失敗と挫折を通して成長する

2023年9月26日

私は2020年12月に終わりの日の全能神の御働きを受け入れました。その数ヵ月後、教会指導者に選ばれました。教会ではやるべき事や解決すべき問題が山積みで、私は熱心に働きました。しばらくすると、教会の働きが少しわかってきましたが、まだ問題はたくさんありました。新人の多くが集会に定期的に参加せず、ネットの噂に惑わされる人、真理を理解していない人や、宗教的観念を解決できていない人、仕事が多忙で集会に来られない人がいました。このような状況のなか、みんなが問題を乗り越えられるように神の御旨を必死で交わりましたが、問題はなかなか解決することがなく、不満は募る一方。そしてこう自問しました。こんなに努力しているのに、なぜ結果に結びつかないの?どうして神は私たちの教会を祝福してくれないの?兄弟姉妹は多くの問題を抱えて、何度交わりをしてもうまくいかない。指導者に向いていないのかしら?そして自分を責めました。これは全部私のせい、責任を取って役目を退けば、他の人が指導者になって、働きがもっとうまく行くはずだわ、と思いました。自分が沈み本分に消極的になり、解任されるのを待つばかり。こんな考えまで浮かびました。神は私を暴いて、失敗させるために問題を与えたんだわ。私は神に見捨てられたかも、と。そう思うと怖くなりました。神は私を見捨てたの?祈り、求めましたが、神の御旨を理解できなかった。神に見捨てられたという思いが頭から離れず、ひどく落ちこみ、気力も体力もなくなりました。とても怖くなって、聖霊の働きもなくなったような気がしました。

当時、教会では班長が足りなかったので、責任者が新人を推薦してくれました。私は深く調べもせず、その人たちを班長にしました。最初はみんな、本分を尽くしたいと言っていたけど、実際に働きが始まると、1人は仕事が忙しくて班長の役目を引き受けられないと言い、もう一人は家庭の事情で集会に遅れるので引き受けられないと言い始めました。その時初めて、私はこの2人が班長に適任でないと判断したんです。働きで直面した問題を解決できるよう努力したけど、なかなか成果を出すことができなかった。その時は、自分の失敗を受け入れることができなくて、消極的になって、毎日朝を迎えるのが怖いと思うほどでした。教会の働きから逃げたいと思った。努力したのに、何の成果もあげられていない。神は私の無能さを暴くためにこの状況を作ったと思いましたが、そんな状態に陥りたくなかった。本分で成果が出ないという理由で暴かれ淘汰されたくなかった。

一度デボーションで「責任を認めて辞職することの原則」を読みました。「真理を受け入れず、または実際の働きをせず、聖霊の働きをしばらく失った偽の指導者や働き手は、責任を認めて辞職せねばならない」(『真理を実践する170の原則』)。これを読んで、ますます消極的になりました。どうすればいいんだろう。教会の問題を解決できていない私は偽指導者だわ。責任をとって役目を退き、有能な人に指導者になってもらうべき?教会の働きを始めて3ヵ月にもなるのに教会内の問題をまだ解決できていなかった。そしてそんな状況で、神の御旨もわからず、まったく前進していなかった。神を誤解すらしていました。兄弟姉妹に消極的すぎると思われるのがこわかったし、やめようと考えてることを責められるのも怖かったんです。

一度集会でこの御言葉を読みました。「あなたは普通の人です。失敗、困惑の時期、判断の誤り、逸脱を数多く経験しなければなりません。これにより、あなたの堕落した性質、弱さと欠点、無知と愚かさが完全にさらけ出され、あなたは自己を見直し、認識することができ、また神の全能と完全な知恵、神の性質を知るに至るのです。あなたは神から前向きなものを得て、真理を理解して現実に入るようになります。あなたの経験には、望み通りに行かないことや、自分の無力さを感じることが数多くあります。そのような状況において、あなたは探求し、待たなければなりません。