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神の羊は神の御声を聞く(新信者必読)

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第5章 神の受肉についての真理を知らなければならない

5.二度の受肉が受肉の意義を完成させる

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受肉の意義は、平凡な普通の人間が神そのものの働きをするということであり、つまり、神が人間性の内に神としての働きを行い、それによってサタンを打ち破るということである。受肉とは、神の霊が肉となる、つまり、神が肉となるということである。神が肉において行う働きは、肉において実現し、肉において表される霊の働きである。神の肉体以外には誰も、受肉した神の働きを成就できない。つまり、受肉した神の肉だけが、他の誰でもなくこの普通の人間だけが、神の働きを示せるのだ。もし最初の顕現で、神が二十九歳になる前に普通の人間性をもっていなければ──もし生まれてすぐに奇跡を行うことができたなら、もし、話せるようになってすぐに天の言葉を話せたなら、地上に初めて着いたときにすべての世俗的な物事を理解し、すべての人の考えや意図を知ることができたなら──普通の人間とは呼ばれなかったであろうし、その肉は人間の肉とはいえなかっただろう。もしキリストがそういうものであったなら、神の受肉の意味と本質は失われていたであろう。イエスが普通の人間性をもっていたことは、イエスが肉の体をもった、受肉した神であったことを示している。イエスが普通の人間としての成長過程を過ごしたことは、イエスが普通の人間であったことをさらに証明するものだ。そのうえ、イエスの働きは、イエスが神の言葉、神の霊が人間となったものであることの十分な証拠である。神が人間になるのは、働きに必要なためである。つまり、その段階の働きには肉の体で、普通の人間性において行う必要があるからである。これが「言葉は肉となる」、「言葉は肉において現れる」ための前提条件であり、これが神の二度の受肉の背後にある実話だからである。

『言葉は肉において現れる』の「神の宿る肉の本質」より

神は人に神の肉体を知らしめたり、人に受肉した神の肉体と人の肉体の違いを区別させたりする目的で受肉したのではない。神は人の識別能力を鍛えるために受肉するのではない。ましてや受肉した神を人が礼拝し、そこから神が偉大な栄光を受ける意図を持って受肉するのでもない。これらのどれも神が肉となる本来の心ではない。また、神は人を咎めるためや、意図的に人の本性を現すために、あるいは人に困難をもたらすために肉となるのでもない。これらのうちどれも神の本来の心ではない。神が肉となるときはいつも、それは不可避の働きなのである。それは神が行なうさらに偉大な働きと、さらに偉大な経営(救い)のためであり、人が想像するような理由のためではない。神はその働きに必要なときだけ地上に来るのであり、必ず必要なときである。神はさまようことを意図に地上に来るのではなく、神がすべき働きを実行するために来る。そうでなければどうして神がこの働きを行なうというそのような重荷を背負い、大きな危険を冒すのだろうか。神はそうしなければならない時にだけ、また常に特別な意義をもって肉となる。もしそれが人に神を見させ、彼らの目を開かせるためだけであったなら、神は絶対にそのように軽々しく人のもとには来ないであろう。神が地上に来るのは、その経営と偉大な働きのためであり、神がもっと人を得るためである。神は時代を代表し、サタンを打ち負かすために来るのであり、神がサタンを敗北させるのは肉においてなされる。さらに、神は全人類の生活を導くために来る。これらのことはすべて神の経営に関係することで、全宇宙に関する働きである。もし神が人に神の肉体を知らしめ、目を開かせるためだけに受肉したのなら、なぜ神はすべての国々を旅しないのであろうか。そんなことはいともたやすいことではないであろうか。しかし神はそうしなかった。その代り、住みつき神のすべき働きを開始するのに適した場所を選んだ。この肉体だけでも大いに意義がある。神はひとつの時代全体を代表し、ひとつの時代全体の働きを行なう。前の時代を終わらせ、新しい時代に導く。これらの事すべては、神の経営に関する重要な事柄で、地上に来た神によって実行される働きの一段階の意義である。

『言葉は肉において現れる』の「受肉の奥義(3)」より

人が神から完全な救いを受けるのは、受肉した神ゆえであり、人が直接天に捧げる祈りによるのではない。というのは、人は肉的であり、人は神の霊を見ることができず、ましてや神に近づくことなどできないからである。人が交わることができるのは神の受肉した肉体でしかなく、人はその人を通してのみ、すべての言葉とすべての真理を理解し、完全なる救いを受けることができる。第二の受肉は人の罪を取り除き、人を清めるには十分である。よって、第二の受肉は肉体での神の働きのすべてに終止符を打ち、神の受肉の意義を完成する。その後は、神の肉体での働きは完全に終わりとなる。第二の受肉の後、神はその働きのために人となることは二度とない。神の経営(救い)全体が終わっているからである。終わりの日に、神の受肉は神の選ばれた民を全て自身のものとし、終わりの日の人たちはすべて、それぞれの種類に応じて区分されている。神はもはや救いの働きをすることも、どのような働きを行なうためにも肉に戻ることはない。

