言葉は肉において現れる

目次

何故、引き立て役になることを望まないのか

征服された者は引き立て役であり、完全にされて初めて、終わりの日の御業の規範となる。 完全にされる以前において、そうした者は引き立て役であり、道具のような存在であり、奉仕の対象である。神により完全に征服された者は神の統御計画の結晶であり、規範である。こうした、人間の慎ましい「肩書き」により、数多くの興味深い「物語」が示される。信仰が僅かしか無い者は、低位の肩書きに関して常に顔が赤らむまで口論し、そのために人間関係に影響を及ぶのを厭わないことさえある。それは単なる肩書きであるが、あなたがたの思考において、それは単なる肩書きではなく、あなたがたの運命を形成する重要事項である。そうしたわけで、分別の無い者は、往々にして、そうした些細な事で大損害を被る。これは爪で拾って箕で零すようなものであり、あなたがたはそうした単なる肩書きのために逃げ去って戻って来ない。なぜなら、あなたがたはいのちが取るに足らないものであると考え、自分の呼称を過大評価するからである。ゆえに、あなたがたは、自分の霊的生活や、実生活においてさえも、地位に関する観念が原因となり、複雑で奇妙な物語を展開させる。おそらくあなたがたは、それを認めないであろうが、そうした者は、あなたがたの実生活に本当に存在する。単に、あなたがたがひとつずつ解明していないだけである。こうした事は、あなたがたの生活において既に発生している。あなたがたが信じないのであれば、ある姉妹 (あるいは兄弟) の生活における挿話を次に挙げるので読むとよい。その人物が実はあなたがた自身であったり、あなたがたの人生の中で親しい人物であることも有り得る。私が勘違いしていなければ、この挿話は、あなたがたの嘗ての経験であり、説明が足りない事は一切無く、思うことや考えはひとつも欠けておらず、この挿話に全て記録されている。信じられないというのであれば、とにかく読んで欲しい。

ここで記載してあるのは、ある「霊的人物」の経験談である。この人物が教会へ行き、自分の兄弟姉妹の状況を見た際に不安を感じ、「あなたがたは、なぜ神の御旨を全く満たそうとしないのか。全く良心の無い人達だ。(自分の兄弟姉妹を叱責している)あなたがたは、間違い無く自分の良心を無視して獣のような事をしている。私がこう述べるのは、私自身に対する憎しみでもある。神がしびれを切らされて燃えるように激怒されているのが分かる。また、自分の足許で炎を感じる。私は神の御業を行うことを真に望み、私の礼拝により、あなたがたが奮起することを求めている。ただ、私の現在の力は極めて弱い。神は私達に対して長い時間を費やされ、極めて多くの御言葉を述べられたが、私達は依然としてこのような状態だ。自分は神に対して負債が多すぎると、私は常に心の中で常に感じる。(すすり泣いて話を続けられない)そしてその者は祈った。「神よ、私に力と与え、私を一層感激させるよう、あなたに願います。そしてあなたの御霊が私の中で御業を行いますように。私はあなたに協力することを望みます。あなたが最後に栄光を得るならば、今、私はあなたに自分の全てを捧げることを、たとえそれが私のいのちを捨てなければならないことを意味するとしても、望みます。私は、私達が大いなる讃美をあなたに捧げることが可能である限り、兄弟姉妹が歌い踊って喜び、あなたの聖なる御名を讃美し、あなたを讃え、表し、あなたの御業を確信し、あなたの重荷に配慮を示すことを望む限り、私は望み続けます[a]。」その者は熱心にそう祈り、実際に聖霊がその者に重荷を与えた。この時、その者は極めて多くの重荷を負い、一日中読み書きをし、聞き続けた。その者は、多忙を極めた。その者の霊的状態は極めて良好であった。またその者は自分の心の中は常に活力に満ち、重荷を負っていた。その者は時折弱くなり、壁にぶち当たったが、すぐに正常な状態に戻った。そのようにして暫く過ごした後、その者は急速に進歩し、神の御言葉を数多く理解することが出来るようになり、賛美歌を覚えるのも早かった。その者の霊的状態は、総じて極めて良好であった。その者は、教会内の多くの物事が神の御旨に則していないことを知った時、不安になった。その者は、カセットテープにならうことを真剣に捉えている者が居ないことを知ると、不安になった。「それが神の御業への献身であるというのか。それが神の御旨を満たすことであるというのか。それほど僅かな実際の代償も払えないというのか。あなたがたが望まなくても、私は望む。」

