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神の羊は神の御声を聞く(新信者必読)

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第6章 神への信仰において備えるべきいくつかの区別

7.外的な善行と性質の変化の違い

関連する神の言葉

性質の変化とは何でしょうか。あなたは、真理を愛し、自分が神の業、様々な苦難や精錬を経験する上で、神の言葉による裁きと刑罰を受け容れる必要があり、これらを受け容れることにより、あなたが持つサタンのような毒は純化されます。これが性質の変化です。……性質の変化とは、ある者が真理を愛し、真理を受け容れることが出来るので、神に対する自分の反抗的で反発的な本性を最終的に知るようになることです。この者は、人間の腐敗があまりに深刻なこと、また人間の不合理さと不正直さを理解しています。この者は人間の貧しさと哀れさを知っており、人間の本性と真髄を知るに至ります。こうした事柄を全て知ると、その者は、自分を否定して捨て去り、神の言葉に従って生活し、あらゆる物事で真理を実践することができます。こうした者は神を知り、自分の性質が変化しています。

『キリストの言葉の記録』の「どのようにして人間の本性を知ればよいか」より

性質の変化とは、おもにあなたの本性の変化をさします。本性は、外面から理解できないものです。本性には、人間の存在する価値と意味が関連します。本性には、人生の価値観、魂の奥深くにある物事、そして人間の本質が直接関連します。人々が真理を受け容れられない場合、その人々にはそうした側面における変化が無いでしょう。人々が神の業を経験し、真理において真に成長し、自分の存在と人生の価値観と見通しを変え、自分の見解が神と同じとなり、自らを神に完全に服従させ、捧げる場合のみ、その者の性質が変化したと言えます。あなたは、ある程度努力し、困難に対して忍耐強く対処しているように考えられ、上から手配された業を行い、あるいは行けと命じられたあらゆる場所に行くことが出来るかも知れませんが、そうしたことは自分の行動の僅かな変化であり、あなたの性質の変化としては不十分です。あなたは、多くの道を進み、多くの苦難を受け、大きな恥辱に耐えることが出来、また神に対して強い親しみを感じ、聖霊があなたに対して業を行っていると感じるかも知れません、神があなたに対して何か自分の観念に則していない物事を行うよう依頼した時、あなたは服従せず、言い訳を探し、神に対して反抗し、神を拒否して、神を非難し、神に反対することさえあります。これは大問題です。これは、あなたには依然として神に反抗する本性があり、少しも変わっていないことを示しています。