『言葉は肉において現れる』の「受肉の奥義(4)」より

最初の受肉では、神は受肉の働きを完了しなかった。神が肉においてするべき働きの最初の段階を完了しただけである。だから、受肉の働きを完了するために、神は再び肉の体に戻り、肉体のもつすべての正常性と現実を生きている。つまり、神のことばが完全に普通の平凡な肉の体として現れ、それにより、肉においてやり残した働きを完了しようというのである。二度目に受肉をした体は、本質的には最初と変わらないが、もっと現実的で、最初よりもさらに普通なものだ。その結果、第二の受肉の苦しみは最初のそれよりも重いのだが、この苦しみは肉における働きの結果であって、堕落した人間の苦しみとは異なる。これはまた、神の肉の体の普通さと現実から生じている。神が完全に普通かつ現実の肉体で職分を行うため、肉の体は多くの困難に耐えなければいけない。この肉の体が普通で現実のものであればあるほど、神はその職分を果たすために苦しむ。神はごく普通の体、まったく超自然的でない体で働く。神の肉は普通で、人間を救う働きをも担わなければいけないので、その苦しみは超自然の肉よりもはるかに大きい──この苦しみはみな、神の体の現実と正常さから来ている。受肉した二つの体が職分を果たしていたときに受けた苦しみから、受肉した肉の本質がわかる。肉体が普通であればあるほど、働きを行う間、それだけ大きな苦難を神は耐えなければならない。働きをする肉体が現実的であればあるほど、人々の見方は厳しくなり、それだけ多くの危険が神にふりかかることになりがちである。それでも、肉が現実的であればあるほど、肉が普通の人間の必要と完全な理知をもっているほど、肉における働きを神はみごとに取り組むことができる。十字架につけられたのはイエスの肉、罪のための捧げ物としてイエスが捧げた肉体である。普通の人間性をもつ肉体という手段によってイエスはサタンに勝利し、人間を完全に十字架から救った。そして、神の二度目の受肉では、征服の働きを行いサタンを打ち負かすのは完全な肉の体なのである。完全に普通で現実的な肉だけが征服の働きをその全体におよんで行い、力強い証しを示すことができる。つまり、人間征服の働き[a]は、受肉した神の現実性と正常さによって効果的になるのであって、超常的な奇跡や啓示によるのではない。この受肉した神の職分は、話すことであり、それによって人間を征服し、完全にすることにある。つまり、肉として現れた霊の働き、肉の務めは、話すことで、それによって人間を征服し、顕示し、完全にし、淘汰することである。だから、肉における神の働きが完全に達成されるのは、征服する働きにおいてである。最初の贖いの働きは、受肉の働きの始まりに過ぎなかった。征服の働きをする肉は、受肉しての働きを完了させるであろう。性別では、一度目は男、二度目は女。これにより神の受肉の意味が完了する。これは人間の神についての誤解を取り除く。神は男にも女にもなれる。受肉した神には本質的に性別はない。神は男と女を創ったが、性による差別化はしていない。この段階の働きでは、言葉という手段によって働きの成果があらわれるように、神はしるしや不思議を行わない。さらに、今回受肉した神の働きは病人を癒し、悪霊を祓うことではなく、話すことによって人間を征服することで、これは、受肉した神の肉体が本来備えている能力が、言葉を話して人間を征服するというものであって、病人を癒やし、悪霊を祓うためのものではないということである。普通の人間性における神の働きは奇跡を行うことではなく、病人を癒し、悪霊を祓うことはなく、話すことである。だから、第二の受肉をした体は、最初の時よりずっと普通のものに見える。人々は神の受肉が嘘ではないとわかっているが、この受肉した神はイエスの受肉とは異なっている。どちらも神の受肉ではあるが、完全に同じではない。イエスは普通の人間性、平凡な人間性をもっていたが、多くのしるしや不思議を伴っていた。この受肉した神においては、人間の目には、しるしや不思議は何も見えず、病者を癒すことも、悪霊を祓うことも、海の上を歩くことも、四十日間の断食もない。神はイエスがしたのと同じ働きは行わない。それは神の肉が本質的にイエスのものとどこか異なるからではなく、病者を癒したり悪霊を祓うことは、神の職分ではないからである。神は自分の働きを取り壊すこともなければ、自分の働きを妨げたりはしない。神はその実際の言葉で人間を征服するのだから、奇跡で屈服させる必要はない。そして、この段階は受肉の働きを完了するためにある。あなたが今日見る受肉した神は完全な肉の体であって、超自然的な要素は何もない。神は完全に肉の体なのだから、他の人々同様、病気になるし、他の人々同様、食物や衣服を必要とする。今回、受肉した神が超自然のしるしや不思議を見せたなら、病者を癒し、悪霊を祓ったなら、あるいは一言で殺すことができたなら、どうして征服の働きを行えるであろうか。どうして異邦人の国々で働きを広められるであろうか。病人を癒やし、悪霊を祓うのは、恵みの時代の働き、贖いの働きの第一歩であったが、神が人間を十字架から救った今となっては、もはやその働きを神は行わない。もし終わりの日に病人を癒やし、悪霊を祓い、人間のために十字架につけられたイエスと同じ「神」が現れたなら、その「神」は聖書の神の記述と同じで、人間には受け入れ易いであろうが、本質的に、それは神の霊が人間の肉をまとったものではなく、悪霊によるものであろう。すでに成就した働きは二度と繰り返さないのが神の原則だからである。したがって、神の二度目の受肉による働きは、最初の働きとは異なっている。終わりの日には、神は普通の正常な肉体で征服の働きを実現する。神は病人を癒やさず、人間のために十字架につけられることもなく、ただ肉の体で言葉を話し、肉において人間を征服する。このような肉のみが神の受肉された体である。こうした肉の体だけが、神の肉における働きを完了できる。

