第2節 神の義なる性質について

554. 時代を終わらせる神の最後の働きにおいて、神の性質は刑罰と裁きであり、神はその中で不義なるすべてのものを暴き、それによってすべての人を公然と裁き、真摯な心で神を愛する人たちを完全にする。このような性質だけが時代を終わらせることができる。終わりの日はすでに来ている。すべての被造物は種類ごとに選り分けられ、その本性を基にして異なる種類に分けられる。その瞬間、神は人の結末と終着点を明らかにする。もし人が刑罰と裁きを受けなければ、その人の不従順と不義を暴く術はない。刑罰と裁きを通じてでなければ、すべての被造物の結末を明らかにすることはできない。罰せられ、裁かれて初めて、人は本当の姿を示す。悪は悪と共に、善は善と共に置かれ、すべての人は種類ごとに選り分けられる。刑罰と裁きを通じ、すべての被造物の結末が明らかにされ、それによって悪人は罰せられ、善人は報いられる。そして、すべての人が神の支配に従属することになる。この働きのすべては義なる刑罰と裁きを通じて達成されなければならない。人の堕落は頂点に達し、人の不従順は極度に深刻になってしまったので、おもに刑罰と裁きから成り、終わりの日に明らかにされる神の義なる性質だけが、人をすっかり変えて完全な者とすることができる。この性質だけが悪を暴き、よってすべての不義なる者を厳しく懲罰することができる。したがって、このような性質には時代の意義が吹き込まれており、神の性質はそれぞれの新しい時代における働きのために顕示され、表出される。そのことは、神が自身の性質を気まぐれに意味もなく明らかにするということではない。終わりの日に人の結末を明らかにする中で、神が依然として人に無限の憐れみと愛を授け、相変わらず人に愛情深く、人を義なる裁きにさらさず、むしろ寛容、忍耐、赦しを示し、人がどんなに深刻な罪を犯してもそれを赦し、義なる裁きが少しもないのであれば、神の経営のすべてはいったいいつ終わりを迎えるだろうか。このような性質がいつ人々を導き、人類の正しい終着点へと連れ出せるだろうか。いつも愛情に満ちている裁判官、優しい表情と柔和な心をもつ裁判官を例に取ってみよう。この裁判官は犯した罪に関係なく人々を愛し、また相手が誰であっても、愛情深く寛容である。そうであれば、いったいいつ正しい判決にたどり着けるのか。終わりの日には、義なる裁きだけが人を種類ごとに選り分け、新しい領域に連れて行くことができる。このように、裁きと刑罰から成る神の義なる性質を通じ、時代全体に終わりがもたらされるのである。

『神の出現と働き』「神の働きのビジョン(3)」(『言葉』第1巻)

555. わたしの名はすべての国で、四方八方に家から家へと広がり、全宇宙世界で大人も子供も口をそろえてわたしの名を叫ぶことになる。これは絶対的事実である。わたしは唯一無二の神自身であり、さらに唯一の神の本体である。またそれ以上に、わたしという肉全体が、神の完全な顕現なのだ。わたしを畏れない者、その目に反抗を表す者、反逆する言葉を話す者は、誰でも必ずやわたしの呪いと怒りによって死ぬだろう(わたしの怒りによって呪いが引き起こされるのだ)。さらに、わたしに忠誠や子としての愛を示さず、わたしをごまかそうとする者は、必ずやわたしの憎しみによって死ぬであろう。わたしの義と威厳と裁きは永遠に続いていく。当初、わたしは愛と憐れみに満ちていたが、それはわたしの完全な神性の性質ではない。義、威厳、そして裁きこそが、完全な神自身であるわたしの性質をなすものなのだ。恵みの時代、わたしは愛と憐れみに満ちていた。わたしは終えなければならない働きのために慈愛と憐れみを持っていたが、その後はそうしたものは必要なかったのだ(そしてそれ以降は一切必要ない)。すべては義と威厳と裁きであり、それがわたしの普通の人間性と完全な神性が一体となった完全な性質なのだ。

『神の出現と働き』「キリストの初めの言葉、第七十九章」(『言葉』第1巻)

556. 神の義なる性質を理解するには、最初に神の感情を理解する必要があります。すなわち、神が何を嫌うか、何を憎むか、何を愛するか、誰に寛容で慈悲深いか、どのような人間にその慈しみを授けるかを理解しなければいけません。これが要点のひとつです。さらに、神がいかに愛情深くても、どれほど多くの慈悲と愛を人に対して抱くとしても、神は自身の地位や身分、および尊厳に背く者を決して容赦しないことも理解しなければいけません。神は人を愛していますが、好きなようにさせることはありません。神は人に愛と慈しみを与え、寛容を示しますが、人を甘やかすことは一切ありません。神には神の原則と限界があります。あなたがどれほど神の愛を感じてきたとしても、その愛がどれほど深かったとしても、他の人間と接するように神と接してはいけません。確かに、神は人をこのうえない親しさをもって扱いますが、人が神を単なる別の人として、あるいは友人や崇拝の対象といった、他の被造物であるかのようにみなした場合、神はそうした人間の前から姿を消し、彼らを見捨てます。これが神の性質であり、人はこの件を軽率に扱ってはいけません。そのため、自身の性質について神がこのように語っている言葉を、わたしたちはしばしば目にします。あなたがどれほど多くの道を歩み、どれほど働き、どれほど堪え忍んできたとしても、いったん神の性質に背けば、神はあなたがたひとりひとりに対し、自分がしたことに応じて報いを与えます。このことは、神がこのうえない親しさをもって人を扱うとしても、人は神を友達や親戚のように扱ってはいけないことを意味します。神を「友達」と呼んではいけません。あなたがいかに多くの愛を神から受けてきたとしても、いかに多くの寛容さを示されてきたとしても、決して神を友達のように扱ってはいけません。これが神の義なる性質です。

