日々の神の御言葉: 神を知る | 抜粋 119

2021年10月30日

人間の五つの種類

ここで、神の義なる性質に関する交わりを一旦終了します。次に、あなたがたが現在いる段階と、現在の霊的背丈を把握できるように、神に付き従う人を、その神についての認識、神の義なる性質に関する認識と経験に基づいて数種類に分類します。神についての認識と神の義なる性質に関する認識や経験に関して、人の段階と背丈は、一般的に五種類に分類できます。この論題は、唯一無二の神と神の義なる性質を認識していることを前提としています。したがって、以下の内容を読み進めるに当たっては、神の独自性と神の義なる性質について、自分には正確にどの程度の理解と認識があるかを注意深く見極めるように努めなくてはなりません。そして、それに従って、自分が本当にどの段階にいて、どの程度の霊的背丈があり、どの種類の人間であるかを判断しなければなりません。

第一の類型――産着にくるまれた赤子の段階

「産着にくるまれた赤子」とは何を意味しますか。産着にくるまれた赤子は、この世に生を受けたばかりの子供、新生児です。それは、人間が一番未熟な時期です。

この段階の人間は、基本的に神への信仰についての認識や意識が皆無です。そのような人は、あらゆる物事について当惑し無知です。長期間にわたり神を信じてきた人も、そうではない人もいますが、その当惑し無知な状態と実際の霊的背丈のために、産着にくるまれた赤子の段階に分類されます。この段階の状況を正確に定義すると、次の通りになります。この段階の人間は、どれほど長く神を信仰してきたとしても、常に考えがぼんやりと混乱しており、愚かです。自分が神を信仰する理由も、神が誰であり、誰が神であるかも知りません。神に付き従いながらも、心には神とは何かという具体的な定義がなく、自分が付き従っているのが神であるか否かを判断できないどころか、神を信仰し神に付き従うべきであるか否かもわかりません。これがこの種の人の実情です。その考えは不明瞭で、端的に言えば、その人の信仰も混乱しています。この種の人は常に当惑と空虚の状態にあります。ぼんやり、混乱、愚かさといった言葉がこの種の人の状態を概して表現します。この種の人は神の存在を見たり感じたりしたことがないので、この人と神を知ることについて議論することは、象形文字で書かれた書籍を読ませるようなものです。すなわち、そうした議論を理解することも、受け入れることもありません。この人にとって、神を知ることは、架空の物語を聞くことと同じです。その思想は不明瞭であるかもしれませんが、実のところ、その人は神を知ることは時間と労力の無駄であると固く信じています。これが第一類型の人、産着にくるまれた赤子です。

第二の類型――乳飲み子の段階

産着にくるまれた赤子と比較すると、第二の類型の人は、ある程度の進歩をしています。しかし、残念なことに、この種の人は、神については一切の認識がありません。依然として神に関する明瞭な理解や識見が欠如し、なぜ神を信じるべきなのか、あまり明確ではないのです。しかし、心には独自の目的と明瞭な考えがあります。この種の人は、神を信じるのが正しいか否かについては関心がなく、神への信仰を通して求める目標や目的は、神の恵みに与り、喜びと平安を得て、快適な生活を送り、神の思いやりと保護を享受し、神の祝福の下で生きることです。この種の人は、自分がどの程度神を知っているかについては関心がなく、神を理解しようと求める衝動がなく、神が何をしているか、神が何をしたいと望んでいるかにも関心がありません。ただ盲目に神の恵みを享受し、神の祝福を多く得ることを求めているだけです。この種の人はこの時代に百倍を求め、次の時代には永遠のいのちを求めます。この人の思いや努力、献身、そして苦難でさえも、すべて神の恵みと祝福を得るという共通の目的のためになされます。それ以外のことには無関心なのです。この種の人が確信しているのは、神が人の安全を守り、自分に恵みを与えるということだけです。この種の人は神が人類を救いたい理由や、神が言葉や業により達成したい結果には興味もなければ、はっきりした考えもないと言うことができます。神の本質や義なる性質を知るために努力したこともなく、そのために関心を奮い起こすこともできません。このようなことに注意を向ける傾向もなく、知りたいとも思わないのです。この種の人は神の働き、神の人間に対する要求、神の心、その他神に関する事柄について問いかけたいとは思わず、また問いかけるような傾向もありません。なぜなら、これらの問題が自分が神の恵みを享受することとは無関係だと考えており、自分の個人的利益と直接的に関連して存在し、人間に恵みを与えることができる神にしか関心がないからです。こうした人はそれ以外のことに一切興味がないので、神を何年間信仰していようとも、真理現実に入ることができません。頻繁に水を注いだり糧を授けたりしてくれる人がいなければ、この人が神への信仰の道を歩み続けることは困難になります。こうした人は、これまでどおりの喜びと平安や神の恵みを享受できなければ、去って行くことがよくあります。これが第二類型の人、乳飲み子の段階にある人です。

