第4節 万物のいのちの源たる神について

583. いのちの道は誰でも持てるものではなく、また誰にとっても簡単に得られるものではない。いのちは神からしか生じ得ないからである。つまり、神自身のみがいのちの本質を有しており、神自身のみがいのちの道をもっている。ゆえに、神のみがいのちの源であり、永遠に流れつづけるいのちの生ける泉なのである。世界を創造してからずっと、神はいのちの活力に関する多くの働きを行ない、人にいのちをもたらす多くの働きを行ない、人がいのちを得られるよう多大な代価を払ってきた。神自身が永遠のいのちであり、そして神自身が、人が復活する道だからである。神が人の心にいないことは決してなく、常に人の中に生きている。神は人の生活の原動力であり、人の存在の根幹であり、誕生後の人の存在にとっての豊かな鉱床である。神は人を生まれ変わらせ、人が自分のすべての役割をしっかり生きられるようにする。神の力と、消えることのない神のいのちの力のおかげで、人は何世代も生きてきた。その間ずっと、神のいのちの力は人の存在の支えであり、神は普通の人間が誰も払ったことのない代価を払ってきた。神のいのちの力は、いかなる力にも勝る。そのうえ、いかなる力をも超越する。神のいのちは永遠であり、神の力は非凡であり、神のいのちの力はいかなる被造物や敵の力によっても圧倒されない。時や場所に関係なく、神のいのちの力は存在し、明るい輝きを放つ。天地は激変するかもしれないが、神のいのちは永遠に不変である。万物は過ぎ去るかもしれないが、神のいのちは依然として残る。神は万物の存在の源であり、それらの存在の根幹だからである。人のいのちは神に由来し、天の存在は神に拠り、地の存在は神のいのちの力から生じる。活力を有するいかなる物体も神の主権を越えることはできず、生気を有する何物も神の権威の及ぶ範囲から逃れることはできない。このようにして、誰もが神の支配下で服従し、神の命令の下で生きなければならず、誰も神の手から逃れられない。

『神の出現と働き』「終わりの日のキリストだけが人に永遠のいのちの道を与えられる」(『言葉』第1巻)

584. 神が万物を造って以来、万物は整然と、かつ神が定めた法則に基づいて機能し、進化し続けてきました。神による見守りと支配のもと、人は生存し、同時に万物は整然と発展してきました。その法則を変えたり破壊したりすることができるものは何一つありません。あらゆる生き物が増殖できるのは、神による支配があるからであり、あらゆる生き物が生存できるのは、神の支配と管理があるからです。つまり、神の支配下においては、あらゆる生き物が規則正しく現れ、繁栄し、消滅し、転生する、ということです。春になると降り注ぐ雨が新鮮な季節の感覚をもたらし、地を潤します。地では雪解けが始まり、草が土を押し上げて芽吹き始め、木々も次第に緑色へと変わります。これらすべての生き物が、地に新鮮な活力をもたらすのです。これが、あらゆる生き物が現われ繁栄しているときに見られる光景です。ありとあらゆる動物が巣穴から出て春の温もりを感じ、新しい年を始めます。夏になると、すべての生き物が暑さのなかで日差しを浴び、夏の暖かさを楽しみます。草木や様々な植物が急速に生長し、やがて花を咲かせて実を結びます。夏の間は、人間を含めたすべての生き物が活発になるのです。秋には雨が涼しさをもたらし、あらゆる生き物が刈り入れの時期の到来を感じます。すべての生き物が実を結び、人間は冬に備えて食料を得るべく、これら様々な作物の刈り入れを始めます。冬になると、すべての生き物が静けさの中で落ち着き、寒い冬の訪れの中、人間もまた休息して冬を過ごします。季節から季節へ、春から夏、夏から秋、秋から冬への移り変わりは、すべて神が定めた法則によって生じます。神はこの法則を用いてあらゆる物事と人間を導き、人間のために豊かで色彩に富んだ生活形態を作り出し、様々な気温と季節のある生存環境を用意します。ゆえに、こうした規律ある生存環境の中で、人間は規律ある形で生存し、繁殖することが可能なのです。人間はこの法則を変えることができず、どんな人や生き物もこれらの法則を打ち壊すことはできません。無数の変化が生じ、海は野に、野は海になったものの、これらの法則は存続し続けます。それが存在するのは神が存在するからであり、神の支配と管理のゆえなのです。この種の秩序ある、大規模な環境の中、人間の生活はそうした法則と規則の中で進歩します。これらの法則は何世代もの人々を養い、何世代もの人々がこれらの法則のもとで生存してきました。人々はこの秩序ある生存環境に加え、神が造った数多くの物事のすべてを何世代にもわたって享受してきました。たとえ人々が、この種の法則は生来のものだと思い、当然のものとして軽視したとしても、また神がこれらの法則を指揮し、支配していることを感じられなかったとしても、どんな場合であれ、神は絶えずこの不変の働きに従事しています。神がこの不変の働きを行う目的は人類の生存であり、人類が生きられるようにするためです。