その者は、自分に重荷がある時、聖霊が一層よく御業を行っていると感じた。その者は時折否定的な物事や困難に遭遇したが、それを克服出来た。つまり、その者が聖霊の御業を経験した時、自分の状態が極めて良好であったとしても、特定の困難や多少の弱さを回避出来なかった。そうした物事は不可避であるが、その者は、そうした状態からすぐに回復出来た。弱さを経験する時、その者は、自分が祈ると、自分の器量が極めて不足しているが、それでも自分が神と協力することを望んでいると感じた。神が何をしても、その者は神の御旨を満たすこと、そして神の采配全てに従うことを望んでいた。その者に対して、特に意見や先入観がある人々も居た。その者は自分を捨て去り、積極的にそうした人々交わることが出来た。そうした物事は、すべて聖霊の正常な御業の間における状態である。一定期間後、その御業は変化し始め、人間は全員、人間に対して異なる要求がある別の段階へと移行する。したがって、その時人間に対する要求を高める別の御言葉があった。それは「私はあなたがたに対して憎しみしか抱かず、祝福は決して無い。私は今まで、あなたがたを祝福しようとも、完全にしようとも考えた事が全く無い。私があなたがたに対して抱いているのは、憎しみだけである。なぜなら、あなたがたは皆反抗的であり、歪んで不正直であり、器量に乏しく、地位が低いからである。したがって、あなたがたが私の視野や心にあったことは、嘗て一度も無い。私の業は、単にあなたがたを咎めることを意図するものであり、私の手や罰があなたがたから遠く離れたことは、決して無い。私は今まで、あなたがたを裁き、呪い続けて来た。何故なら、あなたがたは私に関する知識が一切無いからである。私の怒りが常にあなたがたに降りかかるのは、そのためである。私は常にあなたがたの中で業を行っているにもかかわらず、あなたがたは私のあなたがたに対する姿勢を知る必要がある。それは、憎悪以外の何ものでも無い。それ以外の姿勢や意見は無い。私は望んでいるのは、あなたがたが私の知恵と大いなる力の引き立て役になることだけである。あなたがたは、せいぜい私の引き立て役である。なぜなら、私の義はあなたがたの反逆性により明示されるからである。私はあなたがたを私の業の引き立て役、付随する者とする。」というものである。その者は、「付随する者」と「引き立て役」という御言葉[b]を見てすぐに考え始めた。「どうしてこの御言葉が私を付き従わせるというのだろうか。これほど代償を支払ってきたのに、私は未だに引き立て役だ。引き立て役とは、単なる奉仕者ではないか。以前は、今後私達が奉仕者であることは無く、神の選民となるだろうと言われていたが、現在も依然として同じ役割のままではなかろうか。奉仕者には、いのちが欠けているのではなかろうか。私がこれ以上苦難を受けても、神はそれを讃美されないだろう。私が神の大いなる力の引き立て役を果たし終えたら、それで終わるのではないか。」その者は、そのことを考えれば考えるほど落胆した。この人物が教会へ行き、自分の兄弟姉妹の状況を見た際に、一層不安を感じ、「「あなたがたは駄目だ。私も駄目だ。私は悲観している。全く忌々しいことだ。何が出来るだろうか。神は依然として私達を求めておられない。神は、このような御業を行って私達を悲観させられることは、決して無い。私の何が間違っているのか分からない。私は祈ることすら憚られる。とにかく、私は現在、駄目であり、そこから抜け出すことが出来ない。私は何度も祈ってきたが、未だに抜け出せない。それならばもう続けることを望まない。私は、そう考える。神は、私達が引き立て役であると述べられたが、「引き立て役」とは、ただの奉仕者ではないか。神は、私達が神の子でも神の選民でもなく、引き立て役であると述べられた。私達は神の子ではなく、いわんや神の長子などでは無い。私達は単なる引き立て役でしかない。そのようなことを言われたが、はたして私達は好ましい結末を得ることが出来るだろうか。引き立て役には望みが無い。なぜなら引き立て役にはいのちが無いからだ。私達が神の子であり、神の選民であるならば、それは望みがあり、完全にされる可能性はあるだろう。引き立て役は、自分の中に神のいのちを得ることが出来るだろうか。神は、神に対して奉仕する者に対して、いのちを与えられるであろうか。神が愛する者は、神のいのちを備えた者であり、それを備えた者は神の子で有り、神の選民である。私は悲観的で弱いが、それでもあなたがた全員が悲観的にならないことを願っている。このように及び腰で悲観的になると、神の御旨を満たすことが出来ないことは分かっているが、私は引き立て役になることを望まない。私は、引き立て役になることを恐れている。いずれにせよ、私には余りある活力があるのみで、今は、このまま続けてゆくことが出来ない。あなたがた全員が私から学ばず、しかし私から何らかの啓示を得ることが出来るよう願っている。私は死んだほうがよいと思う。死ぬ前に、あなたがたに最後の言葉を残そうと思う。私は、あなたがたが最後まで引き立て役として行動出来ることを願う。最後に神が引き立て役を称賛されるかも知れない。兄弟姉妹は、それを見て不思議に思った。[c] 「この人は、なぜこれほどまでに悲観的なのだろうか。今まで2日ほどは全く問題無かったではないか。この人が突然冷淡になったのは何故であろうか。正常でなくなってしまったのは、何故だろうか。」その者は「私が正常ではないと言わないで欲しい。実のところ、私は心の中であらゆる物事を明瞭に理解している。私は自分が神の御旨を満たさなかったことを知っている。それは私が引き立て役として行動することを望まなかったからではないか。それ以外に、私は何も深刻すぎることをしていない。いつか神が引き立て役の肩書き[d]を、神に重用される神の選民へと変更されるかも知れない。その事に何かしら希望は無いだろうか。あなたがたが悲観的になったり落胆したりせず、引き続き神に付き従い、一層優れた引き立て役となることを願う。 いずれにせよ、私はこのまま続けられない。」他の者は、それを聞いて「あなたが駄目でも私達は引き続き付き従い、あなたが悲観的だからといって、私達が制約を受けることは無いであろう。」と述べた[e]