第三の類型――乳離れした子、あるいは幼子の段階

この類型の人には、ある程度の明瞭な意識があります。神の恵みを享受することは、自分自身に真実の体験があるということではないことを認識しています。この種の人は、喜びと平安、恵みを求めることに飽き足らなくても、また神の恵みを享受した体験を分かち合ったり、神から与えられた恵みゆえに神を讃えたりすることで証しすることができるとしても、それは自分にいのちや真理の現実があることを意味するものではない、ということを心得ています。その意識から始まって、このような人は神の恵みにのみ伴われるというとてつもない希望を抱かなくなります。それどころか、神からの恵みを愉しみつつ、神のために何かをしたいと望むようになります。自分の本分を尽くし、少しの困苦と疲労に耐え、神とある程度協調することをいといません。しかし、この種の人による神への信仰の追求はあまりに不純で、心に抱く個人的な意図や望みも強過ぎ、その人の性質もやたらと傲慢であるため、その人が神の望むことを満足させたり、神に忠実でいたりすることは極めて困難です。したがって、この種の人は個人的な望みを実現することも、神との約束を守ることもできないことがよくあります。多くの場合、この種の人は自己矛盾に陥ります。すなわち、可能な限り神を満足させたいと願う一方で、持てる力の限りを用いて神に反対し、また神に忠実を誓っても、すぐに誓いを破ることがあります。ほかの形の自己矛盾に陥ることも多くあります。すなわち、真摯に神を信じる一方で、神と神に由来するものすべてを否定します。神に啓かれ、導かれ、施され、助けられることを切望する一方で、自分の逃げ道を求めます。神を理解し知りたいと願う一方で、神に近づくことを避けようとします。その代わりに常に神を回避し、神に対して心を閉ざしています。神の言葉と真理の文字通りの意味について表面的な認識と経験があり、神と真理に関しても表面的な概念をわきまえている一方で、意識下では神が真理であることも、神が真に義なることも確信、断言することが依然としてできません。また、神の性質と本質が真実であることも、ましてや神の真の存在を確信することもできないのは当然です。この種の人の神の信仰には、常に疑念と誤解、想像と観念が混ざっています。この種の人は神の恵みを享受しつつ、実行可能だと自分がみなす幾つかの真理をしぶしぶ経験したり実践したりします。これは、自分の信仰を豊かにし、信仰経験を増大させ、神への信仰についての自分の理解を確認し、自ら打ち立てた人生の行程を歩み、人類にとって義なる事業を達成させて虚栄心を満たすためです。同時に、祝福を得たいという自らの欲望を満たすためでもあります。これは人類のためにさらなる祝福を得ることを願ってする賭けの一部です。また、神を得るまでは休みたくないという大志と一生涯の願望を叶えるためでもあります。この種の人はめったに神の啓示を得られません。なぜなら、神の祝福を得るという願望と目的の方がその人にとって重要過ぎるからです。こうした人は諦める気はなく、また諦めることに耐えられません。恵みを得る願望や、神を得るまで休みたくないという長年にわたり大事にしてきた願望がなければ、神を信仰する動機を喪失すると考えています。従って、現実と対峙することを望みません。神の言葉や働きに対峙することを望まないのです。神の性質や本質を認めることを望まず、ましてや神を知るという題目に言及することさえ望みません。それは、ひとたび自分の想像が神、神の本質、神の義なる性質に置き換えられたなら、自分の夢が煙のように消えてなくなり、自分が純粋な信仰と呼んでいるものや、何年もの間、苦労して築き上げた「功績」が消滅し、無に帰してしまうからです。またそれは、自分が長年にわたって血と汗で獲得してきた「領土」が崩壊の危機に瀕するからです。これは、この種の人の長年にわたる苦労と努力が無駄であったこと、ゼロから再出発しなければならないことを意味します。この種の人にとって、これは最も耐えがたい心痛であり、一番恐れる結果です。したがって、この種の人は常にこのような行き詰まり状態にあり、後戻りすることを拒否しています。これが第三類型の人、乳離れした子供の段階にある人です。