『言葉は肉において現れる』の「神の宿る肉の本質」より

なぜわたしは、受肉の意味がイエスの働きで完了しなかったと言うのであろうか。それは、ことばが完全に肉の体にならなかったからである。イエスがしたことは、神の肉の体での働きの一部分だけであった。イエスは贖いの働きだけを行い、完全に人間を得る働きはしなかった。そのため、神は終わりの日に再度受肉したのである。この段階の働きはまた、普通の人間の体で、すっかり通常の人間によって、その人間性が少しも超越的でない存在によって行われる。つまり、神は完全な人間になったのであり、身分は神である人、完全な人間、完全な肉の体が働きをする。人間の目には、神はまったく超越的ではない、ただの人間に見える。ごく普通の人物で天の言葉を話すことができ、奇跡的なしるしは何も見せず、何の奇跡も行わず、まして、大きな集会場で宗教についての内的な真理を明らかにしたりはしない。第二の受肉の働きは、人々には最初のものとはまるで違って見える。あまりに違うので、二つには何の共通点もないように見える。最初の働きのようなことは、今回は何も見られない。第二の受肉の働きは最初のものとは異なっているが、それは両者の源が同一ではないということではない。同じかどうかは、肉の体で行われる働きの性質によるのであって、外形によるのではない。三段階の働きの間に神は二度受肉し、いずれのときも受肉した神は新たな時代を開き、新しい働きをもたらした。二度の受肉は相補うのである。人間の目では、二つの肉の体が同じ源から来ていると見極めることは不可能である。言うまでもなく、これは人間の目や心の能力を超えている。しかし、両者の本質は同じである。二人の働きは同じ霊に発しているからである。受肉した二つの体が同じ源から発しているかどうかを判断できるのは、二人の生まれた時代と場所やそのような他の要素によるのではなく、二人の表す神性の働きによるのである。第二の受肉による体はイエスの行った働きは何も行わない。神の働きに慣習的な決まりはなく、それぞれが新たな道を開くからである。第二の受肉は最初の肉に関する人々の心にある印象を深めも固めもしないが、それを補い、完成させ、神についての人間の認識を深め、人々の心にある、あらゆる規則を破り、人々の心にある神についての誤った姿を消し去る。神自身の働きのどの段階も個別には、人間に神についての完全な認識を与えることはできないと言える。各段階は、全部ではなく、一部分だけを与えるのである。神はその性質を完全に示したが、人間の理解力が限られているため、神についての認識はまだ不完全なままである。人間の言語で神の性質を完全に言い表すのは不可能である。まして、神の働きの一段階だけで、どれほど完全に神を表せるだろうか。神は普通の人間性の陰に隠れて肉において働く。そして、その神性が現れてはじめて、人間は神を知ることができるのであり、その外見を見てのことではない。神はさまざまな働きを通して人間が神を知ることができるように受肉するのだが、働きの二段階は同じではない。このようにしてはじめて、人間は肉における神の働きについて、一つの面だけでなく、完全な認識をもてる。受肉しての二度の働きは別々のものだが、肉の本質とその働きの源は同一である。ただ、どちらも二つの異なった段階の働きをするために存在し、二つの別の時代に来るということである。いずれにしろ、受肉した神の肉は同じ本質と由来をもつ。これは誰も否定できない真理である。

