神を知る(5)

日々の神の御言葉 抜粋 166

あなたがたは、神の義なる性質を理解するうえで鍵となる認識は何か知っていますか。この主題について、経験から語れることはたくさんありますが、まず、あなたがたに伝えなければならない要点がいくつかあります。神の義なる性質を理解するには、最初に神の感情を理解する必要があります。すなわち、神が何を嫌うか、何を憎むか、何を愛するか、誰に寛容で慈悲深いか、どのような人間にその慈しみを授けるかを理解しなければいけません。これが要点のひとつです。さらに、神がいかに愛情深くても、どれほど多くの慈悲と愛を人に対して抱くとしても、神は自身の地位や身分、および尊厳に背く者を決して容赦しないことも理解しなければいけません。神は人を愛していますが、好きなようにさせることはありません。神は人に愛と慈しみを与え、寛容を示しますが、人を甘やかすことは一切ありません。神には神の原則と限界があります。あなたがどれほど神の愛を感じてきたとしても、その愛がどれほど深かったとしても、他の人間と接するように神と接してはいけません。確かに、神は人をこのうえない親しさをもって扱いますが、人が神を単なる別の人として、あるいは友人や崇拝の対象といった、他の被造物であるかのようにみなした場合、神はそうした人間の前から姿を消し、彼らを見捨てます。これが神の性質であり、人はこの件を軽率に扱ってはいけません。そのため、自身の性質について神がこのように語っている言葉を、わたしたちはしばしば目にします。あなたがどれほど多くの道を歩み、どれほど働き、どれほど堪え忍んできたとしても、いったん神の性質に背けば、神はあなたがたひとりひとりに対し、自分がしたことに応じて報いを与えます。このことは、神がこのうえない親しさをもって人を扱うとしても、人は神を友達や親戚のように扱ってはいけないことを意味します。神を「友達」と呼んではいけません。あなたがいかに多くの愛を神から受けてきたとしても、いかに多くの寛容さを示されてきたとしても、決して神を友達のように扱ってはいけません。これが神の義なる性質です。わかりましたか。これについてさらに述べる必要はありますか。この事柄について、あなたがたは事前に理解していましたか。一般的に言えば、教義を理解しているかどうか、この件をじっくり考えたことがないかどうかにかかわらず、これは人がもっとも犯しがちな過ちです。人が神に背くとき、それは一つの出来事、あるいは一つの発言が原因だとは限らず、むしろその人の態度や状態が原因です。これは極めて恐るべきことです。自分は神を理解し、神についていくらか知り、神を満足させられるとさえ信じる人がいます。このような人は、自分は神と同等である、あるいはうまく立ち回って神と友達になったなどと感じるようになります。こうした感覚は大きな誤りです。あなたがこれについて深く理解せず、明瞭に認識していなければ、神や神の義なる性質にいともたやすく背いてしまいます。これについてはわかりましたね。神の義なる性質は唯一無二のものではありませんか。それが人間の性格や品性と同等であることがあり得ますか。あり得ません。ゆえに、神が人をどう扱おうと、人のことをどう考えようと、神の地位、権威、身分は決して変わらないということを忘れてはいけません。人類にとって、神は常に万物の主であり、創造主なのです。

『神を知ることについて』「唯一無二の神自身 VII.」(『言葉』第2巻)

日々の神の御言葉 抜粋 167

第1の物語:種、大地、木、日光、鳥、そして人間

一粒の種が大地に落ちました。大雨が降ったあと、種は柔らかい芽を出し、地中にゆっくり根を下ろしていきました。やがて、激しい雨風に負けず、季節の移り変わりを目にしながら、月の満ち欠けとともに、その芽は伸びていきます。夏には、芽が厳しい暑さに耐えられるよう、大地が水を贈りました。大地のおかげで暑さにやられずに済み、やがて夏の酷暑は過ぎていきました。冬になると、大地は芽を暖かく包み込み、大地と芽はしっかり抱き合いました。大地が芽を温めたおかげで、芽は厳しい冬の寒さを生き延び、寒風と吹雪の中でも無事でした。大地に守られながら、芽は立派に、かつ嬉しげに伸びてゆき、大地が与えた無私の育みによって元気に力強く成長しました。雨の中で歌い、風の吹くまま踊りながら、幸せに伸びていったのです。芽と大地は互いに頼り合っていました……

年月が過ぎ、芽は大樹へと育ちました。その木は大地に力強く立ち、太い枝をつけ、その先端には無数の葉が茂っていました。根は以前と同じく大地を掘り続け、いまや地中に深く根ざしています。小さな芽を守っていた大地は、いまではそびえ立つ木の基礎となっていました。

日光が木に降り注ぎ、木は幹を揺らして枝を広げ、日光に照らされた空気を深く吸い込みます。地面がその木と息を合わせて呼吸し、大地は若返ったように感じていました。そのとき、新鮮な風が枝の間に吹き込み、木は喜びに震え、元気よくカサカサと音を立てました。こうして、木と日光は互いに頼り合っていたのです……

人々は涼しい木陰に座り、さわやかでかぐわしい空気を浴びています。その空気は人々の心臓や肺、血液を清めました。こうして人々の身体はもう無気力でも、束縛されてもいませんでした。人々と木は互いに頼り合っていたのです……

さえずり鳴く小鳥の群れが木の枝に留まりました。おそらく捕食者を避けるため、雛を産んで育てるため、あるいはしばらく休憩するために、そこに留まったのでしょう。鳥と木は互いに頼り合っていたのです……

木の根は曲がりくねって絡み合い、大地の中に深く根ざしていました。木はその幹でもって大地を風雨から守り、大枝を伸ばして足元の地面を保護していました。なぜなら、大地はその木の母だからです。木と大地は互いに強め合い、頼り合い、決して離れることはありませんでした……

(中略)

わたしがいま述べたことはどれも、あなたがたが以前に見たことのあるものです。種を例にとると、それは成長して木になりますが、たとえその過程を一つひとつ細かく見ることはできないとしても、種が木になることはわかりますね。また、あなたは大地と日光についても知っています。鳥が木に留まっている光景は、誰しも見たことがあるはずです。それに木陰で涼む人々の姿も、あなたがたは見たことがあるでしょう。そうですね。(はい。)では、これらがすべてひとつの光景に含まれている場合、その光景はどのような感情をもたらしますか。(調和の感情です。)このような光景に含まれている一つひとつのものは、神に由来するものですか。(そうです。)それらは神に由来するものなので、神は地球上に存在するこれら様々なものの価値と重要性を知っています。神が万物を造り、それぞれのものを計画して創造したとき、神には意図がありました。そして神がそれらのものを創った際、それぞれにいのちが吹き込まれたのです。人類の存在のために神が創った環境は、いまの物語で描かれていたとおり、種と大地が互いに頼り合う環境、大地が種を育み、種が大地と結びつく環境です。この関係は、創造の最初において神によって決められたものです。木、日光、鳥、そして人間が登場する光景は、神が人間のために造った生活環境を描いたものです。まず、木は大地から離れることができず、日光なしで生きることもできません。では、神が木を造った目的は何ですか。それはひとえに大地のためだと言えるでしょうか。ひとえに鳥のためだと言えるでしょうか。ひとえに人のためだと言えるでしょうか。(言えません。)それら同士の関係はどのようなものですか。それら同士の関係は、相互に強め合う関係、相互依存と不可分性の関係です。つまり、大地、木、日光、鳥、そして人間は、相互に頼り合って存在し、互いに育み合っています。木は大地を守り、大地は木を育み、日光は木に降り注ぎ、木は日光から新鮮な空気を得る一方で、大地に降り注ぐ太陽の焼けつくような熱さを軽くしています。そこから最後に恩恵を受けるのは誰ですか。それは人間ですね。これは、神が造って人間が暮らす環境の背景にある原則のひとつであり、神が最初からそれをどのように意図していたかを示しています。この光景は単純なものではありますが、その中に神の知恵と意図を見出すことができます。人類は大地や木、鳥、日光なくしては生きられません。違いますか。これは物語に過ぎませんが、描いているのは神による天地と万物の創造、および人間が生きられる環境を神が贈ったことの縮図なのです。

神は人間のために天地と万物を造り、生存環境も造りました。まず、この物語で述べたことの要点は、万物が相互に強め合っていること、相互に依存し合っていること、そして共存していることです。この原則のもと、人類の生存環境は守られており、存在と持続が可能になっています。そのおかげで人類は繁栄し、子孫を残すことができるのです。わたしたちが見たのは木、大地、日光、鳥、そして人間がともにある光景でした。この光景に神はいましたか。そこで神を目にすることはありませんでした。しかし、その光景に登場するもの同士の強め合いと相互依存の法則は目にしました。人はこの法則の中に、神の存在と主権を見ることができます。神はこうした原則と法則を用いることで、万物のいのちと存在を維持しているのです。神はこのようにして万物と人類に施します。この物語はわたしたちの主題と関連していますか。表面的には関連していないように見えますが、実際には、神が万物を造った法則と神による万物の支配は、神が万物のいのちの源であることと密接に関係しています。これらの事実は不可分なのです。さあ、何かを理解し始めましたね。

神は万物の活動を律する法則を指揮します。そして万物の生存を律する規則を指揮し、万物を支配し、それらが互いに強め合い、依存し合うように定めます。それにより、神はそれらが滅びたり消滅したりしないようにするのです。そうして初めて人類は生きることができ、このような環境の中、神の導きによって暮らすことができます。神はそれら活動法則の主であり、人類はそれに干渉することも、それを変えることもできません。神自身だけがこれらの法則を知り、それを管理するのです。木々がいつ芽吹くか、雨がいつ降るか、大地が植物にどの程度の水と栄養を与えるか、葉がどの季節に落ちるか、木々がどの季節に実を結ぶか、日光が木々にどの程度の栄養を与えるか、日光から栄養を得た木々が何を排出するかといった事柄はすべて、誰にも破られない法則として、神が万物を造ったときに予定したことなのです。生物であろうと、人間の目には生物であると見えないものであろうと、神が造った物事は神の掌中にあり、神はその中でそれらを操り支配しています。これらの法則を変えたり破ったりできる人はいません。つまり、神は万物を造ったとき、木は大地がなければ根を下ろすことも、芽吹くことも、成長することもできず、木々がなければ大地は渇き、また木々は鳥の住みかとなり、風から身を守る場所になるよう定めたのです。大地なくして木は生きられますか。絶対に生きられません。日光や雨なくして木は生きられますか。やはり生きられません。これらはどれも、人間と人間の生存のためのものです。人間は木から新鮮な空気を受け取り、木が守っている大地の上で暮らしています。人間は日光や他の様々な生物がなければ生きられません。これらの関係は複雑ですが、万物が互いに強め合い、依存し合って共存できるよう、神が万物を律する法則を定めたことを、あなたは忘れてはいけません。言い換えれば、神が造った一つひとつのものにはそれぞれ価値と意味があるのです。意味のないものを造ったとしたら、神はそれを消滅させるでしょう。これは、神が万物に施す際に使う方法のひとつです。この物語のなかで「施す」という単語は何を指していますか。神が毎日木に水をやることですか。木が呼吸するのに神の助けは必要ですか。(必要ありません。)ここで「施す」とは、創造された万物を神が管理していることを指します。それらを律する法則が確立されれば、あとは神がそれらを管理するだけで十分なのです。いったん種が大地に植えられれば、木は独力で成長します。木が成長する条件は、すべて神によって造られました。神は日光、水、土、空気、周囲の環境、風、霜、雪、雨、四季を造りました。これらは木が成長するために必要な条件であり、神が用意したものです。それならば、こうした生存環境の源は神ですか。(神です。)神は毎日木々の葉の数を数えなければなりませんか。そんなことはありません。また、木が呼吸するのを助けたり、「木を照らす時間だ」と言って毎日日光を目覚めさせたりする必要もありません。神はそのようなことをする必要がないのです。日光は法則に従い、照らす時間が来ればひとりでに照らします。日光があらわれて木を照らすと、その木は必要とあれば日光を吸収し、必要なければそのまま法則の中で暮らします。あなたがたはこの現象を明確に説明できないかもしれませんが、にもかかわらず、それは誰もが見て認めることのできる事実です。あなたは、万物の存在を律する法則が神に由来していること、神が万物の成長と存続を司っていることを認識するだけでよいのです。

さて、この物語には、人々が言うところの「比喩」が含まれていますか。この物語は擬人化されていますか。(擬人化されていません。)わたしは実話を語りました。あらゆる生物、すべてのいのちあるものは、神に支配されています。それぞれの生物は創造されたときに神からいのちを吹き込まれました。あらゆる生物のいのちは神に由来するものであり、それを導く軌道と法則に従います。人間がそれを変える必要はなく、人間による助けも必要としません。それは、神が万物に施す方法の一つです。わかりますね。人はこのことを認識する必要があると、あなたがたは思いますか。(思います。)それでは、この物語には生物学が関係していますか。何らかの形で知識や学問の分野と関係していますか。わたしたちは生物学を議論しているのでもなければ、ましてや生物学的な研究を行なっているのでもありません。わたしたちの議論の要点は何ですか。(神は万物のいのちの源である。)あなたがたは創造物の中で何を見ましたか。木々を見ましたか。大地を見ましたか。(見ました。)日光を見たことはありますね。木にとまっている鳥を見たことはありますか。(あります。)このような環境で生活している人間は幸福ですか。(幸福です。)つまり、人間の住まいや生活環境を維持して守るために、神は万物、つまり自分が造ったものを用いるのです。そのようにして、神は人間と万物に施すのです。

『神を知ることについて』「唯一無二の神自身 VII.」(『言葉』第2巻)

日々の神の御言葉 抜粋 168

第2の物語:大きな山、小川、強風、そして巨大な波

曲がりくねった小川があり、その小川は大きな山の麓へと流れ込んでいました。この山は小川の流れを遮っていたので、小川は「わたしを通してください。あなたが立ちふさがっているので、先へ進むことができません」と、か弱い小声で山に頼みました。すると山は、「どこへ行くのか」と尋ねました。小川は「自分の故郷を探しています」と答えました。山は「わかった。わたしを超えて流れてゆくがいい」と言いましたが、小川は弱く、幼かったので、そのような大きな山を越えて流れることなどできません。そうしたわけで、小川は引き続き大きな山の麓に流れ込むことしかできませんでした……

強風が吹き込み、砂や瓦礫を山がそびえる場所へと運んできました。強風は大声で「わたしを通せ」と怒鳴りました。すると山は、「どこへ行くのか」と尋ねました。強風が「山の向こう側へ行きたいのだ」と怒鳴り返したところ、山は「わかった。わたしの胴体を割って通れるのであれば、通ってよろしい」と答えました。強風はあちこちから吹き込みましたが、どれほど強く吹き込んでも山の胴体を割ることはできませんでした。そのうちに疲れてしまい、吹くのを止めて休んだのですが、山の反対側でそよかぜが吹き始め、そこにいる人たちを喜ばせました。それは人々に対する山からの挨拶だったのです……

海辺では、小波が岩だらけの岸に優しく打ち寄せていました。すると突然、大波が現れ、山の方へと押し寄せていきました。大波が「そこをどけ」と叫んだところ、山は「どこへ行くのか」と尋ねました。大波は止まることができず、「領地を拡大しているところだ。両腕を伸ばしたいんだ」と答えました。山は「わかった。わたしの頂を越えて通れるのであれば、道を譲ろう」と言いました。すると大波は少し下がってから、再び山へ向かって押し寄せました。しかしどれほど頑張っても、山の頂を越えることができません。大波は徐々に海へと退くことしかできませんでした……

小川は何千年にもわたって山の麓を優しく流れ続けました。山が指し示す方向をたどり、故郷に戻って大河と合流し、やがて海へと流れ込んだのです。小川は山の慈しみを受け、決して迷うことがありませんでした。小川と山は互いに頼り合い、強め合い、交流し合い、共存していました。

強風は数千年経っても相変わらず山に吹きつけていました。そして大きな渦を巻く砂を巻き込みながら、しばしば山を「訪れ」ました。山を脅かしたものの、その胴体を割ることはできませんでした。風と大きな山は互いに強め合い、頼り合い、交流し合い、共存していました。

大波もまた数千年にわたって休むことなく、激しい勢いで押し寄せ、絶えず領地を広げていました。何度も山へと押し寄せたものの、山はまったく不動のままでした。山は海を見守り、そのために海中の生物は増加し、繁栄しました。波と山は互いに強め合い、頼り合い、交流し合い、共存していました。

さて、物語はこれで終わりです。まず、この物語は何に関するものでしたか。最初に大きな山があり、小川、強風、そして巨大な波が登場しました。最初の部分では、小川と大きな山の間で何がありましたか。わたしが小川と大きな山について話すことを選んだのはなぜですか。(大きな山による慈しみのもと、小川は道に迷うことがありませんでした。互いに頼り合っていたのです。)山は小川を守っていたと言えますか、それとも妨害していたと言えますか。(守っていました。)しかし、小川を妨害してはいませんでしたか。山と小川は互いに見守り合っていました。山は小川を守りながら、同時に妨げてもいたのです。山が小川を守っていたので、小川は大河へと流れ込むことができましたが、同時に山は小川の流れを遮り、それによって洪水を引き起こして人々に災害をもたらすのを防いだのです。これが、この一節が言わんとしていたことではありませんか。小川を保護し、同時にその流れを妨げることで、山は人々の家を守ったのです。やがて小川は山の麓で大河と合流し、海へと流れ込みました。それは小川の存在を律する法則ではありませんか。小川が大河へと流れ込み、そして海へと流れ込めたのは何のおかげですか。それは山のおかげではなかったですか。小川は山の保護と障壁に頼っていました。では、それが要点ではないのですか。その中に、山の小川に対する重要性を見て取れますか。大きかろうと小さかろうと、すべての山を造ったことについて、神には計画があったでしょうか。(ありました。)これは短い一節に過ぎず、小川と大きな山に過ぎませんが、そこからわたしたちは、神がこれら二つのものを造ったことの価値と意義を理解することができます。また、それらを支配することにおける、神の知恵と目的も示しています。そうではありませんか。

この物語の次の部分は何に関するものでしたか。(強風と大きな山です。)風はよいものですか。(よいものです。)そうとは限りません。風が強すぎて災害を引き起こすことがあります。強風の中に立たせられたらどう感じますか。それはその強さ次第です。風力3、4程度であれば我慢できるでしょう。せいぜい目を開け続けるのが難しくなるだけです。しかし、風が強くなって暴風になったら、あなたは耐えられますか。耐えられないでしょう。したがって、風は常によいものである、あるいは常に悪いものである、と人々が言うのは間違っています。なぜなら、それは風の強さによるからです。さて、ここで大きな山はどのように機能していますか。風防として機能しているのではないですか。山は強風をどの程度まで弱めていますか。(そよ風にしています。)では、人間が暮らす環境の中で、大半の人が晒されているのは強風ですか、それともそよ風ですか。(そよ風です。)それは、神が山を造った目的の一つ、意図の一つではありませんか。風に吹かれた砂が激しく舞い上がり、それを防ぐものも、妨げるものもない環境の中で人間が生活したとすると、それはどのような生活ですか。砂や石が飛び交う土地など、人間には住めないのではありませんか。石が人に当たり、砂が人の目を見えなくするでしょう。人間が足元をすくわれたり、空中に飛ばされたりすることもあるでしょう。家は破壊され、様々な災害が起こるに違いありません。それでもなお、強風の存在に価値はありますか。わたしが、風は悪いと言ったので、人はそれに何の価値もないと感じるかもしれませんが、果たしてそうですか。そよ風に変われば価値があるのではないですか。湿度が高くむせかえるような天気のとき、人が一番必要とするのは何ですか。そよ風が優しく吹いて気分を爽快にし、頭をすっきりさせ、思考を研ぎ澄まし、精神状態を直して改善することが必要です。たとえば、あなたがたはいま、多くの人がいる風通しの悪い部屋に座っていますが、あなたがたに一番必要なものは何ですか。(そよ風です。)空気がよどんで汚れている場所に入ると、人間の思考は遅くなり、血行は悪くなり、頭脳の明晰度も落ちます。しかしながら、少しばかり空気を動かして循環させれば、空気が新鮮になって人の気分も変わります。小川や強風は災害を起こす可能性もありますが、山がそこにある限り、その危険を人間にとって有益な力に変えるはずです。そうではありませんか。

この物語の3番目の部分はどのような内容でしたか。(大きな山と大波の話でした。)そのとおり、大きな山と大波の話です。この一節の舞台は山の麓の海岸です。山、波しぶき、そして大波が登場します。この一節の中で、大きな山は大波にとってどのような存在ですか。(保護するものであり、障壁でもあります。)山は保護するものであり、かつ障壁です。大波を保護することで、海が消え去るのを防ぎ、その中の生物が増殖して繁栄できるようにします。障壁としての山は、海水が溢れて災害を引き起こし、人々の家を破損したり破壊したりするのを防いでいます。したがって、この大きな山は保護するものであり、障壁でもあると言えます。

このことは大きな山と小川、大きな山と強風、そして大きな山と大波の相互関係の意義を示しています。それらが互いに強め合い、妨げ合い、共存していることの意義です。神が造ったこれらのものは、規則と法則によってその存在を律せられています。では、あなたがたはこの物語の中で、神のどのような業を目の当たりにしましたか。神は万物を造って以来、それらを無視してきましたか。神は法則を設け、万物がどのように機能するかを計画したにもかかわらず、そのあとはそれらを無視しましたか。そのようなことがありましたか。(ありません。)それでは、どのようなことがあったのですか。神はいまだに支配しています。水、風、波を支配しているのです。神は、そうした物事が荒れ狂うことも、人々が暮らす家を破損したり破壊したりすることも許しません。そのおかげで、人は地上で生活し、増殖して繁栄することができるのです。つまり、神は万物を造ったとき、すでにそれらの生存法則を計画していました。神は一つひとつの物事を造ったとき、それが人間に資することを確認し、またそれを支配することで、人間を悩ませたり、災害をもたらしたりすることがないようにしたのです。神による管理がなかったとしたら、水は何の制限も受けずに流れるのではないでしょうか。風も制限を受けずに吹くのではないでしょうか。水と風は法則に従いますか。神がそれらを管理せず、それらを律する法則もなければ、風は吹き荒れ、水は何の制限も受けずに洪水を引き起こすでしょう。波が山より高かったとしたら、海は存在できるでしょうか。できないはずです。大きな山が波ほど高くなければ、海は存在しないでしょうし、大きな山はその価値と意義を失うに違いありません。

『神を知ることについて』「唯一無二の神自身 VII.」(『言葉』第2巻)