『神を知ることについて』「唯一無二の神自身 VII.」(『言葉』第2巻)

557. 侮辱に対する神の不寛容は神のみが持つ本質であり、神の怒りは神特有の性質であり、神の威厳は神のみの本質です。神の怒りの背後にある原則は、神の身分と地位の証明であり、それは神のみが持つものです。この原則もまた唯一無二の神自身を象徴するものであることは、言うまでもありません。神の性質は神自身の固有の本質で、時間の経過とともに変化することも、地理的位置によって変化することもありません。神の固有の性質は、神のみにある本質です。神が誰に働きを行なおうと、神の本質も、神の義なる性質も不変です。誰かが神を怒らせたときに、神が怒りを放つのは、神固有の性質です。このとき、神の怒りの背後にある原則や、神の唯一無二の身分や地位は不変です。神の本質が変化したり、神の性質に異なる要素が生まれたりするために神は怒るのではなく、神が怒るのは、人間の神に対する反抗が神の性質に反するからです。人間の神への目に余る挑発は、神固有の身分と地位に対する深刻な挑戦です。神から見ると、人間が神に挑戦するということは、人間が神と争い、神の怒りを試しているということです。人間が神に反抗し、神と争い、神の怒りを試し続けるのは、罪がはびこるときであり、神の怒りは自然と出現します。したがって、神が怒りを示すのは、あらゆる邪悪な力が滅びること、あらゆる敵対勢力が破壊されるということの象徴です。これが神の義なる性質と、神の怒りの独自性です。神の威厳と聖さが試されたとき、正義の力が阻害され、人間に見えないとき、神は怒りを放ちます。神の本質ゆえに、神と争い、戦い、神に敵対する地上の様々な勢力はすべて邪悪であり、堕落しており不義です。それらはすべてサタンに由来し、サタンに属します。神は正義であり、光であり、完璧に聖であるので、邪悪で堕落しサタンに属するものはすべて神の怒りが発せられると消滅します。

『神を知ることについて』「唯一無二の神自身 II.」(『言葉』第2巻)

558. 神が怒りを示すとき、邪悪な勢力が阻止され、邪悪な物事が破壊される一方、義であり肯定的な物事は、神の慈しみと保護を与えられ、存続することが許されます。神が怒りを伝えるのは、不義で否定的で邪悪な物事が、正義で肯定的な物事の通常の活動と発達を妨害し、攪乱し、破壊するからです。神の怒りの目的は神自身の地位や身分を守るためではなく、義であり、肯定的であり、美しく善なるもの、そして人類の正常な生存の掟と秩序を守るためです。これが神の怒りの根本的な原因です。神の怒りは極めて適切で、自然であり、神の性質の真の明示です。神の怒りには、隠れた意図がなく、虚偽や策略もなく、欲望も狡猾さも悪意も暴力も邪悪も、その他の堕落した人類に共通する特徴も一切存在しません。怒りを伝える前に、神はすでにあらゆる物事の本質を極めて明瞭かつ完全に把握しており、また正確かつ明瞭な定義と結論を導き出しています。それゆえ、神のあらゆる業の目的は、神の姿勢と同様、極めて明確です。神の心に混乱はなく、神は盲目でも、衝動的でも、軽率でもなく、そしてなによりも無原則ではありません。これが神の怒りの実践的側面であり、この側面のため、人類は普通の存在を達成したのです。神の怒りがなければ、人類は異常な生活条件へと陥り、義であり、美しく善良なものはすべて破壊され、消滅するでしょう。神の怒りなくしては、被造物のための生存の掟と法則は破壊され、完全に転覆されることさえあるでしょう。人間が造られて以来、神は義の性質により人類の正常な生活を守り維持し続けています。神の義なる性質に怒りと威厳が含まれているため、邪悪な人や物事、人類の普通の生活を阻害し損なうあらゆるものが、神の怒りによる罰を受け、制限され、破壊されます。過去数千年間にわたり、神は義なる性質により、神の人類経営において神に反抗しサタンの僕や手先として行動するあらゆる不浄な悪霊を倒し、破壊し続けてきました。このように、人類を救う神の働きは、常に神の計画に従って進行してきました。つまり、神の怒りの存在のおかげで、人間による最も義なる営みは破壊されたことがないのです。

『神を知ることについて』「唯一無二の神自身 II.」(『言葉』第2巻)