以上の三種類の人、つまり三段階のそれぞれにある人は、神の身分や地位、神の義なる性質に関して、いかなる真の信仰もなく、これらの物事について、明確で正確な認識も確信もありません。したがって、この三種類の人にとって、真理の現実性に入ることは極めて困難であり、神の憐れみ、啓き、照らしを得ることも極めて困難です。なぜなら、このような人の神への信仰のあり方と神への誤った態度のせいで、神が彼らの心で働くことは不可能だからです。彼らの神に関する疑念、誤解、想像は、彼らの神への信仰や認識を凌駕しています。これら三種類の人は、危険に直面しており、極めて危険な段階にいます。ある人が神、神の本質、神の身分、神は真理であるかということ、神の存在の現実性に対して疑念ある態度を維持し、これらの事柄について確信できないとき、神から来るものをすべてどうして受け入れることができますか。神が真理であり、道であり、いのちであるという事実をどうして受け入れることができますか。神の刑罰や裁きをどうして受け入れることができますか。神の救いをどうして受け入れることができますか。このような人がどうして神の真の導きと施しを得ることができますか。これら三段階にある人は、いつでも神に反抗し、神を裁き、冒涜し、裏切ることができます。いつでも真理の道を離れ、神を捨てることができます。これら三段階にある人は、危機的時期にあると言うことができます。なぜなら、このような人は、神への信仰の正しい道に入っていないからです。