『言葉は肉において現れる』の「神の宿る肉の本質」より

イエスは、「言は神と共にあった。」の実体のみを満たす業の段階を行った。神の真理は神と共にあり、神の霊は肉と共にあり、神と不可分であった。つまり、受肉した神の肉は神の霊と共にあったのであり、それは受肉したイエスが最初の受肉した神であったことの大いなる証拠である。この段階の業は「言葉が受肉した」の内面的意味を満たし、「言は神と共にあった。言は神であった。」に一層深い意味を加え、「初めに言があった。」という言葉を、あなたが堅く信じることを可能とした。つまり、神は創造の時に言葉を備え、神の言葉は神と共にあって神と不可分であった。そして、最後の時代には、神の言葉の力と権威は一層明瞭となり、人間は神の言葉すべてを理解できるようになり、言葉全てを聞くことができるようになった。それが最後の時代の業である。…これは2度目の受肉、そして神の最後の受肉の業であるため、この業は受肉の意味を完全なものとし、肉における神の全ての業が完全に遂行され、実施され、肉にある神の時代の幕を閉じる。

『言葉は肉において現れる』の「実践(4)」より

神が受肉して直接行った働きは、すでに経営(救い)全体の働きの90%を完了している。この肉体は神の働きすべての良き始まりと神の働き全部のまとめを提供してきたのであり、神の働きすべてを広め、この働き全体に最終的かつ周到な付け足しをした。だから、もう神の働きには、また神が受肉して行う第四の段階はなく、三度目に受肉した神が驚くべき働きを行うこともない。

『言葉は肉において現れる』の「堕落した人間は受肉した神による救済をより必要としている」より

(一篇の御言葉)

