YouTubeからのお知らせのおかげで私は主と再会できたのです

2019年12月21日

生きていると、偶然の出来事が予期せぬ結果につながることがあるものです。数か月前、私の身に思いもよらない、素晴らしいことが起こりました。Youtubeからのお知らせのおかげで、私は主と再会できたのです。

六月のある朝、私は早く目が覚め、いつも枕元に置いてある聖書を静かにぱらぱらとめくっていました。そして主イエスがパリサイ人たちを叱責された時に言われた御言葉を読みました。「『わたしの家は、祈の家ととなえらるべきである』と書いてある。それだのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしている。」(マタイによる福音書 21:13)これを読んで私は不安を拭えませんでした。私の教会の状況が、律法の時代の末期の神殿の状況と全く同じになっていたからです。私の教会では牧師や長老が、信徒たちは互いに愛し合わなければならないとよく説いているのに、実際は彼ら自身が教会員のために祈った代償として彼らから現金の贈り物を受け取っていて、時には受け取った金額でその贈り主のために祈る時間を決めたりもしていたのです。教会は神を崇拝するための場所であるはずですが、ただ信徒が結婚式を挙げる所になってしまっていました。信者の数は日に日に少なくなり、牧師や長老は説教に力を注がなかったり、主の信徒たちを最も良く牧するよう努めなかったりして、替わりに結婚式を執り行うのを楽しんでばかりいました。私は、「牧師や長老は主の道から外れて、教会はもはや外の世界と何ら変わりがない。まさに律法の時代の末期の神殿みたいに強盗の巣となってしまった。それでも主は再臨される際に、こんな教会に現れてくださるだろうか」と考えずにはいられませんでした。

「ビー、ビー、ビー」目覚ましのアラームが私の考え事を断ち切りました。携帯電話を手に取って音を止め、偶然目にとまったのがYouTubeからのお知らせでした。一見なじみがあるような「全能神教会」という語句が目を引きました。以前どこかで聞いたようだと思いましたが、その時はどこでだか思い出せませんでした。とても不思議で、「YouTubeで全能神教会の動画にチャンネル登録したことなんてないのに、なんでYouTubeはこの教会のお知らせを私に送ってきたのかしら」と思いました。そして急に、一か月ほど前、友人に連れられて全能神教会での説教を聴きに行ったことを思いだしたのです。彼らの説教は新鮮で光が照らすようで、聖書に沿ったものでした。私にはとても爽快に感じられました。その話をもっと吟味してみたいと思いましたが、友人が言うには、全能神教会は、主が受肉した全能神として既に再臨され、終わりの日の新しい段階の働きを行い、多くの真理を表しておられると宣言しているというのです。また友人は、全能神教会の信徒はみな聖書ではなく全能神が発せられた言葉を読むのだと言いました。だから私は思ったのです。「牧師や長老たちが集会でよく言うのは、神の御言葉はすべて聖書に書いてあり、聖書の他に神の御言葉なり働きなりがあろうはずがないということ。それに、信徒たちはみな時代を越えてずっと聖書をとおして主を信じてきて、主を信じることは聖書を信じることなのだから、聖書から離れた者がそれでも主を信じているなどということがありうるだろうか」その友人は全能神教会での説教を聴きにいこうと私を誘いましたが、私はそのたびに断っていました。携帯電話の例のお知らせを見るにつけ、不思議に思えてなりませんでした。「チャンネル登録してもいないのに、全能神教会に関連する知らせが来た。主がそのようにされたってことがありうるかしら」それでも、自分の観念にこだわった私は、リンクに飛んで全能神教会動画を見ませんでした。

