ごう慢さを解決することで人間らしくなれる

アメリカ 真心

あれは2017年3月のこと、教会でグラフィックデザインを担当することになった。主な仕事は映画ポスターや動画のサムネイルの作成。最初は技術的なことを知らなかったので、原則と実務スキルを学ぶことを心掛けた。謙虚な態度で兄弟姉妹に質問し、人からの助言を注意深くデザインに取り入れた。そのうちこの仕事に必要なスキルが身についてきた。配信された私のサムネイルはクリック率が高くて、あるドキュメンタリーのポスターは兄弟姉妹から特に好評だった。技術的な問題があるとみんな相談をもちかけてくるようになった。自分にはグラフィックデザインの才能があると思って、いつのまにか天狗になってた。

その後、ポスターより簡単なサムネイルをデザインしている時に、私ほどのスキルがあれば、すぐに完成できると思った。だから深く考えず、原則も求めないまま、自分のスキルだけを頼りに仕上げたの。その結果、光の具合も色彩もテーマに合わないと言われてしまった。でも私はそんな意見を考慮することも受け入れようとすることもなく、「大胆な創作だってわからないの? そういうのは全部織り込み済みよ。見当違いの指摘だわ」と思った。自分の意見を曲げようとせず、頭に血がのぼって、一切の修正を拒んだ。結果、画像の問題でいくつかのサムネイルがボツになったの。後になって、ある姉妹が私に抑え込まれ、怖くて意見できなかったと聞いた。それを聞いて後味が悪かったけど、そのことで自分を振り返ることはなかったわ。

そしてすぐに、他の映画ポスターに取り組んだ。作品の主人公は牧師や長老のまやかしと支配、そして宗教観念の束縛により、神の新しい働きを拒んでた。でも真理を求めることで終わりの日の全能神の働きを受け入れ、神の光の中に生きたの。このテーマを検討してこう思った。「暗闇から光へとフェードインさせよう、最高のアイデアだわ」って。参考にしようと苦労して似たようなポスターを探したわ。そのポスターが完成した時、すごくいい出来で、大作映画のポスターみたいだった。自画自賛したわ。でもポスターを見た姉妹に言われたの。「ここが暗すぎる。詳細もなくて淡々としすぎ」と。別の姉妹には、「全体的に暗すぎる。ぼんやりしてるし、鬱々としてる。神の証しをする映画だから暗すぎはよくない」と言われた。彼らの考え方や意見にまったく納得できず、こう思った。「これは本当に上出来よ。陰影法も知らないくせに、そのやり方を意見するなんて、粗さがしだわ」と。だから言ったの。「陰影はこれでいいでしょ? 光と闇を区別しなきゃ。これは映画ポスターだから、陰影が大事なの。他のポスターもこうよ。おかしくないわ」って。そして参考にしたポスターを見せてあげたの。そしたらなんと、私のは暗部の面積が大きすぎるから、そっちのポスターほど見栄えがよくないっていうの。それを聞いて怒り心頭でこう思ったわ。「陰影法のことでいつも私に相談してるくせに、基本的なこともわかってないのに、私に指導するなんて釈迦に説法だわ」って。自分が正しいことを証明したくて、他の兄弟姉妹に私のポスターを送った。そしたらやっぱり暗すぎると言われた。だから泣く泣く修正したわ。でもやっぱり自分の考え方もポスターも、間違ってないと思ってた。だから簡単な修正に留めたけど、また駄目だった。そして結局、一週間で終わる作業にひと月もかけていたの。しかも最後には問題ありということでボツにされた。まるで顔を平手打ちされたみたい。気持ちがくじけて落ち込んだわ。交わりでも本心を言いたくなくて、暗闇の中で苦しんでたの。そして班長から、近ごろ作品の出来が悪い、すぐに神の御前で自己反省しなさいと言われた。その時初めて自分を振り返り、関連する御言葉を見つけたの。