第四の類型――成長期の子段階、あるいは子供時代

子が離乳した後、つまり豊富な恵みを享受した後、その子は神への信仰とは何を意味するのかを探求するようになり、人間はなぜ生きているのか、人間はどのように生きるべきか、神はなぜ人間に働くのかなどの様々な疑問を理解したいと思うようになります。このようなあいまいな考えや混乱した思考形式が内に現れ、そのまま残ったときでも、人は水やりを受け続け、自分の本分を尽くすことができます。この時期になると、人は神の存在の真実についてはもはや一切の疑念がなくなり、神への信仰が何を意味するかを正確に把握しています。この基盤の上に、神についての認識を徐々に積み上げ、神の性質や本質についての自分のあいまいな考えや混乱した思考形式に何らかの回答を徐々に得ます。人間の性質の変化と神に関する認識については、この段階の人は正しい軌道に乗りだし、過渡期に入ります。人のいのちが真に始まるのは、この時期です。人がいのちを自分のものにしていることの明確な兆候として、神を知ることに関して心にある様々な疑問、すなわち、神に関する誤解、想像、観念、漠然とした定義が徐々に解決してゆくことがあります。さらに、神の存在の現実性を心から信じ認識するだけでなく、心の中に神の明瞭な定義と神のための正しい場所を持つようになり、漠然とした信仰に代わって、真に神に付き従うようになります。この段階において、人は神に関する自分の誤解や誤った信仰の追求とあり方を徐々に認識するようになります。真理を、また神の裁き、懲らしめ、鍛錬を体験することを、自らの性質の変化を渇望するようになります。この段階の人は、神に関するありとあらゆる観念と想像を徐々に捨て、同時に神についての自分の誤った認識を正し、正しく基本的な認識を得ます。この段階の人が持つ認識の一部は、それほど具体的でも正確でもありませんが、少なくとも神に関する自分の観念や誤った認識や誤解を徐々に捨てるようになり、もはや自分の観念や想像を持ち続けることはありません。人は捨て方を身に着けるのです。すなわち、自らの観念に含まれているもの、知識から来るもの、サタンから得たものを捨てる方法です。正しく肯定的なもの、さらには神の言葉に由来し、真理に適合することに従うようになります。また、神の言葉を体験して、自ら神の言葉を知り、実行し、自らの行動原則と性質を変化するための基礎として神の言葉を受け入れようと努めるようになります。この時期の人は、神の裁きと刑罰を無意識のうちに受け入れ、神の言葉を自分のいのちとして無意識のうちに受け入れます。神の裁き、刑罰、神の言葉を受け入れながら、自分の心の中で信じる神が実在することをますます強く意識し、感じることができるようになってゆきます。神の言葉において、また経験と生活の中で、神が常に人間の運命を支配し、常に人間を導き、人間に施してきていることを次第に強く感じるようになるのです。自分と神との関係を通して、次第に神の存在を確認します。したがって、自分で気付く前に、無意識のうちに神の働きをすでに受け入れ、固く信じるようになっており、神の言葉も受け入れています。ひとたび神の言葉と働きを受け入れると、人は自分自身や、自分の観念、知識、想像を絶え間なく否定し、同時に、真理とは何か、神の心とは何かを絶え間なく追い求めるようになります。人が持つ神についての認識は、発達のこの時期では極めて表層的で、その認識を明確に言葉で説明したり、詳細にわたって表現したりできず、感覚的な認識しかありません。それでも、この段階と前の三段階を比較すると、この段階にいる人の未熟ないのちは、すでに水やりと神の言葉による施しを受けており、芽が出始めています。この段階の人のいのちは、地中の種のようなもので、水分と栄養素を得ると土を割って芽を出し、この萌芽は新たないのちの誕生を意味します。この誕生により、人はいのちの徴候を見て取ることができます。いのちを得ると人は成長します。したがって、この基礎の上で、つまり神への信仰の正しい軌道へと徐々に進み、自分の観念を捨て、神の導きを得ることで、人のいのちは必然的に一歩ずつ成長します。この成長は何を基準として計測されますか。人の神の言葉における経験と、神の義なる性質についての真の理解にしたがって計測されます。この成長段階にいる人は、神と神の本質についての自分の認識を自分の言葉で正確に説明するのを極めて困難であると感じるものの、もはや神の恵みを享受することで自己中心的に悦楽を追求しようとも、神の恵みを得るという個人的な目的のために神を信仰することもありません。その代わりに、神の言葉に基づいて生き、神の救いの対象となることを追い求めます。さらに、自信を持って神の裁きと刑罰を受ける準備ができている。これが、この成長段階にある人の印です。

この段階にある人は、神の義なる性質についてある程度の認識を持っているものの、その認識は極めて不明瞭です。この段階の人はこのようなことを明瞭に説明することができない一方、自分は内面的に何かをすでに得たと感じています。なぜなら、神の刑罰と裁きにより神の義なる性質についてのある程度の認識と理解を得たからです。しかし、それは極めて表面的であり、まだ初歩段階にあります。この段階の人には、神の恵みを取り扱うときの具体的な視点があります。それは、人が追求する目的とその目的の追求方法に起こる変化に表れます。人は神の言葉や働きに、神の人間へのあらゆる要求事項や人への明かしに、もし自分が神の言葉を体験しながら、いまだに真理を追求せず、現実性に入ろうとせず、神を満足させ、神を知ろうとしないままでいたならば、神を信仰することの意味がなくなるということをすでに理解しているのです。どれほど神の恵みを享受していようと、人は自分の性質を変えることができず、神を満足させ、神を知ることができないことを知っており、それでも神の恵みの下で生き続けるならば、人は成長することも、いのちを獲得し、救いを得ることもできないことがわかっています。要するに、神の言葉を真に体験することができず、神の言葉を通して神を知ることができないのなら、人は永遠に赤子の段階に留まり、いのちにおいて一歩も成長することがないということです。永遠に赤子の段階のままで、神の言葉の現実性に入ることがなく、自分のいのちとして神の言葉を持つことがなく、神への真の信仰も神の認識も持たないのであれば、そんな人が神に完全にされる可能性がありますか。したがって、神の言葉の現実性に入る人、神の言葉を自分のいのちとして受け入れる人、神の刑罰と裁きを受け入れ始める人、堕落した性質が変化し始める人、真理を渇望する心と、神を知りたいという願望、神の救いを受けたいという願望がある人はみな、真のいのちを自分のものとする人です。これが第四類型の人、成長する子供の段階、子供時代にある人です。

