日々の神の御言葉: 終着点と結末 | 抜粋 607

2020年11月1日

神を信じる者として、あなたがたは、あらゆることにおいて他ならぬ神一人に忠実で、あらゆる物事について、神の心に沿わなければならない。だが、皆がこの教えを理解していても、無知・不条理・堕落といった人間の中にある厄介なものがその原因で人間にとって最も明らかで基本的なこの真理を十分に皆の中で具現化されているのを見ることはできない。したがって、あなたがたの最終的な結末が決定される前に、まず、あなたがたにとって最も重要なことをいくつか話しておかなければならない。その前に、まず、次のことを理解しておきなさい。わたしの語る言葉は、特定の人や特定の種類の人に対するものではなく、すべての人に向かって示す真理である。だから、真理という観点からわたしの言葉を受け取ることにただ集中しなさい、そして集中心と誠意を常に持ち続けなさい。わたしの語る言葉、また語る真理のひとつでも無視したり、軽蔑したりしてはいけない。わたしはあなたがたが日々の生活の中で、真理と無関係なことを数多く行っていることを分かっている。だから、わたしはあなたがたにはっきりとお願いしておきたい。真理のしもべとなり、邪悪さや醜さの奴隷となることがないように。真理を踏みにじって、神の家の片隅でも汚すことのないようにしなさい。これが、あなたがたへの忠告である。さて、主題に移ろう。

第一に、あなたがたの運命のため、神に認められることを求めなさい。それはつまり、神の家の一員であることを自覚しているのなら、あらゆる物事において神の心に安らぎと満足とをもたらすようでなければならない。つまり、自らの行いを律し、真理に適うような者でなければいけないということである。もしそれが到底できないというのであれば、神に嫌われ、見捨てられ、みなから拒まれることになってしまう。そんな状態になったのでは、神の家の一員とはいえない。それは神の承認を受ける者ではないということである。

第二に、神は正直な人を喜ぶということを知っておきなさい。神は本質的に信実で、その言葉は常に信頼できる。さらに、神の業には誤りも疑問の余地もない。だから神は、自分に対して完全に正直な者を愛すのである。正直であるということは、神に心を捧げるということである──何事にも神を偽らないこと、あらゆることについて、神に率直であること、事実を隠そうとしないこと、上の者に対して偽りなく、下の者を惑わすことがないこと、そして、神に取り入る為だけに物事をするようなことが決してないこと。つまり、正直であるということは、言行において不純でないことであり、神をも人をも欺かないということである。わたしの言っていることはまことに単純なことだが、あなたがたにとっては二重に困難なことである。言行において正直であるよりは、地獄に落とされたほうがましだと思う人は多いだろう。当然ながら、不正直な人々のために別の処遇が用意されている。もちろん、あなたがたが正直な人間であるために直面する大きな困難は、わたしも分かっている。あなたがたはとても賢く、自分の観点から他人を裁くのに巧みだ。それだからわたしの仕事はずっと簡単だ。あなたがたは、それぞれ心に秘密を抱いている。それでは、あなたがた一人一人に火の「試練」を下し、わたしの言葉への信仰に心から従うよう、仕向けよう。最後に、あなたがたの口から「神は信実な御方である」という言葉をねじり取ろう。そうすれば、あなたがたは自分の胸をたたいて、「人間の心は曲がっている」と嘆くことになる。そうなると、あなたがたの心はどういう状態になるだろう。今のように自尊心にまかせて行動することはなくなるだろう。今のように「自分は深遠すぎて理解されない」と言っているわけにはいかなくなるだろう。神の前ではきちんと振る舞い、とりわけ「礼儀正しい」けれど、霊の前では反抗的で放埒な行いをする者もいる。そのような人をあなたがたなら正直な者の数に入れるだろうか。もしあなたが偽善者で「社交」上手であるなら、あなたは神を軽んじていると断言しよう。もしあなたの言葉が言い訳と無価値な正当化だらけだとしたら、あなたには、真理を行おうという気持ちがないのだ。もしあなたが他人に言うことのできない秘密を多数抱え込んでいながら、光明を求めて自分の秘密──自分の中にあるやっかいな部分──を他人に打ち明けないでいるとしたら、あなたが救いを受けることは難しく、闇から抜け出すことも容易ではない。もしあなたが真理の道を求めることに喜びを感じるのなら、あなたはしばしば光の中に生きている。神の家で奉仕する者であることを喜ぶ人で、人に知られなくとも勤勉に、良心的な仕事をし、決して何かを得ようとせず、常に与える者であるのなら、その人は忠実な聖徒だと言おう。報いを求めず、ただ正直であるのだから。率直であろうとし、すべてを与える心があり、神のために命を犠牲にして証しすることができるのなら、正直で、神が喜ぶことだけを願い、自分のことは考えず、自分のためには何も求めようとしないなら、そのような人は光に養われ、神の国で永遠に生きるのである。真の信仰と真の忠実さとが内にあるかどうか、神のために苦難を受けたことがあるかどうか、神に心から従っているかどうか、自分の心に尋ねればわかるだろう。もし、そうしたものが欠けているのなら、あなたの心の内には、不服従、欺き、貪り、不満が残っている。心が正直でないから、神に認められたこともなく、光の中で生きたこともない。人間が最後にどうなるかは、その人が正直で神への強い想いがあるか、清い魂の持ち主かどうかにかかっている。極めて不正直で、悪意に満ち、汚れた魂をもっているなら、その人の終着点は人が罰せられる場所だ。もしあなたが、自分は極めて正直だと言いながら、真理に適う行いをすることも、真実を語ることもしないとしたら、それでも神があなたを報いてくれると期待するだろうか。それでも神が、あなたをこの上もなく慈しんでくれると期待するだろうか。そんな考えは非常識ではないだろうか。あらゆることで神を欺いていながら、どうしてあなたのように手の汚れた者を神の家が受け入れることができようか。

