神の三段階の働き
日々の神の御言葉 抜粋 1
わたしの全経営(救いの)計画、六千年にわたる経営計画は三段階、あるいは三時代から成る。それは始まりの律法の時代、次に恵みの時代(贖いの時代でもある)、そして終わりの日の神の国の時代である。これら三時代におけるわたしの働きは、各時代の性質によって異なるが、それぞれの段階においてこの働きは人間の必要性に対応している。正確には、わたしがサタンに対して行なう戦いでサタンが用いる策略に応じて働きは行われる。わたしの働きの目的は、サタンを打ち負かし、わたしの知恵と全能を明らかにし、サタンの策略をすべてあばくことであり、それによりサタンの支配下に生きる人類全体を救うことである。それはわたしの知恵と全能を示し、サタンの耐え難いおぞましさを明らかにするものである。それに加えて、被造物が善悪を区別し、わたしこそが万物を治める者であることを認識し、サタンが人類の敵であり、下の下、悪い者であることをはっきりと見極められるようにし、善と悪、真理と偽り、聖さと汚れ、偉大さと卑劣の違いを絶対的な明白さをもって区別できるようにすることである。それにより無知な人類は、人類を堕落させるのはわたしではなく、創造主であるわたしだけが人類を救うことができ、人々が享受できるものを彼らに授けることができることをわたしに証しし、わたしこそがすべてを治める者であり、サタンは後にわたしに背いたわたしの被造物の一つにすぎないと人類は知ることができる。わたしの六千年の経営計画は三段階に分けられており、わたしがそのように働くのは被造物がわたしの証人となり、わたしの心を知り、わたしこそが真理であることを知らしめるという成果を達成するためである。したがって、わたしの六千年にわたる経営計画における最初の働きのあいだ、わたしは人々を導いたヤーウェの働きである律法の働きを行なった。第二段階では、ユダヤの村々において恵みの時代の働きが始まった。イエスは恵みの時代におけるすべての働きを表した。イエスは受肉し、十字架につけられ、恵みの時代を開始した。イエスは贖いの働きを完成させ、律法の時代を終了させ、恵みの時代を開始するために十字架にかけられ、そのため「最高司令官」「罪のいけにえ」「贖い主」と呼ばれた。したがって、イエスの働きはヤーウェの働きと中身は異なっていたけれども、原則においては同じである。ヤーウェは律法の時代を開始し、地上における神の働きの拠点、発祥地を定め、律法と戒めを発した。これらがヤーウェが行なった二つの働きであり、それは律法の時代を代表する。イエスが恵みの時代に行なった働きは律法を発することではなく、それらを成就し、それによって恵みの時代が到来したことを告げ、二千年続いた律法の時代を終結させることであった。イエスは恵みの時代をもたらすために来た先駆者であったが、その働きの中心は贖いであった。よってイエスの働きもまた二つの部分から成る。それらは新しい時代を切り開くこと、そして十字架刑を通して贖いの働きを完成させることである。その後、イエスは去った。これで律法の時代は終わり、恵みの時代が始まった。
『神の出現と働き』「贖いの時代における働きの内幕」(『言葉』第1巻)
日々の神の御言葉 抜粋 2
六千年にわたる神の経営の働きは、律法の時代、恵みの時代、神の国の時代の三段階に分かれている。これら三段階の働きはすべて人類の救いのためである。すなわち、それらはサタンによってひどく堕落させられた人類の救いのためなのだ。けれども、それは同時に、神がサタンと戦うためでもある。したがって、ちょうど救いの働きが三段階に分かれているように、サタンとの戦いも三段階に分かれており、神の働きにおけるこの二つの側面は同時に行われる。サタンとの戦いは実際、人類の救いのためであり、また、人類を救う働きは一段階で見事に成し遂げられるものではないから、サタンとの戦いもまたいくつかの段階と期間に分けられる。そして戦いは、人間の必要と、サタンによる人間の堕落の程度に応じて、サタンに対して遂行される。おそらく人は、二つの軍勢が戦うのと同じように、神が武器を取ってサタン相手に戦うのだろうと、想像の中で考えているだろう。これが人の知能で想像できる限度であり、この上なく曖昧で、非現実的な考えだが、人はそう信じている。そして、人の救いの手段はサタンとの戦いだと、わたしがここで言うものだから、人はそのような戦いの様子を想像する。人の救いの働きは三段階で実行された。つまり、サタンとの戦いは三段階に分割され、それによってサタンを完全に打ち負かすのだ。しかし、サタンとの戦いという働き全体に秘められた真相は、人に恵みを施し、人の罪の捧げ物となり、人の罪を赦し、人を征服し、人を完全にするといういくつかの段階を通して、その効果が達成されるということである。実際、サタンとの戦いは、武器を手にしてサタンに立ち向かうものではなく、人の救い、人のいのちへの働き、そして人の性質を変えることであり、それによって人は神を証しする。サタンはこのようにして打ち負かされるのだ。人の堕落した性質を変えることを通して、サタンは打ち負かされる。サタンが敗北すると、つまり、人が完全に救われると、辱めを受けたサタンは完全に縛られ、こうして人は完全に救われることになる。ゆえに、人の救いの実質はサタンとの戦いであり、サタンとの戦いはおもに人の救いに反映される。人が征服される終わりの日の段階は、サタンとの戦いの最終段階であり、また、人をサタンの領域から完全に救う働きでもある。人の征服の秘められた意味は、サタンの化身、つまりサタンに堕落させられた人間が、征服に引き続いて創造主のもとへと戻ることであり、これによって人はサタンを捨て、完全に神へと立ち返る。このようにして、人は完全に救われることになる。したがって、征服の働きはサタンとの戦いにおける最後の働きであり、サタンを打ち負かす神の経営の最終段階である。この働きがなければ、人の完全な救いは最終的に不可能で、サタンの完全な敗北も不可能なはずだ。そして、人類は決して素晴らしい終着点に入ることができず、サタンの影響から自由になることもできない。したがって、人の救いの働きを、サタンとの戦いが終結する前に完了させることはできない。なぜなら、神の経営の働きの核心は人類の救いだからである。最初の人類は神の手の中にあったが、サタンによる誘惑と堕落によって、人はサタンに縛られ、悪しき者の手中に落ちてしまった。こうしてサタンは、神の経営の働きで打ち負かされる対象となった。サタンは人間を自分の所有物としたが、人は神による経営全体の資本なので、人が救われるには、サタンの手から取り戻されなければならない。すなわち、サタンの虜となった人間を取り戻す必要があるのだ。かくしてサタンは、人間の古い性質の変化、人間の本来の理知を回復する変化によって打ち負かされなければならず、こうして、虜となっていた人間をサタンの手から取り戻すことができる。人がサタンの影響や束縛から自由になると、サタンは辱められ、人は最終的に取り戻され、サタンは打ち負かされる。そして人はサタンの暗闇の影響から解放されたので、この戦い全体の戦利品となり、戦いが終わるとサタンは懲罰の対象となる。その後、人類を救う働き全体が完了するのである。
