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第6章 神への信仰において備えるべきいくつかの区別

6.真の指導者たちと偽の指導者たち、真の羊飼いと偽の羊飼いの違いをどのように見分けるか

関連する神の言葉

聖霊の現在の働きに従わない人々は神の言葉の働きに入っておらず、どれほど働こうとも、苦しみがどれほど大きくとも、どれほど右往左往しようとも、そのどれも神には意味がなく、神はそんな人々を賞賛しないであろう。今日、神の現在の言葉に従う人々はみな聖霊の流れの中にある。神の現在の言葉を知らない人々は聖霊の流れの外にあり、そのような人々を神は賞賛しない。聖霊の現在の言葉から離れた奉仕は肉の奉仕であり、観念の奉仕であり、神の心に従うことができない。人々が宗教的観念の中に生きるなら、神の心に見合うことをすることはできず、たとえ神に奉仕しても、それは想像や観念のただ中での奉仕であり、神の心に従って奉仕することはまったくできない。聖霊の働きに従うことができない人々は神の心を理解せず、神の心を理解しない人々は神に奉仕できない。神は神自身の心に従う奉仕を望む。神は観念と肉の奉仕を望まない。人々が聖霊の働きの歩みに従うことができないのであれば、観念の中に生きているのであり、そのような人々の奉仕は中断し混乱する。その奉仕は神に反し、そのため神の歩みに従えない人々は神に奉仕できない。神の歩みに従えない人々は、間違いなく神に反対しており、神と調和できない。「聖霊の働きに従う」とは、今日の神の心を理解し、神の現在の要件に従って行動することができ、今日の神に従順で服従することができ、神の最新の言葉に従っていのちに入ることを意味する。このような人のみが聖霊の働きに従い、聖霊の流れの中にいる。そのような人々は神の賞賛を受け、神を見ることができるばかりでなく、神の最新の働きから神の性質を知ることができ、そして人の観念や不従順、人の本性と本質を神の最新の働きから知ることができる。さらに、奉仕の過程で自らの性質をだんだんと変えることができる。このような人々のみが神を得ることができ、真の道を純粋に見つけた人々である。聖霊の働きにより排除される人々は、神の最新の働きに従うことができず、神の最新の働きに反逆する人々である。そのような人々が公然と神に反対するのは、神が新しい働きを為し、神の姿が彼らの観念にある神の姿と同じではないからである。その結果、公然と神に反対し、神を非難し、そのため神により嫌悪、拒絶される。

『言葉は肉において現れる』の「神の最新の働きを知り、神の歩みに従う」より

多くの人が神に反抗し、聖霊の働きを邪魔するのは、彼らが様々な、多岐にわたる神の働きを認識しないからであり、さらに、彼らがごく僅かな知識と教義しか持ち合わせておらず、それで聖霊の働きを判断するためではないのか。そのような人たちは、経験は上辺だけのものなのに、本性が放漫かつ甘やかされており、聖霊の働きを軽視し、聖霊の懲らしめを無視し、さらには自分の取るに足らない古い論拠を用いて聖霊の働きを「確認」する。また彼らはもったいぶって、自分たちの知識と博識を全面的に確信し、世界中を駆け回ることができると思い込んでいる。そのような人たちは聖霊に軽蔑されて拒絶されるのではないのか、そして新しい時代には排除されるのではないか。神の前に来て公然と神に反抗する人々は、狭量で偏狭な人々で、単に自分たちがいかに賢いかを見せびらかそうとしているだけではないのか。彼らは、聖書についての僅かな知識だけで天下の「学界」にまたがり、人に教える上辺だけの教義でもって、聖霊の働きを覆し、自分たちの思考過程を中心に転回させようと試み、目先のことしか見えないのに、一目で6000年に及ぶ神の働きを見極めようとするのである。この人たちは理性と呼べるようなものをもちあわせているのだろうか。実際、神についてよく知っている人ほど、神の働きを評価するのに時間をかける。さらに、彼らは今日の神の働きについて知っていることを僅かしか語らないが、判断することは急がない。神に対して認識がない人ほど、傲慢で自信過剰で、気まぐれに神の存在そのものを言いふらすが、彼らは理論を語っているだけで、実際の証拠は提供しない。このような人は少しも価値のない人である。聖霊の働きを冗談事と捉える人たちはあさはかである。聖霊の新たな働きに出会うとき、慎重にせずベラベラ言いふらして、早まった判断を下し、本能にまかせて聖霊の働きの正しさを否定し、さらには聖霊の働きを侮辱し冒涜する人たち、つまりそんな無礼な人たちは聖霊の働きに対して無知であると言えるのではないか。さらに、そのような人たちは、傲慢で、生まれつき高慢で、そして手に負えない人間ではなかろうか。このような人はいつか聖霊の新しい働きを受け入れる日が来ても、神は彼らを寛容には扱わないだろう。そういう人たちは、神のために働く人たちを見下すだけでなく、神自身をも冒涜しているのである。そのような無謀な人たちは、この世でも後の世でも赦されることがないし、永久に地獄で滅びるだろう。このように無礼でいい加減な人たちは、神を信じているふりをしているだけで、そうすればするほど、行政命令に触れやすくなる。生まれつき放逸で、一度も誰かに従ったことがない、傲慢な人間はすべて、このような道を歩いているのではないか。彼らは、常に新しくて古くならない神に来る日も来る日も反抗しているではないか。