559. 愚かで無知な全人類に対する神の処分は、おもに憐れみと寛容に基づいています。その一方、神の怒りは、大部分の出来事において、ほぼ常に人間には隠され、知られることはありません。その結果、人間には神が怒りを表しているのを見極めたり、神の怒りそのものを理解したりすることは困難です。したがって、人間は神の怒りを軽視します。人間への忍耐と赦しからなる神の最終的な働きと段階に人間が直面したとき、すなわち、神の最後の憐れみと警告が人類に到達したとき、もし人間が以前と同じ方法で神に反抗したままで、悔い改めて自分自身のあり方を正し、神の憐れみを受け容れる努力を一切行なわなければ、神はもはや寛容と忍耐を人類に与えることはありません。逆に、このとき神は赦しを撤回します。その後、神は怒りしか放ちません。神が様々な方法で人間を罰し滅ぼすことができるように、神は様々な方法で怒りを表現することができます。

ソドムの町を滅ぼすために神が火を用いることは、人類や他の物を徹底的に滅ぼす神の最迅速の方法です。ソドムの住民を焼き尽くしたことで、彼らの身体だけでなく、その霊と魂と身体全体を滅ぼし、それにより物質的世界と人間には見えない世界の両方において、町にいた人々の存在の消滅が確実なものとされました。それは、神が怒りを明示し表現する方法の一つです。このような明示や表現は、神の怒りの本質の一面であり、当然ながら神の義なる性質の本質の明示でもあります。神が怒りを伝えるとき、神は憐れみと慈愛を明らかにするのを停止し、寛容と忍耐も一切見せません。神に引き続き忍耐強くあり、今一度憐れみと寛容を与えるように説得できる人間、物、理由は一切存在しません。それどころか神は一瞬の迷いもなく、神の怒りと威厳を伝え、望むことを行ないます。神は自らの望む通りに、これを迅速かつ円滑に行ないます。人間が犯してはならない神の怒りと威厳は、こうして伝えられ、それは神の義なる性質の一側面を表すものでもあります。神が人間への懸念と愛を示しているのを目撃すると、人間は神の怒りを感じることも、神の威厳を見ることも、反抗に対する神の不寛容を感じることもできません。そのため、神の義なる性質が単に憐れみと寛容さと愛のみであると人間は信じるようになりました。しかし、神が町を滅ぼし、人類を憎悪するのを目の当たりにし、人間を滅ぼす際の神の怒り、そして神の威厳を見ることで、人間は神の義なる性質の別の側面を見ることができるようになります。これが侮辱への神の不寛容です。反抗を一切甘受することのない神の性質は、あらゆる被造物の想像を超え、非被造物にもその性質を阻んだり干渉したりできるものは存在せず、その性質を模倣したり、偽ったりすることができないのは尚更です。したがって、神の性質のこの側面は、人類が一番よく知るべきものです。この種の性質は神自身のみが持ち、神自身のみがこのような性質を備えています。神がこのような義なる性質を持っている理由は、暗闇、反逆、人間を堕落させ、食いものにするサタンの悪意に満ちた行動を神が嫌悪しているからです。神に反逆するあらゆる罪の行ないを神が嫌悪しているからであり、神の聖なる清い本質のためです。それゆえ、被造物や非被造物が神に堂々と反対したり対抗したりすることを神は甘受しないのです。たとえ、神が一度憐れみを示した人や神が選んだ人でも、神の性質を挑発し、神の忍耐と寛容の原則を犯すだけで、いかなる反抗をも甘受しない義なる性質を神は一切の容赦なく、躊躇なく示すのです。

『神を知ることについて』「唯一無二の神自身 II.」(『言葉』第2巻)

