日々の神の御言葉: いのちへの入り | 抜粋 429

2020年9月3日

神の言葉を取り上げて臆面もなく説明できたとしても、あなたが現実を自分のものにしていることにはならない。物事は、あなたが想像するほど単純ではない。あなたが現実を自分のものにしているかどうかは、あなたが何を言うかではなく、あなたが何を生きているかに基づいている。神の言葉があなたのいのちとなり、あなたの自然な表現となって初めて、あなたには現実があると言うことができ、またその時初めて、真の理解と実際の霊的背丈を得たと見なされる。あなたは長期にわたる試験に耐え、神が求める人間らしさを生きることができなければならない。それは単なるポーズではなく、自分から自然と流れ出るものでなければならない。その時初めて、あなたは真に現実を自分のものとし、いのちを得ていることになる。誰もがよく知っている効力者の試練を例に取ろう。効力者に関する高尚な理論を持ち出すことは誰にでもできて、誰もがこの主題についてそこそこ理解している。彼らはそれについて話し、あたかも競い合っているかのごとく、一人ひとりの話が直前のものより優れている。とは言え、大きな試練を経たことがないなら、その人に優れた証しがあるとはとても言い難い。要するに、人間が生きることには依然として大いに不足があり、その人の理解とまったく正反対のものである。したがって、それはいまだ人間の実際の霊的背丈になっておらず、依然として人のいのちでもない。人間の理解がいまだ現実の中にもたらされていないので、その人の霊的背丈は依然として砂上の楼閣のようにぐらつき、今にも崩壊しそうである。人間が自分のものにしている現実はあまりに乏しく、人間の中に何らかの現実を見出すことはほとんど不可能である。人間から自然と流れ出る現実はほとんどなく、彼らが生きている現実はどれも強いられたものである。そのためわたしは、人間には現実がまったくないと言うのである。人は、神に対する自分の愛は決して変わらないと主張するが、彼らがそう言うのは、試練に直面する前だけである。ある日突如として試練に見舞われると、彼らが語ることは再び現実離れしたものになり、そのことは人間に現実がまったくないことをまたもや証明する。自分の観念に合わないことや、自分自身を脇にのける必要があることに遭遇するたび、そうしたことはあなたの試練だと言える。神の旨が明かされるのに先立ち、誰もが厳しい試験と計り知れない試練を経る。あなたにそれが理解できるだろうか。神は人々を試そうとする時、実際の真実が明かされるのに先立ち、いつも彼らに選択させる。つまり、神は人を試練に晒す時、決して真実を伝えないということである。人はそのようにして暴かれる。これは神が自身の働きを行なう一つの方法であり、それによってあなたが今日の神を理解しているかどうか、現実を自分のものにしているかどうかを確かめるのである。あなたには神の働きに関する疑念が本当にないのか。大いなる試練があなたに臨む時、本当に揺るぎなく立つことができるだろうか。「何の問題もないことは請け合います」などとあえて言う者がいるだろうか。「他の人たちは疑念を抱いているかもしれませんが、私は決して疑いません」などとあえて断言する者がいるだろうか。それはまさに、ペテロが試練に晒された時と同じである。真実が明かされる前、彼は常に大口を叩いていた。これはペテロだけの個人的な欠点ではなく、誰もが現在直面している最大の問題である。もしもわたしが数ヵ所を訪れたり、何名かの兄弟姉妹たちを訪問したりして、今日の神の働きに関するあなたがたの理解がどのようなものかを確かめるなら、あなたがたは自分の認識についてきっと多くのことを語ることができ、また何の疑念も抱いていないように見えるだろう。「あなたは本当に、今日の働きが神自身によって行なわれていると断定できるのか。何の疑念もなく」と、わたしがあなたに尋ねたならば、あなたはきっと「まったく疑いの余地なく、それは神の霊によって行なわれている働きです」と答えるだろう。ひとたびそのように答えた後、あなたに一抹の疑念もないことは確実で、自分は少しばかり現実を得たと思い、大いに満足さえするはずだ。物事をこのように認識しがちな人は、自分のものにしている現実が少ない人である。自分は現実を得たと考えれば考えるほど、試練に直面した際に揺るぎなく立つことができなくなる。傲慢で横柄な者に災いあれ。自分自身を知らない者に災いあれ。このような人間は、口は達者だが、言葉を行動に移す際に最もひどい目に遭う。ほんの少しでも困難の兆しがあると、このような人たちは疑念を抱き始め、あきらめようかという思いが心に忍び込む。彼らは現実を一切持ち合わせておらず、彼らにあるものといえば、宗教の上位にある理論だけで、神が現在要求している現実はまったくない。理論の話をするだけで、現実を一切自分のものにしていない者を、わたしは最も忌み嫌う。彼らは自分の働きを行なう時こそ一番大きな声で叫ぶが、現実に直面するとたちまち動揺する。そのことは、この人たちに現実が一切ないことを示しているのではないか。風や波がどれほど激しくても、あなたが一抹の疑念も心に入るのを許さずに立ち続け、たとえ他に残された者がいなくなっても揺るぎなく立ち、一切否定しないでいられるなら、あなたは真の理解を得て、現実を本当に自分のものにしているとみなされる。風の吹くほうを向くばかりで、多数派に付き従い、他人の言うことをそのまま繰り返すことを学ぶなら、あなたがどれほど雄弁であろうと、それはあなたが現実を自分のものにしている証拠にはならない。したがって、空虚な言葉を早まって大声で叫んだりしないよう、あなたに勧める。あなたは、神が行なおうとしていることを知っているのか。ペテロのように振る舞ってはならない。さもなければ、あなたは自分に恥をもたらし、堂々としていられる能力を失う。こんなことは誰の為にもならない。大半の人には真の霊的背丈がない。神は実に多くの働きを行なったが、人々に現実をもたらしてはいない。より具体的に言うと、神はまだ誰も自ら罰していないのである。中には、このような試練によって暴かれた者もいる。つまり、おのれの罪深い手をさらに伸ばしつつ、神に勝るのは簡単であり、好きなことを何でもできると考えている者である。彼らは、この種の試練にさえ耐えられないので、さらに厳しい試練はもっての他、現実を自分のものにすることもまた問題外である。彼らは単に神を欺こうとしているのではないか。現実を自分のものにすることは、見せ掛けられることでもなければ、知ることで達成できることでもない。それはあなたの実際の霊的背丈に左右され、また、あなたがあらゆる試練に耐えられるかどうか次第である。あなたは理解できただろうか。

『神の出現と働き』「真理を実践することだけが現実を自分のものにすることである」(『言葉』第1巻)より

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