日々の神の御言葉: いのちへの入り | 抜粋 448

2020年9月1日

人間が本分を尽くすということは、実際のところ、人間に本来備わっているもの、即ち、人間に可能なことをすべて成し遂げることである。すると、人間は自分の本分を尽くしたことになる。奉仕する最中の人間の欠点は、徐々に経験を積むことと裁きを体験する過程を通して少しずつ減少する。それらは人間の本分を妨げることも影響することもない。奉仕の最中に露わになるであろう欠点を恐れて、奉仕をやめたり妥協したり退いたりする者たちは、すべての人々の中で最も臆病な者たちだ。もし人間が奉仕する中で表明すべきことを表明できず、人間として本来可能なことを成し遂げず、のらくらし、形だけ奉仕しているふりをするならば、その人は被造物が本来備えているはずの役割を失ったのだ。こうした人間は凡庸なくだらない者で、無用の長物であるとみなされる。どうしてこんな者が被造物としての尊厳に値するのか。彼らは、外見は立派でも中身は腐った、堕落した存在ではないのか。人間が自分を神と称しながらも、神性を示し、神自身の働きをし、あるいは神を代表することができないなら、それは間違いなく神ではない。というのは、その人には神の本質がなく、神が本来成し遂げ得ることがその人の内にはないからである。もし人間が人間として本来達成可能なことを失うなら、その人はもはや人間とはみなされない。その人は被造物として存在し、神の前に来て神に仕える資格はない。さらに、そんな者は神の恵みを受け、神に見守られ、保護され、神によって完全にされる資格はない。神の信頼を失った多くの者は、いずれ神の恵みを失う。そうした人々は、自分たちの悪行を恥ないどころか、ずうずうしくも神の道が間違っているという考えを言い広める。そして、そのような反抗的な者たちは、神の存在を否定することさえする。どうしてそのような反抗的な人間が神の恵みを享受する特権をもてよう。自分の本分を果たすことのできない人間は、神に対して極めて反抗的で、多くを神に負っている。それにもかかわらず、彼らは反対に、神が間違っていると激しく非難する。そうした人間がどうして完全にされるに値するのか。これでは、神に取り除かれ、罰される一歩手前ではないのか。神の前で自らの本分を果たさない者は、すでに最も憎むべき罪を犯している。その罪には死さえも充分な罰ではない。しかし、人間はずうずうしくも神に反論し、自らを神に比べるのだ。そんな人間を完全にする値打ちがどこにあるだろうか。もし人間が自分の本分を果たさないなら、その人間は罪悪感と負い目を感じるべきだ。自らの弱さ、無用さ、反抗心、腐敗、を恥じ、神のために自らのいのちと血を犠牲にするべきではないのか。そうしてはじめて、真に神を愛する被造物となり、そうした人間だけが神の祝福と約束を享受し、神によって完全にされる資格があるのだ。では、あなたたち大多数はどうなのだろう。あなたたちの間で生きている神を、どう扱っているのか。神の前でどのように本分を尽くしているのか。あなたたちは、するように命じられたすべてのことを命がけで為し遂げたことがあるのか。あなたたちは何を犠牲にしたのか。わたしから多くを受けているのではないのか。あなたたちは区別ができないのか。あなたたちは、どれほどわたしに忠実なのか。あなたたちは、どれほどわたしに仕えたというのか。また、わたしがあなたたちに授け、あなたたちのためにしたことは、みな、どうなったのか。あなたたちは、その大きさを測ったことがあるのか。それをあなたたちのささやかな良心に照らして判断したのだろうか。あなたたちの言動をいったい誰に正当化するつもりなのか。そんなにもちっぽけなあなたたちの犠牲は、わたしがあなたたちに授けたものすべてにふさわしいとでもいうのか。わたしはそうするしかないので、心からあなたたちに献身してきたが、あなたたちはわたしについて邪悪な疑念をもち、いい加減な気持ちでいる。あなたたちのいう本分とはこの程度で、それがあなたたちの唯一の役割だ。そうではないのか。あなたたちは被造物としての本分を全く果たしていないことが分からないのか。どうしてあなたたちが被造物とみなされるのか。あなたたちは、自分たちがいったい何を表明し、何を生かし出しているのか、はっきりわかっているのだろうか。あなたたちは自分の本分を果たすことを怠ったにもかかわらず、神の憐れみと豊かな恵みを得えることを求めている。このような恵みはあなたたちのように無価値で卑劣な者たちのためではなく、何も求めず喜んで自らを犠牲にする人々のために用意されている。あなたたちのような人々、凡庸な、取るに足りない人々は、天の恵みを享受するにまったく値しない。苦難と絶え間ない罰だけがあなたたちの将来につきまとうだろう。わたしに忠実であることができないのなら、あなたたちの運命は苦しみに満ちたものになる。わたしの言葉とわたしの働きに忠実でないのなら、あなたたちの分け前は罰だけである。どんな恵みも祝福も、神の国でのすばらしい生活も、その人には無縁である。これがあなたたちに相応しい結末であり、それは自ら招いた結果なのだ。

『神の出現と働き』「受肉した神の職分と人間の本分の違い」(『言葉』第1巻)より

本分を尽くすとは全力を尽くすこと

本分を尽くすとは、本来人が持つもの、人に可能なすべてを全うすることである。そのときこそ本分が果たされる。

奉仕における人の欠点は経験を積み、裁かれる過程を経て徐々に減ってゆき、本分を妨げることはない。奉仕の中に現れるかもしれない欠点を恐れ、奉仕をやめたり、妥協して退いたりする者は、すべての人の中で最も臆病な者だ。本分を尽くすとは、本来人が持つもの、人に可能なすべてを全うすることである。そのときこそ本分が果たされる。本分を尽くすとは、本来人が持つもの、人に可能なすべてを全うすることである。そのときこそ本分が果たされる。

神への奉仕の中で表明すべきことや、可能なことをせずにのらりくらりと、奉仕するふりをしているだけなら。このような人は人間としての役割を失い、また凡庸で役立たずな者だとみなされる。そのような者たちを被造物と呼べようか?彼らは外見は立派でも、内面が腐っているのではないか?本分を尽くすとは、本来人が持つもの、人に可能なすべてを全うすることである。そのときこそ本分が果たされる。本分を尽くすとは、本来人が持つもの、人に可能なすべてを全うすることである。そのときこそ本分が果たされる。

『小羊に従って新しい歌を歌おう』より

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