一つ一つの事柄の答えを神から得て、一つ一つの事柄の根底にある本質と、さまざまな人の本質を、神の言葉から理解しなければなりません。これが、普通で正常な人の振る舞い方です(『終わりの日のキリスト講話集』「神の言葉を大事にすることが、神への信仰の基礎である」〔『言葉』第3巻〕)。神の優れた知恵のおかげで神の御働きについて新たな理解を得られました。本分では誰もが失敗や挫折を味わうもので、失敗や挫折の中で真理を求め堕落を解決することが、神の御旨だとわかりました。本分で困難に直面し、失敗を経験しましたが、真理や神の御旨を求めず、ただ辞めることを考えていました。本分で成果を上げられず、指導者としてすべきことをしていないと思ったからです。実際の状態を兄弟姉妹に打ち明けることもしなかった。本当に無知でした。神の御旨もわからず、神がこの状況を作った理由も理解していなかった。この御言葉を読んで、私は普通の人間なのだから、本分で問題や失敗に直面するのは当たり前だと分かりました。それが神の御旨だったんです。だから、自分の状態について兄弟姉妹に打ち明けて助けを求めました。責任を取って辞めようと思っていたことも伝えました。でもみんな私を見下すどころか、支え、はげまし、御言葉を交わってくれて、本当に感動しました。

兄弟姉妹が、全能神の御言葉を読んでくれたんです。神は言われます。「神の働きを経験する過程において、何度失敗し、倒れ、刈り込まれ、取り扱われ、暴かれようと、これは悪いことではありません。どのように刈り込まれたり取り扱われたりしたのであれ、それを行なったのが指導者であれ働き手であれ、あるいは兄弟か姉妹であれ、それらはどれもよいことです。これを覚えておきなさい。どれほど苦しもうと、実際には恩恵を受けているのです。経験がある人なら、このことを立証できます。何であれ、刈り込まれたり、取り扱われたり、暴かれたりするのは、常によいことです。それは断罪ではありません。それは神の救いであり、自分を知る最高の機会なのです。それはいのちの経験を一段加速させます。それなしには、自分の堕落の真相を認識できるようになる機会も条件も背景も得られません。真理を本当に理解し、心の奥底に隠された堕落したものを掘り出すことができ、それらをはっきりと識別できるなら、それはよいことであり、いのちへ入ることに関わる一件の重要な問題がそれで解決したのであって、性質の変化に大きく役立ちます。自分を真に認識できるようになることは、自分の道を正して新しい人になる最高の機会なのです。それは、あなたが新たないのちを得る最高の機会です。いったん自分を真に認識すれば、真理がいのちとなるのは本当に貴重なことだと分かるようになり、真理を渇望し、真理を実践して、その現実に入るようになります。それはかくも素晴らしいことなのです。失敗し倒れるたびに、その機会を捉えて真剣に自分を反省し、自分を真に認識できれば、消極性と弱さのさなかにあっても再び立ち上がることができます。いったんその敷居を跨げば、大きな一歩を踏み出して真理の現実に入れるのです(『終わりの日のキリスト講話集』「真理を得るには、近くの人や出来事や物事から学ばなければならない」〔『言葉』第3巻〕)。「神による人類の救いは、真理を愛する人の救いであり、その人の意志と決意、および心の中での真理と義に対する切望の救いです。人の決意というのは、義と善と真理に対するその人の切望であり、良心を有しているその人の一部分なのです。神は人のその側面を救い、それを通じて彼らの堕落した性質を変え、それによって彼らが真理を理解して自分のものとし、彼らの堕落が清められ、いのちの性質が変わるようにします。そうしたものがあなたの中になければ、あなたが救われることはあり得ません。……ペテロが実を結んだ者と言われているのはなぜですか。それは、彼の中に価値あるもの、完成させる価値のあるものがあったからです。ペテロは万事において真理を求め、決意を抱き、固い意志がありました。理知があって苦難をいとわず、心の中で真理を愛していました。