560. 神の怒りの噴出は神の義なる性質を示す側面の一つですが、神の怒りは、その対象について無差別であるとか、無原則であることは決してありません。それとは反対に、神は怒りやすくなく、軽率に怒りや威厳を示すことはありません。さらに、神の怒りはきちんと制御され、調整されています。人間が怒りを爆発させたり、発散させたりするのとは比較になりません。聖書には、人間と神との対話が多く記録されています。対話に関わる人間の一部は、発言が浅薄で、無知で、稚拙ですが、神は彼らを打ち倒すことも、非難することもしませんでした。特に、ヨブの試練の間、ヤーウェ神はヨブの三人の友やその他の人がヨブに言ったことを聞いた後、彼らをどのように扱いましたか。神は彼らを非難しましたか。神は彼らに激怒しましたか。神はそのようなことは一切しませんでした。その代わり、神はヨブに彼らのために祈るよう命じ、神自身は彼らの誤りを気に留めることはありませんでした。これらの例はすべて、神が堕落した無知な人類を扱うおもな姿勢を示しています。したがって、神の怒りの発出は神の気分を示すものでも、神の感情のはけ口でもありません。神の怒りは、人間が考えるような感情の爆発ではありません。神は、気分を制しきれないから、怒りが我慢の限界を超えたので放出しなければならないから怒りを発出させるのではありません。逆に、神の怒りは神の義なる性質を示し、純粋に表現するもので、神の聖なる本質の象徴的な顕示です。神は怒りであり、侮辱されることを容赦しません。これは、神の怒りが原因に無関係ということでも、無原則であるということでもありません。原因に無関係に無原則に手当たり次第に怒りを爆発させるのは、堕落した人類が独占権をもっています。人間がひとたび地位を得ると、気分を制御するのが困難になり、事あるごとに不満を爆発させ、感情を露わにします。自分の力を示し、自分の地位や身分が一般人とは違うことを他人に知らしめるために、明確な理由なく人が激怒することさえ多々あります。もちろん、地位のない堕落した人間も、よく取り乱します。そのような人の怒りは、個人的利益が阻まれたせいで発生する場合が多くあります。自分の地位と尊厳を守るために、堕落した人間はよく感情を発散させ、傲慢な本性を露わにします。人間は、罪の存在を正当化し是認するために突然激怒して感情を露わにします。そうした行動で、人は自分の不満を表すのです。このような行動は汚れや謀略に、人間の堕落と邪悪に、そして何よりも人間の向こう見ずな野心と欲望に満ちています。正義が邪悪と衝突しても、人間が正義を守り是認するために怒りを爆発させることはありません。それとは逆に、正義の勢力が脅威にさらされ、迫害され、攻撃されると、人間の態度は無視、回避、畏縮といったものになります。しかし、邪悪の勢力に対峙すると、人間は迎合し、ぺこぺこ頭を下げるといった態度を取るのです。したがって、人間の怒りの爆発は、邪悪な勢力にとって逃げ道であり、肉なる人間の猛烈で抑制できない邪悪な行動の表出なのです。しかし、神が怒りを示すときは、邪悪な勢力はすべて阻止され、人間を傷つける罪もすべて阻止され、神の働きを阻害する敵意のある勢力が明らかにされ、分離され、呪われます。そして、神に反逆するサタンの僕は罰せられて根絶されます。それらがいなくなると、神の働きは何ものにも阻害されることなく進められ、神の経営(救いの)計画は、予定通り一歩ずつ展開し続けます。神の選民はサタンの妨害や策略から解放され、神に付き従う人は、静寂で平和な環境の中で神の導きと施しを楽しむのです。神の怒りは、あらゆる邪悪の勢力の増大と横行を阻止する防衛手段であり、また義なる肯定的な物事すべての存在を守り、広め、抑圧や破壊から永久に保護する防衛手段です。

『神を知ることについて』「唯一無二の神自身 II.」(『言葉』第2巻)

561. 神の行ないの一つひとつに対処するとき、神の義なる性質にはその他の要素がなく、聖であり完璧であることを確信していなければなりません。そのような行ないには、神による攻撃、罰、人類の破壊などが含まれます。神の行ないの一つひとつは例外なく、神が本来持っている性質と神の計画に厳密に従って行なわれ、これには人類の知識や伝統、哲学は含まれません。神の行ないは、それぞれが神の性質と本質を表出するもので、堕落した人類に属する一切のものと無関係です。人類には、完璧で、純粋で、聖なるものは、神の人類への愛、憐れみ、寛容さだけだという観念があり、神の怒りと憤りも同様に純粋であることを知る人はいません。さらに、神が決して侮辱を甘受しないのはなぜか、神の怒りがそこまで甚大なのはなぜか、といった疑問について誰も考えません。それどころか、神の怒りを堕落した人類の態度である不機嫌と同一視し、堕落した人類の怒りと同じであると思い込みます。さらには神の怒りは堕落した人の性質の自然な表出と同じであり、神の怒りが発生するのは、気に入らない状況に直面したときの堕落した人類の怒りと同様であり、神の怒りが発生するのは神の気分の表出であると考えていることさえあります。この交わりの後には、あなたがたの一人ひとりが、神の義なる性質について誤解や想像や仮定をしていないこと、わたしの話を聴いた後、神の義なる性質である怒りを心の中で真に認識していること、神の怒りについてのこれまでの誤った考えを捨てること、神の怒りの本質に関する自分の誤った思い込みや見方を変えることができることを願います。さらに、あなたがたが神の性質の正確な定義を心に持ち、もはや神の義なる性質について疑念を抱かず、神の真の性質に人間的な論法や想像を押し付けないことを願います。神の義なる性質は、神自身の真の本質です。それは人間が書き綴ったり形作ったりしたものではありません。神の義なる性質は、神の義なる性質であり、被造物とは何の関係もつながりもありません。神自身は、神自身です。神が被造物の一部となることは決してなく、神が被造物の一員となったとしても、神が本来持っている性質と本質は不変です。したがって、神を知ることは、物を知ることではないのです。神を知ることは何かを分解することでも、人を理解することでもありません。神を知るために、物や人を知る概念や方法を用いるならば、神に関する認識を得ることは不可能です。神を知ることは、経験や想像に依存することではなく、したがって神に自分の経験や想像を押し付けてはなりません。どれほど豊かな経験や想像があったとしても、それには限界があります。さらに、想像は事実に対応するものではなく、ましてや真理に対応するものではなく、神の真の性質と本質とは相容れないものです。神の本質を理解するために想像に依存したなら、成功することはありません。唯一の方法は、神から来るものすべてを受け容れ、徐々に経験し、理解することです。あなたが協力し、真理への飢えや渇きがあれば、ある日、あなたが真に神を理解し、知ることができるように、神があなたを啓きます。

『神を知ることについて』「唯一無二の神自身 II.」(『言葉』第2巻)

562. 神はその行ないにおいて、優柔不断であることや躊躇することが決してありません。神の行ないの背後にある原則と目的はすべて明白かつ透明、純粋で完璧であり、その中に策略や陰謀は一切潜んでいません。つまり、神の本質には闇や邪悪が一切含まれていないのです。ニネベの人々の悪の行いが目に留まったため、神は彼らに怒りを覚えました。このとき、神の怒りは神の本質に由来していました。しかし、神の怒りが消え、ニネベの人々に再び寛容を見せたときに神が明示したものも、やはりすべて神の本質でした。この変化は、すべて人間の神に対する姿勢の変化に起因しました。この間、侵害を許さない神の性質も、神の寛容な本質も、神の愛と憐れみに満ちた本質も変わりませんでした。人が邪悪な行動を取り、神を侵害すると、神はその人に神の怒りを下します。人が真に悔い改めれば、神の心は変化し、神の怒りは静まります。人が頑なに神に反抗し続けると、神の怒りは静まらず、神の激しい怒りは徐々にその人に迫り、最終的にその人は滅びます。これが神の性質の本質です。神が表しているのが怒りであれ、憐れみと慈愛であれ、人間の行動や振る舞い、そして心底にある神への態度が、神の性質の明示において何が表されるかを左右します。神がある人に怒り続けているならば、その人の心は間違いなく神に反抗しています。その人は真に悔い改めたことも、神の前で頭を下げたこともなく、神への真の信仰を持ったこともないため、神の憐れみと寛容を得たことがありません。ある人が神の労りや憐れみ、寛容を頻繁に受けているのなら、その人の心には間違いなく神への真の信仰があり、その心は神に反抗していません。その人はしばしば神の前で正直に悔い改めるので、その人にしばしば神の懲らしめが下ったとしても、神の怒りが下ることはありません。

『神を知ることについて』「唯一無二の神自身 II.」(『言葉』第2巻)

563. 神のニネベの人々への怒りがどれほどであったかにかかわらず、彼らが断食を宣言して粗布と灰を身に付けるとすぐに、神の心は軟化し、変化し始めました。神が彼らにニネベを破壊すると宣言したとき、つまり彼らの罪の告白と悔い改めの前には、神は依然として怒っていました。ニネベの人々がひとたび一連の悔い改めの行動を取ると、神の彼らへの怒りは、憐れみと寛容へと次第に変化していきました。一件の出来事において、神の性質の二側面が同時に明らかになることには、何ら矛盾はありません。では、この矛盾の不在をどのように理解し、認識するべきですか。ニネベの人々が悔い改めるにつれ、神は極端に対照的な二つの本質を続けて表出、明示し、これにより神の本質の現実性と不可侵性を人は理解することができます。神はその姿勢を通して人に伝えていたことがあります。それは、神は人間に対して寛容でないのではなく、また人に憐れみを与えたくないのでもなく、人が神の前で真に悔い改め、悪の道を離れ、その手から強暴を捨てることは極めて希だ、ということです。つまり、人間に対して怒っているとき、神は人間が真に悔い改めること、人間の真の悔い改めを見ることを望んでおり、そうなれば、神は憐れみや寛容を人間に引き続き寛大に与えるということです。すなわち、人間の邪悪な行動が神の怒りを招くのに対し、神の憐れみと寛容は、神の言葉を聞き、神の前で真に悔い改め、悪の道を離れ、強暴をその手から捨てることができる人に与えられるということです。ニネベの人々の扱い方には、神の姿勢が極めてはっきりと明示されていました。つまり、神の憐れみと寛容を得ることはまったく困難ではなく、神は人に真の悔い改めを要求するということです。人々が悪の道を離れ、強暴をその手から捨てるかぎり、神は自身の心と人への態度を変えるのです。

『神を知ることについて』「唯一無二の神自身 II.」(『言葉』第2巻)