しかし驚いたことに、その後の数日間に何度もYouTubeから、全能神教会がアップロードした新しい映画や讃美歌の動画のおすすめが来たのです。「主が本当に私をお導きになっているのではないか。私が全能神の動画を観ることが神の御意志なのか」そこで私は主に祈りました。「愛する主よ。なぜ全能神教会からのお知らせを携帯で受け取っているのでしょうか。彼らは主が既に再臨されたと宣言していますが、それは事実なのですか。これらの動画を見るべきですか。ああ主よ、どうか私をお導きください」その後、私は主イエスの「こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。」(マタイによる福音書 5:3)という御言葉について考えました。私は思いました。「そうだ。主の再臨はとても重要。主が戻られたという知らせを聞いたからには、全能神が本当に再臨された主イエスなのかどうか、心を開いて求め、真剣に吟味し、慎重に見分けなければ。私が求めたり吟味したりせず、主が本当に再臨されていたのだったら、私は主と再会するチャンスを逃すことになるのではないか」そう考え、私は全能神教会の動画を観ることにしました。主よ、感謝します。動画を観なければ、私は決して知ることはなかったでしょう。動画を観て初めて、YouTubeの全能神教会チャンネルには願ってもないほどのものが何でも揃っていることがわかりました。しかもその数は膨大なのです。福音の動画、合唱団の演奏、ミュージックビデオ、讃美歌、などなどです。あらゆる歌や福音の動画はすぐに私の注意を引き、特に「私の愛する方よどうか待っていて下さい」という讃美歌のミュージックビデオに深い感動を覚えました。これを観た時、私は所属教会の荒廃のせいで聖霊の働きのある教会をあちこちで探していた過去数年間の経験を思い出していました。動画を観れば観るほど、他の動画もどんどん観たくなりました。私はとてつもなく力づけられ、また全能神教会のことをもっと理解したい、調べたいと願いました。

ある日、私は福音映画「私の主は誰か」から抜粋された「聖書と主とは、どんな関係でしょう?」というタイトルの素晴らしい動画を観ました。この動画の中の全能神の御言葉の一節が、非常に深く印象に残りました。「彼らはわたしの存在を聖書の範囲内においてのみ信じている。そういう人々にとって、わたしは聖書と同じである。聖書がなければ、わたしはいない。わたしがいなければ、聖書はない。彼らはわたしの存在や行為を無視し、その代わりに聖書の一字一句に極端かつ特別の注意を注ぐ。そして、その多くは、聖書で預言されていない限り、わたしは自分がしたいことは何もしてはいけないとさえ信じている。彼らはあまりにも聖書を重視し過ぎている。彼らは言葉と表現を大事にするあまり、聖書の語句を用いてわたしの発する一語一語を評価したり、わたしを批判するほどである、と言える。彼らの求めているのは、わたしとの融和の道ではなく、また、真理との融和の道でもなく、聖書にある言葉と融和する道なのである。また、彼らは、聖書に合致しないものは、例外なく、わたしの働きではないと信じている。そうした人々はパリサイ人の従順な子孫なのではないか。ユダヤのパリサイ人は、モーセの律法に基づいてイエスを罪に定めた。彼らは当時のイエスとの融和を求めず、律法に文字通りに忠実に従うあまり、イエスが旧約の律法に従っておらず、またメシヤでもないという罪で、ついに無実のイエスを十字架につけたのである。彼らの本質は何であったのか。彼らは真理と融和する道を求めていなかったのではないか。彼らは聖書の一字一句にこだわり、わたしの心とわたしの働きの手順や方法には無関心でいた。彼らは真理を求めた人々ではなく、あくまで言葉に固執した人々であった。彼らは神を信じたのではなく、聖書を信じていた。つまるところ、彼らは聖書の番犬であった。」(『言葉は肉において現れる』の「キリストと融和する道を探せ」より)全能神の御言葉は聖書に対する私たちの姿勢を完璧に明らかにしていました。心の中で私も実際、聖書を他の何よりも上にあるものと見ていました。主の御言葉はすべて聖書の中にあり、したがって聖書は主を代表しており、主への信仰を持つことは聖書を信仰することで、聖書から離れることは、その人が主を信じているはずがないことを意味するのだと考えていたのです。しかし、理解できないこともありました。聖書は主の証しです。私たちの信仰の基盤を成すもので、私たちクリスチャンは二千年間、聖書に基づいて主を信じてきました。そして聖書を主への信仰から分離させた人は一人としていません。ならばなぜ、全能神の御言葉には、聖書を神と同一視することはできない、とあるのでしょうか。それはどういう意味なのでしょうか。

