日々の神の御言葉: 神を知る | 抜粋 10

2021年11月29日

神を畏れず悪を避けないことは、神への反逆

現在、あなたがたは神と神の言葉と面と向かっています。あなたがたの方が神については、ヨブよりも遥かによく認識しています。なぜわたしはこのことを取り上げるのですか。わたしがこのようなことを言う目的は何ですか。わたしはあなたがたにある事実を説明したいのですが、その前に質問があります。ヨブは神のことをほとんど知りませんでしたが、それでも神を畏れ悪を避けることができました。それでは、現在の人間にそれができないのはなぜですか。(深く堕落しているからです。)「深く堕落している」のは、問題を起こしている表面的な現象ですが、わたしはそのことを決してそのようには見ません。あなたがたは、「深い堕落」や「神への反逆」「神に対する不誠実」「不従順」「真理を愛していない」など、一般によく言われる教義や字句をしばしば取り上げて、それらの決まり文句を使ってすべての問題の本質を説明しようとします。これは誤った実践の仕方です。性質が異なる様々な問題を説明するのに同じ語句を用いるというのは、必然的に真理や神への冒涜の疑いを生じさせます。わたしは、そのような回答を聞きたくありません。このことをじっくり考えなさい。あなたがたのうち誰もこの問題を考えたことがありませんが、わたしにはそれが毎日見え、感じられます。あなたがたが行動するあいだ、わたしは見ているのです。何かをしているとき、あなたがたにはその本質を感じることはできません。しかし、わたしが見ると、わたしには本質が見え、感じることができます。その本質とは何ですか。なぜ現在の人は、神を畏れ悪を避けることができないのですか。あなたがたの回答では、この質問の本質を説明することは到底できず、問題の本質を解決することもできません。なぜなら、問題にはあなたがたが知らない根源があるからです。その根源とは何ですか。あなたがたがそれについて聞きたいことはわかっていますので、この問題の根源について話します。

神が働きを開始して以来、神は人間をどのように見なしてきましたか。神は人間を救済しました。つまり、神は人間を神の家族の一員、神の働きの対象、征服し救いたい存在、完全にしたい対象と見なしました。神が働きを始めた当時の神の人間への態度は、このようなものでした。しかし、当時の人間の神への態度はどうでしたか。神は人間にとって疎遠で、人間は神を見知らぬものとみなしました。人間の神に対する態度は正しい成果を得られず、人間は神への接し方を明確に知らなかったと言うことができます。そこで、人間は神を自分の好きなように扱い、好きなことを行ないました。人間には神について意見がありましたか。当初は、ありませんでした。人間が意見と呼んでいたものは、単に神に関する観念や思い込みでした。人間は自分の観念に当てはまるものを受け入れ、観念に該当しないものについては、表面上は従ったものの、心の奥では強く反感を抱き、反対しました。これが当初の人間と神の関係でした。つまり、神は人間を家族とみなしましたが、人間は神を見知らぬ存在として扱ったのです。しかし、一定期間にわたる神の働きの後、人間は神が何を実現しようとしているのかを理解するようになり、神が真の神であることを知りました。また、神から何を得ることができるかも、人間にはわかるようになりました。当時、人間は神をどのようにみなしていましたか。人間は神を命綱とみなし、神の恵みと祝福、約束を得ることを願っていました。その頃、神は人間をどのようにみなしていましたか。神は人間を征服対象と見なしていました。神は言葉により人間を裁き、試し、試練を与えることを望みました。しかし、この時点の人間にとっては、神は自分の目標を達成するために利用できるものでした。人間は、神が告知した真理は人間を征服し救えること、そして人間には神から自分が受け取りたいもの、自分が欲する終着点を得る機会があることを知りました。そのため、人間の心には僅かな誠意が生まれ、この神に付き従ってもよいと思うようになりました。しばらくして、神に関する表面的な教義上の知識を得たため、人間は次第に神と、神の語る言葉、神の教え、神が与えた真理、神の業に徐々に「馴染んで」いったと言えます。したがって、神が見知らぬ存在ではなくなり、神と融和するようになる道を人間はすでに歩み始めた、と誤解するようになりました。現在まで、人間は真理に関する説教を数多く聞き、神の働きを数多く体験してきました。しかし、様々な要素や状況による干渉や妨害を受け、大部分の人はうまく真理を実践することも、神を満足させることもできません。人間は益々怠惰になり、自信を喪失しています。自分の結末が不明であるという感覚が強まるのを感じています。人間は敢えて遠大な理念を持つことなく、進歩しようとしません。不本意ながら付き従い、一歩ずつ前進するだけです。現在の人間の状態について、神の人間に対する態度はどのようなものですか。神はただそうした真理を人間に与え、人間に神の道を浸透させ、様々な方法で人間を試すために様々な状況を用意したいだけなのです。神の目標は、そうした言葉、真理、業により、人間が神を畏れ悪を避けることができるような結末をもたらすことです。わたしが見てきた大部分の人は、神の言葉を単に教義、字句、従うべき規則とみなしているだけです。言動において、あるいは試練に直面しているとき、このような人は神の道を遵守すべき唯一の道とみなしません。人間が大きな試練に直面したときは、特にそうです。そのようなときに神を畏れ、悪を避ける方向で実践している人をわたしは見たことがありません。そのため、神の人間に対する態度は、激しい嫌悪と反感に満ちているのです。神が人間に繰り返し、時には数百回にわたって試練を与えても、「わたしは神を畏れ、悪を避けたい」という決意を証明する明らかな姿勢が人間には見られません。人間にはこの決意が欠けており、またそのような意思表示をしないので、神の人間に対する現在の態度は、神が憐れみや寛容、忍耐や我慢を示していた過去の姿勢と同じではありません。むしろ、神は人間に極めて深く落胆しています。こうした落胆の原因となるのは、誰ですか。神の人間への態度を左右するのは誰ですか。それは、神に付き従う一人ひとりの人間です。長年におよぶ働きのなかで、神は人間に数多くのことを要求し、人間のために様々な状況を手配してきました。しかし、人間が何をし、神にどのような態度を取るにせよ、神を畏れ悪を避けるという目標に明白に従って実践できていません。したがって、あるまとめの文章を挙げて、その文章を用いて、これまで話した、なぜ人間は神を畏れ悪を避けるという神の道を歩むことができないのか、ということについてすべて説明します。その文章はどのようなものですか。それは、これです。「神は人間を神の救いの対象、神の働きの対象とみなす。人間は神を自分の敵、正反対のものとみなす」。今では、これについて明確に理解していますか。人間の態度とは、神の態度とは、人間と神の関係とは何かは、極めて明瞭です。どれほど数多くの説教を聞いたとしても、あなたがたが自分で結論付けたこと、すなわち神に忠実であること、神に従うこと、神と融和する道を求めること、生涯を神のために捧げようとすること、神のために生きることなどは、わたしにとっては、意識的に神の道を歩むこと、つまり神を畏れ悪を避けることの具体例ではなく、あなたがたが特定の目的を達成することができる道筋にすぎません。目的を達成するために、あなたがたは不本意ながら規則に従うのです。そして、まさにこのような規則こそが、神を畏れ悪を避ける道から人間を遠く引き離し、神を人類に反対する立場に再び置くのです。