しばらくこのような状態が続き、その者は自分が引き立て役であることについて依然として悲観的であったので、私はその者に「あなたは私の業を一切理解していない。あなたは、私の言葉の内面的真理や真髄、所期の目的を一切理解していない。あなたがたは私の業やその知恵の目的を知らない。あなたは私の御旨を全く理解していない。あなたが退散することしか知らないのは、あなたが引き立て役だからである。地位に対するあなたの欲望は強すぎるのだ。あなたは愚か者である。私は以前に、あなたを完全にすると何度も言った。それを既に忘れたであろうか。引き立て役について話す前に、完全にすることについて話さなかったであろうか。」と伝えた。「ちょっと考えさせてください。あなたは、引き立て役について話す前に、完全にすることについて話しました。そのとおりです。」「完全にされることについて私が話した時、人間は征服された後になって初めて完全にされるであろうと述べたであろう。」「その通りです。」「私の言葉は誠意あるものであったか。それは誠実に述べられたものであったか。」「誠実に述べられたものでした。あなたは神であられ、決して偽りを述べません。それは誰も否定できないことです。しかし、あなたの話の内容は多すぎます。」「私の話し方は業の段階に従って変わるのではないか。私の言葉は、あなたがたの必要性に基づいて行われ、のべられたのではないか。」「あなたは人間の必要性に従って御業を行い、あなたは人間が必要とする物事を与えます。それは間違いありません。」「それでは、私があなたに述べた事は有益であったのではないか。私の罰は、あなたのためではないか。」「あなたは依然として、それが私自身のためであると述べています。私は、あなたの罰を受けて死のうとしています。私はこれ以上生きていたくありません。今日あなたは何かを述べ、明日はそれと別のことを述べます。あなたが私を完全にするのは、私自身のためだということは知っていますが、あなたは依然として私を完全にしていません。あなたは私を引き立て役にして、私に罰を与えています。あなたは私を憎んでいるのではないでしょうか。あなたの御言葉を敢えて信じる者は居らず、あなたの御言葉は、単にあなたの御心の憎しみを解消するためであり、私を救うためではない事が、今になってよく分かりました。以前、あなたはそれを隠していて、あなたが私を完全にすると述べ、また罰は私を完全にするためのものだと述べました。それゆえに私は常にあなたの罰に従ってきました。私は現在、自分が引き立て役の肩書きであるだろうとは、決して思いませんでした。神よ、あなたは、私に引き立て役以外の役割を担わせた方が良いのではないでしょうか。あなたは私に引き立て役の肩書きを与える必要があるのでしょうか。私が天の門番であったとしても、問題無いでしょう。私は方々へ出向き、私の手の中には何もありません。また、私は全てを犠牲にしましたが、その上に、あなたは私に、あなたの引き立て役を担わせていると、今、あなたは私に伝えています。どうして私が顔を隠さずに居ることが出来ましょうか。「私は以前に、極めて多数の罰の御業を行ったが、あなたには知識が無いであろうか。すなわち、あなたには自分自身に関する知識が無いであろうか。罰は言葉による裁きではなかろうか。引き立て役の肩書きもまた、言葉による裁きではなかろうか。」「そのように考えるのであれば、あなたの言う引き立て役もまた、手段なのでしょうか。その肩書きは、私を裁くためのものでしょうか。そうであるならば、私は従うつもりです。」「それでは、あなたは今、どのように私に従うつもりなのだろうか。」「あなたに従うということについて、私はどのようにしてあなたに従うかを計画していません。私は、あなたに対して、手段以外の御言葉を述べることを求めます。私は引き立て役なのでしょうか、それともそうでは無いのでしょうか。引き立て役も救われることが可能でしょうか。『引き立て役』の肩書きは変わり得るでしょうか。私は、引き立て役であることにより明白な証に立ち、その後完全にされ、神を愛する者の規範と鳴り、神に親しい者となることが出来るでしょうか。私は完全にされ得るでしょうか。真理を述べてください。」「物事は常に進化し、変化しているということを、あなたは知らないというのか。あなたが現在、引き立て役として従うことを望む限り、あなたは変化することが出来るであろう。あなたが引き立て役であることが、あなたの終着点と関係があるか無いかによらず、重要なのは、あなたが自分のいのちの性情に変化が生じる者となれるかどうかである。「教えてください。あなたは私を完全にすることが出来るでしょうか、それとも出来ないでしょうか。」「あなたが最後まで付き従う限り、私があなたを完全に出来ることを保証する。」「それでは、私はどのような苦難を経験する必要があるでしょうか。」「逆境や、言葉による裁きと罰、とりわけ言葉による罰、引き立て役としての罰と同じ罰である。」