私はその動画を観続けました。次に、全能神教会の兄弟が説教をしました。「主を信じるとはどういうことですか?聖書を信じるとは?聖書と主とは、どんな関係でしょう?聖書と主と、どちらが先だったでしょう?では誰が、救いの働きをするんでしょうか?では聖書が、主に代わってできますか?聖書は主を代弁できますか?聖書を盲信して崇めることは、神様を礼拝することになりますか?聖書にしがみついて、御言葉の実践や体験ができるんですか?聖書にこだわるのが、主の道に従うことでしょうか?聖書を何よりも上に置くことは、主に従順で敬虔で、主を崇拝することですか?…何千年も、人々はやみくもに聖書を崇め、主と同じ地位を与えてきました聖書を主とその働きの代わりにする人さえいますしかし、誰も本当の意味で主を知らず、従順でもないパリサイ人たちは聖書にこだわり、主イエスを十字架にかけましたどういうわけでしょう?聖書を知ることが神様を知ることでしょうか?聖書にこだわれば、主の道にかなうんでしょうか?パリサイ人は聖書の専門家でも神様を知らなかったそればかりか、真理を表し贖いをされた主イエスを磔にしました私たちはそれを忘れたんですか?神様を知るとはどういうことです?聖書を解釈し理解するのが、神様を知ることですか?もしそうなら聖書を解釈したパリサイ人が、なぜ主イエスを非難し、敵対したんでしょう?真に神様を知り従えるかどうかは受肉したキリストを、知っていて従えるかどうか、そこで決まるんです。」

この兄弟の問いかけについて熟考しながら、心の中で答えました。「確かに主が最初にいらっしゃり、それから聖書が現れた。そして聖書には人類を救う働きはできない。聖書は聖書、主は主。私はずっと聖書が主を代表していると信じていた。では、私は聖書を主より上にあると見なしてきたことにならないか?」こう考えて突然はっと気づき、思いました。「主は主であり、聖書は聖書。ならば牧師や長老が言うことに従って、聖書を偶像化して全ての上にあると見なしてきたことで、私は主の御心に従って実践してきたことになるのだろうか?」そして次に思いました。「聖書から離れたら、どうして主への信仰を真に主への信仰と呼べるのか。主への信仰において聖書に執着していた私たちは、まさか間違っていたのか?」ちょうどその時、主イエスが話された御言葉が私の頭に浮かびました。「あなたがたは、聖書の中に永遠の命があると思って調べているが、この聖書は、わたしについてあかしをするものである。しかも、あなたがたは、命を得るためにわたしのもとにこようともしない。」(ヨハネによる福音書 5:39–40)この御言葉について深く考えて気づいたのは、聖書は神の証しに過ぎないということ、そして主の承認を受けていのちを得たいと望むなら、主を求めなければならないということでした。「聖書が主を代表することは本当にできないようね」と私は思いました。「私たちのいのちのためにほどこして下さるのは主であり、聖書ではない。そして聖書を信じることが主を信じることや主に従うことではない。もし聖書に盲目的に執着して偶像化し続け、神様の新たな働きを求めることも、従うこともしなければ、最後はパリサイ人同然になって神様を再び十字架にかけてしまいそう。全能神の御言葉には真理があり、私の観念や困惑を解消してくれる。主の再臨を歓迎するチャンスを逃さないように、真剣に吟味し求めなければ」こう思った私は、全能神教会のことを知るために、教会に連れていってほしいと友人に頼むことにしました。

友人と私が全能神教会に着くと、兄弟姉妹が暖かく歓迎してくれ、それから私たちと根気よく交わってくれました。私はお願いしました。「最近、こちらの教会のホームページの映画や動画からたくさん学ばせてもらっていて、全能神の御言葉には真理があり、私の問題や困惑を解いてくれて、真理を理解させてくれると思っています。でもまだ理解できないことがあるんです。牧師や長老が私たちによく言うのは、神の御言葉はすべて聖書の中にあり、聖書が神への私たちの信仰の基礎であり、主を信じる者は聖書から離れるわけにはいかない、ということです。それでも、こちらでは主イエスが全能神として既に再臨され、終わりの日の働きの新しい段階を行われ、新しい御言葉を発せられていると宣言していますよね。これは一体どういう意味なのですか。これに関して私に話していただけませんか」