564. 神がニネベの人々に対して心を変えたとき、神の憐れみと寛容は見せかけでしたか。もちろん、見せかけではありません。それでは、神がこの一つの状況に対処しながら、その性質の二側面の一方から他方へと推移したことは何を示していますか。神の性質は完成した一つの統一体であり、一切分割されていません。神が人に表しているのが怒りであろうと、憐れみと寛容であろうと、それらはすべて神の義なる性質の表出です。神の性質は生気にあふれており、生き生きとしていて、神は事態の展開に応じて、その思いと態度を変えます。ニネベの人々に対する神の態度が変わったことで、神には自身の思いと考えがあることが人間にわかります。神は機械でも粘土細工でもなく、生きている神自身なのです。神がニネベの人々に対して怒ることもあれば、彼らの態度ゆえに彼らの過去を赦すこともありえます。神はニネベ人に災いを起こすと決定することもできれば、ニネベ人の悔い改めゆえに、その決定を変更することもできました。人は規則を機械的に適用することを好み、そのような規則を用いて神を限定し、定義したがります。ちょうど、公式を当てはめて神の性質を理解したがるのと同じです。したがって、人間の考えの範囲内では、神は思考することがなく、実質的な考えを持っていません。しかし現実では、神の思いは、物事や環境の変化に伴い、常に変化しています。神の思いが推移しているとき、神の本質の様々な側面が現れます。この推移の過程において、心を変えた瞬間に神が人類に示すのは、神のいのちが実在していることと、神の義なる性質が活発な生命力にあふれていることです。同時に、神は自身の真の明示により、神の怒り、憐れみ、慈悲、寛容が存在する真実を人間に証明します。神の本質は、物事の展開にしたがっていつでも、どこでも明示されます。神には、獅子の怒りと母の憐れみと寛容があります。神の義なる性質は、誰かがそれを疑うこと、侵害すること、変更すること、ゆがめることを許しません。神の義なる性質、すなわち神の怒りと憐れみは、時間と場所を問わず、あらゆる物事において表出されることができます。神はこうした側面をありとあらゆる場所で鮮明に表出し、あらゆる瞬間に、それを鮮明に実行します。神の義なる性質は、時間や場所に制限されません。つまり、神の義なる性質は、時間と場所の制約に支配されて機械的に表出されたり明示されたりするのではなく、いつでも、どこでも、自由に表出、明示されるのです。神が心を変えて怒りを表出しなくなり、ニネベの町を滅ぼさなかったのを見て、神は単に憐れみ深く、愛情があるのだ、と言えますか。神の怒りは空虚な言葉から成ると言えますか。神が激しい怒りを表わし、憐れみを撤回するとき、神は人類に真の愛を感じていないと言えますか。神は人々の邪悪な行いに対して激しい怒りを表したのであり、神の怒りには何ら欠陥はありません。神の心は人々の悔い改めに動かされます。神の心を変化させるのは、この悔い改めです。神が感動し、心を変化させ、人間への憐れみや寛容を見せるとき、これらにはまったく欠陥がありません。これらは清く、純粋で汚れのないものです。神の寛容はそれそのもの、寛容であり、神の憐れみは憐れみ以外の何物でもありません。神の性質は、人間の悔い改めと行動の変化に従って、怒り、憐れみ、寛容を示します。神が何を明らかにし、何を表現しようと、それはすべて純粋で直截です。その本質はいかなる被造物のそれとも違っています。神がその行動の根底にある原則を表現するとき、そこには一切の欠陥も汚れもなく、それは神の思い、考え、神が下す判断の一つひとつ、取る行動の一つひとつも同じです。神がそのように判断し行動したのですから、神はそのように自身の業を全うします。その結果は正確かつ完璧です。なぜならその源には欠陥も汚れもないからです。神の怒りは、完璧です。同様に、いかなる被造物も持っていない神の憐れみや寛容は聖なるもので、完璧であり、いかなる議論にも経験にも耐えうるものです。

ニネベの物語について理解したところで、あなたがたには今、神の義なる性質の実質における別の側面が見えますか。神独自の義なる性質の別の側面が見えますか。人類の誰かがこうした性質を持っていますか。このような怒り、神の怒りを誰かが持っていますか。神のような憐れみや寛容を誰かが持っていますか。被造物のなかで、これほど大きな怒りを奮い起こし、人類を滅ぼしたり、災いをもたらしたりすることを決めることができるものがいますか。また、人間に憐れみ、寛容、赦しを与え、よって人間を滅ぼす決断を覆す資格を誰が持っていますか。創造主はその固有の方法と原則に従って義なる性質を示し、人、出来事、物による支配や制限を受けません。神の固有の性質のため、神の思いや考えを変えることは誰にもできず、また神を説得してその決断を変えさせることも誰にもできません。被造物のもつ行動や考えはすべて、神の義なる性質による判断のもとに存在するのです。神が怒るか、それとも憐れみをかけるかは、誰にも支配できません。それを決定できるのは、創造主の本質、つまり創造主の義なる性質のみです。これが創造主の義なる性質が有する唯一無二の特徴です。

ニネベの人々に対する神の態度の変化を分析すると、神の義なる性質に含まれる憐れみを、「唯一無二」という言葉で形容することができますか。神の怒りは神独特の義なる性質の本質における一側面であると先に述べました。ここで、神の怒りと憐れみという二側面を義なる性質として定義します。神の義の性質は聖であり、侵害されることも、疑われることも容赦しません。被造物にも非被造物にも、その性質を持つ物は存在しません。それは神に固有で、限定されたものです。つまり、神の怒りは聖であり、侵害不可能だということです。同様に、神の義なる性質のもうひとつの側面である神の憐れみもまた聖であり、侵害不可能です。被造物や非被造物で、神の業において神の代理となれるものは皆無であり、ソドムの破壊やニネベの救済において神の代理となることができるものも皆無です。これが神の唯一無二で義なる性質の真の表出です。

『神を知ることについて』「唯一無二の神自身 II.」(『言葉』第2巻)