『神の出現と働き』「人間の正常な生活を回復し、素晴らしい終着点へと導き入れる」(『言葉』第1巻)
日々の神の御言葉 抜粋 3
神は被造物に対して悪意を抱いておらず、サタンを打ち負かすことだけを願っている。神の働きのすべては――それが刑罰であろうと裁きであろうと――サタンに向けられている。それは人類の救いのために実行され、いずれもサタンを打ち負かすためであり、目的は一つである。つまり、サタンと最後まで戦うことである。そしてサタンに勝利するまで、神は決して休まず、サタンを打ち負かして初めて休息する。神によってなされるすべての働きはサタンに向けられており、また、サタンに堕落させられた人たちはみなサタンの領域で支配され、サタンの領域で生きているので、サタンと戦ってそれを打破しなければ、サタンがその人たちへの掌握を緩めることはないだろうし、彼らが神のものとされることもないだろう。そうした人たちが神のものとされなければ、それはサタンが打ち負かされておらず、敗北していないことを証明するはずだ。ゆえに、六千年にわたる神の経営計画の最初の段階で、神は律法の働きをなし、第二段階で恵みの時代の働き、すなわち磔刑の働きをなしたのであって、第三段階では人類征服の働きを行う。このすべての働きは、サタンが人類を堕落させた度合いに応じており、それはすべてサタンを打ち負かすためであって、どの段階もサタンを打ち負かすためである。六千年にわたる神の経営の働きの実質は、赤い大きな竜に対する戦いであり、人類を経営する働きもまた、サタンを打ち負かす働き、サタンと戦いを交える働きである。神は六千年にわたって戦い、このようにして、人を最終的に新たな領域へと導き入れるために、六千年も働いてきたのだ。サタンが打ち負かされるとき、人は完全に自由になる。これこそが現在の神の働きの方向ではないだろうか。これがまさに、現在の働きの方向である。つまり、人を完全に解放して自由にすることである。その結果、人はどんな規則にも支配されず、あらゆる束縛や抑制にも制限されなくなる。この働きはすべて、あなたがたの霊的背丈と必要に応じてなされる。つまり、あなたがたに成し遂げられることが何であれ、それがすべて施されるということだ。それは、「アヒルを追いやって木に止まらせる」というような、あなたがたに何かを課すものではない。そうではなく、この働きはどれも、あなたがたの実際の必要に応じてなされるのである。それぞれの段階の働きは、人の実際の必要と要求に応じてなされる。働きの各段階はサタンを打ち負かすためなのだ。実際、最初は創造主と被造物のあいだに壁はなかった。そうした障壁はすべてサタンによって生み出されたのである。人はサタンによる妨害と堕落のせいで何も見えなくなり、触れることもできなくなった。人は犠牲者であり、欺かれた者である。ひとたびサタンが敗北すると、被造物は創造主を見上げ、創造主は被造物に目を注ぎ、自ら彼らを導くことができる。人が地上で送るべき生活はそれしかない。したがって、神の働きはおもにサタンを打ち負かすことであり、サタンが敗北すると、すべてが解決される。
『神の出現と働き』「人間の正常な生活を回復し、素晴らしい終着点へと導き入れる」(『言葉』第1巻)
日々の神の御言葉 抜粋 4
神の経営計画全体の働きは、神自身によって直接行われた。第一段階、すなわち創世は神自身によって直接行われたのであり、そうでなければ誰も人類を創造できなかったはずだ。第二段階は全人類の贖いであり、それもまた神によって直接行われた。第三段階は言うまでもない。神の働きはすべて、なおさら神自身が終わらせなければならないのである。全人類を贖い、征服し、獲得し、完全にする働きは、すべて神自身が直接遂行する。神がこの働きを自ら行わないとしても、人が神の身分を表すことはできないし、神の働きを行うこともできない。サタンを打ち負かし、人類を獲得するために、また、地上での正常な生活を人に与えるために、神は自ら人を導き、人のあいだで自ら働く。神の経営計画全体、そして神によるすべての働きのために、神は自らこの働きをしなければならない。もし人が、神が来たのは人が神を見られるようにするため、また人を幸せにさせるためだとしか思わないなら、そのような認識には何の価値もなく、何の意義もない。人の認識はあまりにも浅いのだ。神が自ら遂行して初めて、この働きは余すところなく完全に行われる。人が神に代わってそれを行うことはできない。人には神の身分も本質もないのだから、神の働きを行うのは不可能である。たとえ人がその働きを行ったとしても、何ら効果はないだろう。最初に神が肉となったのは贖いのためであり、全人類を罪から贖い、人間が清められ、罪を赦されるようにするためだった。征服の働きも神自身によって人のあいだでなされる。この段階において、神が預言しか語らないのであれば、預言者か、誰か賜物のある者がいて、その人が神に代わることもできよう。預言しか語られないのであれば、人が神に取って代わることもできよう。しかし、人が自ら神自身の働きを行い、人間のいのちに働きかけようとしても、この働きを行うのは不可能だろう。それは神自身によって直接なされなければならず、神が自ら肉となってこの働きを行わなければならない。言葉の時代において、仮に預言しか語られないのであれば、預言者イザヤかエリヤがいて、その働きを行うだろうし、神自身が直接それを行う必要はないはずだ。この段階においてなされる働きは、単に預言を語ることだけではないので、また言葉の働きを用いて人を征服し、サタンを打ち負かすほうがより重要なので、人がこの働きを行うのは不可能であり、神自身によって直接なされなければならない。律法の時代、ヤーウェは神の働きの一部を行い、その後、預言者を通していくつかの言葉を語り、多少の働きをなした。それは、人がヤーウェに代わってその働きを行うことができ、預言者は物事を預言し、神に代わって夢を解き明かすことができたからである。初めになされた働きは、人の性質を直接変える働きではなく、人の罪とも関係がなく、人は律法を守ることだけを要求されていた。それゆえ、ヤーウェが肉となって人に姿を見せることはなかったのである。その代わり、ヤーウェはモーセをはじめとする人たちに直接語り、自身の代わりに語らせ、働きを行わせ、人のあいだで直接働かせた。