『キリストの言葉の記録』の「自分の性質を変化させることについて、あなたがたが知るべきこと」より

神への信仰とは、自分が善人や行儀の良い者、法令を遵守する者、自分のことを考えたり自分の頭脳を使ったりすることが出来なくなることを神が要求するということではありません。かつて人間は、神への信仰に由来する性質の変化とは、まともな人間となること、外観上で一定の人間らしさを得ること、きちんと育つこと、辛抱強いこと、信心深く、愛情深いと思われるようになること、他人を助けるのをいとわないこと、思いやりを持つ事であると考えていました。つまり、それは自分の観念や想像の中の善人のようになることを意味していました。これは世の中に、「あなたは裕福なのだから貧しい人達や物乞いに恵んであげるべきだ」と言う人がいるのに似ています。……ゆえに、多くの者が、神への信仰は自分の外面的振る舞い、考え方、行動を多少変えることでしかないと考え、その上に、神への信仰とは、多くの苦難を受け、豪華な食事をせず、上質な衣類を着用しないことであると考える者も居ました。例えば西洋のある修道女は、(カトリックも宗教であり、修道女にとってそれも信仰の形なのですが)生涯苦難を受け続け、豪華な食事などの贅沢を避け、お金があれば常に貧しい人や必要のある人に施し、善行を積み人々に施し、助けとなることをすることが、神への信仰だと信じていました。生涯を通じてその修道女はひたすら苦難に耐え、食事も衣服も贅沢をすることを控えました。その修道女が死んだときに身に付けていた物に2ドル以上のものはありませんでした。彼女の生活費も1日数ドル程度でした。彼女の話はおそらく世界中で取り上げられたでしょう。このことから、何が分かるでしょうか。人間から見ると、宗教界では、こうした者だけが善良で思いやりのある人間であり、親切な行動を取り、善行を行い、変化し、神への信仰がある者であると考えられています。したがって、あなたがたも、それと同様に、神を信じることや信仰を持つこととは、善人となることであると、何も疑わずに考えている可能性がります。その善人とはどのような者かというと、他人と争わず、他人を呪わず、罵倒せず、悪行を行わず、神を信仰しているように見える者です。神に栄光をもたらす者となることであると言う者も居ます。……神は人間を救うことを望み、多くの言葉を述べ、多くの業を行いました。それでは、神は人間にどのようであって欲しいと望んでいるでしょうか。神は、人間の考えが真理により導かれること、真理を座右の銘として生活することを望んでいます。神は、あなたが操り人形のように無思考になることを求めておらず、ましてや植物のようにあなたがたが無感情で、普通の感情が欠如した状態であることなど、望んでいません。むしろ、神は、自分が愛する物事をあなたも愛し、憎んでいる物事をあなたも憎み、うれしい事にあなたも喜び、嫌いな物事をあなたも嫌い拒絶する、普通の人間であることを望んでいます。……あなたがたは性質の変化の意味を知らない、とわたしが言うのは、このためです。あなたがたは、単に自分の態度や外面的行動、機嫌や性格を制限するだけです。こうした方法によって、あなたがたが性質の変化を実現することは不可能です。神の言葉の中で、自分を制限し、言葉使いに気をつけて、感情をコントロールし、怒りを抑え、自分の自然な姿をさらすことのないよう注意し、どのような服を買って着るかに関して、控えめにするべきだと言っている部分は、どこにあるでしょうか。神はそう述べたことがあるでしょうか。そうした事柄に触れている部分はありますが、それは神の言葉の要点ではなく、人間の性質の変化をもたらす主な真理でもありません。神の言葉の大部分は、人間の堕落した性質について語るもので、どのように人間が自分の堕落した本質を知り、その堕落した性質を変化させ、穢れた本質を真に理解し、自分の堕落した性質から解放されて、神の要求に従って行動し、神自身の心に付き従い、神の願望をかなえることの出来る者になるかについて語るものです。それを理解したならば、それでもあなたがたは外面的行動について努力するでしょうか。あなたがたは、依然としてそうした外面的問題にとらわれたままで居るでしょうか。ゆえに、性質の変化の意味を理解していない場合、性質の変化の本質を把握し、自分の性質の変化を実現出来ることは、決して無いでしょう。特に、宗教団体から来てこの段階の働きを受け入れたばかりの者たちのうちには、神の信仰に対する観点や展望において、宗教儀式と宗教的思考と観点から完全に移行できない者もいます。そうした者は、それでも霊的で信心深く、忍耐深くなるよう努力し、礼儀が身についており、善行や他人への施しを好んで行う者になろうとします。それは完全な誤りです。そのような者となることを追求しても、神にたたえられることはありません……

