべてのことについて、神が良いと判断した場合、神が創造した一切のものは神の言葉によって定められたことになります。つまり、「神は見て、良しとされた」とき、神が創ったすべてのものは永久的な形をもち、種類ごとに分類され、永久不変の位置、目的、機能を与えられたのです。さらに、万物の間におけるそれらの役割と、神による万物の経営の中でそれらが辿る旅路は、すでに神によって定められていたのであり、永遠に変わることがありません。これが、創造主によって万物に与えられた天の法則だったのです。

「神は見て、良しとされた」。簡潔であり、それほど重視されず、往々にして無視されてきたこの言葉は、神がすべての生物に授けた天の法則と天の命令であり、これもまた、創造主の権威をより実践的に、より深く具体化するものです。創造主は自身の言葉によって、得ようと決めたすべてのものを得て、成し遂げようと決めたすべてのことを成し遂げられただけでなく、自ら創造した一切のものをその手中に収め、自身の権威で創ったすべての物を支配することもできました。そしてさらに、すべては系統的かつ規則的でした。万物は神の言葉によって増え、存在し、そして消滅し、またそれ以上に、神の権威によって、神が定めた法則の中に存在していました。そこに例外はなかったのです。この法則は「神はこれを見て、良しとされた」瞬間に始まり、神の経営(救いの)計画のため、それが創造主によって廃止されるまで存続して機能します。創造主に特有の権威は、万物を創造し、万物が現われるように命令する自らの能力にだけ示されるのでなく、万物を支配、統治する能力、万物にいのちと活力を授ける能力、そしてさらに、自身の計画の中で創造する万物が、完璧な形、完璧な生命構造、および完璧な役割で、自ら創った世界に現われ、永遠に存在するようにさせる能力においても示されました。それはまた、創造主の考えがいかなる制約にも縛られず、時間、空間、および地理的条件の制約を受けないことの中にも示されました。創造主に特有の身分も自身の権威と同じく、永遠に変わることがありません。創造主の権威は自身に特有の身分を絶えず表わし、象徴するのであって、創造主の権威と身分は隣り合って永遠に共存するのです。

『神を知ることについて』「唯一無二の神自身 I.」(『言葉』第2巻)

日々の神の御言葉 抜粋 88

言葉を用いて万物を創造する神 (抄出)

第六の日、創造主が言葉を発すると、心にあったありとあらゆる生物が次々と現われた

創造主による万物創造の働きは知らぬ間に五日間続き、すぐさま六日目を迎えました。この日もまた新たな始まりの日であり、特別な日でした。それでは、この新しい日の前夜、創造主の計画はどのようなものでしたか。どのような新しい生物を創る予定だったのでしょうか。お聞き下さい、これが創造主の語った言葉です……。

「神はまた言われた、『地は生き物を種類にしたがっていだせ。家畜と、這うものと、地の獣とを種類にしたがっていだせ』。そのようになった。神は地の獣を種類にしたがい、家畜を種類にしたがい、また地に這うすべての物を種類にしたがって造られた。神は見て、良しとされた」(創世記 1:24-25)。ここにはどのような生物が含まれていますか。聖書には、「家畜と、這うものと、地の獣とを種類にしたがっていだせ」とあります。つまり、この日にありとあらゆる地上の生物が生み出されただけでなく、そのすべてが種類によって分類され、前日と同じく「神は見て、良しとされた」のです。

それまでの五日間のように、創造主は同じ調子で語り、自身の望む生物が誕生し、種類ごとに地上に現われるよう命じました。創造主が自身の権威を行使した時、その言葉に無駄な部分はまったくありませんでした。ゆえに六日目、神が創ろうとしていた生物はどれも指定した時間に出現したのです。創造主が「地は生き物を種類にしたがっていだせ」と言うと、大地はすぐにいのちで一杯になり、ありとあらゆる生物の息づかいが突如として地上に現われたのです……。草に覆われた原野には、頑強な牛が尾を左右に振りながら次々と現われ、鳴き声を上げる羊が群れをなし、馬がいななきながら早駆けを始めました……。静寂に包まれた広大な草原が、一瞬にして生物で溢れかえったのです……。こうした様々な家畜の出現は、静かな草原の美しい光景であり、限りない活気をもたらしました……。家畜は草原の仲間となり、その主となり、互いに依存し合うようになります。さらに家畜は草原を守る存在となり、その草原は家畜の恒久的な住みかとなって、それらが必要とするすべてのものを提供しました。草原は、家畜が生存するのに必要な糧を永遠に与える源だったのです……。

創造主の言葉によって様々な家畜が生まれたのと同じ日、無数の昆虫も次々と出現しました。昆虫はすべての生物の中で最も小さかったものの、その生命力はやはり創造主による驚異的な創造であり、出現が遅すぎたわけでもありませんでした……。小さな翼をばたつかせるものもあれば、ゆっくりと地を這うもの、跳ね回るもの、よろめき歩くもの、高速で移動するもの、逃げ足の速いもの、横向きに歩むもの、高く跳ねるもの、低く跳ねるものもありました……。どの昆虫も自分の住みかを見つけようと走り回り、草の中に分け入るものもあれば、地面に穴を掘ろうとするもの、木に飛び上がるもの、森に潜むものもありました……。昆虫は小さいながらも空腹に耐えることを好まず、すみかを見つけるとすぐ、食物を求めて駆け回りました。草を登って柔らかい葉を食べるもの、泥を口いっぱいにほおばって胃に詰め込み、おいしそうに、楽しそうに食べるもの(昆虫にとっては泥でさえもご馳走だったのです)もあれば、森に隠れているものもありましたが、決して休むことはありませんでした。濃い緑色をした艶のある葉が、昆虫の食料となる汁を提供したからです……。昆虫は満腹した後も活動を止めません。身体こそ小さいものの、大量のエネルギーと無限の活力を備え、すべての被造物の中で最も活発であり、勤勉でもあるのです。昆虫は怠けることも、ゆっくり休むこともありませんでした。空腹が満たされた後も将来のために骨折って働き、明日のため、そして生存のために忙しく駆けずり回ったのです……。昆虫は様々な旋律とリズムをもつバラードを口ずさみ、自分を励ましました。昆虫もまた、草木や土に喜びをもたらし、一日一日、一年一年を特別なものにする存在でした……。昆虫は独自の言語と方法によって、地上のすべての生物に情報を伝えました。そして昆虫独自の生涯を通じ、あらゆる物事に印をつけ、その痕跡を残したのです。昆虫は土や草や森と懇意にしており、それらに生命力と活力をもたらすとともに、あらゆる生物に創造主の訓戒と挨拶を伝えました……。

創造主の視線は自ら創った万物を見渡していましたが、この瞬間、森と山に目が止まって考えが変わりました。生い茂った森の中、そして山の上で創造主の言葉が発せられると、それまでに現われたのとは違う種類の生物が出現しました。これらの生物は野獣、つまり神が述べたところの「地の獣」でした。それらの野獣はかなり遅れて頭と尾を振りましたが、それぞれ違う顔つきをしていました。毛皮をまとうものもあれば、甲羅のあるもの、牙や歯をむき出しにしているもの、首の長いもの、尾の短いもの、獰猛な目つきのもの、臆病な眼差しのもの、身をかがめて草を食べるもの、口の周りに血がついているもの、二本足で跳ねるもの、四つの蹄で駆け回るもの、木のてっぺんから遠くを見つめるもの、森で横たわりながら待ち続けるもの、休むためのほら穴を探すもの、草原で跳ね回るもの、森を徘徊するものもありました……。また野獣にはうなるもの、遠吠えするもの、吠えるもの、大声で鳴くものがありました……。鳴き声が高いもの、低いもの、大きいもの、そして明るく歌うように鳴くものもありました……。顔つきが厳めしいもの、可愛らしいもの、醜いもの、愛らしいもの、恐ろしいもの、そして愛らしいまでに純真なものもありました……。こうした野獣が次々と出現したのです。それらは威張っていたり、自由奔放であったり、互いに興味を示さなかったり、見向きさえしなかったりしています……。それぞれが創造主から授けられた独自のいのち、獰猛さ、および野蛮さをもちつつ、森や山に出没しました。野獣はあらゆるものを軽蔑し、横柄そのものです。結局のところ、こうした野獣が山や森の真の主なのです。創造主によって出現するよう命じられた瞬間から、これらの野獣は山や森を「我が物」にしていました。と言うのも、創造主はすでに野獣の棲息範囲を決め、その中に封じ込めていたからです。山や森の真の主は野獣だけであり、それが野蛮さと傲慢さの理由なのです。それらが「野獣」と呼ばれるのは、ひとえにあらゆる被造物のなかで最も獰猛であり、野蛮であり、飼い慣らすことができないためです。野獣を飼い慣らすことはできないので、飼育することはできず、人間と調和して暮らすことも、人間の代わりに働くこともできません。野獣が人間から離れて暮らさざるを得ず、また人間が野獣に近づけないのは、それが飼育不可能であり、人間のために働くこともできないからでした。その一方、人間から離れて暮らし、人間が近づけなかったので、野獣は創造主から与えられた責任、つまり山や森を守る責任を果たすことができたのです。野獣の獰猛さが山や森を守り、その生存と繁栄を最もよく保護したのです。それと同時に、野獣の獰猛さが万物の均衡を保ち、確実なものにしました。野獣の出現によって山や森に支えとよりどころがもたらされ、静寂で空虚だった山や森に無限の活力と活気がもたらされたのです。この時以降、山や森は野獣の恒久的な棲息地となり、野獣は住みかを失うことがありませんでした。なぜなら、山や森が出現して存在しているのは野獣のためであり、野獣はそれらを守るために自身の本分を尽くし、あらゆることを行なうからです。そうしたわけで、野獣もまた、創造主の訓戒を厳しく守って自分たちの領域に留まり、獣の本性を用いることで、創造主が確立した万物の均衡を維持し、創造主の権威と力を示し続けているのです。

『神を知ることについて』「唯一無二の神自身 I.」(『言葉』第2巻)

日々の神の御言葉 抜粋 89

創造主の権威の下では、万物が完璧である

鳥や魚、木や花など、神によって創られた万物は、動けるものも動けないものも含め、あるいは第六の日に創られた家畜、昆虫、野獣を含め、すべて神の目に良いものと映り、また神から見て、それらは自身の計画によると完璧の域に達しており、自身が望む基準を満たしていました。自身が行なおうとしていた働きを、創造主は一つひとつ、自身の計画に従って行ないました。すると自身で創ろうとしていたものが次々と現われましたが、その出現はどれも創造主の権威の反映であり、その結晶でした。こうした結晶化のために、あらゆる被造物は創造主の恵みと施しに感謝せずにはいられませんでした。神の奇跡の業が自ずと明らかになるにつれ、この世界は神が創ったもので少しずつ一杯になり、混沌と闇から明瞭で明るいものへ、死の静寂から生と無限の活力へ変化していきました。大きいものから小さいものに至るまで、そして小さいものから微小なものに至るまで、創造主の権威と力によって創られなかったものは一つもなく、それぞれの被造物の存在には独自かつ固有の必要性と価値がありました。形や構造の違いに関係なく、それらは創造主の権威の下で存在するよう、創造主によって創られたのです。時として、とても醜い昆虫を見て「ひどい虫だ。神がこのような醜いものを創ったなんてあり得ない。これほど醜いものを創るはずはない」などと言う人がいます。何という愚かな見方でしょう。むしろ、その人は次のように言うべきです。「この虫は極めて醜いが、神が創った虫なのだから、この虫にしかない目的があるはずだ」。神はその考えの中で、自ら創った様々な生物に対し、それぞれ固有の外見、そしてありとあらゆる機能と目的を与えるつもりでした。ゆえに、神の被造物は一つとして同じではないのです。外見から内部構造に至るまで、生活習慣から棲息地に至るまで、一つひとつ異なっているのです。牛には牛の、ロバにはロバの、鹿には鹿の、象には象の外見があります。最も外見が美しい生物はこれ、最も醜い生物はこれ、などと言えますか。最も役立つ生物はこれ、最も存在する必要がない生物はこれ、などと言えますか。象の見た目を好む人はいても、象を使って農地に植え付けを行なう人はいません。ライオンや虎の外見は万物の中で最も印象的なので、その見た目を好む人はいますが、それらをペットとして飼育することはできますか。要するに、無数の被造物について言えば、人間は創造主の権威に従わなければならない、つまり万物の創造主が定めた秩序に従わなければならないのです。これが最も賢明な姿勢です。創造主の本来の意図を探し求めてそれに従う姿勢だけが、創造主の権威を真に受け入れ、それを確信するということなのです。神はそれを見て良しとしているのですから、人間は何の理由があって欠点を見つけなければならないのですか。

かくして、創造主の権威の下にある万物は、創造主による支配の新たな交響曲を奏で、新しい日における神の働きの輝かしい前奏曲を演奏することになります。またこの時、創造主は自身の経営の働きにおける新たな一ページを開くことになるのです。春の芽吹き、夏の成熟、秋の刈り入れ、そして冬の蓄えという創造主が定めた法則に従い、万物は創造主による経営計画と共鳴し、それぞれの新たな日、新たな始まり、新たないのちの道のりを喜んで迎えます。そして、創造主の権威の支配下で新しい日々を迎えるべく、万物は生存と繁栄を無限に続けるのです……。

『神を知ることについて』「唯一無二の神自身 I.」(『言葉』第2巻)

日々の神の御言葉 抜粋 90

創造されたものも、それ以外のものも、創造主の身分に代わることはできない

万物の創造が始まった時から、神の力が表わされ、明らかになり始めました。なぜなら、神は言葉を用いて万物を創ったからです。神が万物をどのように創造したか、なぜ創造したかを問わず、万物は神の言葉のために出現し、しっかり立ち、存在しました。これが、創造主だけがもつ権威なのです。人類がこの世界に出現する前、創造主は自身の力と権威を用いて人類のために万物を創り、独自の方法を用いて人類に適した生存環境を整えました。神が行なったことはどれも人類のための準備であり、やがて人類は神の息を授かることになります。つまり、人類が創られるのに先立ち、天、光、海、地などの大きいもの、動物や鳥などの小さなもの、そして各種の昆虫や、肉眼では見えない様々なバクテリアを含めた微生物など、人間とは異なるすべての被造物の中に、神の権威が示されたのです。それらはどれも創造主の言葉によっていのちを与えられ、創造主の言葉のために繁殖し、創造主の支配の下で生きました。それらの被造物は創造主の息こそ受け取らなかったものの、創造主から授かったいのちの活力を自身の様々な形や構造を通じて示しました。またそれらは、創造主が人類に与えた話す能力を受け取りませんでしたが、創造主から授かったいのちを表現する方法を受け取っており、それは人間の言語とは異なるものでした。創造主の権威は、一見静止している物体にいのちの活力を与え、それらが決して消え去らないようにしますが、それと同時にあらゆる生物に生殖本能を与え、それらが決して絶滅せず、創造主から授けられた生存法則や生存の原則を、世代を超えて受け継ぐようにします。創造主が自身の権威を行使する際の様式は、巨視的視点や微視的視点に厳密に従うものではなく、またいかなる形態にも限定されていません。創造主は宇宙の活動を指揮し、万物の生死を支配し、そしてさらに、万物を操作して自身に仕えさせることができます。また、山や川や湖の活動を一つ残らず管理し、そこにあるすべてのものを支配することができるだけでなく、万物が必要とするものを施すこともできるのです。これが、人類以外の万物に対する、創造主だけがもつ権威の現われです。こうした現われは生涯にわたって続くだけでなく、終わることも中断することもなく、いかなる人や物によっても変えられたり、損なわれたり、加減されたりすることもありません。と言うのも、創造主の身分に取って代われるものは存在せず、したがって創造主の権威に取って代われる被造物も存在しないからです。それはいかなる被造物にも不可能なことなのです。神の使いと天使を例にとりましょう。彼らは神の力を有しておらず、ましてや創造主の権威などもっていません。彼らに神の力と権威がないのは、創造主の本質がないからです。神の使いや天使をはじめとする被造物以外の存在は、神に代わってある程度のことを行なえるものの、神を代表することはできません。人間にはない力があっても、神の権威はありません。つまり、万物を創造し、万物に支配し、万物を統治する神の権威はないのです。したがって、被造物以外のどんな存在も神の独自性に取って代わることはできず、また同様に、神の権威と力に取って代わることもできません。神の使いが万物を創造したという話を、あなたは聖書で読んだことがありますか。神が使いや天使を遣わして万物を創らせなかったのはなぜですか。それは、神の権威が彼らにはなく、ゆえに神の権威を行使する能力がなかったからです。あらゆる被造物と同じく、彼らもまた創造主の支配と権威の下にあり、それと同様に、創造主は彼らにとっても神であり、主権者であるのです。高貴であるか卑しいか、力が強いか弱いかを問わず、神の使いや天使の中に神の権威を超えられるものはおらず、したがって、創造主の身分に取って代われるものもいません。彼らが神と呼ばれることは決してなく、創造主になることもできません。これは変えることのできない真理であり、事実なのです。

『神を知ることについて』「唯一無二の神自身 I.」(『言葉』第2巻)

日々の神の御言葉 抜粋 91

神は言葉を用いて人間との契約を立てる

創世記 9:11-13 「わたしがあなたがたと立てるこの契約により、すべて肉なる者は、もはや洪水によって滅ぼされることはなく、また地を滅ぼす洪水は、再び起らないであろう」。さらに神は言われた、「これはわたしと、あなたがた及びあなたがたと共にいるすべての生き物との間に代々かぎりなく、わたしが立てる契約のしるしである。すなわち、わたしは雲の中に、にじを置く。これがわたしと地との間の契約のしるしとなる」。

万物を創造した後、創造主の権威が「虹の契約」によって再び確認され、示される

創造主の権威は万物の中に絶えず示され、行使されています。また、創造主は万物の運命を支配するだけでなく、創造主自身の手で創られ、異なる生命構造をもち、異なる生命形態の中で存在している特別な被造物、すなわち人類をも支配しています。万物を創った後も、創造主は自身の権威と力を示し続けました。創造主にとって、万物を支配し、人類全体の運命を支配する権威が正式に始まったのは、自身の手から人間が実際に生まれた後でした。創造主が意図していたのは、人類を経営し、支配し、救うとともに、万物を統治できる人間を真に自分のものとし、そうした人間を自身の権威の下で生活させ、彼らに自身の権威を知らしめ、それに従わせることでした。そこで神は、言葉を使って自身の権威を人間に示し、権威を使って自身の言葉を実現させることを正式に始めました。当然ながら、この過程においても、神の権威はあらゆる場所で示されました。わたしは、あなたがたが神の独自性と、神だけがもつ権威とを認識して理解することができるよう、よく知られた具体的な例をいくつか選んだに過ぎません。

創世記9章11-13節と、神による創世の記録に関する上記の聖句との間には類似点があり、また相違点もあります。類似点は何ですか。神が言葉を用いて意図していたことを行なった、というのが類似点であり、ここで引用した聖句は神と人間の対話を示している、というのが相違点です。この対話の中で、神は人間との間に契約を立て、契約に含まれる内容を人間に伝えています。神と人間が対話する間、神の権威がこのようにして行使されたのですが、それはつまり、人類が創られる以前、神の言葉は、これから創ろうとしていた被造物に対する指示と命令だった、ということです。しかし、神の言葉を聞く人がいまや存在していたので、神の言葉は人間との対話であり、同時に人間に対する説諭と訓戒でもありました。さらに神の言葉は、神の権威を有する、万物への命令でもあったのです。

この一節には神のどのような業が記されていますか。そこでは、洪水で世界を滅ぼした神が人間と立てた契約について記されており、神が二度と同じように世界を破壊しないこと、そのために神がしるしを創ったことを人に伝えています。そのしるしとは何でしたか。聖書には「わたしは雲の中に、にじを置く。これがわたしと地との間の契約のしるしとなる」とあります。創造主は人類に対してこの通りの言葉を語りました。創造主がこのように語ったところ、人間の眼前に虹が現われ、それは今日に至るまで存在しています。そのような虹は誰でも見たことがあります。では、虹を見たとき、それがどのように現われるか知っていますか。虹がどのように現われるか、どこから現れるか、どこにあるのかは、科学では証明できません。なぜなら、虹は創造主と人間との契約のしるしだからです。虹は科学的根拠を必要とせず、人間によって創られたものではなく、人間が虹を変えることもできません。虹は、言葉を語った後も創造主の権威が続いていることを示すものです。創造主は独自の方法により、自身と人間との契約、および自身の約束を守ったので、自分が立てた契約のしるしとして虹を用いたことは天の法則、天の命令であり、それらは創造主にとっても、被造物である人間にとっても永遠に不変なのです。しかし、この不変の法則は、万物の創造に続く創造主の権威の現われであり、創造主の権威と力は無限であると言わなければなりません。神が虹をしるしとして用いたことは、創造主の権威が継続し、拡張されたことを示すものです。それは神が言葉を用いて行なったもう一つの業であり、神が言葉を用いて人間との間に立てた契約のしるしです。神は人間に対し、自分が何を引き起こすと決めたのか、それをどのような方法で実現するのかを人間に伝えました。このようにして、物事は神の口から出た言葉に従って実現されたのです。神だけがこのような力をもっており、神が言葉を述べてから数千年が経過した現在も、人は神の口から語られた虹を見ることができます。神が発したこの言葉により、虹は現在まで変わることがありませんでした。この虹を消すこと、その法則を変えることができる人はおらず、虹はひとえに神の言葉のために存在しています。これがまさに神の権威です。「神は自身の言葉に忠実であり、神の言葉は実現され、神が実現した物事は永遠に残る」。まさにこの言葉の通りであり、それは神の権威と力の明確なしるしであり、特徴でもあります。このようなしるしや特徴をもつ被造物は存在せず、被造物の中に、あるいはそうでないものの中に、それらが見られることもありません。それらは唯一無二の神だけに属するものであり、創造主だけがもつ身分と本質を、被造物がもつそれと区別するものです。同時に、神自身を除き、被造物であろうとそうでないものであろうと、そのしるしと特徴を超えられるものも存在しません。

神が人間との間に契約を立てたことは極めて重要な業であり、それはまた、人間に事実と自身の旨を伝えるべく、神が用いようとした業でもありました。神はそうするために独自の方法を用いたのであり、つまり特別なしるしを使って人間との間に契約を立て、人間との間に立てた契約の誓いとしたのです。この契約が立てられたのは大事件でしたか。どの程度の大事件だったのですか。この契約がこれほどまでに特別なのは、人と人、組織と組織、国と国との間で立てられたものではなく、創造主と人類全体との間で立てられたものであり、創造主が万物を完全に破壊する日までずっと有効だからです。この契約を執行するのも守るのも創造主です。つまり、人間との間に立てた虹の契約はすべて創造主と人類との対話に基づいて履行され、それは現在も続いているのです。創造主の権威に服し、従い、それを信じ、それが何であるかを認識し、目撃し、讃美する以外、被造物に何ができるでしょうか。このような契約を立てる力をもつものは、唯一の神以外に存在しません。幾度となく出現する虹は、創造主と人類との契約を人間に知らせ、注意を促すものです。創造主と人類との契約が継続的に現われる中で人類に示されるのは、虹でも契約自体でもなく、創造主がもつ不変の権威です。幾度となく出現する虹は、創造主が隠れた場所で行なう驚異的かつ奇跡的な業を示すと同時に、決して色あせず、変わることのない創造主の権威を力強く反映するものなのです。そのことは、創造主だけがもつ権威のもう一つの側面を示すものではないでしょうか。

『神を知ることについて』「唯一無二の神自身 I.」(『言葉』第2巻)

日々の神の御言葉 抜粋 92

神の祝福

創世記 17:4-6 わたしはあなたと契約を結ぶ。あなたは多くの国民の父となるであろう。あなたの名は、もはやアブラムとは言われず、あなたの名はアブラハムと呼ばれるであろう。わたしはあなたを多くの国民の父とするからである。わたしはあなたに多くの子孫を得させ、国々の民をあなたから起そう。また、王たちもあなたから出るであろう。