神の働きの第一段階は人を導くことだった。それがサタンとの戦いの始まりだったのだが、この戦いはまだ正式には始まっていなかった。サタンとの正式な戦いは神の最初の受肉とともに始まったが、それは今日に至るまでずっと続いている。この戦いにおける最初の戦闘は、受肉した神が十字架にかけられたときである。受肉した神が十字架にかけられたことでサタンは敗北したが、それはこの戦いで成功に終わった初めての段階だった。受肉した神が人のいのちに直接働きかけることを始めたときこそが、人を取り戻す働きの正式な始まりである。これは人間の古い性質を変える働きなので、サタンと戦いを交える働きだった。初めにヤーウェによってなされた働きの段階は、単に地上における人の生活を導くことに過ぎなかった。それは神の働きの始まりであって、いかなる戦いも、いかなる大きな働きもいまだ含んではいなかったが、来たるべき戦いの働きの基盤を築いた。その後、恵みの時代になされた第二段階の働きには、人の古い性質を変えることが含まれていたが、それは神自身が人のいのちに働きかけたことを意味する。これは神自身によってなされなければならず、神が自ら肉となることを必要とした。仮に神が肉となっていなければ、他の誰一人として、この段階の働きにおいて神に代わることはできなかっただろう。と言うのも、それはサタンと直接戦う働きを表していたからである。人が神に代わってこの働きを行ったとしたら、たとえサタンに立ち向かっても、サタンは服従しなかっただろうし、サタンを打ち負かすことは不可能だったはずだ。サタンを打ち負かすのは、受肉した神でなければならなかった。なぜなら、受肉した神の本質は依然として神であり、受肉した神はやはり人のいのち、そして創造主だからである。何があろうと、神の身分と本質は変わらない。そのため神は肉をまとい、サタンを完全に服従させる働きを行った。終わりの日の働きの段階において、仮に人がこの働きをなし、言葉を直接語ることになっても、それらを語ることはできないだろう。そして、仮に預言が語られたとしても、その預言が人間を征服することは不可能だろう。神は肉をまとうことで、サタンを打ち負かし、完全に服従させるために来る。神がサタンを完全に打ち負かし、完全に人を征服し、完全に人を自分のものにするとき、この段階の働きは完了し、成功に終わる。神の経営において、人が神の代役を務めることはできない。特に、時代を導いて新たな働きを始めることは、なおさら神自身によって直接なされる必要がある。人に啓示を与えたり、預言をもたらしたりするのは、人間でも可能なことだが、もしそれが、神によって直接行われるべき働き、また神自身とサタンとの戦いの働きであるなら、人間がその働きをなすことは不可能である。サタンとの戦いがなかった第一段階の働きにおいて、ヤーウェは預言者たちによって語られた預言を用いて、自らイスラエルの民を導いた。その後、第二段階はサタンとの戦いになり、神自身が直接肉となり、肉の中に入ってこの働きを行った。サタンとの戦いに関することは何であれ、神の受肉も関係している。つまり、人間がその戦いを行うのは不可能だということである。仮に人間が戦うことになっても、サタンを打ち負かすことは不可能だろう。いまだサタンの支配下にある人間が、どうしてサタンと戦う力を持てようか。人は真ん中にいる。もしもサタンのほうに傾くなら、あなたはサタンに属しているが、神を満足させるなら、あなたは神に属す。人が神に代わってこの戦いの働きをなそうとするなら、人にそれが可能だろうか。仮にそうしていたら、とうの昔に滅びていたのではなかろうか。とうの昔に冥府へ入っていたのではなかろうか。このように、人が神に代わってその働きをなすことはできない。つまり、人には神の本質がなく、あなたがサタンと戦いを交えたとしても、サタンを打ち負かすことは不可能だろう。人にはある程度の働きしかできない。幾人かを勝ち取ることはできるだろうが、神自身の働きにおいて神の代役を務めることはできない。どうして人がサタンと戦うことなどできようか。あなたが戦いを始めるよりも早く、サタンはあなたを虜にするだろう。神自身がサタンと戦い、それを基に人が神に付き従い、服従して初めて、人は神のものとされ、サタンの束縛から逃れられる。人が自分自身の知恵と能力で達成できることは、あまりにも限られている。人には人間を完全にしたり、導いたり、さらには、サタンを打ち負かしたりするなど不可能である。人の知能と知恵で、サタンの企みを阻止することはできない。ゆえに、どうして人がサタンと戦うことなどできようか。
『神の出現と働き』「人間の正常な生活を回復し、素晴らしい終着点へと導き入れる」(『言葉』第1巻)
日々の神の御言葉 抜粋 5
人類を経営する働きは三つの段階に分けられるが、それは人類を救う働きが三つの段階に分けられることを意味する。これら三つの段階に創世の働きは含まれず、むしろ、律法の時代、恵みの時代、そして神の国の時代という三段階の働きである。創世の働きは、人類全体を造る働きだった。それは人類を救う働きではなく、人類を救う働きとは関係がなかった。なぜなら、創世の際、人類はまだサタンによって堕落させられておらず、人類を救う働きを実行する必要がなかったからである。人類を救う働きは、人類がサタンに堕落させられた後にようやく始まり、そのため人類を経営する働きも、人類が堕落させられた後にようやく始まった。言い換えれば、人を経営する神の働きは、人類を救う働きの結果として始まったもので、創世の働きから生じたものではないのである。人類が堕落した性質を持つようになって初めて、経営の働きが存在するようになった。ゆえに人類を経営する働きは、四つの段階もしくは四つの時代ではなく、三つの部分を含むものである。これこそが、人類を経営する神の働きへの正しい言及の仕方である。最後の時代が終わるとき、人類を経営する働きは完全に終焉を迎えている。経営の働きの終結は、人類全体を救う働きが完全に終了し、それ以降、人類にとってその段階が完結したことを意味する。人類全体を救う働きがなければ、人類を経営する働きも存在せず、三段階の働きもないだろう。ヤーウェが創世の働きを終わらせ、律法の時代の働きを始めたのはまさに、人類の堕落のため、また人類が救いをただちに必要としていたためである。そうして初めて、人類を経営する働きが始まったのだが、それはつまり、人類を救う働きもそのとき初めて開始されたことを意味する。「人類を経営する」とは、新たに造られた人類(つまり、まだ堕落させられていない人類)の地上における生活を導くという意味ではない。むしろそれは、サタンによって堕落させられた人類の救いであり、つまりは、この堕落した人類を変化させることである。