チュ(周)姉妹が、映画「私の主は誰か」から抜粋された「神の働きと言葉のすべてが聖書の中にありますか?」というタイトルの素晴らしい動画を見せながら、私の質問に応えてくれました。映画に出てくる説教師が、語っていました。「旧約と新約聖書とは神様の働きの2つの段階の記録に過ぎません律法の時代と恵みの時代の御言葉と働きについてもすべてが記されていると言い切れますか?律法の時代に預言者を通じて語られた御言葉すべてと、恵みの時代の主イエスの御言葉すべてが、記録されたと言えますか?皆さんも、お気づきのはずですが主の御言葉は、その多くが、聖書にも記されていません聖書に記された主イエスの御言葉は、氷山の一角に過ぎないんです律法の時代の預言者の書の多くも、聖書には含まれていませんこれはよく知られたことです御言葉と働きが、すべて聖書にあるとは、言えないんじゃありませんか?事実と明らかに、矛盾していませんか?そういう意味では、あなた方は嘘つきでは?主イエスは何度も再臨を預言されました再臨した主の御言葉が前もって聖書に記されることがありえますか?これだけは、はっきりさせておきましょう聖書は過去の、神様の働きの記録なんです旧約聖書が記されたずっと後に、主イエスが現れ、恵みの時代に罪の贖いをされた、そうでしたね?では聞きますが、主イエスの御言葉は、自動的に聖書に記されるんですか?神様の御言葉と働きは、人が編纂して、聖書にまとめられたんです終わりの日に、全能神は来られ、裁きの働きを神の家から始められ、人々を清め救うための真理を表されましたこれらの真理が、自動的に聖書に書かれますか?まさか、そんなバカな、そうです全能神教会は全能神によって表された真理を、神の国の時代の聖書に記録しますそれが、『言葉は肉において現れる』神の国の時代の聖書には、神様の御言葉だけ人の言葉はありません言い換えれば『言葉は肉において現れる』は、終わりの日に、神様が人に与える、永遠の命の道なんですですから、神様の御言葉が、聖書にすべて記され聖書以外に、御言葉や働きがないなど、そんなことは、間違いであり、愚かであり人間の思い込みと想像の産物です」

この説教師の話を聴いた後、それは事実に即していると感じました。聖書は私たちの神への信仰において使う参考書とはなりうるけれども、主を代表することはできず、ましてや主の御言葉や働きを代表することなどできません。正しく聖書に取り組まなければならず、聖書と主を同列と見なしてはならないと、ましてや神の働きや御言葉を聖書の紙面に限定してはならないとわかりました。聖書は、以前の二段階の神の働きを記録したものに過ぎず、律法の時代と恵みの時代の神の働きを記録しているのです。しかし神はあまりに偉大であまりに豊かです。なのにどうして聖書という一冊の本に神についてのすべてが収められるでしょうか。ヨハネによる福音書にはこうあります。「イエスのなさったことは、このほかにまだ数多くある。もしいちいち書きつけるならば、世界もその書かれた文書を収めきれないであろうと思う。」(ヨハネによる福音書 21:25)どうやら主イエスの働きと御言葉のすべてが聖書に記録されているわけではないようで、それなのに私は宗教界の牧師や長老による解釈に沿って歩んできて、聖書にある神の働きと御言葉以外には神の働きや御言葉はないと信じてきたのです。なんと盲目的なばか者だったのでしょう。人の観念や想像に固執していたなんて。このような見方は全く擁護できません。