『キリストの言葉の記録』の「性質の変化とは何か――性質の変化への道」

殆どの者が、特に神に対する信仰においてどのように振る舞うかに重点を置き、その結果そうした者の振る舞いに多くの変化が起きます。神を信じるようになった後、そうした者は他者と対立しなくなり、争わなくなり、他者を侮辱しなくなり、喫煙や飲酒を止め、釘1本であれ、板切れ1枚であれ、公共の器物を盗まなくなります。またそれにもまして、自分達が損害を被ったり不当な扱いを受けたりしても、訴訟を起こさなくなります。そうした者の振る舞いには何らかの変化が起こることは確実です。それは、神を信じるようになった後、真理の道を受け容れることによりそうした者は特に良い気分になり、また聖霊の業の恵みを味わったため、そうした者は特に熱意が高まり、そうした者に出来ないことや捨て去れない物事は無いからです。しかし、3年、5年、10年、30年と信じた後、最終的には、そうした者のいのちの性質に変化が無く、従前の状態に戻り、傲慢さや高慢さが高まって、権力や利益のために争うようになり、教会の金銭をむさぼり、自分の利益に資するあらゆることをして、地位や快楽を切望し、神の家の寄生虫のような存在となります。特に、殆どの指導者が皆に放棄されます。これらの事実により、何が証明されるでしょうか。表面的な振る舞いのみの変化は継続不可能です。人間のいのちの性質に変化が無い場合、遅かれ早かれ、その者の邪悪な面が自然と表れるでしょう。そうした者の振る舞いの変化の根源は、情熱と聖霊のその時点における多少の業の組み合わせであるため、一時的に情熱を高めることや良好になることは、その者にとって極めて容易です。信者以外の者が「善行を1度だけ行うのは容易である。困難なのは、善行を一生涯行うことである」と言う通り、人間は、善行を一生涯行うことが出来ません。人間の振る舞いはいのちにより主導され、人間のいのちがどのようなものであれ、それがその者の振る舞いとなり、自然と明示されるものが、いのちと、その者の本性を表します。虚偽の物事は続きません。神が人間を救うために業を行う時、それは人間に良い振る舞いをさせて引き立てるのではありません。神の業は、人間の性質を変化させ、新しい人間として生まれ変わらせるためのものです。したがって、神の人間に対する裁き、刑罰、試練、精錬は、全てその者の性質を変化させ、そうすることでその者が神に対する完全な服従と忠誠、そして神に対する正常な崇拝を実現するためです。これが神の業のねらいです。良い振る舞いをすることは、神に服従することとは異なり、ましてやキリストの味方をすることに等しいということはありません。振る舞いの変化は教義に基づき、情熱に由来します。それは神に関する真の認識や真理に基づくものではなく、ましてや聖霊の導きに基づくものではありません。人間の行動には聖霊に導かれているものもありますが、それはいのちの表出ではなく、神を知ることなどでは勿論ありません。人の振る舞いがどれほど立派であっても、それが神に従うという証明にならなければ、真理を実践するという証明にはなりません。振る舞いの変化などは錯覚に過ぎず、その人の熱心さの現れに過ぎず、いのちの表出などではありません……人間は良い振る舞いをすることができますが、それは必ずしもその者に真理があるということではありません。人々の熱意は、そうした人々自身に教義を尊重し、規則に従わせることが出来るのみなのです。真理の無い人々は実質的な問題を解決することが一切出来ず、教義を真理の代わりにすることは不可能なのです……新たな信者には、神を信じるようになった後に、俗世を捨てた者も居ます。そうした者が信者以外の者と会うと、そうした者は何も言うことが無く、その者が親戚や友人と会うことも滅多に無く、信者以外の者は「この人は本当に変わった」と言います。それで、その信者は「自分の性質が本当に変わったのだ。信者以外の者が私は変わったと言っている」と考えます。実際には、その信者の性質は変わったであろうか、というと変わっていません。それは外面的変化にすぎません。その信者のいのちは何ら変わっておらず、その信者の従前の性質は、そのままその信者に根付いています。人間は、聖霊の業が原因で熱意に駆られ、ある程度の外面的変化が発生し、多少の良い行いをすることがあります。しかし、これは性質の変化に相当するものではありません。あなたには真理が無く、あなたの物の見方は変化しておらず、それは信者以外の物の見方とさえ変わらず、あなたの価値観と人生の見通しも変わっていません。あなたには、神を畏れる心すらありませんが、それは最低限度として身に付けるべき事です。それは明らかに自分の性質の変化では無いのです。