日々の神の御言葉 抜粋 169

神は存在する一切のものを造り、それを支配しています。神はそのすべてを管理し、それらに施しを与え、また万物のあらゆる言動を見て吟味しています。それゆえ、神は人間生活のあらゆる部分をも見て吟味しているのです。したがって、神は一つひとつの物事の機能、本質、およびその生存法則から、そのいのちの意義、そして生存の価値に至るまで、自ら造ったあらゆる物事を、掌を指すかのように詳しく知っており、それはどれも完全に神の知るところとなっています。神は万物を造りましたが、それらを律する法則について研究する必要が神にはあると思いますか。神は人間の知識や科学を研究し、それらについて学んで理解する必要がありますか。(必要ありません。)人間のうち、神のように万物を理解できるほど、知識と学識を備えた人はいるでしょうか。いませんね。万物が生きて成長するか、その法則を真に理解している天文学者や生物学者がいるでしょうか。そのような人たちに、一つひとつの物事の存在価値を真に理解することができますか。(できません。)それは、万物が神によって造られたからであり、人間がどれほど多く、どれほど深くこの知識を研究したとしても、あるいはどれほど時間をかけてそれを知ろうと努力したとしても、神による万物創造の奥義や目的を推測することは決してできません。違いますか。さて、ここまでの議論から、あなたがたは「神は万物のいのちの源である」という言葉の真意を部分的に理解したと感じていますか。(感じています。)「神は万物のいのちの源である」というこの主題について述べると、多くの人は「神は真理であり、言葉を使ってわたしたちに施す」という別の言葉をすぐに思い浮かべ、この主題の意味についてそれ以上は何も考えないでしょう。中には、神が人間の生活に施し、日々の食べ物や飲み物、そして日常のあらゆる必需品を与えていることは、神が人間に施しているとはみなされないとすら感じる人もいるでしょう。一部の人はこのように感じているのではないですか。しかし、神の創造の意図は明らかではないですか。つまり、人が正常に存在して生きられるようにすることではないのですか。神は人が暮らす環境を維持し、人間が生き延びるのに必要なものを残らず与えます。さらに、神は万物を管理し、支配しています。こうしたことにより、人間は正常に生活し、繁栄して増殖することができるのです。神はこのようにして、すべての被造物と人間に施します。人間は、こうした物事を認識して理解する必要があるのではないでしょうか。「この主題は、真の神自身に関するわたしたちの認識からあまりにかけ離れているし、わたしたちはパンだけで生きるのではなく、神の言葉によって生きるのだから、こうしたことなど知りたくもない」と言う人もいるかもしれません。そうした認識は正しいですか。(正しくありません。)なぜ正しくないのですか。神が言ったことに関する認識があるだけで、神を完全に理解することができますか。神の働き、裁き、そして刑罰を受け入れるだけで、神を完全に理解することができますか。神の性質や権威のごく一部を知っているだけで、神を理解するには十分だと考えられますか。(考えられません。)神の業は万物の創造に始まり、現在も続いています。神の業が不明瞭だったことは一瞬たりともありません。神が人々の一団を選んで彼らに働きを行ない、彼らを救ったというだけで、神は存在していると信じ、他の何も神とは関係なく、神の権威、身分、あるいは業とも関係ないと信じるなら、その人は神を真に知っていると見なせますか。このいわゆる「神に関する認識」をもつ人は、一方的な理解しかしておらず、それによって神の業を人の一団に限定します。それは、神に関する真の認識ですか。このような認識を持つ人々は、神による万物の創造と支配を否定しているのではないですか。中にはこの点に関わろうとせず、「万物に対する神の支配を、わたしは見たことがない。その考えはあまりに自分とかけ離れていて、わざわざ理解しようとは思わない。神は望むことを何でも行なうが、それはわたしに無関係である。わたしは、自分が神によって救われ、完全にしてもらえるよう、神の導きと御言葉を受け入れるだけだ。他の何もわたしには関係ない。神が万物を造ったときに定めた規則や、万物と人間に施すために行なうことは、わたしと何の関係もない」などと思い込む人がいます。何という話でしょうか。これは反抗ではないですか。あなたがたの中に、このように認識している人はいますか。たとえそう言わなくとも、ここにいるあなたがたの大半がこのように考えていることを、わたしは知っています。このような型通りの人間は、自分の「霊的」観点からすべてを見ます。彼らは、神が語った言葉によって神を聖書に限定し、文字どおりの言葉の意味に限定しようとするばかりです。この種の人は神をさらに知ることを望まず、神が他の業を行なうことに注意を割くのを望みません。こうした考え方は子供じみたもので、同時に極めて宗教的です。こうした見方をする人は神を知ることができますか。こうした人が神を知るのはとてつもなく難しいでしょう。今日、わたしは二つの物語を話したわけですが、それぞれが異なる側面に触れています。それらを耳にしただけでは、いずれも難解だったり、多少抽象的だったりして、理解するのが難しいと感じているかもしれません。それを神の業や神自身と関連づけるのは難しいでしょう。しかし、神の業、そして神が万物や人間の中で行なったことはどれも、すべての人、神を知ろうとするすべての人が、明瞭かつ正確に知らなければならないものです。この認識は、神の真の存在に対する信仰を確固たるものにします。また、神の知恵と力、そして神が万物に施す方法についても、正確な認識をあなたにもたらします。さらにこの認識は、あなたが神の真の存在をはっきり知覚し、神の存在が架空のものでも伝説でもなく、漠然としたものでもなく、学説でもなく、ましてや一種の精神的な慰めでもなく、現実の存在であることを理解できるようにします。そのうえ、神が常にすべての被造物と人間に施してきたことを、人々に知らしめます。神は自身の方法で、神自身の律動にしたがってこれを行ないます。ゆえに、神の予定のもと、万物が自分に割り当てられた任務を行ない、自分の責任を果たし、自分の役割を果たせるのは、神が万物を造り、それらに法則を与えたからなのです。神の予定のもと、一つひとつの物事は人間のため、人間が暮らす空間と環境のため、それぞれの役割を果たします。仮に神がそのようにせず、人間がこのような生活環境をもっていなければ、人間が神を信じたり神に従ったりすることは不可能でしょう。それは単なる無駄話にしかならないはずです。違いますか。

『神を知ることについて』「唯一無二の神自身 VII.」(『言葉』第2巻)

日々の神の御言葉 抜粋 170

神が人類のために創造する基本的な生活環境 (抄出)

わたしたちは、「神は万物のいのちの源である」という言葉に関連する多くの話題や内容を議論してきましたが、神があなたがたに言葉を施し、刑罰と裁きの働きを行うこと以外に、どんなものを人類に授けるのか、あなたがたは心の中で分かっているでしょうか。中には「神はわたしに恵みと祝福を授け、懲らしめと慰め、そして思いやりと加護をあらゆる方法で与えてくださる」と言う人がいるかもしれません。また、「神はわたしに毎日食べ物や飲み物を与えてくださる」と言う人もいるでしょう。一方、「神はわたしにあらゆるものを授けてくださった」と言う人さえいるでしょう。人々が日常生活で遭遇するこれらのことに対して、あなたがたは、自分自身の肉体的な生活体験の範囲に関連する形で反応するでしょう。神は一人ひとりに多くのものを授けており、わたしたちがここで議論していることは、人々が日々必要とするものの範囲に限られていませんが、各人の視野を広げ、巨視的な視点から物事を見られるようにすることを意図しています。神は万物のいのちの源ですが、どのようにして万物のいのちを維持するのでしょうか。言い換えるなら、すべての被造物が存在し続けられるよう、神はそれらに何を与えることで、その存在と、それを支える法則を維持するのでしょうか。これこそが、今日の議論の要点です。……しかしこの話題、そしてわたしが今から話すことを、知識、人間の文化、あるいは研究に結び付けるのではなく、神の業に結び付けることを、わたしは望みます。わたしは神について、神自身についてしか話しません。それがあなたがたに対するわたしの提案です。あなたがたはきっと理解していることでしょう。

神は人類に多くのものを授けました。まずは、人々が目にできること、つまり感じられる物事から話を始めます。これらは、人々が心で受け入れ、理解することができるものです。それではまず、神が人類に何を与えてきたかについて、物質世界の話から始めましょう。

1) 空気

最初に、神は人間が呼吸できるように空気を造りました。空気は、人間が日常的に接触できる物質であり、また人間がどの瞬間でも、たとえ眠っているあいだでも依存しているものです。神が創造した空気は人類にとって途方もなく重要です。それは人類の呼吸一つひとつと、いのちそのものの不可欠な要素なのです。感じることはできるものの目に見えないこの物質は、すべての被造物に対する神からの最初の贈り物です。しかし空気を造ったあと、神は自分の働きが終わったと考え、そこでやめたでしょうか。それとも、空気の密度について考慮したでしょうか。空気の中身について考慮したでしょうか。空気を造ったとき、神は何を考えていたのでしょうか。神は何のために空気を創ったのでしょうか、またその理由は何だったのでしょうか。人間には空気が必要であり、呼吸することが必要です。まず、空気の密度は人間の肺に適していなければなりません。誰か空気の密度を知っていますか。実を言えば、数字やデータという観点からこの質問に答えられる必要は特になく、答えを知る必要はまったくありません。一般的な考えがあればそれで完全に十分です。人間の肺が呼吸するのに最も適した密度で、神は空気を造りました。つまり、人体へと容易に入り、呼吸しても身体に害をもたらさないように空気を造ったのです。これが、空気を造る上で神が考慮したことです。次に、空気に含まれるものについて話しましょう。空気の中身は人間にとって有毒ではなく、肺をはじめ身体のどの部分も害することはありません。神はそのすべてを考慮する必要がありました。人間の呼吸する空気が穏やかに身体を出入りするように、そして空気が吸い込まれた後、血液や肺、あるいは全身のいらない空気が適切に代謝されるように、空気中の物質の性質と量を整えました。さらに、有害な成分が一切含まれないように考慮しなければなりませんでした。わたしが空気のこれら二つの基準について話す目的は、何か特定の知識をあなたがたに詰め込むことではなく、神は自身の考えに沿ってありとあらゆる被造物を造ったのであり、神が造ったすべてのものはまさに最良なのだと、あなたがたに示すことです。さらに、空気中の粉じんの量、地球上の塵、砂、泥の量、そして空から地上に舞い落ちる粉じんの量に関して言えば、神にはそれらを管理する方法、つまりこれらのものをきれいに取り除く、または分解させる方法があります。一定量の塵があると、神は、その塵が人間の身体に害を及ぼしたり、人間の呼吸を危険に晒したりすることがないよう、塵の粒子を身体に無害な大きさにしました。神による空気の創造は奥義ではないでしょうか。それは神の口からただ一息の空気を吐き出すくらいに単純なことだったでしょうか。(いいえ。)極めて単純なものを創造するときでさえ、神の奥義、神の知能の働き、神の考え方、そして神の知恵がすべて明らかになります。神は実際的ではありませんか。(はい、そうです。)これが意味するのは、単純なものを造るときでさえ、神は人類のことを考えていたということです。まず、人間が呼吸する空気はきれいであり、その中身は人間の呼吸に適しており、毒性がなく、人間に害を及ぼしません。同じように、空気の密度も人間の呼吸に適しています。人間が絶えず吸って吐き出すこの空気は、人間の身体に、人間の肉体に不可欠なものです。そのため人間は制約も心配もなく、自由に呼吸することができます。そうして正常に呼吸することができるのです。空気は、神が最初に創造した、人間の呼吸に不可欠なものです。

『神を知ることについて』「唯一無二の神自身 VIII.」(『言葉』第2巻)

日々の神の御言葉 抜粋 171

神が人類のために創造する基本的な生活環境 (抄出)

2) 気温

二番目は気温です。気温が何かは誰もが知っており、人間の生存に適した環境にとって不可欠なものです。たとえば摂氏40度を超えるなど、気温が高すぎれば、それは人間を大いに消耗させるのではないでしょうか。人間がそのような状況で生きるのは極めて疲れることではないでしょうか。逆に気温が低すぎる場合はどうでしょうか。気温が摂氏マイナス40度に達したとしたら、それもまた人間には耐え難いでしょう。したがって、神は気温の範囲を極めて綿密に設定し、人体が適応可能な気温の範囲、つまりおおよそ摂氏マイナス30度から摂氏40度のあいだにしました。北から南まで、地上の気温は基本的にこの範囲に収まります。寒冷地域では、気温はおそらく摂氏マイナス50度から60度まで落ちることもありますが、神が人間をそうした地域で暮らすようにさせることはなかったはずです。それではなぜ、そのような寒冷地域が存在するのでしょうか。そこには神自身の知恵があり、神自身の意図があります。神は、そのような場所の近くにあなたを行かせません。神は暑すぎる地域や寒すぎる地域を保護しています。つまり、そこで人間が暮らすことを計画してはいませんでした。そうした場所は人類のためではないのです。しかし、神はなぜ地上にそのような場所を存在させたのでしょうか。人間がそうした場所で暮らす、さらには生存することを意図していなかったのなら、神はなぜそれを創るのでしょうか。そこに神の知恵があります。つまり、人間が生存する環境の気温の範囲を、神は合理的に調整してきたのです。ここでも自然の法則が作用しています。気温を維持して操作する特定の物事を、神は創造しました。それは何か。まず、太陽は人々に温かさをもたらしますが、その温かさが極端だと人は耐えることができるでしょうか。太陽にあえて近づこうとする人がいるでしょうか。太陽に接近できる科学的な機器が地上にあるでしょうか。(ありません。)それはなぜか。太陽が熱すぎるからです。太陽に近づき過ぎるものはすべて溶けます。したがって、神は具体的な働きを行い、入念な計算と基準に沿って太陽の高度、および人類との距離を定めました。また、地球には南北二つの極があります。それらの地域は凍っており、一面の氷河です。人類は氷河地帯に住めるでしょうか。そのような場所が人間の生存に適しているでしょうか。いや、適してはいません。ゆえに、人がそうした場所に行くことはないのです。人が南極や北極に行かないので、そこにある氷河は保たれ、気温を管理するという目的を果たすことができます。これは分かるでしょう。南極も北極もなければ、太陽が絶えず発する熱のせいで地球の人間は消滅するはずです。しかし、神はこれら二つだけを用いて、気温を人間の生存に適した範囲内に保っているのでしょうか。いや、そうではありません。それ以外にも、野原の草、様々な種類の木々、そして森のあらゆる種類の植物など、太陽の熱を吸収するありとあらゆる生き物が存在します。これらは太陽の熱を吸収する中で、太陽の熱エネルギーを中和し、それによって人間が生活する環境の気温を調整します。また、河川や湖沼などの水源も存在します。河川や湖沼の表面積は誰にも決定できません。地球上の水の量、水の流れる行方、方向、水量、流れる速度を制御できる者も存在しません。それは神だけが知っています。地下水から始まり、目に見える地表の河川や湖沼に至るまで、様々な水源もまた、人間が生活する環境の気温を調整することができます。水源に加えて、山や平野、峡谷や湿地など、ありとあらゆる地形も存在し、そのすべてが気温を、それぞれの地理的範囲や領域と釣り合いが取れるように調節しています。たとえば、ある山の円周が100キロメートルである場合、その100キロメートルには100キロメートル分の有用性があります。地上に造ったそれら山地や峡谷の数についても、神は十分に考慮しました。つまり、神が創造した一つひとつのものの背後には、それぞれ物語があり、一つひとつに神の知恵と計画が含まれているのです。たとえば、森とあらゆる種類の植生について考えてみましょう。それらが生育する地域の範囲と規模はいかなる人間にも制御できず、それらについて最終的に決定できる人間は一人としていません。同様に、森と植生が水をどの程度吸収するか、太陽からの熱エネルギーをどの程度吸収するかについても、人間が制御することは不可能です。これらの物事はすべて、神が万物を創造した際に立てた計画の範囲内に収まっているのです。

また、そうした適切な気温の環境において人間が生活できるのは、神があらゆる点で入念に計画し、考慮し、采配したからに他なりません。したがって、太陽など人間が自らの目で見る個々のもの、南極や北極など人間が頻繁に話を聞くもの、地上や地中、水中の様々な生き物、そして森やその他の植生で覆われている空間の量、水源、様々な形態の水域、淡水や海水の量、さらに様々な地理的環境など、神はこれらすべてを用いて人間が生存するための常温を維持しているのです。これは絶対です。人間がそうした適切な気温の環境において生活できるのは、神がそのすべてを深く考慮したからに他なりません。気温は寒すぎても暑すぎてもいけません。人体が順応できる気温を超えるほど暑い場所は、間違いなく神があなたのために用意した場所ではありません。気温が低すぎて寒すぎる場所、つまり到着後わずか数分で人間が完全に凍えてしまい、話すことができず、脳が凍り、思考不可能になり、すぐに呼吸困難になるような場所も、神が人類のために用意した場所ではありません。人間がどのような研究を行いたいと望んでいようとも、あるいは革新したい、こうした制約を打破したいと考えたとしても、人が何を考えたところで、人体が順応可能な限界を超えることは決してできません。人間は、神が人間のために設けたこの限界を決して解消できないのです。なぜなら、神は人間を造り、人体が順応可能な温度を一番よく知っているからです。しかし、人間自身はそれを知りません。人間は知らないとわたしが言うのはなぜでしょうか。人間はどのような愚行を行ってきましたか。大勢の人が北極や南極に絶えず挑んできたのではありませんか。このような人たちは、それらの場所に行ってその地を占有し、そこに根を下ろそうと常に望んできました。これは馬鹿げた行為ではありませんか。たとえあなたが南極と北極を完全に調査したとしても、それが何だというのですか。たとえあなたがそこの気温に順応して暮らすことができ、南極と北極の現在の生存環境を「改善」したとしても、それが何らかの形で人類に恩恵をもたらすでしょうか。人間には生存できる環境があるのに、静かに大人しくそこに留まることはなく、あくまで生存不可能な場所へと冒険しようとします。それは何を意味するのでしょうか。人間はこの適切な気温の中で生活することに飽き飽きし、我慢できなくなっている上に、あまりに多くの祝福を享受してきました。また、この通常の生活環境は、人類によってほぼ完全に破壊されてしまったので、南極や北極へ行ってさらなる害を及ぼしたり、あるいは「新たな道を切り開く」何らかの方法を見つけられるよう、ある種の「大義」を追い求めたりすることを考えています。これは愚かではありませんか。つまり、祖先であるサタンの指導の下、この人類は次から次へと愚かなことをし続け、神が人類のために造った美しい住処を、見境なく無闇に破壊しているのです。これはサタンの仕業です。さらに、地球上における人類の生存が多少危うくなったのを見て、月へ行ってそこで生存する方法を確立したいと、大勢の人が考えています。しかし結局、月には酸素がありません。酸素なしで人間は生存できますか。月には酸素がないので、人間が居留できる場所ではありませんが、人間は月へ行く願望にしがみついています。そうした行為を何と呼ぶべきでしょうか。これも自滅行為です。月は空気のない場所で、気温も人間の生存に不適なのだから、神が人間のために用意した場所ではないのです。

『神を知ることについて』「唯一無二の神自身 VIII.」(『言葉』第2巻)

日々の神の御言葉 抜粋 172

神が人類のために創造する基本的な生活環境 (抄出)

3) 音

三番目は何でしょうか。それは、人間が生存する正常な環境に不可欠なものであり、神が万物を造った際に采配しなければならなかったものです。神にとって、そして一人ひとりの人間にとっても、極めて重要なものです。神がこれを考慮していなければ、人間の生存を大いに妨げていたことでしょう。つまり、人間の生活と肉体に著しい影響を及ぼし、人類がそのような環境で生存することを不可能にしていたはずです。また、そうした環境ではどのような生物も生存できないと言えるでしょう。わたしは何のことを言っているのでしょうか。それは音です。神は万物を造り、万物は神の手の中で生きています。神の被造物はすべて、神の視界の中で生き、絶えず動き回っています。言い換えるなら、神が創造した万物の一つひとつの物事には、価値と意義があるのです。つまり、一つひとつの物事の存在には、本質的な何かが備わっているのです。神の目から見ると、それぞれのものは生きており、また生きている以上、万物の一つひとつが音を発します。たとえば、地球も太陽も、そして月も常に自転しています。万物が繁殖し、成長し、動く際も、絶えず音を発しています。地上に存在する神の被造物はすべて常に繁殖し、成長し、動いています。たとえば、山の基盤は動いて移動しており、海中の生き物はすべて泳いで動き回っています。そのことは、これらの生き物、および神の視界にある万物が、確立されたパターンに沿って、絶えず規則的に動いていることを意味します。では、闇の中で繁殖し、また成長し、密かに移動しているこれらすべてのものによって、いったい何が生み出されるのでしょうか。それは音、偉大で力強い音です。地球以外のあらゆる惑星もまた絶えず運動し、それらの惑星で暮らす生き物や有機体もまた絶えず繁殖し、成長し、移動しています。つまり、生命を持つものも、生命のないものも、すべて神の視界の中で絶えず前進しており、そうする中で一つひとつが音を発しています。神はこうした音についても采配を行ったのです。神がそのようにした理由を、あなたがたはすでに理解しているでしょう。飛行機に近づくと、そのエンジンの轟音はあなたにどのような影響を及ぼすでしょうか。あまりに長くその近くにいると、耳が聞こえなくなります。人間の心臓はそのような試練に耐えられるでしょうか。心臓の弱い人の中には耐えられない者もいるでしょう。もちろん、強い心臓の持ち主であっても、その音が長く続き過ぎると耐えられないはずです。つまり、人体に対する音の影響は、それが耳に対してであれ、あるいは心臓に対してであれ、各人にとって極めて甚大であり、うるさすぎる音は人間に危害を与えます。したがって、神が万物を創造し、万物が正常に機能し始めた後、こうした音、すなわち万物が運動する音についても、神は適切な采配を行いました。これもまた、人類のための環境を造る際に、神が考慮しなければならなかった事柄の一つです。

まず、地表からの大気の高さが音に影響を及ぼします。加えて、土壌にある隙間の大きさもまた、音を操り、音に影響します。そして、様々な地理環境が重なり、それも音に影響を与えます。つまり、人間の耳や心臓が耐えることのできる環境で人間が生存できるように、神はある種の方法を用いて一部の音を消すのです。さもなければ、音は人間の生存にとって大きな障害となり、人間の生活を大いに妨げ、深刻な問題を突きつけます。つまり、神は大地と大気、そして様々な地理的環境の創造において、極めて几帳面であり、その一つひとつに神の知恵が込められています。このことに関する人類の理解は、それほど詳細である必要はありません。その中に神の業が含まれていることさえ知っていれば、それで十分です。さて、神が行ったこの働きはまさに、音を精密に調整して人間の生活環境と通常の生活を維持するものでしたが、それは必要でしたか。(はい。)この働きが必要だったなら、その観点から見て、神はそうした働きを用いて、万物に施したと言うことができるでしょうか。神は、妨害を一切受けない状況で、人間の身体が極めて正常に生活できるように、また人類が普通に存在して生活できるように、そうした環境を造り、人類に施しました。ならばこれは、神が人類に施す方法の一つではないでしょうか。神が行った極めて重要なことではありませんか。(はい。)それはまさしく必要でした。それでは、あなたがたはその価値をどのように認識しているでしょうか。たとえあなたがたが、それは神の業だったと感じることができず、当時それを神がどのように行ったかを知らなかったとしても、神がこれを行ったことの必要性を感じ取れるでしょうか。神がそこに注ぎ込んだ知恵や気遣い、それに思いを感じることができるでしょうか。(はい。)感じることができればそれで十分です。神が被造物のあいだでなした業のうち、人間が感じることも見ることもできないものが多数あります。わたしがそれを取り上げるのはひとえに、神の業に関することをあなたがたに伝えるためであり、それによってあなたがたは、神を認識できるようになります。こうした手がかりにより、あなたがたは神をさらによく認識して理解できるのです。

『神を知ることについて』「唯一無二の神自身 VIII.」(『言葉』第2巻)

日々の神の御言葉 抜粋 173

神が人類のために創造する基本的な生活環境 (抄出)

4) 光

四番目は、人間の目に関係しているもの、つまり光です。光もまた極めて重要です。眩しい光を見て、その明るさがある程度に達すると、人は失明しかねません。つまるところ、人間の目は肉体の目なのであり、刺激に耐えることができません。太陽を直視しようとする人がいるでしょうか。中には試した人がいて、サングラスをかければ大丈夫ですが、道具を使う必要があります。道具がなければ、人間は裸眼で太陽のほうを向き、直視することができません。しかし、神は人類に明るい光を与えるために太陽を造ったのであり、この光も神が配慮したものです。神は太陽を造り終えたあと、単にそれをどこかに置き、あとは放っておいたのではありません。神はそのように物事を行いません。神は自身の業において極めて慎重であり、徹底的に考え抜きます。神は人類のために目を造って彼らが見えるようにし、また人間が物を見るための光についても、その特性を前もって定めました。光があまりに薄暗ければ、何の役にも立たないでしょう。目の前にある自分の指も見えないほど暗い場合、人間の目は機能せず、役に立ちません。しかし光が明るすぎると、その明るさに耐えることができないので、人間の目はやはり物を見ることができなくなります。したがって、神は人間の目に適した量の光でもって、人類の生存環境を整えたのです。その光の量が人の目を傷つけたり害を与えたりすることはなく、まして機能を失わせることはありません。神が太陽と地球の周囲に雲の層を加え、人間の目や肌を傷つけるような光が、空気の密度によって正しく除去されるようにしたのはそのためです。これは相互に釣り合っています。さらに、神が造った地上の色彩は、太陽光やあらゆる種類の光を反射させ、人間の目が慣れるのに明るすぎる光を除去することができます。このようにして、人間は色の濃いサングラスを常時着用せずとも、屋外を歩いて生活を送ることができるのです。通常の条件下では、人間の目は視界の中にある物を見ることが可能であり、光に煩わされることはありません。つまり、光は眩しすぎても暗すぎてもいけないのです。あまりに薄暗ければ人の目は損傷を受け、少し使っただけで駄目になるでしょう。光があまりに明るければ、人の目はそれに耐えられないはずです。人間が目にしているまさにこの光は、人間が目で見るのに適していなければならず、神は様々な方法を通して、光が人間の目に与える損傷を最小限にしてきました。そしてこの光が人間の目に恩恵をもたらそうと、あるいは不都合をもたらそうと、人間が自分の目の機能を維持しつつ、寿命を迎えるようにするのに十分です。神はそれを徹底的に考慮したのではありませんか。しかし、悪魔サタンはそうした考慮を一切せずに行動します。サタンにとって、光は常に明るすぎるか暗すぎるかのどちらかです。これがサタンの振る舞い方なのです。

