神の宿る肉の本質 (後半)

イエスがその働きをする以前、イエスはただ普通の人間として生きた。誰一人、イエスが神であるとはわからなかったし、誰一人、イエスが受肉した神であることを気付かなかった。人々はただ、どこから見ても普通の人間としてイエスを知っていた。イエスのまったく平凡な普通の人間性は、神が受肉して人間の肉の形になっていたことと、恵みの時代は受肉した神の働きの時代であり、霊の働きの時代ではないことの証拠であった。これは、神の霊が完全に肉において現れたこと、神が受肉した時代には、肉の体が霊の働きをすべて行うことの証拠であった。普通の人間性をもつキリストは、霊が顕現した肉体であり、普通の人間性、普通の理知、そして人間的思考をもっていた。「顕現」とは神が人間となること、霊が肉となることである。わかりやすく言えば、神自身が普通の人間性をもつ肉に宿るということで、それによって神性の働きを表す──これが顕現、または受肉の意味である。最初の受肉の間、神が病人を癒し、悪霊を祓うことが必要だったのは、神の働きが、贖うことだったからである。全人類を贖うためには、神は憐れみをもって赦す必要があった。イエスが十字架につけられる前にした働きは、病者を癒やし、悪霊を祓うことだったが、これは、人間を罪と穢れから救うことを予め告げるものであった。これは恵みの時代だったため、イエスが病者を癒やし、しるしや不思議を示す必要があった。これがその時代の恵みを表すものであった。恵みの時代が、人々のイエスへの信仰の象徴である平和と喜び、物質的幸いに象徴される恵みを施すことを中心としていたためである。これはつまり、病者を癒し、悪霊を祓い、恵みを与えることが、恵みの時代のイエスの肉に生まれながらに備わった能力だったということで、それが肉の形で現れた霊の働きであったのだ。しかし、イエスはそうした働きをしている間、肉の体で生きており、肉を超越してはいなかった。どのような癒やしのわざを行っても、イエスは普通の人間性を備え、まだ普通の人間として生きた。神の受肉した時代、肉が霊の働きのすべてを行ったとわたしが言うのは、イエスがどのような働きをしようと、それは肉の内で行ったということである。しかし、その働きのため、人々はイエスの人間の体が完全に肉体的な本質をもつとは考えなかった。それは、この肉の体は奇跡を行うことができ、特別な場合には、肉を超越することができたからである。もちろん、こうしたこと、例えば四十日間試されたことや、山上の聖変容はみな、イエスがその職分を始めた後に起こったことだ。だから、イエスにおいては神の受肉の意義は完了しておらず、部分的に成就されただけであった。働きを始める前、イエスが肉において送った生活は、どの点から見ても、まったく普通のものであった。働きを始めた後、イエスは人間の外形だけを保った。イエスの働きは神性の現れだったので、通常の肉の機能を超えていた。結局のところ、神の受肉した肉は生身の人間とは違ったのである。もちろん、日々の生活では、他のみなと同じように食物や衣服、睡眠、住まいを必要とし、あらゆる普通の必需品を必要とし、普通の人間のように思考し、判断した。人々はそれでも、イエスの行った働きが超人的であったということ以外では、イエスを普通の人間と見た。実際、イエスは何をしていても、普通の正常な人間性において生きており、働きをするときもその理知はごく正常なもので、その思考は他の通常の人間以上に明瞭であった。受肉した神は、このように考え判断する必要があった。きわめて通常の理性を備え、思考が明瞭な人が神の働きを表す必要があったからである。そうしてはじめて、神の肉は神性の働きを表すことができたのである。この世に生きた三十三年半の期間を通じて、イエスは普通の人間性を保っていたが、三年半の職分の間に行った働きのせいで、人々はイエスがきわめて超越的で、それ以前よりはるかに超常的であったと思った。実際は、イエスの人間性は働きを始める前も後も変わらなかった。イエスの人間性はずっと同じであった。しかし、働きを始めた前と後の相違のために、イエスの肉について二つの異なった見方が生じた。人々が何を考えようと、受肉した神はずっと元々の普通の人間性を保っていた。神は受肉して以来、肉において生きたが、その肉は普通の人間性をもっていたのだから。イエスがその働きをしようとしまいと、その肉の人間性は除くことができなかった。