実践(7)

あなたがたの人間性はあまりに不十分で、生活様式はあまりにも下劣で低級である。人間性がなく、また識見も欠いている。そのため、正常な人間性にまつわるものを身につけなければならない。良心、理知、識見を持ち、ものの言い方や見方を知り、清潔さに注意を払い、正常な人間らしく行動すること。これはすべて、正常な人間性に関する知識である。こうしたことにおいて正しく行動すれば、容認できる程度の人間性を備えているとみなされる。また、霊的生活において自らを整えなければならない。地上における神の働きの全体を知り、神の言葉を経験しなければならない。神の采配に従い、被造物としての本分を尽くす方法を知る必要がある。これら、つまり人間性のある生活を得るために自らを整え、霊的な生活を実践することが、あなたが今日入らねばならないことの二つの側面であり、いずれも不可欠である。

一部の馬鹿げた人は、人間性を身につける方法しか知らない。彼らの外見に欠点はなく、言うことも話し方も適切で、身なりも非常に立派で品がある。しかし彼らの中身は空っぽであり、ただ表面的に正常な人間性を備えているように見えるだけである。また食べるものや着るもの、言うことにだけ集中している人もいる。さらには床を拭いたり寝床を整えたりといった、全般的な清潔さだけに集中している人さえいる。彼らはそうしたことすべてに熟達しているかもしれないが、終わりの日の神の働きや、刑罰と裁き、試練と精錬について知っていることを話すように頼むと、おそらく何の経験も示せないことだろう。たとえば彼らに、「神の地上における主要な働きについて理解しているか。今日の受肉した神の働きは、イエスの働きとどう違うのか。ヤーウェの働きとはどう違うのか。彼らは同一の神なのか。神はこの時代に終わりをもたらすために来たのか。それとも人類を救うためなのか」などと尋ねても、そうしたことについて何も答えられない。中には身なりの美しい人もいるが、それは表面だけである。姉妹は花のように美しく身を飾り、兄弟は王子や裕福な若い洒落者のように着飾っている。彼らは食べるものや着るものといった外面的なことにしか注意を払っておらず、内面はまったく貧困で、神についての認識など一切ない。これは一体何を意味するのか。また他には貧しい乞食のような身なりの人もいて、まったく東アジアの奴隷のようである。わたしがあなたがたに求めていることが本当にわからないのか。お互いに交わって、自分たちが実際に何を得たのか話し合ってみなさい。あなたがたは長年神を信じていながら、収穫したものがこれだけだとは、情けないと思わないのか。恥ずかしくはないのか。長年真の道において追求していながら、今日あなたがたの霊的背丈はまだ雀にも及ばない。あなたがたのうちの若い女性を見てみなさい。服や化粧で絵のように美しく、お互いを比べ合っているが、一体何を比べているのか。自分の楽しみか、自分の求めるものか。わたしがモデルを雇いに来たとでも思っているのか。あなたがたは恥を知らない。いのちはどこにあるのか。あなたがたが追求しているのは、ただ自分の度を越した望みだけではないか。あなたは自分をとても美しいと思い、あらゆる装飾品で着飾ってはいても、実際には糞の山の中に生まれたうじ虫ではないのか。今日あなたが運良くそうした天国の祝福を楽しんでいるのは、あなたの可愛らしい顔のおかげではなく、神があなたを例外的に高く上げているからである。自分がどこから来たか、まだはっきりとわからないのか。いのちの話になると、口を閉ざして何も言わず、像のように黙り込んでしまうが、それでいて厚かましく着飾りはする。顔に紅やおしろいで化粧をしたがる。そしてあなたがたのうちの洒落者を見てみなさい。わがまま男で一日中ぶらつき回り、粗暴で、顔には無関心な表情を浮かべている。これが人のあるべき様子か。あなたがたは一人一人、男も女も、一日中何に専念しているのか。自分が食べていくのに誰に頼っているか知っているのか。自分の衣服を、その手に刈り入れたものを見て、自分の腹をなでてみなさい。長年の信仰の中で支払った血と汗という代価から何を得たのか。まだ観光に出かけたり、その悪臭を放つ肉を飾り立てたりするという、無価値なことを追求している。正常な人間であることを求められているのに、異常であるだけでなく、完全に常軌を逸している。そのような人物が、どうして図々しくもわたしの前に来れるのか。このような人間性で、自分の魅力を見せびらかし肉を見せつけて、常に肉の欲望の中に生きている。汚れた霊や悪霊の子孫ではないのか。わたしはそのような汚れた霊をいつまでも存在させてはおかない。あなたが心の中で考えていることを、わたしが知らないなどと思わないことだ。欲望や自分の肉をしっかりと抑制しているかもしれないが、その心の中に抱いている思いをわたしが見抜けないことがあるだろうか。あなたの目が望むものすべてを、わたしが知らないことがあるだろうか。あなたがた若い女性が自分をそれほどきれいにみせているのは、肉を見せびらかすためではないのか。男性はあなたがたにとって何の益があるのか。男性があなたがたを苦痛の海から本当に救ってくれるのか。あなたがたのうちの洒落男は、みな紳士らしく立派に見えるよう着飾っているが、それは颯爽とした外見に注意を惹くための策略ではないのか。