『神を知ることについて』「唯一無二の神自身 IX.」(『言葉』第2巻)

585. 神は万物の活動を律する法則を指揮します。そして万物の生存を律する規則を指揮し、万物を支配し、それらが互いに強め合い、依存し合うように定めます。それにより、神はそれらが滅びたり消滅したりしないようにするのです。そうして初めて人類は生きることができ、このような環境の中、神の導きによって暮らすことができます。神はそれら活動法則の主であり、人類はそれに干渉することも、それを変えることもできません。神自身だけがこれらの法則を知り、それを管理するのです。木々がいつ芽吹くか、雨がいつ降るか、大地が植物にどの程度の水と栄養を与えるか、葉がどの季節に落ちるか、木々がどの季節に実を結ぶか、日光が木々にどの程度の栄養を与えるか、日光から栄養を得た木々が何を排出するかといった事柄はすべて、誰にも破られない法則として、神が万物を造ったときに予定したことなのです。生物であろうと、人間の目には生物であると見えないものであろうと、神が造った物事は神の掌中にあり、神はその中でそれらを操り支配しています。これらの法則を変えたり破ったりできる人はいません。つまり、神は万物を造ったとき、木は大地がなければ根を下ろすことも、芽吹くことも、成長することもできず、木々がなければ大地は渇き、また木々は鳥の住みかとなり、風から身を守る場所になるよう定めたのです。日光なくして木は生きられますか。(生きられません。)大地だけがあっても木は生きられないでしょう。これらはどれも、人間と人間の生存のためのものです。人間は木から新鮮な空気を受け取り、木が守っている大地の上で暮らしています。人間は日光や他の様々な生物がなければ生きられません。これらの関係は複雑ですが、万物が互いに強め合い、依存し合って共存できるよう、神が万物を律する法則を定めたことを、あなたは忘れてはいけません。言い換えれば、神が造った一つひとつのものにはそれぞれ価値と意味があるのです。意味のないものを造ったとしたら、神はそれを消滅させるでしょう。これは、神が万物に施す際に使う方法のひとつです。

『神を知ることについて』「唯一無二の神自身 VII.」(『言葉』第2巻)