「引き立て役としての罰と同じ罰でしょうか。しかし逆境に耐えることにより私があなたにより完全にされ得るならば、そして希望があるならば、問題ありません。それが僅かな望みであったとしても、引き立て役であるよりはましです。『引き立て役』という肩書きは酷すぎると思います。私は引き立て役になることを望みません。」「引き立て役に何の問題があるというのだ。引き立て役も非常に良いのではないか。引き立て役は祝福を受ける価値が無いだろうか。引き立て役が祝福を受けられると私が言うならば、あなたは祝福を受けられるであろう。人間の肩書きは私の業が原因で変わるであろうか。ただの肩書きがそこまであなたを煩わせるというのか。そのような引き立て役が相応しい。あなたは付き従うことを望むのか、それとも望まないのか。」「それでは、あなたは私を完全にすることが出来るでしょうか、それとも出来ないでしょうか。あなたは私があなたの祝福を受けることを赦すことができるでしょうか。」「あなたは最後まで付き従うことを望むのか、それとも望まないのか。あなたは、自分の全てを神に捧げることを望んでいるであろうか。」「もう一度考えさせてください。引き立て役もあなたの祝福を受けて完全にされることが出来る。私は、自分が完全にされた後、あなたに親しい者となり、あなたの御旨を全て理解し、あなたが持っている全てを私も持つことが出来る。あなたが享受していることを、私も享受し、あなたが知っていることを私も知ることが出来る。逆境に耐えて完全にされた後、私は祝福を受けられる。それでは、私は実際にどのような祝福を受けるのでしょうか。」「自分が受ける祝福が何であるかは心配しなくてよい。私があなたに述べたとしても、それはあなたの想像にも及ばないであろう。あなたは、良い引き立て役になった後、征服され、引き立て役として成功するであろう。これが征服された者の規範であるが、もちろんあなたは、自分が征服された後でなければ、そうした者にはなれない。」「規範とは何でしょうか。」「それは、異邦人すなわち征服されていない者の規範である。」「そうした人々は何人居るでしょうか。「多数居る。4千人、5千人程度ではない。世界全体で、その肩書きを受け容れた者は、全員確実に征服される。」「それでは、5か所や10か所の町では無いということですね。」「今そのことは考えなくて良い。自分のことを心配しすぎてはならない。今は真摯に取り組む方法だけに重点を置くように。私は、あなたが完全にされることが出来る事を保証する。」「それはどの程度まででしょうか。また、私はどのような祝福を受けるのでしょうか。」「あなたは何をそんなに心配しているのか。「私は、あなたが完全にされることが出来る事を保証する。あなたは私が信頼の置ける者であることを忘れたのか。」「あなたが信頼の置ける方であるというのは真実ですが、あなたの話し方の一部は、常に変化しています。今日、あなたは、私が完全にされることが出来ると確約しましたが、明日はそれが確かでは無いと言うかもしれません。また、あなたは一部の人々に対して『あなたがたのような者は完全にされることが無いと確約する』と言います。私はあなたの御言葉がどうなっているのか分かりません。私は敢えてあなたの御言葉を信じることができません。」「それでは、あなたは自分自身を全て捧げることが出来るか、それとも出来ないか。」「何を捧げることでしょうか。」「あなたの将来と希望である。」「ああ、それは私が捨て去れることです。一番問題なのは、『引き立て役』という肩書きです。私はその肩書きを与えられるのが本当に嫌です。あなたが私から『引き立て役』の肩書きを取り消すならば、私は何も拒まず、何でも出来るでしょう。それは些細な事ではないでしょうか。私からその肩書きを取り消してもらえないでしょうか。」「それは本当にそれほど簡単なことだろうか。私があなたに肩書きを与えられるならば、私はあなたからそれを奪うこともできる。しかし、今はそうする時ではない。あなたは業のこの段階を経験することを完了する必要がある。しかる後に、初めてあなたは新しい肩書きを得られる。ある者があなたのようであればあるほど、その者が引き立て役である必要も高まる。あなたが引き立て役になることを恐れれば恐れるほど、私はあなたに引き立て役の標示を与えるであろう。あなたのような者は、厳しく訓練し、取り扱われる必要がある。ある者が反抗的であればあるほど、その者は一層奉仕者となり、最終的にその者は何も得ないであろう。」「こうした追求で、私が『引き立て役』の呼び名を払拭できないのは何故でしょうか。私達は今まで何年もあなたに付き従い、少なからず苦難を受けてきました。私達は、あなたのために、あれこれと業を行い、風雨の中を進んで来ました。私達は皆、20代後半です。私達は、若者時代終盤に入っています。私達は未婚で、自分の家族も設けていませんし、結婚して家庭を設けた者も居ますが、そうした者は離婚して家庭を解消しました。