創世記 18:18-19 アブラハムは必ず大きな強い国民となって、地のすべての民がみな、彼によって祝福を受けるのではないか。わたしは彼が後の子らと家族とに命じてヤーウェの道を守らせ、正義と公道とを行わせるために彼を知ったのである。これはヤーウェがかつてアブラハムについて言った事を彼の上に臨ませるためである。

創世記 22:16-18 ヤーウェは言われた、「わたしは自分をさして誓う。あなたがこの事をし、あなたの子、あなたのひとり子をも惜しまなかったので、わたしは大いにあなたを祝福し、大いにあなたの子孫をふやして、天の星のように、浜べの砂のようにする。あなたの子孫は敵の門を打ち取り、また地のもろもろの国民はあなたの子孫によって祝福を得るであろう。あなたがわたしの言葉に従ったからである」。

ヨブ記 42:12 ヤーウェはヨブの終りを初めよりも多く恵まれた。彼は羊一万四千頭、らくだ六千頭、牛一千くびき、雌ろば一千頭をもった。

創造主に特有の話し方と特徴は、創造主だけがもつ身分と権威の象徴である (抄出)

多くの人が神の祝福を求め、得ることを望んでいますが、誰もがこうした祝福を得られるわけではありません。神には独自の原則があり、独自の方法で人間を祝福するからです。神による人間への約束や、神が人間に授ける祝福の量は、人間の思いと行動に基づいて配分されます。それでは、神の祝福によって示されるのは何ですか。人々はその中に何を見ることができますか。ここで、神はどのような人を祝福するかという議論や、人間に対する神の祝福の原則といったことは脇に置きましょう。その代わり、神の権威を知ることを目的として、その観点から、人間に対する神の祝福を検討することにします。

先に述べた四つの聖句はどれも人間に対する神の祝福に関する記録です。これらの聖句では、アブラハムやヨブなど神の祝福を受けた人、神が祝福を授けた理由、そしてそれらの祝福の内容が詳細に説明されています。神の発言の語気や方式、そして神が言葉を述べた際の視点と立場から、恵みを授ける存在とそれを受ける存在とでは、身分、地位、そして本質に明らかな違いがあることを認識できます。そうした言葉の語気や方式、そしてそれらが述べられた際の立場は、創造主の身分を有する神に特有のものです。いかなる人も疑うことを許さない権威と力、そして創造主の栄誉と威厳が神にはあるのです。

まずは創世記17章4-6節を検討しましょう。「わたしはあなたと契約を結ぶ。あなたは多くの国民の父となるであろう。あなたの名は、もはやアブラムとは言われず、あなたの名はアブラハムと呼ばれるであろう。わたしはあなたを多くの国民の父とするからである。わたしはあなたに多くの子孫を得させ、国々の民をあなたから起そう。また、王たちもあなたから出るであろう」。これらの言葉は神がアブラハムとの間に立てた契約であり、神によるアブラハムへの祝福でもあります。神はアブラハムを諸国の父とし、彼が極めて多くの子孫を残すようにするとともに、彼から諸国を創り、王となる人が彼から出るようにしたのです。これらの言葉から神の権威を見てとることができますか。また、そうした権威をどのように見てとれますか。神の権威の本質のうち、どの側面を見てとれますか。これらの言葉をじっくり読めば、神の発言の言葉遣いの中に、神の権威と身分がはっきり示されていることを容易に見いだせます。たとえば、「わたしはあなたと契約を結ぶ……あなたを……とする……わたしはあなたに……をさせ……」と述べている場合、「あなたを……とする」や、「わたしはあなたに……をさせ」といった語句は、神の身分と権威を確信させる言葉遣いをしていますが、一方では創造主の忠実さを示し、またもう一方では、創造主の身分をもつ神が用いる特別な言葉であり、従来の語彙の一部でもあります。ある人が誰かに対し、その人が極めて多くの子孫を残し、その子孫たちから諸国が生まれ、王となる者が出ることを望むと言った場合、それは紛れもなく一種の願望であり、約束や祝福などではありません。したがって、「あなたをこうしよう、あなたはこうなる」などとあえて言う人はいないのです。なぜなら、自分にそのような力はなく、そうなるかどうかは自分次第ではないと知っているからです。そして、たとえそのようなことを言ったとしても、その言葉は欲望や野心に突き動かされた空虚な戯言です。自分の望みが叶わないと感じつつ、そのような尊大な口調で話そうとする人がいるでしょうか。誰もが自分の子孫の幸運を祈り、子孫が優れた人物となり、大いに成功することを望みます。「もし子孫の誰かが皇帝になるとしたら、それは何と幸運なことだろう。もし子孫の誰かが知事になったとしたら、それも素晴らしいことだ。とにかく子孫が重要な人物になっていればいい」。こうしたことは誰もが望むことですが、人にできるのは子孫に祝福が授けられるのを望むことだけであって、自分の約束を果たすことも、それを実現させることもできません。誰もが心の中で、自分にはこうした事柄を実現させる力がないことをはっきり知っています。なぜなら、自分に関する一切のことを自分で管理するなど不可能だからです。それならば、どうして他人の運命を思い通りにできるでしょう。一方、神がこうした言葉を述べられるのは、神にはそうした権威があり、人間との約束をすべて叶え、実現させることができ、人間に授けるすべての祝福を実現させることができるからです。人間は神によって創られたのであり、誰かが極めて多くの子孫を残すようにすることなど、神にとっては児戯に等しいのです。誰かの子孫を繁栄させるには、神の言葉以外に必要なものはありません。神自身がこうしたことのために汗水を流して働いたり、心を砕いたり、あれこれ心配したりする必要はありません。それがまさに神の力であり、神の権威なのです。

創世記18章18節「アブラハムは必ず大きな強い国民となって、地のすべての民がみな、彼によって祝福を受けるのではないか」を読んで、神の権威を感じとることができますか。創造主の非凡さを感じとることができますか。創造主が至高の存在であることを感じとることができますか。神の言葉に間違いはありません。神がそのような言葉を発するのは、そうなることを確信しているからではなく、そうなることを示しているのでもありません。むしろそれは、神が発する言葉の権威を証明するものであり、神の言葉を実現させる命令なのです。ここで注意すべき表現が二つあります。神が「アブラハムは必ず大きな強い国民となって、地のすべての民がみな、彼によって祝福を受けるのではないか」と述べる時、これらの言葉に曖昧な要素はありますか。懸念の要素はありますか。恐怖の要素はありますか。神の発する言葉にある「必ず~となって」「みな~受ける」という語句のために、人間に特有のそうした要素、人間の中にしばしば現われるそうした要素は、創造主とまったく無縁のものです。誰かの幸運を願うときにこのような言葉を使う人はおらず、また強大な国を与えたり、地上の万国があなたにおいて祝福されると約束したりするほど、確信をもって別の誰かを祝福しようとする人もいないはずです。神の言葉が確かであればあるほど、それは何かを証明するものとなります。では、その何かとは何ですか。これらの言葉は、神にそうした権威があること、神の権威がそうした事柄を実現させられること、そしてその実現が不可避であることを証明しています。アブラハムを祝福するにあたって用いたすべての事柄について、神は心の中で何のためらいもなく確信していました。さらに、そのすべては神の言葉に従って実現されることとなり、いかなる力もその実現を変えたり、妨げたり、損なったりすることはできません。他に何が起きたところで、神の言葉が実現されないようにしたり、それに影響を与えたりすることは何であってもできないのです。これがまさに、創造主の口から発せられた言葉がもつ力であり、人間による否定を許さない創造主の権威なのです。これらの言葉を読んでも、いまだに疑いを抱いていますか。これらの言葉は神の口から語られたものであって、神の言葉には力、威厳、そして権威があります。被造物であれ、そうでないものであれ、このような力と権威を得ることや、事実が必ずや成し遂げられるようにすることは不可能であり、またそれらを超えることもできません。このような語気と口調で人類と対話できるのは創造主だけであり、その約束は空約束でもくだらない戯言でもなく、どのような人間や出来事や物であっても超越できない独自の権威の現われであることが、事実によって証明されているのです。

『神を知ることについて』「唯一無二の神自身 I.」(『言葉』第2巻)

日々の神の御言葉 抜粋 93

神の祝福

創世記 17:4-6 わたしはあなたと契約を結ぶ。あなたは多くの国民の父となるであろう。あなたの名は、もはやアブラムとは言われず、あなたの名はアブラハムと呼ばれるであろう。わたしはあなたを多くの国民の父とするからである。わたしはあなたに多くの子孫を得させ、国々の民をあなたから起そう。また、王たちもあなたから出るであろう。

創世記 18:18-19 アブラハムは必ず大きな強い国民となって、地のすべての民がみな、彼によって祝福を受けるのではないか。わたしは彼が後の子らと家族とに命じてヤーウェの道を守らせ、正義と公道とを行わせるために彼を知ったのである。これはヤーウェがかつてアブラハムについて言った事を彼の上に臨ませるためである。

創世記 22:16-18 ヤーウェは言われた、「わたしは自分をさして誓う。あなたがこの事をし、あなたの子、あなたのひとり子をも惜しまなかったので、わたしは大いにあなたを祝福し、大いにあなたの子孫をふやして、天の星のように、浜べの砂のようにする。あなたの子孫は敵の門を打ち取り、また地のもろもろの国民はあなたの子孫によって祝福を得るであろう。あなたがわたしの言葉に従ったからである」。

ヨブ記 42:12 ヤーウェはヨブの終りを初めよりも多く恵まれた。彼は羊一万四千頭、らくだ六千頭、牛一千くびき、雌ろば一千頭をもった。

創造主に特有の話し方と特徴は、創造主だけがもつ身分と権威の象徴である (抄出)

神が語る言葉と人間の言葉の違いは何ですか。神が語るこれらの言葉を読むと、あなたは神の言葉の力と神の権威を感じとります。人間がこのような言葉を発するのを聞いたら、あなたはどう感じますか。その人は極めて傲慢であり、自慢げであり、自己顕示していると考えますか。その人にはこのような力も権威もないので、そうしたことを実現するのはまったく不可能です。その人が自分の約束を強く確信しているのは、単に出任せを言っていることを示すに過ぎません。このような言葉を発する人は間違いなく傲慢であり、自信過剰であり、大天使の性質の典型的な例を自ら示していることになります。これらの言葉は神の口から発せられたものですが、そこに傲慢さの要素を感じとりますか。神の言葉は単なる冗談だと思いますか。神の言葉は権威であり、事実であり、その言葉が神の口から発せられる前に、つまり神が何かをしようと決めている時点で、それはすでに実現されているのです。神がアブラハムに述べたすべてのことは、神がアブラハムとの間に立てた契約であり、神がアブラハムにした約束だったと言えるでしょう。この約束は確立された事実、実現された事実であって、それらの事実は神の計画に従い、神の考えの中で徐々に成就しました。そうしたわけで、神がこのような言葉を述べることは、傲慢な性質をもっていることを意味しているのではありません。神はそうしたことを実現させられるからです。神にはその力と権威があり、こうした業を完全に実現させることができ、またそれらを実現させることは完全に神の能力の範囲内にあります。このような言葉が神の口から発せられるとき、それは神の真の性質を示して表現するもの、神の本質と権威を完璧に示して表わすものであって、創造主の身分の証明としてそれ以上に適切なものはありません。こうした発言の方法、語調、そして言葉遣いはまさに創造主の身分のしるしであり、神自身の身分の表現と完璧に一致しており、そこに見せかけや不純さはないのです。こうした発言は、創造主の本質と権威を完璧に、徹底的に示すものです。被造物にはその権威も本質もなく、ましてや神から授けられた力もありません。人間がそのような振る舞いを見せるなら、それは間違いなくその人の堕落した性質が爆発したのであって、その根底では、人間の傲慢さや向こう見ずな野望が干渉して影響を与えており、人々を騙して惑わし、神を裏切らせようと望む、他ならぬ悪魔サタンの悪意が露呈しています。そのような言葉によって明らかになったことを、神はどのように見なしますか。あなたは神の地位を乗っ取ろうとしている、神を真似て神に取って代わろうとしていると、神は言うでしょう。神の発言の口調を真似るとき、その意図は人々の心における神の居場所を乗っ取り、神が正当に所有している人類を盗むことです。それはサタン以外の何物でもなく、天が決して許さない大天使の末裔の所業です。あなたがたの中に、人々を惑わし、欺くことを目的として、いくつかの言葉を語って何らかの形で神を模倣し、自分の言動には神の権威があり、自分の本質と身分は唯一のものであり、さらには自分の口調と神の口調が同じであるかのように感じさせた人はいますか。そのようなことをしたことはありますか。話す時に神の口調を模倣しつつ、神の性質を示すような身振りをし、自分に力と権威があるかのようなふりをしたことがありますか。あなたがたの多くはこのように振る舞ったり、そうしようと思ったりすることがよくあるのですか。創造主の権威を真に目の当たりにし、知覚し、理解したいま、自分がかつて行なったこと、露わにしたことを振り返って、あなたがたは嫌悪を感じますか。自分が下劣で恥知らずなことに気づきますか。そのような人の性質と本質を分析すると、彼らは呪われた地獄の子だと言えるでしょうか。こうしたことをする人はみな、自分自身を辱めていると言えるでしょうか。あなたがたはこの問題の深刻さに気づいていますか。それはどの程度深刻ですか。このように振る舞う人の目的は神を模倣することです。彼らは神になろうとし、人々に自分を神として崇めさせることを望みます。彼らは人々の心における神の居場所をなくし、人の間で働きを行なう神を排除したいと望んでおり、人々を操り、食い物にし、我が物にするという目的を達成すべくそうしています。誰もがこのような願望や野望を無意識のうちに抱いており、このような堕落したサタン的本質、そして神に敵対し、神を裏切り、神になろうと望むサタン的本性の中で生きています。神の権威というテーマに関するわたしの交わりを聞いても、あなたがたは依然として神になりすますこと、神を模倣することを望んだり目指したりしているのですか。依然として神であること、神になることを望んでいるのですか。人間が神の権威を模倣することはできず、神の身分や地位を真似することもできません。神の口調を真似ることはできても、神の本質を真似ることはできません。神の場所に立って神になりすますことはできても、神が意図する業を行なうことも、万物を支配して統治することも決してできません。神の目から見ると、あなたは永遠に小さな被造物であって、あなたの技能や能力がいかに優れていても、いかに多くの才能をもっていたとしても、あなたは完全に創造主の支配下にあります。傲慢な言葉を発することはできても、自分に創造主の本質があることを示したり、創造主の権威があることを表わしたりすることはできません。神の権威と力は神自身の本質です。それらは習得されたものでも、外部から加えられたものでもなく、神自身に固有の本質です。したがって、創造主と被造物の関係を変えることは決してできません。人間は被造物の一つとして、自身の立場を守り、誠実に行動しなければなりません。創造主から託されたものを忠実に守りなさい。適当でないことをしたり、自分の能力を超えることや、神に嫌悪されることをしたりしてはいけません。偉大になろうとしたり、超人になろうとしたり、他の人を超えようとしたり、神になろうとしたりしてはいけません。人はこうした存在になることを望んではいけないのです。偉大になること、超人になることを追い求めるのは馬鹿げています。ましてや神になろうとするのはさらに恥ずべきことであり、不快で卑劣です。称賛に値し、被造物が他の何より守るべきことは、真の被造物となることです。それが、すべての人が追求すべき唯一の目標なのです。

『神を知ることについて』「唯一無二の神自身 I.」(『言葉』第2巻)

日々の神の御言葉 抜粋 94

創造主の権威は、時間、空間、および地理的条件の制限を受けず、創造主の権威は計り知れない (抄出)

創世記22章17-18節を検討しましょう。この一節もヤーウェ神が語ったものであり、アブラハムに対してこう述べています。「わたしは大いにあなたを祝福し、大いにあなたの子孫をふやして、天の星のように、浜べの砂のようにする。あなたの子孫は敵の門を打ち取り、また地のもろもろの国民はあなたの子孫によって祝福を得るであろう。あなたがわたしの言葉に従ったからである」。ヤーウェ神はアブラハムを何度も祝福し、子孫を増やすとありますが、どこまで増やすのでしょうか。それは聖書に述べられている通り、「天の星のように、浜べの砂のようにする」までです。つまり、神はアブラハムに対して、天の星や浜辺の砂と同じくらい多くの子孫を授けることを望んだのです。神は比喩的表現を使って語りましたが、その比喩から、アブラハムに対して一人や二人でもなければ千人でもなく、むしろ無数の子孫を授けることが容易にわかります。またその数は多数の国となるのに十分でしたが、アブラハムが多くの国の父となることを神は約束していたのです。では、その数を決めたのは人間ですか、それとも神ですか。人間がその子孫の数を操ることはできますか。それは人間次第なのですか。数名の子孫をもてるかどうかすら人間次第ではないのですから、ましてや「天の星のように、浜べの砂のようにする」ほど多くの子孫をもてるかどうかなど、人間に決められることではありません。子孫が星の数ほどになることを望まない人はいませんが、残念ながら、物事がいつも自分の望み通りになるとは限りません。いかに技能や能力に優れていても、それは人間が決めることではなく、誰一人神が定めた範囲から出ることはできないのです。神があなたに与えたぶん、あなたは得ることになります。神が少数を与えたのであれば、多数を得ることはなく、神が多数を与えたのであれば、自分の得た数に憤慨しても無駄です。そうではありませんか。それはすべて神次第であり、人間次第ではないのです。人間は神に支配されているのであって、誰一人例外ではありません。

神が「大いにあなたの子孫をふやして」と述べたとき、それは神がアブラハムとの間に立てた契約であり、「虹の契約」と同じく永遠に実現されます。それはまた、アブラハムに対する神の約束でもありました。この約束を実現させる資格があるのは神だけであり、実現させることが可能なのも神だけです。人間が信じるかどうか、受け入れるかどうか、どのように見て考えるかを問わず、それはすべて神の言葉に従い、一言一句違わずに実現します。神の言葉が人間の意志や観念の変化によって変わることはなく、人間や出来事や物事の変化のせいで変わることもありません。万物は消え去っても、神の言葉は永遠に存在します。事実、万物が消え去る日こそ、神の言葉が完全に実現されるときなのです。なぜなら、神は創造主であり、創造主の権威と力をもち、万物とあらゆるいのちの力を支配しているからです。神は無から有を生じさせることも、有を無にすることも可能であり、また万物の生から死への変化も支配しています。神にとって、誰かの種を増やすことなど何より簡単だったのです。これは人間にとって、おとぎ話のような空想的なことに聞こえますが、神にとって、自身が行なうと決めたこと、および約束したことは、空想でもおとぎ話でもありません。むしろそれは、神がすでに見た事実であり、必ずや実現されるものなのです。これが理解できますか。アブラハムの子孫が多数いたことは、事実によって証明されていますか。またそれは、どれほど多数ですか。神が述べたように「天の星のように、浜べの砂のように」というほど多数だったのでしょうか。アブラハムの子孫たちは、あらゆる国と地域、世界のいたるところに広まったでしょうか。また、この事実は何によって実現されたものですか。神の言葉の権威により実現されたものですか。神の言葉が語られてから数百年、あるいは数千年の間、それは実現され続け、絶えず事実となり続けました。これが神の言葉の力であり、神の権威の証しです。始めに万物を創造した時、神は「光あれ」と言葉を発し、そこに光がありました。これは極めて迅速に起こり、極めて短時間のうちに実現され、その実現はまったく遅れることがありませんでした。神の言葉の効果は即座に現われるのです。これらはいずれも神の権威を示すものですが、神はアブラハムを祝福した時、自身の権威の本質がもつもう一つの側面を人間が理解できるようにし、同時に創造主の権威が計り知れないことを理解させ、さらには創造主の権威のうち、より現実的かつ精緻な側面を理解させたのです。

いったん神の言葉が発せられると、神の権威がこの働きを支配し、神の言葉によって約束された事実が次第に現実となってゆきます。その結果、春の到来とともに草が緑色に変わり、花々が咲き、木から芽が出て、鳥たちが歌い始め、ガチョウが舞い戻り、野原に人々が集うといったように、万物に変化が生じ始めます……。春の到来とともに万物は活気を取り戻しますが、それは創造主による奇跡の業です。神が約束を果たす時、天地の万物は神の考えに従い、再び新しくなって変化しますが、そこに例外はありません。神の口から誓いや約束が発せられる時、万物はその実現に寄与し、その実現のために動かされます。そして創造主の支配の下、すべての被造物が指揮され、采配され、それぞれの役割を担い、それぞれの機能を果たすのです。これが創造主の権威の表われです。このことから何がわかりますか。神の権威をどのように知ることができますか。神の権威に範囲はありますか。時間的な制約はありますか。特定の高さや長さがあると言えますか。特定の大きさや強さがあると言えますか。人間の寸法で計測することができますか。神の権威は点いたり消えたりするものでも、行ったり来たりするものでもなく、それがどの程度偉大かを計測できる人もいません。どの程度時間が経過したかを問わず、神がある人を祝福した場合、その祝福は継続し、その継続は神の権威が計り知れないことの証しとなり、創造主がもつ消えることのないいのちの力の再現を、人間が幾度となく目の当たりにすることを可能にします。神の権威が表わされるたび、神の口から発せられた言葉が、万物と人間に対して完全に立証されます。さらに、神の権威によって実現されたすべてのものは比べようもないほど精緻であり、まったく完璧です。神の考え、言葉、権威、そして神が実現させたあらゆる働きは、どれも比類なき美しい光景であり、被造物にとって、その意義と価値を人間の言語で表現することは不可能です。神がある人に約束を行なうとき、その人が暮らす場所、行なうこと、その約束を受け取る前後の背景、そしてその人の生存環境がどれほど変動したかなど、その人にまつわるすべてのことを、神は掌を指すかのごとく知っています。神が言葉を発してからどれほど時間が経過したかにかかわらず、神にとってその言葉はたったいま発せられたようなものです。つまり、神には力があるとともに、人間との約束を残らず追跡し、支配し、実現させる権威があるのです。そしてその約束が何であるか、完全に実現するまでにどの程度の時間を要するか、またその実現が、時間や地理や人種など、どれほどの範囲に影響を及ぼすかを問わず、その約束は実現され、成就するのであって、さらにその実現と成就において、神は努力する必要がまったくありません。それは何を証明していますか。神の権威と力の幅広さは、宇宙全体と人類全体を支配するのに十分だということです。神は光を創りましたが、それは神が光を支配していることだけを意味するのではありません。また、神が水を支配しているのは単に水を創ったからだという意味でも、それ以外のことはすべて神と無関係だという意味でもありません。これは誤解ではないでしょうか。アブラハムに対する神の祝福は、数百年も経つころには次第に人間の記憶から消えていきましたが、神にとって、その約束は同じままでした。その約束は依然として実現される過程にあり、止まることはなかったのです。神が自身の権威をいかに行使するか、万物がいかに指揮され、采配されるのか、そしてこの間、神に創造された万物の中でどれほど多くの素晴らしい物語が生み出されたか、人間は聞くことも知ることもありませんでした。しかし、神の権威と業が見事に表わされると、それはすべて万物に伝えられ、万物はそれを称え、万物は創造主の奇跡的な業を示して語り、そして創造主による万物の支配について何度も語られてきた物語の一つひとつが、万物によって永遠に語り継がれるのです。神が万物を支配する際の権威、そして神の力は、神がいつでもあらゆる場所にいることを万物に示しています。神の権威と力が遍く存在していることを目にしたとき、神がいつでもあらゆる場所に存在していることをあなたは理解します。神の権威と力は、時間、地理、空間、人間、出来事、および物事に制約されません。神の権威と力の幅広さは人間の想像を超え、人間には計り知れず、想像を絶するものであり、人間が完全に知ることは決してできません。

『神を知ることについて』「唯一無二の神自身 I.」(『言葉』第2巻)