586. 神は万物を造ったとき、ありとあらゆる手段と方法を用いて万物の釣り合いを取り、山や湖沼、植物や様々な動物、鳥、昆虫の生存状態の釣り合いを取りました。神の目的は、自ら定めた法則のもと、様々な生物が生活し、繁殖できるようにすることでした。あらゆる被造物はこれらの法則から外れることができず、またこれらの法則は破ることができないものです。この種の基本的な環境の中でのみ、人間は何世代にもわたって安全に生存し、繁殖することができるのです。ある生き物が、神が定めた量や範囲を越えた場合、あるいは神が定める増加率、生殖頻度、数を超過した場合、人類の生存環境は様々な程度の被害を受けるでしょう。それと同時に、人類の生存が脅かされるでしょう。ある種の生物の個体数が多すぎる場合、その生物は人間の食料を奪い、人間の水源を壊し、その住みかを破壊するでしょう。そうすれば、人類の繁殖と生存状態は即座に影響を受けるはずです。……適切な数を超える動物がわずか一種類、あるいは数種類しか存在しなくても、人間の生存空間の空気、気温、湿度、そして空気の構成成分ですら様々な程度で被害を受け、破壊されるでしょう。こうした状況のもと、人間の生存と運命もまた、それらの生態学的要素による脅威に晒されるはずです。したがって、これらの釣り合いが失われた場合、人間が呼吸する空気は損害を受け、飲み水は汚染され、必要とする気温も変化し、様々な程度の影響を受けるでしょう。こうした事態になった場合、もともと人類のものである生存環境に甚大な影響と問題が発生します。人間の基本的な生存環境が破壊されるというこの種のシナリオにおいて、人類の運命と見通しはどのようなものになるでしょうか。これは極めて深刻な問題です。被造物のひとつひとつが人間のために存在しているのはなぜか、各種の神の創造物の役割は何か、ひとつひとつのものが人間にどのような影響を及すか、それが人類にどの程度の益をもたらすかを神は知っており、そして神の心の中では、そのすべてに計画があり、また神は自ら造った万物のあらゆる側面を管理しているので、神が行う業はどれも人類にとって極めて重要であり、必要なものなのです。なのでこれからは、神の創造物の生態的な現象や、神の創造物の間で働く自然の法則を見るたび、神が造った物ひとつひとつの必要性に疑念を抱かなくなるはずです。神による万物の采配や、神が人類に施す様々な方法について、無知な言葉を使って勝手に判断することもなくなります。また、すべての被造物に対する神の法則についても、勝手な結論に至ることはありません。

『神を知ることについて』「唯一無二の神自身 IX.」(『言葉』第2巻)

587. すべての被造物がそれぞれの法則を失ったとしたら、それらは存在しなくなるでしょう。万物の法則が失われたとしたら、万物のうち、あらゆる生物が存続できないでしょう。人類もまた、生存のために頼っている環境を失うでしょう。人類がそのすべてを失うとしたら、これまでのような世代を超えた繁栄と繁殖は継続不可能になるはずです。人間が現在まで生存してきたのは、神が人間にすべての被造物を与え、様々な方法で人類を養ってきたからです。人類が現在まで、今日まで生存してきたのは、ひとえに神が様々な方法で人類を養っているからです。自然の法則が整然としている、固定された好ましい生存環境により、地球上のありとあらゆる人々、ありとあらゆる人種が、予め定めた領域の中で生存できるのです。これらの領域や境界を越えられる人はいません。なぜなら、それらを定めたのは神だからです。

『神を知ることについて』「唯一無二の神自身 IX.」(『言葉』第2巻)

588. 霊界とは、物質世界と異なる重要な場所です。それが重要だと言う理由は何ですか。それをこれから詳しく話し合います。霊界の存在は、人類の物質世界と切り離すことができないつながりをもっています。それは神による万物の統治のうち、人間の生死の周期において重要な役割を担っていますが、そのことが、霊界の存在が重要である理由のひとつなのです。霊界は五感で認知することができない領域なので、それが存在するかどうかを正確に判断できる人はいません。その様々な運動状態は人間の生存と密接に関連し、そのため人類の生活の秩序もまた霊界から大きな影響を受けます。これは神による統治に関連していますか。そう、関連しています。こう述べると、わたしがこの事項について話をする理由がわかるでしょう。霊界は神による統治と管理に関連している、というのがその理由です。人間が見ることのできないこのような世界において、天の命令や法令、行政組織はどれも、物質世界におけるどの国家の法令や組織よりもはるかに優れており、この世に生きるもののうち、それらに背いたり、反したりしようとする人は一切いないでしょう。これは神による統治と管理に関連していますか。霊界には、明確な行政命令、明確な天の命令、そして明確な法令があります。様々な段階、様々な領域において、担当官は厳密にその任務と規則を遵守します。なぜなら、天の命令に背いたときの報いが何かを知り、神がどのように悪を罰して善に報いるか、神がどのように万物を管理、支配するかを明確に認識しているからです。さらに、神がどのようにして天の命令と法令を実施するかをはっきり理解しています。これらのことは、人類が住む物質世界と異なりますか。そう、大いに異なります。霊界は物質世界とまったく異なる世界なのです。天の命令と法令があるため、それは神による統治と管理、そして神の性質、および神が所有するものと神そのものに関連しています。