『キリストの言葉の記録』の「外面的な変化と性質の変化の相違」より

宗教の領域では、多くの人々は肉体を抑制したり、十字架を負ったりして生涯にわたって大いに苦しみ、最期の息を引き取るまで苦しみ忍耐することさえする。中には死ぬその朝まで断食を続けている者もいる。このような人々はよい食物やよい衣服を生涯自らに否定し、苦しみだけを重視する。彼らは肉体を抑制し、自らの肉を捨てられる。彼らの苦しみに耐える精神は賞賛に値する。しかし、彼らの考え方、観念、精神的態度、そしてまさに古い本性は、まったく取り扱いを受けていない。彼らは自らを真に理解していない。彼らが心に抱いている神の姿は、伝統的な抽象的で漠然としたものである。彼らの神のために苦しもうという決意は、熱意と積極的な性格から来ている。彼らは神を信じてはいるが、神を理解していないし、神の心を知りもしない。彼らは神のためにただ盲目的に働き、盲目的に苦しんでいる。彼らは識別することを一切重視しないし、自分たちの奉仕が実際に神の心を満たすようにするにはどうするかということもほとんど考慮していない。また、神を理解するためにはどうするかということもほとんど知らない。彼らの仕える神は本来の姿のものではなく、自分たちが作り上げた神、彼らが人から聞いた神、あるいは、書物にある伝説的な神である。そして、彼らは生き生きとした想像力と信仰心から神のために苦しみ、神が望む働きに取り組む。彼らの奉仕はあまりに不正確で、実際にはほんとうに神の心を満たすような奉仕をしている人は誰もいない。どんなに苦しむことを厭わないとしても、彼らの元来からの奉仕についての考え方と彼らの想像する神の姿は変わっていない。彼らは神の裁きと刑罰、精錬と完成を経験していないからであり、誰も彼らを真理で導いていないからである。たとえ救い主イエスを信じていても、彼らの誰一人として救い主を見たことがない。彼らはただ伝説と噂で神を知っているだけなのである。だから、彼らの奉仕は目の見えない人が父親に仕えているように、目を閉じて行き当たりばったりに仕えているにすぎない。このような奉仕で最終的に何を達成できるであろうか。そして、誰がそれを認めるのであろうか。最初から終わりまで、彼らの奉仕はまったく変わらない。彼らは人間の作り出した教えを受け、自分たちの性質と好みとに基づいた奉仕をする。それでどんな褒美を受けられるのであろうか。…裁きを受けていない人々、刈り込みと取り扱いを受けず変わらずにいる人々──こうした人々はまったく征服されていないのではないか。そうした人々が何の役に立つだろうか。考え方、人生の理解、神についての理解が何の変化もなく、少しも実際に得たものがないのなら、けっして奉仕によって顕著な成果を得られない。ビジョンなしで、神の働きについての新しい理解なしでは、征服された者にはなれない。そうであるなら、あなたの神に従う方法は、あの苦しみ断食する人たちと同じである。──それは少しも役に立たない。彼らのすることには証しがないからこそ、その奉仕が無駄だとわたしは言うのである。彼らは生涯をとおして苦しみ、監獄で過ごし、あらゆる瞬間に耐え、愛と優しさを重視し、十字架を負う。彼らは世の中からけなされ、拒まれ、あらゆる苦難を経験してきた。彼らは最後まで従うが、それでも征服されておらず、征服されたことについて何の証しもできない。彼らは少なからぬ苦しみを経ているが、心の中ではまったく神を知らずにいる。彼らの古い考え方、古い観念、宗教的実践、人間がつくった理解、人間の考えは取り扱いを受けていない。そこには新しい理解がまるでない。彼らの神についての理解は、少しも真実でも正確でもない。彼らは神の心を誤解している。それが神に仕えるということでありえるであろうか。…神を信じていながら、あなたの知っていることが、自分の体を抑制し、耐え、苦しむことだけで、自分のしていることが良いのか悪いのか、まして、それが誰のためなのかはっきりわかっていないのなら、どうしてそのような実践が変化につながるであろうか。