日々の神の御言葉 抜粋 95

創造主の権威は、時間、空間、および地理的条件の制限を受けず、創造主の権威は計り知れない (抄出)

中には推測や想像を好む人がいます。しかし、人間の想像はどこまで及びますか。この世界を超えることはできますか。人間は、神の権威の信憑性や正確さを推測したり想像したりすることができますか。自身の推測や想像によって、神の権威を認識できるようになりますか。神の権威を真に理解し、それに服従するようになりますか。人間の推測や想像は思考の産物でしかなく、神の権威を知るにあたって何の役にも立たないことが事実によって証明されています。SF小説を読んで、月や星がどのようなものかを想像できる人がいます。しかしそれは、人間が神の権威について何らかの認識をもっているという意味ではありません。人間の想像は、単に想像でしかないのです。こうした事柄の事実、つまりそれらと神の権威とのつながりにまつわる事実について、人間はまったく理解していません。たとえ月に行ったことがあるとしても、それが何だと言うのでしょうか。それは、神の権威を複数の次元から理解していることを示すものですか。神の権威と力の幅広さを想像できることを示すものですか。人間の推測や想像に頼ったところで神の権威を知ることはできないのなら、人間は何をすべきでしょうか。推測や想像を避けるのが最も賢明な選択肢です。つまり、神の権威を知ることに関して、人間は想像や推測に頼ってはいけないのです。ここでわたしが言わんとしていることは何ですか。神の権威と力、神自身の身分、および神の本質に関する認識は、人間の想像に頼ったところで得られません。神の権威を知る上で想像に頼れないのであれば、どうすれば神の権威に関する真の認識を得られますか。それは神の言葉を飲み食いすること、交わりを行なうこと、そして神の言葉を経験することです。そうすることで、あなたは徐々に神の権威を経験してそれを確かめ、神の権威に関する認識を次第に積んでゆくのです。神の権威を認識するにはこの方法しかなく、近道はありません。あなたがたに想像を行なわないよう求めたとしても、それは何もせずひたすら滅びを待つようにさせることでも、あらゆる行動を禁止することでもありません。自分の頭脳で考えたり想像したりするのを避けることは、論理を用いて推測したり、知識を用いて分析したり、科学を根拠としたりせず、その代わり、自分の信じる神に権威があること、神が自分の運命を支配していること、そして神は唯一の神自身であると、神の力が常に証明していることを、神の言葉を通じて、真理を通じて、そして生活の中で直面するすべてのことを通じて理解し、確かめ、納得するということです。これが神を認識する唯一の方法なのです。中には、その目的を達成する簡単な方法を見つけたいという人もいますが、そのような方法を考えつくことはできますか。考えるまでもなく、それ以外の方法は存在しません。神が発する一つひとつの言葉、神が行なう一つひとつの業を通じ、神が所有するものと神そのものを誠実に、かつ着実に認識して確かめるのが唯一の方法です。神を知るにはこの方法しかありません。なぜなら、神が所有するものと神そのものは空虚なものではなく、現実のものだからです。

『神を知ることについて』「唯一無二の神自身 I.」(『言葉』第2巻)

日々の神の御言葉 抜粋 96

創造主が万物と生物を支配、統治している事実は、創造主の権威が真に存在することを物語る

ヨブ記には、ヨブに対するヤーウェの祝福が記されています。神はヨブに何を授けたのでしょうか。「ヤーウェはヨブの終りを初めよりも多く恵まれた。彼は羊一万四千頭、らくだ六千頭、牛一千くびき、雌ろば一千頭をもった」(ヨブ記 42:12)。人間の観点から見て、ヨブに与えられたこれらのものは何だったでしょうか。人の財産だったのでしょうか。この財産を得たヨブは、その時代では非常に裕福ではなかったでしょうか。またヨブは、どのようにしてこの財産を得たのでしょうか。彼の財産をもたらしたものは何でしょうか。ヨブがこの財産を得たのは、神の祝福のおかげだったことは言うまでもありません。ヨブがこれらの財産をどう見ていたか、神の祝福をどのように見なしていたかは、ここでは検討しません。神の祝福について言えば、神に祝福されることを誰もが昼も夜も切望していますが、自分が生涯でどのくらいの財産を得られるか、神から祝福を受けられるかどうかは、人間が意のままにできることではありません。それは反論の余地がない事実です。神には権威があり、あらゆる財産を人間に授ける力、人間があらゆる祝福を得られるようにする力があるものの、神の祝福には原則があります。神が祝福するのはどのような人ですか。もちろん、それは神が好む人たちです。アブラハムとヨブはともに神に祝福されましたが、二人が授かった祝福は同じではありませんでした。神は砂や星の数ほどの子孫でアブラハムを祝福しました。アブラハムを祝福した時、神は一人の人間の子孫、一つの種族を強くさせ、繁栄させました。その際、神の権威が支配したのは、万物とあらゆる生物の中でも、神の息を呼吸する人類でした。神の権威による支配下で、人類は神が定めた速度と範囲で繁殖し、存在しました。具体的には、この種族の生存能力、拡大率、平均寿命は、すべて神の采配の一部であり、それらの原則はどれもアブラハムに対する神の約束に基づいていました。つまり、状況がどうあれ、神の約束は妨害されることなく進行し、神の権威の摂理に基づき実現されてゆくのです。アブラハムに対する神の約束では、世界の大変動、時代、および人間を苛む大惨事にかかわらず、アブラハムの子孫が消滅する恐れはなく、その種族が死滅することもありません。しかし、ヨブに対する神の祝福のおかげで、ヨブは極めて裕福になりました。神がヨブに授けたのは、呼吸する様々な生物であり、その数、繁殖速度、生存率、そして体脂肪率といった詳細もまた、神によって支配されていました。これらの生物に言葉を話す能力はありませんでしたが、これらもまた創造主の采配の一部であり、これらに対する神の采配の原則は、神がヨブに約束した祝福を基にしていました。神がアブラハムとヨブに授けた祝福において、約束された物事は違っていましたが、創造主が万物とあらゆる生物を支配する権威は同じでした。神の権威と力の詳細はどれも、アブラハムとヨブに対するそれぞれ異なる約束と祝福の中で表わされており、神の権威は人間の想像を超えるものであることがここでも示されています。これらの詳細は人類に対し、神の権威について知りたいのであれば、神の言葉を通じて、そして神の働きを経験することを通じてそうするしかないということを伝えています。

神が万物を支配する権威によって、人間は一つの事実を見ることができます。つまり、神の権威は「神は言われた。『光あれ。』こうして、光があった。神は言われた。『大空あれ。』こうして、大空があった。神は言われた。『地あれ。』こうして、地があった」という言葉に具現化されているだけでなく、それ以上に、神が光を継続させ、大空が消えないようにし、地を永遠に海と分けたこと、そして光、大空、地という被造物を支配し、管理したことにおいても具現化されているのです。それ以外に、神による人類の祝福から何がわかりますか。明らかに、アブラハムとヨブを祝福した後も、神の歩みは止まりませんでした。なぜなら、神は自身の権威を行使し始めたばかりで、自身の言葉の一つひとつを現実にし、自身が語った詳細の一つひとつを実現させる意向だったからです。それゆえ、その後の年月、神は意図したことを一つ残らず行ない続けました。神には権威があるので、人間にとってはおそらく、神に必要なのは語ることだけで、指一本上げずにすべてのことが成し遂げられるかのように思われるかもしれません。しかし、このような想像は極めて馬鹿げています。神が言葉を用いて人間との間に契約を立てたこと、言葉を用いてすべての業を成し遂げたことについて、あなたが一方的な見方しかせず、神の権威が万物の生存を支配している様々なしるしや事実を見てとることができないなら、神の権威に関するあなたの理解はあまりに空虚であり、馬鹿げています。神をそのようなものとして想像するなら、神に関する人の認識は絶望的であり、行き詰まりに達したと言わざるを得ません。なぜなら、人が想像する神は命令を下す機械でしかなく、権威のある神ではないからです。アブラハムとヨブの例から、あなたは何を理解しましたか。神の権威と力の実際面を理解しましたか。アブラハムとヨブを祝福した後、神はその状態に留まらず、使いを働かせつつ結果がどうなるかを待つだけでもありませんでした。それとは逆に、神が言葉を発するやいなや、万物は神の権威による導きの下、神が意図している働きに従い始め、神が必要とする様々な人や物事が準備されました。つまり、神の口から言葉が発せられたとたん、神の権威がすべての地で行使され始め、神はアブラハムとヨブに対して行なった約束を実現させるべく、方向性を定める一方、実行に移そうとしていた手順や主な段階の一つひとつに必要とされる、適切な計画や準備をも行なったのです。この時、神は使いだけでなく、自身が創造した万物も動かしました。つまり、神の権威が行使された範囲には使いだけでなく万物も含まれており、自身が成し遂げようとしていた働きに従わせるべく、神はそれら万物を動かしたのです。これが、神の権威が行使された具体的な方法でした。あなたがたの中には、神の権威を想像の中でこのように理解している人がいるかもしれません。つまり、神には権威と力があるので、第三の天や一定の場所に留まっていればいいのであって、特定の働きをする必要はなく、神の働きはすべて神の考えの中で完了する、というものです。また、神はアブラハムを祝福したものの、何もする必要がなく、言葉を発するだけで十分だった、と信じる人もいるでしょう。それが現実に起きたことですか。明らかに違います。神には権威と力があるものの、神の権威は真実であり、また現実であり、空虚なものではありません。神の権威と力の信憑性、および現実性は、神による万物の創造と支配、そして神が人間を導き、経営する過程の中で徐々に示され、具体化されるのです。神が人類と万物を支配する際の方法と観点と詳細、神が成し遂げたすべての働き、そして万物に関する神の理解はいずれも、神の権威と力が空虚な言葉ではないことを文字どおり証明しています。神の権威と力は絶えず万物に示され、明らかにされています。このように示され、明らかにされることは、神の権威が実在することを物語っています。なぜなら、神は絶えず自身の権威と力を用いて働きを継続し、万物に命令し、万物を支配しており、天使や神の使いが神の力と権威に取って代わることはできないからです。神はアブラハムとヨブにどのような祝福を与えるかを決めましたが、それは神の下す決定でした。神の使いは自らアブラハムとヨブを訪れましたが、彼らの行動は神の命令を基にしており、神の権威に従うものであって、その使いたちは神の支配下にあったのです。聖書の記録から、神の使いがアブラハムを訪れ、ヤーウェ神自身は何も行なわなかったことが見てとれます。しかし実際のところ、力と権威を本当に行使したのは神自身だけであり、人間がそれを疑うのは許されません。天使や使いには大きな力があり、奇跡を行ない、神から託された物事を実行してきたことをあなたは知っていますが、彼らの行動は神の任務を遂行するためのものに過ぎず、決して神の権威が示されているわけではありません。なぜなら、万物を創造して支配する創造主の権威は、いかなる人や物ももっていないからです。ゆえにいかなる人や物であっても、創造主の権威を行使したり示したりすることはできないのです。

『神を知ることについて』「唯一無二の神自身 I.」(『言葉』第2巻)

日々の神の御言葉 抜粋 97

創造主の権威は不変であり、犯すことができない

1.言葉を用いて万物を創造する神

創世記 1:3-5 神は「光あれ」と言われた。すると光があった。神はその光を見て、良しとされた。神はその光とやみとを分けられた。神は光を昼と名づけ、やみを夜と名づけられた。夕となり、また朝となった。第一日である。

創世記 1:6-7 神はまた言われた、「水の間におおぞらがあって、水と水とを分けよ」。そのようになった。神はおおぞらを造って、おおぞらの下の水とおおぞらの上の水とを分けられた。

創世記 1:9-11 神はまた言われた、「天の下の水は一つ所に集まり、かわいた地が現れよ」。そのようになった。神はそのかわいた地を陸と名づけ、水の集まった所を海と名づけられた。神は見て、良しとされた。神はまた言われた、「地は青草と、種をもつ草と、種類にしたがって種のある実を結ぶ果樹とを地の上にはえさせよ」。そのようになった。

創世記 1:14-15 神はまた言われた、「天のおおぞらに光があって昼と夜とを分け、しるしのため、季節のため、日のため、年のためになり、天のおおぞらにあって地を照らす光となれ」。そのようになった。

創世記 1:20-21 神はまた言われた、「水は生き物の群れで満ち、鳥は地の上、天のおおぞらを飛べ」。神は海の大いなる獣と、水に群がるすべての動く生き物とを、種類にしたがって創造し、また翼のあるすべての鳥を、種類にしたがって創造された。神は見て、良しとされた。

創世記 1:24-25 神はまた言われた、「地は生き物を種類にしたがっていだせ。家畜と、這うものと、地の獣とを種類にしたがっていだせ」。そのようになった。神は地の獣を種類にしたがい、家畜を種類にしたがい、また地に這うすべての物を種類にしたがって造られた。神は見て、良しとされた。

2.神は言葉を用いて人間との契約を立てる

創世記 9:11-13 「わたしがあなたがたと立てるこの契約により、すべて肉なる者は、もはや洪水によって滅ぼされることはなく、また地を滅ぼす洪水は、再び起らないであろう」。さらに神は言われた、「これはわたしと、あなたがた及びあなたがたと共にいるすべての生き物との間に代々かぎりなく、わたしが立てる契約のしるしである。すなわち、わたしは雲の中に、にじを置く。これがわたしと地との間の契約のしるしとなる」。

3.神の祝福

創世記 17:4-6 わたしはあなたと契約を結ぶ。あなたは多くの国民の父となるであろう。あなたの名は、もはやアブラムとは言われず、あなたの名はアブラハムと呼ばれるであろう。わたしはあなたを多くの国民の父とするからである。わたしはあなたに多くの子孫を得させ、国々の民をあなたから起そう。また、王たちもあなたから出るであろう。

創世記 18:18-19 アブラハムは必ず大きな強い国民となって、地のすべての民がみな、彼によって祝福を受けるのではないか。わたしは彼が後の子らと家族とに命じてヤーウェの道を守らせ、正義と公道とを行わせるために彼を知ったのである。これはヤーウェがかつてアブラハムについて言った事を彼の上に臨ませるためである。

創世記 22:16-18 ヤーウェは言われた、「わたしは自分をさして誓う。あなたがこの事をし、あなたの子、あなたのひとり子をも惜しまなかったので、わたしは大いにあなたを祝福し、大いにあなたの子孫をふやして、天の星のように、浜べの砂のようにする。あなたの子孫は敵の門を打ち取り、また地のもろもろの国民はあなたの子孫によって祝福を得るであろう。あなたがわたしの言葉に従ったからである」。

ヨブ記 42:12 ヤーウェはヨブの終りを初めよりも多く恵まれた。彼は羊一万四千頭、らくだ六千頭、牛一千くびき、雌ろば一千頭をもった。

聖書のこれら三ヵ所から何がわかりましたか。神が権威を行使するにあたり、そこに原則があることを理解しましたか。たとえば、神は虹を用いて人間との契約を立てましたが、雲間に虹を置くことで、自分が洪水で世界を滅ぼすことは二度とないと人間に伝えました。人々が現在目にする虹は、神の口から語られた虹といまだ同じものですか。その性質や意味は変わりましたか。当然、そのようなことはありません。神は自身の権威を用いてこの業を行ない、神が人間との間に立てた契約は現在に至るまで続いており、この契約が変更される時期は言うまでもなく神次第です。「雲の中に、にじを置く」と述べた後、神は常にその契約を遵守し、今日に至っています。このことから何がわかりますか。神には権威と力があるものの、自身の業に対して厳格であり、厳しい原則に従うとともに、いつも自身の言葉に忠実である、ということです。神の厳格さと神の業の原則は、創造主が犯すことのできない存在であること、そして創造主の権威が無敵であることを示しています。神には至高の権威があり、万物は神の支配下にあり、また神には万物を支配する力がありますが、神は自身の計画を害したことも乱したこともなく、権威を行使するたび、常に自身の原則を厳しく守り、自身の口から語られた言葉、および自身の計画の段階と目的に従っています。言うまでもなく、神に支配されている万物もまた、神が権威を行使する際の原則に従っており、いかなる人や物も神の権威による采配を免れず、神の権威が行使される際の原則を変えることもできません。神の目から見ると、祝福された人は神の権威がもたらす素晴らしい賜物を受け取り、呪われた人は神の権威のために懲罰を受けます。神の権威の支配下においては、いかなる人や物も神が行使する権威を免れず、神の権威が行使される際の原則を変えることもできません。創造主の権威はどの要素が変わったところで変化せず、同様に、神の権威が行使される際の原則は、いかなる理由であっても変わりません。天地が大変動に見舞われても創造主の権威は不変であり、万物が消え去っても創造主の権威は決して消滅しません。これが創造主の不変にして犯すことのできない権威の実質であり、創造主が唯一無二たるゆえんなのです。

『神を知ることについて』「唯一無二の神自身 I.」(『言葉』第2巻)

日々の神の御言葉 抜粋 98

サタンに対する神の命令

ヨブ記 2:6 ヤーウェはサタンに言われた、「見よ、彼はあなたの手にある。ただ彼の命を助けよ」。

サタンは創造主の権威を決して超えようとしなかったので、万物は秩序ある生活を送っている

これはヨブ記からの抜粋であり、「彼」はヨブを指しています。この一文は簡潔ながら、多くの問題を解明するものです。そこでは霊の世界における神とサタンの会話が具体的に述べられており、神の言葉の対象がサタンであることをわたしたちに伝えています。また、神が述べたことも具体的に記されています。神の言葉はサタンに対する命令でした。この命令の具体的な内容は、ヨブのいのちを奪わないことと、サタンによるヨブの扱いについて神がどこに一線を引いたかに関するものです。つまり、サタンはヨブのいのちを守らざるを得なかったのです。この一文から最初に学べるのは、それが神からサタンに語られた言葉だということです。ヨブ記の原典には、この言葉の背景が記されています。それによると、サタンはヨブを責めたいと望んでいましたが、ヨブを試みる前に神の同意を得る必要がありました。ヨブを試みたいというサタンの要求に同意した時、神は「ヨブはあなたの手にある。ただ彼の命を助けよ」という条件を示しました。この言葉はどのような性質のものですか。明らかに命令です。この言葉の性質を理解すると、この命令を発したのは神であり、それを受けて従ったのはサタンであることも当然理解できるはずです。言うまでもなく、この命令における神とサタンの関係は、これらの言葉を読めば誰でも明確に理解できます。もちろん、これは霊の世界における神とサタンの関係、身分と地位における神とサタンの違いでもあり、聖書に記された神とサタンとのやりとりによってそれが示されています。つまり現在、身分と地位における神とサタンの明確な違いについて、人は具体的な例と文書の記録で知ることができるのです。この点において、これらの言葉の記録は、人類が神の身分と地位を知る上で重要な文章であり、貴重な情報をもたらすものだと言わなければなりません。霊の世界における創造主とサタンとのこの会話により、人間は創造主の権威についてもう一つの側面を理解することができます。これらの言葉は、創造主だけがもつ権威のもう一つの証しなのです。

表面上、ヤーウェ神はサタンと会話しています。しかし本質的に言えば、ヤーウェ神が言葉を述べる際の態度、そしてヤーウェ神が位置している立場は、サタンよりも高いものです。つまり、ヤーウェ神はサタンに命令口調で言いつけており、すべきことやすべきでないことを告げるとともに、ヨブがすでにサタンの手の中にあること、そしてサタンは思うがままにヨブを扱ってもよいが、ヨブのいのちを奪ってはならないということを伝えているのです。その言外の意味は、ヨブはサタンの手の中にあるものの、ヨブのいのちはサタンに与えられておらず、神が許可しない限り、ヨブのいのちを神の手中から奪える者はいない、ということです。神の態度はサタンに対するこの命令の中で明白に説明されており、またこの命令は、ヤーウェ神がサタンと会話する際の立場を示し、明らかにするものです。その際、ヤーウェ神のもつ地位というのは、光と空、万物とすべての生物を創り、万物とすべての生物を支配する神の地位だけでなく、人類と冥府を指揮し、すべての生物の生死を支配する神の地位です。霊の世界において、サタンに対してこのように命令する存在が、神以外にあるでしょうか。では、神がサタンに自ら命令を下したのはなぜですか。ヨブを含めた人間のいのちが神によって支配されているからです。神はサタンに対し、ヨブのいのちを傷つけたり奪ったりすることを禁じるとともに、サタンがヨブを試みることを許したときでさえ、その命令を強調することを忘れず、ヨブのいのちを奪ってはならないとサタンに再度命令したのです。サタンは神の権威に背こうとしたことが一切なく、さらには神の指示と具体的な命令を注意深く聞き、それに従い、あえて逆らおうとせず、当然ながら神の命令を自由に変えようともしませんでした。神がサタンに課した制限はそのようなものであり、ゆえにサタンはあえてその制限を超えようとしなかったのです。これは神の権威の力ではないですか。これは神の権威の証しではないですか。神に対してどのように振る舞うか、神をどのように見るかについて、サタンは人間よりもずっと明確に理解していたので、霊の世界で神の地位と権威をはっきり目の当たりにしており、神の権威の力と、神の権威が行使される際の原則についても深く理解しています。サタンはそれらを見過ごすことも、何らかの形でそれらに背こうとすることもなく、また神の権威に背く行動を取ることも、どのような形であれ神の怒りに対抗することも一切ありませんでした。サタンの本性は邪悪で傲慢ですが、神がサタンに対して定めた領域と限度を超えようとしたことはありません。数百万年の間、サタンはそうした限度を固く守り、神からの指示と命令にすべて従い、あえて一線を越えようとしたこともありません。サタンは悪意に満ちていますが、堕落した人間よりもはるかに賢く、創造主の身分を知っており、自分の限度も心得ています。サタンの「従順な」行動から、神の権威と力は、サタンが背くことのできない天の命令であることがわかります。また、神が唯一の存在であること、そして神の権威ゆえに、万物は秩序正しく変化と増加を行ない、人類は神によって確立された過程の中で生活と繁殖を行なえるのであり、この秩序を乱したり、この法則を変えたりすることができる人や物が存在しないこともわかります。なぜなら、それらはすべて創造主の手から生み出され、創造主の命令と権威から現われたからです。

『神を知ることについて』「唯一無二の神自身 I.」(『言葉』第2巻)

日々の神の御言葉 抜粋 99

創造主の身分をもつ神だけが、唯一無二の権威を有している (抄出)

サタンがもつ「特別」な身分のために、人々はサタンが表わす様々な側面に強い関心を示してきました。中には、サタンは奇跡を起こし、人間には不可能なことができるので、サタンにも神と同じく権威があると信じている愚かな人さえいます。そうしたわけで、人類は神を崇拝するだけでなく、心の中にサタンの居場所をとっておき、サタンを神として崇拝することさえします。こうした人は哀れであると同時に憎むべき存在です。彼らは無知のために哀れであり、その異端的な信条と、持って生まれた邪悪な本質のために憎むべき存在なのです。ここで、権威とは何か、権威が象徴するものは何か、権威が表わすものは何かを皆さんに教える必要があるでしょう。概して言えば、神自身が権威であり、その権威は神の至高と実質を象徴し、神自身の権威は神の地位と身分を表わします。そうであれば、サタンは自分こそ神であるなどとあえて言うでしょうか。自分が万物を創り、万物を支配しているなどとあえて言うでしょうか。当然ながら、そのようなことは言いません。なぜなら、サタンは万物を創造することができないからです。現在に至るまで、神が創ったものをサタンが創ったということは一度もなく、サタンがいのちあるものを創ったこともありません。サタンには神の権威がないので、神の地位と身分を有することはとても不可能であり、これはサタンの本質によって決まることです。サタンに神と同じ力はありますか。当然ながら、そのようなことはありません。サタンの行動や、サタンが起こした奇跡を、わたしたち何と呼びますか。力でしょうか、それとも権威でしょうか。もちろん違います。サタンは邪悪な潮流を率い、神の働きのあらゆる側面を乱し、損なわせ、妨害します。これまでの数千年間、人類を堕落させ乱暴に扱い、人間をそそのかして騙し、それによって人間が堕落して神を拒む状態にし、死の淵に向かわせた以外に、サタンは人間による記念、称賛、敬愛に少しでも値することを行なったでしょうか。サタンに権威と力があるなら、人類はサタンによって堕落させられていたでしょうか。サタンに権威と力があるなら、人間はサタンによって害を被ったでしょうか。サタンに権威と力があるなら、人類は神を捨てて死に向かっていたでしょうか。サタンに権威も力もないのなら、そのすべての行ないの本質についてどう結論づけるべきでしょうか。サタンによるすべての行ないを単なる策略と定義する人もいますが、そのような定義はさほど適切ではないとわたしは考えます。人類を堕落させるという邪悪な行ないは、単なる策略でしょうか。サタンがヨブを虐げた邪悪な力と、ヨブを虐げて食い尽くそうとする激しい願望は、単なる策略ではとても成し遂げられないものです。振り返ると、丘や山の一面に群れていたヨブの動物たちは、一瞬にして消え去りました。ヨブの巨大な富も一瞬にして消え去りました。これは単なる策略でなし得たことでしょうか。サタンによる行ないの性質は、どれも損傷、妨害、破壊、危害、邪悪、悪意、闇などといった否定的な言葉に一致するものであり、不正で邪悪な出来事のすべてはサタンの行為と密接に繋がっていて、サタンの邪悪な本質と切り離すことができません。サタンがいかに「強力」か、その大胆さと野望がどれほどのものか、危害を加える能力がどれほどのものか、人間を堕落させ、誘惑する技能の幅広さがどれほどのものか、人間を脅かす策略や計略がどれほど狡猾か、そしてサタンの存在する形態がどれほど変化可能かを問わず、サタンは一つの生物も創れたことも、万物の存在に関する法則や規律を定められたこともなく、いのちあるものかどうかにかかわらず、何かの物体を支配して操れたこともありません。宇宙と大空の中に、サタンから生まれた人間や物、サタンのおかげで存在する人間や物、サタンに支配されたり操られたりしている人間や物はまったく存在しません。それとは逆に、サタンは神の支配下で暮らすしかなく、その上神の指示と命令にすべて従う必要があります。神の許しがなければ、サタンはひとしずくの水やひと握りの砂に触れることさえ困難です。また、地面の蟻を自由に動かすことさえできず、ましてや神の創った人類を動かすことなど不可能です。神から見ると、サタンは山に咲くユリの花よりも劣り、空を舞う鳥や海の魚にも劣り、地のウジ虫にも劣ります。万物の中におけるサタンの役割は、万物に仕え、人類のために働き、神の働きと経営計画に役立つことです。サタンの本性がどれほど悪意に満ちていようと、その本質がいかに邪悪であろうと、サタンにできるのは、神に仕え、神を際立たせるという、その役割に従順に従うことだけです。これがサタンの本質と立場です。サタンの本質はいのち、力、権威から切り離されており、サタンは神の手中にある玩具、神に役立つ道具に過ぎません。

『神を知ることについて』「唯一無二の神自身 I.」(『言葉』第2巻)

日々の神の御言葉 抜粋 100

創造主の身分をもつ神だけが、唯一無二の権威を有している (抄出)

神の権威はそれ自体が神の力だと説明できます。まず、権威と力はともに肯定的なものだと断言できます。それらは否定的なものと何らつながりがなく、いかなる被造物やそれ以外のものとも関係がありません。神の力は、いのちと活力をもつ、あらゆる形のものを創ることが可能であり、それは神のいのちによって決まっています。神はいのちであり、したがってあらゆる生物の源です。さらに神の権威は、あらゆる生物を神の一言一句に従わせることができます。つまり、あらゆる生物は神の口から発せられた言葉通りに現われ、神の命令によって生き、繁殖し、その後は神があらゆる生物を支配してそれらに命令し、そこからの逸脱は永遠にあり得ないのです。人間や物体にはこれらのものがありません。こうした力は創造主だけが有しており、したがって権威と呼ばれます。これが、創造主が唯一無二たるゆえんなのです。ゆえに、「権威」という言葉自体であれ、権威の本質であれ、どちらも神としか関係していません。なぜなら、それは創造主に固有の身分と本質の象徴であり、また創造主の身分と地位を表わすものだからです。創造主を除き、「権威」という言葉と関連のある人間や物体は存在しません。これが、創造主だけがもつ権威の解釈です。

サタンは貪欲な目でヨブを見ていましたが、神の許しがなかったので、ヨブの体毛一本すら触れようとはしませんでした。サタンは生まれつき邪悪で残酷ですが、ひとたび神が命令すると、その命令に従うほかなかったのです。そうしたわけで、ヨブのところに来たサタンは羊の中の狼のように凶暴だったにもかかわらず、神が定めた限度をあえて忘れることも、神の命令に背こうとすることもなく、すべての行動において神の言葉の原則と限度から逸脱しようとはしませんでした。これが事実ではないですか。そのことから、サタンはヤーウェ神の言葉にあえて背かないことがわかります。サタンにとって、神の口から発せられた一言一句は命令であり、天の法則であり、神の権威を表わすものです。なぜなら、神の一言一句の背後には、神の命令に背いた者、天の法則に反抗した者に対する神の懲罰が暗示されているからです。神の命令に背いた場合、神の権威から逸脱し、天の法則に反抗した報いを受けなければならないことを、サタンははっきり知っています。では、その報いとはいったい何ですか。言うまでもなく、それは神による懲罰です。ヨブに対するサタンの行為は人間を堕落させたことの縮図に過ぎず、またサタンがそれらのことを行なっていた際、神がサタンに対して定めた限度と、サタンに発した命令は、サタンのあらゆる行動の背後にある原則の縮図に過ぎませんでした。さらに、この点におけるサタンの役割と立場は、神の経営の働きにおけるサタンの役割と立場の縮図に過ぎず、サタンがヨブを試みた際の神に対する完全な服従は、神の経営の働きに少しも反抗しようとしなかったことの縮図に過ぎません。これらの縮図はあなたがたに何を警告していますか。サタンを含めた万物の中に、創造主が定めた天の法則や命令に背ける人や物事は存在せず、こうした天の法則や命令にあえて違反しようとする人や物事も一切ありません。なぜなら、服従を拒んだ者に創造主が科す懲罰は、どんな人や物にも変えられず、そこから逃れることもできないからです。天の法則や命令を確立できるのは創造主だけであり、それらを施行する力があるのも創造主だけであって、人間や物事が超えられないのは創造主の力だけなのです。これが創造主にしかない権威であり、この権威は万物の中で至高のものであるので、「神は最も偉大であり、サタンはその次に偉大である」と言うことはできません。唯一無二の権威をもつ創造主を除いて、他に神は存在しないのです。

神の権威について、あなたがたはいま新たな認識を得ましたか。まず、先ほど述べた神の権威と人間の力との間に違いはありますか。その違いは何ですか。両者を比べることはできないと言う人がいますが、そのとおりです。人は両者を比べることはできないと言いますが、人間の思考や観念においては、人間の力がしばしば権威と混同され、両者を並べて比較することがよくあります。これはどういうことですか。うかつにも両者を取り違えるという間違いを犯しているのではないでしょうか。この二つに関連性はなく、両者を比較することもできませんが、人はそれでも比較せずにはいられないのです。これはどうすれば解決できるでしょうか。解決策を見つけたいと心から願うのであれば、神だけがもつ権威を理解し、それを知るよりほかにありません。創造主の権威を理解して知るようになれば、人間の力と神の権威を同じように語ることはなくなります。

人間の力とは何のことですか。簡潔に言うと、人間の堕落した性質、欲望、および野望を最大限に拡大し、それらを成し遂げることを可能にする能力、あるいは技能のことです。それを権威と見なせますか。人の野望と願望がどれほど大きいとしても、あるいはどれほど利益をもたらすとしても、その人に権威があるとは言えません。そうした自惚れや成功は、せいぜいサタンが人の間で行なう茶番に過ぎず、神になるという野望を果たすべく、自身の祖先を演じる喜劇に過ぎません。

『神を知ることについて』「唯一無二の神自身 I.」(『言葉』第2巻)

日々の神の御言葉 抜粋 101

創造主の身分をもつ神だけが、唯一無二の権威を有している (抄出)

神の権威は何を象徴しますか。神自身の身分を象徴しますか。神自身の力を象徴しますか。神だけがもつ地位を象徴しますか。あらゆる物事のなかで、あなたが神の権威を目の当たりにした事柄は何ですか。どのようにしてそれを目の当たりにしましたか。人間が経験する四季について言えば、春夏秋冬が入れ替わる法則を人間が変えることはできますか。春になると、木々は芽吹いて花を咲かせ、夏には葉で覆われ、秋には実を結び、冬には葉を散らします。この法則を変えることができる人はいますか。これは神の権威の一側面を反映するものですか。神が「光あれ」と言うと、光がありました。その光はいまも存在していますか。それが存在するのはなにゆえですか。もちろん、光が存在するのは神の言葉と権威のゆえです。神が創った空気はいまも存在していますか。人間が呼吸する空気は神に由来するものですか。神に由来するものを取り去ることができる人はいますか。神に由来するものの本質と機能を変えることができる人はいますか。神が割り当てた昼と夜、神が命じた昼夜の法則を覆せる人はいますか。サタンにそのようなことができますか。あなたが夜に眠らず、夜と昼を取り違えていても、それは依然として夜です。日々の習慣を変えることはできても、昼夜の入れ替わりに関する法則を変えることはできません。この事実は誰にも変えることができないものです。違いますか。ライオンが牛のごとく地面を耕すようにすることはできますか。象をロバに変えることできますか。鶏が鷹のごとく空を飛ぶようにすることはできますか。狼が羊のごとく草を食べるようにすることはできますか。(できません。)魚が水のない地上で暮らすようにすることはできますか。人間にそのようなことはできません。なぜできないのですか。それは、神が魚に水中で暮らすよう命じたからであり、そのため魚は水中で暮らしているのです。魚は地上で生存できず、死んでしまうでしょう。神の決めた限度を魚が越えることはできないのです。万物には存在の法則と限界があり、それぞれ固有の本能があります。それらは創造主が定めたものであって、いかなる人も変えたり越えたりすることはできません。たとえば、ライオンは常に人間社会から離れた荒野で暮らします。ライオンが人間とともに生活し、人間のために働く牛のように従順で忠実になることはありません。象とロバはともに動物であり、四本の脚をもち、空気を呼吸しますが、両者は違う種に属しています。なぜなら、それらは神によって異なる種に分けられ、それぞれ固有の本能があり、したがって両者を入れ替えることはできないからです。鶏は鷹と同じく脚と翼をもっていますが、空を飛ぶことは決してできず、飛べたとしてもせいぜい木に留まる程度です。それは鶏の本能によって決まっていることです。また言うまでもなく、それはひとえに神の権威が命じたからです。

現在における人類の発展の中で、人間の科学は繁栄していると言えます。また、人間による科学的探求の成果は印象的のひと言で説明できます。人間の能力はかつてないほど高まったと言わなければなりませんが、人類がいまだ成し遂げられない科学的進歩が一つあります。人類は飛行機、航空母艦、原子爆弾などを作り、宇宙空間へと進出し、月面を歩き、インターネットを発明し、ハイテク技術による生活様式の中で暮らすようになりましたが、呼吸する生物を作ることはいまだにできません。あらゆる生物の本能、動物が生きる上での法則、そして生物の生死の循環はどれも人類の科学の力を超えるものであり、それによって操ることはできません。ここで言わなければなりませんが、人間の科学がいかに高度なものへと進化しようと、創造主の考えとは比較にならず、創造主による創造の奇跡や、神の権威の力を解明することは不可能です。地球上には多数の海がありますが、限度を超えて地上へ自由に来ることはありません。なぜなら、神がそれぞれの海の境界を定めたからです。海は神が命じた場所に留まり、神の許しがなければ自由に動き回ることはできません。神の許しがなければ、それぞれの海が侵害し合うことはできず、神がそう述べたときにだけ移動することができ、また海がどこへ移動して留まるかは、神の権威によって定められるのです。

端的に言えば、「神の権威」とは物事が神次第であることを意味します。神には物事をどのように行なうかを決める権利があり、それは神の望む方法で行なわれます。万物の法則は人間次第ではなく神次第であり、人間がそれを変えることはできません。万物の法則は人間の意志で動かせるものではなく、むしろ神の考え、知恵、そして命令によって変えられるものであり、これは誰も否定できない事実です。天と地、万物、宇宙、星空、そして四季など、人間に見えるものも見えないものも、すべては神の権威の下、神の命令と定め、および創造の初めの法則に従い、わずかな間違いもなく存在し、機能し、変化します。それらの法則、あるいはそれらが機能する固有の過程は、いかなる人や物であっても変えることができません。それらは神の権威ゆえに現われ、同じく神の権威ゆえに消滅します。これがまさしく神の権威なのです。ここまで語ったいま、神の権威は神の身分と地位の象徴だと感じることができますか。被造物やそれ以外のものが神の権威をもつことはできますか。それを模倣したり、真似したり、それに取って代わったりすることができる人や物がありますか。

『神を知ることについて』「唯一無二の神自身 I.」(『言葉』第2巻)

日々の神の御言葉 抜粋 102

創造主の身分は唯一無二なので、多神論に従ってはならない

サタンの技能と能力は人間のそれに優っており、人間には不可能なことが可能であるものの、サタンの行為を羨んだり望んだりするかどうか、それを憎んだり忌み嫌ったりするかどうか、サタンの行動が理解できるかどうか、サタンがどの程度のことを達成できるのか、どれほど多くの人を騙して自分を崇拝させたり祀らせたりすることができるのか、そしてあなたがサタンをどのように定義するかを問わず、サタンに神の権威と力があるとは到底言えません。神は神であり、唯一の神しか存在せず、そしてそれ以上に、神だけが権威をもち、万物を支配する力があることを知らなければなりません。サタンには人間を欺く能力があり、神になりすまし、神のしるしと奇跡を模倣することができ、神と似たようなことをしているからといって、神は唯一無二ではなく多数の神が存在する、またそれらの神には多かれ少なかれ技能があり、行使する力の幅広さに差があるなどといった誤解をあなたはしています。登場する順番や年齢でそれらの神の偉大さに順位をつけたり、神のほかにも神性を有するものが存在すると誤解したり、神の権威と力は唯一無二ではないと考えたりするのです。あなたにこうした考えがあり、神が唯一の存在であることを認めず、神だけが権威を有していることを信じず、ひたすら多神論に従っているなら、あなたは被造物のくずであり、サタンの真の化身であり、邪悪の権化であるとわたしは言います。このような言葉でわたしが何を教えようとしているか、あなたがたはわかっていますか。時間、場所、背景を問わず、神と人間、神と物事を混同してはいけません。神の権威や神自身の本質について、それらを知ったり、それらに近づいたりするのがどれほど難しく感じられようと、自分の観念と想像がサタンの言動とどれほど一致していようと、そしてそれらが自分をどれほど満足させようと、あなたは愚かであってはならず、それらの観念を混同してはならず、神の存在を否定してはならず、神の身分と地位を否定してはならず、神を追い出し、その代わりに心の中へサタンを招き入れ、あなたの神にしてはいけません。そのようなことをした結果がどうなるか、あなたがたは想像できるはずです。

『神を知ることについて』「唯一無二の神自身 I.」(『言葉』第2巻)

日々の神の御言葉 抜粋 103

人類は堕落させられてきたが、創造主の権威の支配下で生きている

これまで数千年にわたり、サタンは人類を堕落させてきました。無数の悪事を働き、何世代もの人々を欺き、世界中で凶悪な犯罪を犯してきました。人間を虐げ、欺き、誘惑して神に反抗させ、神の経営計画を何度も混乱させて害を与えるという悪事を重ねてきたのです。それでもなお、神の権威の下、万物とすべての生物は神が定めた規則と法則を遵守し続けています。神の権威に比べれば、サタンの邪悪な本性とその蔓延は極めて醜く、不快であり、卑劣であり、取るに足りず、脆弱です。サタンは神に創られた万物の中を歩んでいますが、神に率いられる人間や物事をわずかでも変化させることはできません。数千年が経過した現在、人類は神から授かった光と空気を享受し、神自身から授かった息を呼吸し、神が創った花や鳥、魚や昆虫を楽しみ、神から授かったすべてのものを享受しています。昼と夜はいまも絶えず入れ替わり、四季はいつものように移り変わり、空を舞うガンは冬に去り、次の春に舞い戻るとともに、魚は住みかである川や湖から決して離れません。また夏の日中には地上のセミが心から高らかにうたい、秋には草の中にいる鈴虫が風に合わせて優しく口ずさみ、ガンが群れをなす一方、鷹は孤独なままです。ライオンは誇り高く狩りを行なうことで自分を支え、ヘラジカは草原の草花を離れません……。万物の中でも、すべての生物は行き来を繰り返しており、無数の変化が一瞬にして生じます。しかし、その本能と生存法則が変わることはありません。それらは神の施しと糧によって生きており、その本能を変えたり、生存法則に害を及ぼしたりすることは誰にもできないのです。万物の中で生きる人類はサタンに堕落させられ、欺かれてきたものの、神が創った水、神が創った空気、そして神が創ったすべてのものを捨てることは依然できず、いまなお神が創ったこの空間で暮らし、繁殖しています。人間の本能は変わっていないのです。人間はいまなお目で見、耳で聞き、脳で考え、心で理解し、足で歩き、手で作業を行なうなどしています。神の施しを受け取れるよう、神が人間に授けた本能は変わらないままで、人間が神と協力する能力、被造物の本分を尽くす能力、人類が霊的に必要とするもの、自分の起源を知りたいという願望、そして創造主に救われることへの渇望は変わっていません。以上が、神の権威の下で暮らし、サタンによる血なまぐさい破壊を経験してきた人類の現状です。人類はサタンの圧迫を受け、もはや創造当初のアダムとエバではなく、知識、想像、観念といった神に敵対する物事や、堕落したサタン的性質でいっぱいですが、神の目から見て、人間は依然として神が造った時と同じ人間です。人間はいまなお神に支配され、指揮され、神が定めた過程の中で暮らしているので、神の目から見ると、サタンによって堕落させられた人類は埃をかぶり、空腹でお腹を鳴らし、反応がいささか遅くなり、以前ほどの記憶力がなく、少し年老いたに過ぎず、人間の機能と本能はまったく損なわれていません。これが、神が救おうとしている人類なのです。この人類は創造主の呼びかけを聞き、創造主の声に耳を傾けさえすれば、立ち上がってその声がどこから聞こえるのかをただちに突き止めようとするはずです。創造主の姿を見さえすれば、その他のことには注意を払わず、すべてを捨てて自分自身を神に捧げ、神のために命すら捧げます。創造主の偽りなき言葉を心の中で理解したとき、人間はサタンを拒絶し、創造主の側につきます。また身体の穢れを完全に洗い流し、創造主による施しと糧を再び授かった時、人間の記憶は蘇り、そこで人間は創造主の支配下へと本当に戻るのです。

『神を知ることについて』「唯一無二の神自身 I.」(『言葉』第2巻)

日々の神の御言葉 抜粋 104

頑なに神に反対する人は、神の怒りが破壊する (抄出)

創世記 19:1-11 そのふたりのみ使は夕暮にソドムに着いた。そのときロトはソドムの門にすわっていた。ロトは彼らを見て、立って迎え、地に伏して、言った、「わが主よ、どうぞしもべの家に立寄って足を洗い、お泊まりください。そして朝早く起きてお立ちください」。彼らは言った、「いや、われわれは広場で夜を過ごします」。しかしロトがしいて勧めたので、彼らはついに彼の所に寄り、家にはいった。ロトは彼らのためにふるまいを設け、種入れぬパンを焼いて食べさせた。ところが彼らの寝ないうちに、ソドムの町の人々は、若い者も老人も、民がみな四方からきて、その家を囲み、ロトに叫んで言った、「今夜おまえの所にきた人々はどこにいるか。それをここに出しなさい。われわれは彼らを知るであろう」。ロトは入口におる彼らの所に出て行き、うしろの戸を閉じて、言った、「兄弟たちよ、どうか悪い事はしないでください。わたしにまだ男を知らない娘がふたりあります。わたしはこれをあなたがたに、さし出しますから、好きなようにしてください。ただ、わたしの屋根の下にはいったこの人たちには、何もしないでください」。彼らは言った、「退け」。また言った、「この男は渡ってきたよそ者であるのに、いつも、さばきびとになろうとする。それで、われわれは彼らに加えるよりも、おまえに多くの害を加えよう」。彼らはロトの身に激しく迫り、進み寄って戸を破ろうとした。その時、かのふたりは手を伸べてロトを家の内に引き入れ、戸を閉じた。そして家の入口におる人々を、老若の別なく打って目をくらましたので、彼らは入口を捜すのに疲れた。

創世記 19:24-25 ヤーウェは硫黄と火とをヤーウェの所すなわち天からソドムとゴモラの上に降らせて、これらの町と、すべての低地と、その町々のすべての住民と、その地にはえている物を、ことごとく滅ぼされた。

これらの聖句から、ソドムの罪と堕落はすでに人間にとっても神にとっても憎むべき程度まで達していたこと、そのために神の観点から見るとソドムは破壊されて然るべきであったことは容易に読み取ることができます。けれど、破壊される前のソドムの町で何があったのですか。その出来事から人は何を学べますか。出来事に対する神の姿勢は、神の性質について人に何を示していますか。逸話を全体的に把握するため、聖句に記されていることを精読しましょう……

ソドムの堕落――人間を怒らせ、神を激怒させる

その夜、ロトは二人の神の使いを迎え、彼らのために食事を用意しました。食事の後、使いが休む前に、町中の人々がロトの家を取り囲み、ロトに叫びました。聖句では、人々が「今夜おまえの所にきた人々はどこにいるか。それをここに出しなさい。われわれは彼らを知るであろう」と言ったと記録しています。この言葉を言ったのは誰ですか。この言葉は誰に対するものですか。それはソドムの住民の言葉であり、ロトの家の外でロトに向けて叫ばれました。このような言葉を聞いたら、どのように感じますか。怒りますか。気分が悪くなりますか。激しい怒りがこみ上げてきますか。この言葉はサタンの匂いがしませんか。この言葉を通して、ソドムの邪悪と闇を感じられますか。言葉にソドムの住民の残忍さと野蛮さを感じることができますか。彼らの態度から、堕落の深刻さを感じることができますか。言葉の内容から、ソドムの住民の邪悪な本質と残忍な性質が本人たちが制御できない程度に達していたことを理解するのは困難ではありません。ロト以外のソドムの住民はみなサタンと何ら変わらず、誰かを見かけただけで、その人を傷つけ食い物にしたい衝動に駆られるのです。こうしたことから、この町の恐ろしい本性をうかがい知ることができるだけでなく、この町にただよう死の雰囲気、邪悪さや血なまぐささをも感じ取ることができます。

人間の魂を食い物にする野蛮な欲望に満ちた非人間的な悪党と対面したロトは、どのように答えましたか。聖句には、「どうか悪い事はしないでください。わたしにまだ男を知らない娘がふたりあります。わたしはこれをあなたがたに、さし出しますから、好きなようにしてください。ただ、わたしの屋根の下にはいったこの人たちには、何もしないでください」とあります。こう言ったロトの本意は、使いを守るためなら、自分の娘二人を失うことも辞さない、ということでした。どのように筋道を立てて考えても、彼らはロトの提案を受け容れ、二人の使いを煩わせるべきではありませんでした。なぜなら、使いはソドムの住民にとってまったくの他人であり、何の関係もなく、彼らの不利益になるようなことをしたこともなかったからです。しかし、ソドムの住民は邪悪な本性のせいで、それで一件を落着させるどころか、よけいに態度が激しくなりました。彼らのやり取りの一つから、ソドムの住民の邪悪な本性を疑いなく察することができると同時に、神がなぜソドムを破壊することを望んだのかを理解し納得することができます。

