日々の神の御言葉: 神の働きを認識する | 抜粋 166

2020年8月22日

恵みの時代、ヨハネはイエスのために道を整えた。ヨハネに神自身の働きをすることはできず、ただ人の本分を尽くしただけである。ヨハネは主の先駆者だったが、神を表わすことはできなかった。聖霊に用いられる人に過ぎなかったのである。イエスがバプテスマを受けたあと聖霊が鳩の如くイエスの上に降り立った。それからイエスは自分の働きを始めた。つまり、キリストの職分を始めたのである。それが、イエスが神の身分をとった理由である。イエスは神から来たからである。これ以前のイエスの信仰がどのようなものであったとしても──時には弱く、時には強かっただろうが──それはすべてイエスが職分を始める前に過ごした、普通の人の生活に属するものだった。イエスがバプテスマを受けた(油を注がれた)後、神の力と栄光がただちに備わり、それにより職分を始めた。イエスはしるしと不思議、奇跡を行なうことができ、力と権威を備えていた。神自身の代わりに自ら働きを行なったからである。イエスは霊に代わって霊の働きを行ない、霊の声を表現した。よって、イエスは神自身だった。そのことに反論の余地はない。ヨハネは聖霊に用いられた人間である。彼に神を表わすことはできず、また神を表わすことは彼にとって不可能だった。たとえそうしたいと望んでも、聖霊はそれを許さなかっただろう。と言うのも、神自身が成し遂げようとした働きを、ヨハネが行なうことはできなかったからである。おそらく、彼には人間としての意思、あるいは逸脱したものが数多くあったのだろう。どのような状況下においても、ヨハネは神を直接表わすことができなかった。彼の過ちや間違いは自分自身だけを表わしていたが、彼の働きは聖霊を象徴するものだった。それでもなお、彼のすべてが神を表わしていたと言うことはできない。彼の逸脱や間違いも神を表わしていただろうか。人を表わす中で間違いを犯すのは普通のことだが、神を表わしながら逸脱しているなら、それは神の名誉を汚すことではないだろうか。聖霊に対する冒涜ではないだろうか。たとえ他人に称揚されても、人が神に取って代わることを聖霊は軽々しく許さない。神でない人が最後に固く立つことはできないだろう。人が気の向くままに神を表わすことを、聖霊は許さない。たとえば、聖霊はヨハネに証しをし、彼がイエスのために道を整える者であることを明らかにしたが、聖霊によって彼になされた働きは実に均衡のとれたものだった。ヨハネに求められたのはイエスのために道を整える者になること、イエスのために道を備えることだけだった。つまり、聖霊は道を整える彼の働きだけを支え、そのような働きをすることだけを彼に許した。他の働きをすることは許されなかったのである。ヨハネは道を整えた預言者エリヤを表わしていた。そのことにおいて聖霊はヨハネを支えた。彼の働きが道を整えることである限り、聖霊はヨハネを支えたのである。しかし、もしヨハネが、自分は神だと主張し、贖いの働きを完成させるために来たのだと言ったなら、聖霊は彼を懲らしめる必要があっただろう。ヨハネの働きがどれほど偉大でも、またそれが聖霊に支えられていたとしても、彼の働きに境界がなかったわけではない。確かに、聖霊はヨハネの働きを支えていたが、当時彼に与えられていた力は道を整えることに限られていた。その他の働きを行なうことはまったくできなかったのである。と言うのも、彼はイエスではなく、道を整えるヨハネに過ぎなかったからである。よって、聖霊の証しが鍵になるのだが、聖霊が人に許す働きはそれにも増して重要である。当時、ヨハネは鳴り響くような証しを受け取っていたのではないか。ヨハネの働きも偉大ではなかったのか。しかし、ヨハネの働きがイエスの働きを超えることはできなかった。なぜなら、ヨハネは聖霊によって用いられた人間に過ぎず、直接神を表わすことはできなかったからである。そのため、ヨハネが行なった働きは限られていた。ヨハネが道を整える働きを終えた後、聖霊はもはや彼の証しを支えず、新たな働きが続くこともなく、神自身の働きが始まったときに、ヨハネは去った。

悪霊に取りつかれ、「私が神だ!」と声高に叫ぶ人がいる。しかし最後に、彼らは暴かれる。と言うのも、自分が表わすものについて、彼らは間違っているからである。彼らはサタンを表わし、聖霊は彼らに何の注意も払わない。どれほど高く自分を称揚しても、どれほど力強く叫んでも、あなたは依然として被造物であり、サタンに属する者である。わたしは決して、「わたしは神である、神の愛するひとり子である」と叫ばない。しかし、わたしが行なう働きは神の働きである。わたしに叫ぶ必要があるだろうか。称揚の必要はない。神は自身の働きを自ら行なうのであり、人に地位や敬称を与えてもらう必要はない。神の働きは神の身分と地位を表わすのである。バプテスマに先立ち、イエスは神自身ではなかったのか。受肉した神の肉体ではなかったのか。イエスは証しをされて初めて神のひとり子になった、などと言うことは到底できない。その働きを始めるずっと以前、イエスという名の人間がすでにいたのではないか。あなたは新しい道を生み出すことも、霊を表わすこともできない。霊の働きや、霊が語る言葉を表現することもできない。神自身の働きや霊の働きを行なうこともできない。神の知恵、不思議、計り難さ、そして人間を罰する神の性質全体を表現することは、どれもあなたの能力を超えている。ゆえに、自分は神だと主張しようとしても無駄である。あなたには名前があるだけで、実質がまったくないのである。神自身はすでに来た。しかし、誰も神を認識せず、それでいて神は働きを続け、霊を代表して働く。あなたが彼を人と呼ぼうと神と呼ぼうと、主と呼ぼうとキリストと呼ぼうと、あるいは姉妹と呼ぼうと、それは構わない。しかし、彼が行なう働きは霊の働きで、神自身の働きを表わしている。人にどのような名前で呼ばれるか、彼には関心がない。その名前が彼の働きを決定できるのか。あなたが彼を何と呼ぼうと、神に関する限り、彼は神の霊の受肉した肉体である。彼は霊を表わし、霊によって承認されている。あなたが新しい時代への道を切り開けないなら、あるいは古い時代を終わらせたり、新しい時代の到来を告げたり、新しい働きをしたりすることができないのであれば、あなたが神と呼ばれることはできない。

『神の出現と働き』「受肉の奥義(1)」(『言葉』第1巻)より

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