『言葉は肉において現れる』の「神の三つの段階の働きを認識することは神を認識する道である」より

そのような者は常に神の新しい働きに敵意を保持して、従順になる意図は示さず、自ら喜んで従うことは決してなく、謙虚になることはなかった。彼は他の人の前で自画自賛し、決して他の人に従属しない者である。神の前で、彼は、自分自身が説教する能力が最も高く、他の人に働きを及ぼす技能が最も高いと思っている。彼は、彼がすでに所有する宝を決して破棄せず、それらを崇拝されるべき、他の人に説教すべき、そして彼を称賛するような愚か者へ講義するのに用いられるべき、家宝とみなしている。実際、教会にもそのような者がいる。彼らは「不屈の英雄」であり、何世代にも渡って神の家にとどまっていると言われている。彼らは、かの言葉(教義)を説教することが、彼らの最高の義務だと思っている。何年にも亘り、何代にも亘って、彼らは彼らの聖なる、神聖な義務を果たす。誰も敢えて彼らに触れようとせず、誰も敢えて公に彼らをとがめようとしない。彼らは、神の家で「王」となり、時代を経て独裁者のように振る舞った。

『言葉は肉において現れる』の「真に従順な者は必ず神のものとされる」より

あなたは本来持っている性質と自分の好みによって、神に仕えているのである。またそれ以上に、あなたが好きなものは何でも神は愛され、あなたが嫌いなものは何でも神は憎まれると思い込み、そうしてあなたの働きはひたすら自分の好みによってなされていく。これで神に仕えていると言えるだろうか。結局のところ、あなたのいのちの性質はみじんも変えられていない。実際、あなたは神に仕えてきたことで更に頑固になり、あなたの堕落した性質が深く根差すことになる。あなたは神に仕える規定を持つようになる。それは正にあなたがた自身の性質から出たもので、あなたの性質に従って神に仕えた経験を基盤としている。これが人間の経験であり学び方である。それは人の人生哲学である。このような人々はパリサイ人や宗教家である。…

『言葉は肉において現れる』の「宗教奉仕を取り締まるべきである」より

人の心の中の働きは人によってあまりにも容易に達成される。たとえば、宗教界の牧師や指導者は自分の才能や立場を信頼して働きを行なう。長い間彼らに従う人々は、彼らの才能に感化され、彼らの人格からいくらか影響を受けるだろう。彼らは人々の才能、能力、知識に重点を置き、多少の超自然的なものや多くの深遠で非現実的教義に注目する(もちろん、これらの深遠な教義は達成不可能である)。彼らは人々の性質の変化に注目せず、むしろ人々の説教する能力、働く能力の訓練、人々の知識や豊かな宗教的教義の改善に注目する。人々の性質がどのくらい変えられたか、あるいは人々はどのくらい真理を理解しているかには注目しない。彼らは人々の本質には関心を持たず、ましてや人々の通常の状態、異常な状態を知ろうとはしない。彼らは人々の見解に反論せず、明らかにもしない。ましてや人々の欠点や堕落を修正したりはしない。彼らに従うほとんどの人々は生来の才能によって仕え、彼らが表すのは知識と曖昧な宗教的真理であり、それらは現実とは離れており、人々にいのちを与えることは全くできない。実際、彼らの働きの本質は才能を育むこと、何もない人物を後になって仕事に就き、指導する有能な神学校卒業生に育てることである。