これが「人類を経営する」ことの真意である。人類を救う働きに創世の働きは含まれないので、人類を経営する働きにも創世の働きは含まれず、創世とは別の三段階の働きだけが含まれる。人類を経営する働きを理解するには、三段階の働きの歴史を知ることが必要であり、それこそが救われるために、すべての人が知っていなければならないことである。神の被造物たる者、人は神によって造られたということを認識しなければならないし、人類の堕落の源、さらには人の救いの過程を認識しなければならない。神に気に入られようと教義に従って行動することだけは知っているが、神がいかに人類を救うか、あるいは人類の堕落の源を一切知らないのであれば、あなたがたには神の被造物としてその部分が欠けている。あなたは、神による経営の働きのより幅広い範囲を知らないままでいるのに、実践可能なそれらの真理を理解するだけで満足してはならない。そうであれば、あなたは教条的過ぎるということになる。三段階の働きは、神による人の経営の内幕であり、全世界の福音の到来であり、人類全体における最大の奥義であり、また福音伝道の基盤でもある。自分のいのちに関係する単純な真理を理解することだけに集中し、この最大の奥義とビジョンに関して一切知らないとすれば、あなたのいのちは、ただ眺めること以外に役に立たない不良品と言えるのではないか。
人が実践することだけに集中し、神の働きと、人が認識すべき物事を二次的なものと見るならば、それは木を見て森を見ないことではないか。あなたは、認識すべきことを認識し、実践すべきことを実践しなければならない。そうして初めて、真理をどのように追い求めるべきかを知る人になる。あなたが福音を述べ伝える日が来たとき、「神は偉大な義の神、至高の神であり、いかなる偉人も比べものにならず、それ以上に高い者もいない神である……」としか言えず、こうした見当違いで上辺だけの言葉しか発することができず、非常に重要で中身のある言葉を話すことが一切できず、神を認識すること、あるいは神の働きについて何も言うことができず、さらには真理を説明することも、人間に欠けているものを提供することもできないのであれば、あなたのような人は、自身の本分を立派に尽くすことができない。神を証しし、神の国の福音を述べ伝えるのは、決して簡単なことではない。まずは真理を身につけ、理解すべきビジョンを備えなければならない。神の働きの様々な側面に関するビジョンと真理を明確に知り、心の中で神の働きを認識するようになり、神が何をするかにかかわらず、例えばそれが義の裁きであれ人を精練することであれ、自身の基盤として最大のビジョンを備え、実践すべき正しい真理を備えていれば、あなたは最後まで神に付き従うことができるようになる。神の働きが何であれ、その働きの目的は変化せず、神の働きの核心も変化せず、そして人に対する神の旨も変わらないことを知らなければならない。神の言葉がどれほど厳しいものであっても、環境がどれほど過酷でも、神の働きの原則は変わらないし、人を救うという神の意図も変わらない。それが人の終わり、あるいは人の終着点を明らかにする働きではなく、最終段階の働き、あるいは神の経営計画全体を終わらせる働きでもないならば、また神が人に対して働きを行っているさなかのことであるならば、神の働きの核心は変わらない。つまり、それは常に人類の救いなのである。これこそが、あなたがたの神への信仰の基盤であるべきだ。三段階の働きの目的は全人類の救いであり、すなわちそれは人をサタンの領域から完全に救い出すことを意味する。三段階の働きには、それぞれ異なる目標と意義があり、一つひとつが人類を救う働きの一部であって、人類の必要に応じて実行される、異なる救いの働きなのだ。ひとたびこの三段階の働きの目的を知れば、働きの各段階の意義を正しく認識するにはどうすればよいかが分かり、神の旨を満たすにはどのように行動すればよいかが理解できる。この点に到達することができれば、この最大のビジョンが神に対するあなたの信仰の基盤になるだろう。あなたは楽な実践の方法や奥深い真理を追い求めるだけでなく、実践とビジョンを組み合わせなければならない。そうすれば、実践できる真理と、ビジョンに基づく知識の両方が存在することになる。そうして初めて、あなたは真理を徹底的に追求する者になれるのである。
『神の出現と働き』「神の三段階の働きを認識することは、神を認識する道である」(『言葉』第1巻)
日々の神の御言葉 抜粋 6
三段階の働きは、神の経営全体の核心であり、その三段階の中に、神の性質と、神であるものが表されている。神の三段階の働きを知らない者は、神がどのようにして自身の性質を表現するかを理解できないだけでなく、神の働きの知恵も知らずにいる。また、神が人類を救う様々な方法や、人類全体に対する神の旨についても知らないままでいる。三段階の働きは、人類を救う働きの完全なる表現である。三段階の働きを知らない者たちは、聖霊の働きの様々な手段や原則を知らないままである。また、ある特定の段階の働きから残された教義にあくまでこだわる者たちは、神を教義に限定する人であり、神に対する彼らの信仰は漠然としていて不確かである。そのような人たちは、決して神の救いを得ることがないだろう。神の三段階の働きだけが神の性質全体を余すところなく表せるのであり、人類全体を救う神の意図、そして人類の救いの全過程を完全に示すことができる。これは、神がサタンを打ち負かし、人類を取り戻したことの証拠、神の勝利の証拠であり、神の性質全体の表れでもある。神の働きの三段階のうち、一つの段階しか理解しない者は、神の性質の一部しか知らない。人の観念においては、この一段階の働きがいともたやすく教義になり、人は神に関する規則を定め、神の性質のこの一部分を神の性質全体の表れとして使いがちになる。その上、人の想像が少なからずこの中に混入するので、神の働きの原則に加えて、神の性質、存在、そして知恵を、限られた範囲内に固く制限し、神がかつてこのようであったなら、永遠にそれと同じままであり、絶対に変わることはないと信じ込む。三段階の働きを知り、正しく認識できる者だけが、完全に、そして正確に神を知ることができる。少なくとも、神をイスラエル人の神、あるいはユダヤ人の神とは定義しないし、人間のためにいつまでも十字架にかけられる神とは見ない。神の働きの一段階だけから神を認識するようになってしまえば、その人の認識はあまりに少なく、大海原の一滴に過ぎない。そうでなければ、なぜ多くの古い宗教家たちは神を生きたまま十字架にかけたのか。それは、人間が神を限られた範囲に制限するからではないのか。多くの人が神に反抗し、聖霊の働きを邪魔するのは、彼らが多岐にわたる様々な神の働きを認識せず、さらに、ごくわずかな知識と教義しか持ち合わせておらず、それで聖霊の働きを判断するためではないのか。