二度の受肉が受肉の意義を完成させる

神による各段階の働きには実質的な意義がある。イエスが来た時男性であったが、今回は女性である。このことから、神はその働きのために男と女の両方を造ったが、神には性の区別がないことがわかる。神の霊が来るとき、それは意のままにいかなる肉体でも持つことができ、その肉体が神を表す。男性であろうと女性であろうと、それが受肉した神である限り、どちらも神を表す。イエスが女として現れたとしても、つまり、男ではなく女の赤子が聖霊によって受胎されたとしても、その働きの段階はまったく同じように完成されたことであろう。もしそうなっていたならば、今回の働きの段階は女性ではなく男性によって完成されなければならず、それでも結局、働きはまったく同じように完成されることになる。両方の段階でなされる働きには意義がある。働きは繰り返されることはなく、お互いに矛盾することもない。その働きの際、イエスは神のひとり息子と呼ばれたが、それは男性であることを示している。それではなぜこの段階でひとり息子のことは言及されていないのか。それは、働きの必要性から、イエスの性とは異なる性へと変更せざるを得なかったためである。神に関しては性の区別はない。神の働きは神の望むようになされ、いかなる制限にも左右されることはなく、非常に自由であるが、各段階には実質的な意義がある。神は二度肉となったが、終わりの日の神の受肉が最後であることは言うまでもない。神はすべての業を明示するために来た。人が目撃できるように、今の段階で神が受肉して自ら働きを行わなければ、人は神は男性にだけなりえるが女性ではないという観念を永久に持ち続けているだろう。これまで、神は男性にだけなりえ、女性は神と呼ばれることはないとすべての人が信じていた。すべての人は男は女に対して権威を持つものとみなしていたからである。権威を持てるのは男だけで、女は誰も持つことはできないと人々は信じており、男は女のかしらであり、女は男に従わねばならず、男を超えることはできないとさえ言った。男は女のかしらであると過去に語られた時、それは蛇にだまされたアダムとエバに関して言われたことであって、初めにヤーウェによって造られた男と女に関してではなかった。男が家族を養えるようにならなければならないのと同様、女は夫に従い、愛さなければならないのはもちろんのことである。これらはヤーウェが示した律法と命令であり、人類は地上の生活において順守しなければならない。ヤーウェは女に「あなたは夫を慕い、彼はあなたを治めるであろう」と言った。こう言ったのは、人類が(すなわち男も女も)ヤーウェの支配下で正常に暮らすことができ、人類の生活が構造を持ち、秩序を失わないようにするためにだけである。従って、ヤーウェは男と女がどう行動するべきかに関する適切な規則を作ったが、この規則は地上に住むすべての創造物にのみ言及するもので、受肉した神に関するものではなかった。どうして神が自分の創造物と同じであり得ようか。神の言葉は創造物である人類にのみ向けられた。それらは人類が正常に暮らせるようにと男と女に対して示された規則であった。最初、ヤーウェが人類を創造したとき、男と女の両方を造った。従って、受肉した神も男性か女性のいずれかに区別された。神はアダムとエバに語った言葉に基づいて働きを決定したのではなかった。神が受肉した二回は、完全に神が人類を最初に造った時の考えに沿って決定された。すなわち、神はまだ堕落していなかった男性と女性に基づいて二回の神の受肉の働きを完成させた。蛇にだまされたアダムとエバにヤーウェが語った言葉を人が神の受肉の働きに適用したら、イエスも果たすべきこととして妻を愛さなければならなかったのではないだろうか。それでもやはり神は神なのだろうか。もしそうなら、神は働きを完成させることができるだろうか。受肉した神が女性であることが間違いならば、神が女を造った時も大きな間違いだったのではないだろうか。神が女性として受肉することが間違いだと人がまだ信じているなら、結婚をせず、したがって妻を愛することができなかったイエスの受肉も現在の受肉と同じように誤りではないだろうか。ヤーウェがエバに語った言葉を使って今日の神の受肉の事実を判定するのなら、恵みの時代に受肉した主イエスを評価するのに、ヤーウェがアダムに語った言葉を使わなければならない。これら二つは同じではないのか。蛇にだまされなかった男に基づいて主イエスを評価するのならば、今日の受肉の事実を蛇にだまされた女に基づいて判断することはできない。それは公正さに欠ける。そのような判断を下すならば、あなたは理性に欠けていることは明らかだ。ヤーウェが二度受肉した時、肉体の性は蛇にだまされなかった男と女に関連していた。神は蛇にだまされなかったそのような男と女に従って二度受肉した。イエスの雄性は蛇にだまされたアダムの雄性と同じだと考えてはいけない。イエスはアダムとはまったく関係がなく、彼らは本質の異なる二人の男性である。確かに、イエスが雄性を持っているからといって、イエスがすべての女だけのかしらであり、すべての男のかしらではないと証明することにはならないのではないか。イエスは全ユダヤ人(男も女も含む)の王ではないのか。イエスは神自身であり、女だけのかしらでなく、男のかしらでもある。イエスはすべての被造物の主であり、すべての被造物のかしらである。どうしてイエスの雄性が女のかしらであることの象徴だと決めることができようか。これは神への冒涜ではないだろうか。イエスは堕落しなかった男性である。イエスは神であり、キリストである。イエスは主である。どうしてイエスが堕落したアダムのような男性でありえようか。イエスはもっとも聖なる神の霊が身に着けた肉体である。どうしてイエスはアダムの雄性を持つ神であるなどと言えようか。それではこれまでの神の働きはすべて間違っていたことになるのではないか。ヤーウェはだまされたアダムの雄性をイエスの中に組みこむことができたのだろうか。現在の受肉は、性はイエスと異なっていても、本質は同様な受肉した神の別の働きなのではないか。それでもまだ受肉した神は女性ではありえない、なぜなら蛇に最初にだまされたのは女だからだとあえて言うのか。女は最も不潔で、人類の堕落の発端なのだから、神が女性として受肉することなど到底ないとまだあえて言うのか。「女はいつも男に従うべきで、決して神を明らかにしたり、直接象徴したりしてはならない」とまだあえて言うのか。あなたは過去に理解しなかった。今でもなお神の働き、とりわけ受肉した神を冒涜できるのか。このことをはっきり理解できないならば、自分の愚かさや無知が明らかにされ、醜さが暴露されないよう、発言にはせいぜい気をつけなさい。自分がすべてを理解していると考えてはいけない。あなたがこれまで目にし、経験してきたことは、すべてわたしの経営計画の千分の一を理解するのにさえ十分ではないとわたしは言う。ではなぜそんなに傲慢なのか。あなたの持っているほんのわずかな才能と最小限の認識では、イエスの働きの一秒に使用するのにさえ不十分である。あなたは実際どれほどの経験を持っているのか。あなたが生涯で見てきたもの、耳にしてきたすべて、想像してきたことは、わたしが一瞬で行う働きより少ない。あら探しをしたり、欠点をみつけたりしないほうがよい。どんなに傲慢でも、あなたはまだアリ以下の被造物なのだ。あなたの腹の中にあるすべては、アリの腹の中にあるすべてよりも少ない。自分が多くを経験し、先輩になったので、思うがままの横柄さで語り、行動してもよいと考えてはならない。あなたの経験があり、先輩であるのは、わたしが発した言葉の結果ではないのか。自分がコツコツ働いた結果、それらを獲得したと信じているのか。今日、あなたはわたしの受肉を見て、その結果、たっぷりと観念を持ち、そこから数え切れないほどの勝手な考えが出て来る。わたしの受肉がなかったら、あなたの才能がどんなに並外れたものであっても、これほどの観念を持つことはないだろう。勝手な考えが生まれるのはここからではないのか。イエスの初めて受肉がなければ、あなたは受肉について何を知っているだろうか。あなたが二度目の受肉を厚かましくも大胆に批判するのは一度目の受肉を知っているからではないのか。いったいなぜ素直に従う代わりに細かく調べなければならないのか。あなたはこの流れに入り、受肉した神の前に来た。どうしてあなたに研究することが許されようか。あなたが自分の家族史を研究するのは結構なことだが、神の「家族史」を研究するなら、今日の神はあなたがそうすることをどうして許せようか。あなたは盲目ではないのか。あなたは自ら屈辱を受けようとしているのではないのか。