誰のためにそうしているのか。女性はあなたがたにとって何の益があるのか。女性はあなたがたの罪の根源ではないのか。あなたがた男性にも女性にも、わたしは多くの言葉を語ったが、あなたがたはそのごく一部にしか従っていない。あなたがたの耳はよく聞こえず、目は衰えてかすみ、心は頑ななためもはや体の中には欲望しかなく、体という罠にとらわれて逃げることができずにいる。誰があなたがたのような汚物と垢の中をうごめくうじ虫に近寄りたいと思うのか。あなたがたはわたしが糞の山から引き上げた者以上のものではなく、生来正常な人間性を備えていなかったことを忘れてはならない。わたしがあなたがたに求めるのは、あなたがたが生来備えていなかった正常な人間性であり、欲望を見せびらかすことでも、長年にわたって悪魔の訓練をうけた悪臭を放つ肉を野放しにすることでもない。そのように着飾って、さらに深い罠に陥ることが怖くないのか。自分が本来、罪に属していたことを知らないのか。自分の体が欲望に満たされ切っていて、服の上からもそれが滲み出し、耐え難く醜悪で汚れた霊である状態を露わにしていることを知らないのか。あなたがたはこのことを誰よりもよく知っているのではないのか。あなたがたの心、目、唇は、すべて汚れた霊に汚されているのではないのか。それらの部分は汚れていないのか。行動しない限り、自分はもっとも聖いと思っているのか。美しい衣服で身を飾れば、下劣な魂を覆い隠せると思っているのか。そんなことは不可能である。あなたがたにはもっと現実的になるよう忠告する。欺瞞に満ちた偽物になることをやめ、自分自身を見せびらかすこともやめなさい。あなたがたは互いに自分の欲望をひけらかしているが、その見返りに得るものは、とめどない苦しみと無慈悲な懲らしめだけである。なぜ互いに目を瞬かせて恋愛にふける必要があるのか。それがあなたがたの品位の尺度、公正さの度合いなのか。あなたがたのうちで邪悪な医術や魔術に手を染めている者をわたしは嫌悪する。あなたがたのうちで自身の肉を愛する若い男女を嫌悪する。自分を抑えたほうがよい。なぜならあなたがたは今や正常な人間性を持つことを求められており、欲望を見せびらかすことは認められないからである。なのにあなたがたはあらゆる機会を利用する。あなたがたの肉があまり余って、欲望が大きすぎるからである。

表面的には、人間性によるあなたの生活はとてもよく整理されているが、それでもあなたはいのちについて知っていることを話すよう求められると何も言えず、このことに関しては困窮している。真理を身につけなさい。人間性による生活が好転したのだから、内的ないのちもそうなるべきである。考えを変え、神への信仰の見方を変え、内面の認識と思考を変え、観念の中にある神についての認識を変えなさい。取り扱いを受け、暴露と滋養を受けて、自己、人生、神への信仰に関する認識を徐々に変えなさい。認識を純粋なものにしなさい。そのようにして、人の中にある考えが変わり、ものの見方が変わり、心構えが変わっていく。それだけが、いのちの性質の変化と呼べる。一日のすべての時間を神の言葉を読むことや、洗濯や掃除に費やせと求められているのではない。正常な人間性の生活は当然、最低限として耐えられるものでなければならない。さらに、外的な物事に対応するときにはやはり識見や理知を用いる必要がある。しかし、もっとも重要なのは、いのちの真理を身につけることである。いのちのために備えるときは、神の言葉を飲み食いすることに集中しなければならず、神についての認識と人生に関する自分の見識、そして特に神が終わりの日に行う働きについて知っていることを話すことができなければならない。あなたはいのちを追求しているのだから、こうしたものを身につけなければならないのである。神の言葉を飲み食いするときは、自分自身の状態の現実を言葉に照らして判断しなければならない。つまり、実体験を通して自分の欠点に気づいたときは、実践の道を見つけ出し、自分の誤った動機や観念に背を向けることができなければならない。常にそうしたことを目指して努力し、それを達成することに精魂を傾けていれば、辿るべき道を得て、虚しさを感じなくなり、それによって正常な状態を保てるようになる。そのとき初めて、あなたは自分のいのちに重荷を抱えた、信仰を持つ人となる。なぜ神の言葉を読んでもそれを実践に移せない人がいるのか。それは、もっとも重大なことを把握できないからではないのか。いのちを真剣に考えていないからではないのか。重大なことを把握できず、実践の道を得られないのは、神の言葉を読んでもそれと自分自身の状態を結びつけることができず、また自分の状態を掌握できないからである。中にはこのように言う人もいる。「神の言葉を読んで、自分の状態をそれと結びつけている。自分が堕落していて素質が低いこともわかっている。けれど神の旨を満たすことができない」。あなたは非常に表面的なことしか見ていない。しかし、あなたの知らない現実的なことがたくさんある。たとえば肉の楽しみを捨て去る方法、独善を捨て去る方法、自分を変える方法、こうしたことに入る方法、自分の素質を高める方法、どの面から始めるべきかといったことである。あなたは数少ないことを表面的に把握しているだけで、ただ自分が本当に堕落しているということしか知らない。兄弟姉妹に会えば、自分がどれほど堕落しているかを語り、自分自身を知り、いのちの大きな重荷を負っているように見えはする。しかし実際には、その堕落した性質は変わっておらず、それはあなたが実践の道を見出していないことを証明している。もしあなたが教会を率いているなら、兄弟姉妹の状態を把握し、それを指摘することができなければならない。ただ単に、「あなたがたは不従順で遅れている」と言えばよいものだろうか。いや、兄弟姉妹の不従順と遅滞がどのように現れているのかを具体的に語らねばならない。彼らの不従順な状態、不従順な態度、サタン的な性質について語り、その場合には、あなたの言葉にある真理を彼らが完全に確信するように語らねばならない。事実や例を上げて説明し、どうすれば反抗的な振る舞いから脱却できるのかを具体的に語り、実践の道を指し示しなさい。これが人を納得させるやり方というものである。そのようにする人だけが、他の人たちを導くことができ、真理現実を備えているのである。

あなたがたには今では交わりを通して多くの真理が与えられているので、それらを見定めなければならない。あなたは全体でいくつの真理があるかという結論を出すことができなければならない。人が備えるべき正常な人間性のさまざまな側面と、いのちの性質の変化のおもな側面、ビジョンの深まり、人が時代をとおして使ってきた知るためや経験するための誤った手段を知り、それらを自分で区別できるようになると、そのとき初めてあなたは正しい軌道に乗っていることになる。宗教にいる人たちは聖書を神のごとく崇拝しており、特に新約聖書の四福音書をイエスの四つの異なる顔であるかのようにみなし、また父と子と聖霊の三位一体について語る。これはすべてこれ以上もなく愚かなことであり、あなたがたは皆それを見抜かなければならない。そしてそれ以上に、受肉した神の本質と終わりの日の働きについて認識を得なければならない。また、古い実践の方法や実践に関する誤謬と逸脱、すなわち霊の中に生き、聖霊に満たされ、ただ来るものを受け入れ、権威に服従する、といったことについても知らねばならない。かつて人がどのように実践してきたか、そして現在どのように実践すべきかを知らねばならない。指導者と働き手が教会においてどのように協力すべきか、独善と人を見下す態度をどのように捨て去るべきか、兄弟姉妹がどのようにともに生きるべきか、他の人たちおよび神との正常な関係をどのように構築すべきか、人間生活においてどのように正常性を獲得するべきか、霊的生活において何を自分のものにするべきか、どのように神の言葉を飲み食いするべきか、神の言葉のうちどれが認識に関連し、どれがビジョンに関わり、どれが実践の道に関連するのか。こうしたことはすべて、これまでに語られてきたのではないか。こうした言葉は真理を追求する者に開かれており、優遇されている人は誰もいない。今日あなたがたは、依存的な気質を持たず、独立して生きる能力を養わなければならない。将来あなたがたを導く者がいなくなったとき、あなたがたはわたしのこの言葉を思い出すことになる。患難の時、教会生活を送ることが不可能な時、兄弟姉妹が会うことができず、ほとんどの者が一人で生活しており、せいぜい同じ地域の人としか交われない時、まさにそうした時、あなたがたの現在の霊的背丈では、しっかりと立っていることができなくなる。患難の中では多くの者がしっかりと立っていられなくなる。いのちの道を知っており、十分な真理を身につけている者だけが進歩を続け、徐々に清めと変化を成し遂げることができる。患難を経験するのは容易いことではない。もし数日程度で患難を切り抜けたと思っているなら、それはあなたの考えがいかに短絡的かを証明している。教義を十分理解すればしっかりと立つことができると思っているが、それは違う。神の言葉における実質的なものを認識できず、真理の重大な側面を把握できず、実践の道を持っていないなら、時が来て何かが起こると、あなたは混乱に陥る。サタンの誘惑に抗うことができず、精錬の始まりにも耐えられない。あなたの中に真理がなく、ビジョンも欠けているなら、時が来るとあなたは倒れざるを得なくなる。そしてすべての希望を失って言う。「もういずれにしても死ぬのなら、最後の最後まで刑罰を受けようじゃないか。刑罰であれ、炎の湖に投げ込まれるのであれ、なるようになればいい。来るものをそのまま受け取ろう」。これは効力者の時と同じである。一部の人は何があろうと自分は効力者だと信じたので、もういのちを求めなかった。彼らは煙草を吸い酒を飲み、肉に耽って好きなことをした。単に世俗の仕事に戻った人もいた。荒れ果てた環境というのもこういうもので、乗り越えることができなければ、わずかでも自分に対する抑制を緩めたとたんに、すべての希望を捨てることになる。サタンの影響を克服できなければ、知らぬ間にサタンに捕われて、再び破滅へと引き渡されることになる。だから今日、真理を身につけ、独立して生きられるようにならなければならない。神の言葉を読むときには、実践の道を求めることができなければならない。潤し牧してくれる指導者や働き手がいなくても、辿るべき道を見つけ、自分の欠点を見出し、身につけて実践すべき真理を見つけられなければならない。