『言葉は肉において現れる』の「神の働きと人の働き」より

あなたは、砂浜の砂ほど大量の認識を語ることが出来るが、そのうち実際の道が含まれている認識は皆無である。その点において、あなたは人々を欺いているのではなかろうか。あなたは有言不実行ではなかろうか。このような行動は人々に有害である。理論が高尚であればあるほど、現実性が一層欠如し、人々を現実性に導くことが一層不可能となり、またあなたはそのために一層神に背き反抗するようになる。最も高尚な理論を貴重な宝のように扱ってはならない。それは悪質であり、一切無益である。最も高尚な理論を語ることが出来る者も居るであろうが、そうした理論には現実性が一切含まれていない。なぜなら、そうした者は自分でそれを経験しておらず、したがって実践の道を一切知らないからである。そうした者は人間を正しい道に導くことが出来ず、人々を惑わせるだけであろう。それは人々にとって有害ではなかろうか。最低限度として、あなたは現在の問題を解決し、人々が成長出来るようにすべきである。そうした状態のみが献身として認められ、そうして初めて、あなたは神のために働く資格を得るであろう。常に尊大で非現実的な言葉ばかりを語ったり、不適切な実践を数多く用い、人々を拘束して自分に従わせたりしてはならない。そのような行動は全く効果が無く、益々人々を困惑させることしか出来ない。そのようにして人々を導くことにより、数多くの規則が生み出され、そうした規則が原因で人々はあなたを嫌悪するであろう。それは人間の欠点であり、極めて癪に障るものである。

『言葉は肉において現れる』の「現実性に一層重点を置くこと」より

あなたがたの認識は人々に一時的に施すだけです。時間が経てば、あなたが同じ事ばかり言っていると気づくでしょう。あなたの言うことはあまりに表面的で全く深みがないと言うでしょう。そうなれば、あなたは教義を話し続けて人々を欺こうとするしかなくなるのです。ずっとこのようなことを続けるのであれば、あなたの下にある人達が、あなたのやり方、進め方や型を、神を信じ経験する上で倣うようになり、あなたの言葉と教義を実践し、ついにはそのように語るあなたを手本とするようになるでしょう。あなたは人々を導く時には教義を語り、あなたの下にいる人々はあなたの教義を学び、物事が進むにつれてあなたは誤った方向へ進んでしまうことになるのです。あなたの下にいる人達はあなたの進む道に従い、あなたから学んであなたに従う……どの教団、教派の指導者を見ても、みな独善的で聖書を勝手に解釈しています。彼らは賜物と学識に頼って働いています。彼らが説教をすることが出来なければ、人々はそれでも付いて来るでしょうか。指導者たちはそれなりの知識を得、教義を少しは語ることができ、他の人々を勝ち取ったり策略を用いたりして自分達のところへ人を集め、欺いてきました。欺かれた人々は、名目上神を信じてはいますが、実際には神ではなく指導者に付き従っているのです。真の道を語る人に彼らが出会ったならば、「信仰について、私たちの指導者に相談する必要がありますね。」と言う者もいるでしょう。彼らには神に対する信仰に関して、誰かの承認が必要なのです。それは問題ではないでしょうか。指導者達はどのような存在になったのでしょう。 パリサイ人、偽羊飼い、反キリスト、真の道を受け入れようとする人々にとっての躓きではないでしょうか。

『キリストの言葉の記録』の「真理の追求のみが真の神への信仰」より

あなたがたの「真理の概括」は、人々に、真理によりいのちを得させるためでも、性質を変化させるために行われるものでもなく、人々が真理から知識や教理を習得できるようにするために行われます。そうした人々は、神の業の背景となる目的を理解してるように思われますが、実際には言葉や教理の一部を理解しているに過ぎません。そうした人々は真理の含意を理解しないので、神学の学習や聖書を読むことと何ら変わりません。あなたはそうした書籍や文献を整理し、そうした教義の側面や知識の側面を身に付けます。あなたは教義の一流講師となりますが、あなたが話をした後、どうなるでしょうか。人々は経験することが出来なくなり、神の業に関しても、自分自身に関しても、理解することができません。結局、そうした者が得るのは、数式や規則だけなのです……あなたは、そうした言葉に関して質問を重ね、回答することによって概要や概括を構成し、あなたは自分の下にいる者たちが簡単にそれを理解できると考えます。覚えるのが容易であること以外に、そうした質問に関してあなたの作り上げた概要や概括は一目瞭然で、あなたはそのようなやり方をするのが素晴らしいことだと考えます。しかし、人々が理解しているのは、真理の本当の含意ではなく、現実とは差異がある、単なる教義的な言葉でしかありません。したがって、こうした事は一切しない方がよいのです。あなたはこうした事を行い、人々を指導し、知識を理解させ、習得させます。あなたは他の者にその教義、宗教へと導き、宗教的な教義の範囲内で神に付き従わせ、神を信じさせます。それでは、あなたはパウロと全く同じではないでしょうか。……最終的に、あなたに従った人々は真理や神の言葉を経験出来ない所、教義を身に付け教義について議論することしか出来ない所、神を理解できない所へと導かれます。彼らが話せるのは、ひびきが良く正しい教義だけとなるでしょうが、そうした教義には現実性が欠如し、進むべき道を持つことはないでしょう。こうした指導は実に甚大な害を及ぼします。