それでは、ソドムの住民は次に何と言いましたか。聖書によると、こうです。「『退け』。また言った、『この男は渡ってきたよそ者であるのに、いつも、さばきびとになろうとする。それで、われわれは彼らに加えるよりも、おまえに多くの害を加えよう』。彼らはロトの身に激しく迫り、進み寄って戸を破ろうとした」。彼らはなぜロトの戸を破ろうとしたのですか。それは、ソドムの住民は二人の使いにどうしても危害を加えたかったからです。二人の使者はなぜソドムに来たのですか。この使いは、ロトとその家族を救うために来たのですが、住民は彼らが来たのは公務に就くためであると勘違いしていました。使いの目的を尋ねることもなく、憶測だけで二人を乱暴に攻撃しようとしました。つまり、ソドムの住民は自分たちにまったく関係のない人を傷つけたかったのです。ソドムの住民が完全に人間性と理知を失っていたことは明らかです。彼らの狂気と凶暴さは、人間を傷つけ、食い尽くそうとするサタンの邪悪な本性と違いませんでした。

住民が使いを引き渡すようにロトに要求したとき、ロトはどうしましたか。聖句から、ロトは使いを引き渡さなかったことが分かります。ロトはこの二人の神の使いを知っていましたか。もちろん、知りませんでした。ではなぜ、ロトはこの二人を救うことができたのですか。ロトは二人が何をしに来たのか知っていましたか。ロトは二人が来た目的を知りませんでしたが、二人が神のしもべであることは知っていました。だから二人を自分の家に迎え入れたのです。ロトが二人の神のしもべを「わが主」と呼んでいたことは、ロトがソドムの住民とは違って、常日頃から神に従っていたことを示しています。したがって、神の使いがロトのところへ来たとき、ロトは自らの命を危険にさらして彼らを家に招き入れたのです。さらに、二人を守るために自分の娘二人を身代わりにしようとしました。これはロトの義なる行為で、ロトの本性実質の具体的な表れであり、また神がロトを救うためにしもべを送った理由でもありました。危機に遭遇しても、ロトは何を省みることもなく二人の神のしもべを守り、自分の娘二人を身代わりにしてしもべの安全を守ろうとさえしました。ロト以外に、このようなことをしたかもしれない人がソドムの町にいましたか。誰もいなかったというのが事実です。したがって、ロトを除き、ソドムの住民は全員滅びの対象とされたのは明らかで、そうなったのは当然の報いだったのです。

『神を知ることについて』「唯一無二の神自身 II.」(『言葉』第2巻)

日々の神の御言葉 抜粋 105

創世記 19:1-11 そのふたりのみ使は夕暮にソドムに着いた。そのときロトはソドムの門にすわっていた。ロトは彼らを見て、立って迎え、地に伏して、言った、「わが主よ、どうぞしもべの家に立寄って足を洗い、お泊まりください。そして朝早く起きてお立ちください」。彼らは言った、「いや、われわれは広場で夜を過ごします」。しかしロトがしいて勧めたので、彼らはついに彼の所に寄り、家にはいった。ロトは彼らのためにふるまいを設け、種入れぬパンを焼いて食べさせた。ところが彼らの寝ないうちに、ソドムの町の人々は、若い者も老人も、民がみな四方からきて、その家を囲み、ロトに叫んで言った、「今夜おまえの所にきた人々はどこにいるか。それをここに出しなさい。われわれは彼らを知るであろう」。ロトは入口におる彼らの所に出て行き、うしろの戸を閉じて、言った、「兄弟たちよ、どうか悪い事はしないでください。わたしにまだ男を知らない娘がふたりあります。わたしはこれをあなたがたに、さし出しますから、好きなようにしてください。ただ、わたしの屋根の下にはいったこの人たちには、何もしないでください」。彼らは言った、「退け」。また言った、「この男は渡ってきたよそ者であるのに、いつも、さばきびとになろうとする。それで、われわれは彼らに加えるよりも、おまえに多くの害を加えよう」。彼らはロトの身に激しく迫り、進み寄って戸を破ろうとした。その時、かのふたりは手を伸べてロトを家の内に引き入れ、戸を閉じた。そして家の入口におる人々を、老若の別なく打って目をくらましたので、彼らは入口を捜すのに疲れた。

創世記 19:24-25 ヤーウェは硫黄と火とをヤーウェの所すなわち天からソドムとゴモラの上に降らせて、これらの町と、すべての低地と、その町々のすべての住民と、その地にはえている物を、ことごとく滅ぼされた。

ソドムは神の怒りを引き起こしたために滅ぼされた

ソドムの住民が二人の神のしもべを見たとき、彼らは来訪の目的を尋ねることも、神の心意を広めるために来たのかどうかを尋ねることもしませんでした。それとは反対に、彼らは徒党を組み、あたかも野良犬か凶暴な狼であるかのように、物も言わせずしもべを捉えようとしました。神はこの出来事が起こっているのを見ていましたか。このような人間の振る舞い、このような出来事について神は心の中で何を考えていたでしょうか。神はこの町を滅ぼすことを決定し、躊躇して待つことも、もう少し忍耐することもありませんでした。その日が訪れたので、神は望む通りに働きを行ないました。そのため、創世記19章24~25節には、「ヤーウェは硫黄と火とをヤーウェの所すなわち天からソドムとゴモラの上に降らせて、これらの町と、すべての低地と、その町々のすべての住民と、その地にはえている物を、ことごとく滅ぼされた」とあります。この聖句二節では、神がこの町を滅ぼした方法と、神が何を滅ぼしたかが記されています。聖書では、神がこの町を火で焼いたことが最初に述べられており、その火の威力はすべての人と地の草木をすべて滅ぼすに十分であったと記されています。つまり、天から降った火は、町を破壊しただけでなく、町中の人と生きとし生けるものすべてを跡形もなく滅ぼしました。町が滅ぼされた後、土地には生き物がまったく残っていませんでした。もはや生き物が存在せず、生き物の形跡もありません。町は不毛の地となり、そこは死の静寂が満ちていました。虐殺や流血騒ぎなど、神に反する邪悪な行いは、もはやこの地には起こらないのです。

なぜ神はこれほど徹底的にこの地を焼き尽くしたかったのですか。ここから何がわかりますか。神は自身が造った人類や万物がこのように破壊されるのを見ていることに本当に耐えられたのですか。天から降った火にヤーウェ神の怒りを識別することができれば、破壊の対象とソドムの町の破壊の程度から判断して、ヤーウェ神の怒りがどれほど大きかったかを理解するのはそれほど困難ではありません。神がある町を軽蔑すると、神はその町に罰を下します。神がある町を嫌悪すると、神は怒りをその町の住民に伝えるために繰り返し警告を発します。しかし、神がある町を滅ぼすと決めれば、つまり、神の怒りと威厳が侵されたならば、神はそれ以上の罰や警告を与えず、代わりにその町を直接に破壊します。神はその町を完全に消滅させます。これが神の義なる性質です。

『神を知ることについて』「唯一無二の神自身 II.」(『言葉』第2巻)

日々の神の御言葉 抜粋 106

創世記 19:1-11 そのふたりのみ使は夕暮にソドムに着いた。そのときロトはソドムの門にすわっていた。ロトは彼らを見て、立って迎え、地に伏して、言った、「わが主よ、どうぞしもべの家に立寄って足を洗い、お泊まりください。そして朝早く起きてお立ちください」。彼らは言った、「いや、われわれは広場で夜を過ごします」。しかしロトがしいて勧めたので、彼らはついに彼の所に寄り、家にはいった。ロトは彼らのためにふるまいを設け、種入れぬパンを焼いて食べさせた。ところが彼らの寝ないうちに、ソドムの町の人々は、若い者も老人も、民がみな四方からきて、その家を囲み、ロトに叫んで言った、「今夜おまえの所にきた人々はどこにいるか。それをここに出しなさい。われわれは彼らを知るであろう」。ロトは入口におる彼らの所に出て行き、うしろの戸を閉じて、言った、「兄弟たちよ、どうか悪い事はしないでください。わたしにまだ男を知らない娘がふたりあります。わたしはこれをあなたがたに、さし出しますから、好きなようにしてください。ただ、わたしの屋根の下にはいったこの人たちには、何もしないでください」。彼らは言った、「退け」。また言った、「この男は渡ってきたよそ者であるのに、いつも、さばきびとになろうとする。それで、われわれは彼らに加えるよりも、おまえに多くの害を加えよう」。彼らはロトの身に激しく迫り、進み寄って戸を破ろうとした。その時、かのふたりは手を伸べてロトを家の内に引き入れ、戸を閉じた。そして家の入口におる人々を、老若の別なく打って目をくらましたので、彼らは入口を捜すのに疲れた。

創世記 19:24-25 ヤーウェは硫黄と火とをヤーウェの所すなわち天からソドムとゴモラの上に降らせて、これらの町と、すべての低地と、その町々のすべての住民と、その地にはえている物を、ことごとく滅ぼされた。

ソドムによる神への敵対と抵抗の繰り返しの後、神はソドムを徹底的に根絶した

人間の視点から見ると、ソドムは人間の欲望と邪悪さを完全に満足させることができる町でした。毎晩のように音楽と踊りがあり、魅力的で心をそそるソドムの栄華は、人を魅了し狂気に駆り立てます。ソドムの邪悪さが人間の心を蝕み、人間を誘惑して退廃させました。ソドムは、穢れた悪霊がたけり狂う町でした。罪と殺人があふれ、その空気は血なまぐさい死臭がしました。ソドムは、人々が恐怖で凍り付き、恐れて逃げ出すような町でした。ソドムでは、老若男女を問わず、誰ひとりとして真理の道を求めず、光を求めて罪から立ち去ることを願う者はいませんでした。人々はサタンの支配の下で、サタンの堕落と偽りの下で生活していました。人々は人間性を失い、思慮分別を失い、人間としての存在の元来の目的を見失っていました。人々は神に逆らう数え切れない悪行を犯し、神の導きを拒み、神の心に反発しました。ソドムの町、人々と生き物すべてを徐々に破壊へと追いやったのは、人々の邪悪な行動でした。

この二つの聖句には、二人の神のしもべがソドムに到着してからのソドムの住民の彼らへの行動が記録されており、ソドムの住民の堕落の程度については詳細に記録されていません。しかし、単純な事実によりどれほどソドムの住民が堕落し、邪悪で、神に反抗していたかが明らかです。それにより、ソドムの住民の素顔と実質も暴露されています。彼らは神の警告を受け容れなかったのみならず、神の懲罰をも恐れませんでした。それどころか、神の怒りを侮蔑していました。盲目的に神に反抗していたのです。神が何をどのようにしたとしても、ソドムの住民の邪悪な本性は強くなるばかりで、神への敵対を繰り返しました。彼らは神の存在、神の訪れ、神の罰、そしてとりわけ神の警告に対して敵意を抱いていました。ソドムの住民は過度に傲慢で、自分たちが傷つけ、食い物にできる人すべてを傷つけ、食い物とし、神のしもべもそのように扱いました。彼らの邪悪な所行全てを考慮すると、神のしもべを傷つけたことは氷山の一角に過ぎず、それにより暴露された彼らの邪悪さは、大いなる海のひとしずくに過ぎません。したがって、神はソドムの住民を火で破壊することに決めたのです。神は洪水や嵐、地震、津波など他の方法は用いませんでした。神がソドムの破壊に火を用いたことは、何を意味しましたか。それは町の完全なる破壊を意味しました。それは、ソドムの町という存在が地球上から完全に消滅したことを意味しました。ここで言う「破壊」とは、町の形態や構造や外観が消滅しただけでなく、町の中にいた人々の魂も消え去り、根絶されたということを意味します。簡単に言えば、ソドムに関係するすべての人々、出来事、物が破壊されたということです。ソドムの住民には来世や再生はなく、神は自らが創造した人類から彼らを永久に根絶させました。火の使用は、その場所での罪の終わり、そこで罪が阻止されたことを意味します。その罪は消滅し、広まることがありません。それは、サタンの邪悪はその温床と、さらに滞在場所であった墓さえも奪われたことを意味しました。神とサタンの戦いにおいて、神が火を用いるということは、神の勝利の証をサタンに焼き付ける烙印です。ソドムの破壊は、人間を堕落させ、虜にすることで神に対抗するサタンの野望における大いなる失策であり、また同様に、人間の発達過程において人間が神の導きを拒み、悪に身を委ねた時期の屈辱的な印でもあります。さらにそれは神の義なる性質を真に明示する記録でもあるのです。

神が天から降らせた火がソドムを灰にしたのは、「ソドム」という名の町と、そこにあったなにもかもがその後消滅したことを意味します。ソドムは神の怒りにより破壊され、神の怒りと威厳のうちに消滅しました。神の義なる性質のため、ソドムは正当な罰を受け、当然の終焉を迎えたのです。ソドムの存在が消滅したのは、その邪悪が原因であり、またそれはその町やそこに住んでいた人、そこに育ったあらゆる生き物を二度と見たくないという神の望みでもありました。「ソドムの町を二度と見たくない」という神の望みは、神の怒りであり、神の威厳でもあります。神がソドムを焼き尽くしたのは、その邪悪と罪が神を怒らせ、いらだたせ、激しく嫌悪させたためであり、その町やそこにいたあらゆる人、あらゆる生き物を二度と見たくないと望ませたためです。ソドムが焼け落ち、灰だけが残された後、ソドムは神の目に本当に存在しなくなり、神のソドムについての記憶すら消え去りました。このことは、天の火がソドムの町全体、罪に満ちた住民、町にあった罪に染められたあらゆるものを破壊しただけではなく、それらを超えて、人類の邪悪と神への反抗の記憶をも破壊したのです。これが神がソドムの町を焼いた目的でした。

この人類は堕落を極めていました。人は神とは誰か、自分はどこから来たのかを知らなかったのです。もし神のことを口にしようものなら、人々は攻撃し、中傷し、冒涜したでしょう。神の警告を伝えるために神の使いが来たときですら、堕落した人々は悔い改めの兆しを見せることも、自分たちの邪悪な行いを止めることもせず、それどころか、恐れ多くも神の使いを痛めつけたのです。彼らが明確に示したのは、神に対する極端な敵意からなる本性実質でした。これらの堕落した人々の神への反抗は、ただ彼らの堕落した性質の現れではなく、また、真理を認識していないゆえの誹謗中傷やひやかしに過ぎなかったわけではないことがわかります。彼らの邪悪な行ないは愚かさや無知に起因するものではなく、また騙されたからでもなく、当然ながら誤った方向へと導かれたからでもありませんでした。彼らの行ないは、目に余るほど激しい神への敵意、反抗、大騒ぎと同じになっていました。当然ながら、人間のこうした行ないは神の怒りを買い、また犯してはならない神の性質を激怒させることになります。したがって、神は直接的かつ堂々と怒りと威厳を示しました。それは、神の義なる性質の真なる明示でした。罪に満ちた町を見た神は、最も迅速な方法でその町を滅ぼし、その町の住民とその罪のすべてを、最も完全な方法で根絶し、住民を抹殺し、そこから罪が繁殖するのを防ぎたかったのです。最も迅速で完全な方法とは、ソドムの町を火で焼きつくすことでした。ソドムの住民に対する神の姿勢は、見捨てることでも無視することでもなく、怒りと威厳、権威を用いてソドムの住民を罰し、打ちのめし、絶滅させるというものでした。彼らに対する神の姿勢は、身体的な破壊だけでなく、魂の破壊、永久の根絶でした。これが「消滅」という言葉に神が込める真意です。

『神を知ることについて』「唯一無二の神自身 II.」(『言葉』第2巻)

日々の神の御言葉 抜粋 107

神の怒りは人間には隠され未知であるが、犯すことを決して容赦しない

愚かで無知な全人類に対する神の処分は、おもに憐れみと寛容に基づいています。その一方、神の怒りは、大部分の出来事において、ほぼ常に人間には隠され、知られることはありません。その結果、人間には神が怒りを表しているのを見極めたり、神の怒りそのものを理解したりすることは困難です。したがって、人間は神の怒りを軽視します。人間への忍耐と赦しからなる神の最終的な働きと段階に人間が直面したとき、すなわち、神の最後の憐れみと警告が人類に到達したとき、もし人間が以前と同じ方法で神に反抗したままで、悔い改めて自分自身のあり方を正し、神の憐れみを受け容れる努力を一切行なわなければ、神はもはや寛容と忍耐を人類に与えることはありません。逆に、このとき神は赦しを撤回します。その後、神は怒りしか放ちません。神が様々な方法で人間を罰し滅ぼすことができるように、神は様々な方法で怒りを表現することができます。

ソドムの町を滅ぼすために神が火を用いることは、人類や他の物を徹底的に滅ぼす神の最迅速の方法です。ソドムの住民を焼き尽くしたことで、彼らの身体だけでなく、その霊と魂と身体全体を滅ぼし、それにより物質的世界と人間には見えない世界の両方において、町にいた人々の存在の消滅が確実なものとされました。それは、神が怒りを明示し表現する方法の一つです。このような明示や表現は、神の怒りの本質の一面であり、当然ながら神の義なる性質の本質の明示でもあります。神が怒りを伝えるとき、神は憐れみと慈愛を明らかにするのを停止し、寛容と忍耐も一切見せません。神に引き続き忍耐強くあり、今一度憐れみと寛容を与えるように説得できる人間、物、理由は一切存在しません。それどころか神は一瞬の迷いもなく、神の怒りと威厳を伝え、望むことを行ないます。神は自らの望む通りに、これを迅速かつ円滑に行ないます。人間が犯してはならない神の怒りと威厳は、こうして伝えられ、それは神の義なる性質の一側面を表すものでもあります。神が人間への懸念と愛を示しているのを目撃すると、人間は神の怒りを感じることも、神の威厳を見ることも、反抗に対する神の不寛容を感じることもできません。そのため、神の義なる性質が単に憐れみと寛容さと愛のみであると人間は信じるようになりました。しかし、神が町を滅ぼし、人類を憎悪するのを目の当たりにし、人間を滅ぼす際の神の怒り、そして神の威厳を見ることで、人間は神の義なる性質の別の側面を見ることができるようになります。これが侮辱への神の不寛容です。反抗を一切甘受することのない神の性質は、あらゆる被造物の想像を超え、非被造物にもその性質を阻んだり干渉したりできるものは存在せず、その性質を模倣したり、偽ったりすることができないのは尚更です。したがって、神の性質のこの側面は、人類が一番よく知るべきものです。この種の性質は神自身のみが持ち、神自身のみがこのような性質を備えています。神がこのような義なる性質を持っている理由は、暗闇、反逆、人間を堕落させ、食いものにするサタンの悪意に満ちた行動を神が嫌悪しているからです。神に反逆するあらゆる罪の行ないを神が嫌悪しているからであり、神の聖なる清い本質のためです。それゆえ、被造物や非被造物が神に堂々と反対したり対抗したりすることを神は甘受しないのです。たとえ、神が一度憐れみを示した人や神が選んだ人でも、神の性質を挑発し、神の忍耐と寛容の原則を犯すだけで、いかなる反抗をも甘受しない義なる性質を神は一切の容赦なく、躊躇なく示すのです。

『神を知ることについて』「唯一無二の神自身 II.」(『言葉』第2巻)

日々の神の御言葉 抜粋 108

神の怒りは、あらゆる正義の力と肯定的な物事を守る (抄出)

侮辱に対する神の不寛容は神のみが持つ本質であり、神の怒りは神特有の性質であり、神の威厳は神のみの本質です。神の怒りの背後にある原則は、神の身分と地位の証明であり、それは神のみが持つものです。この原則もまた唯一無二の神自身を象徴するものであることは、言うまでもありません。神の性質は神自身の固有の本質で、時間の経過とともに変化することも、地理的位置によって変化することもありません。神の固有の性質は、神のみにある本質です。神が誰に働きを行なおうと、神の本質も、神の義なる性質も不変です。誰かが神を怒らせたときに、神が怒りを放つのは、神固有の性質です。このとき、神の怒りの背後にある原則や、神の唯一無二の身分や地位は不変です。神の本質が変化したり、神の性質に異なる要素が生まれたりするために神は怒るのではなく、神が怒るのは、人間の神に対する反抗が神の性質に反するからです。人間の神への目に余る挑発は、神固有の身分と地位に対する深刻な挑戦です。神から見ると、人間が神に挑戦するということは、人間が神と争い、神の怒りを試しているということです。人間が神に反抗し、神と争い、神の怒りを試し続けるのは、罪がはびこるときであり、神の怒りは自然と出現します。したがって、神が怒りを示すのは、あらゆる邪悪な力が滅びること、あらゆる敵対勢力が破壊されるということの象徴です。これが神の義なる性質と、神の怒りの独自性です。神の威厳と聖さが試されたとき、正義の力が阻害され、人間に見えないとき、神は怒りを放ちます。神の本質ゆえに、神と争い、戦い、神に敵対する地上の様々な勢力はすべて邪悪であり、堕落しており不義です。それらはすべてサタンに由来し、サタンに属します。神は正義であり、光であり、完璧に聖であるので、邪悪で堕落しサタンに属するものはすべて神の怒りが発せられると消滅します。

神の怒りの噴出は神の義なる性質を示す側面の一つですが、神の怒りは、その対象について無差別であるとか、無原則であることは決してありません。それとは反対に、神は怒りやすくなく、軽率に怒りや威厳を示すことはありません。さらに、神の怒りはきちんと制御され、調整されています。人間が怒りを爆発させたり、発散させたりするのとは比較になりません。聖書には、人間と神との対話が多く記録されています。対話に関わる人間の一部は、発言が浅薄で、無知で、稚拙ですが、神は彼らを打ち倒すことも、非難することもしませんでした。特に、ヨブの試練の間、ヤーウェ神はヨブの三人の友やその他の人がヨブに言ったことを聞いた後、彼らをどのように扱いましたか。神は彼らを非難しましたか。神は彼らに激怒しましたか。神はそのようなことは一切しませんでした。その代わり、神はヨブに彼らのために祈るよう命じ、神自身は彼らの誤りを気に留めることはありませんでした。これらの例はすべて、神が堕落した無知な人類を扱うおもな姿勢を示しています。したがって、神の怒りの発出は神の気分を示すものでも、神の感情のはけ口でもありません。神の怒りは、人間が考えるような完全なる憤怒の爆発ではありません。神は、気分を制しきれないから、怒りが我慢の限界を超えたので放出しなければならないから怒りを発出させるのではありません。逆に、神の怒りは神の義なる性質を示し、純粋に表現するもので、神の聖なる本質の象徴的な顕示です。神は怒りであり、侮辱されることを容赦しません。これは、神の怒りが原因に無関係ということでも、無原則であるということでもありません。原因に無関係に無原則に手当たり次第に怒りを爆発させるのは、堕落した人類が独占権をもっています。人間がひとたび地位を得ると、気分を制御するのが困難になり、事あるごとに不満を爆発させ、感情を露わにします。自分の力を示し、自分の地位や身分が一般人とは違うことを他人に知らしめるために、明確な理由なく人が激怒することさえ多々あります。もちろん、地位のない堕落した人間も、よく取り乱します。そのような人の怒りは、個人的利益が阻まれたせいで発生する場合が多くあります。自分の地位と尊厳を守るために、彼らはよく感情を発散させ、傲慢な本性を露わにします。人間は、罪の存在を正当化し是認するために突然激怒して感情を露わにします。そうした行動で、人は自分の不満を表すのです。このような行動は汚れや謀略に、人間の堕落と邪悪に、そして何よりも人間の向こう見ずな野心と欲望に満ちています。正義が邪悪と衝突しても、人間が正義を守り是認するために怒りを爆発させることはありません。それとは逆に、正義の勢力が脅威にさらされ、迫害され、攻撃されると、人間の態度は無視、回避、畏縮といったものになります。しかし、邪悪の勢力に対峙すると、人間は迎合し、ぺこぺこ頭を下げるといった態度を取るのです。したがって、人間の怒りの爆発は、邪悪な勢力にとって逃げ道であり、肉なる人間の猛烈で抑制できない邪悪な行動の表出なのです。しかし、神が怒りを示すときは、邪悪な勢力はすべて阻止され、人間を傷つける罪もすべて阻止され、神の働きを阻害する敵意のある勢力が明らかにされ、分離され、呪われます。そして、神に反逆するサタンの僕は罰せられて根絶されます。それらがいなくなると、神の働きは何ものにも阻害されることなく進められ、神の経営(救いの)計画は、予定通り一歩ずつ展開し続けます。神の選民はサタンの妨害や策略から解放され、神に付き従う人は、静寂で平和な環境の中で神の導きと施しを楽しむのです。神の怒りは、あらゆる邪悪の勢力の増大と横行を阻止する防衛手段であり、また義なる肯定的な物事すべての存在を守り、広め、抑圧や破壊から永久に保護する防衛手段です。