その動画を観続けていると、説教師が全能神の御言葉を何節か読み上げました。「聖書に記録されていることは限られており、神の働きすべてを表すことはできない。四福音書をすべて合わせても百章以下であり、その中に書かれている出来事は限られている。たとえば、イエスがイチジクの木を呪ったこと、ペテロが主を三回否定したこと、イエスが磔刑と復活の後、弟子たちに現れたこと、断食についての教え、祈りについての教え、離婚についての教え、イエスの誕生と系図、イエスの弟子たちの任命などである。これらは数少ない書物でしかないにもかかわらず、人々はそれらを宝として大切にし、それらに照らし合わせて今日の働きを確かめさえする。彼らはイエスがその生涯に行なった働きは聖書に書かれていることだけに限られているとさえ信じている。まるで神がそれくらいのことしかできず、それ以上はできないかのようである。これは馬鹿げてはいないだろうか。」(『言葉は肉において現れる』の「受肉の奥義(1)」より)「当時、イエスは恵みの時代において弟子たちに一連の説教しか語らなかった。たとえば実践のしかた、集い方、祈る際の求め方、他の人々の扱い方などである。イエスが実行した働きは恵みの時代の働きであり、弟子たちやイエスに従う人々がどのように実践すべきかについてしか釈義しなかった。恵みの時代の働きをしただけで、終わりの日の働きは何もしなかった。…各時代の神の働きには明確な境界がある。神は現在の時代の働きだけを行い、次の段階の働きを前もって行うことは決してない。このようにしてのみ、神の各時代の代表的な働きは前面に引き出される。イエスは終わりの日のしるし、いかに忍耐するか、いかにして救われるか、いかに悔い改め、告白するか、また、いかに十字架を負い、苦しみに耐えるかについてしか語らず、終わりの日に人はどのように進入すべきか、どのように追求すれば神の心を満足させるかについては語らなかった。したがって、終わりの日の神の働きを聖書の中に捜し求めるのは誤った考えに基づく行為ではないだろうか。手に聖書を携えているだけでなにを見分けることができるのか。聖書の解釈者であれ説教者であれ、誰が今日の働きを予知することができようか。」(『言葉は肉において現れる』の「自己の観念で神を規定する人がどうして神の啓示を受けられるのか」より)「律法の時代の働きを見たければ、また、イスラエル人がどのようにヤーウェの道に従ったかを見たいのなら、旧約を読まなければいけない。恵みの時代の働きを理解したいのなら、新約を読まなければいけない。しかし、終わりの日の働きについては、どうすればいいのか。今日の神の導きを受け入れ今日の働きに入らなければいけない。これが新たな働きであり、誰も予め聖書に記録していないからだ。今日、神は中国で肉となり、新たな民を選んだ。神はこれらの人々の間で働き、恵みの時代の働きから続いて、地の働きを続ける。今日の働きの道は人間がかつて歩んだことのないもので、誰も見たことのないものである。それはかつて誰もしたことのない働きであり、それは神が地上で行う最新の働きだ。…どうして聖書にこのような働きの具体的な記録が載っているだろう。誰が今日の働きの細部に至るまで漏らすことなく、事前に記録することができただろう。あのカビ臭い古い本に、この、慣習を破る、より大きな賢い働きを、誰が記録できるだろう。今日の働きは歴史ではない。だから、今日の新たな道を歩みたいのなら、聖書から離れなければいけない。聖書の預言書や歴史書を越えなければならない。そうしてはじめて、新たな道を正しく歩むことができ、そうしてはじめて、新たな領域、新たな働きに入ることができる。」(『言葉は肉において現れる』の「聖書について(1)」より)

説教師が神の御言葉を読み上げた後、映画の中で兄弟の一人が説教をし、言いました。「全能神の御言葉は、事実に即していますね聖書に載っているのは、律法と恵みの時代の御言葉と働きだけなんです終わりの日の働きは、事前に聖書に記すことはできません聖書に御言葉と働きのすべてがあると以前は言ってたけどそれは神様の働きの事実に即しません」神の御言葉と兄弟の説教を聴いた後、私は賛同してうなずかずにはいられませんでした。私は思いました。「その通りだ。神様がまだなさっていない働きについて誰が聖書に書けるというの。今ようやく、ヨハネの黙示録の第5章第5節を理解したわ。『すると、長老のひとりがわたしに言った、「泣くな。見よ、ユダ族のしし、ダビデの若枝であるかたが、勝利を得たので、その巻物を開き七つの封印を解くことができる」。』ここで言われているのは、七つの封印で閉じられた本は終わりの日に主が再臨されて初めて開くことができるということで、つまり、主には聖書には記録されていない、これから言われる御言葉とこれから行われる働きがあることを示しているのではないかしら」こう考えた私は、もっと早く全能神教会のことを調べなかったことを悔やみました。牧師と長老に盲目的に従ったり、自分の観念や想像を頼みにして神の働きを限定して考えたりするべきでは本当になかったのです。