565. ニネベの町は、ソドムと同様に堕落し、邪悪で凶暴な人々で満ちていましたが、ニネベの人々の悔い改めにより神の心が変わり、ニネベの人々を滅ぼさないことに決めました。神の言葉と命令へのニネベの人々の反応は、ソドムの住民と比べると極めて対照的な姿勢でした。ニネベの人々真摯な神への服従と罪の悔い改め、そしてあらゆる面における真実で心からの振る舞いゆえに、神は再び心からの哀れみを示し、ニネベの人々に与えました。神が人類に与えたものと人類への憐れみは、誰にも真似をすることはできず、神の憐れみと寛容、神の人類への真摯な思いは誰にも持つことができません。あなたが偉人あるいは超人であるとみなす男女に、ある高い立場で、偉人あるいは超人として最高位から人類や被造物に向かってこのような発言をする人が存在しますか。人類のうち誰が、人類の生存状況を自分の手のひらのように熟知できますか。誰が人類の存在に伴う負担と責任を負うことができますか。誰に一つの町の破壊を宣言する資格がありますか。そして、誰に一つの町を赦す資格がありますか。自分の創造したものを大切にしていると誰が言えますか。創造主だけです。創造主だけがこの人類にやさしさを感じています。創造主だけがこの人類に優しさと愛慕を示します。創造主だけに、人類への真の変わることのできない愛情があります。同様に、この人類に憐れみを与え、全被造物を愛慕することができるのは、創造主のみです。創造主の心は、人間の行動一つひとつに、ときめいたり、傷んだりします。創造主は、人間の邪悪と堕落に怒り、苦しみ、悲しみます。また創造主は、人間の悔い改めと信仰に満足し、喜び、赦し、歓喜します。創造主の思いと考えの一つひとつは人類のために存在し、人類がその中心にあります。創造主の存在とその持つものは、すべて人類のために表れます。創造主の気持ちのすべては、人間の生存と密接に結びついています。創造主が旅をし、忙しく動き回り、そのいのちのすべてを沈黙のまま与え、いのちの一分一秒を捧げるのは、人類のためです……。創造主は自らの命を惜しんだこともないにもかかわらず、自身が創造した人類を常に慈しんできました……。持つもの全てを人類に捧げます……。無条件に見返りを期待することなく、憐れみと寛容を与えます。彼がこれを行うのは、ひとえに人類が彼の目の前で生き残り続け、いのちの施しを受けることができるようにするためです。ある日、人類が彼に服従し、彼こそが人間が存在するための糧を施し、すべてのもののいのちを与える存在であると認識できるようにするためです。

『神を知ることについて』「唯一無二の神自身 II.」(『言葉』第2巻)

566. 確かに、神の憐れみと寛容は存在しています。しかし、神が怒りを解き放つ際の聖さと義は、一切の背きを許さない神の側面を人に見せます。人間が神の命令に完全に従うことができ、神の要求に従って行動するとき、神は人に対する憐れみで満ちています。しかし、人間が堕落で満ちていたり、神への憎悪と敵意で一杯だったりするとき、神は深く怒ります。では、神の怒りはどれほど深いのでしょうか。神の怒りは、神が人間の抵抗と悪行を見なくなるまで、それらが神の目の前から消えてなくなるまで続きます。そのとき初めて、神の怒りは消えるのです。言い換えると、誰であれ心が神から遠くなり、離れ、神に立ち返ることがないならば、その人が外見上、あるいは主観的な願望において、いかに神を崇拝し、神に従っても、そして肉において、あるいは思考の中で神に服従しても、神の怒りは途切れることなく解き放たれます。そのため、人間に十分な機会を与えたうえで、いったん深い怒りが発せられるならば、神がそれを撤回することはなく、二度とそのような人に憐れみや寛容を示しません。これが一切の背きを許さない神の性質の一側面です。……優しく、美しく、善いものに対し、神は寛大で憐れみに満ちています。邪悪で罪深く、悪意に満ちたものに対して神は深く怒り、その怒りは止まることがないほどです。溢れんばかりの憐れみと深い怒りが、神の性質における主要かつ最も顕著な二つの側面であり、またそれ以上に、最初から最後まで神によって示されてきたものです。

『神を知ることについて』「神の働き、神の性質、そして神自身 II.」(『言葉』第2巻)

567. 人々は、神は義なる神であり、人間が最後まで神に従う限り、神は最も正しいから、人間に対して不公平なことは決してしないと言う。人間が最後まで神に従ったならば、神は人間を見捨てられるであろうか。わたしは全ての人間に対して公平であり、全ての人間をわたしの義なる性質によって裁くが、人間に対する要求には適切な条件があるので、全ての人間は、わたしの要求することを達成しなければならない。わたしは、あなたの資格がどれほど幅広いか、立派であるかということには気を留めず、あなたがわたしの道を歩んでいるか、真理を愛し渇望しているかどうかだけを考慮する。あなたに真理が欠けており、あなたがわたしの名を辱め、わたしの道に従って行動せず、注意や配慮なく、ただついて来るだけであれば、わたしはその時あなたの悪のためにあなたを打ち倒し、罰するであろう。その時、あなたは何と言うであろうか。あなたは、神は義ではないと言えるであろうか。現在、あなたがわたしが語った言葉に従うならば、あなたはわたしが認めるような人である。あなたは、神に従う最中常に苦しみ、どんなに道が険しくとも神に従い、良い時も悪い時も神とともにしてきたと言うが、あなたは神によって語られた言葉を実際に生きておらず、毎日神のために奔り回ることだけを望み、有意義な人生を生きることについて考えたことがない。またあなたはこう言う。「とにかくわたしは神が義であると信じている。わたしは神のために苦しみ、神のために奔走し、自分を神に捧げ、承認を受けないにもかかわらず懸命に労してきたのだ。――神は必ずわたしのことを覚えているはずだ」。神は義であるというのはほんとうだが、その義はいかなる不純物にもけがされていない。その義には人間の意志が一切含まれておらず、肉や人間の取引にもけがされてはいない。反抗的で敵対し、神の道を遵守しない者は皆、罰され、誰も赦されず、誰も容赦されないであろう。「今日、わたしはあなたのために走り回っていますが、終わりが来たとき、あなたはわたしに少しばかりの祝福を与えて下さるでしょうか」と言う人たちもいる。そこで、わたしはあなたに尋ねる。「あなたはわたしの言葉に従ったであろうか」。あなたの言う義は、取引に基づいている。あなたは、わたしが義であり、全ての者に公平であり、最後までわたしに従う者は、確実に救われてわたしの祝福を得るとただ考えている。「最後までわたしに従う者は、確実に救われる」というわたしの言葉には内なる意味がある。つまり、最後までわたしに従う者は、完全にわたしのものとなる人たちであり、わたしに征服された後に真理を求め、完全にされた者である。あなたが満たした条件とは何であろうか。あなたが満たしたのは、最後までわたしに従うことのみであるが、その他に何があるだろうか。あなたはわたしの言葉に従っただろうか。あなたは、五つあるわたしの要求のうち、一つを満たしたが、残り四つを満たすつもりは全くない。あなたは、単に最も簡単で容易な道を見いだし、それを追求しつつ、自分が幸運だと思っている。あなたのような者に対するわたしの義なる性質は、刑罰と裁きであり、それは義なる報いであり、悪を行う者全員への義なる罰である。わたしの道を歩まない者は、たとえ最後まで従ったとしても、みな必ず懲罰を受けるであろう。これこそが神の義である。この義なる性質が人間の罰において表される時、人間は唖然とし、神に従いつつも神の道を歩まなかったことを悔いるだろう。「その時、わたしは神に従いつつ少しだけ苦しんだが、神の道を歩まなかった。そこでどのような言い訳ができるだろうか。刑罰を受ける以外選択はない」。しかし、その人は心の中でこう考えるだろう。「いずれにせよわたしは最後まで従ったのだから、あなたがわたしに刑罰を与えられたとしても、それは厳しすぎる刑罰ではあり得ないでしょう。そしてその刑罰を与えた後も、あなたはわたしを欲されるでしょう。わたしは、あなたが義であられ、わたしを永遠にそのようには扱われないことは知っています。結局、わたしは一掃されるような者ではありません。一掃される者は厳罰を受けますが、わたしの刑罰はそれよりも軽いでしょう」。神の義なる性質は、あなたの言うようなものではない。自分の罪を告白することが上手な者が寛容に取り扱われるということはない。義とは聖さであり、人間の侵害を容赦しない性質であり、したがってけがれたことや変化していないことはすべて、神の嫌悪の対象となる。神の義なる性質は、法ではなく、行政命令である。それは神の国の中の行政命令であり、その行政命令は、真理を持っておらず、変化していない全ての者への義なる罰であり、そこには救いの余地はない。人間がひとりずつ種類ごとに分類される時、善良な者は報酬を受け、邪悪な者は罰を受ける。この時、人間の終着点が明確にされ、救いの働きが終わり、人間を救う働きはそれ以後行われず、悪を行なった者全てに報復がもたらされる。

『神の出現と働き』「ペテロの経験――刑罰と裁きに関するペテロの認識」(『言葉』第1巻)

568. わたしの憐れみは、わたしを愛し、自分を否定する人に向けて現わされる。そして、邪悪な者にもたらされる懲罰はわたしの義なる性質の証明そのものであり、それ以上にわたしの怒りの証である。災いがやって来ると、わたしに反抗する者はみな飢饉や疫病に苛まれ、涙を流す。あらゆる悪事を犯してきたが、長年わたしに従って来た者でも罪の償いを免れることはできない。何百万年の時を通して誰も目にしたことのないような災いに陥り、絶えず恐怖と不安の中に生きることになる。そして、わたしだけに忠誠を示して従ってきた人は喜び、わたしの力に拍手喝采する。彼らは言葉に表せないほどの満足感を体験し、わたしが人類にいまだかつて与えたことのないような喜びの中に生きる。わたしは人の善行を宝とし、悪行を忌み嫌うからである。わたしが初めて人類を導き始めたときから、わたしと心を同じとする人の集まりを獲得することを熱望してきた。わたしと同じ心を持たない人については、わたしは決して忘れない。彼らに報いを与え、その様子を楽しみながら眺める機会を待ち望みながら、彼らに心の中で憎み続ける。今日、遂にその日を迎え、もはや待つ必要はない。

『神の出現と働き』「終着点のために十分な善行を積みなさい」(『言葉』第1巻)

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