神は地上に来たあと、常に人に付き添っていられるだろうか。一部の人は観念の中で、「神よ、ある時点までわたしたちに働きかけないのならば、あなたの働きは完成したことになりません。サタンがあなたを告発しているからです」と信じている。言っておくが、わたしが言葉を語り終えたら、それで働きは成功裏に完成したのである。それ以上言うことがなくなれば、それでわたしの働きは完成する。わたしの働きの終わりはサタンの敗北の証拠であり、それはサタンの告発など一切受けることなく、うまく成し遂げられたと言うことができる。しかしわたしの働きが終わったとき、まだあなたがたの中に何の変化もなければ、そのような人は救いに値せず、淘汰される。わたしは必要以上の働きは一切行わない。わたしは地上での働きを、あなたがある程度征服され、皆が真理のすべての側面について明確な認識を持ち、素質が向上して内面的にも外面的にも証しを立てるまで続けない。そんなことは不可能である。今日わたしがあなたがたにおいて行う働きは、あなたがたを正常な人間性の生活へと導き入れるためであり、新たな時代の到来を告げ、人類を新たな時代の生活へと導き入れる働きである。この働きは一歩ずつ行われ、あなたがたのもとで直接発展していく。わたしはあなたがたに面と向かって教え、あなたがたの手を引く。あなたがたが理解していないことを何でも教え、欠けているものを何でも授ける。あなたがたにとっては、この働きはすべていのちの施しであり、同時にあなたがたを正常な人間性の生活へと導き入れるものだと言える。そして特に、この働きは終わりの日々にこの集団の人たちのいのちのために糧を与えることを目的としている。わたしにとっては、この働きは古い時代を終わらせ、新たな時代の到来を告げるためのものである。サタンについては、わたしが受肉したのはまさにサタンを倒すためである。今わたしがあなたがたの間で行っている働きは、あなたがたの今日のための糧であり、あなたがたの時宜を得た救いだが、このわずか数年の間に、わたしはあなたがたにすべての真理、いのちの道のすべて、そして将来の働きについてさえも語る。これは将来あなたがたが物事を正しく経験できるようになるのに十分である。わたしの言葉のすべてが、わたしがあなたがたに委ねた唯一のものである。それ以外に勧告は行わない。今日わたしがあなたがたに語る言葉のすべてが、あなたがたへの勧告である。なぜならわたしが語る言葉のうちの多くについては、今日あなたがたは経験がなく、その内面的な意味を理解できないからである。いつか、あなたがたの経験は今日わたしが語ったとおりに実を結ぶ。これらの言葉はあなたがたの今日のビジョンであり、将来あなたがたが依存するものである。それは今日のいのちにとっての糧であり、将来のための勧告であり、これに勝る勧告はない。なぜならわたしが地上で働く時間は、あなたがたがわたしの言葉を経験する時間ほど長くないからである。わたしはただ働きを完了するだけだが、あなたがたはいのちを追求しているのであり、それは生涯を通じた長い旅からなる過程である。多くのことを経験して初めて、いのちの道を完全に手に入れることができる。そのとき初めて、わたしが今日語る言葉の内にある意味を見抜けるようになる。あなたがたがわたしの言葉を手に入れ、一人一人がわたしの委託をすべて受け、わたしがあなたがたに委託すべきものをすべて委託し、言葉の働きが終わりを迎えると、どれほど大きな効果があったかに関わらず、それで神の旨の実現も成し遂げられたことになる。それはあなたが想像しているように、あなたがある程度変えられなければならないということではない。神はあなたの観念どおりには行動しない。

人のいのちにおける成長は、数日で成し遂げられるものではない。神の言葉を毎日飲み食いしていようと、十分ではない。一定期間のいのちにおける成長を経なければならない。これは必要な過程である。人の現在の素質では、何を成し遂げることができるのか。神は人の必要に従って働き、人の生まれながらの素質に基づいて適した要求を行う。たとえばこの働きが高い素質を備えた人の集団のもとで行われたなら、発される言葉はあなたがたに向けられるものよりも高尚になり、ビジョンも高尚になり、真理ははるかに高尚なものになるだろう。言葉の一部は厳しさを増すであろうが、人のいのちの施しは向上し、奥義をさらに際立って明らかにすることができる。そのような人の間で語るとき、神は彼らの必要性に応じて与える。今日あなたがたに向けられている要求は、もっとも厳格なものと言えるかもしれないが、この働きが素質のさらに高い人に行われたなら、要求はさらに大きくなることだろう。神の働きはすべて、人の生まれながらの素質に従って行われる。人が今日までに変えられ征服された度合いは、可能な最大限度に達している。この働きの段階がどれほど効果的であったかを、自分の観念を使って計ってはならない。あなたがたは自分が生まれながらに有しているものをはっきりと知っているべきであり、自分自身を買いかぶってはならない。あなたがたの誰一人として、当初からいのちを追求してはおらず、路頭をぶらつく乞食であった。神があなたが想像するほどの度合いまであなたがたに働きかけ、皆を地にひれ伏させて、偉大なビジョンを見たかのように完全に納得させるということは不可能である。