『神を知ることについて』「唯一無二の神自身 II.」(『言葉』第2巻)

日々の神の御言葉 抜粋 109

神の怒りは、あらゆる正義の力と肯定的な物事を守る (抄出)

神がソドムを破壊したことに、あなたがたは神の怒りの本質を見ることができますか。神の怒りの中に、別の何かが混ざっていますか。神の怒りは純粋ですか。人間の言葉で言うと、神の怒りは汚染されていませんか。神の怒りの背後に何か策略はありますか。陰謀はありますか。口にできない秘密がありますか。わたしは断固として厳粛に言えます。神の怒りには、人が疑いをもつような部分は含まれていません。神の怒りは純粋で混じり物のない怒りであり、他の意図や目的を含んでいません。神の怒りの背後にある理由は純粋であり、一点の非もなく、非難する余地もありません。それは神の聖なる本質の自然な明示であり、いかなる被造物にもないものです。これは神の唯一無二で義なる性質の一部であり、創造主と被造物の本質における顕著な相違点の一つです。

他人の前で怒ろうと、陰で怒ろうと、人が怒るとき、そこには必ず様々な意図と目的があります。自分の威信を高めようとしている場合、自らの利益を守ろうとしている場合、自分の外聞や面目を保とうとしている場合などがあります。自分の怒りを抑えるようとする人もいれば、まったく抑えようとせず、好きなときに心ゆくまで怒りを露わにする人もいます。つまり、人間の怒りは、その堕落した性質に由来するのです。目的が何であれ、怒りは人間の肉や本性から来るもので、義や不義とは無関係です。なぜなら、人間の本性実質には真理に相当するものが皆無だからです。したがって、堕落した人類の不機嫌と神の怒りを、同じ次元で議論するべきではありません。サタンに堕落させられた人間の行動は、例外なく堕落を保護したいという願望から始まり、堕落に基づいています。だから、人間の怒りと神の怒りは、人間の怒りが理論上どれほど妥当であるように思われようと、同じ次元で議論すべきではありません。神が怒りを示すとき、邪悪な勢力が阻止され、邪悪な物事が破壊される一方、義であり肯定的な物事は、神の慈しみと保護を与えられ、存続することが許されます。神が怒りを伝えるのは、不義で否定的で邪悪な物事が、正義で肯定的な物事の通常の活動と発達を妨害し、攪乱し、破壊するからです。神の怒りの目的は神自身の地位や身分を守るためではなく、義であり、肯定的であり、美しく善なるもの、そして人類の正常な生存の掟と秩序を守るためです。これが神の怒りの根本的な原因です。神の怒りは極めて適切で、自然であり、神の性質の真の明示です。神の怒りには、隠れた意図がなく、虚偽や策略もなく、欲望も狡猾さも悪意も暴力も邪悪も、その他の堕落した人類に共通する特徴も一切存在しません。怒りを伝える前に、神はすでにあらゆる物事の実質を極めて明瞭かつ完全に把握しており、また正確かつ明瞭な定義と結論を導き出しています。それゆえ、神のあらゆる業の目的は、神の姿勢と同様、極めて明確です。神の心に混乱はなく、神は盲目でも、衝動的でも、軽率でもなく、そしてなによりも無原則ではありません。これが神の怒りの実践的側面であり、この側面のため、人類は普通の存在を達成したのです。神の怒りがなければ、人類は異常な生活条件へと陥り、義であり、美しく善良なものはすべて破壊され、消滅するでしょう。神の怒りなくしては、被造物のための生存の掟と法則は破壊され、完全に転覆されることさえあるでしょう。人間が造られて以来、神は義の性質により人類の正常な生活を守り維持し続けています。神の義なる性質に怒りと威厳が含まれているため、邪悪な人や物事、人類の普通の生活を阻害し損なうあらゆるものが、神の怒りによる罰を受け、制限され、破壊されます。過去数千年間にわたり、神は義なる性質により、神の人類経営において神に反抗しサタンの僕や手先として行動するあらゆる不浄な悪霊を倒し、破壊し続けてきました。このように、人類を救う神の働きは、常に神の計画に従って進行してきました。つまり、神の怒りの存在のおかげで、人間による最も義なる営みは破壊されたことがないのです。

『神を知ることについて』「唯一無二の神自身 II.」(『言葉』第2巻)

日々の神の御言葉 抜粋 110

人道的で正しく、道徳的に見えても、サタンの本質は残忍かつ邪悪である

サタンは人を騙すことで評判を確立します。サタンは正義の先導者的かつ模範的存在としての立場を確立することがよくあります。正義を守ると見せかけて、サタンは人間を傷つけ、その魂を食い物とし、人間を麻痺させ、騙し、扇動するためにあらゆる手段を講じます。サタンの目標は、サタンの邪悪な行いを人間に認めさせ、それに従わせること、サタンが神の権威と統治に反対するのに人間を参加させることです。しかし、人間がサタンの陰謀や策略、下劣な顔つきを見通し、サタンの踏み台にされ、騙され、奴隷として仕え、サタンと共に罰を受けて滅ぼされることを望まなくなると、サタンはそれまでの聖人づらを一変させ、仮面を破り捨て、真の邪悪で残忍で醜く野蛮な素顔を現します。サタンに従うことを拒み、その邪悪な勢力に反対する者すべてを皆殺しにすることほどサタンが好むことはありません。この段階で、サタンは信頼のおける紳士的姿を装うことはできず、羊の皮の下の醜い悪魔のような正体があらわになります。ひとたびサタンの陰謀が明るみに出て、その真の特徴が暴露されると、サタンは激怒して野蛮さを現します。その後、人間を傷つけ、食い物にするサタンの欲望は強くなるばかりです。これは、人間が真理に目覚めると、サタンは激怒し、捕らわれの身から解き放たれて自由と光を得ようとする人間に強い復讐の念をもつようになるからです。サタンの怒りはその邪悪さを正当化し保護するためであり、それはまたサタンの野蛮な性質を真に暴露しています。

万事においてサタンの振る舞いはその邪悪な本性をさらしています。サタンが人間を惑わせて自分に従わせようとする初期の取り組みから、邪悪な行ないに人間を引きずり込むサタンによる人間の搾取、サタンの真の姿が暴かれ、人間がそれに気づきサタンを見捨てた後のサタンの復讐の念まで、サタンが人間に行なうあらゆる邪悪な行ないのうち、サタンの邪悪な本質が露わにならないものも、サタンが肯定的な物事と無関係で、あらゆる邪悪なものの根源であることを証明しないものもありません。サタンの行動はすべてサタンの邪悪さを守り、サタンの邪悪な行ないを継続させ、正しく肯定的な物事に反し、人類の普通の存在の法則や秩序を破綻させます。サタンのこのような行ないは神への敵意であり、神の怒りに滅ぼされます。サタンにはサタンの怒りがあるものの、それはサタンの邪悪な本性を発散させる手段でしかありません。サタンが憤慨し、激怒する理由は、そのおぞましい陰謀が暴露され、策略がうまく行かず、神の代わりとして君臨するというサタンの向こう見ずな野心と欲望が打ち砕かれ、阻止され、全人類を支配するという目標が今や無となり、永遠に達成の見込みがなくなったからです。サタンの陰謀が結実することや、サタンの邪悪が拡散するのを阻止してきたのは、神が度々奮い起こしてきた怒りです。そのため、サタンは神の怒りを嫌うと同時に恐れています。神の怒りが下るたびに、サタンの下劣な真の姿が明らかになるだけでなく、サタンの邪悪な願望も明らかにされ、その過程で人類に対するサタンの怒りの理由が白日の下にさらされます。サタンの激昂は、その邪悪な本性と謀略が真に明示されたものです。もちろん、サタンが激怒するたびに、邪悪なものが破壊され、肯定的なものが保護され維持されることが告知されます。それは、神の怒りは犯すことが許されないという真理が告知されるのです。

『神を知ることについて』「唯一無二の神自身 II.」(『言葉』第2巻)

日々の神の御言葉 抜粋 111

神の義の性質を知るために経験や想像に依存してはならない

神の裁きと刑罰に直面したら、あなたは神の言葉は汚れていると言いますか。神の怒りの背後にはいわくがあり、神の怒りは汚れていると言いますか。神の性質は必ずしも完全に義ではないと言って、神を中傷しますか。神の行ないの一つひとつに対処するとき、神の義なる性質にはその他の要素がなく、聖であり完璧であることを確信していなければなりません。そのような行ないには、神による攻撃、罰、人類の破壊などが含まれます。神の行ないの一つひとつは例外なく、神が本来持っている性質と神の計画に厳密に従って行なわれ、これには人類の知識や伝統、哲学は含まれません。神の行ないは、それぞれが神の性質と本質を表出するもので、堕落した人類に属する一切のものと無関係です。人類には、完璧で、純粋で、聖なるものは、神の人類への愛、憐れみ、寛容さだけだという観念があり、神の怒りと憤りも同様に純粋であることを知る人はいません。さらに、神が決して侮辱を甘受しないのはなぜか、神の怒りがそこまで甚大なのはなぜか、といった疑問について誰も考えません。それどころか、神の怒りを堕落した人類の態度である不機嫌と同一視し、堕落した人類の怒りと同じであると思い込みます。さらには神の怒りは堕落した人の性質の自然な表出と同じであり、神の怒りが発生するのは、気に入らない状況に直面したときの堕落した人類の怒りと同様であり、神の怒りが発生するのは神の気分の表出であると考えていることさえあります。この交わりの後には、あなたがたの一人ひとりが、神の義なる性質について誤解や想像や仮定をしていないこと、わたしの話を聴いた後、神の義なる性質である怒りを心の中で真に認識していること、神の怒りについてのこれまでの誤った考えを捨てること、神の怒りの本質に関する自分の誤った思い込みや見方を変えることができることを願います。さらに、あなたがたが神の性質の正確な定義を心に持ち、もはや神の義なる性質について疑念を抱かず、神の真の性質に人間的な論法や想像を押し付けないことを願います。神の義なる性質は、神自身の真の本質です。それは人間が書き綴ったり形作ったりしたものではありません。神の義なる性質は、神の義なる性質であり、被造物とは何の関係もつながりもありません。神自身は、神自身です。神が被造物の一部となることは決してなく、神が被造物の一員となったとしても、神が本来持っている性質と本質は不変です。したがって、神を知ることは、物を知ることではないのです。神を知ることは何かを分解することでも、人を理解することでもありません。神を知るために、物や人を知る概念や方法を用いるならば、神に関する認識を得ることは不可能です。神を知ることは、経験や想像に依存することではなく、したがって神に自分の経験や想像を押し付けてはなりません。どれほど豊かな経験や想像があったとしても、それには限界があります。さらに、想像は事実に対応するものではなく、ましてや真理に対応するものではなく、神の真の性質と本質とは相容れないものです。神の本質を理解するために想像に依存したなら、成功することはありません。唯一の方法は、神から来るものすべてを受け容れ、徐々に経験し、理解することです。あなたが協力し、真理への飢えや渇きがあれば、ある日、あなたが真に神を理解し、知ることができるように、神があなたを啓きます。

『神を知ることについて』「唯一無二の神自身 II.」(『言葉』第2巻)

日々の神の御言葉 抜粋 112

人類は真摯な悔い改めにより神の憐れみと寛容を得る (抄出)

ニネベに届いたヤーウェ神の警告

次の聖句、ヨナ書3章に進みましょう。「ヨナはその町にはいり、初め一日路を行きめぐって呼ばわり、『四十日を経たらニネベは滅びる』と言った」は、神がニネベの人々に伝えるために直接ヨナに託した言葉です。つまり、当然ながら、ヤーウェがニネベの人々に伝えたかった言葉です。この言葉は、ニネベの人々の悪が神の目に触れたため、神は彼らを嫌悪し憎むようになり、ニネベを滅ぼすことを望んでいると人々に伝えています。しかし、ニネベを滅ぼす前に、神はニネベの人々にその旨を通知すると同時に、彼らに悪を悔い改め、やりなおす機会を与えます。この機会は四十日間で、それ以上は続きません。つまり、彼らが四十日以内に悔い改めて罪を認め、ヤーウェ神の前にひれ伏さなかったなら、神はニネベの町をソドムと同様に滅ぼそうというのです。これがヤーウェ神がニネベの人々に伝えたかったことです。明らかに、これは単なる宣告ではありませんでした。これはヤーウェ神の怒りを伝えるのみならず、ニネベの人々へのヤーウェ神の姿勢も伝えており、同時にニネベの町で暮らす人々への厳粛な警告ともなっていました。この警告は、ニネベの町の人々の悪がヤーウェ神の嫌悪を買うに至り、その悪業ゆえに彼らは程なくして滅びの危機に見舞われることを伝えました。したがって、彼らは生命の危機に瀕していたのです。

ヤーウェ神の警告に対するニネベとソドムの反応の明らかな相違点

「滅びる」とはどういう意味ですか。日常的な言い方をすれば、「もういなくなる」ということです。しかし、どのようにしてですか。一体誰が一つの町全体を滅ぼすことができるのでしょうか。当然、そのようなことは人間には不可能でしょう。ニネベの人々は愚かではなかったので、この宣告を聞いてすぐにその旨を理解しました。彼らは宣告が神から来たこと、神が業を行なうつもりであること、自分たちの邪悪さがヤーウェ神の怒りに触れ、その怒りが自分たちに向けられ、それゆえ程なくして自分たちがニネベの町とともに滅ぼされるであろうことを理解しました。ヤーウェ神の警告を聞いた後、ニネベの人々はどのように行動しましたか。聖書では、王から一般人まで、ニネベの人々がどのように反応したかが詳細に記載されています。聖書にはこうあります。「そこでニネベの人々は神を信じ、断食をふれ、大きい者から小さい者まで荒布を着た。このうわさがニネベの王に達すると、彼はその王座から立ち上がり、朝服を脱ぎ、荒布をまとい、灰の中に座した。また王とその大臣の布告をもって、ニネベ中にふれさせて言った、『人も獣も牛も羊もみな、何をも味わってはならない。物を食い、水を飲んではならない。人も獣も荒布をまとい、ひたすら神に呼ばわり、おのおのその悪い道およびその手にある強暴を離れよ。……』」(ヨナ書 3:5-9)

ヤーウェ神の宣告を聞いた後、ニネベの人々はソドムの人々とは正反対の態度を取りました。ソドムの人々は堂々と神に反抗し、邪悪を重ねましたが、ニネベの人々は宣告を聞いた後、それを無視することも反抗することもありませんでした。それどころか、彼らは神を信じ、断食を宣言しました。ここで「信じた」とは何を意味しますか。この言葉自体は、信仰と服従を思わせます。ニネベの人々が実際に見せた振る舞いで説明すれば、彼らは神は言葉通りのことを行うことができ、またそうするであろうと信じ、悔い改めることを望んだ、という意味です。彼らは喫緊の災いに瀕して恐れを感じましたか。彼らの心が恐れたのは、信仰のためです。彼らの信仰と恐れは、何によって証明することができますか。それは聖書にある通りです。すなわち、「……断食をふれ、大きい者から小さい者まで荒布を着た」のです。つまり、ニネベの人々には真の信仰があり、その信仰から恐れが生まれ、それゆえに彼らは断食と荒布の着用を行ないました。こうして彼らは悔い改めの開始を示しました。ソドムの人々とは全く対照的に、ニネベの人々は神に反抗しなかっただけでなく、自分たちの振る舞いと行動により悔い改めを明示しました。もちろん、これはニネベの町中の住民が行なったことで、一般人だけでなく、王も例外ではなかったのです。

ニネベの王が悔い改めたので、ヤーウェ神は称賛した

ニネベの王が知らせを聞いたとき、王は王座から立ち上がって朝服から荒布に着替え、灰の中に座りました。そして王は、町の人々全員に、全員何をも味わってはならない、そして家畜、羊、牛も物を食い、水を飲んではならない、と宣言しました。人間も家畜も同様に荒布を身にまとい、人々は熱心に神に懇願しました。また王は、各人が悪の道を離れ、その手にある強暴を捨てよ、と宣言しました。このような一連の行動から判断すれば、ニネベの王は心から悔い改めていました。王座から立ち上がり、朝服から荒布に着替え、灰の中に座るという、王が取った一連の行動は、ニネベの王が王という身分を脇へやり、一般人と同様に荒布をまとったということです。これは、ヤーウェ神の宣告を聞いた後、ニネベの王は王位において邪悪な行いやその手で暴力を続けず、むしろ王の権威を脇へやり、ヤーウェ神の前で悔い改めた、ということです。このとき、ニネベの王は王として悔い改めたのではなく、神の普通の臣民として悔い改め罪を告白するために神の前に来たのです。その上、王は、自分と同じようにヤーウェ神の前で悔い改めて罪を告白するように町全体に命じました。さらに、聖書にある通り、どのように悔い改めるかについて、王は具体的に決めていました。それは、「人も獣も牛も羊もみな、何をも味わってはならない。物を食い、水を飲んではならない。……ひたすら神に呼ばわり、おのおのその悪い道およびその手にある強暴を離れよ」でした。町の支配者として、王には最高の地位と権力があり、何でも思う通りにできました。ヤーウェ神の宣言を聞いた王は、それを無視したり、自分だけが悔い改めて罪の告白をしたりすることもできたはずです。町の人々が悔い改めるか否かについて、王は完全に無視することもできたはずです。しかし、王はそのようなことを一切しませんでした。王は、王座から立ち上がり、荒布を身にまとって灰の中に座ってヤーウェ神の前で悔い改め罪を告白しただけでなく、町の人々全員、家畜のすべてが王と同様にするよう命じました。王は人々に「ひたすら神に呼ばわり」とさえ命じました。これら一連の行動により、ニネベの王は支配者が真に達成すべきことを達成したのです。王が取った一連の行動は、人類史上においてどの王にとっても困難なことであり、他に同様のことを成し遂げた王はいませんでした。これらの行動は、人類史上で前例のないことであったと言え、称賛され、人類が倣う価値のあることです。人類の黎明以来、王は皆、臣民が神に抵抗し、反対するように導いていました。それまで、それぞれの悪に対して神に贖いを求めるよう臣民を祈らせ、ヤーウェ神の赦しを得て、喫緊の罰を免れるように導いた王はいませんでした。しかしニネベの王は、その臣民に、神に立ち返り、各人が悪の道を離れ、その手にある強暴を捨てるように導くことができました。加えて、ニネベの王は自らの王位を脇へやることができ、そのためヤーウェ神は思い直して後悔し、怒りを撤回し、ニネベの町の人々が滅びを免れ、生き残ることができるようにしました。ニネベの王の行動は、人類史上希にみる奇跡というほかなく、また、堕落した人類が神の前で悔い改め罪の告白を行なった模範とさえ呼べます。

『神を知ることについて』「唯一無二の神自身 II.」(『言葉』第2巻)

日々の神の御言葉 抜粋 113

ヨナ書3章 時にヤーウェの言葉は再びヨナに臨んで言った、「立って、あの大きな町ニネベに行き、あなたに命じる言葉をこれに伝えよ」。そこでヨナはヤーウェの言葉に従い、立って、ニネベに行った。ニネベは非常に大きな町であって、これを行きめぐるには、三日を要するほどであった。ヨナはその町にはいり、初め一日路を行きめぐって呼ばわり、「四十日を経たらニネベは滅びる」と言った。そこでニネベの人々は神を信じ、断食をふれ、大きい者から小さい者まで荒布を着た。このうわさがニネベの王に達すると、彼はその王座から立ち上がり、朝服を脱ぎ、荒布をまとい、灰の中に座した。また王とその大臣の布告をもって、ニネベ中にふれさせて言った、「人も獣も牛も羊もみな、何をも味わってはならない。物を食い、水を飲んではならない。人も獣も荒布をまとい、ひたすら神に呼ばわり、おのおのその悪い道およびその手にある強暴を離れよ。あるいは神はみ心をかえ、その激しい怒りをやめて、われわれを滅ぼされないかもしれない。だれがそれを知るだろう」。神は彼らのなすところ、その悪い道を離れたのを見られ、彼らの上に下そうと言われた災を思いかえして、これをおやめになった。

神はニネベの人々の心に真摯な悔い改めを認めた

神の宣告を聞いた後、ニネベの王と臣民たちは一連の行動を取りました。彼らの行動と振る舞いの特性は何でしたか。言い換えるなら、彼らの行動全体における真髄は何でしたか。彼らはなぜそのような行動を取ったのですか。神の目には、ニネベの人々は真摯に悔い改めたと映りました。それは彼らが神に心から誓願し罪を告白しただけでなく、自分たちの悪の行いも捨てたからです。彼らがこのような行動を取ったのは、神の言葉を聞いた後、大いに恐れ、神が言葉通りの業を行うものと信じたからです。断食して粗布をまとい、灰の中に座ることで、彼らは自分たちのあり方を改めて悪から離れる決意を示し、ヤーウェ神に怒りを静めるよう祈り、裁きと差し迫った災いの取消を求めました。ニネベの人々のすべての行動を検討すると、彼らのこれまでの邪悪な行動がヤーウェ神により嫌悪されていたことも、ヤーウェが自分たちを間もなく滅ぼす理由も彼らはすでに理解していたことがわかります。そのため、ニネベの人々全員が完全に悔い改め、悪の道を離れ、その手から強暴を捨てることを望んだのです。換言すると、ニネベの人々がひとたびヤーウェ神の宣言に気づくと、彼らの一人ひとりが心に恐怖を覚え、悪の道を離れて、ヤーウェ神が嫌悪する行動を続けることを止めました。さらに、彼らはこれまでの罪が赦されることと、これまでの行動に基づいて彼らを処分しないことをヤーウェ神に誓願しました。ニネベの人々は二度と悪に関わらず、ヤーウェ神の怒りを買わないようにすることが可能ならば、ヤーウェ神の指示に従って行動するのをいといませんでした。彼らの悔い改めは真摯で、徹底していました。それは彼らの心から出たものであり、偽りでも一時的なものでもなかったのです。

ひとたび王から臣民までニネベ人全員が、ヤーウェ神が自分たちに怒りを覚えていることを知ると、彼らのその後のあらゆる行動、あらゆる判断や選択は、神の目に明らかなものになりました。ニネベの人々の振る舞いに従い、神の心は変わりました。この時点で神の心情はどのようなものでしたか。その答えは聖書に記されています。聖書には、「神は彼らのなすところ、その悪い道を離れたのを見られ、彼らの上に下そうと言われた災を思いかえして、これをおやめになった」(ヨナ書 3:10)とあります。神は思い直したものの、神の心情に複雑なものは一切ありませんでした。神はただ怒りの伝達から怒りの鎮静へと移行し、ニネベに災いを下さないと決めただけです。神がニネベに災いを下さないと迅速に決断したのは、神がニネベの人々すべての心を観察したからです。神は彼らの心底にあったもの、すなわち真摯な悔い改めと罪の告白、ヤーウェ神への真摯な信仰、自分たちの悪行がいかに神の性質の怒りを買ったかということの深い意識、それゆえのヤーウェ神による間近に迫った罰への恐れを見ました。同時に、災いを免れることができるようにヤーウェ神に自分たちへの怒りを静めるよう誓願するニネベの人々の心底からの祈りをヤーウェ神は聞いたのです。これらの事実を観察したとき、神の怒りは徐々に静まりました。神の怒りがそれまでどれほど激しかったにせよ、人々の心底からの真摯な悔い改めに神の心は動かされ、彼らに災いをもたらすことに耐え兼ね、彼らへの怒りを静めました。その代わりに、神はニネベの人々に続けて憐れみと寛容さを示し、導き、施し続けました。