第五の類型――成熟の段階、あるいは成年期

人が子供時代をよちよちと歩き、前進と後退を繰り返す成長期を経験した後、そのいのちは安定し、停滞することなく前進するようになり、誰もその前進を阻むことはできません。道は依然として険しいものの、人はもはや弱くも、恐れることもなく、手探りで前進することも、方向を見失うこともありません。人の基盤は神の言葉を実際に経験したことに深く根ざし、心は神の威厳と偉大さに引きつけられています。人は神の足跡に続き、神の本質を知り、神についてのすべてを知ることを切望します。

この段階の人は、自分が誰を信じているのかをすでに明確に知っており、なぜ神を信じるべきなのかも自分の生きる意味もはっきりと認識しており、また神が表することはすべて真理であることも明確に知っています。長年の経験から、神の裁きと刑罰なしでは、人間は神を満足させることも、神を知ることも、神の前に実際に出ることも決してできないことに気づいています。この段階の人の心には、神に試されたいという強い願望があります。それは、試されているあいだに神の義なる性質を知り、純粋な愛を得ると同時に、神を真に深く理解し知ることができるようにです。この段階の人は、幼児の段階と神の恵みを享受してパンを食べて満足する段階にすでに完全に別れを告げています。もはや神が寛容と憐れみを自分に見せてくれることに度を越した望みをかけることはなく、むしろ自分の堕落した性質を離れ、神を満足させるために、神による終わることのない刑罰と裁きを受けることを確信しつつ望みます。この段階の人の神に関する認識や追求、その追求における最終目標は、すべて心の中ではっきりしています。したがって、成年期の人は、漠然とした信仰の段階、救いを獲得するために恵みに依存する段階、試練に耐えられない未熟な段階、不明瞭な段階、手探りで進む段階、進むべき道がなくなることがよくある段階、突然の高熱と低温が交互に起こる不安定な段階、目を閉じたまま神に付き従う段階に完全に別れを告げています。この種の人は、神の啓きと照らしを頻繁に受け、神との真の関係と交わりを頻繁にもちます。この段階に生きる人は、神の心の一部をすでに把握しており、自分のするあらゆることに真理の原則を見出すことができ、神の望みをいかに満足させるかを心得ている、と言えます。さらに、神を知る道を見出し、神についての認識を証し始めています。徐々に成長するなかで、この段階の人は、人類を創造した神の心と人類を経営する神の心など、神の心を徐々に理解し認識するようになります。さらに、実質的な意味で神の義なる性質も徐々に理解し認識します。これは、人間の観念や想像が取って代わることはできません。第五段階にいる人のいのちは完全に成熟しているだとか、その人は義人であり完全であるだとかは言えないものの、この人はすでに、いのちの成熟段階に向けて一歩踏み出しており、すでに神の前に来て、神の言葉と神自身と向かい合うことができます。この段階の人は神の言葉を多く経験し、また無数の試練、無数の神からの鍛錬、裁き、刑罰を経験しているため、神への服従は相対的ではなく、絶対的です。この人の神に関する認識は、無意識から明瞭かつ正確な認識へ、表面的なものから深いものへ、ぼんやりと不明瞭なものから詳細で具体的なものへと変化しています。手探りしながら苦労して前進し、受動的に追い求める状態から、苦労せずに認識に達し、積極的に証しする状態へと移行したのです。この段階の人は、神の言葉の真理現実を自分のものとし、ペテロが歩んだような完全への道を歩み始めたと言えます。これが第五類型の人、成熟した状態、成人の段階に生きる人です。

『神を知ることについて』「唯一無二の神自身 3」(『言葉』第2巻)より

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