『言葉は肉において現れる』の「征服の働きの内なる真実(3)」より

そのような宗教熱心な人たちはいつ集まっても、「お元気でいらっしゃいましたか。」と姉妹に尋ねる。そして彼女は、「神様に負債がありますが、神様の御心をなかなか成就することができません。」と答える。また別の人は「私もなんです。神様に負債がありますが、神様に満足していただくことができません。」と答える。この僅かな言葉にも、彼らの心の奥深くにある卑劣な心が表現されている。そのような言葉は実に忌まわしく、あまりにも不快だ。そのような人たちの本性は神に敵対している。現実に焦点を合わせている人たちは、心にあることをそのまま言葉にし、会話の中で自分たちの心をさらけ出す。偽りの行いはひとつもなく、礼儀にこだわらず、空虚な社交辞令もない。彼らはいつも単刀直入で、この世の規律を守ることはない。また、理性を失って大げさに振る舞う人たちがいる。他の人が歌うと踊り始め、鍋の米が焦げていることさえも気が付かない。そのような人たちは敬虔でもなく、尊敬に値しない。あまりに軽率な人たちである。全て現実の欠如の顕れである!ある人たちは集って霊的いのちについて語り、神に負債があるとは語らなくても心の中には神への心からの愛を秘めている。あなたが神にどれほど負債があるかは他の人たちとは無関係だ。あなたは人ではなく神に負債があるのだから。それならあなたがこのことを絶えず誰かに話したところでどうなるのだろうか。あなたは外観の熱心さや見せかけではなく、現実に目を向けることに重点を置くべきだ。

人のうわべだけの善行が何を表すだろうか。そのようなものは肉を表し、外見上最善のことをしたところで、ただあなた個人の気質を現すだけで、いのちを現すわけではない。人のうわべだけの行動では神の願いを成就することはできない。あなたは絶えず神に負債があると言うが、誰かにいのちを与えたり、神を愛するように誰かを導いたりすることすらできない。それで神を満足させられると信じているのか。あなたは自分のしている事が神の心からの願いであり、霊的なことだと信じているが、実にばかげている!あなたは自分が喜ぶものや自分が願うものを神も喜ぶと信じている。あなたが喜ぶものが神の喜びを表すだろうか。人の性格が神を表すことができるのか。あなたが喜ぶものはまさしく神が忌み嫌うもので、あなたの習慣は神がひどく嫌い拒絶するものである。もしあなたが神に負債があると感じるなら、神の前に出て祈りなさい。それを誰かに話す必要などない。神の前で祈ることもせず、人の注目を引こうとするばかりでも神の心の願いを成就することができるだろうか。もしあなたの行動が常に見せかけだけなら、あなたは最もうぬぼれが強い人間だ。表面上良い行いをするだけで、現実性に欠けている人はどんなタイプの人間か。それは偽善者のパリサイ人で、単に宗教熱心でしかない!あなたがたが見せかけの行いを止めず、変わることができないなら、あなたがたの中にある偽善的要素は増大するであろう。偽善的要素が大きくなればなるほど神を拒絶するようになり、そして遂には神に見捨てられるだろう!

『言葉は肉において現れる』の「神の信仰は宗教的儀式でなく現実に焦点を合わせるべきである」より

あなたが神を何年間も信じている間に、あなたは誰ものろったことはなく、悪行を働いたこともないかもしれないが、キリストとのつながりにおいて、あなたは真実を語ることも、誠実に振る舞うことも、キリストの言葉に従うこともできない。それならば、あなたは、この世で最もひねくれて邪悪だとわたしは言おう。あなたが縁者、友、妻(または夫)、息子、娘、両親に対して特に思いやりがあり、忠実で、決して他者を利用したりはしないが、キリストに味方し、キリストと平和な関係を持てないとしたら、たとえあなたが隣人を全力で救済し、または父、母、家族を大切にしていたとしても、それでもわたしは、あなたは邪悪でずるがしこいと言うのだ。あなたは自分が人間に味方したり、善行を行ったりすれば、キリストに味方する者だと思うのか。あなたは、自らの親切が天の恩恵を盗み取ることができると信じているのか。あなたは、善行はあなたの従順に代わるものだと考えているのか。あなたがたの中に、神の取り扱いと刈り込みを受け入れることができる者は一人もおらず、皆が、キリストの普通の人間性を受け入れることは難しいと考えている。しかし、あなたがたは常に神への従順を主張する。そのようなあなたがたの信仰はそれにふさわしい報いを引き起こすだろう。