『神を知ることについて』「唯一無二の神自身 II.」(『言葉』第2巻)

日々の神の御言葉 抜粋 114

ヨナ書3章 時にヤーウェの言葉は再びヨナに臨んで言った、「立って、あの大きな町ニネベに行き、あなたに命じる言葉をこれに伝えよ」。そこでヨナはヤーウェの言葉に従い、立って、ニネベに行った。ニネベは非常に大きな町であって、これを行きめぐるには、三日を要するほどであった。ヨナはその町にはいり、初め一日路を行きめぐって呼ばわり、「四十日を経たらニネベは滅びる」と言った。そこでニネベの人々は神を信じ、断食をふれ、大きい者から小さい者まで荒布を着た。このうわさがニネベの王に達すると、彼はその王座から立ち上がり、朝服を脱ぎ、荒布をまとい、灰の中に座した。また王とその大臣の布告をもって、ニネベ中にふれさせて言った、「人も獣も牛も羊もみな、何をも味わってはならない。物を食い、水を飲んではならない。人も獣も荒布をまとい、ひたすら神に呼ばわり、おのおのその悪い道およびその手にある強暴を離れよ。あるいは神はみ心をかえ、その激しい怒りをやめて、われわれを滅ぼされないかもしれない。だれがそれを知るだろう」。神は彼らのなすところ、その悪い道を離れたのを見られ、彼らの上に下そうと言われた災を思いかえして、これをおやめになった。

神への信仰が真実であれば、頻繁に神の労りを受けられる

ニネベの人々への神の意図の変化には、躊躇や曖昧さが一切含まれていません。むしろ、それは純粋な怒りから、純粋な寛容への変化でした。これは神の本質の真の明示です。神はその行ないにおいて、優柔不断であることや躊躇することが決してありません。神の行ないの背後にある原則と目的はすべて明白かつ透明、純粋で完璧であり、その中に策略や陰謀は一切潜んでいません。つまり、神の本質には闇や邪悪が一切含まれていないのです。ニネベの人々の悪の行いが目に留まったため、神は彼らに怒りを覚えました。このとき、神の怒りは神の本質に由来していました。しかし、神の怒りが消え、ニネベの人々に再び寛容を見せたときに神が明示したものも、やはりすべて神の本質でした。この変化は、すべて人間の神に対する姿勢の変化に起因しました。この間、侵害を許さない神の性質も、神の寛容な本質も、神の愛と憐れみに満ちた本質も変わりませんでした。人が邪悪な行動を取り、神を侵害すると、神はその人に神の怒りを下します。人が真に悔い改めれば、神の心は変化し、神の怒りは静まります。人が頑なに神に反抗し続けると、神の怒りは静まらず、神の激しい怒りは徐々にその人に迫り、最終的にその人は滅びます。これが神の性質の本質です。神が表しているのが怒りであれ、憐れみと慈愛であれ、人間の行動や振る舞い、そして心底にある神への態度が、神の性質の明示において何が表されるかを左右します。神がある人に怒り続けているならば、その人の心は間違いなく神に反抗しています。その人は真に悔い改めたことも、神の前で頭を下げたこともなく、神への真の信仰を持ったこともないため、神の憐れみと寛容を得たことがありません。ある人が神の労りや憐れみ、寛容を頻繁に受けているのなら、その人の心には間違いなく神への真の信仰があり、その心は神に反抗していません。その人はしばしば神の前で正直に悔い改めるので、その人にしばしば神の懲らしめが下ったとしても、神の怒りが下ることはありません。

この簡潔な記述により、人は神の心、神の本質の現実性を見て、神の怒りと神の心の変化には理由があるということを理解できるようになります。神が怒っていたときと心を変えたときに見せた際立った違いにより、神の怒りと寛容という神の本質の二側面には大きな隔たりや違いがあると人々は考えます。しかし、ニネベの人々の悔い改めへの神の姿勢に、神の真の性質の別の側面を人は見ることができます。神の心の変化により、人は神の憐れみと慈愛の真実を再び見、神の本質が真に明示されるのを見ることができます。人間は、神の憐れみと慈愛が単なる神話でも虚構でもないということを認めるほかありません。それは、その時点での神の感情、神の心の変化は真実であり、神はまさしく憐れみと寛容を再び人間に与えたからです。

『神を知ることについて』「唯一無二の神自身 II.」(『言葉』第2巻)

日々の神の御言葉 抜粋 115

ヨナ書3章 時にヤーウェの言葉は再びヨナに臨んで言った、「立って、あの大きな町ニネベに行き、あなたに命じる言葉をこれに伝えよ」。そこでヨナはヤーウェの言葉に従い、立って、ニネベに行った。ニネベは非常に大きな町であって、これを行きめぐるには、三日を要するほどであった。ヨナはその町にはいり、初め一日路を行きめぐって呼ばわり、「四十日を経たらニネベは滅びる」と言った。そこでニネベの人々は神を信じ、断食をふれ、大きい者から小さい者まで荒布を着た。このうわさがニネベの王に達すると、彼はその王座から立ち上がり、朝服を脱ぎ、荒布をまとい、灰の中に座した。また王とその大臣の布告をもって、ニネベ中にふれさせて言った、「人も獣も牛も羊もみな、何をも味わってはならない。物を食い、水を飲んではならない。人も獣も荒布をまとい、ひたすら神に呼ばわり、おのおのその悪い道およびその手にある強暴を離れよ。あるいは神はみ心をかえ、その激しい怒りをやめて、われわれを滅ぼされないかもしれない。だれがそれを知るだろう」。神は彼らのなすところ、その悪い道を離れたのを見られ、彼らの上に下そうと言われた災を思いかえして、これをおやめになった。

ニネベの人々の心からの真の悔い改めが神の憐れみを得て、滅びの運命を変える

神の心の変化と怒りには何か矛盾がありましたか。もちろん、ありませんでした。それは、そのときの神の寛容には理由があったからです。どのような理由ですか。それは聖書に記されています。聖書には、「おのおのその悪い道およびその手にある強暴を離れよ」とあります。

この「悪い道」は、数件の悪業ではなく、人々の振る舞いの邪悪な起源を指します。「その悪い道を離れる」とは、ニネベの人々が二度とそうした行為をしない、ということです。つまり、彼らは二度と邪悪な行動をせず、行動の方法、根源、目的、意図、原則をすべて変え、自分たちの心に楽しみと幸福をもたらすために、そのような方法や原則を二度と使用しない、ということです。「その手にある強暴を離れよ」の「離れ」とは、過去を破棄し、捨て去り、完全に断ち切って、二度と戻らないことを意味します。ニネベの人々がその手から強暴を捨て去ったということは、彼らの真の悔い改めを証明し、表しています。神はニネベの人々の外観とともに、心も観察します。神がニネベの人々の心に異論の余地のない真の悔い改めを確認し、また彼らが悪の道を離れ、その手から強暴を捨て去ったことを観察したとき、神は心を変えました。つまり、彼らの行動、振る舞い、様々な行ないの方法、そして真の罪の告白と悔い改めが、神にその心、意図を変えさせ、決断を撤回させ、ニネベの人々を罰することも滅ぼすこともしなかったのです。したがって、ニネベの人々は違う結末を迎えることができました。彼らは自分たちの命を取り戻すと同時に、神の憐れみと寛容を獲得し、この時点で、神は自身の怒りを撤回したのです。

希なのは神の憐れみと寛容でなく、人間の真の悔い改めである

神のニネベの人々への怒りがどれほどであったかにかかわらず、彼らが断食を宣言して粗布と灰を身に付けるとすぐに、神の心は軟化し、変化し始めました。神が彼らにニネベを破壊すると宣言したとき、つまり彼らの罪の告白と悔い改めの前には、神は依然として怒っていました。ニネベの人々がひとたび一連の悔い改めの行動を取ると、神の彼らへの怒りは、憐れみと寛容へと次第に変化していきました。一件の出来事において、神の性質の二側面が同時に明らかになることには、何ら矛盾はありません。では、この矛盾の不在をどのように理解し、認識するべきですか。ニネベの人々が悔い改めるにつれ、神は極端に対照的な二つの本質を続けて表出、明示し、これにより神の本質の現実性と不可侵性を人は理解することができます。神はその姿勢を通して人に伝えていたことがあります。それは、神は人間に対して寛容でないのではなく、また人に憐れみを与えたくないのでもなく、人が神の前で真に悔い改め、悪の道を離れ、その手から強暴を捨てることは極めて希だ、ということです。つまり、人間に対して怒っているとき、神は人間が真に悔い改めること、人間の真の悔い改めを見ることを望んでおり、そうなれば、神は憐れみや寛容を人間に引き続き寛大に与えるということです。すなわち、人間の邪悪な行動が神の怒りを招くのに対し、神の憐れみと寛容は、神の言葉を聞き、神の前で真に悔い改め、悪の道を離れ、強暴をその手から捨てることができる人に与えられるということです。ニネベの人々の扱い方には、神の姿勢が極めてはっきりと明示されていました。つまり、神の憐れみと寛容を得ることはまったく困難ではなく、神は人に真の悔い改めを要求するということです。人々が悪の道を離れ、強暴をその手から捨てるかぎり、神は自身の心と人への態度を変えるのです。

『神を知ることについて』「唯一無二の神自身 II.」(『言葉』第2巻)

日々の神の御言葉 抜粋 116

創造主の義なる性質は現実的で生き生きとしている

神がニネベの人々に対して心を変えたとき、神の憐れみと寛容は見せかけでしたか。もちろん、見せかけではありません。それでは、神がこの一つの状況に対処しながら、その性質の二側面の一方から他方へと推移したことは何を示していますか。神の性質は完成した一つの統一体であり、一切分割されていません。神が人に表しているのが怒りであろうと、憐れみと寛容であろうと、それらはすべて神の義なる性質の表出です。神の性質は生気にあふれており、生き生きとしていて、神は事態の展開に応じて、その思いと態度を変えます。ニネベの人々に対する神の態度が変わったことで、神には自身の思いと考えがあることが人間にわかります。神は機械でも粘土細工でもなく、生きている神自身なのです。神がニネベの人々に対して怒ることもあれば、彼らの態度ゆえに彼らの過去を赦すこともありえます。神はニネベ人に災いを起こすと決定することもできれば、ニネベ人の悔い改めゆえに、その決定を変更することもできました。人は規則を機械的に適用することを好み、そのような規則を用いて神を限定し、定義したがります。ちょうど、公式を当てはめて神の性質を理解したがるのと同じです。したがって、人間の考えの範囲内では、神は思考することがなく、実質的な考えを持っていません。しかし現実では、神の思いは、物事や環境の変化に伴い、常に変化しています。神の思いが推移しているとき、神の本質の様々な側面が現れます。この推移の過程において、心を変えた瞬間に神が人類に示すのは、神のいのちが実在していることと、神の義なる性質が活発な生命力にあふれていることです。同時に、神は自身の真の明示により、神の怒り、憐れみ、慈悲、寛容が存在する真実を人間に証明します。神の本質は、物事の展開にしたがっていつでも、どこでも明示されます。神には、獅子の怒りと母の憐れみと寛容があります。神の義なる性質は、誰かがそれを疑うこと、侵害すること、変更すること、ゆがめることを許しません。神の義なる性質、すなわち神の怒りと憐れみは、時間と場所を問わず、あらゆる物事において表出されることができます。神はこうした側面をありとあらゆる場所で鮮明に表出し、あらゆる瞬間に、それを鮮明に実行します。神の義なる性質は、時間や場所に制限されません。つまり、神の義なる性質は、時間と場所の制約に支配されて機械的に表出されたり明示されたりするのではなく、いつでも、どこでも、自由に表出、明示されるのです。神が心を変えて怒りを表出しなくなり、ニネベの町を滅ぼさなかったのを見て、神は単に憐れみ深く、愛情があるのだ、と言えますか。神の怒りは空虚な言葉から成ると言えますか。神が激しい怒りを表わし、憐れみを撤回するとき、神は人類に真の愛を感じていないと言えますか。神は人々の邪悪な行いに対して激しい怒りを表したのであり、神の怒りには何ら欠陥はありません。神の心は人々の悔い改めに動かされます。神の心を変化させるのは、この悔い改めです。神が感動し、心を変化させ、人間への憐れみや寛容を見せるとき、これらにはまったく欠陥がありません。これらは清く、純粋で汚れのないものです。神の寛容はそれそのもの、寛容であり、神の憐れみは憐れみ以外の何物でもありません。神の性質は、人間の悔い改めと行動の変化に従って、怒り、憐れみ、寛容を示します。神が何を明らかにし、何を表現しようと、それはすべて純粋で直截です。その本質はいかなる被造物のそれとも違っています。神がその行動の根底にある原則を表現するとき、そこには一切の欠陥も汚れもなく、それは神の思い、考え、神が下す判断の一つひとつ、取る行動の一つひとつも同じです。神がそのように判断し行動したのですから、神はそのように自身の業を全うします。その結果は正確かつ完璧です。なぜならその源には欠陥も汚れもないからです。神の怒りは、完璧です。同様に、いかなる被造物も持っていない神の憐れみや寛容は聖なるもので、完璧であり、いかなる議論にも経験にも耐えうるものです。

ニネベの物語について理解したところで、あなたがたには今、神の義なる性質の実質における別の側面が見えますか。神独自の義なる性質の別の側面が見えますか。人類の誰かがこうした性質を持っていますか。このような怒り、神の怒りを誰かが持っていますか。神のような憐れみや寛容を誰かが持っていますか。被造物のなかで、これほど大きな怒りを奮い起こし、人類を滅ぼしたり、災いをもたらしたりすることを決めることができるものがいますか。また、人間に憐れみ、寛容、赦しを与え、よって人間を滅ぼす決断を覆す資格を誰が持っていますか。創造主はその固有の方法と原則に従って義なる性質を示し、人、出来事、物による支配や制限を受けません。神の固有の性質のため、神の思いや考えを変えることは誰にもできず、また神を説得してその決断を変えさせることも誰にもできません。被造物のもつ行動や考えはすべて、神の義なる性質による判断のもとに存在するのです。神が怒るか、それとも憐れみをかけるかは、誰にも支配できません。それを決定できるのは、創造主の本質、つまり創造主の義なる性質のみです。これが創造主の義なる性質が有する唯一無二の特徴です。

ニネベの人々に対する神の態度の変化を分析すると、神の義なる性質に含まれる憐れみを、「唯一無二」という言葉で形容することができますか。神の怒りは神独特の義なる性質の本質における一側面であると先に述べました。ここで、神の怒りと憐れみという二側面を義なる性質として定義します。神の義の性質は聖であり、侵害されることも、疑われることも容赦しません。被造物にも非被造物にも、その性質を持つ物は存在しません。それは神に固有で、限定されたものです。つまり、神の怒りは聖であり、侵害不可能だということです。同様に、神の義なる性質のもうひとつの側面である神の憐れみもまた聖であり、侵害不可能です。被造物や非被造物で、神の業において神の代理となれるものは皆無であり、ソドムの破壊やニネベの救済において神の代理となることができるものも皆無です。これが神の唯一無二で義なる性質の真の表出です。

『神を知ることについて』「唯一無二の神自身 II.」(『言葉』第2巻)

日々の神の御言葉 抜粋 117

創造主の人類への真摯な思い

人は神を知ることは簡単ではないとよく言いますが、わたしは、神を知ることは全然困難なことはないと言います。なぜなら神は人間にその業を頻繁に見せているからです。神は人類との対話を止めたことはなく、人間から隠れたことも、人間に知られないようにしようとしたこともありません。神の思い、考え、業はすべて人類に明かされています。したがって、人間が神を知りたいと望む限り、あらゆる方法で人間は神を知ることができます。神が人間を意図的に避け、人類から隠れてきた、神には人間が神を理解し知るようになることを許すつもりがない、などと人間が盲目に考える理由は、人間は神が誰なのかを知らず、神を知りたいとは思っていないからです。そして何よりも、人間は創造主の思い、言葉、業などに無関心だからです……。本当のところを述べると、もし誰かが余暇に創造主の言葉や業に注目して理解しようとし、創造主の思いと、その心の声にほんの少し注意を払ったならば、神の思い、言葉、業は見ることができ、明瞭なものであることに気付くのは困難ではありません。同様に、創造主は常に人間のそばにいて、人間や被造物すべてと会話し、新たな業を毎日行なっていることに気付くのに、努力はそれほど必要とされません。神の本質と性質は、神と人間との対話の中に表出され、神の思いと考えは、神の業に完全に明示されています。神は常に人類と共にあり、人類を見守っています。神は人間や被造物のすべてに、「わたしは天にあり、万物の中にある。わたしは見守り、待っている。わたしはあなたの傍らにある」と、静かに沈黙の言葉で語りかけています。神の手は温かく力強く、神の足取りは軽やかです。神の声は温和で優しく、神の姿は過ぎゆき、また振り返り、全人類を抱擁します。神の表情は優美で、神は立ち去ったことも、消えたこともありません。神は、昼も夜も、常に人間と共にいて、そばを離れません。神の人間への心からの労りと特別のやさしさ、真の思いやりと愛は、神がニネベの町を救ったときにも少しずつ示されていました。特に、ヤーウェ神とヨナの会話では、創造主自身が創造した人類への優しい思いがすっかり明らかにされています。これらの言葉から、人類への神の真摯な思いを深く理解することができます……

次に挙げるのはヨナ書4章10~11節に記された言葉です。「ヤーウェは言われた、『あなたは労せず、育てず、一夜に生じて、一夜に滅びたこのとうごまをさえ、惜しんでいる。ましてわたしは十二万あまりの、右左をわきまえない人々と、あまたの家畜とのいるこの大きな町ニネベを、惜しまないでいられようか』」。これは、ヤーウェ神とヨナとの会話における、ヤーウェ神自身の言葉です。この会話は短いものの、創造主の人類への思いやりと、人類を見捨てることへのためらいに溢れています。この言葉は、神の心にある被造物への真の態度と思いが表現されています。人間が滅多に聞くことがないほど明瞭で正確なこの言葉により、神は人類への真意を述べます。この対話は、神のニネベの人々への態度を示していますが、それはどのような態度ですか。それは、ニネベの人々が悔い改める前と後にニネベの人々に神が取った態度であり、それと同じ態度で神は人類を扱います。この言葉には神の思いと性質を見出すことができます。

この言葉には、神のどのような思いが示されていますか。詳細に注意して読めば、神が「惜しむ」という語を用いているのに気付くのは難しくありません。この語に、人類への神の真の態度が示されています。

表面的には、「惜しむ」という語は様々な解釈が可能です。第一に、「愛し、守り、何かへのやさしさを感じる」という意味があります。第二に、「心から愛する」という意味があり、最後に「何かを傷つけたくない、傷つけることに耐えられない」という意味があります。つまり、この語は親しみや愛、人や物をあきらめられない気持ち、また神の人間への憐れみと寛容をほのめかしています。神は人間が一般的に使う単語の一つであるこの語句を使いましたが、それは神の心の声と神の人類への態度を明らかにしています。

ニネベの町は、ソドムと同様に堕落し、邪悪で凶暴な人々で満ちていましたが、ニネベの人々の悔い改めにより神の心が変わり、ニネベの人々を滅ぼさないことに決めました。神の言葉と命令へのニネベの人々の反応は、ソドムの住民と比べると極めて対照的な姿勢でした。ニネベの人々の真摯な神への服従と罪の悔い改め、そしてあらゆる面における真実で心からの振る舞いゆえに、神は再び心からの哀れみを示し、ニネベの人々に与えました。神が人類に与えたものと人類への憐れみは、誰にも真似をすることはできず、神の憐れみと寛容、神の人類への真摯な思いは誰にも持つことができません。あなたが偉人あるいは超人であるとみなす男女に、ある高い立場で、偉人あるいは超人として最高位から人類や被造物に向かってこのような発言をする人が存在しますか。人類のうち誰が、人類の生存状況を自分の手のひらのように熟知できますか。誰が人類の存在に伴う負担と責任を負うことができますか。誰に一つの町の破壊を宣言する資格がありますか。そして、誰に一つの町を赦す資格がありますか。自分の創造したものを惜しんでいると誰が言えますか。創造主だけです。創造主だけがこの人類にやさしさを感じています。創造主だけがこの人類に優しさと愛慕を示します。創造主だけに、人類への真の変わることのできない愛情があります。同様に、この人類に憐れみを与え、全被造物を惜しむことができるのは、創造主のみです。創造主の心は、人間の行動一つひとつに、ときめいたり、傷んだりします。創造主は、人間の邪悪と堕落に怒り、苦しみ、悲しみます。また創造主は、人間の悔い改めと信仰に満足し、喜び、赦し、歓喜します。創造主の思いと考えの一つひとつは人類のために存在し、人類がその中心にあります。創造主の存在とその持つものは、すべて人類のために表れます。創造主の気持ちのすべては、人間の生存と密接に結びついています。創造主が旅をし、忙しく動き回り、そのいのちのすべてを沈黙のまま与え、いのちの一分一秒を捧げるのは、人類のためです……。創造主は自らの命を慈しんだことがないにもかかわらず、自身が創造した人類を常に惜しんできました……。持つもの全てを人類に捧げます……。無条件に見返りを期待することなく、憐れみと寛容を与えます。彼がこれを行うのは、ひとえに人類が彼の目の前で生き残り続け、いのちの施しを受けることができるようにするためです。ある日、人類が彼に服従し、彼こそが人間が存在するための糧を施し、すべてのもののいのちを与える存在であると認識できるようにするためです。

『神を知ることについて』「唯一無二の神自身 II.」(『言葉』第2巻)

日々の神の御言葉 抜粋 118

ヨナ書4章 ところがヨナはこれを非常に不快として、激しく怒り、ヤーウェに祈って言った、「ヤーウェよ、わたしがなお国におりました時、この事を申したではありませんか。それでこそわたしは、急いでタルシシにのがれようとしたのです。なぜなら、わたしはあなたが恵み深い神、あわれみあり、怒ることおそく、いつくしみ豊かで、災を思いかえされることを、知っていたからです。それでヤーウェよ、どうぞ今わたしの命をとってください。わたしにとっては、生きるよりも死ぬ方がましだからです」。ヤーウェは言われた、「あなたの怒るのは、よいことであろうか」。そこでヨナは町から出て、町の東の方に座し、そこに自分のために一つの小屋を造り、町のなりゆきを見きわめようと、その下の日陰にすわっていた。時にヤーウェ神は、ヨナを暑さの苦痛から救うために、とうごまを備えて、それを育て、ヨナの頭の上に日陰を設けた。ヨナはこのとうごまを非常に喜んだ。ところが神は翌日の夜明けに虫を備えて、そのとうごまをかませられたので、それは枯れた。やがて太陽が出たとき、神が暑い東風を備え、また太陽がヨナの頭を照したので、ヨナは弱りはて、死ぬことを願って言った、「生きるよりも死ぬ方がわたしにはましだ」。しかし神はヨナに言われた、「とうごまのためにあなたの怒るのはよくない」。ヨナは言った、「わたしは怒りのあまり狂い死にそうです」。ヤーウェは言われた、「あなたは労せず、育てず、一夜に生じて、一夜に滅びたこのとうごまをさえ、惜しんでいる。ましてわたしは十二万あまりの、右左をわきまえない人々と、あまたの家畜とのいるこの大きな町ニネベを、惜しまないでいられようか」。