人間性は肉の基本的な本質だからである。イエスが職分を果たし始める前、イエスの肉は完全に普通のままで、あらゆる普通の人間的活動をした。イエスは少しも超常的な様子を示さず、奇跡的なしるしを何も見せなかった。当時、イエスはただ神を崇めるごく普通の人間であった。その信仰は他の誰よりも正直で、真摯なものであったが。イエスのまったく普通の人間性はこのように現れていた。イエスは職分を果たし始める前はまったく働きをしなかったから、誰一人、イエスの身分に気付かなかった。誰もイエスの肉が他の人々のそれと違うとはわからなかった。イエスは、たった一つの奇跡も起こさず、神自身の働きを少しもしなかったからである。しかしながら、職分を果たし始めたとき、イエスは普通の人間の外形を保ち、まだ、普通の人間の理知をもって生活していた。しかし、神自身の働きを始め、キリストとしての務めを果たし、死すべき存在である生身の人間にはできない働きをしたため、人々はイエスには普通の人間性がなく、体は完全に普通の人間のものではなく、不完全な肉体なのだと思い込んだのである。イエスの行った働きのため、人々はイエスが人間の体をもつ神であり、普通の人間性はもたないのだと言った。これは誤った考えだ。人々は神の受肉の意味を理解していなかったのだから。この誤解は、神が受肉して行った働きが、普通の人間性をもつ肉の体において表された神性の働きだったからである。神は肉をまとい、肉の内に生きた。その神の人間性の中での働きが、その普通の人間性を曖昧にした。そのため、人々は神には人間性がなかったのだと信じたのである。

最初の受肉では、神は受肉の働きを完了しなかった。神が肉においてするべき働きの最初の段階を完了しただけである。だから、受肉の働きを完了するために、神は再び肉の体に戻り、肉体のもつすべての正常性と現実を生きている。つまり、神のことばが完全に普通の平凡な肉の体として現れ、それにより、肉においてやり残した働きを完了しようというのである。二度目に受肉をした体は、本質的には最初と変わらないが、もっと現実的で、最初よりもさらに普通なものだ。その結果、第二の受肉の苦しみは最初のそれよりも重いのだが、この苦しみは肉における働きの結果であって、堕落した人間の苦しみとは異なる。これはまた、神の肉の体の普通さと現実から生じている。神が完全に普通かつ現実の肉体で職分を行うため、肉の体は多くの困難に耐えなければいけない。この肉の体が普通で現実のものであればあるほど、神はその職分を果たすために苦しむ。神はごく普通の体、まったく超自然的でない体で働く。神の肉は普通で、人間を救う働きをも担わなければいけないので、その苦しみは超自然の肉よりもはるかに大きい──この苦しみはみな、神の体の現実と正常さから来ている。受肉した二つの体が職分を果たしていたときに受けた苦しみから、受肉した肉の本質がわかる。肉体が普通であればあるほど、働きを行う間、それだけ大きな苦難を神は耐えなければならない。働きをする肉体が現実的であればあるほど、人々の見方は厳しくなり、それだけ多くの危険が神にふりかかることになりがちである。それでも、肉が現実的であればあるほど、肉が普通の人間の必要と完全な理知をもっているほど、肉における働きを神はみごとに取り組むことができる。十字架につけられたのはイエスの肉、罪のための捧げ物としてイエスが捧げた肉体である。普通の人間性をもつ肉体という手段によってイエスはサタンに勝利し、人間を完全に十字架から救った。そして、神の二度目の受肉では、征服の働きを行いサタンを打ち負かすのは完全な肉の体なのである。完全に普通で現実的な肉だけが征服の働きをその全体におよんで行い、力強い証しを示すことができる。つまり、人間征服の働き[a]は、受肉した神の現実性と正常さによって効果的になるのであって、超常的な奇跡や啓示によるのではない。この受肉した神の職分は、話すことであり、それによって人間を征服し、完全にすることにある。つまり、肉として現れた霊の働き、肉の務めは、話すことで、それによって人間を征服し、顕示し、完全にし、淘汰することである。だから、肉における神の働きが完全に達成されるのは、征服する働きにおいてである。最初の贖いの働きは、受肉の働きの始まりに過ぎなかった。征服の働きをする肉は、受肉しての働きを完了させるであろう。