日々の神の御言葉: 終わりの日における裁き | 抜粋 78
「裁き」という言葉を聞けば、ヤーウェがあらゆる場所に向けて語った言葉と、イエスがパリサイ人に語った非難の言葉を思い浮かべるだろう。こうした言葉は非常に厳しいものだが、神の人に対する裁きの言葉ではない。こうした言葉は、いろいろな状況、つまりそれぞれ異なる背景で神が語った言葉にすぎず…
この段階で受肉した神が困難を経験していようが、職分を果たしていようが、神は受肉の意味を完了するためにそうしているのである。これが神の最後の受肉だからである。神は二回だけ受肉することができる。三度目はありえない。最初の受肉は男性で、二度目は女性であり、そこで神の受肉した姿は人間の心の中で完全になる。さらに、二回の受肉により、すでに肉における神の働きは終わっている。一度目、受肉した神は、受肉の意味を完了するために普通の人間性を備えていた。今回も神は普通の人間性を備えているが、この受肉の意味は異なっている。もっと深く、その働きにはより深い意義がある。神が再び受肉した理由は、受肉の意味を完了するためである。神がこの段階の働きを完全に終えると、受肉の意味のすべて、つまり、肉における神の働きは完了し、もはや肉において行う働きはない。つまり、これ以後は、神が働きをするために受肉することは二度とないのである。人間を救って完全にするためにだけ、神は受肉の働きをする。つまり、神が受肉して来るのは、働きのため以外では普通のことではないのである。働きのために受肉することで、神はサタンに自分が肉体になっていること、正常な普通の人間であることを示し、それでも勝利を誇りつつ世界に君臨し、サタンを打ち破り、人間を贖い、人間を征服できることを示すのである。サタンの働きの目的は人間を堕落させることだが、神の目的は人間を救うことである。サタンは人間を底なしの淵に捕らえるが、神はそこから人間を救う。サタンはすべての人間に自分を崇めさせるが、神は人間を自分の支配下に置く。神は創造の主であるからである。この働きはみな、神の二度の受肉で達成される。神の肉は本質的に人間性と神性の一体化したもので、普通の人間性を備えている。だから、神の受肉した肉なしでは人間を救う際にこれらの成果を達成することはできず、肉の普通の人間性なしでは肉における神の働きは成功しない。神の受肉の本質は、神が普通の人間性をもたなければいけないということである。そうでなければ、受肉する本来の意図に反することになる。
『神の出現と働き』「神が宿る肉の本質」(『言葉』第1巻)より
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「裁き」という言葉を聞けば、ヤーウェがあらゆる場所に向けて語った言葉と、イエスがパリサイ人に語った非難の言葉を思い浮かべるだろう。こうした言葉は非常に厳しいものだが、神の人に対する裁きの言葉ではない。こうした言葉は、いろいろな状況、つまりそれぞれ異なる背景で神が語った言葉にすぎず…
わたしが語るすべての文は権威と裁きを備えており、誰もわたしの言葉を変えることはできない。わたしの言葉が発せられると、物事は間違いなくその言葉に従って成し遂げられる。それがわたしの性質である。わたしの言葉は権威であり、それを改変する者は誰であれわたしの刑罰に背いているため、打ち…
当時、イエスの働きは全人類を贖う働きだった。イエスを信じるすべての人の罪は赦され、あなたがイエスを信じる限り、イエスはあなたを贖っただろう。イエスを信じるなら、もはや罪人ではなく、罪から解放されたのである。これが救われるということ、信仰によって義とされるということである。しかし、…
人が地上で真の生活を達成すると、サタンの全勢力は縛られ、人は地上で楽に生きることになるだろう。物事は今日ほど複雑ではなくなるだろう。人間関係、社会関係、複雑な家族関係など…それらは厄介で、本当に苦しい。ここでの人の一生はとてもみじめである。人が一旦征服されると、彼の心と精神は変わ…