『神を知ることについて』「唯一無二の神自身 X.」(『言葉』第2巻)

589. 神は霊界における様々な天の法令、命令、組織を定めました。それらはいったん宣言されると、霊界で様々な役務を担当する者により、神が定めた通り極めて厳密に施行され、あえて違反する人はいません。したがって、人間界における人類の生死の周期には、動物として生まれ変わるか、人間として生まれ変わるかについて、その両方に法則が存在するのです。これらの法則は神に由来するため、それに背こうとする人はおらず、背くことができる人もいません。人に見える物質世界が規則正しく整然としたものであるのは、ひとえにこうした神の統治と法則があるからなのです。そして、人間が自分にはまったく見えない別の世界と平和に共存し、そこで調和して生活できるのは、神によるこの統治のためであり、それはどれも神の統治と切り離すことができません。人の肉体的ないのちが死を迎えても、魂にはいのちがあるとすれば、神の管理下になければどうなるでしょうか。その魂はありとあらゆる場所をさまよい、どこにでも侵入し、人間界の生き物を害することすらあるでしょう。こうした危害は人類だけでなく植物や動物にも加えられますが、最初に害を受けるのは人間でしょう。このようになれば、つまりこうした魂が管理されておらず、人間に本当の危害を加え、実際に邪悪な物事を行ったとしたら、この霊は霊界で適切に取り扱われることにもなるでしょう。事態が深刻な場合、その魂はたちまち消滅し、滅ぼされるはずです。可能であれば、どこかに置かれて生まれ変わるでしょう。つまり、霊界における様々な魂の管理は整然としており、様々な段階と規則に従って実行されます。人間の物質世界が混乱に陥らず、物質世界の人間が正常な精神と理性をもち、秩序ある肉体的生活を送っているのは、ひとえにこうした管理があるからです。人類がそうした正常な生活を送って初めて、肉体において生きる人は何世代にもわたって繁栄し、増え続けることができるのです。

『神を知ることについて』「唯一無二の神自身 X.」(『言葉』第2巻)

590. 生物の死、すなわち物理的な生命の終焉は、その生物が物質世界から霊界へと移動したことを示します。一方、新たな物理的生命の誕生は、生物が霊界から物質世界に来て、その役割を引き受けて果たし始めることを示しています。それが生物の出発であろうと到着であろうと、いずれも霊界における働きと切り離すことはできません。ある人が物質世界に到来した段階で、その人が生まれる家庭、到着する時代と時刻、そしてその人が担う役割について、その人に適した采配と定義が神によってすでになされています。そうしたわけで、その人が送る一生、行う物事、そして進む道は、霊界でなされる采配に従い、一切逸脱せずに進行します。さらに、物理的な生命が終焉を迎える時、そして生命が終わるかたちと場所は、霊界においては明瞭で識別可能です。神は物質世界と同時に霊界も支配し、魂の正常な生死の周期を遅らせることは一切なく、その周期の采配で間違いを犯すことも一切ありません。霊界の各部局に所属する担当者は、神の指示と支配に従ってそれぞれの任務を遂行し、なすべきことを行います。ゆえに人間界では、人が目にするあらゆる物質的現象に秩序があり、混沌は一切存在しないのです。こうしたことは、すべて神による整然とした万物の支配と、神の権威が万物を支配しているという事実の賜物です。神の支配には、人間が生活する物質世界のほか、人類の背後にある目に見えない霊界が含まれます。そうしたわけで、人間がよい生活を願い、好ましい環境の中で暮らすことを望むのであれば、目に見える物質世界全体の施しを受けることに加え、霊界の施しも受けなければなりません。そして、それは誰も見ることができず、人間のためにあらゆる生き物を統治し、そして整然としたものです。

『神を知ることについて』「唯一無二の神自身 X.」(『言葉』第2巻)