そのような人たちの経験は表面的なものなのに、本性が傲慢かつ放縦であり、聖霊の働きを軽視し、聖霊の懲らしめを無視し、さらには自分の取るに足らない古い論拠を用いて聖霊の働きを「確認」しようとする。また彼らはもったいぶって、自分の知識と博識を全面的に確信し、世界中を駆け回ることができると思い込んでいる。そのような人たちは聖霊に軽蔑され、拒絶されるのではないか。そして、新しい時代に淘汰されるのではないか。神の前に来て公然と神に反抗する人たちは、無知で物事をよく知らない卑劣な人間で、自分がいかに聡明かを見せびらかそうとしているだけではないのか。彼らは、聖書についてのわずかな知識だけで俗世の「学術界」にはびこり、人に教えを説く上辺だけの教義でもって、聖霊の働きを覆し、自分たちの思考過程を中心に回らせようと試みている。目先のことしか見えないのに、六千年にわたる神の働きを一目で見極めようとするのである。この人たちには、言及する価値のある理知など一切ない。実際、神についてよく知っている人ほど、神の働きを判断するのに時間をかける。さらに、そのような人たちは、今日の神の働きについて知っていることをわずかしか語らないが、あわてて判断することはしない。神に対して認識がない人ほど、傲慢かつ自信過剰で、気まぐれに神の存在そのものを言いふらすが、彼らは理論を語っているだけで、実際の証拠は提供しない。このような人たちには少しも価値がない。聖霊の働きを冗談事と捉える人たちは浅はかである。聖霊の新たな働きに出会っても慎重でなく、ベラベラ言いふらして早まった判断を下し、気分にまかせて聖霊の働きの正しさを否定し、さらには聖霊の働きを侮辱し冒涜する人たち、つまりそうした無礼な人たちは、聖霊の働きに対して無知ではないのか。さらに、そのような人たちは、極めて傲慢で、生まれつき高慢で、手に負えない人間ではなかろうか。このような人たちが聖霊の新しい働きを受け入れる日が来ても、神は彼らを寛容には扱わないだろう。彼らは、神のために働く人たちを見下すだけでなく、神自身をも冒涜する。そのような無謀な人たちは、この世でも後の世でも赦されることがなく、永久に地獄で滅びるだろう。このように無礼で放縦な人たちは、神を信じているふりをしているだけで、そうすればするほど、神の行政命令に背きがちになる。生まれつき放逸で、一度も誰かに従ったことがない、傲慢な人間はすべて、このような道を歩いているのではないか。彼らは、常に新しく決して古くならない神に、来る日も来る日も反抗しているのではないか。
『神の出現と働き』「神の三段階の働きを認識することは、神を認識する道である」(『言葉』第1巻)
日々の神の御言葉 抜粋 7
三段階の働きは、神の働き全体の記録であり、神による人類の救いの記録であって、架空のものではない。神の性質全体を認識しようと真剣に追い求めるのであれば、あなたがたは神によってなされた三段階の働きを知らなければならず、さらに、どの段階も省略してはならない。これは神を知ることを求める人たちが達成しなければならない最低限のことである。神を真に認識しているかのように装うことなど、人にはできない。それは人が自分で想像できるものでもなければ、聖霊が一人の人間に特別な恩恵を授けた結果でもない。むしろそれは、人が神の働きを経験した後に得る認識であり、神の働きの事実を経験して初めて訪れる、神についての認識なのである。そのような認識は容易に得られるものではないし、教えられるものでもない。それは完全に個人的な経験に関係することなのだ。これらの三段階の働きの核心には、神による人類の救いがあるものの、この救いの働きの中には働きを行ういくつかの方法と、神の性質を表すいくつかの手段が含まれている。人がそれを識別するのは極めて難しく、理解するのも困難である。時代の区分、神の働きの変化、働きの場所の変化、この働きの受益者の変化など、これらすべてが三段階の働きに含まれている。特に、聖霊の働き方の違い、神の性質、姿、名前、身分、その他の変化などはどれも、三段階の働きの一部である。働きの一段階は一部しか表すことができず、特定の範囲に限られている。それは時代の区分や神の働きの変化と関連がなく、他の側面とはさらに関連していない。これは明白な事実である。三段階の働きが人類を救う神の働きのすべてなのだ。人は、人類を救う働きの中で、神の働きと神の性質を認識しなければならない。この事実がなければ、神に関するあなたの認識は空虚な言葉でしかなく、机上の空論に過ぎない。そのような認識では、人を納得させることも征服することもできず、現実にそぐわないし、また真理でもない。その認識がたとえ豊富で、聞こえのよいものであっても、神の元来の性質と合致しないのであれば、神はあなたを容赦しない。神はあなたの認識を称えないだけでなく、神を冒涜した罪人としてあなたに報復する。神を認識することに関する言葉は、軽々しく語られるものではない。たとえあなたが流暢で弁が立ち、言葉が優れているために、黒を白、白を黒と言いくるめることができるとしても、神についての認識を語ることに関しては素人同然である。神は、あなたが性急に判断を下したり、気軽に称えたり、無頓着に中傷したりできる対象ではない。あなたは誰でもどんな人でも称えるが、それでもなお、神の至高の恵みを描写する適切な言葉を見つけるのに悪戦苦闘している。そしてこれが、あらゆる敗者が気づくようになることなのである。神を描写できる言語の達人は大勢いるが、その描写の正確さは、神に属する人々や、限られた語彙しかなくても豊かな経験を備えた人々によって語られる真理の百分の一に過ぎない。よって神への認識は、巧みな言葉遣いや豊富な語彙によるのではなく、正確さと現実性にかかっていること、また人の知識と神への認識はまったく無関係であることが見て取れる。神を認識するという学びは、人類のどの自然科学よりも高尚である。それは、神を認識することを探し求める極めて少数の人間にしか達成できない学びであって、才能があれば誰でも達成できるわけではない。よってあなたがたは、神を認識することと真理を追い求めることを、ほんの子供でも達成できるものだという見方をしてはならない。あなたはおそらく、家庭生活、職業、あるいは結婚生活において完全に成功を収めているかもしれないが、真理について、また神を認識する学びについて言えば、自分で見せられるものは何もないし、何一つ成し遂げていない。真理を実践するのはあなたがたにとって非常に難しいことであり、神を認識するのはさらに困難な問題であると言ってよい。これはあなたがたにとって困難なことであり、同時に人類全体が直面している難事である。神を認識するために何らかのことを成し遂げた人たちの中で、基準に達している人はほとんどいない。人間は、神を認識することが何を意味するのか、どうして神を認識する必要があるのか、あるいは、神を認識するにはどの程度まで達成しなければならないのかを知らずにいる。これは人類を大いに混乱させるものであり、ごく簡単に言うと人類が直面する最大の謎であって、誰もこの質問に答えることができないし、誰も進んで答えようとはしない。なぜなら、今日まで人類のうち誰一人として、この働きの研究に成功したことがないからである。おそらく、三段階の働きの謎が人類に明らかにされるとき、神を認識する才能豊かな人々の集団が次々と現れるだろう。もちろん、そうなることをわたしは望むし、さらに言えば、わたしはこの働きを実行している最中であって、近い将来そうした才能豊かな人々がもっとたくさん現れることを願う。彼らは、三段階の働きの事実を証しする者となり、そしてもちろん、三段階の働きを証しする最初の者となるだろう。しかし、神の働きが終わる日になって、そのような才能ある人々が現れなかったならば、あるいは、受肉した神によって完全にされることを自ら受け入れた人々が一人か二人しかいなかったならば、これ以上悲しく、また残念なことはないだろう。しかし、これは最悪のシナリオに過ぎない。いずれにせよ、真剣に追い求める者たちがこの祝福を得られることを願う。世の始まりの時以来、このような働きはかつて一度も存在しなかったし、人類の発展の歴史の中で、かつてなかった取り組みである。神を認識する最初の者たちの一人になることが本当にできるならば、あらゆる被造物の中で最も名誉なことではないだろうか。神によってこれ以上に称えられる人が、人類の中にいるだろうか。このような働きを成し遂げるのはたやすいことではないが、それでも最終的には成果を上げる。性別や国籍に関係なく、神の旨を認識できる人はみな、最後に神から最高の名誉を受け、神の権威を備える唯一の者たちとなる。これが今日の働きであり、また未来の働きでもある。つまり、六千年にわたる働きの中で最後に達成される最高の働きであり、人間の各区分を明らかにする働きの方法である。人に神を認識させるという働きを通して、人の様々な階層が明らかにされる。つまり、神を知る者は神の祝福を受け、神の約束を受け取る資格がある一方、神を知らない者は神の祝福を受ける資格も、神の約束を受け取る資格もないことになる。神を知る者は神の知己であり、神を知らない者は神の知己とは呼ばれない。神の知己は、神のあらゆる祝福を受けられるが、神の知己でない者は、神の働きのどれにも値しない。患難であれ、精錬であれ、あるいは裁きであれ、それらはどれも人が最終的に神についての認識を得られるようにするためであり、それによって人は神に服従する。これが最終的に達成される唯一の成果である。三段階の働きはどれも隠されていないが、このことは、人が神を認識するのに役立ち、人が神についてより完全かつ徹底的な認識を得る手助けとなる。この働きはすべて人に益をもたらすのだ。
『神の出現と働き』「神の三段階の働きを認識することは、神を認識する道である」(『言葉』第1巻)
日々の神の御言葉 抜粋 8
神自身の働きは、人が知らなければならないビジョンである。と言うのも、神の働きは人には達成できないし、人に備わっていないものだからである。三段階の働きが神の経営のすべてであり、人が認識すべき最大のビジョンである。この最大のビジョンを知らないとすれば、人が神を認識するのは容易ではないし、神の旨を理解するのも難しく、さらには、人が歩む道もますます険しいものになる。ビジョンがなければ、人がここまで来ることはできなかっただろう。人を今日まで守ってきたのはビジョンであり、人に最大の保護を提供してきたのもビジョンである。将来、あなたがたの認識は必ずや深まり、あなたがたは神の旨のすべてと、三段階の働きにおける神の賢明な働きの実質を認識する。これこそがあなたがたの真の霊的背丈である。働きの最終段階は独立したものではなく、それ以前の二段階と一緒に形成された全体の一部である。つまり、三段階の働きのうち一つだけを行っても、救いの働き全体を完成させることは不可能である。たとえ働きの最終段階が人を完全に救うことができたとしても、この一段階さえ実行すればそれでいいという意味にはならないし、人をサタンの影響から救うにあたり、その前の二段階の働きは必要ないということにはならない。救いの働き全体が三段階の働きであって、その中の一段階ではないので、三段階の働きのうちどれか一つを、全人類が認識すべき唯一のビジョンとして取り上げることはできない。救いの働きが成し遂げられていない限り、神の経営が完全に終わることはできない。神の存在、神の性質、そして神の知恵が救いの働き全体の中に表現されており、初めは人に対して明らかにされていなかったが、救いの働きの中で徐々に表されるようになった。救いの働きの各段階は神の性質と神の存在を部分的に表しているが、どの一段階も神の存在全体を直接かつ完全に表すことはできない。つまり、救いの働きは三段階の働きが完結して初めて完全に終わるのだから、神の全体に関する人の認識を神による三段階の働きから切り離すことはできない。人が一つの段階から得るものは、神の働きの一部分で表される神の性質に過ぎず、前後の段階で表される性質と存在を代表することはできない。なぜなら、人類を救う働きは一時期または一箇所ですぐに終わるものではなく、様々な時期や場所における人類の発展状況によって次第に深まるものだからである。それは複数の段階で行われる働きであって、一つの段階で終わるものではない。そのため、神の知恵の全体は、個別の一段階というよりむしろ、三つの段階において具体化される。神の存在全体、神の知恵全体が、これらの三段階の中に配置されていて、どの段階の働きの中にも神の存在があり、各段階に神の働きの知恵が記されている。人は、これら三段階の中に表現されている神の性質全体を認識しなければならない。この神の存在のすべてが全人類にとって極めて重要であり、神を礼拝するときに、人がこの認識を持たないのであれば、彼らは仏陀を崇拝する人々と何ら変わらない。人のあいだで行われる神の働きは人から隠されておらず、神を崇拝するすべての人が認識すべきである。神は救いの働きの三段階を人のあいだで行ったのだから、人は、これら三段階の働きの中で表現されている、神が持つものと神そのものを認識すべきである。これこそが、人がすべきことである。神が人から隠すのは、人には成し遂げられないこと、または人が知るべきでないことであり、一方、神が人に示すのは、人が知るべきこと、そして人が自分のものにすべきことである。三段階の働きのそれぞれは、前の段階を基に行われるのであって、救いの働きから切り離される形で、単独で行われることはない。それぞれの時代と、行われる働きには大きな違いがあるものの、その核心はやはり人類の救いであり、救いの働きの各段階は、その前の段階よりも深くなる。
『神の出現と働き』「神の三段階の働きを認識することは、神を認識する道である」(『言葉』第1巻)
日々の神の御言葉 抜粋 9
人のあいだで行われる神の働きは人から隠されておらず、神を崇拝するすべての人が認識すべきである。神は救いの働きの三段階を人のあいだで行ったのだから、人は、これら三段階の働きの中で表現されている、神が持つものと神そのものを認識すべきである。これこそが、人がすべきことである。神が人から隠すのは、人には成し遂げられないこと、または人が知るべきでないことであり、一方、神が人に示すのは、人が知るべきこと、そして人が自分のものにすべきことである。三段階の働きのそれぞれは、前の段階を基に行われるのであって、救いの働きから切り離される形で、単独で行われることはない。それぞれの時代と、行われる働きには大きな違いがあるものの、その核心はやはり人類の救いであり、救いの働きの各段階は、その前の段階よりも深くなる。各段階の働きは、その一つ前の段階を基礎として続くものであり、無効になることはない。このようにして、常に新しく決して古くない神の働きにおいて、神は以前に表したことのない自身の性質の側面を人に対して絶えず表現し、自身の新しい働きと存在を常に明かし、たとえ古くからの宗教家たちが全力で反抗し、公然と反対しても、神は意図する新しい働きを常に実行する。神の働きは常に変化しており、そのためいつも人の反対にあう。ゆえに、神の性質、そして神が働きを行う時代と対象も常に変化している。その上、神はこれまでしたことのない働きを常に行っており、人から見て以前の働きと矛盾する、あるいは相反する働きさえも行う。人は、一種類の働き、あるいは一つの実践方法しか受け入れることができず、自分と相反する、あるいは自分よりも高尚な働きや実践方法を受け入れるのは難しい。しかし聖霊は新しい働きを常に行っていて、そのせいで神の新しい働きに反対する宗教専門家の集団が次から次へと出現する。そうした者たちが専門家になったのはまさに、神がどうして常に新しく決して古くないのかを人が知らず、神の働きの原則を認識せず、そしてさらに、神が人を救う様々な方法を認識していないからである。このように、それが聖霊に由来する働きなのか、神自身による働きなのかを、人は見分けることがまったくできない。多くの人は、以前に発せられた言葉と合致すれば受け入れるが、以前の働きと違う点があれば反対して拒絶するという態度に固執している。今日、あなたがたはみなそのような原則に従っているのではないか。救いの働きの三段階は、あなたがたに対してあまり効果を上げておらず、また中には、前の二段階の働きは知る必要のない負担だと信じる者もいる。彼らは、三段階の働きのうちの前の二段階によって人々が混乱しないよう、これらの段階を大衆に発表すべきでなく、早々に撤回されるべきだと考えている。大半の人は、前の二段階の働きを知らしめるのは余計なことであり、神を認識する上でまったく役に立たないと思っている。これがあなたがたの考えである。今日、あなたがたはみな、そのように行動するのは正しいことだと考えているが、いつかわたしの働きの重要性に気づく時が必ず来る。わたしは意義のない働きなど行わないのだと知りなさい。わたしがあなたがたに三段階の働きを示している以上、それらはきっとあなたがたのためになる。また、これら三段階の働きが神の経営全体の核心である以上、きっと全宇宙ですべての人の注目の的となる。いつの日か、あなたがたはみな、この働きの重要性に気づくだろう。自分は神の働きに逆らっている、あるいは自分の観念を基に今日の働きを判断しているのだと知りなさい。なぜなら、あなたがたは神の働きの原則を知らないからであり、また聖霊の働きを軽率に扱っているからである。あなたがたが神に反抗し、聖霊の働きを邪魔するのは、あなたがたの観念と生まれ持った傲慢さのせいである。それは神の働きが間違っているからではなく、あなたがたが元々あまりに反抗的だからである。人によっては、神への信仰を持った後、人がどこから来たのかさえ確信をもって言えないのに、あえて聖霊の働きの正誤について演説を行う者もいる。彼らは、聖霊の新しい働きを持つ使徒たちに説教したり、意見したり、立場をわきまえないで余計な口を挟んだりさえする。人間性が非常に低俗で、理知のかけらもない。このような人が聖霊の働きによって拒絶され、地獄の火に焼かれる日が来るのではないか。彼らは、神の働きを認識せず、それどころか神の働きを批判し、しかも神に対して働き方の指図もする。このように理不尽な人たちがどうして神を認識できようか。人は、神を求めて経験する過程で、神についての認識を得るようになる。つまり、気まぐれに批判する中で聖霊の啓きを受け、それを通して神を認識するのではない。神についての認識が正しくなるほど、人は神に反抗しなくなる。逆に、神についての認識が少ないほど、人は神に逆らう。あなたの観念、古くからの本性、人間性、性格、そして道徳観は、あなたが神に逆らう資本であり、あなたの良心が堕落し、あなたの性質が醜悪であり、あなたの人間性が下劣であればあるほど、あなたはますます神の敵になる。強力な観念の持ち主や独善的な性質の者は、受肉した神とさらに敵対するが、そのような者たちは反キリストである。あなたの観念が正されなければ、常に神と敵対することになり、神と相容れることが決してできず、いつも神から離れていることになる。
『神の出現と働き』「神の三段階の働きを認識することは、神を認識する道である」(『言葉』第1巻)
日々の神の御言葉 抜粋 10