創造主は人類への真の思いを表す

このヤーウェ神とヨナの対話は、人類への創造主の真の思いを表していることに疑いはありません。この対話は一方では、神の統治下にある被造物全体を創造主が認識していることを人々に伝えるものです。それはヤーウェ神が、「ましてわたしは十二万あまりの、右左をわきまえない人々と、あまたの家畜とのいるこの大きな町ニネベを、惜しまないでいられようか」と言った通りです。つまり、ニネベについての神の認識は、決して粗略なものではなかったのです。神はニネベの町の生物(人間のほか家畜など)の数を知っていただけでなく、右も左もわきまえることができない者の人数、すなわち、子供や若者の人数も知っていました。これは、人類について神が包括的に理解していたことの具体的な証明です。その一方で、この対話は、人類への創造主の態度、すなわち創造主の心における人類の重要さを人々に伝えています。それはヤーウェ神の、「あなたは労せず、育てず、一夜に生じて、一夜に滅びたこのとうごまをさえ、惜しんでいる。ましてわたしは……この大きな町ニネベを、惜しまないでいられようか」という言葉の通りです。これは、ヤーウェ神がヨナを非難して述べた言葉で、すべて真実です。

ヨナはニネベの人々にヤーウェ神の言葉を伝える任務を託されましたが、ヨナはヤーウェ神の意図も、ヤーウェ神のニネベの人々に対する懸念も期待も理解していませんでした。神は、この叱責により、人類が神自身の手により造られたものであり、一人ひとりの人間に神が甚大な努力をしたこと、一人ひとりが神の期待を負っていること、神のいのちの施しを受けていること、一人ひとりの人間のために神が大きな代償を払っていることを、ヨナに述べました。この叱責はまた、ヨナがこのとうごまを惜しんでいるのと同様に、神が自分の手で造った人類を惜しんでいることをヨナに伝えました。神は人類を安易に、あるいは最後の最後まで見捨てるつもりは一切ありませんでしたが、それはニネベには子供や何も知らない家畜が多数いたからではありません。右も左も分からない子供や無知な神の被造物に対して、神が早急に子供や動物の生命を絶ち、その運命を決めようとするなど考えられないことでした。神は彼らが成長するのを見ることを望んでいました。子供が大人のような道へ進まないこと、ヤーウェ神の警告を二度と耳にしなくてもよいこと、ニネベの過去の証しをすることを望んでいました。それにもまして、神は悔い改めた後のニネベ、悔い改めた後の町の将来、そして何よりも、ニネベが再び神の憐れみのもとで生きるのを見ることを望んでいました。したがって、神の見地からすると、神の被造物で右も左も分からない子供たちこそがニネベの将来だったのです。子供たちは、ヤーウェ神の導きのもとでニネベの過去と未来の証しをするという重要な任務を背負うと同時に、ニネベの卑劣な過去も背負うことになるのです。このように真の思いを宣言することで、ヤーウェ神は、創造主から人類への憐れみをすっかり提示しました。これは、「創造主の憐れみ」は中身のない言葉でも、空虚な誓いでもなく、具体的な原則であり、方法であり、目的であることを人類に示しました。創造主は真実であり、実在し、嘘や偽りを行ないません。そしてこのように、創造主の憐れみは、あらゆる時代において人類に無限に与えられるのです。しかし、現在に至るまで、この創造主とヨナとの対話は、神がなぜ人類に憐れみを示すのか、どのように憐れみを示すのか、神が人類にどの程度寛容であるのか、神の人類への真の思いは何なのかを神が言葉で表した唯一の場面です。この対話におけるヤーウェ神の簡潔な言葉は、人類への思いを完全な統一体として表しています。それは人類への神の心の姿勢を真に表現しており、また神が人類に豊かに憐れみを与えることの具体的な証明でもあります。神の憐れみは、常に世代から世代へと与えられてきたように、人類の先代にのみ与えられるのではなく、人類の若い世代にも与えられます。神の怒りは特定の地域、特定の時代に人類に下されることが多いものの、神の憐れみは決して止まったことがありません。神は憐れみにより導き、施し、養い、そしてそれを神の被造物の一世代から次の世代へと連綿と続けます。なぜなら、神の人間への真の思いは変わらないからです。「惜しまないでいられようか」というヤーウェ神の言葉が示す通り、神は常に被造物を惜しんできました。これが創造主の義なる性質による憐れみであり、これもまた創造主の唯一無二の特質であふれています。

『神を知ることについて』「唯一無二の神自身 II.」(『言葉』第2巻)

日々の神の御言葉 抜粋 119

人間の五つの種類

あなたがたが現在いる段階と、現在の霊的背丈を把握できるように、神に付き従う人を、その神についての認識、神の義なる性質に関する認識と経験に基づいて数種類に分類します。神についての認識と神の義なる性質に関する認識や経験に関して、人の段階と背丈は、一般的に五種類に分類できます。この論題は、唯一無二の神と神の義なる性質を認識していることを前提としています。したがって、以下の内容を読み進めるに当たっては、神の独自性と神の義なる性質について、自分には正確にどの程度の理解と認識があるかを注意深く見極めるように努めなくてはなりません。そして、それに従って、自分が本当にどの段階にいて、どの程度の霊的背丈があり、どの種類の人間であるかを判断しなければなりません。

第一の類型――産着にくるまれた赤子の段階

「産着にくるまれた赤子」とは何を意味しますか。産着にくるまれた赤子は、この世に生を受けたばかりの子供、新生児です。それは、人間が一番未熟な時期です。

この段階の人間は、基本的に神への信仰についての認識や意識が皆無です。そのような人は、あらゆる物事について当惑し無知です。長期間にわたり神を信じてきた人も、そうではない人もいますが、その当惑し無知な状態と実際の霊的背丈のために、産着にくるまれた赤子の段階に分類されます。この段階の状況を正確に定義すると、次の通りになります。この段階の人間は、どれほど長く神を信仰してきたとしても、常に考えがぼんやりと混乱しており、愚かです。自分が神を信仰する理由も、神が誰であり、誰が神であるかも知りません。神に付き従いながらも、心には神とは何かという具体的な定義がなく、自分が付き従っているのが神であるか否かを判断できないどころか、神を信仰し神に付き従うべきであるか否かもわかりません。これがこの種の人の実情です。その考えは不明瞭で、端的に言えば、その人の信仰も混乱しています。この種の人は常に当惑と空虚の状態にあります。ぼんやり、混乱、愚かさといった言葉がこの種の人の状態を概して表現します。この種の人は神の存在を見たり感じたりしたことがないので、この人と神を知ることについて議論することは、象形文字で書かれた書籍を読ませるようなものです。すなわち、そうした議論を理解することも、受け入れることもありません。この人にとって、神を知ることは、架空の物語を聞くことと同じです。その思想は不明瞭であるかもしれませんが、実のところ、その人は神を知ることは時間と労力の無駄であると固く信じています。これが第一類型の人、産着にくるまれた赤子です。

第二の類型――乳飲み子の段階

産着にくるまれた赤子と比較すると、第二の類型の人は、ある程度の進歩をしています。しかし、残念なことに、この種の人は、神については一切の認識がありません。依然として神に関する明瞭な理解や識見が欠如し、なぜ神を信じるべきなのか、あまり明確ではないのです。しかし、心には独自の目的と明瞭な考えがあります。この種の人は、神を信じるのが正しいか否かについては関心がなく、神への信仰を通して求める目標や目的は、神の恵みに与り、喜びと平安を得て、快適な生活を送り、神の思いやりと保護を享受し、神の祝福の下で生きることです。この種の人は、自分がどの程度神を知っているかについては関心がなく、神を理解しようと求める衝動がなく、神が何をしているか、神が何をしたいと望んでいるかにも関心がありません。ただ盲目に神の恵みを享受し、神の祝福を多く得ることを求めているだけです。この種の人はこの時代に百倍を求め、次の時代には永遠のいのちを求めます。この人の思いや努力、献身、そして苦難でさえも、すべて神の恵みと祝福を得るという共通の目的のためになされます。それ以外のことには無関心なのです。この種の人が確信しているのは、神が人の安全を守り、自分に恵みを与えるということだけです。この種の人は神が人類を救いたい理由や、神が言葉や業により達成したい結果には興味もなければ、はっきりした考えもないと言うことができます。神の実質や義なる性質を知るために努力したこともなく、そのために関心を奮い起こすこともできません。このようなことに注意を向ける傾向もなく、知りたいとも思わないのです。この種の人は神の働き、神の人間に対する要求、神の心、その他神に関する事柄について問いかけたいとは思わず、また問いかけるような傾向もありません。なぜなら、これらの問題が自分が神の恵みを享受することとは無関係だと考えており、自分の個人的利益と直接的に関連して存在し、人間に恵みを与えることができる神にしか関心がないからです。こうした人はそれ以外のことに一切興味がないので、神を何年間信仰していようとも、真理現実に入ることができません。頻繁に水を注いだり糧を授けたりしてくれる人がいなければ、この人が神への信仰の道を歩み続けることは困難になります。こうした人は、これまでどおりの喜びと平安や神の恵みを享受できなければ、去って行くことがよくあります。これが第二類型の人、乳飲み子の段階にある人です。

第三の類型――乳離れした子、あるいは幼子の段階

この類型の人には、ある程度の明瞭な意識があります。神の恵みを享受することは、自分自身に真実の体験があるということではないことを認識しています。この種の人は、喜びと平安、恵みを求めることに飽き足らなくても、また神の恵みを享受した体験を分かち合ったり、神から与えられた恵みゆえに神を讃えたりすることで証しすることができるとしても、それは自分にいのちや真理の現実があることを意味するものではない、ということを心得ています。その意識から始まって、このような人は神の恵みにのみ伴われるというとてつもない希望を抱かなくなります。それどころか、神からの恵みを愉しみつつ、神のために何かをしたいと望むようになります。自分の本分を尽くし、少しの困苦と疲労に耐え、神とある程度協調することをいといません。しかし、この種の人による神への信仰の追求はあまりに不純で、心に抱く個人的な意図や望みも強過ぎ、その人の性質もやたらと傲慢であるため、その人が神の望むことを満足させたり、神に忠実でいたりすることは極めて困難です。したがって、この種の人は個人的な望みを実現することも、神との約束を守ることもできないことがよくあります。多くの場合、この種の人は自己矛盾に陥ります。すなわち、可能な限り神を満足させたいと願う一方で、持てる力の限りを用いて神に反対し、また神に忠実を誓っても、すぐに誓いを破ることがあります。ほかの形の自己矛盾に陥ることも多くあります。すなわち、真摯に神を信じる一方で、神と神に由来するものすべてを否定します。神に啓かれ、導かれ、施され、助けられることを切望する一方で、自分の逃げ道を求めます。神を理解し知りたいと願う一方で、神に近づくことを避けようとします。その代わりに常に神を回避し、神に対して心を閉ざしています。神の言葉と真理の文字通りの意味について表面的な認識と経験があり、神と真理に関しても表面的な概念をわきまえている一方で、意識下では神が真理であることも、神が真に義なることも確信、断言することが依然としてできません。また、神の性質と本質が真実であることも、ましてや神の真の存在を確信することもできないのは当然です。この種の人の神の信仰には、常に疑念と誤解、想像と観念が混ざっています。この種の人は神の恵みを享受しつつ、実行可能だと自分がみなす幾つかの真理をしぶしぶ経験したり実践したりします。これは、自分の信仰を豊かにし、信仰経験を増大させ、神への信仰についての自分の理解を確認し、自ら打ち立てた人生の行程を歩み、人類にとって義なる事業を達成させて虚栄心を満たすためです。同時に、祝福を得たいという自らの欲望を満たすためでもあります。これは人類のためにさらなる祝福を得ることを願ってする賭けの一部です。また、神を得るまでは休みたくないという大志と一生涯の願望を叶えるためでもあります。この種の人はめったに神の啓示を得られません。なぜなら、神の祝福を得るという願望と目的の方がその人にとって重要過ぎるからです。こうした人は諦める気はなく、また諦めることに耐えられません。恵みを得る願望や、神を得るまで休みたくないという長年にわたり大事にしてきた願望がなければ、神を信仰する動機を喪失すると考えています。従って、現実と対峙することを望みません。神の言葉や働きに対峙することを望まないのです。神の性質や本質を認めることを望まず、ましてや神を知るという題目に言及することさえ望みません。それは、ひとたび自分の想像が神、神の本質、神の義なる性質に置き換えられたなら、自分の夢が煙のように消えてなくなり、自分が純粋な信仰と呼んでいるものや、何年もの間、苦労して築き上げた「功績」が消滅し、無に帰してしまうからです。またそれは、自分が長年にわたって血と汗で獲得してきた「領土」が崩壊の危機に瀕するからです。これは、この種の人の長年にわたる苦労と努力が無駄であったこと、ゼロから再出発しなければならないことを意味します。この種の人にとって、これは最も耐えがたい心痛であり、一番恐れる結果です。したがって、この種の人は常にこのような行き詰まり状態にあり、後戻りすることを拒否しています。これが第三類型の人、乳離れした子供の段階にある人です。

以上の三種類の人、つまり三段階のそれぞれにある人は、神の身分や地位、神の義なる性質に関して、いかなる真の信仰もなく、これらの物事について、明確で正確な認識も確信もありません。したがって、この三種類の人にとって、真理の現実性に入ることは極めて困難であり、神の憐れみ、啓き、照らしを得ることも極めて困難です。なぜなら、このような人の神への信仰のあり方と神への誤った態度のせいで、神が彼らの心で働くことは不可能だからです。彼らの神に関する疑念、誤解、想像は、彼らの神への信仰や認識を凌駕しています。これら三種類の人は、危険に直面しており、極めて危険な段階にいます。ある人が神、神の本質、神の身分、神は真理であるかということ、神の存在の現実性に対して疑念ある態度を維持し、これらの事柄について確信できないとき、神から来るものをすべてどうして受け入れることができますか。神が真理であり、道であり、いのちであるという事実をどうして受け入れることができますか。神の刑罰や裁きをどうして受け入れることができますか。神の救いをどうして受け入れることができますか。このような人がどうして神の真の導きと施しを得ることができますか。これら三段階にある人は、いつでも神に反抗し、神を裁き、冒涜し、裏切ることができます。いつでも真理の道を離れ、神を捨てることができます。これら三段階にある人は、危機的時期にあると言うことができます。なぜなら、このような人は、神への信仰の正しい道に入っていないからです。

第四の類型――成長期の子段階、あるいは子供時代

子が離乳した後、つまり豊富な恵みを享受した後、その子は神への信仰とは何を意味するのかを探求するようになり、人間はなぜ生きているのか、人間はどのように生きるべきか、神はなぜ人間に働くのかなどの様々な疑問を理解したいと思うようになります。このようなあいまいな考えや混乱した思考形式が内に現れ、そのまま残ったときでも、人は水やりを受け続け、自分の本分を尽くすことができます。この時期になると、人は神の存在の真実についてはもはや一切の疑念がなくなり、神への信仰が何を意味するかを正確に把握しています。この基盤の上に、神についての認識を徐々に積み上げ、神の性質や本質についての自分のあいまいな考えや混乱した思考形式に何らかの回答を徐々に得ます。人間の性質の変化と神に関する認識については、この段階の人は正しい軌道に乗りだし、過渡期に入ります。人のいのちが真に始まるのは、この時期です。人がいのちを自分のものにしていることの明確な兆候として、神を知ることに関して心にある様々な疑問、すなわち、神に関する誤解、想像、観念、漠然とした定義が徐々に解決してゆくことがあります。さらに、神の存在の現実性を心から信じ認識するだけでなく、心の中に神の明瞭な定義と神のための正しい場所を持つようになり、漠然とした信仰に代わって、真に神に付き従うようになります。この段階において、人は神に関する自分の誤解や誤った信仰の追求とあり方を徐々に認識するようになります。真理を、また神の裁き、懲らしめ、鍛錬を体験することを、自らの性質の変化を渇望するようになります。この段階の人は、神に関するありとあらゆる観念と想像を徐々に捨て、同時に神についての自分の誤った認識を正し、正しく基本的な認識を得ます。この段階の人が持つ認識の一部は、それほど具体的でも正確でもありませんが、少なくとも神に関する自分の観念や誤った認識や誤解を徐々に捨てるようになり、もはや自分の観念や想像を持ち続けることはありません。人は捨て方を身に着けるのです。すなわち、自らの観念に含まれているもの、知識から来るもの、サタンから得たものを捨てる方法です。正しく肯定的なもの、さらには神の言葉に由来し、真理に適合することに従うようになります。また、神の言葉を体験して、自ら神の言葉を知り、実行し、自らの行動原則と性質を変化するための基礎として神の言葉を受け入れようと努めるようになります。この時期の人は、神の裁きと刑罰を無意識のうちに受け入れ、神の言葉を自分のいのちとして無意識のうちに受け入れます。神の裁き、刑罰、神の言葉を受け入れながら、自分の心の中で信じる神が実在することをますます強く意識し、感じることができるようになってゆきます。神の言葉において、また経験と生活の中で、神が常に人間の運命を支配し、常に人間を導き、人間に施してきていることを次第に強く感じるようになるのです。自分と神との関係を通して、次第に神の存在を確認します。したがって、自分で気付く前に、無意識のうちに神の働きをすでに受け入れ、固く信じるようになっており、神の言葉も受け入れています。ひとたび神の言葉と働きを受け入れると、人は自分自身や、自分の観念、知識、想像を絶え間なく否定し、同時に、真理とは何か、神の心とは何かを絶え間なく追い求めるようになります。人が持つ神についての認識は、発達のこの時期では極めて表層的で、その認識を明確に言葉で説明したり、詳細にわたって表現したりできず、感覚的な認識しかありません。それでも、この段階と前の三段階を比較すると、この段階にいる人の未熟ないのちは、すでに水やりと神の言葉による施しを受けており、芽が出始めています。この段階の人のいのちは、地中の種のようなもので、水分と栄養素を得ると土を割って芽を出し、この萌芽は新たないのちの誕生を意味します。この誕生により、人はいのちの徴候を見て取ることができます。いのちを得ると人は成長します。したがって、この基礎の上で、つまり神への信仰の正しい軌道へと徐々に進み、自分の観念を捨て、神の導きを得ることで、人のいのちは必然的に一歩ずつ成長します。この成長は何を基準として計測されますか。人の神の言葉における経験と、神の義なる性質についての真の理解にしたがって計測されます。この成長段階にいる人は、神と神の本質についての自分の認識を自分の言葉で正確に説明するのを極めて困難であると感じるものの、もはや神の恵みを享受することで自己中心的に悦楽を追求しようとも、神の恵みを得るという個人的な目的のために神を信仰することもありません。その代わりに、神の言葉に基づいて生き、神の救いの対象となることを追い求めます。さらに、自信を持って神の裁きと刑罰を受ける準備ができている。これが、この成長段階にある人の印です。

この段階にある人は、神の義なる性質についてある程度の認識を持っているものの、その認識は極めて不明瞭です。この段階の人はこのようなことを明瞭に説明することができない一方、自分は内面的に何かをすでに得たと感じています。なぜなら、神の刑罰と裁きにより神の義なる性質についてのある程度の認識と理解を得たからです。しかし、それは極めて表面的であり、まだ初歩段階にあります。この段階の人には、神の恵みを取り扱うときの具体的な視点があります。それは、人が追求する目的とその目的の追求方法に起こる変化に表れます。人は神の言葉や働きに、神の人間へのあらゆる要求事項や人への明かしに、もし自分が神の言葉を体験しながら、いまだに真理を追求せず、現実性に入ろうとせず、神を満足させ、神を知ろうとしないままでいたならば、神を信仰することの意味がなくなるということをすでに理解しているのです。どれほど神の恵みを享受していようと、人は自分の性質を変えることができず、神を満足させ、神を知ることができないことを知っており、それでも神の恵みの下で生き続けるならば、人は成長することも、いのちを獲得し、救いを得ることもできないことがわかっています。要するに、神の言葉を真に体験することができず、神の言葉を通して神を知ることができないのなら、人は永遠に赤子の段階に留まり、いのちにおいて一歩も成長することがないということです。永遠に赤子の段階のままで、神の言葉の現実性に入ることがなく、自分のいのちとして神の言葉を持つことがなく、神への真の信仰も神の認識も持たないのであれば、そんな人が神に完全にされる可能性がありますか。したがって、神の言葉の現実性に入る人、神の言葉を自分のいのちとして受け入れる人、神の刑罰と裁きを受け入れ始める人、堕落した性質が変化し始める人、真理を渇望する心と、神を知りたいという願望、神の救いを受けたいという願望がある人はみな、真のいのちを自分のものとする人です。これが第四類型の人、成長する子供の段階、子供時代にある人です。

第五の類型――成熟の段階、あるいは成年期

人が子供時代をよちよちと歩き、前進と後退を繰り返す成長期を経験した後、そのいのちは安定し、停滞することなく前進するようになり、誰もその前進を阻むことはできません。道は依然として険しいものの、人はもはや弱くも、恐れることもなく、手探りで前進することも、方向を見失うこともありません。人の基盤は神の言葉を実際に経験したことに深く根ざし、心は神の威厳と偉大さに引きつけられています。人は神の足跡に続き、神の本質を知り、神についてのすべてを知ることを切望します。

この段階の人は、自分が誰を信じているのかをすでに明確に知っており、なぜ神を信じるべきなのかも自分の生きる意味もはっきりと認識しており、また神が表することはすべて真理であることも明確に知っています。長年の経験から、神の裁きと刑罰なしでは、人間は神を満足させることも、神を知ることも、神の前に実際に出ることも決してできないことに気づいています。この段階の人の心には、神に試されたいという強い願望があります。それは、試されているあいだに神の義なる性質を知り、純粋な愛を得ると同時に、神を真に深く理解し知ることができるようにです。この段階の人は、幼児の段階と神の恵みを享受してパンを食べて満足する段階にすでに完全に別れを告げています。もはや神が寛容と憐れみを自分に見せてくれることに度を越した望みをかけることはなく、むしろ自分の堕落した性質を離れ、神を満足させるために、神による終わることのない刑罰と裁きを受けることを確信しつつ望みます。この段階の人の神に関する認識や追求、その追求における最終目標は、すべて心の中ではっきりしています。したがって、成年期の人は、漠然とした信仰の段階、救いを獲得するために恵みに依存する段階、試練に耐えられない未熟な段階、不明瞭な段階、手探りで進む段階、進むべき道がなくなることがよくある段階、突然の高熱と低温が交互に起こる不安定な段階、目を閉じたまま神に付き従う段階に完全に別れを告げています。この種の人は、神の啓きと照らしを頻繁に受け、神との真の関係と交わりを頻繁にもちます。この段階に生きる人は、神の心の一部をすでに把握しており、自分のするあらゆることに真理の原則を見出すことができ、神の望みをいかに満足させるかを心得ている、と言えます。さらに、神を知る道を見出し、神についての認識を証し始めています。徐々に成長するなかで、この段階の人は、人類を創造した神の心と人類を経営する神の心など、神の心を徐々に理解し認識するようになります。さらに、実質的な意味で神の義なる性質も徐々に理解し認識します。これは、人間の観念や想像が取って代わることはできません。第五段階にいる人のいのちは完全に成熟しているだとか、その人は義人であり完全であるだとかは言えないものの、この人はすでに、いのちの成熟段階に向けて一歩踏み出しており、すでに神の前に来て、神の言葉と神自身と向かい合うことができます。この段階の人は神の言葉を多く経験し、また無数の試練、無数の神からの鍛錬、裁き、刑罰を経験しているため、神への服従は相対的ではなく、絶対的です。この人の神に関する認識は、無意識から明瞭かつ正確な認識へ、表面的なものから深いものへ、ぼんやりと不明瞭なものから詳細で具体的なものへと変化しています。手探りしながら苦労して前進し、受動的に追い求める状態から、苦労せずに認識に達し、積極的に証しする状態へと移行したのです。この段階の人は、神の言葉の真理現実を自分のものとし、ペテロが歩んだような完全への道を歩み始めたと言えます。これが第五類型の人、成熟した状態、成人の段階に生きる人です。

『神を知ることについて』「唯一無二の神自身 II.」(『言葉』第2巻)

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