イエスの働きが終わりの日のこの段階の補完なしに行われていたら、人は永久にイエスだけが神のひとり子である、すなわち、神は一人の息子しか持たず、別の名前でその後に出て来る者はだれも神のひとり子ではなく、いわんや神自身でもないという観念を持ち続けるだろう。罪の贖いの捧げものとしての役割を果たす者、あるいは神のために力を担う者、また、全人類を罪から救う者は神のひとり子であるという観念を人は持っている。現れる者が男性である限り、その人は神のひとり子、神の代理と見なすことができると信じている人々もいる。そして、イエスはヤーウェの息子、ひとり子であるという人々さえいる。これは人の作った深刻な観念ではないだろうか。今の段階の働きが最後の時代になされなかったならば、全人類は、神について陰に包まれてしまうだろう。もしそうなら、男は自分を女より高い地位にあるものと考え、女は堂々としていることが決してできないだろう。そうなれば、女性はだれも救いを受けないだろう。人々はいつも、神は男で、女を常にひどく嫌い、女には救いを与えないと信じている。もしそうなら、ヤーウェによって造られ、そして堕落したすべての女は決して救いを受ける機会が得られないというのは本当なのではないか。それなら、ヤーウェが女を造ったこと、すなわち、エバを造ったのは無意味だったのではないのか。そして女は永久に消滅するのではないだろうか。従って、終わりの日のこの段階の働きは全人類、女だけでなく全人類を救うことである。この働きは女のためだけでなく、すべての人類のためである。そうでないと考える者は、なおさら愚か者である。