第三の忠告だが、まず神を信じる者はみな、これまでたどってきた道のどこかで神に逆らい、神を欺いたことがある。過ちの中には、不正として記録する必要のないものもあるが、赦されないものもある。その多くは行政に背くものであり、神の性質に逆らうものだからである。自分の運命を心配する多くの人々は、それはどういう行いかと尋ねるだろう。あなたがたは、自分が本来、傲慢で尊大であり、事実を受け入れることを望んでいないということを知らなければならない。だから、まずあなたがたが自らを省みた後、少しずつ教えていこう。行政の内容をよく理解し、神の性質を知るようにしなさい。そうでなければ、唇を閉じていることができず、いつまでも偉そうなことをまくしたてるだろうから。無意識の中に神の性質に逆らい、闇に落ち、聖霊と光とを失うことになる。あなたがたは、行いにおいて無原則だからだ。してはいけないことをし、言ってはいけないことを言うなら、相応の罰を受けることになる。あなたは言葉と行いにおいて無原則であっても、神はそのいずれにおいても、まことに原則がある。あなたが罰を受けるのは、人にではなく、神に背いたからだ。もし、あなたの人生で神の性質に背くようなことを幾度もしたのであれば、あなたは地獄の子ということになる。人間の目には、真理に沿わないことを少ししただけのことと見えるだろう。しかしながら、神の目からすると、あなたのためには、もう罪を贖う捧げ物がないのだということは、わかっているだろうか。あなたは行政に何度も背いていながら、悔い改めようとしなかった。そのため、地獄に落とされ、神の懲罰を受けるしかないのだ。神に従ってきた僅かな人達は、原則に背く行いをしたけれども後に取り扱われ、導きを受け、徐々に自らの堕落を知り、現実の正しい道を歩み、今も正しい基礎の上にしっかりと立っている。そうした人々は、最後までその道から外れることはないだろう。わたしは正直な人を求めている。もしあなたが正直で、正しい行いをするのなら、あなたは神の心を知ることができる。行いにおいて神の性質に背かず、神の意志を求め、神を敬う心を持つなら、あなたの信仰は基準に達している。神を崇め、震えるほど神を恐れる心がない者は、容易に神の行政に背いてしまうだろう。多くの人が感情に基づいて神に仕え、神の行政をも知らず、ましてや神の言葉の深い意味など分からずにいる。そして良いことをしているつもりが、神の計画を妨げているようなことがしばしばある。深刻な妨げをする者は見捨てられ、もはや神に従う機会は与えられない──彼らは地獄に投げ込まれ、神の家とは何の関係もなくなる。そうした人は、神の家で無知な善意をもって働き、結果、神の怒りを引き起こしてしまう。人々は、役人や主君に仕えるやり方を神の家に持ち込み、そういうやり方がここで通用すると、無益に思い込んでいる。彼らには、神は羊ではなく、獅子の性質を持っているとは、思いもつかない。そのため、初めて神と関わった者は、神と交わることができない。神の心は人間のそれとは異なっているのだから。多くの真理を理解して初めて、いつでも神を知っていられるようになる。この認識は文字や教義ではなく、神の心を知る宝、神があなたを喜んでいる証となるものである。真の認識を欠き、真理を自らのものとしていないのなら、あなたの感情に基づいた奉仕は神に嫌われ、憎まれるだけである。このように、あなたは、神を信じることが、単に神学を学ぶことではないということを理解できるだろう。

わたしの忠告は短いものではあるが、これらはみな、あなたがたに最も欠けているものだ。今、話をしていることは、人間の中での最後の働きのためであり、人間の結末がどうなるかを決定するものなのだ。これ以上、無意味なことは、もうしたくない。枯れ木のようにどうしようもない人々、ましてや邪悪な意図をもつ人々を導き続けることも、したくない。おそらく、いつの日か、わたしの言葉に込められた心からなる願いと、わたしが人類のために行ったことが、あなたがたに理解されることだろう。おそらくいつか、あなたがたが自分の最終的な運命を決定する原理をはっきりと理解する日が来ることだろう。

『神の出現と働き』「三つの訓戒」(『言葉』第1巻)より

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