チュ姉妹が次に説教をし、言いました。「姉妹である蘭さん、この動画を観た今、聖書とは神の過去の働きの記録と神の働きの証しにすぎないと、そして終わりの日に人類を救うために働きをなさる神に聖書が取って代わることはできないと私たちは理解しています。神の働きは常に前進しています。そして今日、全能神は働きの新しい段階を実施されています。つまり、主イエスの贖いの働きの基盤の上に、神の国の時代において裁き、罰するために言葉を使うという働きです。これは聖書の預言を完全に成就します。『たとい、わたしの言うことを聞いてそれを守らない人があっても、わたしはその人をさばかない。わたしがきたのは、この世をさばくためではなく、この世を救うためである。わたしを捨てて、わたしの言葉を受けいれない人には、その人をさばくものがある。わたしの語ったその言葉が、終りの日にその人をさばくであろう。 』(ヨハネによる福音書 12:47-48)『さばきが神の家から始められる時がきた。』(ペテロの第一の手紙 4:7)終わりの日の全能神の御言葉と働きは、聖書を否定するものではなく、律法の時代と恵みの時代の神の御言葉と働きよりも高く深4いレベルにあるのです。そして全能神の働きは、現代の私たちが必要とするものに合っているのです。全能神の御言葉は、神の国の時代の聖書『言葉は肉において現れる』を成すものです。これらの言葉は終わりの日に神が人類に与える永遠のいのちの道であり、神の働きの三段階の奥義と神の受肉の奥義を明らかにし、神の性質、神が所有するものと神そのもの、神の全能性と知恵を表現するものなのです。またおもに神を称賛する道、神に証しし神に仕える道、真理の現実に入る道、そして完全なる救いを得、完璧にされる道を私たちに示してくれるのです。終わりの日の全能神の働きを受け入れ、神の働きに遅れずついていき、神の現在の御言葉から糧を得て初めて、私たちは聖霊の働きを得ることができるのです。もしずっと聖書にこだわり、終りの日の神の働きや発言を受け入れることや神の働きの足跡についていくことを拒否していたら、神がわたしたちに供給してくださる生きているいのちの水を得ることができず、ただ排除され捨てられるだけです。今、あらゆる宗教や教派がどんどん荒廃しています。終わりの日の神の働きに歩調を合わせず、神の現在の御言葉から糧を得ていないため、出口の見えない荒野で迷ってしまっているのです」

全能神教会の兄弟姉妹による説教をとおして、私は、終りの日の全能神の働きは完全に聖書の預言に沿ったもので、聖書から全く逸れていないということを理解しました。それどころか、私たちが罪の枷をきっぱりと断ち、神により清められ救われるよう、そして神から真理といのちを得られるようにと、神が私たちの必要とするものに合わせてさらに新しく高い段階の働きを実施されているのです。私はまた、宗教界がなぜどんどん荒廃し劣化しているのか、なぜいつも霊がからからに乾いているように感じるのかを理解するようになりました。それは、私たちが傲慢でうぬぼれて自分の観念にこだわり、神の御言葉と働きを聖書の紙面に限定してとらえ、終わりの日の神の新しい働きを求めず受け入れず、子羊の足跡に遅れずについていっていないからです。その後、兄弟姉妹は私にあらゆる真理について話してくれ、神の御言葉が私の問題や混乱を一つずつ解決していったのです。全能神は再臨された主イエスだと、私は絶対の確信を得ました。そして私の心は主への感謝で満たされました。

終りの日の神の働きを受け入れてから、私は教会生活に積極的に参加するようになり、神の御言葉によって潤い、糧を得て、兄弟姉妹と交わることにより、それまでずっと理解せずにいた多くの真理や奥義を理解するようになり、私の霊は満たされました。私はどんどん神に近づいているように感じ、私の心はどんどん光に満ちていき、毎日平安と喜びにあふれているのを感じました。時には、自分がいかに聖書に固執していたか、いかに神の御言葉と働きを聖書の紙面に限定して考え終わりの日の神の働きを求めたり吟味したりすることをいかに拒否していたかを思い出すと、とてつもない後悔を感じ、また神に対し多大な恩を感じるのでした。自分が本当にどれほど盲目で無知だったかがわかったのです。神がYouTubeにより私に全能神教会のお知らせを送り、私に神の御声を聞かせるという憐れみを見せて私をお救いくださらなかったら、私は今でも牧師や長老に盲目的に従っていたでしょう。そして終りの日の神の働きを求めたり吟味したりしてはいなかったでしょう。だとしたら、私は百年間聖書を読んでもいまだに主の再臨をお迎えできずにいたことでしょう。今日、終わりの日の神の救いを受けることができているのも、ひとえに神の統率とお導きによるものであり、神の驚くべき救いです。神に感謝します。

韓国李蘭(イ・ラン)

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