これはある日のデボーションで読んだ一節です。「問題が起こったとき、独善的になって、こんな風に考えてはいけません。『原則はわかっているし、最終的な決定権も私にある。あなたがたに話す資格はない。何を知っているというのか。あなたがたはわかっていない、わかっているのは私だ!』。これが独善的であるということです。独善的であるのは堕落したサタン的な性質であり、正常な人間性の中にあるものではありません」「あなたは正しいかもしれず、あなたのすることも何も間違ってはいないかもしれません。何の間違いも犯しておらず、他の人よりも問題の技術的な側面についてよくわかっているかもしれませんが、それでもこのように振る舞い、実践すると、他の人たちはそれを見てこのように言うでしょう。『この人の性質は良くない! 問題が起こると、他の人が言うことを正しかろうが間違っていようが一切受け入れず、ただ逆らうだけだ。この人は真理を受け入れない』。そして、あなたは真理を受け入れないと人々が言うなら、神は何と思うでしょうか。神はあなたのそのような表われを見ることができるでしょうか。神にはそのすべてが完全にはっきりと見えています。神は人の心の奥底を探るだけでなく、あなたのすべての言動をいつでもどこでも見つめています。では、そうしたことを見て、神はどうするでしょうか。神はこのように言います。『あなたは頑なだ。自分が正しいときはそのようであり、間違っているときも同じくそのようでいる。いずれにせよ、あなたが露わにすることや表わすことはすべて天の邪鬼で反抗的だ。他の人の考えや提案を一切受け入れようとしない。あなたの心の中にあるのは否定、閉鎖性、そして拒絶だけだ。まったく強情な人だ』(『キリストの言葉の記録』)。神に心を見透かされ、私の状態が完全に暴かれた。私はごう慢なサタン的性質を示してたの。自分のポスターが兄弟姉妹に認められていた時は、自分のスキルが優れていると思った。デザインでも知識でも私に敵う人はいないって。他の人から意見されても、わかってないくせにと拒否した。何人もの人が同じ助言をしたけど、私は折れなかった。聞くふりだけして自分の考えを曲げなかった。納得できるところだけ変えてあとは一切修正しなかった。言い訳を並べてみんなと言い争い、そのせいで姉妹を怯えさせた。とんでもなくごう慢で理知に欠けていたの! ごう慢さとうぬぼれによって意見を無視したせいで、何度も手直しして作業を遅らせただけじゃなく、自分の状態も悪化した。この挫折がなければ、神の御前で反省して自己認識することはなかった。あのままごう慢な性質で生き続けたら、人に拒まれ、神に嫌悪されていたことでしょう。深い後悔に襲われ、恐怖を感じた。すぐに神の御前で祈り、悔い改めたの。

そして同じ班の姉妹に自分の堕落について打ち明けた。どんな助言も取り扱いも受け入れると伝えたわ。その後は本分を尽くすとき、兄弟姉妹が多くの提案をしてくれた。最初は受け入れるのに苦労した。でも失敗に苦しんだことを教訓にして、神に祈り自分を抑えて反省した。提案の理由やその効果、そして問題がどこにあるのかを考えた。原則に従って検討したの。そうすると、提案を理解して受け入れるのが簡単になった。修正もみんなに受け入れられるようになった。真理を実践することのすばらしさを知ったわ。でも私のごう慢な性質は本当に根が深くて、一度の失敗では取り除けなかったの。

しばらくすると再びごう慢な自分が戻ってきたわ。ある時、教会の賛美歌のサムネイルをデザインすることになった。よく考えると、教会の賛美歌は神の働きを経験した兄弟姉妹が神を賛美する歌。だから温かくロマンチックで美しいものにしようと思った。前に学んだ色彩理論によれば、紫がその雰囲気をよく表しているし、荘厳な色でもある。紫をメインカラーにすれば間違いないと思った。完成したプロジェクトを見て兄弟姉妹は言ったわ。アイデアがいいし配色もきれいだって。私も自分の作品にとても満足した。素質もデザインの能力もあると思ったわ。でもデザインを始めたばかりの姉妹に言われたの。「教会の賛美歌は信者の実体験と教訓を歌ったもの。紫はあまりにも幻想的で合わないと思う。見づらい色だし変えたほうがいい」と。これを読んで反抗心が湧いたわ。「たくさん資料を読んだけど、紫は温かい雰囲気だと書いてある。こんなふうに紫を使う作品はほかにもたくさんあるわ。なぜ見づらいなんて言うの? それに、始めたばかりでデザインもあまりしてない人が提案するなんて図々しい」と思った。でもいきなり拒絶するのもどうかと思った。だから他の人の意見を聞いてみると濁したの。でも実際には誰の意見も聞かず、なかったことにした。

