日々の神の御言葉: 終着点と結末 | 抜粋 599

全然信仰心のない子供、親戚を教会の中に引き込む人たちは、自己中心的すぎ、親切心を示している。このような人たちは、彼らが信じるかどうかあるいはそれが神の意志であるかどうかを考慮せず、愛だけを強調する。一部の人たちは、彼らの妻を神の前に引っ張ってきたり、父母を神の前に引っ張ってきたりする。聖霊が同意しているかどうかあるいは聖霊が彼の働きを遂行しているかどうかに関わらず、彼らは盲目的に神のために「才能ある人材を募集する」。このような信じない人にまでこんな親切心を広げることから何の益が得られるのか。聖霊の臨在がないこれらの不信仰派たちが、しぶしぶながら神につき従っても、人が想像するように救われることができるものではない。救われる人はそんなに簡単に得られるものではない。聖霊の働きと試練を経験せず、また肉となった神に完全にされなかった人は、絶対に完全にされることができない。だから、このような人々は神に名目上つき従い始めた時から聖霊の臨在がない。彼らの状況と実際の状態では、彼らは全く完全にされることができない。実際、聖霊も彼らに対してそんなに多くの精力を費やすつもりがなく、またいかなる啓きあるいは導きをも、どんな形でも、与えない。ただ彼らにつき従わせるだけであり、最後になって彼らの結末を明らかにすればいい。人の熱狂や、意志はサタンから来る。したがって、彼らは、聖霊の仕事を決して成就することができない。どんな種類の人であっても、聖霊の働きを持たねばならない。人が人を完全にすることができるのか。なぜ夫は彼の妻を愛するのだろうか。また、なぜ妻は夫を愛するのだろうか。なぜ、子供たちは父母に孝行するのだろうか。また、なぜ父母は子供たちをかわいがるのだろうか。人々はどんな意図を心に宿しているだろうか。すべて自分の目的を達成し、自分の私欲を満足させるためではないだろうか。本当に神の経営計画のためだろうか。神の仕事のためだろうか。被造物の本分を果たすためだろうか。最初は神を信じそして聖霊の臨在を得ることができなかった人は、絶対に聖霊の働きを得ることができない。このような人たちが滅ぼされるのはすでに決定事項である。人が彼らに対してどれだけ多くの愛を持っていても、それは聖霊の働きに取って代わることはできない。人の熱心と愛はみな人の意志を代表するのであって、神の意志を代表することができず、神の仕事に取って代わることもできない。名目上神を信じ神に従う振りを装うが神を信じるとは何かを知らないような人々に、たとえ最大限の愛や憐れみを拡張しても、彼らはやはり神の共感を得ないあるいは聖霊の働きを得ないのである。たとえ誠意をもって神に従う人が、素質がとても劣っていて多くの真理を理解することができなかったとしても、彼らはやはり、時折、聖霊の働きを得ることは可能である。しかし、素質はかなりいい方ではあるが、心から信じない人たちは、全く、聖霊の臨在を得ることはできない。このような人々においては、救われる余地が全くない。たとえ本を読み、或いはたまにはメッセージを聞き、或いは歌って神を賛美するとしても、最後には、彼らは、安息の中で生きることができない。人が心から追い求めているかどうかは、他の人が彼らをどう評価するかによってあるいは、周りの人が彼らのことをどう見るかによって決まるのではなく、聖霊が彼らの上で働くかあるいは彼らに聖霊の臨在があるかどうか、によって決められる。さらにそれは、一定の期間の聖霊の働きを経験した後、彼らの性質が変化したかどうかと彼らが神についての知識をもっているかどうかによって、なおさら、決められる。もし聖霊の働きがある人の上にあれば、この人の性質は次第に変化し、彼らの神を信じる観点もますます純粋になるのである。人が神につき従った時間が長くても短くても、彼らが変化を経験したならば、このことは、聖霊が彼らの上に働いていることを意味する。もし彼らが変化しなかったなら、このことは、聖霊が彼らの上に働いていないことを意味する。たとえ、このような人が何らかの奉仕を差し出しても、彼らは幸運を得ようとする意図に駆られている。たまに仕えることでは、彼らの性質の変化の代わりをつとめることができない。最後には、彼らはやはり滅ぼされる。なぜなら、神の国の中には奉仕を差し出す者に対する需要はなく、完全にされかつ神に忠実な人たちに役立つように自らの性質を変えなかった人への需要も全くないからである。過去から言われている言葉、「一人が神を信じれば、全家族が祝福される」は、恵みの時代に適していたのであり、人の終着点とは関係がない。この言葉はただ恵みの時代の一段階だけに適していたのである。この言葉の真意は、ただ人が享受する平安と物質的な祝福を指して言ったのである。それは、一人が主を信じれば全家族が救われるということではなく、一人が祝福を受けると全家族が彼に安息の中に連れられるということでもない。人が祝福を受けるか、それとも災いを受けるかは、自分自身の本質によって決まるのであって、ほかの人と共有する共同の本質によって決まるのではない。神の国の中には全然こういう言い方あるいはこういう規定がない。人が最後に生き残ることができるのは、彼が神の要求を満たしたからである。人が安息の時代を生き残ることができないのは、彼自身が神に背き、神の要求を満足させることができなかったからである。どの人にもふさわしい終着点がある。この終着点は各人の本質によって決まるのであり、ほかの人とは全然関係がない。子供の悪行は父母に移されることはできないし、加えられることができず、子供の義も父母と共有することはできない。父母の悪行は子供に移されることはできず、父母の義も子供が父母と共有することはできない。すべての人が各々の罪を担い、すべての人が、各々の幸運を享受する。だれもほかの人の代わりをすることができない。これが義である。人の世界は、父母が幸運を得れば子供も幸運を得ることができ、子供が悪を行えば父母がその罪に対して償わなければならない。これは人の見地であり、人の物事のやり方である。それは神の見地ではない。どの人の結末も彼の行ったことからくる本質によって定められるのであり、しかもそれはみな適切に定められるのである。どの人も他人の罪を担うことができない。なおさら他人の代わりに懲罰を受けることができず、これは絶対的なことである。父母が子供をかわいがるが、彼らの子供代わりに義を行うことができず、子供が親に孝行するが、父母の代わりに義を行うことはできない。これは「ふたりの者が畑にいると、ひとりは取り去られ、ひとりは取り残されるであろう。ふたりの女がうすをひいていると、ひとりは取り去られ、ひとりは残されるであろう」という言葉の背後にある真の意味である。子供をとても愛するがゆえに、悪を行う子供を安息の中に連れていくことができる者は一人もおらず、義を行うがゆえに自分の妻(或いは夫)を安息の中に連れていくことができる者も一人もいない。これは神の定められた規定であり、いかなる人も例外にはできない。義を行う者はつまるところ義を行う者であり、悪を行う者はつまるところ悪を行う者である。義を行う者はつまるところ生き残ることができ、悪を行う者は滅される。聖なる者は聖なる者である。彼らは汚れた者ではない。汚れた者は汚れた者であって、聖なる要素が少しもない。不道徳者はすべて滅ぼされる。義人はすべて生き残る。悪を行う人の子供が義を行う者であっても、義人の父母が悪を行う者であっても。信仰深い夫と不信仰な妻はもともと関係がなく、信仰深い子供と不信仰な父母はもともと関係がない。彼らは相容れない二種類の人である。安息の中に入る前に人には肉親があるが、ひとたび安息の中に入ると、もはや語るべき肉親はなくなる。本分を尽くす者と、本分を尽くさない者はもともと敵であり、神を愛する者と、神を憎む者はもともと敵対する者であり、安息の中に入る者と、滅ぼされる者は相容れることのできない二種類の被造物である。本分を尽くす被造物は生き残ることができ、本分を尽くさない被造物は滅ぼされる。もっと重要なこととして、これは永遠に続く。あなたが夫を愛するのは被造物の本分を尽くすためだろうか。あなたが妻を愛するのは被造物の本分を尽くすためだろうか。あなたが自分の不信仰者の父母に孝行するのは被造物の本分を尽くすためだろうか。神を信じることに関して人の見解は正しいだろうか、そうでないだろうか。なぜあなたは神を信じるのだろうか。あなたはいったい何を得ようとするのだろうか。あなたはいったいどのように神を愛しているのだろうか。もし被造物の本分を果たすことができず、自分の全力を尽くすことができないような者がいるなら、彼は滅ぼされる。今日、人々は、血の繋がりだけでなくお互いの間にはまだ肉の関係があるが、今後これは完全に打ち破られる。信じる者と信じない者はもともと相容れないのであり、敵対する。安息の中の人はみな神の存在を信じる者であり、神に従順な者である。神に不従順な人々は完全に滅ぼされてしまう。地上にはもう家族がなくなる。それでは、どうして父母があるだろうか、どうして子供があるだろうか、どうして夫婦関係があるだろうか。信仰と不信仰の間にはまさにこの相反性が、このような肉の関係を切断してしまうのである。