私は高校まで学校に通いましたが、あなたが来たと知って大学進学を断念しました。しかし、あなたは私達が引き立て役であると言います。私達は甚大な損失を被りました。私達は損害を被りましたが、結局私達はあなたの引き立て役です。私の職場の者や同僚、同業者は、それをどう思うでしょうか。そうした者が私に会って、私の地位や身分を尋ねた時、私が恥辱を感じ無いようにするには、どうすれば良いでしょうか。そうした者は、私のことを、どう思うでしょうか。当初、私はあなたへの信仰のために、いかなる代償も払いましたが、他人は私が愚かであると嘲笑しました。それでも私は付き従い、私の終わりの日が来る時を待ち望み、信じていない者に、そう示しています。ところが、今日あなたは私が引き立て役だと私に伝えています。あなたが私に最も低い肩書きを与え、私が御国の者となることを許されるのであれば、それは問題ありません。私があなたの弟子や腹心の友となれなかったとしても、あなたに付き従う者であるだけで問題無いでしょう。私達は現在まで長年にわたって、あなたに付き従い、自分の家族を捨てました。そして現在まで求め続けるのは極めて困難でした。しかし、私達には『引き立て役』の肩書きしかありません。私はあなたのために全てを捨て去りました。私はあなたのために俗世の富を全て捨て去りました。おととし、ある者が私を婚約者候補に紹介しました。その候補は美形で身なりも良く、政府高官の息子でした。その候補の職業は運転手で、それほど良いとは言えませんが、極めて美形で、当時の私はその候補に興味がありました。しかし、あなたが私達を御国へと導き、私達を完全にし、決意を固めて全てを速やかに捨て去るようあなたが私達に求めていると聞いてすぐに、私は自分にまったく決意が無いことを知りました。私は決心して、縁談を断りました。その候補は何度か私の家族に贈り物をしましたが、私はそれに見向きもしませんでした。あなたは、その時私が狼狽したと言うでしょうか。そのような素晴らしい事が無に帰したのです。どうして私が狼狽せずにいられましょうか。私は数日間狼狽して、夜眠れない程でしたが、それでも最終的に諦めました。私は、祈る時毎回聖霊に感激させられていました。聖霊は『あなたがたは、自分の全てを私に捧げることを望んでいるであろうか。『あなたがたは、自分を私に費やすことを望んでいるであろうか。』と言いました。この言葉のことを考えると、私は毎回泣き出すでしょう。私は感激させられて、悲しくて泣き出すことが、自分が知っているよりも数多くありました。その後、その候補は何度か私の家に来ましたが、私は一度もその者に会うことさえしませんでした。現在、私はその者の容姿さえ忘れてしまい、その者を見ても気付かないでしょう。その1年後、その候補が結婚したと聞きました。言うまでも無く、私は悲しみに暮れましたが、あなたのために捨て去りました。私は、その結婚を諦めました。私の食べ物や衣料が質の悪いものであることは言うまでもありません。私は全てを捨て去りましたので、あなたは私を引き立て役に任じるべきではありません。他人は、その候補の父親は政府高官で、私達ふたりが結婚すれば、その候補が私に就職先を与えてくれるだろうと言いました。このことについて、私は半年間にわたり自分を責め、苦悶しましたが、最終的に克服しました。私はあなたに自分の全てを捧げるために、私の人生で最も大切な事である自分の結婚を諦めました。人間の生涯は、良い結婚相手を見つけて幸福な家庭生活を送ることでしかありません。私は最も素晴らしい事を諦めたのに、私の手の中には何も無く、私は独りきりです。あなたは、私を何処へ向かわせるでしょうか。私は、あなたに付き従い始めて以来、苦難を受け続けています。私は良い生活を送って来てはおりません。私は自分の家族や職、肉の悦楽を捨て去って来ましたが、私達全員が払った大きな代償は、あなたの祝福を得るためには、まだ十分ではないのでしょうか。そして今、『引き立て役』の問題に苛まれています。神よ、あなたは度が過ぎます。私達を見てください。私達には、この世で頼るものが何もありません。私達の中には、子を捨て去った者や、職業を捨て去った者、配偶者[f]を捨て去った者などが居り、私達は肉の享楽を全て捨て去ったのです。それ以外に、私達は何に希望を持てばよいのでしょうか。わたしたちは、どうすればこの世で生活して行けるでしょうか。そうした私達が払った代償は、一銭の価値も無いのでしょうか。あなたには、それが分からないでしょうか。私達の地位は低く、私達の器量は不足していることは認めますが、何時、あなたが私達に望む行動に対して私達が留意しなかったことがあったというのでしょうか。今、あなたは冷酷に、私達に対して、引き立て役になるという『報い』だけを残して見捨てようとしています。私達が払った代償により、私達が得たのは『引き立て役』の肩書き[g]だけだというのでしょうか。