性別では、一度目は男、二度目は女。これにより神の受肉の意味が完了する。これは人間の神についての誤解を取り除く。神は男にも女にもなれる。受肉した神には本質的に性別はない。神は男と女を創ったが、性による差別化はしていない。この段階の働きでは、言葉という手段によって働きの成果があらわれるように、神はしるしや不思議を行わない。さらに、今回受肉した神の働きは病人を癒し、悪霊を祓うことではなく、話すことによって人間を征服することで、これは、受肉した神の肉体が本来備えている能力が、言葉を話して人間を征服するというものであって、病人を癒やし、悪霊を祓うためのものではないということである。普通の人間性における神の働きは奇跡を行うことではなく、病人を癒し、悪霊を祓うことはなく、話すことである。だから、第二の受肉をした体は、最初の時よりずっと普通のものに見える。人々は神の受肉が嘘ではないとわかっているが、この受肉した神はイエスの受肉とは異なっている。どちらも神の受肉ではあるが、完全に同じではない。イエスは普通の人間性、平凡な人間性をもっていたが、多くのしるしや不思議を伴っていた。この受肉した神においては、人間の目には、しるしや不思議は何も見えず、病者を癒すことも、悪霊を祓うことも、海の上を歩くことも、四十日間の断食もない。神はイエスがしたのと同じ働きは行わない。それは神の肉が本質的にイエスのものとどこか異なるからではなく、病者を癒したり悪霊を祓うことは、神の職分ではないからである。神は自分の働きを取り壊すこともなければ、自分の働きを妨げたりはしない。神はその実際の言葉で人間を征服するのだから、奇跡で屈服させる必要はない。そして、この段階は受肉の働きを完了するためにある。あなたが今日見る受肉した神は完全な肉の体であって、超自然的な要素は何もない。神は完全に肉の体なのだから、他の人々同様、病気になるし、他の人々同様、食物や衣服を必要とする。今回、受肉した神が超自然のしるしや不思議を見せたなら、病者を癒し、悪霊を祓ったなら、あるいは一言で殺すことができたなら、どうして征服の働きを行えるであろうか。どうして異邦人の国々で働きを広められるであろうか。病人を癒やし、悪霊を祓うのは、恵みの時代の働き、贖いの働きの第一歩であったが、神が人間を十字架から救った今となっては、もはやその働きを神は行わない。もし終わりの日に病人を癒やし、悪霊を祓い、人間のために十字架につけられたイエスと同じ「神」が現れたなら、その「神」は聖書の神の記述と同じで、人間には受け入れ易いであろうが、本質的に、それは神の霊が人間の肉をまとったものではなく、悪霊によるものであろう。すでに成就した働きは二度と繰り返さないのが神の原則だからである。したがって、神の二度目の受肉による働きは、最初の働きとは異なっている。終わりの日には、神は普通の正常な肉体で征服の働きを実現する。神は病人を癒やさず、人間のために十字架につけられることもなく、ただ肉の体で言葉を話し、肉において人間を征服する。このような肉のみが神の受肉された体である。こうした肉の体だけが、神の肉における働きを完了できる。

この段階で受肉した神が困難を経験していようが、職分を果たしていようが、神は受肉の意味を完了するためにそうしているのである。これが神の最後の受肉だからである。神は二回だけ受肉することができる。三度目はありえない。最初の受肉は男性で、二度目は女性であり、そこで神の受肉した姿は人間の心の中で完全になる。さらに、二回の受肉により、すでに肉における神の働きは終わっている。一度目、受肉した神は、受肉の意味を完了するために普通の人間性を備えていた。今回も神は普通の人間性を備えているが、この受肉の意味は異なっている。もっと深く、その働きにはより深い意義がある。神が再び受肉した理由は、受肉の意味を完了するためである。神がこの段階の働きを完全に終えると、受肉の意味のすべて、つまり、肉における神の働きは完了し、もはや肉において行う働きはない。つまり、これ以後は、神が働きをするために受肉することは二度とないのである。人間を救って完全にするためにだけ、神は受肉の働きをする。つまり、神が受肉して来るのは、働きのため以外では普通のことではないのである。働きのために受肉することで、神はサタンに自分が肉体になっていること、正常な普通の人間であることを示し、それでも勝利を誇りつつ世界に君臨し、サタンを打ち破り、人間を贖い、人間を征服できることを示すのである。