なぜなら神の奇跡を見たことがないものは、わたしが言うことをすべて完全に信じることはできないからである。あなたがたがわたしの言葉を綿密に検証してさえ、完全に信じることはないだろう。それが人間の本性というものである。真理を追求する者はいくらかの変化を経験するが、真理を追求しない者がかつて持っていた信仰は弱まり、さらには消えてしまうかもしれない。あなたがたにとって最大の困難は、神の言葉の成就を目にしなければ完全に信じられず、神の奇跡を目にしなければ納得できないということである。そのようなものを目にすることなく、誰が完全に神に忠実になれるというのか。だからわたしは、あなたがたが信じているものは神ではなく奇跡だと言うのである。わたしはもう真理のさまざまな側面についてはっきりと語った。それは一つ一つが完全であり、すべてが密接に関連し合っている。あなたがたはそれを目にしたのだから、今やそれを実践に移さねばならない。今日わたしはあなたに道を示すが、将来はあなたが自分でそれを実践しなければならない。今わたしが語る言葉は人の実際の状況に基づいて人に要求をするが、わたしは人の必要と人の内面にあるものに従って働きを行う。実践の神は実践的な働きを行い、人の実際の状況や必要性に応じて働くために地上にやって来た。神は理不尽ではない。神が働くとき、人に強要しない。たとえばあなたが結婚するかどうかは、あなたの状況の現実に基づくべきである。真理はあなたにはっきりと語られており、わたしはあなたを抑えない。家族に抑圧されているため、結婚しない限り神を信じることができない人がいる。この場合、逆に、結婚が人の役に立つ。他の人にとっては、結婚には何の利益もなく、ただ以前持っていたものを失うだけである。あなた自身の場合がどうであるかは、あなたの実際の状況と決意によって決めなければならない。わたしはあなたがたに要求を行う際の規則を考案するためにここにいるのではない。多くの人が絶え間なく、「神は実践的だ。神の働きは現実を基盤とし、わたしたちの状況の現実に基づいている」と叫んでいるが、しかし実際のところ、それは何ゆえに「現実」となるのかを知っているのか。空虚な言葉にはもううんざりである。神の働きは実際的で、現実に基づいており、そこには何の教義もなく、完全に自由で、すべてが開かれあからさまになっている。こうしたいくつかの原理の具体的な詳細はどういったものか。神の働きのどの部分がそのようであると言うことができるか。あなたは神の働きのこの側面について、詳細に語り、さまざまな類の経験的な証しを持ち、非常にはっきりと理解していなければならない。それを知って初めて、こうした言葉を語る資格がある。もし誰かが、「受肉した神は世の終わりに、地上でどんな働きをしたのか。なぜ実践の神と呼ぶのか。ここでいう「実践」とは、何を意味するのか。神の実践的働きや、それに具体的に何が含まれるかについて話せるか。イエスが受肉した神で、今日の神も受肉した神なら、その違いは何なのか。類似点はどうか。この二人はそれぞれどんな働きをしたのか」と尋ねたら、答えることができるであろうか。こうした内容はすべて証しを立てることに関係する。これらのことについて、混乱してはならない。また他に、「今日の神の働きは現実だ。奇跡や不思議の顕示などではない」などという人もいる。神は本当に奇跡や不思議を行わないのか。確信があるのか。わたしの働きが真にどんなものであるかを知っているのか。神は奇跡や不思議を行わないと言う者もいるかもしれないが、神の行う働きと語る言葉はすべて奇跡ではないのか。神は奇跡や不思議を行わないと言う者もいるかもしれないが、それは説明の仕方や誰が対象かによる。神は教会に行くことなく、人々の状態を暴き、語る以外の働きを一切行うことなく、人々を駆り立てて前進させた。これは奇跡ではないのか。神は言葉だけで人々を征服したのであり、人々は見通しも希望もないまま喜んで従っている。これもまた奇跡ではないのか。神が語ると、その言葉は人々の中にある気分を引き起こす。喜びを感じないならば、憂鬱になり、精錬の対象でない人は刑罰の対象となる。痛烈な言葉二、三語で神は人に刑罰をもたらす。これは超自然的ではないのか。人間にそんなことができるだろうか。あなたは長年聖書を読んできたが、何一つ理解しておらず、何の識見も得ていない。時代遅れの伝統的な信仰の在り方から自分自身を切り離せていないのである。あなたには聖書を理解する方法がない。しかし神は聖書を完全に理解することができる。これは超自然的ではないか。神が地上にやって来たとき、神に超自然的なところがなかったとしたら、あなたがたを征服できるだろうか。神の並外れた神的な働きがなければ、あなたがたの誰が確信しているだろうか。あなたの目には、ただ普通の人が働きあなたがたとともに生活しているかのように見える。表面的には普通の平凡な人に見える。あなたに見えるのは普通の人間性の見せかけだが、実は神性が働きを行なっているのである。それは普通の人間性ではなく神性であり、神自身が働いているのであり、神が普通の人間性を用いて行う働きである。そのため神の働きは普通でもあり、超自然的でもある。神が行う働きは人が行えるものではなく、普通の人には行えないため、並外れた存在が行なっている。