現在なされている働きは恵みの時代の働きを推し進めた。すなわち、六千年経営(救いの)計画全体における働きは前進した。恵みの時代は終わったが、神の働きはさらに前進している。なぜわたしは今の段階の働きは恵みの時代と律法の時代を基礎にしていると繰り返し言うのだろうか。これは、今日の働きは恵みの時代に行われた働きの延長であり、律法の時代に行われた働きを向上させたものであることを意味する。三つの段階は密接に相互関連しており、一つはその次の段階に繋がっている。なぜわたしは今の段階の働きはイエスによってなされた働きの上に築き上げられるとも言うのだろうか。この段階がイエスによってなされた働きの上に築き上げられなければ、キリストの磔刑、つまり過去に行われた贖いの働きはこの段階でなお実行されなければならない。だが、これは無意味なことであろう。従って、働きは完全に終わったのではなく、時代が前進し、働きは以前に比べていっそう高まったということである。今の段階の働きは律法の時代、および、イエスの働きの堅固な支えを基礎に置いて築かれるということができるだろう。働きは段階ごとに築かれ、今の段階は新しい始まりではない。三つの働きの段階の組み合わせのみを六千年にわたる経営(救いの)計画とみなすことができる。今の段階は恵みの時代の働きを基礎にして行われる。これら二つの働きの段階に関連がなければ、なぜ今の段階には磔刑がないのか。なぜわたしは人の罪を背負わないのか。わたしは聖霊による受胎により来るのではないし、人の罪を背負うために磔刑にされることもないだろう。むしろ、わたしは人を直接罰するためにここにいる。磔刑のあとわたしが人を罰しなければ、そして今わたしが聖霊による受胎を通して来るのでないならば、わたしは人を罰する資格がないだろう。わたしがイエスと一つなのであるからこそ、わたしは人を罰し、裁くために直接来るのだ。今の段階の働きは完全に過去の段階を基礎にしている。だからそのような働きだけが段階を追って人を救済に導くことができる。イエスとわたしは同じ霊から来ている。わたしたちの肉体には何の関連性もないが、わたしたちの霊は一つである。わたしたちがすることやわたしたちが担う働きは同じではないが、わたしたちは本質的に同じである。わたしたちの肉体の形は異なるが、これは時代の変化ならびにわたしたちの働きの必要性のためである。わたしたちの職分は同じではないので、わたしたちが作り出す働きや、わたしたちが人に明らかにする性質も異なっている。そういうわけで、今日人が見るものや受け取るものは過去のものと同じではない。それは時代の変化のためである。彼らの肉体の性や形は異なっているが、そして彼らは同じ家族から生まれたのではなく、ましてや同じ期間に生まれたのではないが、彼らの霊は一つである。彼らの肉体は血縁関係も物理的関係も決して共有していないが、それによって彼らが二つの異なる時期において受肉した神であることを否定することにはならない。彼らは同じ血統ではなく、共通する人間の言語を持っていないが(一人はユダヤ人の言語を話す男性であったし、もう一人は中国語しか話さない女性である)、彼らが受肉した神であることは否定できない真実である。これらの理由から、彼らは異なる国で、異なる期間になすべき働きを行う。彼らの霊は同じで、同じ本質を持っているという事実にも関わらず、彼らの肉体の外見には完全な類似性はまったくない。彼らは同じ人間性を共有しているだけで、彼らの肉体の外見と誕生は似ていない。これらのことはそれぞれの働きや、人が彼らに関して持つ認識に何の影響も与えない。なぜなら結局彼らは同じ霊であり、誰も彼らを分けることはできないからである。彼らには血縁関係はないが、存在全体は彼らの霊によって指示されているので、肉体は血統を共有しないままに、彼らは異なる期間に異なる働きを引き受けている。同様に、ヤーウェの霊はイエスの霊の父ではなく、イエスの霊もヤーウェの霊の子ではない。彼らは同じ霊である。今日の受肉した神とイエスと同様である。彼らに血縁関係はないが、彼らは一つである。これは彼らの霊が一つだからである。彼は慈愛と憐れみの働きを行うことができ、同様に義である裁きの働きや人を罰する働き、人にのろいをもたらす働きも行うことができる。結局、彼は世界を破壊し、不道徳な人々を罰する働きを行うことができる。彼はこのすべてを自分自身で行うのではないのだろうか。これは神の全能性ではないのだろうか。神は人のための律法を示し、戒律を発令することができ、また古代のイスラエル人が地上で暮らせるように導き、神殿や祭壇を建造して、イスラエル人すべてを統治するよう指導することができた。その権威のため、神は地上で二千年イスラエル人とともに生きた。イスラエル人はあえて反抗しなかった。すべての人がヤーウェを崇拝し、戒律を守った。この働きはすべて神の権威と全能性によって行われた。恵みの時代、イエスはすべての堕落した人類(イスラエル人だけではない)を罪から救うために現れた。イエスは人に慈愛と憐れみを示した。恵みの時代に人が見たイエスは憐れみに満ちており、いつも愛情にあふれていた。というのは、イエスは人を罪から救い出すために来たからである。イエスは磔刑を受け、本当に人類を罪から救い出すまで人の罪を許すことができた。その間、神は人の前に慈愛と憐れみを持って現れた。すなわち、イエスは人のために罪の生け贄になり、人が永久に許されるように人の罪のため磔刑にされた。イエスは慈悲深く、憐れみ深く、我慢強く、愛情があった。恵みの時代にイエスに従ったすべての人々も、あらゆることにおいて我慢強く、愛情深くあろうとした。彼らはすべての苦しみに耐え、たとえ叩かれても、罵られても、石を投げつけられても、決して反撃しなかった。しかし、この最終段階でそうはならないのは、霊は一つであったにもかかわらず、イエスとヤーウェの働きが異なっていたのと同様のことであった。ヤーウェの働きは時代を終わらせることではなく、時代を導き、地上における人類の生活を先導することであった。しかし今の働きは、異邦人の諸国のひどく堕落した人々を征服し、中国の家族だけでなく全宇宙を導くことである。今、この働きが中国で行われているのをあなたは知っているが、実はすでに海外に広がり始めている。なぜ外国人は何度も真理の道を探し求めるのだろう。それは霊がすでに働きを開始しており、言葉は今や全宇宙の人々に向けられているからである。これはすでに働きの半分にあたる。神の霊は世界が創造されて以来極めて偉大な働きをなしてきた。神は異なる時代にわたって、異なる国々で異なる働きを行ってきた。各時代の人々は、神の異なる性質を見ているが、それは神が行う異なる働きを通して自然に明らかにされる。それは神であり、慈愛と憐れみに満ちている。神は人の罪の生け贄であり、人の羊飼いであるが、人を裁き、刑罰を与え、のろいをかけることもある。神は人が二千年地上で生活するよう導くことができ、堕落した人類を罪から救い出すこともできる。そして今日、神は神のことを知らない人類を征服し、彼らを神の支配下に置き、すべての人が完全に神に服従するようにすることもできる。最後には、神は全宇宙の人々の中の不潔なもの、不義なものをすべて焼き払い、彼らに神が慈愛、憐れみ、英知、不思議、高潔の神というだけでなく、さらには人を裁く神でもあることを示す。全人類の中にある悪い者に対して、神は激しい炎、裁き、懲罰そのものである。完全にされるべき人々に対して、神は試練、精練、苦難であり、同時に慰め、滋養、言葉の供給、取り扱い、刈り込みである。取り除かれる人々にとって、神は懲罰であり、報いである。教えてくれ。神は全能ではないのか。神はあなたが想像した磔刑だけではなく、すべての働きができる。あなたは神のことをあまりに低く考えている。磔刑による全人類の贖罪後、すべては終ると信じているのか。しかも、その後、神に従って天に行き、いのちの木から果実を食べ、いのちの川から水を飲むのか。そんなに単純なことであろうか。教えてくれ。あなたは何を成し遂げたのか。あなたはイエスのいのちを持っているのか。あなたは確かにイエスによって罪から救われたが、磔刑はイエス自身の働きであった。人としてあなたはどのような義務を果たしたのか。あなたは表面的に神を敬っているだけで、神の道を理解していない。それが神を明らかにするあなたの方法なのか。神のいのちを受け取っていなければ、あるいは神の義なる性質のすべてを見ていなければ、いのちを持っている者であると主張することはできず、天の国の門を通過するに値しない。