数日後、別の姉妹に同じことを言われた。私が使った色はとても陰鬱だから変えるようにって。その時班長に、あまり意地にならず、修正して見てもらおうと言われた。自分を押し通す勇気もなくて、修正することにしたの。でも紫色のデザインを捨てたくはなかった。「この色のデザインがそこまで悪いはずはない。好きだと言った人もいたわ。なぜ変えなきゃならないの」と思った。そんなふうに考えると修正もうまく行かなかった。何度かやっても理想から遠い。そして手直しした部分に間違いが見つかった。何時間もかけたけど修正の仕方がわからなくて、本当にイライラしてしまったわ。諦めたくなるほどだった。たった一つの画像にひと月もかけて、6回も修正した。みんなからもたくさんの助言をもらった。それでも完成せず、みんなの足を引っ張ってる。本当に辛かったわ。以前もごう慢で助言を受け入れないせいで、働きを遅らせてしまった。そして今またごう慢になって助言を拒んでいる。同じことの繰り返しだわ。そこですぐに神の御前で祈ったの。「神よ、ごう慢な性質が深刻なせいでこの状況に従えません。御旨を理解して自己認識し、この状況を打破できるよう、どうか啓きと導きを」と。

そして次の御言葉を読んだ。「傲慢さは人間の堕落した性質の根源です傲慢になればなるほど、その人は神に抵抗しがちになりますこの問題はどれほど深刻でしょうか傲慢な性質の持ち主は他のあらゆる人を見下すだけでなく、最悪なことに、神に対して威張りさえします表面上は神を信じて神に従っているように見えるものの、まったく神を神として扱っていない人がいますそのような人は真理を自分のものにしていると絶えず感じ、自分を高く評価していますこれが傲慢な性質の本質と根源であり、それはサタンに由来しますゆえに、傲慢さの問題は解決されなければなりません誰も眼中にないと思うのは些細な問題で傲慢な性質のせいで神、神の支配、神の采配に従わないことが重要な問題なのですこのような人は他人の支配を巡って絶えず神と競い合いますこの種の人は神を少しも畏れず神を愛することや神に従うことについては言うまでもありません。傲慢で自惚れている人、とりわけ自分の理知を失うほど傲慢な人は、神への信仰において神に服従することができず、自分を称揚して自分の証しさえします。このような人は神に最も抵抗します。神を畏れるところに至りたければ、まずは自分の傲慢な性質を解消しなければなりません。自分の傲慢な性質を徹底的に解消すればするほど、あなたはますます神を畏れる心をもち、そのとき初めて神に服従し、真理を得て神を認識することができるのです(神の交わりより)。この御言葉で、ごう慢さが神への反抗心の根源だと知った。ごう慢な性質に支配された私は、自分がいつも正しくて、自分の観点だけが真理で、権威があると思い込んだ。真理を求め、神に従う心を一切もたず、誰の助言も聞き入れなかった。特に自分よりスキルが劣る人や、技術的な点が分かってない人に助言されると、激しく抵抗した。受け入れるふりだけして、実際には真面目に取り合わなかった。神は兄弟姉妹を使って何度も教えられたわ。自分を抑えて教会の働きに集中し、最高の作品を求め、生み出すよう努力せよと。でも私は強情で自惚れてた。自分の考えや経験を真理とみなし、人の助言に納得できない時は絶対に受け入れなかった。そのせいで神の家の働きを乱したの。そしてやっと次の御言葉を理解し始めた。「傲慢な性質の持ち主は他のあらゆる人を見下すだけでなく、最悪なことに、神に対して威張りさえします」「傲慢になればなるほど、その人は神に抵抗しがちになります」この御言葉に深く納得して、同時に怖くもなった。教会の反キリストのことを思いだしたわ。とてもごう慢で独断的で、人の意見を全く聞かなかった。果ては人を攻撃して排除し、神の家の働きを乱して神の性質に背いた。最後は神に淘汰されたの。私は反キリストのような悪事は犯してない。でも私の性質は彼らとどう違うの? その時初めて、このままでは恐ろしいことになると気づいて、すぐに神の御前で祈り、悔い改めた。