また降りかかるものをそのままにせず、あらゆる物事から教訓を得ることができました。これらはすべて強みです。あなたにこれらの強みが一つもなければ、それは問題です。あなたが真理を得て救われるのは簡単なことではありません。どのように経験するべきかがわからなかったり、経験がなかったりすれば、他の人の困難を解決することはできません。あなたは神の言葉を実践して経験することができず、何かが起きてもどうするべきかわからず、問題に遭遇すると動揺して、急に泣きだし、少々の挫折で消極的になって逃げ出し、正しく対応することがいつまでもできません。それがゆえに、いのちに入ることができないのです(『終わりの日のキリスト講話集』「第三部」〔『言葉』第3巻〕)。読んだ後で、姉妹が交わりをしてくれました。「どんな挫折や失敗に直面しても、神に祈り神の御旨を求め、真理や本分を投げ出してはいけません。本分を投げ出しても問題の解決にはならない。本分で直面する困難や問題を経験して初めて、人の堕落や欠点が明らかになり、真の意味で自分を知ることができます。その経験がなければ、自分の堕落や欠点を知ることはできず、変わることもできません。だから、失敗や躓きは悪い事ではないのです。その時こそ、神を誤解せずに、真理を求めて教訓を学ぶべきです。困難に直面した時に役目を退き、本分を諦めたら、神の御働きを経験して、救いを求めることはできない。証しを得ることもできない。神は人に多くを求めません。問題や困難に直面した時に心を強くもって、心から神に祈り真理を求めれば、神は私たちを導き、助けてくれます」。この姉妹の交わりは本当にためになりました。失敗や躓きを経験することは神の愛で、真理を求めて教訓を得るチャンスだと気づいたんです。ペテロはその生涯を通して、たくさんの試練や精錬、挫折や失敗を経験し、肉体の弱さに苦しむこともありましたが、神への信仰を失うことはなく、真理を追い、神の御旨を求め、欠点を補うことで最後には真理を理解し、神を知り、神への服従心と愛を得たのです。私もペテロのように強くなるべきでした。失敗や挫折を経験したら、神の前に出て祈り、神の御旨を求め、自分の欠点を振り返るべきで、神を誤解し責めるなんてもってのほかでした。

デボーションでこの一節を呼んで、神の御旨を少し理解することができました。全能神は言われます。「神の言葉によく耳を傾け、神の心を理解することを、人は学ばなければなりません。神を誤解してはいけません。事実、多くの場合、人の心配は自分の利益から生じます。大抵の場合、それは何の結果も得られないという不安です。このような人は常に、『神がわたしを暴き、淘汰し、拒絶したらどうしよう』と考えます。これは神についての誤解であり、あなたの考えでしかないのです。神の意図は何なのかを解き明かさなければなりません。神が人を暴くのは、追放するためではありません。人が暴かれるのは、その人の欠点や過ち、本性の本質を明らかにし、自己認識させ、真の悔い改めを可能にするためです。このように、人を暴くのは、その人のいのちの成長を助けるためなのです。純粋な理解がなければ、人は神を誤解し、消極的で脆弱になりがちです。絶望に屈することさえあり得ます。実際のところ、神に暴かれたからといって、淘汰されるとは限りません。これは、あなたが自分の堕落を認識するのを助け、悔い改めさせるためです。人が反抗的で、ほとばしるように堕落を表出させても真理を求めて解決策を見つけようとしないので、神が懲らしめなければならないことがよくあります。また時として、神は人を暴き、人の醜さと哀れさを明らかにして、自己認識できるようにしますが、それはその人のいのちの成長を助けます。人を暴くことには、二つの異なる意味が含まれています。悪人にとって、暴かれることは追放されることを意味します。真理を受け入れられる人にとっては、注意と警告です。それにより、人は自己を反省し、自己の真の状態を見、きまぐれで無謀なあり方を改めるのです。