神は視力、聴力、味覚、呼吸、感覚など、人体のあらゆる側面にこのようなことを行いました。それは、人類の生存のための順応力を最大化し、人間が普通に生き続けられるようにするためです。つまり、神が造った現在の生活環境は、人類の生存に最適で、最も有益な環境なのです。中には、これは大したことでなく、どれも至って普通だと考える人もいるでしょう。人々は音、光、そして空気のことを、自分が生まれた瞬間から享受している当然の権利だと思っています。しかし、あなたが享受できるこれらの物事の背後で、神は努力を重ねてきました。これは、人間が知って理解すべきことです。そうした物事を理解したり知ったりする必要はないとあなたが思っているかどうかにかかわらず、簡潔に言うと、これらのものを造ったとき、神は大いに配慮し、計画を立て、ある考えを持っていました。神は軽率に、あるいは単純に、何も考えることなく、人類をそうした生活環境に置いたのではないのです。わたしはこうした些細な物事の一つひとつをあまりに大げさに話していると、あなたがたは考えるかもしれません。しかしわたしの考えでは、神が人類に施した一つひとつの物事は、人類の生存に必要なものです。ここに神の業があるのです。

『神を知ることについて』「唯一無二の神自身 VIII.」(『言葉』第2巻)

日々の神の御言葉 抜粋 174

神が人類のために創造する基本的な生活環境 (抄出)

5) 気流

五番目は何でしょうか。これは一人ひとりの日常生活と密接に結びついているものです。それと人間生活との関係はあまりに密接で、それなしでは、人体がこの物質世界で生きてゆけないほどです。それは気流です。「気流」という名詞を聞けば、おそらくすべての人が理解できるはずです。では、気流とは何でしょうか。「気流」とは単に空気の流れだと言えるでしょう。気流は、人間の目に見えない風です。またそれは、気体の運動形態の一つでもあります。しかし、この話の中で、「気流」はおもに何を指しているでしょうか。わたしが言えば、あなたがたはすぐに分かるでしょう。地球は回りつつ、山や海、そしてすべての被造物を抱えており、一定の速度で回転しています。あなたがこの回転を感じなくても、地球は確かに回転しています。この回転は何を生じさせますか。あなたが走るとき、風が起きて耳の後ろへ吹き去らないでしょうか。人間が走った際に風が発生し得るなら、地球が回転したときに風が発生しないということがどうしてあり得るでしょう。地球が回転するとき、万物は運動しています。地球自体が運動し、一定の速度で回転する一方で、地上の万物も絶えず繁殖し、成長しています。したがって、一定速度で移動すると、当然気流が発生します。これがわたしの言う「気流」です。この気流は人体に何らかの影響を及ぼすのではありませんか。台風を考えてみましょう。通常の台風はそれほど強力ではありませんが、台風に見舞われると、人間はしっかり立つことすらできず、風の中を歩くのは困難です。一歩進むのさえ苦労し、風で何かに押し付けられ、動くことができない人さえいるでしょう。これは、気流が人類に影響を与える形態の一つです。仮に地球全体が平野で覆われていたなら、地球と万物が回転すると、それによって生じる気流に人体が耐えるのは極めて困難になるでしょう。そうした状況に対処するのは、極めて困難です。本当にそうであれば、そうした気流は人類に危害を及ぼすだけでなく、完全に破壊してしまうのではないでしょうか。このような環境では、人間は生存できないはずです。そうしたわけで、神は様々な地理的環境を造ることで、そのような気流を解消しました。こうして様々な環境において、気流はますます弱くなり、方向や速度、威力が変化します。山、山脈、平野、丘陵、盆地、峡谷、高原、大河など、様々な地理的特徴が見られるのはそのためです。神はこうした様々な地理的特徴によって、気流の速度、方向、威力を変化させます。これが、気流を減らしたり操ったりすることで、風速、風向、風力を適切なものにする神の方法であり、それによって人間は通常の生活環境を得ることができます。そうする必要があるでしょうか。(はい。)こうしたことを行うのは、人間にとって困難に思われますが、神にとっては容易です。なぜなら、神は万物を監督しているからです。神にとって、人類に適した気流のある環境を造ることほど単純かつ容易なことはありません。したがって、神が造ったこのような環境においては、あらゆる被造物の一つひとつが不可欠であり、一つひとつの物事の存在に価値と必要性があるのです。しかしこの原則が、サタンや堕落させられた人類に理解されることはありません。人類は破壊と開発、搾取を続け、山々を平野へと換え、峡谷を埋め立て、平野に高層ビルを建て、コンクリートジャングルを造り出すという無駄なことを夢見ています。神が人間のために用意した、この最適な環境において、人間が幸福に暮らし、幸福に成長し、幸福な毎日を送れることが神の望みです。だからこそ、人類の生活環境の扱い方において、神が不注意だったことはないのです。人間の身体と生活環境が、自然条件に起因する障害の影響を一切受けず、人類が正常に生活し、繁殖し、万物と正常に調和して共存できるよう、神は気温から空気に至るまで、また音から光に至るまで、精緻な計画を立てて采配してきました。そのすべては、神から万物に、そして人類に施されているものなのです。

『神を知ることについて』「唯一無二の神自身 VIII.」(『言葉』第2巻)

日々の神の御言葉 抜粋 175

今では神と人類の最大の違いに気づいたでしょうか。最終的に、万物の主人は誰ですか。それは人間ですか。(いいえ。)では、あらゆる被造物の扱い方における、神と人間の相違は何ですか。(神は万物を支配して采配し、人間はそれらを享受します。)あなたがたはそれに賛成しますか。神と人類の最大の違いは、神はすべての被造物を支配し、それらに施すということです。神は万物の源であり、神がすべての被造物に施す一方で、人間はそれを享受します。つまり、神からあらゆる被造物に授けられるいのちを受け入れるとき、人間はそのすべての被造物を享受しているのです。神は主人であり、人類は神による万物創造の成果を享受します。では、神のあらゆる被造物の立場から見て、神と人類の違いは何でしょうか。神は万物が成長する法則を明瞭に見ることができ、それらの法則を制御し、支配します。つまり、万物は神の視界の中にあり、神による吟味の範囲内にあります。人間には万物が見えるでしょうか。人間に見えるものには制限があります。つまり、自分の目の前にあるものに限られるのです。山に登るとき、あなたが見るのはその山だけであり、山の反対側にあるものは見ることができません。海岸へ行くと、あなたに見えるのは海のこちら側だけであり、その海の対岸がどのようであるかは分かりません。森に入ると、自分の周囲と目の前にある植物が見えるものの、その先に何があるかは見えません。人間は高い場所、遠い場所、深い場所を見ることができません。人間に見えるのは目の前にあるものと、視野の中にあるものだけなのです。四季を支配する法則や、万物が成長する法則を人間が知っていたとしても、万物を管理したり支配したりすることはやはりできません。しかし、神によるすべての被造物の見方は、あたかも神が自ら製作した機械を見るようなものです。神はそれぞれの部品と結びつき、その原則は何か、その法則は何か、その目的は何かを熟知しており、そのすべてをこの上なく明瞭に知っているのです。ゆえに神は神であり、人間は人間なのです。人間は科学の研究や、万物を支配する法則の研究を深く進めることができるものの、その研究の範囲は限られています。その一方で、神は万物を支配しており、それは人間にとって無限の支配です。神がなした極めて小さな業について、人が一生をかけて研究しても、何の成果も得られないことがあります。それゆえ、単に知識や学習した事柄を用いて神を研究しても、神を知ることも理解することも決してできないのです。しかし、真理を求め、神を求める道を選び、神を認識するようになるという観点から神に目を向けるなら、やがてある日、神の業と知恵が随所にあることをただちに認め、神が万物の主、そして万物のいのちの源であると言われる理由を知るでしょう。そうした認識を得れば得るほど、神が万物の主と呼ばれる理由をいっそう理解することになります。あなた自身を含めた万物、そしてすべてのものは、神による安定した流れの施しを絶え間なく受け取っています。また、この現世で、そしてこの人類の中で、万物の存在を支配し、管理し、維持する能力と本質を持ち得るのは、神を除いて存在しないのだと、はっきり感じ取ることができるようになります。こうした認識に達したとき、神が自分の神であることを、あなたは真に認めるでしょう。この地点に達したとき、あなたはすでに神を真に受け入れ、神を自分の神、自分の主人としています。そうした認識を得て、あなたのいのちがそのような地点に達したとき、神はもはやあなたを試したり、裁いたりせず、あなたに対して要求することもありません。なぜなら、あなたは神を理解し、神の心を知り、心の中で神を真に受け入れたからです。このことは、これらの主題、つまり神による万物の支配と管理について交わる重要な理由です。そうするのは、人々にさらなる認識と理解を与えるのが目的であり、単に神の業を認めさせるだけでなく、より実践的な形で神の業についての認識と理解を与えるためなのです。

『神を知ることについて』「唯一無二の神自身 VIII.」(『言葉』第2巻)

日々の神の御言葉 抜粋 176

神が人類のために用意する日常の食べ物と飲み物 (抄出)

穀物や果物、野菜、および様々な種類のナッツ類はどれも、植物性の食料です。それらは植物性の食料であるものの、人体の必要を満たすのに十分な栄養素が含まれています。しかし神は、「わたしはこれらの食べ物だけを人類に与える。人類にこれらのものだけを食べさせよう」とは言いませんでした。神はそこでやめず、引き続き人類のためにいっそう美味しい食べ物をさらに用意しました。その食べ物とは何ですか。それは、あなたがたのほとんどが見て食べることのできる様々な肉や魚です。神は人間のために、肉と魚の両方を数多く用意しました。魚は水中で暮らし、魚の肉に含まれる物質は、地上で暮らす動物の肉と異なっており、人類に様々な栄養素を供給できます。また魚にも、人体の冷気と熱を調整できる特性があるので、魚は人間にとって極めて有益です。しかし、美味しいものは、食べ過ぎてはいけません。わたしがすでに言ったように、神は人類に対し、適切な時に適切な分量を授けるので、人間は正常な方法で、かつ季節と時期に応じて、神から授かったものを享受できます。さて、家禽という分類にはどういった食べ物があるでしょうか。ニワトリ、ウズラ、ハトなどです。アヒルやガチョウを食べる人も多くいます。神はこれらありとあらゆる肉を与えましたが、律法の時代、自身の選民に対してある種の要求を行い、食事に関する特定の制約を課しました。現在、この制約は個人の好みと解釈に基づいています。こうした様々な肉により、人体に多様な栄養素が供給され、タンパク質や鉄を補給し、血液を豊かにし、筋肉と骨を強化し、頑健な身体を築きます。人間がどう料理して食べるかに関係なく、肉によって食べ物の味わいは向上し、食欲が増すと同時に、胃袋が満たされます。また何より重要なのが、そうした食べ物は人体が日々必要とする栄養素を供給できるということです。それが、神が人類のために食べ物を用意したときの気遣いです。野菜があり、肉がある。これが豊富さではありませんか。しかし人間は、神が人類のためにあらゆる食べ物を用意した際の意図が何であったかを理解する必要があります。それは、こうした食べ物を人類が過度に享受するようにさせるためだったのでしょうか。人間が罠に捕らわれ、そうした物質的な願望を満たそうと試みると、いったい何が起きるでしょうか。栄養過剰になるのではありませんか。栄養素が多すぎると、様々な形で人体に害を及ぼすのではありませんか。(はい。)これが、神が適切な時期に適切な分量を配分し、時期と季節の違いに応じて、様々な食料を人間に享受させる理由です。たとえば、酷暑の夏を過ごすと、人間の身体には大量の熱だけでなく、病気の原因となる乾気や湿気が蓄積されます。秋が来ると、多種多様な果実が成熟し、人間が果物を食べると、体内の湿気は解消されます。この時、牛や羊も逞しく成長するので、この時期にこそ、人間は肉をさらに食べて栄養を摂るべきです。様々な肉を食べることで、人体はエネルギーとぬくもりを得て、それが冬の寒さに耐えるのに役立つので、冬を安全に、かつ健康的に乗り切ることができます。神はこの上ない配慮と正確さでもって、人類にいつ何を施すかを操り、調整します。また様々なものを成長させ、果実を実らせ、熟させています。これは「人間が日常生活の中で必要とする食料を、神はどのように用意するのか」ということに関係しています。様々な種類の食料に加え、神は人類に水源をも与えています。人間は食後に水を飲まなければなりませんが、果物だけで十分でしょうか。人間は果物だけでは生きられず、それに果物がない季節もあります。では、人類が抱える水の問題は、どうすれば解決できるでしょうか。神はそれを、湖沼、河川、泉など、地上と地下の水源を多数用意することで解決してきました。汚染されていない限り、また人間によって処理されたり害されたりしていない限り、それらの水源は飲用に適しています。つまり、人間の肉体生活を支える食料源に関して、神は極めて正確で、精密で、適切な用意を行ってきたのです。そのおかげで人間の生活は豊富で潤沢であり、何も不足していません。これは、人々が見て感じ取れることです。

さらに神は、万物の中でも、人体の怪我や病気を癒やすことを目的とした植物や動物、そして様々な草を造りました。たとえば、火や熱湯でたまたま火傷したらどうすべきでしょうか。水で洗い流すだけでいいでしょうか。布切れで巻くだけでいいでしょうか。そのようなことをすれば膿が溜まって化膿するかもしれません。また、発熱したり、風邪をひいたり、作業中に負傷したり、悪いものを食べて胃の病気になったり、生活習慣や情緒的な問題のせいで、血管系の疾患や精神疾患、内臓疾患などの病気になった場合、そうした病状を癒すための植物がそれぞれに存在します。さらに、血の巡りをよくして血行不良を改善する植物、痛みを緩和する植物、止血する植物、麻酔効果のある植物、皮膚を癒して正常な状態に戻す植物、鬱血を解消する植物、解毒する植物などがあります。要するに、これらの植物は日常生活で活用できるのです。人々が活用できるそうした植物は、人体が必要とする場合に備えて神が用意したものです。神のおかげで人間が偶然発見した植物もあれば、神に選ばれた人が発見した植物もあり、神が指揮した特定の現象の結果として発見された植物もあります。そうした植物の発見後、人類はそれらを伝えて多くの人が知るようになります。このように、神によるこうした植物の創造には、価値と意義があります。要するに、これらはすべて神に由来し、神が人類の生活環境を造ったときに用意し、植え付けられたものなのです。これらはどれも不可欠なのです。神の思考は人間の思考よりも徹底しているでしょうか。神がなしたすべてのことを見て、あなたは神の実際的な側面を感じ取ることができるでしょうか。神は密かに働きました。この世界に人間がまだ現れていないとき、神がいまだ人類と接していないときに、神はそのすべてを造ったのです。すべては人類を念頭に置いて、人類の存在のために、人類の生存を考慮して行われました。それにより、神が人類のために用意した、この豊富で潤沢な物質世界で、人類は食料や衣料について心配することなく、何かに不足することなく、幸せに生活することができます。人類はそうした環境の中で繁殖し、生存し続けることができるのです。

『神を知ることについて』「唯一無二の神自身 VIII.」(『言葉』第2巻)

日々の神の御言葉 抜粋 177

最初に、人類が暮らす環境、その環境のために神が行ったこと、そして神がした用意から話を始めました。それから神が采配した物事を話し合いました。つまり、神が人類のために用意した被造物同士の関係や、これらの被造物が人類に危害を加えるのを防ぐために、そうした関係をどのように采配したかです。神はまた、被造物の中にある様々な要素が人類の環境に与え得る害を軽減し、万物がその目的を最大限果たし、好ましい環境と有益な要素を人間にもたらすようにして、かくして人類がそうした環境に順応し、生命と繁殖の周期を着実に繰り返すことができるようにしました。その次は、人体が必要とする食料、すなわち人類の日常の食べ物と飲み物について話しました。これもまた人類の生存の必要条件です。つまり、人体は、呼吸するだけ、日光や風だけ、あるいは適切な気温だけでは生きられないということです。人間は胃袋を満たす必要もありますが、神は何も見過ごさず、人間の腹を満たすものの源、つまり人類の食料源も用意しました。こうした豊富で潤沢な産物、すなわち人類の食べ物や飲み物の源を見て、神は人類とすべての被造物の供給源だと言えるでしょうか。創造の際、神が草木だけ、あるいはその他多数の生き物だけを造り、それら様々な生き物や植物が、どれも牛や羊が食べるためのものだったり、あるいはシマウマや鹿やその他様々な動物のためだったりして、たとえばライオンはシマウマや鹿などを食べ、虎は羊や豚などを食べるものの、人間が食べるのに適したものが一つもなかったとしたら、それでうまく行っていたでしょうか。うまく行かなかったはずです。人類はさほど長く生存できなかったに違いありません。人間が木の葉だけを食べたとしたらどうでしょうか。それでうまく行っていたでしょうか。人間は羊のために用意された草を食べられるでしょうか。少し試すだけなら害はないでしょうが、そのようなものを長期間にわたって食べ続けたとしたら、人間の胃はそれに耐えられず、長くは生きていられなかったはずです。動物は食べることができても、人間にとっては有毒なものさえあります。動物がそれを食べても何も起きませんが、人間が食べるとそうではありません。言い換えると、神は人間を造ったので、人体の原則や構造、人間に必要なものを最もよく知っているのです。人体の構成、成分、必要なもの、人体の内臓の機能、そしてそれらが様々な物質をどのように吸収し、排出し、代謝するかを、神は完全に把握しています。人間はそれを把握しておらず、軽率にものを食べたり、無闇に自制に走ったりして、それによって不均衡を引き起こします。神があなたのために用意したものを正常な方法で食べ、享受すれば、あなたが健康問題に見舞われることはありません。時に気分がすぐれず、鬱血があったとしても、それは何ら問題ではありません。ただ特定の植物を食べればそれでよく、鬱血は解消されます。神はこうしたことのすべてについて用意をしたのです。そのため神の目から見ると、人類は他のどの生き物よりもはるか高いところにいます。神は各種の植物のために環境を用意し、各種の動物のために食料と環境を用意しましたが、環境に関する人類の必要条件は最も厳しく、どんな些細な点も見過ごすことができませn。見過ごしてしまえば、人類は普通に発展して生き、繁殖し続けることができないでしょう。神は心の中でこれを一番よく知っています。それを行った際、神はそれを他の何よりも重要視しました。あなたが人生において見て享受できる平凡なもの、あるいは生まれたときから持っていて、見て享受している何らかの物事の重要性を、おそらくあなたは感じ取れないかもしれませんが、神ははるか昔に、あるいは密かに、あなたのために用意していたのです。人類にとって好ましくなく、人体に危害を加え得る否定的な要素を、神はすべて最大限に除去し、緩和してきました。これは何を示していますか。今回人類を造った際の、神の人類に対する姿勢を示しているのでしょうか。その姿勢はどのようなものだったでしょうか。神の姿勢は慎重かつ誠実であり、いかなる敵勢力、あるいは自分のものではない外部の要因や条件による干渉を許しませんでした。このことの中に、今回人類を造って経営した神の姿勢が見て取れます。では、神の姿勢とは何ですか。人類が享受する生存環境や生活環境、日常の食べ物、飲み物、および必需品を通して、神が人類を創造して以来有してきた、人類に対する責任の態度と、今回人間を救う決意を見て取れます。こうした物事の中に、神の真実性が見えるでしょうか。神の不思議はどうでしょうか。神の計り知れなさはどうでしょうか。神の全能はどうでしょうか。神は自身の全能かつ知恵深い方法で、全人類に施し、すべての被造物に与えます。あなたがたに多くのことを語った今、神は万物のいのちの源であると、あなたがたは言うことができるでしょうか。(はい。)それは間違いありません。疑いがあるでしょうか。(いいえ。)神による万物への施しは、神が万物のいのちの源であることを示すのに十分です。なぜなら、神は、万物が存在し、生き、繁殖し、継続することを可能にしてきた施しの源であり、神自身以外の源はないからです。環境に関する人々の最も基本的な必要性であれ、日常生活に必要なものであれ、あるいは神が人々の霊に施す真理の必要性であれ、神は万物に必要なものと、人類に必要なものをすべて施します。あらゆる点で、神の身分と地位は人類にとって大いに重要であり、万物のいのちの源は神自身だけなのです。つまり、神はこの世界、すなわち人間が目で見て感じることのできるこの世界の支配者であり、主人であり、供給者なのです。人類にとって、これが神の身分ではないでしょうか。そのことに誤りは一切ありません。したがって、空飛ぶ鳥を見て、神は空を飛べるすべてのものを造ったのだと理解しなければなりません。水中を泳ぐものも存在し、それらにも独自の生存方法があります。土中で生きる草木は春につぼみを付けて芽吹き、秋に結実して落葉し、冬には完全に落葉して冬の気候に備えます。これが、それらの生存の仕方なのです。神は万物を造り、それぞれが異なる形態と方法によって生き、様々な方法を用いてその生命力と生きる形態を示します。生きる方法がどういったものであれ、それらはすべて神の支配下にあります。神が様々な形態の生命体と生き物を支配する目的は何でしょうか。それは人類の生存のためでしょうか。神はいのちの法則をすべて支配しますが、それはひとえに人類の生存のためです。そのことは、神にとって人類の生存がいかに重要であるかを示しています。

『神を知ることについて』「唯一無二の神自身 VIII.」(『言葉』第2巻)

日々の神の御言葉 抜粋 178

神は神の選民だけの神ではありません。現在あなたは神に付き従っており、神はあなたの神ですが、神に付き従わない者たちの神でもあるのでしょうか。神は、神に付き従わない者たちの神なのでしょうか。神は万物の神なのでしょうか。(はい。)では、神による働きと業の範囲は、神に付き従う者たちだけに限定されているのでしょうか。(いいえ。)神の働きと業の範囲は何ですか。最も狭いレベルでは、神の働きと業の範囲には人類全体と万物が含まれます。最も広いレベルでは宇宙全体が含まれ、人には見ることができません。したがって、神は全人類のあいだで働きと業を行うと言うことができ、人々が神自身のすべてを知るようにするには、これで十分です。神を知りたい、神を真に知りたい、神を真に理解したいと思うなら、神の働きの三段階や、神が過去になした働きの物語に限定してはいけません。そのようにして神を知ろうとすれば、神に制約を課し、神を閉じ込めていることになります。神をあまりに矮小化しているのです。そうすることで、人はどのような影響を受けるでしょうか。あなたは神の不思議と至高、神の力と全能、そして神の権威の範囲を決して知ることがありません。そのような認識は、神が万物の支配者であるという真理を受け入れる能力、そして神の真の身分と地位に関する認識に影響を及ぼすはずです。言い換えると、神に関するあなたの認識の範囲が限られているなら、あなたが受け取れるものも限られています。範囲を拡張して視野を広げる必要があるのは、このためです。神の働きの範囲、神の経営の範囲、神の支配の範囲、そして神が経営し、支配している万物の範囲をすべて理解することを、あなたは追い求めるべきです。そうしたことを通して、神の業を認識するようになる必要があるのです。そのような認識があれば、神が万物を支配し、経営し、万物にあらゆるものを施していることを、知らないうちに感じるようになります。それと同時に、自分が万物の一部であり、万物の一員であることを実感します。神が万物を施すので、あなたも神の支配と施しを受け入れます。これは誰も否定することのできない事実です。万物は神の支配下でそれぞれの法則に従っており、また神の支配の下、それぞれの生存のための規則があります。また人類の運命や人類に必要なものも、神の支配と施しに結びついています。それゆえ、神の統治と支配下において、人類と万物は相互に関連し、相互に依存し、織り交ぜられています。これが、神による万物創造の目的と価値なのです。

『神を知ることについて』「唯一無二の神自身 VIII.」(『言葉』第2巻)

日々の神の御言葉 抜粋 179

神が万物を造って以来、万物は整然と、かつ神が定めた法則に基づいて機能し、進化し続けてきました。神による見守りと支配のもと、人は生存し、同時に万物は整然と発展してきました。その法則を変えたり破壊したりすることができるものは何一つありません。あらゆる生き物が増殖できるのは、神による支配があるからであり、あらゆる生き物が生存できるのは、神の支配と管理があるからです。つまり、神の支配下においては、あらゆる生き物が規則正しく現れ、繁栄し、消滅し、転生する、ということです。春になると降り注ぐ雨が新鮮な季節の感覚をもたらし、地を潤します。地では雪解けが始まり、草が土を押し上げて芽吹き始め、木々も次第に緑色へと変わります。これらすべての生き物が、地に新鮮な活力をもたらすのです。これが、あらゆる生き物が現われ繁栄しているときに見られる光景です。ありとあらゆる動物が巣穴から出て春の温もりを感じ、新しい年を始めます。夏になると、すべての生き物が暑さのなかで日差しを浴び、夏の暖かさを楽しみます。草木や様々な植物が急速に生長し、やがて花を咲かせて実を結びます。夏の間は、人間を含めたすべての生き物が活発になるのです。秋には雨が涼しさをもたらし、あらゆる生き物が刈り入れの時期の到来を感じます。すべての生き物が実を結び、人間は冬に備えて食料を得るべく、これら様々な作物の刈り入れを始めます。冬になると、すべての生き物が静けさの中で落ち着き、寒い冬の訪れの中、人間もまた休息して冬を過ごします。季節から季節へ、春から夏、夏から秋、秋から冬への移り変わりは、すべて神が定めた法則によって生じます。神はこの法則を用いてあらゆる物事と人間を導き、人間のために豊かで色彩に富んだ生活形態を作り出し、様々な気温と季節のある生存環境を用意します。ゆえに、こうした規律ある生存環境の中で、人間は規律ある形で生存し、繁殖することが可能なのです。人間はこの法則を変えることができず、どんな人や生き物もこれらの法則を打ち壊すことはできません。無数の変化が生じ、海は野に、野は海になったものの、これらの法則は存続し続けます。それが存在するのは神が存在するからであり、神の支配と管理のゆえなのです。この種の秩序ある、大規模な環境の中、人間の生活はそうした法則と規則の中で進歩します。これらの法則は何世代もの人々を養い、何世代もの人々がこれらの法則のもとで生存してきました。人々はこの秩序ある生存環境に加え、神が造った数多くの物事のすべてを何世代にもわたって享受してきました。たとえ人々が、この種の法則は生来のものだと思い、当然のものとして軽視したとしても、また神がこれらの法則を指揮し、支配していることを感じられなかったとしても、どんな場合であれ、神は絶えずこの不変の働きに従事しています。神がこの不変の働きを行う目的は人類の生存であり、人類が生きられるようにするためです。

『神を知ることについて』「唯一無二の神自身 IX.」(『言葉』第2巻)

日々の神の御言葉 抜粋 180

神は全人類を育むために万物の境界を定める (抄出)

本日は、神が万物にもたらしたこの種の法則が全人類を養うとはどういうことか、という主題について話をします。これはいささか大きな主題なので、いくつかの部分に分け、それらの各部分をあなたがたにはっきり説明するため、ひとつずつ話をしていきます。この方法であれば、あなたがたにとって把握しやすくなり、徐々に理解できるでしょう。

第一項 神は各種の土地の境界を定める

では最初の部分から始めましょう。神は万物を創造したとき、山、平野、砂漠、丘、河川、湖沼の境界を定めました。地上には山、平野、砂漠、丘、そして様々な水域が存在します。これらが様々な種類の地形を構成しています。そうですね。神はそれらの間に境界を定めました。境界の設定という場合、それは山には山の、平野には平野の領域があり、砂漠には一定の範囲が、丘には一定の面積があることを意味します。さらに、河川や湖沼などの水域にも一定の水量があります。つまり、神は万物を造った際、あらゆるものを極めて明確に分割したのです。神は、ある山の半径は何キロメートルであるべきか、その範囲はどのようなものかを、すでに決めてきました。また、ある平野の半径は何キロメートルであるべきか、その範囲はどのようなものかも決めてきました。万物を造ったときも、神は砂漠の境界、丘の範囲やその割合、そしてそれらの境界が何によって定められるかなどの事柄をすべて決めてきました。それらはすべて神によって決められたのです。神は創造を行うあいだに、川や湖沼の範囲を決めました。それらはいずれもそれぞれの境界をもちます。では、わたしたちが「境界」について話すとき、それは何を意味しますか。つい先ほど、神は万物の法則を定めることで万物を支配している、という話をしました。つまり、地球の回転や時間の経過のせいで、山の範囲と境界が広がったり狭まったりすることはないのです。それらは固定されており、変わることはありません。その不変性を決めるのは神です。平野の面積、範囲、境界についても、それは神によって定められました。平野にはそれぞれの境界があり、それゆえ平野の地面から土が勝手に盛り上がることはあり得ません。平野が突然山になることもありません。それは不可能でしょう。これが、わたしたちが先ほど話し合った法則と境界の意味です。砂漠について言えば、その具体的な役割はここでは触れません。またその他の地形や地理的位置の具体的役割についてもここでは触れず、それらの境界にだけ触れることにします。神の支配下では、砂漠の範囲も拡大することはありません。なぜなら、神が砂漠にその法則と範囲を与えたからです。砂漠の面積、機能、境界、および所在地などは、神によってすでに定められています。砂漠はその範囲を超えることも、移動することもなく、面積が勝手に広がることもありません。河川や湖沼などの水流には秩序があり、途絶えることはないものの、その範囲から出て移動したり、境界を越えたりすることは決してありません。それらはすべて一方向に、流れるべき方向に秩序正しく流れます。ゆえに、神の支配の法則下において、水や湖沼が勝手に干上がったり、地球の回転や時間の経過が原因で勝手に方向を変えたり、流量を変えたりすることはないのです。それはすべて神の支配下にあります。つまり、神によって造られ、この人類の間に存在する万物には、それぞれ固定された場所、面積、そして範囲があるのです。すなわち、神が万物を造った際にそれらの境界が定められたのであって、勝手に変更することも、更新することも、変えることもできません。「勝手に」とは何を意味しますか。それは、天候や気温、地球の回転速度などが原因で、こうした境界がやみくもに移動したり、拡大したり、変形したりすることはない、ということです。たとえば、山には特定の高さがあり、その麓には特定の面積があり、また特定の標高、特定の植生があります。それらはどれも神により計画され、計算されたものであり、勝手に変わることはありません。平野について言えば、人類の大部分は平野に住んでおり、気候の変化がその面積や存在価値に影響を及ぼすことはありません。神によって造られたこれら様々な地形や地理的環境に含まれている物事さえも、勝手に変わることはありません。たとえば、砂漠の構成要素、地中にある鉱物資源の種類、砂漠の砂の量、色、厚さなどが、勝手に変わることはありません。それらが勝手に変わらないのはなぜですか。神の支配と管理がその理由です。神が造ったこれら様々な地形や地理的環境の中で、神はあらゆる物事を、計画された秩序ある方法で管理しています。そうしたわけで、これらの地理的環境は、神によって造られてから数千年、さらには数万年が経った後でもいまだ存在し、依然として機能しているのです。火山が噴火したり、地震が発生したり、大規模な地殻変動が起きたりする期間もありますが、神はいかなる種類の地形であっても、それが本来の機能を失うことを許しません。人間が見て享受できるこれらすべてのものが地球上で秩序正しく存在できるのは、ひとえに神がそれを管理し、これらの法則を統治、支配しているからです。では、地球上に存在するこれら様々な地形を、神がこのような形で管理するのはなぜですか。神の目的は、様々な地理的環境の中で生存しているすべての生物が安定した環境を得られるようにすること、それらの生物がその安定した環境の中で生き続け、増殖できるようにすることです。動けるものや動けないもの、鼻孔で呼吸するものやそうしないものなど、これらすべての物事が、人類の生存のために独自の環境を構成しているのです。この種の環境だけが何世代にもわたって人間を養い、人間が何世代にもわたって平和に生存し続けられるようにするのです。

わたしが先ほど話したことはいささか大きな主題なので、おそらくあなたがたの生活からいくぶんかけ離れたことのように思えるでしょう。しかし、みなさん理解はできたはずです。つまり、万物の支配における神の法則は、極めて重要だということです。まさに重要なのです。この法則のもと、すべての生物が成長する前提条件は何ですか。それは神による支配です。神による支配のもと、万物がそれぞれの役割を果たすのは、神の支配のゆえなのです。たとえば、山は森を養い、森はそこに棲む様々な鳥や獣を養って守ります。平野は人間が作物を栽培するために用意された場所であり、また様々な鳥や獣のために用意された場所でもあります。平野があるおかげで、人類の大半が平らな地面で生活でき、人々の生活に便宜がもたらされます。また、平野には草原が含まれます。広大な草原です。草原は地表を植物で覆います。草原は土を守り、草原に棲む牛、羊、馬を養います。砂漠もその役割を果たします。砂漠は人間の住む場所ではなく、その役割は多湿な気候を乾燥させることです。河川や湖沼の水流は、人々が簡単に飲み水を得られるようにします。水が流れている所であれば、人はどこでも飲み水を得ることができ、万物の水に対する必要性が簡単に満たされます。これらが、神が様々な地形に対して定めた境界です。

『神を知ることについて』「唯一無二の神自身 IX.」(『言葉』第2巻)

日々の神の御言葉 抜粋 181

神は全人類を育むために万物の境界を定める (抄出)

第二項 神は各種の生物の境界を定める

こうした神が定めた境界のため、様々な地形がそれぞれ異なる生存環境を生み出し、それらの生存環境は様々な鳥や獣にとって好都合であって、同時に生存空間も与えてきました。そこから、様々な生物の生存環境の境界が生まれたのです。これが次に話をする第二の部分です。まず、鳥や獣、昆虫はどこに棲息していますか。森や林に棲息していますか。それらが鳥や獣、昆虫の住みかです。つまり、神は様々な地理的環境の境界を定めたほか、様々な鳥、獣、魚、昆虫、植物の境界と法則も定めたのです。様々な地理的環境の差異、そして様々な地理的環境の存在が原因で、各種の鳥、獣、魚、昆虫、植物にはそれぞれ異なる生存環境があります。鳥、獣、昆虫は様々な植物の中で生活し、魚は水中で生活し、植物は大地で育ちます。その大地には、山、平野、丘陵など様々な地帯があります。鳥や獣はいったん住みかを定めると、あちこちさまよい歩くことはありません。鳥獣の住みかは森林と山です。いつか鳥獣の住みかが破壊されるとしたら、その秩序は乱れて混乱に陥るでしょう。秩序が乱れて混乱に陥った場合、どのような影響が即座に現れますか。最初に被害を受けるのは誰ですか。それは人類です。神が定めたこれらの法則と制限の中で、何か異常な現象を見たことはありますか。たとえば、砂漠を歩く象を見たことはありますか。そのような光景を見たことはありますか。そのようなことが本当に起きたなら、それは極めて異常な現象です。なぜなら、象は森林で暮らしており、それが、神が象に用意した生存環境だからです。象には象の生存環境と決まった住みかがあるのに、なぜそこを離れて走り回るでしょうか。岸辺を歩くライオンや虎を見たことがある人はいますか。誰もいません。ライオンや虎の住みかは森と山です。大海の鯨や鮫が砂漠を泳いでいるのを見たことがある人はいますか。誰もいません。鯨や鮫は海を住みかにしています。人間の生活環境において、ヒグマと共に生活している人がいますか。家の中でも外でも、常にクジャクやその他の鳥に囲まれながら生活している人がいますか。鷹や雁が猿と戯れているのを見たことがある人はいますか。(いません。)これらはどれも異常な現象です。とても奇妙に聞こえるこれらの現象について話す理由は、それが一箇所に固定されているか、あるいは鼻から呼吸できるかどうかを問わず、神が造った万物にはそれぞれの生存法則があるということを、あなたがたに理解してもらうためです。これらの生物を造るはるか以前、神はそれらの住みかと生存環境をすでに用意していました。これらの生物には、それぞれ固定された生存環境、固有の食料、固定された住みか、生存に適した一定の場所、生存に適した気温をもつ場所があったのです。こうして、それらの生物が方々を彷徨ったり、人類の生存を脅かしたり、人々の生活に影響を及ぼしたりすることはありませんでした。これが、神が万物を管理する方法であり、人類に最高の生存環境をもたらしているのです。万物のうち生物には、生き延びるための食料がそれぞれの生存環境の中にあります。その食料のために、生物は生来の生存環境に固定されているのです。そのような環境の中、生物は神が定めた法則に従い、引き続き生き延び、増殖し、前進します。この種の法則や神の予定があるため、万物は人類と調和して暮らし、人類は万物と相互依存の中で共生しているのです。

『神を知ることについて』「唯一無二の神自身 IX.」(『言葉』第2巻)

日々の神の御言葉 抜粋 182

神は全人類を育むために万物の境界を定める (抄出)

第三項 神は環境と生態系を維持して人類を養う

神は万物を造り、それらの境界を定め、その中であらゆる生物を養いましたが、一方で人類のための様々な生存手段も用意したので、人間が生き延びる方法は一つだけでなく、生存環境も一種類だけでないことがわかります。先ほど、神が人間のために様々な食料や水源を用意したことについて話しましたが、それらは人類が肉体的に生き続けるうえで不可欠なものです。しかし、人類の全員が穀物を食べて生存しているわけではありません。地理的環境や地形の相違のために、人間には様々な生存手段があります。これらの生存手段は、すべて神が用意したものです。したがって、すべての人間が主として農耕に従事しているとは限りません。つまり、すべての人が耕作によって食料を得ているわけではないのです。これが、本日お話しする三番目の部分です。境界が発生したのは、人類の生活様式が多様だからです。それでは、人間の生活様式として、他にどのような種類のものがありますか。様々な食料源という観点から見たとき、他にどのような種類の人々がいますか。そこには主なものが数種類あります。

一番目は狩猟の生活様式です。それが何かは誰もが知っています。狩猟で生きる人は何を食べますか。(獲物です。)こうした人々は森で獲った鳥や獣を食べます。「獲物」とは現代の言葉です。狩人はそれを獲物とは考えず、食料、日々の糧と考えます。たとえば、狩人は鹿を獲ります。狩人が鹿を獲るのは、農民が土から作物を得るのと同じです。農民は土から食料を得るので、その食料を見たとき、喜んで安堵します。家族は作物を食べることができるので、飢えることはありません。農民の心は不安から解放され、満足します。狩人も獲物を見て安堵し、満足します。これ以上食料の心配をせずに済むからです。次の食事で食べるものがあれば、飢える必要はありません。これが生活のために狩猟をする人です。狩猟を生業とする人々の大半は山の森で生活します。農耕はしません。そこで耕作に適した土地を見つけるのは困難なので、様々な生物、すなわち獲物を食べて生存します。これが普通の人々と異なる生活様式の一番目です。

二番目は牧畜民の生活様式です。牧畜で生活する人は土地を耕すこともしますか。(しません。)では、何をしますか。どのように生活しているのですか。(生活の大半を牛や羊の飼育に費やし、冬に家畜の屠殺を行なってそれを食べます。主食は牛肉と羊肉で、ミルクティーを飲みます。牧畜民は四季を通じて多忙ですが、食事は豊かです。ミルク、乳製品、肉が豊富にあります。)牧畜で生計を立てる人はおもに牛肉と羊肉を食べ、羊の乳と牛乳を飲み、牛や馬に乗って風を髪に受け、顔に日光を浴びながら、野原で牧畜を行います。彼らが現代生活のストレスに晒されることはありません。広大な青空と草原を一日中眺めているのです。牧畜で生計を立てている人の大半は草原に住み、何世代にもわたって遊牧民の生き方を続けられてきました。草原での生活はいささか孤独ですが、とても幸福な生活でもあります。悪くない生き方です。

三番目は漁をして暮らす生き方です。人類の中には、沿岸部や小さな島に住む人々がごく一部存在します。彼らは水に囲まれ、海に面しています。これらの人々は漁を生業としています。漁を生業とする人々の食料源は何ですか。彼らの食料源には様々な魚や海産食物や海産物が含まれます。漁を生業とする人は大地を耕さず、その代わり毎日漁に出ます。主食は様々な魚や海産物で、時々それらを米や小麦粉や日用品と交換することがあります。これが沿岸部に住む人々の、他とは異なる生活様式です。海の近くに住む人々は食料を海に頼っており、漁は彼らに食料をもたらすだけでなく、彼らが生計を立てる手段でもあるのです。

農耕を行う以外に、人類の大部分は上記三種類の生き方にしたがって暮らしています。しかし、大半の人々は農耕を生業としており、牧畜や漁や狩猟によって暮らす人々の集団は少数しかありません。それでは、農耕を生業とする人々は何を必要としますか。彼らが必要とするものは土地です。彼らは何世代にもわたり、地中に作物を植えることで暮らしており、野菜を植えようと、果実を植えようと、あるいは穀物を植えようと、彼らが食料と日々の必需品を得るのは大地からなのです。

こうした様々な人間の生活様式を支える基本条件は何ですか。人々が生存できる環境を基本的な水準に維持することが絶対に必要ではありませんか。つまり、狩猟で暮らす人が山や森、鳥や獣を失ったとしたら、彼らの食料源はなくなってしまいます。この民族、およびこうした人々が向かうべき方向は不確実なものになり、彼らが消えてしまう恐れすらあるでしょうまた、牧畜を生業とする人々はどうですか。こうした人々は何に頼っていますか。彼らが頼っているのは家畜ではなく、家畜が生存できる環境、すなわち草原です。草原がなければ、牧畜民はどこで家畜を放牧すればよいでしょうか。牛や羊は何を食べればよいでしょうか。家畜がなかったとしたら、これら遊牧民には生活の糧がなくなるでしょう。生活の糧を得る源がないとしたら、これらの人々はどこへ行けばよいでしょうか。生き続けることが極めて難しくなり、未来はなくなるでしょう。水源がなくなり、河川や湖沼が干上がってしまったら、水に頼って暮らすすべての魚はそれでも存在するでしょうか。存在しないでしょう。水と魚に生活の糧を頼る人々は、引き続き生存できるでしょうか。こうした人々の食料や、生活の糧を得る源がなくなったとしたら、生存し続けることは不可能でしょう。つまり、ある民族が生活の糧や生存に関する問題に直面した場合、その民族は存続できず、地球上から消えて絶滅するでしょう。また、農業を生業とする者が土を失い、ありとあらゆる植物を植えてそこから食料を得られなくなったら、その結末はどうなるでしょうか。食料がなかったとしたら、人間は餓死するのではないでしょうか。人間が餓死しつつあるなら、その人種は消滅するのではないでしょうか。そうしたわけで、これが多種多様な環境を維持する神の目的なのです。神が様々な環境や生態系を維持し、そしてそこに住む様々な生物をすべて維持する目的は、ただひとつしかありません。その目的とは、様々な人々、様々な地理的環境の中で暮らす人々を養うことです。

すべての被造物がそれぞれの法則を失ったとしたら、それらは存在しなくなるでしょう。万物の法則が失われたとしたら、万物のうち、あらゆる生物が存続できないでしょう。人類もまた、生存のために頼っている環境を失うでしょう。人類がそのすべてを失うとしたら、これまでのような世代を超えた繁栄と繁殖は継続不可能になるはずです。人間が現在まで生存してきたのは、神が人間にすべての被造物を与え、様々な方法で人類を養ってきたからです。人類が現在まで、今日まで生存してきたのは、ひとえに神が様々な方法で人類を養っているからです。自然の法則が整然としている、固定された好ましい生存環境により、地球上のありとあらゆる人々、ありとあらゆる人種が、予め定めた領域の中で生存できるのです。これらの領域や境界を越えられる人はいません。なぜなら、それらを定めたのは神だからです。神がこのように境界を定めたのはなぜですか。このことは全人類にとって大いに重要な問題です。本当に重要な問題なのです。

『神を知ることについて』「唯一無二の神自身 IX.」(『言葉』第2巻)

日々の神の御言葉 抜粋 183

神は全人類を育むために万物の境界を定める (抄出)

第四項 神は異なる人種の間に境界線を引く

四番目は、神が様々な人種の間に境界を引いたことです。地球上には白色人種、黒色人種、褐色人種、黄色人種が存在します。これらは異なる人種です。神はこれら異なる種類の人々についても範囲を定めました。そして神による管理のもと、人々は無意識のうちに適切な生存環境の中で暮らしています。そこから逸脱できる人はいません。たとえば、白人のことを考えてみましょう。白人の大半が暮らす地理的範囲はどこですか。大半はヨーロッパとアメリカで生活しています。黒人がおもに暮らす地理的範囲はアフリカです。褐色人種はタイ、インド、ミャンマー、ベトナム、ラオスなど、おもに東南アジアと南アジアで暮らしています。黄色人種は中国、日本、韓国など、おもにアジアで暮らしています。神はこうした様々な人種をすべて適切に分布させたので、これら異なる人種は世界各地に分布しています。これら世界各地において、神は遠い昔に各人種に適した生存環境を用意しました。これらの生存環境において、神は様々な色と成分を有する土壌を用意しました。言い換えると、白人の身体の構成要素は黒人の身体のそれと同じではなく、それ以外の人種のそれとも異なります。神は万物を創造した際、その人種の生存環境をすでに用意していたのです。神がそのようにした目的は、その人種が増殖し、人数が増加し始めたとき、そうした人々が一定の範囲に固定されるようにすることでした。神は人間を創る前に、そのすべてをすでに考え抜いていたのです。神はヨーロッパとアメリカを白人のためにとっておき、彼らが発展し、生存できるようにしました。つまり、神は地球を造っていたとき、その地域に何を置き、その地域で何を養うかについて、すでに目標と目的を定めていたのです。たとえば、その地にどのような山、どれほど多くの平野、どれほど多くの水源、どのような種類の鳥や獣、どのような魚、どのような植物を置くかについて、神ははるか以前にすべて定めていたのです。ある特定の種類の人間、すなわちある特定の人種の生存環境を用意するにあたり、神は地理的環境、土壌の構成、様々な種の鳥と獣、様々な魚の大きさ、魚の身体の構成要素、水質の違い、および様々な種類の植物など、数多くの問題についてありとあらゆる角度から検討する必要があったのです。神はそのすべてを遠い昔に用意していました。その種の環境は、神が白人のために造り、用意し、もとから白人のものである生存環境です。神は万物を創造したとき、そこに多くの考えを込め、計画的に業を行なったことを、あなたがたはわかっていましたか。(はい。様々な種類の人間に対する神の配慮が極めて周到だったことを、わたしたちはわかっていました。各種の人間のためにお造りになった生存環境に対し、どのような鳥や獣や魚、いくつの山、いくつの平野を用意するかについて、神はこのうえない周到さと正確さをもってそれらを考慮なさったのです。)白人を例にとりましょう。白人はおもに何を食べますか。白人が食べる食料は、アジア人が食べる食料と極めて異なっています。白人の主食はおもに肉、卵、ミルク、家禽から成っています。パンや米などの穀類は一般的に副食であり、皿の端に盛られます。野菜サラダを食べるときも、焼いた牛肉や鶏肉を何切れかそこに加えがちであり、小麦を原料とする食料を食べるときも、チーズや卵や肉を加えがちです。つまり、白人の主食は小麦を原料とする食料や米でなく、彼らは肉やチーズを大量に食べます。それに、極めて高カロリーな食料を食べるので、頻繁に氷水を飲みます。そうしたわけで、白人は並外れて丈夫なのです。これらが彼らの生活の糧であり、神が白人のために用意した生活環境です。その生活環境のおかげで、白人は他の人種の生活様式と違うこのような生き方ができるのです。こうした生き方が正しいか間違っているかは問題ではなく、それは神が予定し、神の指図と采配から生じた生来のものなのです。この人種にはこのような生活様式と、生活の糧を得るこれらの源がありますが、それは彼らの人種に起因するものであり、また神が彼らに用意した生存環境に起因するものです。神が白人のために用意した生存環境、および白人がその環境から得る日々の糧は豊富だと言えるでしょう。