そして次の一節を読んだ。「今これを考えてみると、本分を十分に尽くすのは難しいことでしょうか。実のところ、そうではありません。人はただ謙虚な姿勢を持ち、多少の理知を備え、適切な立場を取ることさえできればよいのです。自分にどれほど学識があると思っていようと、どのような賞をとっていようと、どれほど多くのことを成し遂げていようと、そして自分の素質や階級がどれほど高いと思っていようと、まずそうしたものをすべて手放すことから始めなければなりません。それらには何の意味もないのですから。神の家では、そのようなものがどれほど優れていようと、真理より高みに置かれることはありません。そうしたものは真理でなく、真理に取って代わることはできないのです。だからわたしは、あなたはこの理知と呼ばれるものを備えなければならないと言うのです。もし『自分はとても才能に恵まれ、頭も非常に冴えているし、反射神経もよく、物覚えもよく、記憶力も並外れている』などと言って、いつもそうしたものを強みにしているとしたら、それは問題を引き起こします。そうしたものを真理だと思ったり、真理より重要だと思ったりするなら、真理を受け入れて実践に移すことは難しくなります。横柄で傲慢で、いつも見下した態度を取っている人は、真理を受け入れることがもっとも難しく、極めて倒れやすい人たちです。傲慢さという問題を解決できれば、真理の実践は容易になります。そのためまずは、そうした表面的には高尚で良いものに見え、他の人々の羨望を引き起こすようなものを、見下して拒否する必要があります。そういったものは真理ではなく、むしろあなたが真理に入るのを妨げる可能性があります(『キリストの言葉の記録』)。この御言葉でわかった。ごう慢な性質を解決するには自分を抑えて否定しなければならない。人の技能、能力、経験、才能はどんなに素晴らしくても真理じゃなく、本分を尽くす手段に過ぎない。それを元手にしてはだめ。真理を求め、原則どおりに実践し、人と協力し、人から学ぶのは、どれもとても重要なこと、本分を尽くす唯一の方法なの。その後、出来のよかった過去のポスターを見直した。私が最初に作ったバージョンは、コンセプト、陰影、色彩、構図など、明らかな問題だらけだった。でも兄弟姉妹の助言を基に修正したものは、大幅に改善されていた。中にはまったく別の作品になっているものもあった。それを見て本当に恥ずかしかった。私がよい作品を生みだしたり、みんなから褒められるのは、実務スキルや経験が優れているからだと思ってた。それを理由に人の意見を聞かなかった。でも現実は違った。私のデザインが認められたのは、真理の原則に従って周りの意見を受け入れたから、神の導きと啓き、そして兄弟姉妹との謙虚な協力関係が生んだ作品なの。自分のスキルにばかり頼って、真理の原則を求めず、人の意見も受け入れなかった時は、不出来な作品ばかり作って教会の働きを遅らせた。ごう慢で独りよがりなやり方を思い出して、本当に恥ずかしくなった。私に特別な才能はない。デザインを少しかじっただけ、真のプロとは雲泥の差があった。でも自分を過信し、とてもごう慢だった。軽率だったわ。これに気づいた時、神に祈って自分の見方を捨てた。みんなの意見に従い、よりよい作品を作るために修正のやり方もよく考えた。すると主な問題を解決するだけじゃなくて、もっといい色を選べた。あっという間に修正が終わり、兄弟姉妹もだいぶ良くなったと言ってくれた。これに気づいて本当に恥ずかしかった。この画像を何度も修正する羽目になったのは、完全に私のごう慢さのせい。貴重な時間を無駄にして兄弟姉妹の手を煩わせた。神の家の働きをひどく邪魔したわ。スキルも伸びず、私のいのちの入りにも悪影響が出て、ごう慢な性質を生きても百害あって一利なしと気づいた。深く後悔して静かに決意したの。「どんな意見をもらっても、自分を抑えて真理を求め、神の家の利益を第一にしよう。ごう慢な生き方を続けることはできない」と。

