日々の神の御言葉: いのちへの入り | 抜粋 425
実践において、戒めを守ることは真理の実践と結びつけるべきである。戒めを守りながら真理を実践しなければならないのである。真理を実践する際は、戒めの原則を破ったり、戒めに反した行動をとったりしてはならない。神が自分に求めることは何でも行なわなければならない。戒めの遵守と真理の実践は相…
神による各段階の働きには実質的な意義がある。イエスが来た時男性であったが、今回は女性である。このことから、神はその働きのために男と女の両方を造ったが、神には性の区別がないことがわかる。神の霊が来るとき、それは意のままにいかなる肉体でも持つことができ、その肉体が神を表す。男性であろうと女性であろうと、それが受肉した神である限り、どちらも神を表す。イエスが女として現れたとしても、つまり、男ではなく女の赤子が聖霊によって受胎されたとしても、その働きの段階はまったく同じように完成されたことであろう。もしそうなっていたならば、今回の働きの段階は女性ではなく男性によって完成されなければならず、それでも結局、働きはまったく同じように完成されることになる。両方の段階でなされる働きには意義がある。働きは繰り返されることはなく、お互いに矛盾することもない。その働きの際、イエスは神のひとり息子と呼ばれたが、それは男性であることを示している。それではなぜこの段階でひとり息子のことは言及されていないのか。それは、働きの必要性から、イエスの性とは異なる性へと変更せざるを得なかったためである。神に関しては性の区別はない。神の働きは神の望むようになされ、いかなる制限にも左右されることはなく、非常に自由であるが、各段階には実質的な意義がある。神は二度肉となったが、終わりの日の神の受肉が最後であることは言うまでもない。神はすべての業を明示するために来た。人が目撃できるように、今の段階で神が受肉して自ら働きを行わなければ、人は神は男性にだけなりえるが女性ではないという観念を永久に持ち続けているだろう。これまで、神は男性にだけなりえ、女性は神と呼ばれることはないとすべての人が信じていた。すべての人は男は女に対して権威を持つものとみなしていたからである。権威を持てるのは男だけで、女は誰も持つことはできないと人々は信じており、男は女のかしらであり、女は男に従わねばならず、男を超えることはできないとさえ言った。男は女のかしらであると過去に語られた時、それは蛇にだまされたアダムとエバに関して言われたことであって、初めにヤーウェによって造られた男と女に関してではなかった。男が家族を養えるようにならなければならないのと同様、女は夫に従い、愛さなければならないのはもちろんのことである。これらはヤーウェが示した律法と命令であり、人類は地上の生活において順守しなければならない。ヤーウェは女に「あなたは夫を慕い、彼はあなたを治めるであろう」と言った。こう言ったのは、人類が(すなわち男も女も)ヤーウェの支配下で正常に暮らすことができ、人類の生活が構造を持ち、秩序を失わないようにするためにだけである。従って、ヤーウェは男と女がどう行動するべきかに関する適切な規則を作ったが、この規則は地上に住むすべての創造物にのみ言及するもので、受肉した神に関するものではなかった。どうして神が自分の創造物と同じであり得ようか。神の言葉は創造物である人類にのみ向けられた。それらは人類が正常に暮らせるようにと男と女に対して示された規則であった。最初、ヤーウェが人類を創造したとき、男と女の両方を造った。従って、受肉した神も男性か女性のいずれかに区別された。神はアダムとエバに語った言葉に基づいて働きを決定したのではなかった。神が受肉した二回は、完全に神が人類を最初に造った時の考えに沿って決定された。すなわち、神はまだ堕落していなかった男性と女性に基づいて二回の神の受肉の働きを完成させた。蛇にだまされたアダムとエバにヤーウェが語った言葉を人が神の受肉の働きに適用したら、イエスも果たすべきこととして妻を愛さなければならなかったのではないだろうか。それでもやはり神は神なのだろうか。もしそうなら、神は働きを完成させることができるだろうか。受肉した神が女性であることが間違いならば、神が女を造った時も大きな間違いだったのではないだろうか。神が女性として受肉することが間違いだと人がまだ信じているなら、結婚をせず、したがって妻を愛することができなかったイエスの受肉も現在の受肉と同じように誤りではないだろうか。ヤーウェがエバに語った言葉を使って今日の神の受肉の事実を判定するのなら、恵みの時代に受肉した主イエスを評価するのに、ヤーウェがアダムに語った言葉を使わなければならない。これら二つは同じではないのか。蛇にだまされなかった男に基づいて主イエスを評価するのならば、今日の受肉の事実を蛇にだまされた女に基づいて判断することはできない。それは公正さに欠ける。そのような判断を下すならば、あなたは理性に欠けていることは明らかだ。ヤーウェが二度受肉した時、肉体の性は蛇にだまされなかった男と女に関連していた。神は蛇にだまされなかったそのような男と女に従って二度受肉した。イエスの雄性は蛇にだまされたアダムの雄性と同じだと考えてはいけない。イエスはアダムとはまったく関係がなく、彼らは本質の異なる二人の男性である。