676 精錬から信仰が生まれる
1 つまり、あなたが神を見られるのは自分の信仰の中からだけであり、あなたに信仰があるとき、神はあなたを完全にするのである。信仰がなければ、神はそれを行なうことができない。自分の実際の経験の中で神の業を見るという信仰があれば、神はあなたの前に現われ、あなたを中から啓いて導く。この信仰がなければ、神がそれを行なうのは不可能である。あなたが神への望みを失ったとしたら、どうして神の働きを経験できるだろうか。したがって、あなたに信仰があり、神に対して疑いを抱かず、神が何をしようと神に対する真の信仰をもっているときにだけ、神はあなたの経験を通じてあなたを啓いて照らし、そのとき初めてあなたは神の業を見ることができる。これらはすべて信仰を通じて成し遂げられる。信仰は精錬を通じてのみ生じるのであって、精錬なくして信仰が育まれることはあり得ない。
2 「信仰」というこの言葉は何を指すのか。信仰とは、見ることも触れることもできないものがあるとき、神の働きが人間の観念にそぐわないとき、また、それが人間の手に届かないときに、人間がもつべき真の信念であり、誠実な心である。これこそが、わたしの言う信仰である。苦難や精錬のとき、人は信仰を必要とする。そして信仰の後には精錬が続く。精錬と信仰は切り離せないのである。神がどのように働きを行なおうと、また自分の環境がどのようなものであろうと、あなたはいのちと真理を追い求め、神の働きに関する認識を求め、神の業を理解し、真理にしたがって行動することができる。そうすることが真の信仰をもつということであり、あなたが神への信仰を失っていないことを示している。
『神の出現と働き』「完全にされる者は精錬を経なければならない」(『言葉』第1巻)より編集