そのようなあり方を続けることは危険だからです。このように人を暴くのは、人に注意を与えるためです。その結果、人が本分を尽くすとき、混乱して注意を怠ったり無頓着であったりすることがなく、ほんの少し成果を挙げただけで満足して、自分の本分遂行はまずまずの基準に達しているなどと考えることがなくなります。実際、神の求めに基づいて評価すると、基準をはるかに下回るにもかかわらず、それでも自己満足し、自分はしっかりやっていると思い込む人もいるのです。こうした状況では、神は人を懲らしめ、警告し、注意を与えます。時に、神は人の醜さを暴きますが、それは明らかに注意のためです。このような時、あなたは自省しなければなりません。そのような本分遂行は不適切であり、そこには反抗心があり、消極的なものがあまりに多く含まれていて、完全におざなりです。悔い改めなければ懲罰されます。神があなたを懲らしめ、暴くとき、それは必ずしもあなたが淘汰されることを意味しません。このことには正しく対処するべきです。たとえ淘汰されてもそれを受け入れ、従い、直ちに反省し悔い改めなければなりません(『終わりの日のキリスト講話集』「真理を実践し神に従うことでのみ、性質の変化を遂げることができる」〔『言葉』第3巻〕)。御言葉からわかったのは、神が人を暴くのは、淘汰するためではなく、自分の堕落や欠点を認識させて、問題を解決するために真理を求めて、いのちの入りを進めさせるためだということ。振り返ってみると、様々な困難や問題に直面しても、心から神の御旨を考えたり、求めたり、自己反省して自分の問題を認識しようとせず、神はこの状況を使って私を暴き、淘汰しようとしているんだ、私は指導者失格なのだから、役目を退くべきだと考えた。神を誤解していたんです。そして気づきました。たくさんの問題が解決されないままなのは、私が心を込めて本分を尽くしていないからだと。やるべきことがたくさんあると感じていたけれど、働きの方向性も目標も定めずに、ただ思いついたままに実行して、結果を出すことを考えなかった。噂に惑わされた新人に対して、その観念を解決して、噂を見抜いて真の道をしっかりと歩ませるためには、どの真理を交わるべきか考えようとしなかった。人を育てるにあたっても、関連する原則を求めず、実際の状況をしっかり理解せずに適当に人を選び、その結果、全く成果を出すことができなかった。新人の潤しでは、問題を解決するために交わるべき真理を事前に考えるということをしなかったので、やっぱり成果を出すことができなかった。表面上は一生懸命本分を尽くしているように見えて、細かいところに気が付かず、本分での問題にすぐに対処せず、何の成果もあげられていなかったんです。そして自分を反省し認識できなかっただけではなく、入るべき真理も求めず、まず最初にしたことは、神に責任を押し付けること。神がわざと私を暴き、評判を落とそうとしていると疑い、恨みを抱いた。失敗も挫折もない、穏やかな状況だけを求めた。すべてが順調に進めばいいと思った。ほんの少し困難があっただけで神を誤解し、恨んだ私が、神の御働きを経験し本分を尽くすことなんてできるでしょうか。理知のない人間でした。被創造物が取るべき振る舞いではありません。それに気づいて、深く後悔し神に祈りました。「神よ、私を鍛え、いのちを成長させる状況を作ってくれたのに、私はあなたの御旨を理解せず、あなたを誤解しました。本当に反抗的でした。自分の堕落した性質を理解できるよう導いてください」と。その後この全能神の御言葉を読んで、自分を理解することができました。神は言われます。「わたしは他者を疑わない者を好む。そして真理を快く受け入れる者を好む。この二種類の人々をわたしは大いに保護しよう。わたしから見ると彼らは正直な人々だからである。もしあなたが嘘つきなら、全ての人々や物事に対し慎重で疑い深くなるだろうから、わたしに対するあなたの信仰も疑念を基盤にして成り立つことになる。そのような信仰をわたしは決して認めない。真の信仰がないあなたには、真の愛はなおさらない。