591. 産声を上げてこの世に生まれてきた瞬間から、あなたは自分の責務を果たし始める。神の計画と定めの中で自分の役割を果たして、人生の旅を始める。背景が何であれ、また前途がどうであれ、天の指揮と采配から逃れられる者はいない。また自分の運命を支配できる者もいない。なぜなら、万物を支配するその方しかそのような働きはできないからである。人類が誕生して以来、神は宇宙を経営し、万物の変化の法則とそれらの運行の軌跡を指揮しながら、ずっとこのように働いてきた。万物と同様に、人間は秘かに、知らないうちに、神から来る蜜と雨露によって養われている。他のあらゆるものと同様に、人は知らないうちに神の手による指揮のもとに生存している。人の心と霊は神の手中に握られており、人の生活の一部始終が神の目に見られている。あなたがこのことを信じているかどうかにかかわらず、生きているものであれ死んでいるものであれ、万物は神の思いによって移ろい、変転し、新しくされ、消滅する。これこそが神が全てのものを統治する方法である。

『神の出現と働き』「神は人間のいのちの源である」(『言葉』第1巻)

592. 神はこの世界を創造し、神が命を授けた生きものである人間を世にもたらした。次に、人間は両親と親族を持つようになり、もはや孤独ではなくなった。人間は、最初にこの物質的世界に目を向けて以来、神の予定の中で存在するように定められてきた。神から出る命の息は、成人へと成長する間ずっとあらゆる生きものを維持する。この過程で、人は神の配慮のもとに成長していると感じる者はいない。むしろ、人は両親の愛情のこもった世話のもとで成長し、人の成長を促すのは自身の生命本能だと思う。それは、人間は誰が自分に命を授けてくれたのか、どこからそれが来たのかを知らず、ましてや、生命本能がどのようにして奇跡を生み出すのかなど知るよしもないからである。人は食物が生命維持の基礎であり、根気が人間生存の源であり、頭の中にある信念が人間の生存を左右する資本であるということだけを知っている。神の恵みと施しにはまったく気づかないので、神によって授けられた命を人は浪費する……。神が日夜世話しているこの人類のうち、一人として自主的に神を礼拝しようとはしない。神は計画通りにひたすら人に働きかけ続けるだけで、人には何も期待しない。人がある日夢から覚めて、命の価値と意義、人に与えた全てのもののために神が支払った代価、そして人が神のもとへ戻ってくるのを待つ神の切なる心遣いを突然悟ることを願いつつ、神は働き続けている。……

この世に生まれて来る人間は皆、生と死を通らなければならない。そして、その大多数は死と再生の周期を経てきた。生きている者はやがて死に、死者もやがて戻ってくる。これは全て生きものそれぞれのために神によって用意された命の過程である。けれども、この過程と周期こそが人が目を向けるようにと神が願っている真実である。それは、神が人に授けたいのちは無限であり、肉体、時間、空間により制限されないということである。これこそが神によって人に授けられたいのちの奥義であり、いのちが神から来た証拠である。多くの人はいのちが神から来たことを信じないかもしれないが、神の存在を信じるか否定するかにかかわらず、人間は神から出る全てのものを必然的に享受する。ある日突然、神が心変わりし、世界に存在する全てのものを取り返し、自らが与えたいのちを取り戻すことを望むならば、万物は存在しなくなる。神は自らのいのちを用いて全てのもの、生きているもの生きていないものの両方に施し、神の力と権威により全てを秩序正しく整える。これは誰にも想像することも理解することもできない真実であり、これらの理解し難い真実は、まさに神のいのちの力の表れであり、証しである。今あなたに秘密をひとつ告げよう。神のいのちの偉大さとその力は、いかなる被造物にとっても計り知れないものである。過去と同様、現在もそうであり、来たるべき未来もそうである。わたしが伝える第二の秘密はこうである。形や構造がどのように異なっていようとも、全ての被造物のいのちの源は神である。あなたがどのような生命体であっても、あなたは神によって定められたいのちの軌道に逆らうことはできない。いずれにせよ、わたしが唯一望むのは、人間が次のことを理解することである。神の配慮、加護、施しがなければ、人間はどれほど勤勉に努力しても、どれほど熱心に奮闘しても、人が受けるように定められている全てのものを受けることはできない。神からのいのちの施しがなければ、人間は生きる価値や命の意義を失ってしまう。神のいのちの価値を勝手気ままに浪費する人が、これほど何も気にかけないことをどうして神が許すだろうか。前にも言ったように、神があなたのいのちの源であることを忘れてはならない。