最終的に、私が神への信仰から得たものは何かを、他人は尋ねるでしょう。そうした者に、私は『引き立て役』という言葉[h]を述べることが出来るでしょうか。私はどうすれば引き立て役であると言うために口を開くことができるというのでしょうか。私は、自分の両親にも、婚約者候補の者にも、説明出来ません。私が同窓生と交流していないのは、あなたのためです。同窓生は贈り物をしてきますが、私はそれを全て返上しました。私に色々な物を送ったのに私が受け取らないので、私に連絡しなくなった者も居ます。私はそうした物事を捨て去り、俗世の関係を全て断ちました。大きな代償を払ってきたのに、私がその代わりに得たのは、引き立て役となることです。なんということでしょう。とても惨めだと感じます。」(ひざを打ち、泣き出す。)「もし、あなたに引き立て役の肩書きではなく、私の選民としての肩書き[i]を与えて、あなたに福音を広めさせようと言い、あなたに業を行わせる地位を与えたならば、あなたはその業を行えるであろうか。あなたは、この業の各段階において、実際に何を得たであろうか。あなたは、その上自分の身の上話までした。あなたは恥知らずである。あなたは、自分が代償を払ったが何も得なかったと言う。もしや、私があなたに、私が人間を得る条件を述べなかったということだろうか。私の業は、誰のためのものであろうか。あなたがたは知っているであろうか。あなたは古傷をあばいている。あなたは今後、人間としてさえみなされるであろうか。あらゆる苦難は、あなた自身の意志によるものではなかろうか。また、あなたの苦難は、祝福を得るためのものではなかろうか。あなたは私の要求を満たしたであろうか。あなたが望むのは、祝福を得ることのみである。あなたがたは全くの恥知らずである。私があなたに対する要求が必須のものであったことが、嘗てあったであろうか。あなたが私に付き従うことを望むのであれば、あなたはあらゆる物事において私に従う必要がある。条件を述べてはならない。結局、私はあなたに対して、この道は苦難の道であると言ったであろう。この道は危険をはらんでおり、幸福は殆ど無い。それを既に忘れたであろうか。私は何度もそう言った。あなたが苦難を受けることを望むならば、私に付き従ってよろしい。それを望まないのであれば、付き従うのを止めよ。私は強制しているのではない。あなたが来るのも去るのも自由である。しかし、これが私の業が行われ方であり、あなたの個人的な反逆性が原因で私が自分の業全体を遅らせることは許されない。あなたは服従することを望まないかも知れないが、あなた以外にそれを望む者が居る。あなたがたは皆、絶望的な者である。あなたがたは、何も恐れていない。あなたは私と条件を交渉しているが、あなたは一体、生き続けることを望んでいるだろうか。あなたは自分のために計画を立て、自分の名声や利益のために這い回っている。私の業は、全てあなたがたのためではなかろうか。あなたは盲目であろうか。私が受肉する以前、あなたは私を見ることが出来なかったので、そうした言葉は赦すことが出来るが、現在私は受肉し、あなたがたの中で業を行っているにもかかわらず、あなたは未だに見えないままであるというのか。あなたが理解できない事は何であろうか。あなたは自分に損失があったと言う。そこで私は、絶望的な人間を救うために受肉して多くの業を行ってきた。それでも、あなたは依然として不満を言う。あなたは私が苦難を受けたと言うであろうか。今まで私が行った業は、全てあなたがたのためではなかっただろうか。私が人間に対して与える肩書きは、人間の現在の器量に基づいている。私があなたを「引き立て役」と呼んだならば、あなたは即座に引き立て役になる。私があなたを「神の選民」と呼んだならば、あなたは即座に神の選民になる。私があなたをどう呼ぶかを問わず、あなたがたは私が呼ぶ者となる。そうした状況は、私が述べている通りではないか。しかるに、私のそのひと言が、あなたにとって極めて腹立たしいと言うのか。そうであるならば、私を赦して欲しい。あなたが今従わないのであれば、最後にあなたは呪われるであろう。そうなったとき、あなたは満足するであろうか。あなたは生活のありかたを気にかけることが無く、自分の地位や肩書きに重点を置く。あなたの生活は、どのようなものであろうか。あなたが大いなる代償を払ったことは否定しないが、あなたが自分の器量と実践を考えると、あなたは未だに条件について話をしている。それはあなたが決心して得た器量であるか。あなたには、まだ誠意があるか。あなたには良心があるか。過ちを犯したのは、私であろうか。あなたに対する私の要求が誤っているのだろうか。その誤りとは何か。私はあなたを数日間引き立て役に任じようとするが、あなたはそれを望まない。そうした決意は、一体何であるか。あなたがたは全員、意志の弱い臆病者である。あなたがたのような人間を罰するのは当然のことである。」私がこう述べると、その者は黙っていた。