そして気の向くままに神を疑い、神への憶測を巡らせがちなら、あなたは間違いなくあらゆる人々の中で最も不正直である。あなたは神が人間のようでありうるかどうか憶測する。許し難いほど罪深く、狭量な性質で公正さと分別に欠け、正義感を持ち合わせておらず、邪悪な策略に溺れ、不誠実で狡猾であり、また人間と同様に悪事や闇を喜ぶ、などという具合である。人は神のことを少しも知らないがゆえに、このような考えをもつのではないか。このような信仰は罪以外の何物でもない。中には、わたしを喜ばせるのはまさに媚びへつらいごまをする者たちであり、そのような技量のない者は神の家では歓迎されずに居場所を失う、と信じている者すらいる。長年かけてあなたがたが得た認識はこれだけなのか。これがあなたがたの手に入れたものなのか。わたしに関するあなたがたの認識はこのような誤解にとどまらない。さらに悪しきは、あなたがたによる神の霊への冒涜と、天に対する悪口である。あなたがたのような信仰のせいで、あなたがたはますますわたしから逸れていき、わたしとさらにひどく敵対するだけだとわたしが言うのは、それゆえである(『神の出現と働き』「どのように地上の神を知るか」〔『言葉』第1巻〕)。御言葉が示すことを理解して、とても恥ずかしくなりました。失敗と挫折に直面した時、私は神を疑い、神を誤解し神は人のように冷酷無情だと考えた。人を利用したい時には恵みを享受させる一方で、そうでない時には人を淘汰し、放り出し、見捨てると思った。不義の人の心理で神を決めつけ、疑った。本当に狡猾な人間でした!信仰に入ってから日が浅く、真理の理解も不十分で、欠点も多い私を、兄弟姉妹が指導者に選び、実践の機会を与えてくれた。私がもっと早く真理を理解し、真理の現実に入れるように。本分に手落ちがあり、成果を十分に上げられなくても、教会は私を解任しようとせず、私を支え、はげまし、御言葉を交わることで、私が神の御旨と自分の堕落や欠点を理解できるよう導いてくれたんです。神が私のためにしてくれたことは全部、私を育て救うためでした。神は善良で愛にあふれています!でも私は神に心を許さず、神を疑いました。神への真の信仰があったなんてとても言えません。私はサタンに深く毒され、サタンの嘘に従っていました。例えば「誰も信じるな。自分の影が暗闇を作りだすこともある」や「人に害を与えずとも、人に心を許すな」などです。私は人にも、神にも心を許していませんでした。私のずる賢い性質はとても深刻で、この性質のために、私は神を疑い、誤解したんです。困難に直面した時、私は神を疑い、誤解したのに、それでも神が、私が真理を理解して自分の問題を認識できるよう導いてくれたので、神の愛と、真の救いとは何かが分かった気がしました。私は神の前で祈りました。悔い改めたいです、これ以上ずる賢い性質を生き、神を疑い誤解したくありませんと。

その後、御言葉のこの一節を読みました。「あなたは今、進んで本分を尽くし、喜んで犠牲を払い、自分を費やしているかもしれませんが、なおも神について誤解や推測、疑い、あるいは不満を抱えていたり、神に対して反抗心や抵抗すら抱いていたり、さまざまなやり方や手口を使って神に逆らい、あなたに及ぶ神の統治を拒んだりしているなら、そしてこのようなことを解決しないなら、真理があなたという人の主人になることはほぼ不可能であり、あなたは疲れる生き方をすることになります。人はこうした消極的な状態においてもがき、苦しめられることがよくありますが、それはあたかも泥沼に沈み、絶えず真実と偽りのあいだ、正誤のあいだで暮らしているかのようです。どうすれば真理を見つけ、理解することができますか。真理を求めるには、まず服従しなければなりません。そして、一定期間の経験の後、多少の啓きを得られるようになり、その時、真理を理解するのは簡単になります。常に正誤を突き止めようと試み、何が真で何が偽かということに捕らわれていては、真理を見つけることも理解することも決してできません。