日々の神の御言葉「神の裁きと刑罰に神の出現を見る」抜粋536

日々の神の御言葉「神の裁きと刑罰に神の出現を見る」抜粋536

145 |2020年9月28日

神の言葉の一つ一つが私達の急所を突き、私達は悲嘆にくれ、恐れる。神は私達の観念を明らかにし、想像を明らかにし、堕落した性質を明らかにする。私達の言動の全て、思いや考えの一つ一つを通して、私達の本性や本質は神の言葉によって明らかにされ、私達は辱められ、恐怖で震える。神は、私達の行動、目的と意図、それに自分でも知らなかった堕落した性質までを私達に示し、私達を徹底的にさらけ出された気持ちにさせ、さらには完全に納得した気持ちにさせる。神は、私達が神に反抗したことを裁き、神に対する冒涜と糾弾を理由に私達を罰し、私達は神の目には何の価値もなく、生きたサタンそのものであると思わせる。私達の希望は粉々にされ、もはや神に対する理不尽な要求や企てはしなくなり、私達の夢さえも一夜にして消える。これは、私達の誰も想像できず、受け入れることのできない事実である。一瞬、私達は心のバランスを失い、この先どうやって続けていけば良いのか、どうやって私達が信じることがらを保ちつつ続けていけば良いのか分らなくなる。まるで自分達の信仰が振り出しに戻り、主イエスに出会ったことも、親しんだこともなかったような気持ちになる。目の前のこと全てが私達を混乱させ、どこか漂流しているような気持ちにさせられる。私達は狼狽し、落胆し、そして心の奥深くには押さえきれない憤りと屈辱がある。私達はうっぷんを晴らそうと試み、出口を探そうと試み、その上、救い主イエスを待ち続けて、胸の中を打ち明けようと試みる。表面上は放漫にも謙虚にも見えないときもあるが、私達は心の中でこれまでにない喪失感に苦しんでいる。ときには表面上はいつになく冷静に見えるかもしれないが、内面では波打つ海原のような苦悶に耐えている。神の裁きと刑罰は、私達の希望と夢の全てを奪い去り、私達の途方もない望みはもはや無く、あの人が救い主で、私達を救うことができるということを信じようとはしない。神の裁きと刑罰は私達と神との間に深い溝を広げ、誰もそれを渡ろうとさえしない。神の裁きと刑罰によって、これほどの挫折と屈辱を初めて感じたのである。私達は、神の裁きと刑罰によって、神の名誉と人による侮辱に対する神の不寛容を本当に認識した。それと比べて私達はなんと卑しく汚れていることか。神の裁きと刑罰によって私達は初めて、いかに自分達が傲慢で尊大であるか、そして人間は決して神と同等ではなく、神と肩を並べることはないことを悟らされた。神の裁きと刑罰によって、私達はこのような堕落した性質の中でもはや生きていかないことを切望するようになり、そのような本性と本質からできるだけ早く抜け出し、もう神から憎まれたり、神に嫌悪感を起こさせることのないようにと願うようになった。神の裁きと刑罰によって、私達は神の言葉に喜んで従うようになり、もはや神の指揮と計画に反抗する気持はなくなった。彼の裁きと刑罰によって、私達は再びいのちを追い求めるようになり、喜んで彼を救い主として受け入れるようになった。私達は、征服する働きから立ち去り、地獄から抜け出し、死の影の谷から抜け出た…全能神は、私達この集団に属する人間を得たのだ。神はサタンに打ち勝ち、全ての敵を倒したのだ。

『言葉は肉において現れる』より引用

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