あなたがたは、そのような御業を経験しているのであれば、その段階の業と人間を変化させる方法について、ある程度把握している必要がある。変化の成果を得るには、この方法によるしかない。あなたがたは、自分の追求において、個人的な観念や希望や未来が多すぎる。現在の御業は、あなたがたの地位に対する欲望と、とりとめも無い欲望を取り扱うためのものである。望み、地位に対する欲望[j]、そして観念は、典型的なサタンの性情の表れである。そうした物事が人々の心に存在する理由は、サタンの毒が常に人間の考えを腐敗させ、そうしたサタンの誘惑を人間が拒めないことにある。そうした者は罪の中で生活しているが、それを罪と考えず、「私達は神を信じているので、神は私達に祝福を与え、万事適切な采配を行うに違い無い。私達は神を信じているので、他人よりも優れて居るに違い無い。また、私達は他の誰よりも地位と将来性が高いはずである。私達は神を信じているので、神は私達に無限の祝福を与えるであろう。そうでなければ、神への信仰とは呼ばれないであろう。」と考える。人間の心は、長年にわたり人間が生存のために依存してきた思想により腐敗させられ、その結果人間は不誠実で臆病で卑劣なものとなった。人間には意志の力や決意が欠落している上に、貪欲で傲慢で強情な者となった。人間には、克己的決意が完全に欠乏している上、そうした闇の影響による呪縛から逃れる勇気も無い。人間の考えと生活は腐敗し、神への信仰に対する人間の考え方は依然として耐えがたいほどに醜悪であり、人間が自分の神への信仰に対する考え方について語る時、それは聞くに堪えないほどである。人間は皆、臆病で無能で卑劣で傷付きやすい。人間は、闇の軍勢に対して嫌悪感を覚えず、光と真理に対する愛を感じずに、光と真理を排除しようとして出来るだけの努力をする。あなたがたの現在における考え方や見方は、このようなものではないだろうか。「私は神を信じているのだから、ひたすら神の祝福を浴び、自分の地位が決して下がらず、またその地位は信者以外の者の地位よりも高いと保証されているはずだ。」そのような見方が、あなた方の心の中に抱かれているのは、ここ1年、2年ではない。それは長年にわたってそこにある。あなたがたの取引的な考え方は、発達しすぎている。あなたがたは現在の段階まで達したが、依然として地位を捨て去れないままであり、あなたがたは、いつか自分の地位が無くなり、名声が失墜するのではないかという強い恐怖を感じて、常にそれを「詮索」し、観察しようと努めている。人間は、快楽に対する欲望を決して捨て去らなかった。あなたがたは現在そのような罰を受けているが、あなたがたは最終的にどの程度の理解を得るであろうか。あなたがたは自分の地位が高くないが、神の高尚さを享受したと述べるであろう。あなたがたには地位が無い。なぜならあなたがたは卑しい者として生まれ、あなたがたが地位を得たのは聖体奉挙のためである。すなわちそれは、神があなたがたに与えたものである。現在、あなたがたは個人的に神の訓練、罰、そして裁きを授かることが出来る。それはむしろ、聖体奉挙である。あなたがたは個人的に、神の聖めと炎を授かることが出来る。これが神の大いなる愛である。長い歴史において、神の聖めと炎を授かった者は全く居らず、神の御言葉により完全にされることが出来た者は一人も居ない。神は現在あなたがたと直接会って話し、あなたがたを清め、あなたがたの内面の反逆性を暴かれている。それはまさに聖体奉挙である。人間には何が出来るだろうか。人間は、ダビデの子であれ、モアブの子孫であれ、概して何も誇るべき物事が無い創造物である。あなたがたは神の創造物であるのだから、創造物の本分を尽くす必要がある。あなたがたに要求されていることは、それ以外に無い。そして、あなたがたは祈り、「神よ、私に地位があるか無いかに係わらず、私は自分を理解しました。私の地位が高いのであれば、それはあなたの聖体奉挙のおかげであり、私の地位が低いのであれば、それはあなたの按手のおかげです。全てはあなたの御手の中にあります。私には選択肢も不満も一切ありません。あなたは私がこの国で、この民の中で生まれること、そしてあなたの支配に完全に服従すべきであると定められました。なぜなら万事はあなたの定められた物事の中にあるからです。私は地位に重点を置きません。最終的に、私は創造物のひとつでしかありません。あなたが私を底無しの穴や、火と硫黄の池に落とされるとしても、私は創造物に過ぎません。あなたが私を用いられるとしても、私は創造物です。あなたが私を完全にされるとしても、私は創造物です。あなたが私を完全にされなかったとしても、私はあなたを愛しているでしょう。なぜなら、私は創造された物でしか無いからです。私は創造の主により造られた、極めて小さな創造物、造られた人間の一人でしかありません。私を造られたのは、あなたであり、あなたは私を再度あなたの御手に取られ、あなたの慈悲のままにされます。私はあなたの道具となり、引き立て役となる事を望みます。何故なら、全てはあなたが定めたことだからです。それは、誰も変えられません。全ての物事は、あなたの御手の中にあります。」と述べるかも知れない。その時になると、あなたがたは地位に重点を置かなくなり、それを捨て去るであろう。