では、真理をどうしても理解できないと、どうなりますか。真理を理解しないと、神についての観念と誤解が生じます。誤解があると不満を感じやすくなります。不満が爆発すると、それは敵対となります。神への敵対は神に対する抵抗であり、深刻な犯罪です。そして多数の犯罪がさまざまな悪となり、ゆえに懲罰を受けなければなりません。永遠に真理を理解できなければ、このような結果につながるのです(『終わりの日のキリスト講話集』「真理を追い求めることでのみ、神についての観念や誤解を解決できる」〔『言葉』第3巻〕)。これを読んで、恐ろしくなりました。このまま消極的な状態を続け、真理を求めず、兄弟姉妹にも心を閉ざしていたら、神を誤解しながらずる賢い性質を生き続けることになる。そして神を恨み、神に対抗するという過ちを犯して、悪を行い神に反抗さえするかもしれません。とても危険です!神を誤解し、疑っていた時、私は消極的な状態に支配されていて、暴かれ淘汰されることを常に恐れ、自由を感じられず、心が疲弊していました。本分では努力を尽くして作業に取り組んでいても、問題が出てくるとすぐに、神を誤解して辞めたくなった。御言葉を読んで、兄弟姉妹に打ちあけよう、真理を求めて堕落して性質を知ろうと思えたんです。それが無ければ、神を誤解したまま、本分を投げ出していたでしょう。その行く末を思うと、本当に恐ろしくなります。

その後、御言葉の別の一節を読んで、教会の働きで問題に直面した時の実践の道を知ることができました。神は言われます。「教会内で起こる問題については、あまり懸念を抱いてはならない。教会が建て上げられる中で、過ちが起こることは避けられないが、問題に直面しても慌ててはいけない。落ち着いて、冷静でいなさい。以前そう言ったではないか。頻繁にわたしの前に来て祈りなさい、そうすればわたしの意図をはっきりと示そう(『神の出現と働き』「キリストの初めの言葉、第四十一章」〔『言葉』第1巻〕)。御言葉からわかったのは、教会の働きの中でさまざまな困難にぶつかることは避けられず、至極普通のことで、神もお許しになったことなので、困難に直面した時は心をこめて祈り、神を頼れば、神は進む道を示してくれるということ。終わりの日の神の働きを受け入れたばかりの新人は、真理を完全に理解しておらず、噂に惑わされやすいので、もっと神に頼り、御言葉を使ってサタンの策略を暴き、新人が真の道をしっかり歩き出せるようにすべきでした。神の御旨を理解した後、私は教会の働きに戻り、それまでの働きで見られた間違いや問題をまとめて、新人が直面していた問題に関連する真理を身に着け、交わりを通じて解決するようにしました。人を育てることについては、まず原則を求めて、心を込めて神に祈り、原則に当てはまる人材がいないか、集会で注意深く観察しました。そのようにして人を選ぶことで、適任者を見つけられます。それからも本分で失敗や困難にぶつかることもありましたが、前とは違う視点で問題を認識できるようになりました。自分にこう聞くようにしたんです。神はこの状況から何を学んでほしいと思っているのか、と。神に祈り、御言葉を読み、実践の道を求め、兄弟姉妹に助けを求めることも学びました。兄弟姉妹に働きの問題を指摘された時は、自分の失敗や欠点を認識できます。神が私を陥れようとしているのではなく、反省と自己認識をして、いのちを成長させるチャンスだと考えるようになりました。そして、ある姉妹に言われたんです。「前よりも辛抱強く新人を潤せるようになったし、問題が起こった時も、うまく神の御旨を求められるようになりましたね」と。それを聞いて、本当に感動しました。ほんの少しの変化ではありましたが、この経験から、人類への神の愛と救いは純粋で本物だと実感することができました。神はいつも私を導き、そばにいて進む道を示してくれる。本分を尽くして神を満足させようという気持ちが強くなりました。

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