日々の神の御言葉: いのちへの入り | 抜粋 572

2020年10月7日

日々生じる大小様々なことがあなたの決意を揺るがしたり、心を占めたり、本分を尽くして前進するのを妨げたりしますが、それらは注意深く取り扱う必要があり、丹念に検証し真理を求めなければなりません。それらはどれも人の経験の範囲内で起こることなのです。否定的なことが降りかかると自分の本分をあきらめ、躓くたびに這い上がれない人がいます。そうした人はみな真理を愛していない愚か者であり、信仰に生涯を捧げたとしても真理を得ることはないでしょう。そうした愚か者がどうして最後まで従えるでしょうか。同じことが自分に十回起きても、そこから何も得ないのであれば、あなたは凡庸な役立たずです。賢明な人、霊的な物事を理解する真の素質をもつ人こそ、真理を求める人です。何かが十回起きたとすれば、おそらくそのうち八回は、何らかの啓示を得て教訓を学び、啓きを得て多少の進化を遂げるでしょう。霊的な物事を理解しない愚か者に何かが十回起きても、一度たりともいのちに益をもたらさず、その人を変えることもなく、その人が自分の本性を理解できるようにもならないでしょうし、その人はそれで終わりです。何かが起きるたびに倒れ、倒れるたびに他の誰かの支えと慰めを必要とし、支えと慰めがなければ立ち上がれません。何かが起きるたびに倒れる可能性があり、そのたび堕落の危機に瀕しているなら、その人はそれで終わりではないですか。こうした役立たずが救われる他の根拠はあるでしょうか。神による人類の救いは、真理を愛する人の救いであり、その人の意志と決意、および心の中での真理と義に対する切望の救いです。人の決意というのは、義と善と真理に対するその人の切望であり、良心を有しているその人の一部分なのです。神は人のその側面を救い、それを通じて彼らの堕落した性質を変え、それによって彼らが真理を理解して自分のものとし、彼らの堕落が清められ、いのちの性質が変わるようにします。そうしたものがあなたの中になければ、あなたが救われることはあり得ません。真理への愛、あるいは義と光への切望があなたの中になければ、また悪に遭遇するたび、悪しき物事を捨てる意志も、苦しみに耐える決意もなければ、そしてさらに、あなたの良心が麻痺していて、真理を受ける能力が感覚を失っており、あなたが真理や実際の出来事を認識していなければ、また万事において識別力を欠き、自力で物事に対処したり解決したりすることができなければ、救われる術はありません。このような人には何のとりえもなく、働きかける価値があるものも何一つありません。彼らの良心は麻痺し、精神はぼんやりしており、心の奥底で真理を愛しておらず、義を切望することもありません。また神がどれほど明確に、あるいは明瞭に真理を語ろうとも、すでに死んだかのように反応しません。このような人は終わっているのではありませんか。息があれば人工呼吸で救えるでしょうが、すでに死んで魂が去っているなら、人工呼吸は何の役にも立ちません。問題が生じるたびにひるんでそれを避けようとするのであれば、それは証しをしていないことを意味します。ゆえにあなたは決して救われず、完全におしまいです。問題が自分に降りかかったときは、冷静になって正しく取り組み、選択を行なわなければなりません。真理を用いて問題を解決できるようになるべきです。普段から多少の真理を理解しておくのは何のためですか。それは単にあなたの空腹を満たすためでも、ただあなたに話題を提供するためでもなく、他人の問題を解決するためでもありません。何より、真理は自分自身の問題、自分自身の困難を解決するためのものです。自分自身の困難を解決して初めて、他の人たちの困難を解決することができるのです。ペテロが実を結んだ者と言われているのはなぜですか。それは、彼の中に価値あるもの、完成させる価値のあるものがあったからです。ペテロは真理を求める決意をしており、固い意志がありました。理知があって苦難をいとわず、心の中で真理を愛し、降りかかるものをそのままにしませんでした。これらはすべて強みです。あなたにこれらの強みが一つもなければ、それは問題です。あなたは経験できず、何ももたず、他人の困難を解決することもできません。どう入るべきか知らないからです。何かが降りかかると混乱し、動揺して涙を流し、消極的になって逃げ出し、何をしても正しくそれに対処できません。

『終わりの日のキリスト講話集』「第三部」(『言葉』第3巻)より

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