あなたがたは、その時初めて確信を持って堂々と求めるようになり、そうして初めて自分の心をあらゆる制約から解放することが出来る。人間は、ひとたび解放され、そうした状態から抜け出すと、懸念を抱かなくなる。あなたがたのうち、現在大部分の者が懸念していることは何であろうか。あなたがたは常に地位により制約され、自分の将来の展望を探し求めている。あなたがたは、書籍を取って全てのページをめくるが、人間の終着点について何が書いてあるかを見つけることが出来ず、更に探し続けても見つけることは無い。あなたがたは[k]「どうして将来の見通しが無いということが有り得るのだろうか。神がそうした将来の見通しを取り去られたということだろうか。それは有り得ないだろう。それでは、将来の見通しが全く無いのは何故だろうか。神は引き立て役のことしか述べて居ないが、それならば、それ以外に何も無いのだろうか。」と考える[k]。現在、あなたがたは信者であり、この御業の段階に関する知識が多少ある。しかし、あなたがたは、依然として地位に対する欲望を捨て去っていない。あなたがたは、自分の地位が高い時は十分に追求するが、自分の身分が低い時は、追求しなくなる。あなたがたは、心の中で常に地位の祝福のことを考えている。大部分の人々が悲観的な状態から立ち直れないのであろうか。それは常に「厳しい」将来の見通しのためではなかろうか。神の御言葉が述べられるとすぐに、あなたがたは急いで自分の地位と身分が実際にどのようなものであるかを知ろうとする。あなたがたは地位と身分を第一とし、見通しを第二とする。あなたがたが真摯に取り組むべき物事は第三であり、現在における神の御旨が第四である。あなたがたは、神があなたがたに与えた「引き立て役」の肩書きが変更されたかどうかを、まず調べる。あなたがたはひたすら呼んで、「引き立て役」の肩書きが取り消されたのを見ると、あなたがたは満足して神に感謝し続け、神の大いなる御力を讃える。しかし、自分が依然として「引き立て役」であると知るとすぐに、あなたがたは不機嫌になり、心の中の推進力は即座に消滅する。あなたがたの追求がこのようなものであればあるほど、あなたがたが刈り入れる物は少なくなるであろう。ある者の地位に対する欲望が強ければ強いほど、そうした物は一層深刻な取り扱いと精錬を受ける必要がある。こうした者は極めて無価値である。こうした者は、地位に対する欲望を完全に捨て去るため、十分に取り扱いと裁きを受ける必要がある。あなたがたは、最後までこのようにして追求するならば、何も刈り入れないであろう。いのちを追求しない者を変化させることは不可能である。真理を渇望しない者は、真理を得られない。あなたがたは自分の変化の追求と真摯な取り組みに重点を置かず、常にそうしたとりとめも無い欲望や、神に対する自分の愛を抑制する物事や、自分が神に近付くことを阻む物事に重点を置く。こうした物事は、あなたがたを変化させることが出来るであろうか。こうした物事は、あなたがたを御国へと導くであろうか。あなたがたの追求の目的が真理を追求することでは無いならば、あなたがたは、これを機に、俗世に戻って成功をめざせばよいであろう。そのようにして時間を無駄にするのは全く無価値である。なぜ自分を苦しめるのか。素晴らしい世界であらゆる物事を楽しめないことがあろうか。金銭、美女、地位、虚飾、家庭、子供達など、この世の産物は、全てあなたがたが享受できる最高の物事ではないのだろうか。地を彷徨い自分が満足できる場所を探すことが、何の役に立つというのか。人の子が枕する所は無いのであれば、どうしてあなたがたが安住の地を得る事が出来ようか。どうして主があなたがたのために、素晴らしい安住の地を造ることが出来ようか。それは可能であろうか。私の裁き以外に、現在あなたがたは真理に関する説教を受けることしか出来ない。あなたがたは私から安楽を得ることも、あなたがたが日夜思い描いているような幸福の巣を得る事も出来ない。私はあなたがたに、この世の富を与えない。あなたがたが真に追求するならば、私はあなたがたに対して、いのちの道の全てを与え、あなたがたを水を得た魚のようにすることを望む。あなたがたが真に追求しないのであれば、私はそれを全て引き上げるであろう。私は、安楽に貪欲で豚や犬のような者に、自分の口から言葉を与えることを望まない。

注:

a. 原文では「I’m willing (私は望み続けます)」が省略されている。

b. 原文では「the words (御言葉)」が省略されている。

c. 原文では「they wondered(兄弟姉妹は~不思議に思った)」が省略されている。

d. 原文では「the title of (~の肩書き)」が省略されている。

e. 原文では「and they said (~して~と述べた)」が省略されている。

f. 原文では「wives(妻)」となっている。

g. 原文では「the title of (~の肩書き)」が省略されている。

h. 原文では「the word (言葉)」が省略されている。

i. 原文では「the title of (~の肩書き)」が省略されている。

j. 原文では「the desire for (~に対する欲望)」が省略されている。

k. 原文では「You think (あなたがたは~と考える)」が省略されている。