『キリストの言葉の記録』の「真理が不在の場合、神の怒りを買いやすくなる」より

自分の問題を解決するのでなく、緊急事態時、あるいは無私に他人を助ける時に限定して、一部の真理で武装する者も居ますが、ここでは、そうした者を「無私な人々」と呼びます。無私な人々は、他人を真理の操り人形とみなし、また自分自身を真理の指導者とみなして、真理を押し通し、受動的になるのを回避するよう他人に説教する一方で、自分自身は土俵の外に居る傍観者です。こうした無私な人々は、いったいどのような人々でしょうか。他人に説諭するためだけに真理の言葉の一部で武装していますが、自分が破滅を迎えるのを防ぐためには何もしないというのは、何とお粗末な事でしょうか。無私な人々の言葉が他人を救えるのであれば、無私な人々は、なぜ自分自身を救えないのでしょうか。こうした人々は、現実性が欠如した偽善者と呼ぶべきです。こうした人々は他人に真理の言葉を与え、それを実践するよう指示しますが、自分自身では実践する努力を一切しません。こうした人々は忌み嫌うべき者ではないでしょうか。こうした人々は、自分自身は明らかに真理を実践出来ないにもかかわらず、他人にそれを強要するのですが、それは何と残忍なやり方でしょうか。こうした人々は、現実性によらず他人を救おうとし、母性愛の精神で他人に施しているのでなく、人々を欺いて腐敗させているだけなのです。こうした状態が続き、各人が真理の言葉を他の誰かに伝えるとしたら、最終的には誰もが真理の文字的理解のみで、真理を実践出来ない状態のままとなるのではないでしょうか。

『キリストの言葉の記録』の「真理を愛する者には進むべき道が有る」より

荘厳な教会で聖書を読む者たちは毎日聖書を暗唱するが、一人として神の働きの目的を理解しない。一人として神を知ることができない。さらに、一人として神の心と一致していない。彼らは皆価値のない、卑劣な人々だが、それぞれ神を教えるために高い地位に就いている。彼らは神の名をこれ見よがしに振りかざすが、故意に神に反抗している。彼らは自分たちを神を信じる者と自称しているが、人の肉を食し、その血を飲んでいる者たちである。そのような人々は皆人の魂を貪り食う悪魔、正しい道に一歩踏み出そうとする人々を故意に混乱させる悪霊、神を探し求める人々の道を妨げる躓きの石である。彼らは「健全な肉体」の者たちであるが、彼らの信者たちはどうしたら彼らが人を神に敵対する方向へ導く反キリストであると知ることができるだろうか。どうしたら彼らが魂を好んで求めては貪り食う悪魔の権化であることを知ることができるだろうか。

『言葉は肉において現れる』の「神を知らない者はすべて神に反対する人々である」より

なぜわたしは、宗教界の人々は神の存在を信じず、悪を為す者たちで、悪魔と同じ種類に属すると言うのだろうか。彼らが悪を為す者たちだとわたしが言うのは、彼らが神の意志を理解せず、神の知恵が分からないからだ。神が、彼らに神の業を明らかにするようなことは決してない。彼らは神の行為が見えない盲人である。彼らは神に見捨てられた者たちで、彼らには神の配慮や守りはまったくなく、ましてや聖霊の働きを有することなどは絶対にない。神の働きを持たない人々は悪を為す者たちで、神に対立する者たちだ。