『言葉は肉において現れる』の「キリストに味方しない者は確実に神の敵だ」より

人の交流

真理のない人々が、あたかもそれが真理と同じであるかのように、善良な人間性を生き抜くことについて語ります。あなたは善良な人間性を生き抜くことが真理に一致するなどと言い切ろうというのですか。それが何か肯定的なことであると言い切ろうというのですか。さて、あなたがたは何というのですか。人の愛は神の愛と同じですか。そうではないです。人の愛はときにはサタンの愛です。それは感情的な愛です。人自らの欲望と利益から生まれた愛です。簡単な例を挙げましょう。誰かが悪魔のような本性で、悪魔を愛しているなら、どんな愛を持っているのですか。神を愛さないが悪魔を愛しています。これはサタンの愛ではないですか。サタンの愛は真理に反し、それは真理に敵対し、神がもつもの、神であるもの、そして神の愛と正反対です。愛があるから人は善良であると思ってはいけない。そうした人々の愛は真理がなく、好ましくないものの愛であり、それ故にサタンの愛です。そのような人々の善良さの一部は真理に反していないのではないですか。人々の善良さの一部は真理に反しています。だから、たとえ他人には善良な人々のように思われ、立派で称賛に値するように見えても、必ずしも神の心に従う人々ではなく、好ましくない人であり得ます。これは正しくないですか。だから、堕落した人々は、他の人々には良く見えるか悪く見えるかにかかわらず、神にとってはそのような人々はみなサタンに属するのであり、すべてサタンのような性質を持っており、ことごとく堕落しており、神に敵対しています。いくつか例を挙げましょう。あなたがたに尋ねるが、どうして宗教者たちがキリストを十字架に釘付けにできたのですか。彼らがキリストを十字架に釘付けにしたとき、動機は何だったのですか。彼らは自分たちの動機が間違っていると思っていたのですか。彼らは自分たちは神に忠実であると、神の働きを支持していると、揺らぎない証しをしていると考えたが、神の目にはそうした人々は神に対立し、神の敵でありました。このことについてあなたはどう思いますか。今日、宗教界は終わりの日の神の働きを非難し、もう一度十字架にキリストを釘付けにし、頭の中では自分たちは神の働きを支持し、神に忠実で、神に敵対していないと考えます。そのような人々は、自分たちだけが神を愛し、自分たちだけが神に忠実であると考えています。これが彼らが考えていることではないですか。だから、堕落した人々にとっては、このように考え行動することから、自分たちが行っていることは正しい。完全に正しい。しかし、神にとってはそのような人々は疑いなく神に対立し、神の敵です。これをどのようにあなたは解釈しますか。善良であることは人々が神の心に従うことを意味しますか。人々が義であることを意味しますか。人々が神と調和していることを意味しますか。そしてそれ故、真理なしに人々は神の心に従い得るのですか。真理なしに人々は神に対立していないのですか。それなら、人々の善良さは好ましいことですか。好ましくないことですか。ほとんどの場合、人々の善良さは好ましくないです。なぜなら、あまりにも不純で、サタンの毒で汚染されており、真理の何物も含まれていないからです。それだから、人々の「動機」が善良であるとき、行いにおいて人々は必ずしも真理を実践しておらず、神に対立し、神に甚だしく敵対しているかもしれないです。これについての完全な証拠は、宗教界の神に対する反対と抵抗、そして二度目のキリストの磔に見られます。……したがって、人々が「生き抜く」とき、「正しいこと」を行い、「良い行い」を為すとき、こうしたことが必ずしも真理に一致するとは限らないです。人々の行いのいくつかは神に反し、さらには邪悪なもの、ゆがんだもの、神への裏切りとさえ表現することができるものがあります。今、あなたはこれらのことをはっきりと理解しているでしょう。何かがどれほど善良であると人々が想像しようとも、そこに真理や現実があることを意味しません。真理を実践することだけが、現実を得ることです。

兄弟の交わりより

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