しかし並外れているのは神性であり、人間性ではない。神性は人間性とは異なる。聖霊に用いられる人も、平凡な普通の人間性を持った人で、この働きを行うことはできない。そこに違いがある。「神は超自然的な神ではない。神は超自然的なことなどしない。わたしたちの神は実践的で現実的な言葉を語る。神は現実的で実践的な働きをするために教会へ来る。毎日神は面と向かってわたしたちに語り、面と向かってわたしたちの状態を指摘する。わたしたちの神は現実である。神はわたしたちと共に生活しており、何一つ変わったところはない。外見上、その人を神と見分けられるものは何もない。ときには神が憤ることもあり、わたしたちはそこに神の怒りの威厳を見る。また神が微笑むこともあり、わたしたちはそこに神のにこにことした物腰を見る。神は姿形を備えた生身の神自身で、現実であり、実際に存在する」と言う人もいるかもしれない。このように証しをするなら、それは不完全な証しである。それが他の人にとって何の役に立つのか。神自身の働きの内部事情や実質について証しすることができないなら、そんな「証し」はその名にふさわしくない。

神の証しをするということは、おもに神の働きについて自分が認識していること、神がどのように人を征服するか、どのように人を救うか、どのように人を変えるかを語ることである。それは神がどのように人を導いて真理現実に入らせ、どのように人を神に征服され、完全にされ、救われるようにするのかを語ることである。証しをするということは、神の働きと自分が経験したすべてについて語るということである。神の働きのみが神を表現することができ、神の働きのみが神を公に、その全体において明らかにすることができる。神の働きは神への証しを立てる。神の働きと発言は霊を直接表現する。神の働きは霊に行われ、神の言葉は霊に語られる。こうしたことはただ受肉した神の肉を通して表されるが、実際にはそれは霊の表現である。神が行うすべての働きと神が語るすべての言葉は、神の本質を表している。もしも神が肉をまとって人のもとに来た後、語りも働きもせず、ただあなたがたに神の現実性、正常性、全能性を知るよう求めたなら、そんなことができるだろうか。それで霊の実質とは何かを知ることができるだろうか。神の肉の属性とは何かを知ることができるだろうか。神があなたがたに神への証しをするように求めるのは、ただあなたがたが神の働きの各段階を経験しているからである。そのような経験がなかったなら、神はあなたがたに証しをするよう要求はしないであろう。そのため神の証しをするときは、神の普通の人間性の外見について証しするだけでなく、神が行う働きと神が導く道についても証しをすることになる。そして自分がどのように神に征服され、どのような側面で完全にされたかを証しする。このような証しを行うべきである。もしあなたが行く先々で、「わたしたちの神が働きにやって来た。神の働きは本当に実践的だ。神は超自然的な行いなしに、何の奇跡も不思議もなしに、わたしたちを得た」と叫んだなら、人々は、「神が奇跡も不思議も行わないとはどういう意味なのか。奇跡も不思議も見せずに、どうしてあなたを征服できたのか」と尋ねるであろう。そこであなたは、「神は語り、そして何の不思議も奇跡も見せることなく、わたしたちを征服した。神の働きがわたしたちを征服した」と答える。最終的には、何も実質的なことを言えず、何も具体的なことを語れないなら、それが真の証しなのか。受肉した神が人を征服するとき、それを行うのは神の神性の言葉である。それは人間性には成し遂げられない。死すべき人間には達成できないことであり、普通の人の中の最高の素質を備えた人にさえ不可能である。神の神性はあらゆる被造物を超えるからである。これは人にとっては並外れたことであり、創造主は結局のところ、あらゆる被造物を超える。被造物が創造主を超えることはできない。あなたが神を超えているなら、神はあなたを征服できない。神があなたを征服できるのは、ただ神があなたを超えているからである。全人類を征服できるのが創造主であり、この働きを行えるものは神をおいて他にない。こうした言葉が「証し」であり、このような証しを行うべきである。あなたは刑罰、裁き、精錬、試練、逆境、苦難を一つずつ経験し、征服された。あなたは肉の将来の展望や個人的な動機、肉の個人的な利益を捨て去った。言い換えれば、神の言葉はあなたの心を完全に征服した。あなたはいのちにおいて神が要求するほどには成長してはいないが、こうしたことをすべて知り、神の行いによって完全な確信を得ている。そのためこれを証し、実際的かつ真の証しと呼ぶことができる。神が行うために来た働き、すなわち裁きと刑罰の働きは、人を征服するためのものだが、同時に神は働きを完結させ、時代を終わらせ、完結の働きを行なっている。神は時代全体を終わらせて、全人類を救い、人類を罪から永遠に解放しようとしている。そして自らが創造した人類を完全に得ようとしている。あなたはこのすべてを証ししなければならない。あなたはこれほど多くの神の働きを経験し、それを自分の目で見て、直接体験した。最後の最後に到達したとき、自らに課せられた役割を果たせないようであってはいけない。そうであればなんと残念なことか。