『言葉は肉において現れる』の「神を知らない者はすべて神に反対する人々である」より

人の交流

働き人の責任は、神の御心に基づき、神の要求と采配に従って本分を尽くし、教会を導くことです。このような働きは神に祝福されます。働き人にこのような理性が欠け、自己流を貫き、羊飼いの立場を占め、人々に自分が望むように教え、観念、想像、教義を広め、他の人々にこれらを受け入れさせることによって神の御心に背いた場合、そのような働き人は偽の羊飼いとなっています。働き人が偽の羊飼いになる例は数多くあり、多くは神のお働きの各段階において神により排除されています。神はかつて「どの時代にも、神に仕えながらも反抗し、挙句の果てに彼ら自身が神であるかのように他の人々を従わせ、崇めさせる者がたくさんいる」とおっしゃりました。これが「偽の羊飼い」の現れです。私たちは皆、これを警告として受け止めなければなりません。働き人は性質の変化に意識を集中すべきであり、これに関して不注意で怠慢であれば、いとも簡単に偽の羊飼いになるでしょう。偽の羊飼いの働きは、彼ら自身の意図に基づき人々を率いることに主眼を置いています。偽の羊飼いの行動、言葉、要求はすべて彼ら自身の企てるもので、これをもっとも純粋な真理としてとらえ、人々に人間になるように教え、自分の意に従って人々に真理を得られるようにすることができると考えています。これらは偽の羊飼いのこの上ない傲慢と独善の現れです。真に理性的な人は、自分が正しいと思っているとき、特に真理を求め、話そうと努めます。また、理解したことが正しいかどうかをはっきりさせるために、他者の様々な意見や認識を聞くことに注意を向けます。神の刈り込みと取り扱いを経験した人は誰でも、独善と傲慢を忘れることができるはずです。働いているときは、自分の歩みに気を配り、神の御心に背き道を誤ることを防ごうとします。偽の羊飼いになった結果どうなるかは、考えるだけでもおぞましいことです。どの働き人にも独自の実践があり、神の御言葉を人々に注ぐときに用いる持論があります。事実、彼らのやり方にどれほどの真理、あるいは価値が含まれているか誰も完全に分かりません。人々は自己認識に欠け、真理の認識について真剣ではなく、深く考えることもありません。気ままにくだらないものを選び、他者に与えるべき宝物のように扱うのです。このような実践は偽の羊飼いを連想させませんか。これは他の人々と彼ら自身を害するのではないでしょうか。偽の羊飼いがどれほど多くの仕事をしようとも、彼らには人々を神の御前に導き、神を知り、神に従わせることは決してできません。偽の羊飼いが放つのは言葉と教義、観念と想像にすぎません。偽の羊飼いほど神のお働きを妨げたり、神に反対するものは他にありません。

兄弟の交わりより

宗教的な方法による奉仕は、あらゆることを宗教の奉仕のための伝統的な方法や実践に従って行うことを意味し、様々な宗教儀式を厳守し、聖書の知識に則ってのみ人々を導きます。見かけは精力的で説得力があり、宗教じみたように感じられ、人々の観念にぴったり合うので、反対しません。しかし聖霊の働きを完全に欠き、説教は宗教上の教義と聖書の知識に他ならず、宗教的観念に満ちていて、聖霊の啓示はまったくなく、集会は活気がなく死んだようです。このような奉仕では、どれほど月日を経ても、神に選ばれた人々は未だ真理を失ったままであり、神について何も知らず、神に服従することもなく、神への信仰の正しい軌道に入っていません。それは人々が追求するのは救いではなく、恵みや祝福だからであり、そのため、いのちの性質に変化の兆しは全く見られません。数年間にわたって仕えてきても、人々は未だ何一得ておらず、自らの証として見せられるものは何もありません。これが宗教的方法による奉仕の末路です。明らかに、神に仕えるこのような人々は神のお働きを知らず、神の御心を理解せず、聖霊のお働きに協力することがどういうものかを知りません。これはまさに盲人が盲人を導いているのであり、神に選ばれた人々を迷わせ、パリサイ人のように神を信じながらも反対し、神を知らず、根本的に神の救いを得ることはできません。

『全能神教会の働きにおける采配の紀要選集』の「正しい信仰の道に入ってこそ正しい奉仕の道を歩むことができる」より

宗教界の牧師たちは、あらゆる機会をとらえて知識を誇示し、敬虔な素振りを見せます。彼らの目的は人々の尊敬を集め、崇拝の対象となることです。自分自身の姿を利用して人々を引きつけ、従わせ、信奉させる。その結果、聖書の知識を崇め、地位や権力を崇め、説教の巧みさを崇めるよう人々を導きます。このようにして、神に逆らうよう人々を一歩ずつ導くのです。反キリストに率いられた人々は曖昧な神を信じ、空っぽの教義を話すことに長け、偽善が巧みであり、神を信じながらも神に反対し、逆らいます。神に仕えながら神に反対するという偽の指導者や反キリストのやり方は、人々に深刻な害を及ぼすことについては疑問の余地がありません。

『全能神教会の働きにおける采配の紀要選集』の「反キリストとその道から守ることは極めて重要である」より

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