『神の出現と働き』「神と人は共に安息へと入る」(『言葉』第1巻)より

神は人の結末をその人の本質によって決定する

人が最終的に生存できるのは、彼らが神の要求を達成したからだ。しかし最後の安息の中に生きられないなら、それは神に不従順で神を喜ばせることが出来ないからだ。子供の悪や義を、親へ転嫁することはできない。又、親の悪や義を子と分かち合うことは出来ない。人それぞれに価する終着点がある。それは人の本質によって決定される。その終着点は他人とは関係ない。

人それぞれの罪と祝福を他人と交換することは出来ない。もし義を行うなら、その人は正しく、もし悪を行うなら、その人は悪を為す者だ。義を行う者は必ず生き残り、悪を行う者には破滅が待っている。人が聖なる者なら、その人には、しみが一つもない。けがれた者には、聖いところが一つもない。人それぞれに価する終着点がある。それは人の本質によって決定される。その終着点は他人とは関係ない。

たとえ悪を為す者の子が正しく、正しい人の親が邪悪であっても、邪悪な人びとは破滅すべきで、正しい人びとには生存が待っている。夫は信じ、妻が信じなくても、子供は信じ、親が信じなくても、そこには何の関係もない。それらは相容れない二つのタイプである。人それぞれに価する終着点がある。それは人の本質によって決定される。その終着点は他人とは関係ない。

だから人が安息に入る前に、その周りには肉親がいる。しかし一度安息に入ると、言及すべき肉親はいない。人が本分を尽くせば、その人は尽くさない人にとって敵となる。神を愛する者は神を憎む者の敵である。そして安息に入る者は、滅ぼされる者とは相容れない。人それぞれに価する終着点がある。それは人の本質によって決定される。その終着点は他人とは関係ない。

『小羊に従って新しい歌を歌おう』より

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