神は他の人種についても生存に必要な環境を用意しました。黒人も存在しますが、どこに分布していますか。おもにアフリカの中央部と南部に分布しています。神は黒人のためにどのような生活環境を用意しましたか。熱帯雨林、ありとあらゆる鳥や獣、砂漠、そして人々と共に生きる様々な植物も用意しました。黒人には水源があり、生活の糧があり、食料があります。神は黒人に偏見をもちませんでした。彼らが何をしたとしても、その生存が問題になったことは一度もありません。黒人もまた、世界のなかで特定の場所と地域を占めているのです。

ここで、黄色人種について話しましょう。黄色人種は主として地球の東方に分布しています。環境と地理的位置に関して、東洋と西洋の違いは何ですか。東洋では土地の大部分が肥沃であり、資源や鉱床に恵まれています。つまり、地上においても地下においても、ありとあらゆる資源が豊富なのです。そしてこの人々の集団、つまりこの人種に対しても、神は彼らに適した土壌、気候、および様々な地理的環境を用意しました。そうした地理的環境と、西洋の地理的環境との間には大きな差異があるものの、人々に必要な食料、生活の糧、そして生存のための食料源もまた神によって用意されました。生活環境が西洋の白人の環境とは異なるというだけのことです。ともあれ、わたしがあなたがたに話さなければならないことは何ですか。東方人種の人口は比較的多いので、神は地球のその部分に、西洋とは異なる要素を数多く加えました。多様な地形とありとあらゆる豊富な資源をそこに加えたのです。東洋の自然資源は極めて豊富です。地形も種類に富んでおり、東方人種の莫大な人口を養うのに十分です。東洋と西洋の相違として、東洋は東西南北全域にわたって西洋より気候が良好である、という点があります。四季がはっきり異なり、気温は最適であり、自然資源は豊富であり、自然の景観や地形の種類は西洋に比べ格段に優れています。神がこのようにしたのはなぜですか。神は白人と黄色人種との間で、極めて合理的な釣り合いを取ったのです。それは何を意味していますか。白人の食料、使っているもの、および享楽のためにもたらされた物事のあらゆる側面が、黄色人種が享受している物事よりはるかに優れているということです。しかし、神はいかなる人種もひいきしません。神は黄色人種に対し、より美しく良好な生存環境を与えました。これが釣り合いです。

神はどの人種が世界のどの地域に住むかを予め定めましたが、人間はその範囲を超えてゆくことができますか。(いいえ、できません。)なんと不思議なことでしょう。様々な時代、あるいは特別な時期に戦乱や侵略があったとしても、神が各人種に対して予め定めた生存環境が、そうした戦乱や侵略によって破壊されることはありません。つまり神は、世界の特定の地域に特定の人種が住むように定めたので、人間はその範囲を超えてゆくことができないのです。自らの領域を変えたり拡大したりしようとする、ある種の野望が人間にあったとしても、神の許可がなければ、その野望を果たすのは極めて困難です。それを成功させるのはこのうえなく困難なことです。たとえば、白人は領域を拡大しようと、他国を植民地化しました。ドイツ人は数ヵ国を侵略し、イギリスはかつてインドを占領しました。結果はどうなりましたか。最終的に、そうした活動は失敗に終わりました。彼らの失敗から何がわかりますか。神が予め定めた物事を破壊することは許されない、ということです。ゆえに、イギリスの拡大の勢いがいかに強かったとしても、最終的にイギリスは撤退せざるを得ず、その地はいまだインドに属しています。その地に住む人々は依然としてインド人であり、イギリス人ではありません。神がそれを許さないからです。歴史や政治を研究する一部の人が、これに関する論考を発表してきました。これらの人たちは、イギリスが失敗したのは、特定の民族を征服することが不可能なためである、あるいはその他の人間的な原因が理由であるとしています。それらが真の理由ではありません。真の理由は神であり、神がそれを許さないのです。神は特定の民族を特定の場所に住まわせ、そこに定住させます。神がその民族に対し、あの場所から移動してくることを許さなければ、その民族は移動することができません。神が一定の地域を与えた場合、その民族はその地域の中で生活します。人類は、その一定の範囲を離れたり、そこから脱出したりすることができません。それは確かです。侵略者の勢力がどれほど強力であったとしても、あるいは侵略される側がどれほど脆弱であったとしても、侵略が成功するかどうかは最終的に神が決めることです。それは神によってすでに予定されたことであり、誰も変えることができません。

『神を知ることについて』「唯一無二の神自身 IX.」(『言葉』第2巻)

日々の神の御言葉 抜粋 184

神は万物を統治し、万物に施し、万物の神である (抄出)

神によって定められた、万物の成長に関する法則の観点から見ると、人類はその種類を問わず、すべて神から施され、養われているのではないでしょうか。これらの法則が破られたり、神がそれらの法則を人類に対して定めなかったとしたら、人類の見通しはどのようなものになるでしょうか。これらの基本的な生存環境を失ったあと、人類には食料源があるでしょうか。食料源が問題になることは考えられます。もし食料源を失ったら、つまり食べ物を何ひとつ得られなければ、人は何日持ちこたえられるでしょうか。おそらく一ヵ月と持ちこたえられず、人間の生存そのものが危機に晒されるでしょう。したがって、神が人間の生存、継続的な存在、繁殖、存続のために行う業のひとつひとつが極めて重要なのです。神が被造物に対して行う業のひとつひとつが、人類の生存と密接に関連しており、それと不可分なのです。人類の生存が問題となった場合、神の経営(救い)は続行可能でしょうか。神の経営はなおも存在するでしょうか。神の経営は、神が養う全人類と共にあるので、神が被造物にどんな用意をしようと、人間に何を行おうと、それはどれも神にとって必要であり、人類の生存に不可欠です。神が万物のために定めたこれらの法則が守られなかったり、それが破られたり、あるいは乱されたりしたとすれば、万物はもはや存在できず、人間の生存環境も日常の糧も、そして人類自体もすべて存続不可能になるでしょう。そのため、神による人類の救いの経営もまた消滅するでしょう。

ここで話したことはどれも、人間ひとりひとりの生存と密接に関連しています。あなたがたの中には「あなたの言うことは話が大きすぎ、わたしたちには理解できない」という意見があったり、あるいは「あなたの言うことはわたしに関係ない」と言う人がいたりするかもしれません。しかし、自分が万物のひとつとして生きていること、神の支配下にあるすべての被造物のひとつであることを忘れてはいけません。神の被造物は神の支配から切り離すことができないので、神の支配から自分を切り離せる人間は誰ひとりいません。神による支配と施しを失うと、人間のいのち、すなわち人間の肉体のいのちは消滅するでしょう。これが、神が人類の生存環境を定めたことの重要性です。自分がどの人種に属しているかを問わず、また東洋であろうと西洋であろうと、自分が生きている地域を問わず、神が人類のために用意した生存環境から自分を切り離すことはできず、神が人類のためにもうけた生存環境による養育と施しから自分を切り離すこともできません。あなたの生計の糧が何か、何に頼って暮らしているか、何に頼って肉のいのちを維持しているかにかかわらず、あなたは神による支配と管理から自分を切り離すことはできません。中には、「わたしは農民でないので、作物を栽培して生計を立てているわけではない。食料を天に依存していないので、神が定めた生存環境で生存しているわけでもない。そうした環境からは何も与えられていない」などと言う人がいます。それは正しいですか。自分は作物を栽培して生計を立てているわけではないと言いますが、穀類を食べないのですか。肉や卵を食べないのですか。それに野菜や果物を食べないのですか。あなたが食べるものや必要とするものはどれも、神が人間のために定めた生存環境と切り離すことができません。人間が必要とするものの源も、神が造った万物と切り離すことができず、それはあなたの生存環境を完全に構成しているのです。あなたが飲む水、着ている衣服、使っているあらゆるもののうち、神の創造物に由来しないものがありますか。中には、「神の創造物に由来しないものがいくつかある。プラスチックがその一つだ。プラスチックは人間が造った化学物質だ」と言う人がいるかもしれません。それは正しいですか。プラスチックは確かに人間が造った化学物質ですが、プラスチックの原材料は何ですか。原材料は神が造った物質から得られたものです。あなたが見るもの、享受するもの、使うものはどれも、神が造ったものから得られます。つまり、どの人種に属しているか、生活の糧は何か、どのような生存環境で暮らしているかにかかわらず、人は自分自身を、神が施してきた物事から切り離せません。

『神を知ることについて』「唯一無二の神自身 IX.」(『言葉』第2巻)

日々の神の御言葉 抜粋 185

神は万物を統治し、万物に施し、万物の神である (抄出)

人々が心の中で神を認識している度合いは、神がそれらの人の心を占めている度合いでもあります。心の中でどれほど神のことを知っているかは、その人の心の中で神がどれほど偉大か、ということでもあります。あなたの知る神が空虚で漠然としていれば、あなたが信じる神もまた空虚で漠然としています。あなたの知る神はあなたの個人的生活の範囲に限定されており、真の神自身と何の関係もありません。ゆえに、神の実際の業、神の現実、神の全能、神自身の真の身分、神が所有するものと神そのもの、神が万物においてあらわした業を知ることは、神の認識を追い求めるひとりひとりにとって極めて重要なことなのです。それらは、人が真理現実に入れるかどうかに直接関係しています。神に関する認識が言葉だけに限られる場合、あるいは自分自身の数少ない経験や、あなたが神の恵みと考えるものや、あなたのささやかな神の証しだけに限られる場合、あなたが信じている神は絶対に真の神自身ではないと断言します。それだけでなく、あなたが信じる神は想像上の神であり、真の神ではないとも言えます。なぜなら、真の神は万物を支配し、万物の中で歩み、万物を管理する神だからです。その神こそが、人類全体と万物の運命をその手中に握っている神なのです。わたしが話している神の働きと業は、ごく一部の人々に限られるものではありません。つまりそれらは、現在神に付き従う人に限定されないのです。神の業は、万物の中に、万物の生存の中に、そして万物が変化する法則の中にあらわされています。すべての被造物における神の業を見ることも、それを認識することもできないのであれば、あなたは神の業を何ひとつ証しできません。神の証しをすることができず、自分が知っている小さな「神」、自分自身の考えに限定され、自分の狭い心に閉じ込められた神について語り続けるなら、つまりそのような神について語り続けるなら、神があなたの信仰を讃えることは決してありません。神の証しをするとき、自分がいかに神の恵みを享受し、神の鍛錬と懲らしめを受け、また神の証しをする中でいかに神の祝福を享受しているかという観点からしかそうしないのであれば、それはまったく不十分であり、神に満足してもらうには程遠いものです。神の旨にかなう形で神の証しをしたい、真の神自身の証しをしたいのであれば、神が所有するものと神そのものを神の業から理解しなければなりません。神による万物の支配から神の権威を理解し、神が全人類に施すという真実を理解する必要があるのです。自分の日々の糧や生活必需品が神に由来することを認めるだけで、神はすべての被造物を用いて全人類に施すという真実、また万物を支配することで全人類を導いているという真実を理解できないのであれば、神の証しは決してできません。わたしがこのように言う目的は何ですか。あなたがたがそれを軽視しないようにすること、わたしの話したことは自分のいのちへの入りと無関係であると考えないようにすること、そしてこれらの事項は単なる知識や原理に過ぎないと思わないようにすることです。そうした態度でわたしの言うことを聞くならば、あなたがたは何ひとつ得られません。神を知るこの素晴らしい機会を失うのです。

わたしがこれらのことを話す目的は何ですか。人々に神を知らしめること、神の実際の業について理解させることが目的です。神を認識し、神の業を知って初めて、神を知る機会と可能性が生じます。たとえば、ある人について理解したい場合、あなたがたはどのようにしてその人のことを理解するようになるでしょうか。その人の外見を観察することによってでしょうか。その人の着衣や着こなし方を観察することによってでしょうか。その人の歩き方を観察することによってでしょうか。その人の知識の範囲を観察することによってでしょうか。(違います。)それでは、あなたがたはどのようにしてその人のことを理解しますか。その人の言動、思考、およびその人があらわしたり晒したりする自分自身についての物事に基づいて判断します。これが、あなたがたがその人を知り、理解するようになる方法です。同様に、神を知り、神の実践的側面、神の真の側面について理解したいのであれば、神の業、そして神が行うひとつひとつの実践的な事柄を通じて神を知る必要があります。これが最善かつ唯一の方法です。

『神を知ることについて』「唯一無二の神自身 IX.」(『言葉』第2巻)

日々の神の御言葉 抜粋 186

神は万物の関係の釣り合いを取り、人類に安定した生存環境を与える (抄出)

神は万物を造ったとき、ありとあらゆる手段と方法を用いて万物の釣り合いを取り、山や湖沼、植物や様々な動物、鳥、昆虫の生存状態の釣り合いを取りました。神の目的は、自ら定めた法則のもと、様々な生物が生活し、繁殖できるようにすることでした。あらゆる被造物はこれらの法則から外れることができず、またこれらの法則は破ることができないものです。この種の基本的な環境の中でのみ、人間は何世代にもわたって安全に生存し、繁殖することができるのです。ある生き物が、神が定めた量や範囲を越えた場合、あるいは神が定める増加率、生殖頻度、数を超過した場合、人類の生存環境は様々な程度の被害を受けるでしょう。それと同時に、人類の生存が脅かされるでしょう。ある種の生物の個体数が多すぎる場合、その生物は人間の食料を奪い、人間の水源を壊し、その住みかを破壊するでしょう。そうすれば、人類の繁殖と生存状態は即座に影響を受けるはずです。たとえば、水は万物にとって極めて重要です。ネズミ、蟻、イナゴ、カエルなど、各種の動物の数が多すぎる場合、それらの動物はさらに多くの水を飲みます。動物が飲む水の量が増加すると、固定された飲み水の水源と水域において、人々の飲み水と水源は減少し、人間は水不足を経験します。ありとあらゆる動物が増加した結果、人間の飲み水が損なわれたり、汚染されたり、寸断されたりした場合、そうした過酷な生存環境のもと、人類の存続は深刻な危機に陥ります。適切な数を超える動物がわずか一種類、あるいは数種類しか存在しなくても、人間の生存空間の空気、気温、湿度、そして空気の構成成分ですら様々な程度で被害を受け、破壊されるでしょう。こうした状況のもと、人間の生存と運命もまた、それらの生態学的要素による脅威に晒されるはずです。したがって、これらの釣り合いが失われた場合、人間が呼吸する空気は損害を受け、飲み水は汚染され、必要とする気温も変化し、様々な程度の影響を受けるでしょう。こうした事態になった場合、もともと人類のものである生存環境に甚大な影響と問題が発生します。人間の基本的な生存環境が破壊されるというこの種のシナリオにおいて、人類の運命と見通しはどのようなものになるでしょうか。これは極めて深刻な問題です。被造物のひとつひとつが人間のために存在しているのはなぜか、各種の神の創造物の役割は何か、ひとつひとつのものが人間にどのような影響を及すか、それが人類にどの程度の益をもたらすかを神は知っており、そして神の心の中では、そのすべてに計画があり、また神は自ら造った万物のあらゆる側面を管理しているので、神が行う業はどれも人類にとって極めて重要であり、必要なものなのです。なのでこれからは、神の創造物の生態的な現象や、神の創造物の間で働く自然の法則を見るたび、神が造った物ひとつひとつの必要性に疑念を抱かなくなるはずです。神による万物の采配や、神が人類に施す様々な方法について、無知な言葉を使って勝手に判断することもなくなります。また、すべての被造物に対する神の法則についても、勝手な結論に至ることはありません。

『神を知ることについて』「唯一無二の神自身 IX.」(『言葉』第2巻)

日々の神の御言葉 抜粋 187

神が霊界を支配、統治する方法

物質世界では、ある種の物事や現象を理解できなければ、人はそのたびに関連する情報を探したり、様々な方法を使ってそれらの原因や背景を調べたりすることができます。しかし、本日話をするそれ以外の世界、すなわち物質世界の外に存在する霊界について言えば、人間にはそれについて何かを知る手段も方法も絶対にありません。わたしがこう述べるのはなぜですか。わたしがそのように言うのは、人間世界では物質世界のあらゆる物事が人間の物理的存在と切り離せないから、人々は物質世界のあらゆる物事が自分の物理的ないのちと不可分だと感じているから、そして大半の人間は眼前にあって見ることができる物体しか意識していない、あるいは見ていないからです。しかし霊界、すなわちその他の世界のあらゆるものに関しては、大部分の人々が信じないと言っていいでしょう。人にはそれが見えず、それを理解したり知ったりする必要がないと信じ、ましてや霊界が物質世界とまったく違うことについては何ひとつ述べる必要がないと信じているので、そして霊界は神の目から見れば開かれているが、人間に対しては秘密で閉ざされていると信じているので、その世界の様々な側面を理解するにあたり、その方法を見つけるのはとても困難です。これからお話しする霊界の様々な側面は、神の管理と統治だけに関係するものです。わたしは謎を解明するつもりも、あなたがたが知りたい秘密を教えるつもりもありません。それは神による統治、支配、施しだけに関係するものだからであり、したがってあなたがたが知る必要のある部分だけを話すことにします。

まず、あなたがたに質問します。あなたがたの心の中で、霊界とは何ですか。一般的に言うと、霊界とは物質世界の外側の世界であり、人間にとって見ることも触れることもできない世界です。しかし、あなたがたの想像の中で、霊界とはどのような世界でしょうか。霊界は見ることができないので、おそらくそれについて考えることはできないでしょう。しかし、何らかの伝説を聞くと、霊界について依然考え、それを止めることはできません。わたしがこう述べるのはなぜですか。多くの人が幼いころに経験することがあります。誰かが幽霊や亡霊にまつわる怪談をすると、それを死ぬほど怖がるというものです。怖がるのはいったいなぜですか。それは、そうしたことを想像するからです。幽霊や亡霊を見ることはできなくても、自分の部屋、隠れた場所、暗い隅っこなどの至る所にそれらが存在するように感じるので、恐怖のあまり寝ようともしないのです。特に夜中は、恐ろしくて一人で部屋にいたり、庭に出たりすることもできません。それがあなたがたの想像する霊界であり、人間が恐ろしいと考える世界です。事実を言うと、誰もがそれをある程度まで想像し、わずかに感じることができるのです。

それでは、霊界について話を始めましょう。それは何ですか。簡潔に説明すると、霊界とは、物質世界と異なる重要な場所です。それが重要だと言う理由は何ですか。それをこれから詳しく話し合います。霊界の存在は、人類の物質世界と切り離すことができないつながりをもっています。それは神による万物の統治のうち、人間の生死の周期において重要な役割を担っていますが、そのことが、霊界の存在が重要である理由のひとつなのです。霊界は五感で認知することができない領域なので、それが存在するかどうかを正確に判断できる人はいません。その様々な運動状態は人間の生存と密接に関連し、そのため人類の生活の秩序もまた霊界から大きな影響を受けます。これは神による統治に関連していますか。そう、関連しています。こう述べると、わたしがこの事項について話をする理由がわかるでしょう。霊界は神による統治と管理に関連している、というのがその理由です。人間が見ることのできないこのような世界において、天の命令や法令、行政組織はどれも、物質世界におけるどの国家の法令や組織よりもはるかに優れており、この世に生きるもののうち、それらに背いたり、反したりしようとする人は一切いないでしょう。これは神による統治と管理に関連していますか。霊界には、明確な行政命令、明確な天の命令、そして明確な法令があります。様々な段階、様々な領域において、担当官は厳密にその任務と規則を遵守します。なぜなら、天の命令に背いたときの報いが何かを知り、神がどのように悪を罰して善に報いるか、神がどのように万物を管理、支配するかを明確に認識しているからです。さらに、神がどのようにして天の命令と法令を実施するかをはっきり理解しています。これらのことは、人類が住む物質世界と異なりますか。そう、大いに異なります。霊界は物質世界とまったく異なる世界なのです。天の命令と法令があるため、それは神による統治と管理、そして神の性質、および神が所有するものと神そのものに関連しています。この話を聞いて、わたしがこの事項について話す必要性が大いにあると感じませんか。それにまつわる秘密を知りたいとは思いませんか。(思います。)いま述べたのが霊界の概念です。霊界は物質世界と共存し、同時に神による管理と統治の対象となっていますが、神による霊界の管理と統治は、物質世界におけるそれよりはるかに厳格なものです。

『神を知ることについて』「唯一無二の神自身 X.」(『言葉』第2巻)

日々の神の御言葉 抜粋 188

ここですべての人間を三つの種類に分類します。最初の種類は未信者で、宗教的な信仰をもたない人のことです。このような人を未信者と呼びます。未信者の圧倒的大部分は金銭だけを信じ、自分自身の利益だけを追求し、物質主義者であり、物質世界だけを信じています。生死の周期、あるいは神性や幽霊に関する話は何も信じません。これらの人たちを未信者と分類し、それを第一の種類とします。第二の種類は未信者以外の様々な信者の人たちです。人類のうち、こうした信者は数種類に大別されます。一番目はユダヤ教、二番目はカトリック、三番目はキリスト教、四番目はイスラム教、そして五番目は仏教というように、五つの種類があります。様々な信者がいるのです。第三の種類には神を信仰する人々が含まれ、あなたがたもここに入ります。この種の信者は現在神に付き従っている人々で、神の選民と効力者の二種類に分かれます。これらのおもな種類は明確に区別されています。これで、人間の種類と階層を心の中で明確に区別できるようになりました。違いますか。第一の種類は未信者から成っており、それがどのような人かはすでに述べました。天の父を信じる人は未信者に数えられますか。多くの未信者は天の父を信じるだけで、風雨や雷などはすべてこの存在によって支配されていると信じ、穀物の植え付けや収穫の際に頼るものの、神への信仰の話になると神を信じるのを嫌がります。これを信仰と呼べるでしょうか。こうした人々は未信者に含まれます。わかりましたね。これらの種類を誤解してはいけません。第二の種類は信者の人々で、第三の種類は神に現在付き従っている人々です。では、わたしがすべての人間をこれらの種類に分けたのはなぜですか。(様々な種類の人たちには、それぞれ異なる結末と終着点があるからです。)それは側面のひとつです。これら異なる人種や種類の人々が霊界へと戻るとき、彼らはそれぞれ異なる場所へと向かい、生死の周期に関する様々な法則の対象になります。ゆえに、わたしが人間をこれら三つの主要な種類に分けたのは、それが理由です。

未信者の生死の周期 (抄出)

まずは未信者の生死の周期から話を始めましょう。人は死ぬと、霊界の担当官に連れ去られます。では、その人のいったい何が連れ去られますか。連れ去られるのは肉体ではなく魂です。魂が連れ去られた人は、死後間もない人の魂を専門に受け付ける霊界の部局に辿り着きます。(これは死者が死後最初に行く場所であり、その魂にとって未知の場所です)。魂がこの場所に連れて来られると、係員が最初の検査を行い、名前、住所、年齢、そしてすべての経歴を確認します。その人が生前行った物事は残らず帳簿に記録され、それが正確であることが確認されます。それらの確認が完了すると、その人の生前の振る舞いや行動により、懲罰を受けるか、人間として再び肉体を与えられるかが判断されます。これが第一段階です。この第一段階は恐ろしいですか。それほど恐ろしいものではありません。なぜなら、その人が暗く馴染みのない場所に到着するだけだからです。

第二段階では、生前多くの悪事を行い、邪悪な所行をなした人は、刑場へと連れられて取り扱いを受けます。それは明らかに、人々を懲罰する場所です。人間が具体的にどう懲罰されるかは、その人が生前犯した罪や、悪事を行った回数に左右されます。これが第二段階で最初に行われることです。中には、懲罰を受けた後に生き返ったとき、つまり物質世界に再び生まれたとき、生前行った悪事や邪悪な所業のせいで、引き続き人間になる人もいれば、動物になる人もいます。つまり、霊界に戻った人は、自分が犯した悪事のために懲罰され、さらにその悪業のため、次に生き返る際、人間ではなく動物として戻ることもあるのです。こうした人が生まれ変わる動物には、牛、馬、豚、犬などが含まれます。中には鳥、アヒル、ガチョウなどに生まれ変わる人もいます。動物として生まれ変わった後に再び死ぬと、その人は霊界に戻ります。そして前回と同じく、霊界はその人の生前の行いに基づき、人間として生まれ変わるかどうかを決めます。大部分の人々はあまりに多くの悪事を犯し、その罪が重すぎるため、七回から十二回は動物として生まれ変わります。七回から十二回とは恐ろしくはありませんか。(恐ろしいです。)あなたがたを恐れさせるのは何ですか。人間が動物になるのは恐怖です。人間にとって、動物となって最もつらいことは何ですか。言葉をもたず、単純な考えしかできず、動物が行う物事を行い、動物が食べるものしか食べられなくなり、動物の単純な精神と身振りによる言葉を用い、まっすぐ立って歩くことも、人間と意思疎通を図ることもできず、また人間の振る舞いや活動は動物とまったく無関係であるという事実があります。つまり、万物の中で動物になったあなたがたは、すべての生物のうち最低の存在となり、そこには人間よりもはるかに多くの苦しみがあります。これが、数多くの悪事を行い、深刻な罪を犯した人に対する、霊界の懲罰の一側面です。懲罰の重さについて言えば、それは人間がどのような動物になるかで決定されます。たとえば、豚になるのは犬になるよりましですか。豚の生活は犬の生活よりましですか、それとも悪いですか。悪いでしょう。人間が牛や馬になったら、豚よりもましに暮らせるでしょうか。(ましに暮らせます。)猫として生まれ変われば、さらに快適でしょうか。動物となるのに変わりはありませんが、牛や馬になるより猫になるほうがずっと簡単でしょう。なぜなら、ほとんどの時間を怠けて寝て過ごすことになるからです。牛や馬になると苦労が増えます。ゆえに、牛や馬に生まれ変わった人は必死に働く必要があり、それは重い懲罰と同じことです。犬になるのは、牛や馬になるより少しだけましでしょう。なぜなら、犬は飼い主と親しい関係にあるからです。犬の中には三ないし五年ペットとして飼われたあと、飼い主の言葉の多くを理解できるようになるものもあります。ときには飼い主の気分や要求に合わせることもでき、すると飼い主の扱いがよくなり、食べ物や飲み物もましになり、苦痛を感じると看護してもらえます。そうすれば、犬は幸福な生涯を送るのではないでしょうか。ゆえに、犬になるのは牛や馬になるよりましです。このように、懲罰の重さによって、何回動物に生まれ変わるか、どのような動物として生まれ変わるかが決定されます。

中には生前に犯した罪の数が多すぎるため、七回から十二回にわたり動物として生まれ変わるという懲罰を受ける人がいます。十分な回数の罰を受けて霊界に戻ったとき、こうした人々は別の場所へと連れて行かれます。そこにいるのは、すでに懲罰を受けており、人間として生まれ変わる準備をしている様々な霊です。この場所では、どのような家庭に生まれるか、生まれ変わってからどのような役割を担うかなどにより、魂が一つひとつ分類されます。たとえば、この世に生まれて歌手になる人がおり、そうした人は他の歌手の中に置かれます。この世に生まれて実業家になる人は他の実業家の中に置かれ、人間として生まれてから科学研究者になる人は、他の科学研究者の中に置かれます。分類された魂は、現在の人々が電子メールを送信するときのように、それぞれ異なる予定日に送り出されます。これで生死の周期の一巡が完了します。霊界に到着したその日から懲罰が終わるまで、あるいは何度も動物として生まれ変わり、人間として生まれ変わる準備をするまで、これは完全な過程なのです。

懲罰を受け終えて動物として生まれ変わることがない人は、すぐに物質世界へと送られて人間として生まれ変わるでしょうか。その人が人間のもとにたどり着くには、どの程度の期間を要するでしょうか。そうなる頻度はどの程度でしょうか。これには時期的な制限があります。霊界で起きるすべての出来事には、正確な時間的制限と規則が適用されるのです。数値で説明すれば理解できるでしょう。短期間のうちに生まれ変わる人については、その人が死んだ際、人間として生まれ変わる準備がすでに行われています。それにかかる期間は最短で三日です。その期間が三ヵ月の人もいれば、三年の人も、三十年の人も、三百年の人もいます。それでは、こうした時期的な規則についてどのようなことが言えますか。また、その規則の詳細はどのようなものですか。それは、物質世界、つまり人間の世界が魂から必要とするものと、その魂がこの世で担うべき役割に基づいています。普通の人間として生まれ変わる場合、大部分の人がごく短期間で生まれ変わります。人間の世界には、こうした普通の人々に対する差し迫った需要があるからです。ゆえに、こうした人は三日後、死ぬ前の家庭と完全に異なる家庭へと送られます。しかし、中にはこの世で特別な役割を担う人もいます。「特別な」というのは、人間の世界にはそうした人々に対する大きな需要がないということです。そうした役割を担わなければならない人の数が多くないので、三百年後になる場合もあります。言い換えると、こうした魂は三百年に一度、あるいは三千年に一度しかこの世に現われません。それはなぜですか。その理由は、三百ないし三千年間、そうした役割は人間の世界で必要とされず、したがってそれらの魂は霊界のどこかに留められているからです。たとえば、孔子は中国の伝統文化に甚大な影響を及ぼし、その出現は、当時の人々の文化、知識、伝統、思想に大きな影響を与えました。しかし、そのような人間はどの時代にも必要というわけではなく、したがって孔子は霊界に留められ、生まれ変わるまで三百年、ないし三千年待つ必要があったのです。人間界はこのような人を必要としていないため、孔子は何もせずに待機している必要がありました。なぜなら、孔子のような役割は極めて少なく、そうした人がなすべきこともほとんどないからです。ゆえに、孔子はほとんどの期間、霊界のどこかに留められ、何もすることなく、人間界が彼を必要とするとき、そこに送られるのをひたすら待ち続けました。大半の人が生まれ変わる頻度について、霊的領域の時間的規則はこのようなものです。普通の人間か特別な人間かを問わず、霊界にはその生まれ変わりの処理に関する適切な規則と正しい慣行があり、そうした規則と慣行は神から送られたものであって、霊界の担当官やその他の存在が決めたり管理したりするものではありません。

『神を知ることについて』「唯一無二の神自身 X.」(『言葉』第2巻)

日々の神の御言葉 抜粋 189

未信者の生死の周期 (抄出)

あらゆる魂にとって、その生まれ変わり、生涯における役割、生まれる家庭、そしてその人生がどのようなものかは、その魂の前世と密接に関連しています。ありとあらゆる人々が人間界に現れますが、その人たちが果たす役割も、行う務めもそれぞれ異なります。それでは、その務めとは何ですか。中には負債を返済するために来た人がいます。過去の生涯で他人からの借入が多すぎた場合、この世でそれらの負債を返済するために来るのです。その一方で、債権を回収するために来る人もいます。こうした人たちは過去の生涯であまりに多くのものや金銭をだまし取られたのであり、結果として霊界に到着した後、公平な扱いを受け、その生涯で債権を回収することが許されるのです。また、恩返しをするために来る人もいます。このような人は前世において、つまり以前の生まれ変わりにおいて誰かの厚意を受けたのであり、この世に生まれ変わるという素晴らしい機会を与えられたおかげで、その恩返しをするために再び生まれたのです。その一方で、人命を奪うために生まれ変わった人々もいます。それでは、こうした人たちは誰の命を奪うのですか。彼らが奪うのは、以前の生涯でそうした人々を殺した者の命です。要するに、各人のいまの人生は、過去の生涯と密接な関わりをもっており、そのつながりを断つことはできません。つまり、各人のいまの人生は、前世によって大きく影響されるのです。たとえば、チャン氏が生前リー氏から巨額の金銭をだまし取ったとしましょう。チャン氏はリー氏に借りがありますか。借りがあるので、当然リー氏はチャン氏の借りを回収すべきです。結果として、両氏の死後には精算されるべき貸し借りが残ります。両氏が生まれ変わった際、チャン氏が人間になったとすれば、リー氏はどのようにしてチャン氏の借りを回収しますか。回収方法のひとつに、チャン氏の息子として生まれ変わるというものがあります。つまり、チャン氏が大金を稼ぎ、リー氏がそれを浪費するのです。チャン氏がどれほど多くの収入を得ても、息子のリー氏がそれを浪費するというわけです。チャン氏がどれほど多く稼いでも、それで十分ということは決してなく、どういうわけか彼の息子が、父親の金を様々な手段で常に消費してしまうのです。チャン氏は不思議に思ってこう考えます。「なぜ息子はいつもこんな悪運をもたらすのか。他人の息子がこんなに立派なのはなぜなのか。わたしの息子に野心がなく、役立たずで収入を得られず、常にわたしが支援しなければならないのはどうしてなんだ。わたしは息子を支援する必要があるので支援するが、わたしがいくら金銭を渡しても、息子が常にそれ以上の金額を必要とするのはなぜだろうか。息子がまっとうな仕事に就けず、ぶらぶらしたり、飲み食いしたり、風俗や賭博に明け暮れたりするなど、ありとあらゆることをするのはどうしてだ。一体どうなっているんだ」。チャン氏はしばらく考えます。「前世で息子に借りがあるのかもしれない。それなら借りを返そう。わたしが返し終わるまで、これが終わることはないだろう」。やがて、リー氏が借りを返してもらう日が来て、四十代、あるいは五十代になって突然正気に戻るでしょう。そして次のように気づくのです。「自分はこの半生でずっと、善い行いを何ひとつしてこなかった。父が稼いだ金をすべて浪費してしまった。だから、わたしは善人にならなければならない。わたしは決心した。正直な人になって正しい生活を送り、二度と父を悲しませない」。リー氏がこのように考える理由は何ですか。リー氏が突然よい方向に変わるのはなぜですか。その理由は何ですか。(リー氏が貸しを回収したからです。チャン氏は借りを返したのです。)これには因果関係があります。話の発端はずっと以前、両者が現在送っている人生の前にまで遡ります。両者の前世における経緯が現在にまで持ち越されているので、どちらも相手を責められません。チャン氏が息子に何を諭しても、息子は一切聞こうとせず、真面目に働こうともしませんでした。しかし借りがなくなった日、息子を諭す必要はなくなり、息子は自然と理解しました。これは簡単な例です。このような例は数多くありますか。(あります。)この例は人々に何を伝えていますか。(人間は善良でなければならず、悪事を行ってはいけないということです。)悪事を行ってはならず、悪業には報いがあるということです。未信者の大半は数多くの悪事を行い、その悪業は報いを受けます。そうですね。しかし、こうした報いは恣意的なものですか。すべての行いについて、それに対する報いには背景と原因があります。誰かから金銭をだまし取っても、自分には何も起こらないと思いますか。その金銭を騙し取った後、何の結果も生じないと思いますか。そのようなことはあり得ません。必ず結果が生じます。自分が誰であろうと、あるいは神がいることを信じようと信じまいと、すべての個人は自分の行動に責任を負い、その行動による結果を背負わなければなりません。ここで挙げた簡単な例では、チャン氏が懲罰を受け、リー氏が借りを返してもらいましたが、これは公平なことではないですか。人間がこのようなことをした場合、こうした結果が生じるのです。このことは霊界の管理と切り離せない関係にあります。たとえ未信者であっても、神を信じない人の存在はこうした天の法令や命令の対象となり、誰もそれから逃れられず、この現実を避けられません。

信仰をもたない人は、人間の目に見えるものはどれも存在し、見ることができないもの、あるいは人間から遠く離れたものは存在しないとよく考えます。そのような人は、「生死の周期」も「懲罰」も存在しないと考えたがり、それゆえためらうことなく罪を犯し、悪業を行います。その後、彼らは懲罰を受け、動物に生まれ変わるのです。様々な未信者のうち大半の人がこの悪循環に陥っています。なぜなら、あらゆる生物の管理について、霊界が厳格であることを知らないからです。信じるかどうかを問わず、この事実は存在します。神の目が届く範囲から逃れられる人や物はなく、神の天なる法令や命令によるきまりや制限から逃れられる人や物も存在しないからです。したがって、神を信じようと信じまいと、罪を犯して悪事を行うことは認められず、すべての行動には結果が伴うということを、この簡単な例は一人ひとりに教えています。他人から金銭をだまし取った人は懲罰を受け、その懲罰は公平です。こうした典型的な行動は、霊界においては罰せられ、その懲罰は神による命令と天の法令によって下されます。ゆえに、強姦や強奪、詐欺や欺き、窃盗や強盗、殺人や放火といった重大な犯罪や悪事に対しては、それにも増して様々な重さの懲罰の対象となるのです。こうした様々な重さの懲罰にはどのようなものがありますか。期間によって重さが決まる懲罰もあれば、その方法によって重さが決まる罰、あるいは生まれ変わるときの行き先で重さが決まる懲罰もある。たとえば、中には口汚い人がいます。ここで「口汚い」とは何を意味しますか。よく他人に暴言を吐いたり、他人を罵る悪意に満ちた言葉を使ったりすることです。悪意に満ちた言葉が強調しているのは何ですか。それは、その人が悪意に満ちた心の持ち主であることを示しています。そうした人の口からは、他人を罵る汚い言葉がしばしば飛び出ますが、そのような悪意に満ちた言葉は深刻な結果をもたらします。そうした人々は死んで相応の懲罰を受けた後、口の利けない人として生まれ変わるかもしれません。中には生前極めて計算高かった人がいます。そのような人はしばしば他人を利用し、その手口は極めて周到であって、人を傷つけることを数多く行います。こうした人は生まれ変わると、知能や精神に障害がある人として生まれ変わる可能性があります。また、他人のプライベートな物事を頻繁にのぞき見て、見るべきではない内情を山ほど見たり、知るべきではない事柄を数多く知ったりする人もいます。そうした人は結果として、全盲者として生まれ変わるかもしれません。生前短気で喧嘩をすることが多く、邪悪なことを多数行った人もいます。彼らはそのせいで身体や手足に障害を負って生まれ変わったり、片腕をもたずに生まれ変わったりするでしょう。さもなくば、背中や首が曲がった状態、足を引きずって歩く状態、あるいは一方の足が他方よりも短い状態で生まれ変わるかもしれません。これらの場合、その人は生前に行った悪事の程度に基づいて、様々な懲罰の対象とされたのです。斜視の人がいるのはなぜだと思いますか。そのような人は数多くいますか。現在、斜視の人は数多くいます。生前に目を使いすぎてあまりに多くの悪事をなし、そのため斜視をもってこの世に生まれ変わり、深刻な場合は全盲者として生まれる人もいます。これが報いなのです。また中には、生前に他の人々と仲よくできて、自分の親族、友人、同僚、あるいはその他の知り合いに対して多数の善行を重ねる人がいます。こうした人は他人に思いやりと配慮を傾けたり、金銭的に支援したりします。そして人々は彼らを高く評価します。こうした人は霊界に戻っても懲罰を受けません。未信者が何らかの形で懲罰を受けないということは、その人が極めて善人だったことを意味します。こうした人は神の存在を信じず、天の父だけを信じています。自分の頭上に魂があり、あらゆる行いを見ていると信じていますが、その人が信じているのはそれだけです。結果として、その人は極めて行いがよいのです。こうした人たちは親切で思いやりがあり、最終的に霊界へと戻った際、極めて優遇され、すぐに生まれ変わります。彼らは生まれ変わったとき、どのような家庭に生まれますか。そのような家庭は裕福ではないものの、何の害悪もなく、家族は互いに調和しています。生まれ変わった人は安全かつ幸福な日々を送り、誰もが喜びに満ちた素晴らしい生活を送るのです。これらの人たちは成人すると大家族になり、子供たちは才能に溢れて成功し、その家族は幸運に恵まれます。そしてこのような結果は、それらの人たちが送った過去の人生と密接に関係しています。つまり、死んで生まれ変わった人がどこに行くか、男になるか女になるか、その人の使命がどのようなものになるか、人生で何を経験するか、どのような挫折に苦しむか、どのような祝福を享受するか、誰に出会うか、そして我が身に何が起こるかについては、誰もそれらを予測したり、回避したり、逃げ隠れしたりすることができないのです。すなわち、いったんあなたの人生が定められると、自分に何が起ころうと、そしてあらゆる方法を用いてそれを避けようとしたとしても、神が霊界であなたのために定めた人生の進路から外れることは決してできません。なぜなら、生まれ変わったとき、あなたの人生の運命はすでに決定されているからです。それがよいか悪いかを問わず、誰もがそれに向き合い、前進し続ける必要があります。これは、この世に生きる誰もが避けられない問題であり、これ以上に現実的な問題は存在しません。わたしが言ったことは全部理解しましたね。

これらを踏まえて、未信者の生死の周期について、神が極めて精密かつ厳格な確認と管理を行っていることを、あなたがたはもう理解しましたか。まず、神は霊界における様々な天の法令、命令、組織を定めました。それらはいったん宣言されると、霊界で様々な役務を担当する者により、神が定めた通り極めて厳密に施行され、あえて違反する人はいません。したがって、人間界における人類の生死の周期には、動物として生まれ変わるか、人間として生まれ変わるかについて、その両方に法則が存在するのです。これらの法則は神に由来するため、それに背こうとする人はおらず、背くことができる人もいません。人に見える物質世界が規則正しく整然としたものであるのは、ひとえにこうした神の統治と法則があるからなのです。そして、人間が自分にはまったく見えない別の世界と平和に共存し、そこで調和して生活できるのは、神によるこの統治のためであり、それはどれも神の統治と切り離すことができません。人の肉体的ないのちが死を迎えても、魂にはいのちがあるとすれば、神の管理下になければどうなるでしょうか。その魂はありとあらゆる場所をさまよい、どこにでも侵入し、人間界の生き物を害することすらあるでしょう。こうした危害は人類だけでなく植物や動物にも加えられますが、最初に害を受けるのは人間でしょう。このようになれば、つまりこうした魂が管理されておらず、人間に本当の危害を加え、実際に邪悪な物事を行ったとしたら、この霊は霊界で適切に取り扱われることにもなるでしょう。事態が深刻な場合、その魂はたちまち消滅し、滅ぼされるはずです。可能であれば、どこかに置かれて生まれ変わるでしょう。つまり、霊界における様々な魂の管理は整然としており、様々な段階と規則に従って実行されます。人間の物質世界が混乱に陥らず、物質世界の人間が正常な精神と理性をもち、秩序ある肉体的生活を送っているのは、ひとえにこうした管理があるからです。人類がそうした正常な生活を送って初めて、肉体において生きる人は何世代にもわたって繁栄し、増え続けることができるのです。

『神を知ることについて』「唯一無二の神自身 X.」(『言葉』第2巻)

日々の神の御言葉 抜粋 190

未信者の生死の周期 (抄出)

未信者について、神の業の背後にある原則は、善を讃えて悪を懲罰するものですか。例外はありますか。(ありません。)神の業に原則があることを理解しましたか。未信者は実際に神を信じておらず、神の指揮に従うこともありません。加えて神の統治を認識しておらず、ましてや神を認めることなどありません。さらに深刻なことに、こうした人々は神を冒瀆し、神を呪い、神を信じる者に対して敵意を抱いています。神に対する彼らのこの態度にもかかわらず、彼らに対する神の統治は、依然として神の原則から逸脱しません。神は自身の原則と性質に従い、秩序ある形でこうした人々を管理するのです。神はこうした人々の敵意をどのように見なしますか。無知と見なします。結果として、神はこうした人々、すなわち未信者の大部分を、以前に動物として生まれ変わらせたのです。それでは、神の目から見て、未信者とはいったいどのようなものですか。どれも獣です。神は人類だけでなく家畜も管理するので、この種の人に対しても同じ原則があります。これらの人々に対する神の管理中にさえ、やはり神の性質と、神による万物支配の法則が見て取れます。これで、わたしが先ほど触れた、未信者を管理する原則における神の統治を理解しましたか。神の義なる性質がわかりましたか。(わかりました。)言い換えると、神が取り扱う万物のうち、それが何であれ、神は自身の原則と性質に従って業を行うのです。これが神の本質です。神は、こうした人を獣と見なしているからといって、自ら定めた規則や天の法令を軽々しく破ることは決してありません。神は原則に従って業を行いますが、無闇にそうすることは決してありません。そして神の業はいかなる要素にも影響されることが一切ありません。神が何をしようと、それはすべて神自身の原則に従います。神には神自身の本質があるからであり、それはいかなる創造物も有していない神の本質の一側面です。自ら造ったあらゆる物、人、生物の取り扱い、取り組み、経営、管理、支配について、神は誠実で責任をもっており、その点に関して注意を怠ることは決してありません。神は善良な人々に対して慈悲深く親切であり、邪悪な人々に対しては容赦ない懲罰を与えます。また様々な生物については、人間界におけるその時々の必要性に従い、時宜を得た規則的な方法で適切な采配を行うので、そうした様々な生物は、それぞれが受け持つ役割に従い、整然と生まれ変わり、秩序をもって物質世界と霊界の間を行き来するのです。

生物の死、すなわち物理的な生命の終焉は、その生物が物質世界から霊界へと移動したことを示します。一方、新たな物理的生命の誕生は、生物が霊界から物質世界に来て、その役割を引き受けて果たし始めることを示しています。それが生物の出発であろうと到着であろうと、いずれも霊界における働きと切り離すことはできません。ある人が物質世界に到来した段階で、その人が生まれる家庭、到着する時代と時刻、そしてその人が担う役割について、その人に適した采配と定義が神によってすでになされています。そうしたわけで、その人が送る一生、行う物事、そして進む道は、霊界でなされる采配に従い、一切逸脱せずに進行します。さらに、物理的な生命が終焉を迎える時、そして生命が終わるかたちと場所は、霊界においては明瞭で識別可能です。神は物質世界と同時に霊界も支配し、魂の正常な生死の周期を遅らせることは一切なく、その周期の采配で間違いを犯すことも一切ありません。霊界の各部局に所属する担当者は、神の指示と支配に従ってそれぞれの任務を遂行し、なすべきことを行います。ゆえに人間界では、人が目にするあらゆる物質的現象に秩序があり、混沌は一切存在しないのです。こうしたことは、すべて神による整然とした万物の支配と、神の権威が万物を支配しているという事実の賜物です。神の支配には、人間が生活する物質世界のほか、人類の背後にある目に見えない霊界が含まれます。そうしたわけで、人間がよい生活を願い、好ましい環境の中で暮らすことを望むのであれば、目に見える物質世界全体の施しを受けることに加え、霊界の施しも受けなければなりません。そして、それは誰も見ることができず、人間のためにあらゆる生き物を統治し、そして整然としたものです。

『神を知ることについて』「唯一無二の神自身 X.」(『言葉』第2巻)

日々の神の御言葉 抜粋 191

各種の宗教を信仰する人の生死の周期

これまでは、第一の種類の人々、つまり未信者の生死の周期について話してきました。ここからは、第二の種類である各種の宗教を信じる人たちの話をします。「各種の宗教を信仰する人の生死の周期」もまた重要な事項であり、これについて理解することは必要不可欠です。まずは、「信仰する人」の「信仰」が何を指すかについて話をしましょう。それは、ユダヤ教、キリスト教、カトリック、イスラム教、仏教の五大宗教です。未信者に加え、これら五大宗教を信仰する人が、世界の人口のうち大きな割合を占めています。これら五大宗教では、その信仰を職業とする人は少ないですが、信者は多数存在します。このような人は死ぬと別の場所に行きます。誰とは「別の場所」に行きますか。それは先ほど話した未信者、つまり信仰をもたない人です。五大宗教の信者は、死ぬと他の場所、未信者とは異なる場所に行くのです。しかし、その過程は依然として同じです。霊界では、こうした人たちについても、死ぬまでのすべての行いに基づいて裁きを下し、次いでその裁きに従って処理します。ですが、これらの人たちが別の場所に送られて処理されるのはなぜですか。そこには重要な理由があります。それは何ですか。ひとつ例を挙げて説明します。しかしその前に、あなたがたは「それはおそらく、彼らが少しは神を信じているからだ。完全な未信者ではないからだ」と考えているかもしれません。ですが、それが理由ではないのです。彼らが他の人たちから離されるのには、とても重要な理由があります。

仏教を例にとってあなたがたに事実を述べます。第一に、仏教徒とは仏教に改宗した人であり、その人は自分の信仰が何かを知っています。仏教徒が剃髪して僧や尼僧となった場合、それは俗世から自分を切り離し、人間界の喧噪をあとにしたことを意味します。こうした仏教徒は毎日読経し、仏陀の名を唱え、精進料理しか食べず、禁欲的な生活を送り、冷たくほのかな行灯の光だけで日々を過ごします。仏教徒はこのようにして一生を送るのです。仏教徒は肉体的人生が終わると、自分の生涯をまとめますが、死後に自分がどこへ行くか、誰と会うか、結末がどのようになるかは知りません。心の奥底で、こうした事柄についてはっきり認識していないのです。仏教徒は盲目的に一種の信仰を続けるだけで一生を過ごし、盲目的な願いと理想を抱いて人間界を去ります。それが仏教徒の肉体的生命の終焉であり、生者の世界を離れるときなのです。その後は霊界の本来の場所に戻ります。この人が生まれ変わって現世に戻り、修行を続けるかどうかは、生前における行いや習慣によって決まります。生涯にわたって過ちを犯さなかった人は、すぐに生まれ変わって現世に戻り、そこで再び僧や尼僧になります。つまり、初回の人生と同じように、この肉体的人生でも修行を行い、その肉体的人生が終わると霊の領域に戻り、そこで検査を受けるのです。そこで問題が無ければ、再び人間界へと戻り、再度仏教に改宗して修行を続けます。仏教徒は三回から七回生まれ変わったあと、肉体的人生が終わるたびに戻っていた霊界へと、もう一度戻るのです。人間界における仏教徒の様々な資格や行動が霊界における天の法令に準じていれば、その時点以降、その仏教徒は霊界に留まります。それ以上人間として生まれ変わることも、地上での悪業について懲罰を受ける恐れもなくなるのです。この仏教徒がこの過程を経ることは二度とありません。むしろ、状況に応じて霊の領域における地位を得ます。それが、仏教徒が言うところの「解脱」です。解脱とはおもに、霊界の役人として成果を挙げ、その後は生まれ変わることも、懲罰を受ける危険もなくなることを意味します。さらにそれは、生まれ変わって人間になることの苦悩がなくなることを意味します。では、仏教徒が動物に生まれ変わる可能性はありますか。(ありません。)それは、霊界である役割を担い続け、生まれ変わることがなくなることを意味します。これが、仏教において解脱に達することの一例です。解脱に達しなかった仏教徒について言えば、霊界に戻るとすぐ担当する役人によって検査と確認が行われ、生前仏教で定められた通り熱心に修行することもなければ、誠実に読経して仏陀の名を唱えることもなかったのが突き止められ、数多くの悪事を行い、よこしまな振る舞いが数多くあったと判断されます。そして霊界において、その悪事について裁きが下された後、間違いなく懲罰を受けます。これについて例外は一切ありません。そうであれば、このような人が解脱に達するのはいつですか。生涯一度も悪事を犯さなければ、霊界に戻った際、生前に過ちを犯さなかったことが確認されます。そしてその人は生まれ変わり続け、読経をして仏陀の名を唱え、行灯の冷たくほのかな明かりとともに毎日を過ごし、殺生を行わず、肉を食べません。人間界に加わることなく、人間の問題から遠く離れ、他人と一切言い争いません。この過程の中で、仏教徒はいかなる悪事も犯さず、その後は霊界に戻り、あらゆる行動や振る舞いが検証され、人間の領域に再び送られますが、その過程は三回から七回繰り返されます。この間に一度も悪事を犯さなければ、解脱を成し遂げることに何も影響がなく、それが遅れることもありません。これが、すべての人に関する、生死の周期の特徴です。人は「解脱」を成し遂げて霊界である地位を占めることができます。それが人と未信者の違いです。まず、霊界である地位を占めることができる人は、いまだこの世に生きている間、どのように自分を律しますか。こうした人たちは、悪事を一切行わないようにしなければなりません。殺人、放火、強姦、強奪などを行ってはなりません。詐欺、詐取、窃盗、強盗などを行った場合、解脱に達することはできません。言い換えると、何らかの形で悪事に関与すれば、霊界が下す懲罰から逃れることはできないのです。霊界では、解脱を遂げた仏教徒に対する適切な采配が行われます。仏教を信じ、天の父を信じていると思しき人々を監督する役割を与えられるかもしれません。または裁判権を与えられるかもしれません。あるいは、未信者を担当したり、ごくささやかな職務を与えられたりするだけかもしれません。こうした任命は、その魂がもつ様々な本性に従って行われます。これが仏教の例です。

先に述べた五大宗教のうち、キリスト教は比較的特殊です。では、キリスト教を特殊なものにしているのは何ですか。彼らは真の神を信じる人たちです。真の神を信じる人たちがここで挙げられているのはなぜですか。キリスト教は宗教の一種だと言うとき、それが信仰にしか関係していないことは確かです。キリスト教は一種の儀式、一種の宗教に過ぎず、真に神に付き従う信仰とはまったく別のものです。わたしがキリスト教を五大宗教のひとつに挙げたのは、それがユダヤ教、仏教、イスラム教と同じ程度まで零落したからです。ここにいる大半の人は、神が存在することも、神が万物を支配していることも信じておらず、まして神の実在など信じていません。その代わり、聖句を用いて神学を論じ、神学を用いて親切にすること、辛苦に耐えること、善行をなすことを人々に諭すだけです。キリスト教はこのような宗教になってしまったのです。つまり、神学理論だけに集中し、人間を経営して救う神の働きとは何ら関係ないのです。それは、神に従いながら、実際には神に認められていない人々の宗教になりました。しかし神には、そのような人たちを扱う原則もあります。未信者に対するのと同じく、クリスチャンを軽々しく取り扱ったり、気の向くままに取り扱ったりすることはありません。神はクリスチャンを、仏教徒と同じように扱います。生きている間に自己鍛錬を行い、十戒を厳しく守り、律法と戒律に従う形で自分の振る舞いを律し、生涯にわたってそれらを遵守することができれば、そのクリスチャンも生死の周期を同じ期間くり返した後、いわゆる「携挙」を真に獲得することができるはずです。この携挙を獲得したあと、クリスチャンは霊界に留まり、そこで何らかの地位を得て役人になります。同様に、地上で悪事を行った場合、つまりあまりに罪深く、数多くの罪を犯した場合、そのクリスチャンは必ずや様々な重さの懲罰や懲らしめを受けることになります。仏教において解脱とは、極楽浄土に入ることを意味します。では、それはキリスト教では何と呼ばれますか。それは「天国に入る」、「携挙」されると呼ばれます。真に携挙された人もまた生死の周期を三回から七回にわたって繰り返し、その後に死ぬと、あたかもそれまで寝ていたかのように霊界へと辿り着きます。そして基準を満たしていれば、そこに留まって何らかの役割を担うことができ、地上の人々とは異なり、単純に生まれ変わることも、慣例にしたがって生まれ変わることもありません。

これらすべての宗教において、信者が語り、獲得しようと努めている結末は、仏教で言う解脱の達成と同じです。ただ、その「解脱」を成し遂げる方法は様々です。これらの宗教はすべて似たようなものです。これら宗教の信者のうち、行動において宗教上の教えを遵守できる一部の人に対し、神はそれぞれにふさわしい終着点と目的地を与え、適切に対処します。それはどれも合理的ですが、人々が想像するようなものではありません。ここまで、キリスト教の人々がどうなるかに関する話を聞いて、あなたがたはどう感じますか。彼らの苦境は不公平なものだと思いますか。彼らに同情しますか。(多少同情します。)これについてできることはありません。彼らは自分を責めるしかないのです。わたしがそのように言うのはなぜですか。神の働きは真実であり、神は生きて実在し、神の働きは全人類、すべての個人を対象にしています。ならば、彼らがそれを受け入れないのはなぜですか。気が狂ったように神に反抗し、神を迫害するのはなぜですか。彼らは、このような結末を得られるだけでも幸運だと思うべきなのに、あなたがたが彼らを哀れむのはどうしてですか。彼らがこのような処遇を受けることは、大いなる寛大さを示しています。神に反抗する度合いに基づけば、彼らは滅ぼされるべきです。しかし神はそのようにせず、キリスト教を普通の宗教と同じように扱うだけです。では、その他の宗教についても詳細に踏み込む必要がありますか。これらすべての宗教の理念は、人間がさらに多くの苦難を背負い、悪事をなさず、善行を重ね、他人の悪口を言わず、他人を裁かず、論争を避け、善人となることです。大半の宗教の教えはこのようなものです。ゆえに、これらの人たち、つまり様々な宗教や教派の信者が、宗教上の教えを厳しく守れるなら、地上にいる間は大きな過ちや罪を犯すことがありません。そして三回から七回生まれ変わったあと、宗教上の教えを厳しく守れるこれらの人たちは、概して霊界に留まり、そこで地位を得ます。このような人は数多くいますか。(いません。)その答えの根拠は何ですか。善行を重ね、宗教上の規則や掟を遵守するのは容易なことではありません。仏教では人間が肉を食べることは禁じられていますが、あなたにそれができますか。一日中灰色の法衣をまとい、寺で読経し、仏陀の名を唱えなければならないとしたら、あなたにそれができますか。容易ではないでしょう。キリスト教には十戒や戒律や律法がありますが、それらは容易に遵守できるものですか。容易ではありません。違いますか。他人の悪口を言わないこと、というのを例にとりましょう。人々はこの決まりをまったく守れていません。自制できずに他人の悪口を言うのです。そして悪口を言ったあと、それを取り消すことはできませんが、そこで人間はどうしますか。夜になると自分の罪を告白します。他人の悪口を言ったあとも心中に憎しみを抱き、その人をさらに傷つけようと企むことすらあります。要するに、こうした死んだ教義のなかで生活している人々にとって、罪を犯したり悪事を行ったりすることを避けるのは容易でないのです。ゆえにどの宗教でも、実際に成果を挙げられる人は一握りしかいないのです。極めて多くの人がこれらの宗教に従っているのだから、霊の領域に留まって何らかの役割を果たせる人はかなりの数になるだろうと、あなたは思っているのですか。それほど多くはなく、実際にそうできる人は数名しかいません。人の生死の周期は概してこのようなものです。こうした人々の相違点は成果を挙げられるということであり、それが未信者との違いです。

『神を知ることについて』「唯一無二の神自身 X.」(『言葉』第2巻)

日々の神の御言葉 抜粋 192

神に付き従う人の生死の周期 (抄出)

次に、神に付き従う人の生死の周期について話をしましょう。これはあなたがたに関係することなのでよく聞いてください。まず、神に付き従う人がどのように分類されるかを考えましょう。(神の選民と効力者に分類できます。)神に付き従う人は、神の選民と効力者の二つに分けられます。まずは、少数しかいない神の選民について話します。「神の選民」とは誰を指しますか。神が万物を創造して人類が存在するようになったあと、神は自身に付き従う人々の集団を選びましたが、その人たちは単に「神の選民」と呼ばれます。神がその人たちを選ぶにあたっては、特別な範囲と意義があります。その範囲は、神が重要な働きを行うときに来なければならない、選ばれた少数の人に限られていたという点で特別です。その意義は何ですか。その人たちは神に選ばれた集団なので、その意義は大きいものです。つまり、神はその人たちを完全な存在にして完成させることを望み、その経営の働きが終わると、これらの人を自分のものにするのです。この意義は偉大なものではないですか。したがって、これらの選民は神にとって極めて重要な存在です。なぜなら、神はこれらの人たちを自身のものにしようと考えているからです。一方の効力者についてですが、その前に神の予定の話をしばらく中断し、まずは効力者の由来について話をします。「効力者」は文字通り奉仕を行う人です。奉仕を行う人は一時的な存在です。長期的に、あるいは恒常的に奉仕するのではなく、一時的に雇われたり、起用されたりする人たちなのです。効力者の由来ですが、彼らの大半は未信者から選ばれた人たちです。その人たちが神の働きの中で効力者の任務を担うよう命じられたとき、効力者は地上に現われます。前世において動物だったり、未信者だったりすることもあります。これが効力者の由来です。

それでは、神の選民についてさらに話しましょう。神の選民は死んだ際、未信者や様々な宗教の信者とはまったく異なる場所に行きます。そこは、神の選民が天使と神の使いに付き添われ、神自身が管理している場所です。この場所において、神の選民は自分の目で神を見ることはできませんが、霊界における他のどの場所とも異なっています。それは違う場所に位置しており、神の選民が死後に行く場所なのです。神の選民は死んだときもまた、神の使いによる厳格な調査の対象になります。それでは、何が調査されるでしょうか。神の使いは、これらの人たちが神への信仰において生涯歩んできた道を調べます。つまり、その間神に反抗したり神を呪ったりしたかどうか、重い罪や悪事を犯したことがあるかどうかを調べるのです。この調査により、ある特定の人がそこに留まるのを許されるのか、それとも立ち去らなければならないかが決まります。ここで「去る」とは何を意味しますか。また、「留まる」とは何を意味しますか。「去る」とは、自分の行動に基づき、神の選民の一員として留まるかどうかを意味します。また「留まる」ことを許されるとは、終わりの日、神によって完全にされる人々の中に留まることができる、という意味です。留まる人について、神は特別な采配を行います。つまり働きの各期間において、神はそうした人々を送り、使徒として行動させたり、教会を復興させる、あるいは教会に奉仕する働きをさせたりするのです。しかし、こうした働きを行える人は、何世代にもわたって生まれ変わる未信者ほど頻繁に生まれ変わりません。むしろ、神の働きの必要性と段階に従って地上へと戻るのであって、頻繁に生まれ変わることはないのです。では、選民が生まれ変わる時期には規則がありますか。神の選民は数年ごとに生まれ変わりますか。そうした頻度で現われますか。現われません。それは神の働き、働きの段階、神の必要性に基づいており、決まった規則はありません。唯一の規則は、神が終わりの日に働きの最終段階を行う際、これら選民が全員現れ、その到来が彼らにとって最後の生まれ変わりになる、ということです。それはなぜですか。これは、神による働きの最終段階で実現されるべき結果に基づいています。働きの最終段階において、神はこれらの選民を残らず完全にします。それは何を意味しますか。この最終段階においてこれらの人たちが完全にされるのであれば、それまでのように生まれ変わることはありません。人間として存在する過程、そして生まれ変わる過程が完全に終わるのです。このことは留まる人に関連しています。それでは、留まることができない人はどこに行きますか。留まることを許されていない人には、その人にふさわしい終着点があります。まずは自分の悪事、犯した過ち、そして罪の結果として、彼らも懲罰を受けます。彼らが懲罰を受けたあと、神はその状況に従い、彼らを未信者のもとに送るよう采配するか、様々な人たちの間に行くよう采配するかします。言い換えると、彼らには二つの結果があり得るわけです。その一つは、懲罰を受けて生まれ変わったあと、おそらくある宗教の信者として生きるというものであり、もう一つは未信者になるというものです。未信者になった場合、彼らはすべての機会を失います。しかし、たとえばキリスト教などの信者となった場合は、依然として神の選民に戻る機会があります。このことには極めて複雑な関係が存在しています。簡潔に言うと、神の選民が神に背くことをした場合、その人は他の全員と同様に懲罰されます。以前に話し合ったパウロを例にとりましょう。パウロは懲罰を受けた人の一例です。わたしが言っていることの意味を理解していますか。神の選民の範囲は一定ですか。(ほぼ一定です。)ほぼ一定ですが、わずかに一定でない部分があります。それはなぜですか。ここでは最も分かりやすい理由として、悪事を行うことを挙げました。悪事を行った人を神は望まず、その人を様々な人種や人々の中に放り込みます。すると、その人には望みがなくなり、戻るのが難しくなります。そのすべてが、神の選民の生死の周期と関連しているのです。

『神を知ることについて』「唯一無二の神自身 X.」(『言葉』第2巻)

日々の神の御言葉 抜粋 193

神に付き従う人の生死の周期 (抄出)

次のテーマは効力者の生死の周期に関するものです。効力者の由来については先ほど話しました。つまり、こうした効力者は以前の生涯で未信者や動物になってから、生まれ変わったのです。働きの最終段階が始まると、神は未信者の中からこうした人の一団を選びますが、この集団は特別な存在です。神がこれらの人たちを選ぶのは、彼らを神の働きに奉仕させるのが目的です。「奉仕」という言葉は、それほど美しいものでも、誰かが望むようなものでもありませんが、わたしたちはその対象となる人に目を向けるべきです。神の効力者の存在には特別な意義があります。効力者は神に選ばれた人たちなので、その役割を果たせる人は他にいません。では、これら効力者の役割は何ですか。それは神の選民に奉仕することです。大半の場合、効力者の役割は神の働きに奉仕し、それと協調し、神が選民を完全なものにするのを助けることです。効力者が働いているか、何らかの側面の働きを行っているか、ある種の任務を遂行しているかを問わず、神がこれら効力者に対して要求しているのは何ですか。神は効力者に多くのことを求めていますか。(いいえ、神は効力者が忠実であることしかお求めになりません。)効力者もまた忠実でなければなりません。あなたの由来や、神があなたを選んだ理由を問わず、あなたは神に忠実でなくてはならず、また神があなたに託した使命、あなたが担当する仕事、そしてあなたが尽くす本分に対しても、忠実でなければなりません。忠実で神を満足させられる効力者について、その結末はどのようなものになりますか。こうした効力者は留まることができます。留まる効力者であることは祝福ですか。留まるとは何を意味しますか。その祝福の意義はどのようなものですか。効力者の地位は神の選民の地位と異なるように思われます。しかし実際には、効力者がその生涯において享受するものは、神の選民が享受するものと同じではないのですか。少なくとも、その生涯において享受するものは同じです。それは否定できませんね。神の発する言葉、神の恵み、神の施し、そして神の祝福を享受しない人がいるでしょうか。誰もがそうした豊かさを享受します。効力者の身分は奉仕する人ですが、神にとっては自ら造った万物のひとつに過ぎず、単にその人の役割が効力者であるというだけです。効力者と神の選民はいずれも神の創造物ですが、両者の間に何らかの違いはありますか。事実上、違いはありません。名目上は違いがあり、その本質、そしてその人が果たす役割において違いがあるのですが、神はこの人々の集団を不公平に扱いません。それでは、これらの人々が効力者に定められているのはなぜですか。それについて、あなたがたは理解しなければいけません。効力者は未信者から生じます。効力者は未信者から生じると話したとたん、効力者はよくない背景をもっていることが明らかになります。彼らはみな無神論者であり、過去においてもそうでした。彼らは神を信じず、神、真理、そして肯定的なすべての物事に敵意を抱いていました。神を信じることも、神の存在を信じることもなかったのです。それならば、効力者は神の言葉を理解できますか。大まかに言えば、理解できないと言って構いません。動物が人間の言葉を理解できないように、効力者は神が何を言っているのか、何を求めているのか、なぜそのような要求をするのかが理解できないのです。これらのことは効力者にとって理解不能であり、依然として啓かれていないままです。そのため、これらの人たちはこれまで語ってきたいのちをもっていません。いのちなくして、人は真理を理解できますか。真理を備えていますか。神の言葉に関する経験や認識がありますか。(ありません。)これが効力者の由来です。しかし、神はこうした人々を効力者とするので、神の効力者に対する要求にはやはり基準があります。神は効力者を無下にすることも、いい加減に扱うこともありません。効力者は神の言葉を理解できず、いのちがないにもかかわらず、神は依然として効力者を親切に扱い、また効力者に対する神の要求には基準があります。その基準は先ほど話したとおりです。つまり、神に忠実であること、神の言葉に従うことです。奉仕を行うにあたっては、必要とされる場所で奉仕しなくてはならず、最後まで奉仕しなければなりません。あなたが忠実な効力者になって最後の最後まで奉仕することができ、また神から託された使命を果たせるなら、あなたは価値のある人生を送ります。価値ある人生を送れるなら、あなたは留まることができます。それに加えてもう少し努力し、懸命に試み、神を知ろうとする取り組みを強化し、神を知ることについて多少は語ることができ、神の証しをすることが可能で、さらには神の旨について何かしら理解し、神の働きに協力でき、神の旨を多少なりとも心に留めることができるなら、効力者であるあなたは運命の変化を経験するでしょう。では、その運命の変化とは何ですか。単に留まれるだけではなくなるのです。あなたの行動、そして個人的な熱意と追求に応じ、神はあなたを選民の一人にします。これがあなたの運命の変化です。効力者にとって、この変化による最大の利益は何ですか。それは、神の選民になれるということです。神の選民になることは、未信者のように動物として生まれ変わることがもはやなくなることを意味します。これはよいことではありませんか。これはまたよき知らせでもあります。それは、効力者が形作られることを意味するのです。奉仕するよう神によって定められた効力者が、永遠にそうし続けるということはありません。必ずしもそうではないのです。神はその人の行いに適した形で、彼らを扱い、彼らに対処します。

とは言え、最後まで奉仕できない効力者もいます。奉仕の途中で諦め、神を捨てる人もいれば、複数の悪事を犯す人もいるのです。さらには、神の働きに甚大な害と損失を与える人、神を呪う効力者さえいます。そうした取り返しのつかない結果は、何を指し示しますか。こうした邪悪な行いは、奉仕の中断に結びつきます。奉仕における行いがあまりに悪く、度が過ぎたので、あなたの奉仕が基準以下であることを知った神は、あなたから奉仕する資格を剥奪し、これ以上あなたが奉仕するのを許さず、あなたを神の眼前、神の家から排除します。あなたは奉仕したくないのですか。絶えず悪事を犯したがっているのではないですか。一貫して不忠ではないのですか。そうであれば、簡単な解決策があります。あなたから奉仕する資格を剥奪するのです。神にとって、効力者から奉仕する資格を剥奪することは、その効力者が終わりを宣告されたことを意味します。こうした効力者はもはや神に奉仕する資格をもたず、神はその人の奉仕を必要としなくなり、その人がいかに美辞麗句を並べても無駄なのです。物事がここまで達すると、状況を元通りにするのは不可能です。そうした効力者は後戻りできないのです。では、神はこうした効力者をどのように取り扱いますか。単に奉仕をやめさせるだけですか。そのようなことはありません。単に留まらせないようにするだけですか。あるいは、そうした人たちを一箇所に集め、改心するのを待ちますか。それも違います。実のところ、相手が効力者になると、神はそこまで愛情深くありません。ある人が神に奉仕する際にそうした態度をとる場合、神はその態度の結果として、その人から奉仕する資格を剥奪し、再び未信者の中に放り込みます。それでは、未信者の中に放り込まれた効力者の運命は、どのようなものですか。その運命は未信者のそれと同じであり、動物として生まれ変わり、霊界で未信者と同じ懲罰を受けます。さらに、神はその人の懲罰に対し、個人的な関心を示しません。なぜなら、そのような人はもはや神の働きと何の関係もないからです。それは、その人にとって神を信仰する生活の終焉となるだけでなく、その人自身の運命の終焉であり、その人の運命の宣告でもあります。ゆえに、効力者の奉仕がよくなければ、その人は自分自身でその結果を背負わなければならないのです。効力者が最後まで奉仕できなかった場合、あるいは途中で奉仕する資格を剥奪された場合、その人は未信者の中に放り込まれます。そうなれば、その人は家畜と同じように、あるいは知性や理性のない人々と同じように扱われます。このように説明すれば、あなたがたにも理解できますね。