神は霊であるだけでなく、肉体になることもできる。そのうえ、神は栄光のからだである。あなたたちは見ていないが、イエスはイスラエル人によって、すなわち、当時のユダヤ人に目撃された。彼は最初肉体であったが、はりつけにされた後、栄光のからだになった。神はすべてを包みこむ霊であり、あらゆる場所で働きを行うことができる。彼はヤーウェ、イエス、メシアになれる。最後には全能の神になることができる。それは義であり、裁き、刑罰であり、のろい、怒りであるが、慈愛と憐れみでもある。神の働きはすべてが神を表すことができる。神とはどのようなものだと言うのか。あなたはまったく説明することができないで、「神とはどのようなお方なのか私には説明することはできない」と言えるだけである。ある段階で神が贖いの働きをしたと言うだけで、神は永久に慈愛と憐れみの神であると結論づけてはいけない。あなたは、神はそのようなだけの神であると確信できるのか。もし神が慈悲深く、愛情あふれる神ならば、なぜ終わりの日に時代を終わらせるのだろうか。なぜ神はこれほどたくさんの災難を送り出すのだろうか。あなたが考えるように神が最後まで、最後の時代まで、人に対して慈悲深く、愛情があるならば、なぜ神は災難を天から地上に落とすのだろうか。神が自身のように、また神のひとり子のように人を愛するならば、なぜ疫病やあられを天から地上に落とすのだろうか。なぜ神は人が飢饉や疫病に苦しむのを許すのか。なぜ神は人がこれらの災難に苦しむのを許すのか。あなたたちのだれも神がどのようなものであるのかあえて言わないし、誰も説明できない。神は霊であると確信できるか。神はイエスの肉体だとあえて言うのか。そして、神は人のために永久に磔刑にされる神であるとあえて言うのか。

『言葉は肉において現れる』より

脚注:

a.原文では「・・・の働き」が省略されている。

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