『神の出現と働き』「神は人間のいのちの源である」(『言葉』第1巻)

593. 神は万物を支配し、管理している存在です。神は存在するすべての物事を造り、管理し、支配し、それらに施します。これが神の地位であり、また神の身分です。万物、そして存在するすべての物事について、神の真の身分はあらゆる被造物の創造主であり、支配者なのです。それが神の所有する身分であり、神は万物にあって唯一無二の存在なのです。神の被造物のうちひとつとして、人類の中にあるか、あるいは霊界にあるかを問わず、何らかの方法や言い訳を使って、神の身分と地位を装ったり、神の代理となったりすることができる人はいません。なぜなら、被造物を支配する身分、力、権威、そして能力をもつ存在はただひとつだけであり、それは唯一無二の神自身だからです。神は万物の中で生き、動いています。神は万物のうえ、最も高い場所へと昇ることができます。また神は、血と肉のある人間のひとりに身をやつし、人々と向き合って苦楽を共にすることもできます。それと同時に、神は存在するすべてのものを支配し、その運命と進む方向を決定するのです。さらに、神は人類全体の運命と方向性を導きます。このような神は、あらゆる生物が崇め、付き従い、知るべき存在です。したがって、人類のうちどの集団、どの種類に属しているかを問わず、あらゆる個人、あらゆる生物にとって、神を信じ、神に付き従い、神を畏れること、また自分の運命に対する神の支配と神の采配を受け入れることが、唯一かつ必然の選択肢なのです。神が唯一無二の存在であることの中に、人は神の権威、義なる性質、そして神の本質を理解し、神が万物に施す方法がどれも完全に独自のものであることを理解します。また神が唯一無二の存在であることにより、神自身の真の身分と地位が決定されるのです。そうしたわけで、あらゆる被造物のうち、霊界や人間界に存在する生物が神の代わりになろうとしても、それが成功することはあり得ず、また神になりすまそうとする試みがうまく行くこともあり得ません。これは事実です。

『神を知ることについて』「唯一無二の神自身 X.」(『言葉』第2巻)

594. わたしの最後の仕事は人を懲罰するためだけではなく、人の終着点を決めるためでもある。さらに、わたしのすべての業と行ないをあらゆる人が認識するためである。わたしは一人一人にわたしが行なってきたことは全て正しく、わたしの行なってきたことは全てわたしの性質の表現であることを知って欲しいと思っている。人類を生み出したのは人の行いではなく、とりわけ大自然の行いではなく、創造世界のあらゆる生けるものを育むのはわたしである。わたしの存在なしには、人類は滅びる他なく、酷い災難を経験するだけである。人間はだれであろうとも麗しい太陽や月、緑にあふれる世界を再び見ることはない。人類は極寒の夜や、避けられない死の影の谷に遭遇するだけである。わたしは人類の唯一の救いである。わたしは人類の唯一の望みであり、さらに、わたしは全人類がその存在を託すその者である。わたしがいなくては、人類はすぐに停滞してしまう。わたしがいなくては、たとえだれもわたしに注意していなくても、人類は壊滅的被害を受け、あらゆる亡霊に踏みつけられる。わたしは誰にもできない働きを行ない、人間が何らかの善行によりわたしに報いることを望むだけである。わたしに報いることができた人は僅かだが、それでもわたしは人間界での旅を終え、わたしの展開を続ける働きの次の段階を始める。なぜなら、わたしが長年人間のもとを行き来してきたことは実を結び、わたしは極めて喜ばしく思っているからである。わたしが気にするのは人の数ではなく、むしろ彼らの善行である。いずれにしても、わたしはあなたがたが自分の終着点のために十分な善行を積むよう望む。そうすれば、わたしはどれほど満足することか。さもなければ、あなたがたの誰も自分に降りかかる災いを免れることはできない。災いはわたしを起源とし、もちろんわたしが采配を振る。もしあなたがたがわたしの目に良いと映ることができなければ、災いの苦しみから免れることはない。

『神の出現と働き』「終着点のために十分な善行を積みなさい」(『言葉』第1巻)

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