以上が、神の選民と効力者の生死の周期を神が取り扱う方法です。それを聞いて、あなたがたはどう感じますか。わたしが以前にこの事項を話したことはありますか。神の選民と効力者という主題を語ったことはありますか。実はあるのですが、あなたがたは覚えていません。神は、神の選民と効力者に対して義です。あらゆる点で神は義なのです。そのことに疑問の余地はありますか。中には、「神が選民に対してこれほど寛容なのはなぜか。また神が効力者に対し、少ししか寛容でないのはなぜか」と言う人がいるのではないでしょうか。効力者の肩を持ちたい人はいますか。「神は効力者にもっと時間を与え、もう少し寛容であることができないのか」と疑問の声をあげるのは正しいことですか。(正しくありません。)どうして正しくないのですか。(効力者にされただけでも、わたしたちに厚意が示されたからです。)効力者は奉仕することを許されただけでも、厚意を示されたのです。「効力者」という呼び名も、効力者が行う働きもなかったとしたら、それらの人々はどこにいるでしょうか。未信者の中にいて、家畜とともに生き、そして死ぬでしょう。神の前、神の家に来ることが許されている効力者は、今日何と大きな恵みを享受しているのでしょう。これは並外れて大きな恵みです。神があなたに奉仕する機会を与えなかったとしたら、あなたには神の前に来る機会が一切なかったはずです。少なくとも、あなたが仏教徒であって、解脱を成し遂げたとしても、せいぜい霊界の使い走りとなる程度です。神に会うことも、神の声や言葉を聞くこともなく、神の愛と祝福を感じることもなければ、神と対面することもまずできないでしょう。仏教徒には単純な任務しかありません。仏教徒はとうてい神を知ることができず、ただ服従するだけですが、効力者は働きのこの段階においてとても多くのものを得ます。まず、効力者は神と対面し、神の声と言葉を聞き、神が人々に授ける恵みと祝福を体験することができます。さらに、効力者は神から授けられる言葉や真理を享受することができます。効力者は実に多くのものを得るのです。したがって、あなたが効力者として正しく力を尽くすことさえできなければ、神はあなたを効力者として留めることができますか。神はあなたを留めておけません。神はあなたに多くを求めないのに、あなたは神が求めていることを何一つ正しく行わず、自分の本分を遵守したこともありません。ゆえに、神は疑問の余地なくあなたを留めておくことができないのです。これが神の義なる性質です。神があなたを甘やかすことはありませんが、あなたを差別することもありません。神はこれらの原則に従って行動します。神はすべての人と被造物をこのような形で扱うのです。

『神を知ることについて』「唯一無二の神自身 X.」(『言葉』第2巻)

日々の神の御言葉 抜粋 194

神に付き従う人の生死の周期 (抄出)

霊界に存在する様々な者が、誤ったことをしたり、自分の仕事を正しく行わなかったりした場合、神はそれに対応する天の法令と命令でもってそれらを取り扱います。これは絶対的なことです。したがって、神の数千年にわたる経営の働きの期間においては、過ちを犯した担当官の一部は一掃され、一部は今日に至るまで拘留されて懲罰を受けています。これは、霊界にいるあらゆるものが直面しなければならないことです。何か間違ったことをしたり悪事を犯したりした場合、その人は罰せられますが、それは神の選民や効力者に対する神の姿勢と同じでする。ゆえに、霊界か物質世界かを問わず、神が業を行う原則は変わりません。あなたが神の業を見られるかどうかにかかわらず、その原則が変わることはないのです。あらゆるものに対する神の姿勢、および万物に対する神の処遇には、一貫して同じ原則があります。これは不変です。未信者のうち比較的真面目に生活している人に対し、神は親切であり、また各宗教の信者のうち、行いが正しく悪事を犯さない人の機会を神は守り、神が経営しているすべての物事において役割を担うこと、そしてなすべきことをなすことを許しています。同様に、神に付き従う人、そして神の選民についても、神は自身の原則に従い、誰一人として差別しません。神は心から神に従えるすべての人に対して親切であり、またそのような人を愛します。未信者、様々な宗教の信者、そして神の選民など、様々な種類の人々について、神が授ける物事は異なるということなのです。未信者を例にとりましょう。未信者は神を信じておらず、神はこうした者を獣と見なしていますが、彼らの一人ひとりに食べるべき食糧、自分の居場所、そして通常の生死の周期があります。悪事を行う人は罰せられ、善い行いをする人は祝福されて神に親切にされます。そうではありませんか。信仰のある人について言えば、生まれ変わるたびに宗教上の教えを厳しく守れるなら、それら生まれ変わりのあと、最終的に神から宣言が与えられます。同様に、今日のあなたがたについても、神の選民であろうと効力者であろうと、神は自ら定めた規則と行政命令にしたがい、あなたがたをそれと同調させるとともに、あなたがたの結末を決めます。様々な種類の人のうち、各種の宗教の信者、つまり様々な宗教に属する人たちに対し、神は生きるべき空間を与えてきましたか。ユダヤ教徒はどこにいますか。神が彼らの信仰に介入したことはありますか。ありません。では、キリスト教はどうですか。神はこちらにも介入したことがありません。これらの人々がそれぞれの手続きに従うことを神は許し、彼らに語りかけたことも、何らかの啓きを与えたこともなく、さらには何一つ明らかにしたこともありません。それが正しいと思うなら、そのように信じなさい。カトリック教徒はマリアを信仰し、マリアを通してイエスに知らせが伝えられたと信じています。それがカトリック教徒の信仰の形です。神が彼らの信仰を正したことはありますか。神は彼らの自由にさせ、彼らに注意を払わず、一定の生活空間を与えています。イスラム教徒や仏教徒に対しても、神は同じではないですか。ここでも神はそれぞれの信仰に口出しせず、彼らのために境界を設け、各々の生活空間をもつことを許しています。すべてが整然としているのです。では、これらのことから何がわかりますか。神には権威があるが、それを濫用することはない、ということがわかります。神は完全なる秩序の中で万物を采配し、秩序正しくそれを実行しますが、そこには神の知恵と全能があるのです。

『神を知ることについて』「唯一無二の神自身 X.」(『言葉』第2巻)

日々の神の御言葉 抜粋 195

神自身の身分と地位

神は万物を支配し、管理している存在です。神は存在するすべての物事を造り、管理し、支配し、それらに施します。これが神の地位であり、また神の身分です。万物、そして存在するすべての物事について、神の真の身分はあらゆる被造物の創造主であり、支配者なのです。それが神の所有する身分であり、神は万物にあって唯一無二の存在なのです。神の被造物のうちひとつとして、人類の中にあるか、あるいは霊界にあるかを問わず、何らかの方法や言い訳を使って、神の身分と地位を装ったり、神の代理となったりすることができる人はいません。なぜなら、被造物を支配する身分、力、権威、そして能力をもつ存在はただひとつだけであり、それは唯一無二の神自身だからです。神は万物の中で生き、動いています。神は万物のうえ、最も高い場所へと昇ることができます。また神は、血と肉のある人間のひとりに身をやつし、人々と向き合って苦楽を共にすることもできます。それと同時に、神は存在するすべてのものを支配し、その運命と進む方向を決定するのです。さらに、神は人類全体の運命と方向性を導きます。このような神は、あらゆる生物が崇め、付き従い、知るべき存在です。したがって、人類のうちどの集団、どの種類に属しているかを問わず、あらゆる個人、あらゆる生物にとって、神を信じ、神に付き従い、神を畏れること、また自分の運命に対する神の支配と神の采配を受け入れることが、唯一かつ必然の選択肢なのです。神が唯一無二の存在であることの中に、人は神の権威、義なる性質、そして神の本質を理解し、神が万物に施す方法がどれも完全に独自のものであることを理解します。また神が唯一無二の存在であることにより、神自身の真の身分と地位が決定されるのです。そうしたわけで、あらゆる被造物のうち、霊界や人間界に存在する生物が神の代わりになろうとしても、それが成功することはあり得ず、また神になりすまそうとする試みがうまく行くこともあり得ません。これは事実です。神自身の身分、力、そして地位をもつこのような創造主、支配者が、人類に要求することは何ですか。これは誰もがはっきり理解し、覚えておくべきことであり、神と人間の両方にとって極めて重要なことです。

『神を知ることについて』「唯一無二の神自身 X.」(『言葉』第2巻)

日々の神の御言葉 抜粋 196

神に対する人類の様々な態度

人が神に対してどのような態度をとるかによって、その人の運命が決まるとともに、その人に対する神の態度と取り扱いも決まります。ここで、人が神に対してどのような態度をとるか、その例をいくつか挙げます。神の前における各々の振る舞いが正しいかどうか、じっくり耳を傾けて確かめてください。まずは次に挙げる七種類の人間の行動について考えましょう。

1)神に対する態度がことさら不条理な種類の人々がいます。こうした人たちは、神は菩薩、あるいは民話に登場する聖なる存在のようなものであり、人間が神と会うときは三回礼をして、食後に香を焚かなければならないと考えています。結果としてこうした人たちは、神の恵みを心の底からありがたいと思い、神に感謝するたび、このような衝動を感じるのです。この人たちは、いまの自分が信じている神が、心の中で慕っている聖なる存在のように、自分たちのやり方、すなわち神と会うとき三回礼をし、食後に香を焚くというやり方を受け入れられることを強く願っています。

2)神のことを生き仏と見なし、あらゆる生物を苦しみから引き上げ、救うことができると考えている人がいます。彼らは神のことを、苦しみの海から自分たちを救い出せる生き仏として見ているのです。こうした人々の神に対する信仰には、神を仏陀として崇めることが伴っています。彼らは香を焚くことも、叩頭することもなく、捧げ物もしませんが、神はまさに仏陀のような存在であって、自分たちが親切であり、寛大であり、殺生を行わず、他人の悪口を言わず、正直に見える人生を送り、悪事を行わないよう求めているだけだと思っています。神は自分たちにこれしか求めていないと信じているのです。これが、こうした人々が心に抱く神なのです。

3)神を偉人や有名人のごとく崇拝する人がいます。たとえば、その偉人が好む話し方、語る口調、用いる言い回しや語彙、その語調、手振り、意見、行動、そして態度がどのようなものであろうと、こうした人たちはそのすべてを模倣しますが、それらは神を信仰する中で、完全にできるようにならなければならない事柄なのです。

4)神を君主と見なす人がいます。こうした人たちは、神は誰よりも高位にあり、あえて神に逆らおうとするものはおらず、逆らった場合、その人は刑を科されると感じています。彼らがこのような君主を崇めるのは、自分の心のある部分がその君主に占められているからです。君主の考え、振る舞い、権威、本性、さらには関心事や個人生活までもが、すべて自分たちが理解すべきこと、考慮すべき問題となっているのです。結果として、こうした人たちは神を君主として崇拝しています。このような形の信仰は馬鹿げています。

5)神の存在についてある特定の信仰をもち、その信仰が深遠かつ揺るぎないものである人がいます。しかし、こうした人たちの神に関する認識は極めて表面的なものであり、神の言葉に関する経験が少ないため、神を偶像として崇拝するのです。この偶像が彼らの心中における神であり、畏れ、服従し、付き従い、模倣しなければならないものだと思っています。彼らは神を偶像と見なし、生涯にわたって付き従わなければならないものだと考えています。こうした人たちは神の口調を模倣し、神が好む人々の外見を真似します。純粋無垢で正直に見えることを頻繁に行い、決して離れられない仲間、あるいは道連れであるかのように、偶像に付き従うことさえします。これがこの種の人たちによる信仰の形です。

6)神の言葉を数多く読み、説教を大量に聞いたにもかかわらず、心の奥底で、絶えず神にこびへつらうこと、あるいは非現実的な形で神を讃美することが、神に対する自分の振る舞いにおける唯一の原則だと思っている類の人がいます。こうした人たちは、自分がこのように振る舞うよう神は求めていると信じています。さらに、自分がそれを怠ると、いつ何時神の怒りを招いたり、神に対して罪を犯したりするかもしれず、その罪のせいで神に懲罰されると信じています。これが、こうした人たちが心の中で抱いている神なのです。

7)そして次に、神の中に精神的な施しを見出す人がいますが、そのような人は大半を占めています。それは、この世で生活しており、平和も幸福もなく、慰めを見出すこともできないからです。こうした人たちはいったん神を見つけ、神の言葉を聞いて理解すると、心の中で密かな幸福と高揚感を抱き始めます。それは自分の魂が幸福になる場所と、精神的な支えをもたらす神を、ようやく見つけ出したと信じているからです。神を受け入れ、神に付き従い始めると、彼らは幸福になり、生活が満たされます。もはや未信者のように振る舞うことはなく、あたかも動物のようにあてどなくさまようこともなくなり、人生に期待できるものがあると感じます。ゆえにそうした人たちは、この神が自分の精神的な必要性を大いに満たし、精神と魂の両面において自分に大きな幸福をもたらせると考えているのです。彼らは無意識のうちに、こうした精神的な支えを与え、自分の精神と家族全員に幸福をもたらす神から離れられなくなります。神への信仰は精神的な支えさえもたらせばよいと信じているのです。

以上、神に対する様々な態度に触れてきましたが、あなたがたの中にそうした態度の人がいますか。(います。)神への信仰において、心の中にこうした態度のいずれかがある場合、その人は真に神の前に来ることができますか。心の中にこうした態度がある人は、神を信じていますか。そのような人は唯一無二の神自身を信じていますか。(信じていません。)唯一無二の神自身を信じていないのであれば、あなたは何を信じているのですか。信じているのが唯一無二の神自身でないとすれば、あなたは偶像、偉人、あるいは菩薩を信仰しており、心の中にいる仏陀を崇拝している可能性があるのです。さらに、あなたは普通の人を信じている可能性もあります。要するに、様々な信仰形態と神に対する態度が原因となって、人は自分が認識している神を心に据え、神に自分の想像を押しつけるとともに、神に対する自分の態度と想像を唯一無二の神自身と同列に位置づけ、それを高く掲げて神聖なものにしているのです。神に対してこうした不適切な態度をとることは、何を意味しますか。それは真の神自身を捨て、偽の神を信仰していることを意味すると同時に、神を信じながら神を捨て、神に反抗していること、そして真の神の存在を否定していることを示しています。こうした形の信仰にしがみつくとしたら、その人にはどのような結果が待ち受けていますか。このような形の信仰によって、神の要求を少しでも満たすことができますか。(できません。)それとは逆に、自分の観念や想像のせいで、神の道からさらに遠ざかるだけです。なぜなら、そうした人たちが求める方向性は、神が彼らに求める方向性と正反対のものだからです。あなたがたは「南轅北轍」の故事を聞いたことがありますか。これはまさに、志と行動が相反する「南轅北轍」であると言えます。こうした滑稽な形で神を信じるなら、必死に試みれば試みるほど、神から遠ざかってゆくことになります。そこで、あなたがたに次のように忠告します。何よりも先に、自分が本当に正しい方向へと進んでいるかどうかを識別しなければなりません。集中して努力し、必ずこのように自問しなさい。「自分が信じている神は、万物の支配者だろうか。自分が信じている神は、精神的な支えを与えるだけの存在に過ぎないだろうか。それは単に自分の偶像ではないのか。自分が信じている神は、わたしに何を求められているのか。わたしが行うすべてのことを、神は認めていらっしゃるだろうか。自分の行動と追求はどれも、神を知るよう求めることに則しているだろうか。それらは、神がわたしに求められることに則しているだろうか。わたしが歩んでいる道を、神は認め、称賛してくださるだろうか。神はわたしの信仰に満足していらっしゃるだろうか」。あなたは何度も繰り返し、これらを自問しなければなりません。神に関する認識を求めたいのであれば、神に満足してもらう前にまず、はっきりとした意識と目標をもたなければなりません。

『神を知ることについて』「唯一無二の神自身 X.」(『言葉』第2巻)

日々の神の御言葉 抜粋 197

神が人類にもつよう求める神への態度

実際のところ、神は人間にさほど多くを求めておらず、少なくとも人間が想像するほど多くを求めてはいません。神が何の言葉も発することなく、自身の性質や業を表わしていなければ、あなたがたが神を知ることは極めて難しくなるでしょう。なぜなら、人は神の意図と旨を推測しなければならず、それは非常に難しいことだからです。しかし、神は自身の働きの最終段階において、数多くの言葉を語り、多くの働きを行い、人間に数多くのことを求めてきました。自身の言葉と数多くの働きにおいて、神は自身が何を好むか、何を嫌悪するか、そして人間はどうあるべきかを人々に対して知らせてきました。これらの事柄を理解した人は、神の要求に関する正確な定義を心の中でもてるはずです。なぜなら、漠然とした状態の中で神を信じることがなく、漠然とした神を信じることも、漠然とした状態の中で、あるいは虚無の中で神へのこともなくなるからです。むしろ、神の発する言葉を聞き、神の要求の基準を理解し、それを達成することができるのであって、神は人間の言葉を用いて、人間が知って理解すべきことを人に伝えます。現在、神とは何か、神は自分たちに何を求めているのか、人はなぜ神を信じるべきなのか、あるいは神をどのように信じ、神にどう接するべきかを人が依然として認識していなければ、そこには問題があります。……人類、そして神に付き従う人に対して神が要求することを以下に述べます。神は自身に付き従う人に対し、以下の五つを要求しています。つまり真の信仰、忠実な追随、絶対的服従、真の認識、そして心からの畏敬です。

この五つの事柄の中で、神は人々に対し、これ以上神を疑わないこと、そして自分の想像や、漠然とした観点によって神に付き従わないことを求めています。人々は想像や観念をもとに神に付き従ってはいけないのです。神は自身に付き従う一人ひとりに対し、忠実に付き従い、気持ち半分、あるいは無責任に付き従わないことを求めています。神があなたに何かを求めたり、あなたを試したり、裁いたり、取り扱って刈り込んだり、あるいは懲らしめて打ちすえたりしても、あなたは神に完全に服従するべきです。理由を尋ねたり、条件を付けたりしてはならず、ましてや理屈をこねたりしてはいけません。あなたの服従は完全なものでなければなりません。人間に最も足りないのは神に関する認識です。人間は神と何ら関係のない諺、発言、そして言葉をしばしば神に押しつけますが、そうした言葉が神に関する認識の最も正確な定義だと信じているのです。人間の想像に由来するこれらの諺、および人間自身の理論や知識は、神の本質とまったく無関係ですが、人はそのことをほとんど知りません。したがって、神が人々にもつよう望んでいる認識について言えば、神はあなたが神を認識し、神の言葉を認識することを求めているだけでなく、神に関するあなたの認識が正確であることを求めているのです。たとえひと言しか述べられなかったり、ほんの少ししか知らなかったりしても、そのわずかな認識は正確であり、真実であり、神自身の本質と一致しているということです。神は見当違いだったり無分別だったりする讃美や賞賛を嫌悪するからです。そのうえ神は、人間が神を空気のように扱うことを忌み嫌います。人が神に関する事柄を話すとき、事実と無関係な発言をしたり、何のためらいもなく適当に話したり、思いのままに語ったりするのを、神は忌み嫌います。また、自分は神を知っていると思い込み、神に関する認識を吹聴し、何ら気兼ねなくみだりに神に関する事柄を論じる人を、神は忌み嫌います。前述した五つの要求のうち最後のものは、心からの畏敬です。これは、神に付き従う者全員に対する神の最終的な要求です。神に関する正確かつ真の認識があれば、その人は真に神を畏れ、悪を避けることができます。この畏敬はその人の心の底から生まれるものであり、自ら進んで与えられたものであって、神による圧力の結果ではありません。神はあなたに対し、好感のもてる態度や行動、あるいは外面的な振る舞いといった贈り物を求めるのではなく、心の底から神を崇め、畏れることを求めます。このような畏敬は、あなたのいのちの性質が変化し、神に関する認識と神の業に関する理解を得て、神の本質を理解するようになり、自分が神の被造物の一つであるという事実を認めることで実現されます。ゆえに、わたしがここで「心からの」という言葉を用いて畏敬を定義づけるのは、神に対する畏敬は心の底から生じなければならないものであることを、人間が理解できるようにするというのが目的なのです。

ここで、この五つの要求について検討します。あなたがたの中に、最初の三つを達成できる人はいますか。最初の三つとは、真の信仰、忠実な追随、そして絶対的服従です。あなたがたの中にこれらのことができる人はいますか。五つすべてとなると、あなたがたの誰もそれができないのは確かですが、その数を三つに減らしました。自分がその三つを達成したかどうか考えてください。「真の信仰」は簡単に成し遂げられますか。(簡単ではありません。)それは簡単ではありません。と言うのも、人間はよく神に対して疑念を抱くからです。では、「忠実な追随」はどうですか。この「忠実」とは何を指しますか。(半信半疑ではなく一心に、ということです。)半信半疑ではなく一心に、ということ。まさにその通りです。それでは、あなたがたはその要求を達成することができますか。あなたがたはもっと努力する必要があります。違いますか。目下のところ、あなたがたはこの要求を達成していません。「絶対的服従」についてはどうですか。あなたがたはそれを成し遂げましたか。(成し遂げていません。)あなたがたはこの要求も成し遂げていません。あなたがたはよく不従順になって反抗することがあり、耳を貸さず、従おうとせず、聞こうとしないことも度々あります。これらは、いのちへの入りを成し遂げた人が達成する最も基本的な三つの要求ですが、あなたがたはこれらの要求をいまだ成し遂げていません。それでは、現時点において、あなたがたには高い潜在能力がありますか。本日わたしの言葉を聞いて不安に感じていますか。(感じています。)あなたがたが不安を感じるのは正しいことです。不安を避けようとしてはいけません。わたしがあなたがたに代わって不安を感じます。残る二つの要求については立ち入りません。それらを達成できる人がいないのは確かだからです。あなたがたは不安です。では、あなたがたは自分の目標をすでに決めていますか。あなたがたはどのような目標をもって、どちらに向かって追求し、努力すべきですか。あなたがたには目標がありますか。わかりやすく説明しましょう。この五つの要求をすべて達成すれば、あなたがたは神を満足させたことになります。その一つひとつが、いのちへの入りを成就させたことの指標であり、また最終的な目標なのです。これらの要求から一つだけ選んで詳細を説明し、あなたがたに達成するよう求めたとしても、それは簡単なことではないでしょう。ある程度の困難に耐え、ある程度努力する必要があるのです。あなたがたはどのような心構えをもつべきですか。それは、手術を待つがん患者と同じ心構えです。わたしがこう述べるのはなぜですか。あなたが神を信じることを望み、神、そして神の満足を得ることを望むのであれば、ある程度の苦痛に耐え、ある程度の努力をしない限り、それらを達成することはできません。あなたがたは多くの説教を聞いてきましたが、単にそれを聞いただけでは、その説教を自分のものにしたことにはなりません。あなたはその説教を吸収し、自分自身のものに変化させなければなりません。それを自分のいのちに同化させ、自分自身の生とし、それらの言葉と説教を人生の指針にするとともに、自分の人生に存在価値と意義をもたらすものにしなければならないのです。そのときこれらの言葉は、あなたが聞くだけの価値があるものになります。わたしの語る言葉があなたの人生を何ら向上させず、あなたの存在に何の価値も加えないなら、あなたがわたしの話を聞く意味はありません。これについては理解しましたね。それを理解したなら、次に何が起きるかは自分次第です。あなたがたは努力しなければなりません。あらゆることに真剣でなければなりません。混乱してはいけません。時が経つのは早いのです。あなたがたの大半は、十年以上にわたって神を信じてきました。その十年を振り返って、あなたがたはどれほど多くのものを得ましたか。そして、あなたがたの人生はあと何十年残されていますか。それほど多くの時間は残されていません。神の働きが自分を待っているかどうか、神が自分に機会を残したかどうか、神が同じ働きを再びするかどうかは忘れなさい。そのようなことを話してはいけません。あなたは人生の時計の針を十年戻せますか。一日経過して一歩進むごとに、あなたに残された時間は一日ずつ少なくなります。歳月人を待たず、です。神への信仰から益を得られるのは、食糧や衣服などよりも、自分の人生において何より大切なものとして、神の信仰に取り組んだ場合だけです。時間がある時だけ信仰し、自分の意識を残らず信仰に捧げることができず、いつも混乱に捕らわれていたら、あなたは何も得られません。

『神を知ることについて』「唯一無二の神自身 X.」(『言葉』第2巻)

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