確かに、イエスが雄性を持っているからといって、イエスがすべての女だけのかしらであり、すべての男のかしらではないと証明することにはならないのではないか。イエスは全ユダヤ人(男も女も含む)の王ではないのか。イエスは神自身であり、女だけのかしらでなく、男のかしらでもある。イエスはすべての被造物の主であり、すべての被造物のかしらである。どうしてイエスの雄性が女のかしらであることの象徴だと決めることができようか。これは神への冒涜ではないだろうか。イエスは堕落しなかった男性である。イエスは神であり、キリストである。イエスは主である。どうしてイエスが堕落したアダムのような男性でありえようか。イエスはもっとも聖なる神の霊が身に着けた肉体である。どうしてイエスはアダムの雄性を持つ神であるなどと言えようか。それではこれまでの神の働きはすべて間違っていたことになるのではないか。ヤーウェはだまされたアダムの雄性をイエスの中に組みこむことができたのだろうか。現在の受肉は、性はイエスと異なっていても、本質は同様な受肉した神の別の働きなのではないか。それでもまだ受肉した神は女性ではありえない、なぜなら蛇に最初にだまされたのは女だからだとあえて言うのか。女は最も不潔で、人類の堕落の発端なのだから、神が女性として受肉することなど到底ないとまだあえて言うのか。「女はいつも男に従うべきで、決して神を明らかにしたり、直接象徴したりしてはならない」とまだあえて言うのか。あなたは過去に理解しなかった。今でもなお神の働き、とりわけ受肉した神を冒涜できるのか。このことをはっきり理解できないならば、自分の愚かさや無知が明らかにされ、醜さが暴露されないよう、発言にはせいぜい気をつけなさい。自分がすべてを理解していると考えてはいけない。あなたがこれまで目にし、経験してきたことは、すべてわたしの経営計画の千分の一を理解するのにさえ十分ではないとわたしは言う。ではなぜそんなに傲慢なのか。あなたの持っているほんのわずかな才能と最小限の認識では、イエスの働きの一秒に使用するのにさえ不十分である。あなたは実際どれほどの経験を持っているのか。あなたが生涯で見てきたもの、耳にしてきたすべて、想像してきたことは、わたしが一瞬で行う働きより少ない。あら探しをしたり、欠点をみつけたりしないほうがよい。どんなに傲慢でも、あなたはまだアリ以下の被造物なのだ。あなたの腹の中にあるすべては、アリの腹の中にあるすべてよりも少ない。自分が多くを経験し、先輩になったので、思うがままの横柄さで語り、行動してもよいと考えてはならない。あなたの経験があり、先輩であるのは、わたしが発した言葉の結果ではないのか。自分がコツコツ働いた結果、それらを獲得したと信じているのか。今日、あなたはわたしの受肉を見て、その結果、たっぷりと観念を持ち、そこから数え切れないほどの勝手な考えが出て来る。わたしの受肉がなかったら、あなたの才能がどんなに並外れたものであっても、これほどの観念を持つことはないだろう。勝手な考えが生まれるのはここからではないのか。イエスの初めて受肉がなければ、あなたは受肉について何を知っているだろうか。あなたが二度目の受肉を厚かましくも大胆に批判するのは一度目の受肉を知っているからではないのか。いったいなぜ素直に従う代わりに細かく調べなければならないのか。あなたはこの流れに入り、受肉した神の前に来た。どうしてあなたに研究することが許されようか。あなたが自分の家族史を研究するのは結構なことだが、神の「家族史」を研究するなら、今日の神はあなたがそうすることをどうして許せようか。あなたは盲目ではないのか。あなたは自ら屈辱を受けようとしているのではないのか。
『神の出現と働き』「二度の受肉が、受肉の意義を完成させる」(『言葉』第1巻)より
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実践において、戒めを守ることは真理の実践と結びつけるべきである。戒めを守りながら真理を実践しなければならないのである。真理を実践する際は、戒めの原則を破ったり、戒めに反した行動をとったりしてはならない。神が自分に求めることは何でも行なわなければならない。戒めの遵守と真理の実践は相…
人が神に信仰を持つ上での最大の過ちは彼の信仰が言葉だけであり、実生活の中に全く神が存在していないということである。確かに、人は神の存在を信じているが、神は人の日常生活の一部ではない。人の口からは神への多くの祈りが聞かれるが、人の心には神が存在する場所はほとんどなく、神は幾度も人を…
神の言葉を日々読み、場合によっては代表的な言葉を、最も貴重な財産として注意深く覚えようとしたり、その上随所で神の言葉を説教して言葉という手段で他者に備えを与え、援助することさえする人々が大勢居る。この種の人々は、こうした行動が神や神の言葉に対して証しすることであり、神の道に従うも…
マタイによる福音書 12:1 そのころ、ある安息日に、イエスは麦畑の中を通られた。すると弟子たちは、空腹であったので、穂を摘んで食べはじめた。 マタイによる福音書 12:6-8 あなたがたに言っておく。宮よりも大いなる者がここにいる。「わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえ…