第6節 自分のサタン的性質、および自分の本性と本質を認識することについて

493. 自分を知るためには、自分の堕落の現われ、致命的な弱点、性質、そして自分の本性と本質を認識しなければなりません。また、自宅にいようと外にいようと、集会に出席しているときであれ、神の言葉を飲み食いしているときであれ、また直面する一つ一つの問題においても、日常生活において露わにされるもの、つまりあらゆる事柄に関する動機や観点や態度を詳細に至るまで認識する必要があります。それらを通じて自分を認識するようにならなければならないのです。より深く自分を認識するには神の言葉と一体化する必要があります。神の言葉を基に自分を認識して初めて、あなたは成果を挙げることができるのです。

『キリストの言葉の記録』の「真理を追求する重要性と真理の追求の道」より引用

494. ある人の本質がどのようなものであるかをどのようにして知ることができますか。その人が何もしなかったり、ささいなことしかしなかったりなら、その人の本性や本質がどのようなものであるかを知ることはできません。本性や本質は、人がいつも露呈すること、その人の行動の背後にある動機や意図、その人が抱く欲求、その人が歩む道に見えます。さらに重要なことに、神が用意した環境に遭遇したときにどう反応するかに表れます。また、神がその人に直接したことに何かに遭遇したとき、神により試され、精錬され、取り扱われ刈り込まれるときに見えます。また、神がその人を直接啓き、導くときにも見えます。これらはみな何に関係していますか。人の行動、生き方、振る舞いの原則に関係しています。そしてまた、その人の追い求める方向と目標、追い求める手段に関係しています。つまり、その人が進む道、生き方、生きるためのよりどころ、存在の基礎に関係しているのです。

『キリストの言葉の記録』の「パウロの本性と本質をいかに識別するか」より引用

495. 性質の変化を遂げる鍵となるのは、自分自身の本性を知ることであり、これは神の啓示に従って起こらなければなりません。神の言葉においてのみ、人は自分のひどく醜い本性を知り、本性にあるサタンの様々な毒を認識し、自分が愚かで無知だと気づき、本性の弱点や消極的要素を認識できるのです。これらをすっかり知り、自分自身を憎み、肉に背き、神の言葉を着実に実行し、聖霊と神の言葉に絶対的に従う意志を持つことが本当にできて初めて、ペテロの道を踏み出したことになるのです。

『キリストの言葉の記録』の「自己を認識することは主に人間の本性を知ることである」より引用

496. 神の御言葉を読むとき、ペテロは教義を理解することにも、さらには神学的な知識を得ることにさえ集中していませんでした。その代わりに真理を理解すること、神の心を把握すること、そして神の性質と愛らしさを認識することに心を砕いたのです。ペテロはまた、神の御言葉から人間の様々な堕落した状態を、また人間の堕落した本性や実際の欠点を認識しようと努め、それにより神が人間に課す要求のすべての側面を満たし、神を満足させました。ペテロは神の御言葉において数多くの正しい実践を行ないました。それは神の心にもっともかなっており、また神の働きを経験しつつ人が行なうことのできる最高の協力方法です。神から来る数百もの試練を経験するとき、ペテロは人間に対する神の裁き、暴露、および要求の言葉の一つひとつを鏡として自分自身を厳しく吟味し、これらの言葉の意味を理解しようと努めました。またイエスが彼に言ったあらゆる言葉を真摯に考え、心にとどめようとし、極めて優れた結果を残しました。このような実践の方法を通じて、ペテロは神の御言葉から自分自身を認識するにいたり、人間の様々な堕落した状態だけでなく、人間の本質、本性、様々な欠点をも理解するようになったのです。これが本当に自己を理解するということの意味です。

『キリストの言葉の記録』の「ペテロの道を歩むには」より引用

497. 自分を認識しようとするなら、自分の本当の状態を理解しなければなりません。自分の状態を理解する上で最も重要なのは、自分の思いや考えを把握することです。あらゆる時代において、人の考えは一つの大きな事柄によって支配されてきました。自分の考えを把握できれば、その背後にあるものを把握できます。人は自分の思いや考えを支配できませんが、これらの思考がどこから生じるのか、それらの背後にある動機は何か、これらの思考がどのように生み出されるのか、それらを支配するものは何か、それらの本性は何かは知る必要があります。性質が変化すると、思いや考え、心が追い求める欲望、追求に関する見方など、あなたの中で変化を遂げた部分から生み出される事柄は違ったものになります。あなたの中で変化を遂げていない部分から生じる思考、あなたがはっきり理解していない事柄、真理の経験に置き換えていない物事は、不潔で汚れていて醜いものです。数年にわたって神の働きを経験してきた今日の人には、これらのことに関する認識と感覚がいくらかあります。短期間しか神の働きを経験していない人はこれらのことをまだ理解していません。いまだに不明瞭なのです。そのような人は、自分のアキレス腱はどこなのか、どの方面で容易につまずきがちなのかを知りません。あなたがたは今のところ、自分がどのような人間なのかを知らず、またあなたがどのような人間なのか、他人はある程度まで見ることができるにもかかわらず、あなたはそれを感じ取ることができません。自分の普段の考えや意図をはっきり認識しておらず、これらのことの本質は何かも明確に理解していません。一つの側面を深く認識すればするほど、あなたはその側面においてさらに変化します。そのようにして、あなたが行なう物事は真理と一致し、あなたは神の要求を満たすことができ、神の旨に近づきます。このように追い求めることでのみ、成果を挙げることができます。

『キリストの言葉の記録』の「神に絶えず要求する人は最も理知に欠ける人である」より引用

498. 誰でも自分の言葉や行動により、自分の本当の顔を表すことができる。この本当の顔とはもちろん、その者の本性である。もしあなたがひねくれた話し方をするなら、あなたはひねくれた本性をしている。あなたの本性が狡猾なら、あなたは狡賢く振る舞い、人々を容易に手玉に取る。あなたの本性が陰険なら、あなたの言葉は聞こえが良いかもしれないが、あなたの行動はその陰険さを隠せない。あなたの本性が怠惰なら、あなたの言う事はすべて自分のいい加減さや怠惰さの責任を逃れるためのものであり、あなたの行動は遅くおざなりで、真実を隠すことに長けている。あなたの本性が同情的なら、あなたの言葉は合理的であり、行動もまた真理によく則したものになるだろう。あなたの本性が忠実なら、あなたの言葉は間違いなく誠実であり、あなたの行動のし方は堅実で、主人を不安にするようなことはない。あなたの本性が好色あるいは金銭に貪欲なら、あなたの心は大抵それらのことで一杯であり、人が簡単に忘れられず、かつ人に嫌悪感を与えるような、常軌を逸した不道徳な行動を無意識のうちにとるだろう。

『言葉は肉において現れる』の「極めて深刻な問題――裏切り(1)」より引用

499. 人間の本性をどのように理解しますか。本性を理解するとは、実は魂の深さを分析するということです。それは、いのちの中にあるものにかかわっています。あなたがこれまで生きるにあたり、頼ってきたのはサタンの論理、サタンの観点です。つまり、あなたはサタンのいのちによって生きてきたのです。自分の魂の奥深い部分を掘り起こすことでのみ、あなたは自分の本性を理解できます。どうすれば、そうした物事を掘り起こせるでしょうか。一つや二つの出来事では、掘り起こすことも分析することもできません。何かをやり終えても、いまだ認識に至っていない場合が多くあります。ほんのわずかな認識や理解を得るのでさえ、三ないし五年かかる場合があるのです。多くの状況において、あなたは自分を反省し、自己認識できるようにならなければなりません。そして深く掘り下げて初めて、結果が見られるのです。真理に関する理解が深まるにつれ、あなたは自己反省と自己認識を通じて自分の本性と本質を徐々に知るようになります。自分の本性を認識するには、いくつかのことを成し遂げなければなりません。第一に、自分が何を好むかを明確に理解しなければなりません。これは食べ物や着る物の好みのことではありません。そうではなく、どのような物事を楽しみ、うらやましく思い、崇拝し、求め、心の中で注意を向けているかという意味です。あなたがたはそれをわかっていますか。自分が好む物事の中には、どのようなものが含まれていますか。それは、あなたがいつも注意を払っているもの、あなたが崇拝するもの、またどのような人と触れ合うのを楽しみ、どのようなことをするのが好きか、どのような人を心の中で偶像化するか、ということです。例えば、大抵の人は立派な地位の人、話し方や立ち居振る舞いが優雅な人、説得力のある口上手な人、あるいは芝居がかった振る舞いをする人を好みます。ここで述べたのは、どのような人と交流するのが好きかについてです。どのようなものを楽しむかについては、簡単にできる特定のことをするのをいとわないとか、他者に良いと思われること、それをすれば褒められたり称賛されたりするようなことをするのを好むとかが含まれます。人の本性には、その人の好む物事に共通する特徴があります。つまり、人は他者がその見た目ゆえにうらやむような人や出来事や物事を好み、美しく豪華に見える人や出来事や物事を好み、その外見ゆえに他者が崇拝してしまう人や出来事や物事を好むのです。人が好むこれらの物事は、偉大で目がくらむような、華麗で壮大なものです。人はみなこのようなものを崇拝します。人には真理が一切なく、また真正な人間と似ても似つかないことがわかります。このような物事を崇拝することには、ほんの少しの意義もありませんが、人はそれでもこのような物事が好きなのです。……あなたが何を好み、何に注目し、何を崇拝し、何をうらやみ、毎日心の中で何について考えているのかは、みなあなたの本性を表している。あなたの本性は不義を好み、深刻な場合はあなたの本性は邪悪で救い難いと証明するにはこれで十分だ。あなたはそのように自分の本性を分析すべきである。つまり、自分が生活において何を好み、何を捨てるのかを検証しなさい。あなたは一時的には誰かに好意的かもしれませんが、それはあなたがその人を好きだという証拠にはなりません。あなたがほんとうに好きな物事は、まさにあなたの本性の中にあるものである。たとえ骨折しようが、なお楽しみ、決して手放すことのできないものである。これを変えるのは容易ではない。

『キリストの言葉の記録』の「性質の変化について知るべきこと」より引用

500. 人間の本性を形作るものは何ですか。あなたは人間の堕落、反抗、欠点、欠陥、観念、意図しか知らず、人間の本性の中にある物事を突き止めることができません。つまり、あなたが知っているのは外殻だけであり、その由来を突き止めることができないのです。それは、人間の本性に関する認識とは関係ありません。中には、「ほら、私は人間の本性を知っている。自分の傲慢さに気づいているんだ。それが人間の本性ではないか」と言う人さえいます。傲慢さは人間の本性であり、それは確かに本当です。しかし、それを教義的な意味で認めるだけなら十分ではありません。自分自身の本性を知るとはどういうことですか。どうすれば知ることができますか。どの側面から知るものですか。さらに、人が明らかにする物事を通じて、その人の本性をどう具体的に捉えるべきですか。まず第一に、人の本性は、その人が興味をもつことからわかるものです。例えば、踊ることが特に好きな人、歌手や映画スターが特に好きな人、また特定の有名人をひときわ偶像化する人がいます。このような関心事項から見て、このような人の本性はどのようなものですか。一例を挙げると、特定の歌手をとりわけ偶像化して、その歌手の動きという動き、微笑みという微笑み、言葉という言葉にとりこになってしまう人もいるでしょう。その歌手に夢中になり、着ている物すべてを写真に撮り、真似することさえあります。これほどの偶像化は、その人の本性について何を表していますか。このような人の心にはそうした物事しかなく、神はいない、ということを表しています。この人が考え、愛し、求めるものはすべてサタンの物事です。それらがこの人の心を占め、心はこのような物事に明け渡されてしまっています。ここでの問題は何ですか。何かを極端に愛すると、その物事がその人のいのちとなり心を占め、その人が神を欲せず代わりに悪魔を愛する偶像崇拝者であることが完全に証明されます。そこで、このような人の本性は、悪魔を愛し崇拝し、真理を愛さず神を欲しないものであると結論付けることができます。これは人の本性を見る正しい方法ですか。完全に正しい方法です。このようにして人間の本性を細かく分析するのです。例えば、パウロを特に偶像化する人がいます。出かけて行って演説をし、働きを行うのが好きで、集会に参加して説教することを好みます。人が自分の話を聞いてくれ、自分を崇拝してくれ、自分を取り囲んでくれるのが好きです。人の心の中に地位を持つのが好きで、自分が示すイメージを他の人に高く評価されると喜びます。このような振る舞いから、この人の本性を分析してみましょう。こうした人の本性はどのようなものですか。本当にこのように振る舞うなら、傲慢で思い上がっていることはそれで十分にわかります。神をまったく崇拝していないのです。高い地位を求め、人に対し権威を持ちたい、人を占有したい、人の心の中の地位が欲しいと願います。これは典型的なサタンの姿です。彼らの本性の際立った側面は、傲慢さと思い上がり、神を崇拝する気のなさ、そして人から崇拝されたいという願望です。このような振る舞いにより、その本性をはっきりと見極めることができます。

『キリストの言葉の記録』の「どのようにして人間の本性を知ればよいか」より引用

501. 人の本性を知ることについて言えば、最も重要なのは人の世界観、人生観、価値観からそれを見ることです。悪魔に属する人はみな、自分自身のために生きています。その人生観と座右の銘は、おもに「己を怠る者は、天罰を受け地が滅ぼす」のようなサタンの言い回しから来ています。この世の魔王や偉人や哲学者の語る言葉が、まさに人のいのちになってしまったのです。特に、中国人に「聖人」として喧伝されている孔子の言葉のほとんどが、人のいのちとなっています。また、仏教や道教の有名なことわざや、様々な有名人物のよく引用される古典的な言葉もあります。これらはみな、サタンの哲学とサタンの本性の骨子です。これらはまた、サタンの本性を最もよく描写し、説明するものでもあります。人の心に染み込んだこのような毒は、みなサタンから来ています。神から来ているものなど、そこにはひとかけらもありません。そのような嘘やたわ言は、神の言葉と正反対でもあります。肯定的な物事すべての現実は神から来るものであり、人を毒する否定的な物事はすべてサタンから来るものだということは、まったくもって明らかです。したがって、人の本性と、その人が誰に属しているのかは、その人の人生観と価値観から見極めることができるのです。サタンは国家政府や有名人や偉人の教育と影響力を通して人間を堕落させます。彼らの嘘とたわ言が人間のいのちと本性になったのです。「己を怠る者は天罰を受け地が滅ぼす」はサタンの有名な格言であり、全ての人に浸透し、人のいのちとなっています。ほかにもこれに類似する処世哲学の格言があります。サタンは各国の洗練された伝統文化を用いて人々を教育し、人類を果てしない破滅の淵へと陥れます。そして最終的に、人間はサタンに仕え神に抵抗したために神に滅ぼされるのです。何十年も社会で活動してきた人に、「あなたは長いことこの世で暮らし、多くのことを成し遂げてきたわけですが、あなたが生きる上でおもに頼りにしている有名な諺は何ですか」と質問したとしましょう。すると相手は「一番大切なのは『官吏は贈物する者を叩かず、お世辞を言わない人は何も成し遂げられない』です」と答えるでしょう。この言葉はその人の本性を表わしてはいませんか。地位を得るためならどんな手段でも平気で使う、というのがその人の本性になっており、役人になることがその人の生き甲斐なのです。人の生活、行動や振る舞いには、サタンの害毒がいまだ数多く存在し、それらに真理はほぼまったくありません。例えば、人の処世哲学、物事の仕方、金言は赤い大きな竜の害毒に満ち、それはすべてサタンから生じたものです。ゆえに、人の血肉に流れているのはどれもサタン的な物事なのです。そのような役人、権力者、成功者はみな、成功に至る道と秘訣をもっています。そのような秘訣は、彼らの本性を完全に表わしてはいませんか。彼らはこの世でかくも大きなことを成し遂げましたが、それらの裏にある企みや策略を見抜ける人はいません。そのことは、彼らの本性がいかに狡猾で悪意に満ちているかを示しています。人類はサタンによってあまりに深く堕落させられてきました。サタンの害毒がすべての人の血に流れており、人の本性は目に見えて堕落し、邪悪であり、反動的であり、サタンの哲学に満ちています。それは完全に神を裏切る本性です。人が神に抵抗し、神と敵対するのはそれが理由です。このように分析すれば、人の本性は誰でも知ることができます。

『キリストの言葉の記録』の「どのようにして人間の本性を知ればよいか」より引用

502. 人が神の働きを経験し、真理を得るまで、人を内側から管理し支配するのはサタンの本性です。この本性は具体的に何を伴っているでしょうか。例えば、あなたはなぜ利己的なのですか。なぜ自分の地位を守るのですか。なぜあなたの感情はそんなに強いのですか。なぜそうした不義な物事を好むのですか。なぜそのような悪を好むのですか。あなたがそのような物事を好む根拠は何ですか。それらの物事はどこから来るのですか。あなたはなぜそれらを喜んで受け入れるのですか。それらの物事の背後にある主たる原因として、そこにはすべてサタンの毒が含まれていることをあなた方は今ではみな理解しています。サタンの毒とは何かといえば、それは言葉で十分表現できます。例えば、邪悪な行いをする人に、なぜそのような事をするのかと聞くならば、こう答えるでしょう。「己を怠る者は、天罰を受け地が滅ぼす」この単純な言葉が問題の根源を表しています。サタンの論理が人々のいのちとなり、人はさまざまな目的で物事を行うかもしれませんが、とにかく全て自分の為に行います。「己を怠る者は、天罰を受け地が滅ぼす」のだから、人は自分のために生き、自分にできるあらゆることをして良い地位を確保し、必要な食べ物や衣類を手に入れなければならないと、人はみな考えます。「己を怠る者は、天罰を受け地が滅ぼす」これが人のいのちであり、哲学であり、また人間の本性を表しています。この言い習わしこそサタンの毒であり、人の中に取り込まれるとそれは人の本性となるのです。サタンの本性はこの言葉をとおして暴露されています。サタンの本性を完全に表現しています。この毒は人のいのちとなり、人の生存の基礎ともなります。何千年もの間、堕落した人類はこの害毒に支配されてきました。サタンの行動は、全てサタン自身のためのものです。サタンは神を超越し、神から自由なり、自ら権力を振りかざし、神が創造した万物を所有したいのです。ゆえに、人間の本性はサタンの本性なのです。実のところ、多くの人の座右の銘は、その人たちの本性を表し、反映することができます。どんなに自分をごまかそうとしても、人の言動のすべてにおいて本性を隠すことなどできないのです。決して本当のことを語らず、見せかけに長けた人がいますが、他者がその人としばらく交流すれば、その人の不実な本性、完全な不誠実さが突き止められます。結局、他の人たちはある種の結論に至るでしょう。つまり、この人たちは本当のことを一言も語らず、嘘つきであると。この言葉が、そのような人の本性を物語っています。それはその人の本性と本質の最もよい説明であり、証拠でもあります。そのような人の処世哲学とは、誰にも真実を語らないこと、そして誰も信じないことです。人間のサタン的本性には哲学が大いに含まれています。あなた自身が気づきさえせず、理解していない場合もありますが、それでもあなたの人生の一瞬一瞬が、それにもとづいているのです。その上、あなたはこの哲学が正しく、理にかなっており、誤っていないと思っています。そのことは、サタンの哲学が人間の本性となり、人間がサタンの哲学に完全に従って生き、それに一切抗わないことを十分示しています。ですから、人はサタン的な本性を絶えず露呈し、あらゆる点において絶えず自らのサタン的な哲学に沿った生き方をしているのです。サタンの本性は人間のいのちなのです。

『キリストの言葉の記録』の「ペテロの道を歩むには」より引用

503. 私たちの心に存在するありとあらゆることは、神に反対するものです。そこには、私たちがよいと考えているものや、肯定的であるとすでに信じているものさえ含まれます。私たちはこれらの事柄を、真理、正常な人間性の一部、肯定的なものとして列挙しますが、神の観点から見れば、これらは神が忌み嫌う事柄です。私たちが考えることと神が語る真理とのあいだには、計り知れない溝があります。だから、私たちは自分自身を知らなければなりません。自分の思考や観点や行動から、自分が受けた文化的教育に至る一つ一つの事柄に、深く掘り下げ徹底的に分析する価値があるのです。その中には社会環境に由来するものもあれば、家庭に由来するもの、学校教育に由来するもの、書籍に由来するものもあります。また自分の想像や観念に由来するもあります。このような事柄は最も恐ろしいものです。なぜなら、それらは私たちの言動を縛って操り、精神を支配し、行動における動機や意図や目標を導くからです。これらのことを掘り起こさなければ、自分の中に神の言葉を完全に受け入れることはなく、神の要求を無条件に受け入れることも、それを実践することも決してありません。自分の見解や観点、あるいは自分が正しいと信じる事柄についての確信を抱くかぎり、あなたは神の言葉を十分かつ全面的に受け入れず、それを本来の形で実践することもありません。まず自分の心で処理してからでないと、きっとそれを実践に移さないのです。それがあなたのやり方となり、また他人を助ける方法ともなります。たとえ神の言葉について交わったとしても、あなたは常に自分の不純を混ぜ合わせ、これが真理を実践することだとか、自分は真理を理解し、そのすべてを自分のものにしたなどと考えるのです。人間の状態はあわれではありませんか。恐ろしくはありませんか。

『キリストの言葉の記録』の「自分の誤った考えを認識することでのみ自己認識ができる」より引用

504. 自己反省と自分を知ることの鍵は、以下の通りです。ある分野において自分がよくやってきた、あるいは正しいことをしてきたと感じれば感じるほど、または、自分はある種の分野で神の旨を満足させられるとか、自慢に値するなどと考えれば考えるほど、その分野で自分自身を知り、それを深く掘り下げ、自分の中にどんな不純なものがあるのか、自分の中の何が神の旨を満足させられないのかを認識する価値が増します。パウロを例にとりましょう。パウロはとりわけ知識があり、説教の働きにおいてとても苦しみました。多くの人が彼のことをとりわけ崇拝しました。その結果、パウロは多くの働きを成し遂げたあと、自分のために王冠が取っておかれるだろうと思い込んでしまいました。そのせいでますます間違った道を進んでいき、最後は神によって罰せられたのです。そのとき自分を反省し分析していれば、そのようには考えなかったでしょう。言い換えれば、パウロは主イエスの言葉から真理を求めることに集中せず、自分の観念と想像を信じるだけでした。いくつかのよい行ないをし、よい振る舞いを示すかぎり、神に讃えられ報いられると考えていたのです。結局のところ、パウロの観念と想像は、彼の霊の目を塞ぎ、本当の顔を覆い隠しました。しかし、人々はこのことを知らず、神がそれを明るみに出すこともなかったので、パウロのことを到達すべき水準、生きるべき模範とし続け、彼のようになることを切望しました。パウロは人々が追い求める対象、模倣の対象になったのです。パウロに関するこの話は、神を信じるあらゆる人への警告となります。つまり、自分がとりわけよくできたと感じたり、何らかの点でとりわけ才能に恵まれていると思ったりするたび、あるいは変わる必要も取り扱われる必要もないと考えるたび、その点についてさらに反省し、自分自身を知るよう努めなければなりません。これは必要不可欠なことです。と言うのも、あなたはきっと、自分が優れていると信じる点について、実はそこに神への反抗が含まれているかどうかを確かめるべく、掘り起こすことも、注目することも、分析することもしていないからです。

『キリストの言葉の記録』の「自分の誤った考えを認識することでのみ自己認識ができる」より引用

505. 自身の本性に関する人の認識は過度に表面的で、神による裁きと暴きの言葉との間に大きな溝があります。これは、神が明らかにすることに誤りがあるのではなく、むしろ人間が自己の本性に関する深い認識を欠いているのです。人には根源的、本質的な自己認識がありません。その代わり、自分の行動や表に現われることに集中し、そこに精力を費やすのです。自分を認識することについて誰かが時々何かを言ったとしても、それはさほど深いものではありません。誰一人として、こんなことをしたから、あるいは何かを露呈したから自分はこのような人間だとか、このような本性をもっているなどと考えたことはありません。神は人の本性と本質を明らかにしましたが、人間は自分の物事のやり方や話し方に欠点があって不完全なのだと理解します。ゆえに、人が真理を実践するのは骨の折れることなのです。人は、自分の過ちは一時的な表われに過ぎず、それが自分の本性の表われというよりは、不注意に露呈してしまったものだと考えます。自分をこのように見なす人は、真理を実践しません。真理を真理として受け入れることができず、真理を渇望しないからです。したがって、そのような人は真理を実践するとき、おざなりに規則に従うだけです。人は自分の本性があまりに堕落しているとは見なさず、滅ぼされたり罰せられたりするほど自分はひどくないと信じています。時々嘘をつくのは大したことでなく、自分は過去に比べてずっとよくなったと考えます。しかし実際のところ、そのような人は基準に達するにはほど遠い状態にあります。外面的には真理に背かない行動をとるだけで、実際には真理を実践していないからです。

『キリストの言葉の記録』の「本性の理解と真理の実践」より引用

506. 自己認識があまりに浅い場合、人が問題を解決するのは不可能で、そうなると自分のいのちの性質はどうしても変わりません。自分自身を深く知ることが必要であり、それは自分自身の本性を知ることを意味します。つまり、その本性にどのような要素が含まれているのか、そうした物事がどのように生まれ、どこから来たのか、ということです。さらに、あなたはこれらを実際に憎むことができますか。自分の醜い魂と邪悪な本性を見ましたか。自分自身の真実を本当に見ることができるなら、自分を忌み嫌うようになります。自分を忌み嫌い、それから神の言葉を実践すると、肉に背くことができ、難なく真理を実行する強さを持つことができます。なぜ多くの人は自分の肉体的な好みに従うのでしょうか。そのような人は自分のことを極めて良いと見なし、自分の行動は正しく、正当化され、自分には何の落ち度もなく、完全に道理があるとすら思っているので、正義は自分の側にあるという前提で行動することができてしまうのです。自分の真の本性が何なのか、どれほど醜く、卑劣で、哀れであるかに気が付くと、人は自らをあまり誇りに思わず、ひどく傲慢ではいられず、以前のようには自分にそれほど満足しません。「私は誠実になって地に足をつけ、神の言葉をいくつか実践しなければならない。そうでなければ、人であるという基準に達せず、神の面前で生きるのが恥ずかしくなるだろう」とその人は感じます。その人は自分はちっぽけで取るに足らないと本当にわかります。この段階では、その人が真理を実践するのは簡単で、より人間らしく見えます。自分自身を真に忌み嫌って初めて、人は肉に背くことができます。自身を忌み嫌わないのなら、肉に背くことはできません。自分自身を真に憎むことは、二、三のことから成ります。第一に、自分の本性を知ること。第二に、自分自身を貧しく哀れであり、極めて小さく取るに足りない者と見なし、自分の哀れで汚れた魂を見ることです。自分が本当は何であるのかを完全に悟ったとき、そしてこの結果が得られたとき、人は自分自身を真に知り、完全な自己認識を得るに至った、と言うことができます。そうして初めて、自分自身を呪うほどに真に憎むことができ、人間とは似ても似つかぬほどサタンによって深く堕落させられたと真に感じることができるのです。そうなると、ある日、死の脅威が現れると、そのような人は思います。そうなると、ある日、死の脅威が現れると、そのような人は思います。「これは神の義なる罰なのだ。神は本当に義なる方だ。私は本当に死ななければならない」この時点で、この人は不満を抱くことも、ましてや神を責めることもなく、自分は神によって消し去られなければならないほど貧しく惨めで、汚れていて、堕落しており、自分のような魂は地上で生きる資格などないと感じるだけです。この時、この人は神に抵抗することも、ましてや神を裏切ることもありません。自分自身を知らずに、いまだに自分を極めて良いと思っている人は、死が近づいて来たら、こう思います。「私は信仰においてこんなによくやってきた。どんなに努力して追い求めてきたことか。こんなにも与え、こんなにも苦しんできた。なのに最後は、神は私に死ねと言うのか。神の義はどこにあるのか。なぜ神は私に死ねと言うのか。私みたいな人間でさえ死ななければならないのなら、誰が救われるというのか。人類は終わりを迎えようとしているのではないのか」まず第一に、この人は神について観念を抱いています。第二に、この人は不平を言い、服従の欠片も見られません。これはまさにパウロと同じです。パウロは亡くなる寸前にも自分自身を知りませんでした。そして神の罰がそばに迫った時には、悔いても遅かったのです。

『キリストの言葉の記録』の「自己を認識することは主に人間の本性を知ることである」より引用

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