今日の話題は、多少重いですが、どのようなものであれ、今後の経験において、わたしがたった今述べたことをあなたがたが実行できることを願っています。神を空気のように、自分に都合の良いときだけ存在し、それ以外のときは存在しないもののようにみなしてはなりません。ひとたび意識下にそのような思いを持つと、すでに神を激怒させているのです。おそらく「神を空気とみなしたことはないし、常に神に祈り、神を満足させようとしている。自分の行動はすべて神の要求する範囲、基準、原則に該当する。独自の考えで実践していないのは絶対だ」と言う人がいるかも知れません。確かに、この実践方法は正しいです。しかし、何らかの問題に直面したとき、どう思いますか。問題に直面したら、どのように実行しますか。神に祈り、願い事をしているときには神の存在を感じるけれど、問題に直面するたびに、自分の考えを持ち、それに固執したがる人がいます。これは、神を空気のような存在とみなすことで、こうした状況では神は人の考えでは存在しなくなります。人間は、神は自分が必要なときに存在すべきで、不要なときは存在すべきでないと、自分の考えに従って実践すれば、それで十分であると考えます。自分の好きなように何でもできると考えているのです。神の道を求める必要があるとは、どうしても考えないのです。現在こうした状況になり、こうした状態から出られなくなっている人は、危険を自ら招いているのではありませんか。「危険を自ら招いていようといまいと、自分は長年にわたり信仰を続けてきたし、神に見捨てられることはないと思う。なぜなら、わたしを見捨てることなど神には耐えられないので」と言う人がいます。また、「自分が母親の胎内にいたときから、通算四十から五十年間、主を信じてきた。時間に関して言えば、神に救われ、生き残る資格が最もある。この四、五十年間に、家族も仕事も捨てた。金銭や地位、楽しみや家族で過ごす時間など、持っていたものすべてを捨てた。贅沢な食事をしたこともなく、楽しみに興じたこともない。あちこちおもしろい場所を訪ねたこともない。しかも、普通の人には耐えきれないような苦悩も経験してきた。それでも神がわたしを救えないとしたら、わたしは不当に扱われていることになり、そのような神は信じられない」と言う人もいます。このような考え方の人は多くいますか。(はい。)それでは、今日、あなたがたがある事実を理解できるようにしてあげます。こうした考え方の人はみな、自分の首を絞めるようなことをしているのです。なぜなら、想像で自分の目を覆っているからです。まさに人間の想像、人間による勝手な結論が、神が人間に満たすことを要求する基準に取って代わり、神の真の心意を受け入れるのを阻害しています。それにより、人間は神の真の存在を感じられないようになり、神に完全にされる機会を喪失し、神の約束にあずかることも関与することもできなくなるのです。

『言葉は肉において現れる』より引用

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