最近、神の御言葉を朗読する動画のサムネイルを担当した。最初のバージョンを見て、兄弟姉妹はこう言ったわ。地球の画像が大きすぎて中心に寄っているように見える。視界が狭く感じると。修正の参考にと、画像をいくつか送ってくれた。私は思った。「地球はあの大きさじゃなきゃ効果がないわ。みんなプロとしての経験も実践的なトレーニングも積んでない。私の方がスキルがあるの。そんな人たちの意見からは何も得られない」って。だから彼らの意見を適当に流して、自分の意見を押し通そうとした。そして気づいたの。またごう慢になっていると。助言や最終的な成果について冷静に考えていない。やみくもに判断してるだけ、それは神の御旨に反すること。そこですぐ神に祈った。真理を実践して肉に背けるよう私の心を静めて下さいって。そして次の一節を読んだの。「まずは謙虚な態度をとり、自分が正しいと信じていることを脇にのけ、みんなが交われるようにしなさい。たとえ自分が正しいと信じていても、それを主張し続けてはいけません。まず何より、それは一種の前進であり、真理を求めて自分を否定し、神の旨を満たす態度を示しています。いったんこの態度をもったなら、自分の意見に固執せず、それと同時に祈りなさい。あなたは正誤の区別ができないので、何をするのが最善で最もふさわしいかを、神が明らかにしてあなたに伝えられるようにしなさい。みんなが交わりに加われば聖霊があなたにすべての啓きをもたらします。神はある過程によって人々を啓きます。その過程は、単にあなたの態度を吟味するだけの場合もあります。あなたの態度があくまででしゃばりなら、神はあなたから顔を隠し、あなたを避けるでしょう。そしてあなたを暴き、必ずや行き詰まるようにするでしょう。一方、あなたの態度が正しく、自分のやり方にこだわるのでもなく、独善的でもなく、自分勝手でも軽率でもなく、真理を求めて受け入れようとする態度であるなら、あなたが集団と交わるとき、そして聖霊があなたがたの中で働きを始めるとき、神はおそらく誰かの言葉を通して、あなたを導き理解させてくれるでしょう(神の交わりより)。これでわかった。本分を尽くす中で自分と違う意見にぶつかったのは、神が許されたこと。神は人の考えや行動をすべてご覧になる。だから真理を実践して神の吟味を受け入れなければ。見た目だけで判断したり、他人のプロ意識を勝手に決めつけてはいけない。私の方が知識が上でも、自分の考えが合理的だと思っても、上から見下ろすのではなく、自分の考えを手放し、真理の原則を求めて最も効果的なことを実行しなければ。最後にやっぱり自分が正しくても、少なくとも、神のお求めどおりに真理を求めて実践したことになる。それが一番大事なこと。神はご自身に逆らう私のサタン的性質を憎まれた。ごう慢さを示すのは間違いを犯すよりも悪いこと。私のごう慢さが神の家の働きを乱した。それを思うと自分が嫌になり、強情ではいられないと思った。落ち着いて助言を受け止め、画像を良くしようと努めるべきだった。それからは人の助言を真摯に聞き入れ、スタイリッシュな参考画像を見つけてそこから学んだ。今度は他のメンバーとも話し合った。みんなも助言通りに手直しするべきだと言ったわ。レイアウトと他の部分をやり直したけど、この時はあっという間に修正できた。神の啓きと導きのおかげでやり遂げられたと思った。その後さらにいくつか助言を受けたけど、きちんと対応したし、反抗心も湧かなかった。神の証しに必要なら何度でも喜んで手直しした。そして何度かの修正を経て、良いものができたからもう意見はないと言われた。こうやって本分を尽くすすばらしさを知ったわ。

神の懲らしめと御言葉によって、やっと自分のごう慢なサタン的性質を知り、憎むことができた。真理を求めて受け入れることの大切さも知った。今の私はかつてのようにごう慢ではなく、人の意見に耳を傾けることができる。このように変わったのは、すべて神の裁きと刑罰、そして懲らしめのおかげ。

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