サタンの働きの目的は人間を堕落させることだが、神の目的は人間を救うことである。サタンは人間を底なしの淵に捕らえるが、神はそこから人間を救う。サタンはすべての人間に自分を崇めさせるが、神は人間を自分の支配下に置く。神は創造の主であるからである。この働きはみな、神の二度の受肉で達成される。神の肉は本質的に人間性と神性の一体化したもので、普通の人間性を備えている。だから、神の受肉した肉なしでは人間を救う際にこれらの成果を達成することはできず、肉の普通の人間性なしでは肉における神の働きは成功しない。神の受肉の本質は、神が普通の人間性をもたなければいけないということである。そうでなければ、受肉する本来の意図に反することになる。

なぜわたしは、受肉の意味がイエスの働きで完了しなかったと言うのであろうか。それは、ことばが完全に肉の体にならなかったからである。イエスがしたことは、神の肉の体での働きの一部分だけであった。イエスは贖いの働きだけを行い、完全に人間を得る働きはしなかった。そのため、神は終わりの日に再度受肉したのである。この段階の働きはまた、普通の人間の体で、すっかり通常の人間によって、その人間性が少しも超越的でない存在によって行われる。つまり、神は完全な人間になったのであり、身分は神である人、完全な人間、完全な肉の体が働きをする。人間の目には、神はまったく超越的ではない、ただの人間に見える。ごく普通の人物で天の言葉を話すことができ、奇跡的なしるしは何も見せず、何の奇跡も行わず、まして、大きな集会場で宗教についての内的な真理を明らかにしたりはしない。第二の受肉の働きは、人々には最初のものとはまるで違って見える。あまりに違うので、二つには何の共通点もないように見える。最初の働きのようなことは、今回は何も見られない。第二の受肉の働きは最初のものとは異なっているが、それは両者の源が同一ではないということではない。同じかどうかは、肉の体で行われる働きの性質によるのであって、外形によるのではない。三段階の働きの間に神は二度受肉し、いずれのときも受肉した神は新たな時代を開き、新しい働きをもたらした。二度の受肉は相補うのである。人間の目では、二つの肉の体が同じ源から来ていると見極めることは不可能である。言うまでもなく、これは人間の目や心の能力を超えている。しかし、両者の本質は同じである。二人の働きは同じ霊に発しているからである。受肉した二つの体が同じ源から発しているかどうかを判断できるのは、二人の生まれた時代と場所やそのような他の要素によるのではなく、二人の表す神性の働きによるのである。第二の受肉による体はイエスの行った働きは何も行わない。神の働きに慣習的な決まりはなく、それぞれが新たな道を開くからである。第二の受肉は最初の肉に関する人々の心にある印象を深めも固めもしないが、それを補い、完成させ、神についての人間の認識を深め、人々の心にある、あらゆる規則を破り、人々の心にある神についての誤った姿を消し去る。神自身の働きのどの段階も個別には、人間に神についての完全な認識を与えることはできないと言える。各段階は、全部ではなく、一部分だけを与えるのである。神はその性質を完全に示したが、人間の理解力が限られているため、神についての認識はまだ不完全なままである。人間の言語で神の性質を完全に言い表すのは不可能である。まして、神の働きの一段階だけで、どれほど完全に神を表せるだろうか。神は普通の人間性の陰に隠れて肉において働く。そして、その神性が現れてはじめて、人間は神を知ることができるのであり、その外見を見てのことではない。神はさまざまな働きを通して人間が神を知ることができるように受肉するのだが、働きの二段階は同じではない。このようにしてはじめて、人間は肉における神の働きについて、一つの面だけでなく、完全な認識をもてる。受肉しての二度の働きは別々のものだが、肉の本質とその働きの源は同一である。ただ、どちらも二つの異なった段階の働きをするために存在し、二つの別の時代に来るということである。いずれにしろ、受肉した神の肉は同じ本質と由来をもつ。これは誰も否定できない真理である。

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