将来福音が広められるとき、あなたは自分の認識を語り、心の中で得たことすべてを証しできなければならず、努力を惜しんではならない。これは被造物として成し遂げなければならないことである。神の働きのこの段階の実際の意義は何か。その成果は何か。そしてそのうちのどれだけが人において行われるのか。人は何をするべきか。受肉した神が地上にやって来てから行なったすべての働きについてはっきりと語れるなら、証しは完全である。神の働きの意義、その内容、その実質、それが表す性質、その原理という五項目について明確に語れるなら、それは神を証しできることと、真に認識を得ていることの証明である。あなたがたへのわたしの要求はさほど大きいものではなく、真の探求を行なっている者なら誰でも達成できる。神の証人となることを決意しているなら、神が何を嫌悪し、何を愛しているかを理解していなければならない。あなたは神の働きを多く経験してきた。その働きを通して、神の性質を知り、神の旨と人類への神の要求を理解し、その知識をもって神を証しし、自分の本分を尽くさねばならない。あなたはただこのように言うかもしれない。「わたしたちは神を知っている。神の裁きと刑罰はとても厳しい。その言葉は非常に厳格で、正しく威厳があり、人には犯すことができない」。しかしこうした言葉は、究極的に人を養うのか。それは人に対してどのような効果を持つのか。あなたはこの裁きと刑罰の働きが、自分にとってもっとも有益であることを本当に知っているのか。神の裁きと刑罰は、あなたの反逆性と堕落を明らかにしているのではないのか。そしてあなたの中にある汚らわしく堕落したものを清め駆逐してくれるのではないのか。裁きと刑罰がなかったなら、あなたは一体どうなるだろうか。あなたは実際にサタンが自分を奥深くまで完全に堕落させたという事実を認識しているのか。今日、あなたがたはこうしたことを身につけ、よく知っておかなければならないのである。

今日の神への信仰は、あなたがたが想像するような信仰、つまりただ神の言葉を読み、祈り、歌い、踊り、本分を尽くし、正常な人間性の生活を送れば十分であるという信仰ではない。信仰が本当にそれほど単純でありえるだろうか。鍵となるのは成果である。重要なのは何かをするのに幾つの方法を持っているかではなく、具体的にどのように最良の結果を成し遂げられるかである。あなたは神の言葉をとりあげて自分の認識の一部を詳しく語ることができるかもしれないが、神の言葉を脇へ置けば、何も言うことがなくなる。これはあなたが字義や教義しか語ることができず、経験による認識を欠いていることを示している。今日では、決定的なことを把握できなければ何にもならない。これは現実に入るために極めて重大なことである。自分自身の鍛錬を次のように始めなさい。まず神の言葉を読み、その中にある霊的な用語をよく学ぶ。その中にある重要なビジョンを見つけ出し、実践に関連する部分を特定する。これらの要素をすべて一つ一つ結び付け、経験においてそれらに入っていく。これらは把握するべき重要な事柄である。神の言葉を飲み食いするときに最大の鍵となる実践は、神の言葉を一章読んだら、ビジョンに関する主要部分を見つけ出し、かつ実践に関連する主要部分も見つけ出せねばならないということである。ビジョンを基盤とし、実践を生活の指針としなさい。それらはあなたがたに何よりも欠けているものであり、あなたがたにとってもっとも難しいことでもある。あなたがたは心の中で、それらにほとんど注意を払わない。あなたがたの誰もが通常、個人的な犠牲を払う意欲もやる気もない怠惰な状態にある。またはただ受け身に待っており、人によっては不平を言うこともある。そうした人は神の働きの目的や重要性を理解しておらず、真理を追求することが困難である。そのような人は真理を嫌悪しており、最終的には淘汰される。彼らの誰も完全にされることはできず、誰も生き残ることはできない。サタンの力に抗うというわずかな決意もないなら、彼らに希望はない。

あなたがたの追求が効果的だったかどうかは、現在何を持っているかでわかる。そしてそれによりあなたがたの結末が判断される。つまり、結末は払ってきた犠牲と行なってきた物事に明らかにされるのである。結末は、追求、信仰、何をしてきたかによってわかる。あなたがたの間には、すでに救いようのない者が多くいる。現在は人の結末を明らかにする日であり、わたしがぼんやりと働きを行うことはないからである。わたしは完全に救いようのない者を、次の時代に導き入れることはない。やがてわたしの働きが終わる時が来るが、まったく救うことのできない、霊のない腐臭のする屍に働きかけることはない。今は人の救いにおける終わりの日であり、わたしは役に立たない働きは行わない。天と地を罵るのはやめなさい。世界の終わりは近づいている。それは避けることができない。事ここに至り、人間にそれを止める方法はない。あなたが物事を好きなように変えることはできないのである。昨日あなたは真理を追求するための代価を払わず、忠実ではなかった。そして時が至った今日、あなたは救いようがない。そして明日、あなたは淘汰される。あなたを救う余地などない。わたしの心は柔和で、わたしはあなたを救うためにできるだけのことをしているが、あなたが自分のために努力し、考えないなら、それはわたしに何の関係があるというのか。自分の肉のことしか考えず安楽を喜ぶ者、信じているように見えても本当は信じていない者、邪悪な医術や魔術に手を染めている者、淫らでぼろぼろでみすぼらしい者、ヤーウェへの生贄や神が所有するものを盗む者、賄賂を愛する者、何もせずただ天国へ昇ることを夢見る者、傲慢でうぬぼれて個人的な名声や富のためにしか努力しない者、尊大な言葉を広める者、神自身を冒涜する者、神自身を批判し中傷してばかりいる者、党派を組んで独立しようとする者、自分を神以上に崇める者、放蕩に耽る軽薄な若者や中年や高齢の男女、人のもとで個人的な富や名声を楽しみ個人的な地位を求める男女、罪に囚われて悔い改めない者、これらはすべて救いようのない者ではないのか。放蕩、罪深さ、邪悪な医術、魔術、冒涜、尊大な言葉はすべて、あなたがたの間にはびこっている。真理といのちの言葉はあなたがたの只中で踏みにじられ、聖なる言葉はあなたがたの間で汚されている。汚れと不従順で膨れ上がった異邦人たちよ! あなたがたの最終的な結末はどうなるのか。肉を愛し、肉の魔術にふけり、放蕩の罪に陥っている者が、どうして図々しくも生き続けようというのか。あなたがたのような人は救いようのないうじ虫だということを知らないのか。一体何の資格があって、あれやこれやと要求するのか。今日に至るまで、真理を愛さず肉だけを愛する者にはほんのわずかな変化も起こっていない。そのような者がどうして救われようか。いのちの道を愛さず、神を崇めて証しせず、自分自身の地位のために策略を巡らせ、自分を褒めそやす者は現在も同じままではないのか。彼らを救うことに何の価値があるというのか。救われるかどうかは、どれほど年長であるかや、何年間働いてきたかによって決まるものではなく、ましてやどれほどの経歴を積み重ねてきたかによって決まるものでもない。そうではなく、追求が実を結んだかどうかによるのである。救われる者は実を結ぶ「木」であり、葉が青々と茂り花を豊かに咲かせてはいても、実をつけない木ではない、ということを知りなさい。何年も街中をぶらついてきたからといって、何の意味があろうか。あなたの証しはどこにあるのか。あなたの神への畏敬の念は、自己愛や好色な欲望よりもはるかに小さい。このような人は堕落者ではないのか。そのような人が、どうして救いの見本、模範となれるというのか。あなたの本性は矯正のしようがなく、あなたはあまりに反逆的で救いようがない。そのような人は淘汰されるのではないのか。わたしの働きが終わるのは、あなたの終わりの日が到来するときではないのか。わたしはあなたがたのもとで多くの働きを行い、多くの言葉を語ってきたが、そのうちのどれほどが本当にあなたがたの耳に入ったのか。そのうちのどれほどに従ってきたのか。わたしの働きが終わるときは、あなたがわたしに対抗しなくなるときであり、わたしに立ち向かわなくなるときである。わたしが働いていても、あなたがたは常にわたしに逆らい、決してわたしの言葉に従わない。わたしはわたしの働きを行うが、あなたはあなたの「働き」をして、自分の小さな国を作り上げている。あなたがたは狐や犬の群れでしかなく、すべてをわたしに反抗して行なっている。そしていつも、自分を一心に愛してくれる者を自分の腕の中に引き入れようとしている。あなたがたの畏敬の念はどこにあるのか。あなたがたのすることはすべてが欺瞞である。従順も畏敬もなく、することはみな欺瞞と冒涜に満ちている。そのような人が救われることができるのか。性的にふしだらで好色な男はいつも、自分の楽しみのためにいやらしい淫らな女を惹きつけたがっている。わたしは絶対にそのような性的にふしだらな霊を救わない。わたしはあなたがたのような汚れた霊を憎み、あなたがたはその好色さといやらしさのため地獄に落ちる。何か言うことがあるか。あなたがたのような汚れた霊や悪霊は本当に不快で、気分が悪くなる。このようなくだらない者が、どうして救われることができようか。いまだに罪に陥っている者が、まだ救われることができるのか。今日、この真理、この道、このいのちはあなたがたを惹きつけない。その反面、あなたがたは罪深さや金や地位や名声や利益に、肉の楽しみに、男の格好良さや女の魅惑に惹きつけられている。あなたがたはどんな資格があって、わたしの国に入れるというのか。あなたがたの姿は神の姿より偉大で、地位は神の地位よりも高く、人々の間での威信は言うに及ばず、あなたがたは人に崇められる偶像となっている。大天使になったのではないのか。人の結末が明らかにされるときは、救いの働きが終わりに近づくときでもあり、あなたがたの多くは救いのない屍となっており、淘汰されなければならない。救いの働きのあいだ、わたしはすべての人に対して優しく善である。その働きが終わると、さまざまな種類の人の結末が明らかにされ、その時わたしはもはや優しくはない。人の結末が明らかになり、人はそれぞれ種類別に分類され、それ以上は救いの働きを行う意味がなくなるからである。なぜならそれで救いの時代は終わったことになり、終わった以上、戻ることはないからである。

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