三段階の働きは一つの神によってなされた。これは最も偉大なビジョンであり、神を認識する唯一の道である。三段階の働きは、神自身によってしかなされ得なかったことであり、神に代わってそのような働きを行えた人はいない。要するに、初めから今日まで、神の働きは神自身にしかできなかったのである。神の三段階の働きは、異なる時代の異なる場所で実行され、内容もそれぞれ異なるが、それらはすべて一つの神によってなされたものである。すべてのビジョンの中でも、これが人の認識すべき最も偉大なビジョンであり、人がこれを完全に理解するなら、その人は揺るぎなく立つことができる。現在、様々な宗教や教派が直面している最大の問題は、彼らが聖霊の働きを認識しておらず、聖霊の働きと聖霊のものでない働きを区別できないことである。そのため彼らは、先の二段階の働きと同様に、この段階の働きもヤーウェ神によるものかどうかわからずにいる。神に従ってはいても、ほとんどの人が、それが正しい道なのかどうかをいまだ区別できない。人は、神自身がこの道を自ら導いているのかどうか、神の受肉が事実なのかどうかと気に病んでいるが、大半の人が、このような事柄をどう識別すべきかについて、一切手掛かりがないままである。神に従う者たちは、道を決めることができずにいるので、このような人たちのあいだにおいて、発せられる言葉は部分的な効果しか持っておらず、また完全に効果を発揮できないために、そのような人たちのいのちの入りに影響を及ぼしている。三段階の働きにおいて、それらが違う時代に、違う場所で、違う人々に対して、神に自身によってなされたことだと見きわめることができ、またたとえ働きが違っていても、それらはすべて一つの神によってなされたことであり、一つの神によってなされる働きである以上、正しく、間違いがあるはずはなく、またそれが人の観念にそぐわなくても、一つの神の働きなのは否定できないということを理解できれば――もしも人が、それは一つの神の働きであると確信をもって言えるならば、人の観念はほんの些細なこととなり果て、言及する価値もなくなるだろう。人のビジョンが明確でないために、また、ヤーウェが神でありイエスが主であることしか人は知らず、現在の受肉した神について決めかねているために、多くの人はヤーウェとイエスの働きに専念したままで、今日の働きについての観念に悩まされており、ほとんどの人が常に疑いを抱き、今日の働きを真剣に受け止めていない。人は、見ることができなかった先の二段階の働きに関して、何の観念も持っていない。それは、人が先の二段階の働きの現実を理解せず、それらを自ら目撃しなかったからである。これらの段階の働きが見えないからこそ、人は好きなように想像するが、何を思いついてもそうした想像の証拠となる事実はないし、それらを正す者もいない。人は気分に任せて警戒心を捨て、自由に想像を働かせているが、その想像を立証する事実がないので、証拠があるかどうかにかかわらず、人の想像したことが「事実」となっている。したがって、人は頭の中で想像した神を信じているのであって、実際の神を求めてはいない。一人の人間が一種類の信仰を持つとすると、100人の人がいれば100通りの信仰があることになる。人は、神の働きの現実を見たことがないため、また耳で聞いたことがあるだけで、自分で目にしたことがないために、そのような信仰に取り憑かれている。人は伝説や物語を聞いたことがあっても、神の働きという事実の認識についてはほとんど聞いたことがない。ゆえに、信者になってわずか一年の人も、自身の観念を通して神を信じるようになっているし、生涯信者である人も同様である。事実を見ることができない者は、神についての観念がある信仰から抜け出すことができない。人は自身の古い観念の束縛から解放され、新しい境地に入ったと信じている。神の真の顔を見ることができない者の認識は、観念や風聞以外の何物でもないことを、人は知らないのか。人はみな、自分の観念が正確で間違いないと思い込み、そうした観念は神から来るものだと思っている。今日、人は神の働きを目の当たりにすると、長年にわたって蓄積した観念を解き放つ。過去の想像と思考がこの段階の働きの障害になってしまい、人がそのような観念を手放し、そのような思考に反論するのが困難になっている。今日まで神に付き従ってきた多くの人たちの持つ、この段階的な働きに対する観念は、以前にも増して深刻になっており、これらの人たちは、受肉した神に対する頑固な敵意を徐々に形成している。この憎しみの根源こそ、人の観念と想像なのである。人間の観念と想像が今日の働き、すなわち人間の観念と一致しない働きの敵になってしまったのだ。そうなったのはまさに、事実のせいで人が自由に想像を働かせることができず、それ以上に、人が事実に反論するのは容易なことではないから、また人の観念と想像は事実の存在を許さず、さらに人は事実の正確さと信憑性を考慮せず、ただひたすら自分の観念を解き放ち、自分自身の想像力をたくましくするからである。これは人の観念の誤りとしか言えず、神の働きの誤りとは言えない。人が何を想像しても、それはその人の自由だが、神の働きのどの段階も、あるいは働きのごく一部でも、それについて軽々しく異議を唱えてはならない。神の働きの事実は、人には侵せないものなのだ。あなたは自由に想像してかまわないし、ヤーウェとイエスの働きについて、すばらしい話をまとめても結構だが、ヤーウェとイエスによる働きの各段階の事実について反論してはならない。これは原則であって、行政命令でもあるが、あなたがたはこれらの問題の重要性を理解しなければならない。人は、この段階の働きは人間の観念と合致しないが、以前の二段階の働きはその限りではないと信じている。人は自身の想像の中で、以前の二段階の働きは今日の働きと同じではないと確信している。だが、神の働きの原則はすべて同じであり、神の働きは常に実践的であること、そして時代に関係なく、神の働きの事実に逆らい、反対する人がいつも大量に現れることを考えたことがあるのか。今、この働きの段階に逆らい、反対する人たちは、過去の時代においても間違いなく神に逆らっていただろう。そのような者は常に神の敵なのだ。神の働きの事実を理解している人たちは、三段階の働きを、唯一の神の働きとして捉え、自分の観念は捨てる。このような人が神を知る者、真に神に付き従う者である。神の経営の一切が終わりに近づくとき、神は万物を種類に応じて分類する。人は創造主の手で造られたのだから、神は最後に、人を自身の支配下に戻さなければならない。これが三段階の働きの終結である。終わりの日の働きの段階と、イスラエルとユダヤにおける以前の二つの段階は、全宇宙における神の経営計画である。これは誰にも否定できないし、神の働きの事実である。人々はまだ、この働きの大半を経験も目撃もしていないが、事実は事実であり、人は誰もこれを否定できない。神を信じる宇宙の各地の人々はみな、必ずやこの三段階の働きを受け入れる。特定の段階の働きだけを認識して、他の二段階の働きを理解せず、過去の時代における神の働きも理解しないなら、あなたは神の経営計画全体の真相を残らず語ることができず、神に関するあなたの認識は一方的である。神への信仰において、あなたは神を知らず、理解していないので、あなたには神を証しする資格がないからである。これらの事柄について、あなたの現在の認識が深かろうと浅かろうと、最後には、認識を得て完全に納得するはずであり、あらゆる人が神の働きを余すところなく目にして、神の支配の下に服従するようになる。この働きの終わりには、すべての宗教が一つになり、すべての被造物が創造主の支配の下に戻る。彼らは唯一の真の神を礼拝するが、邪悪な宗教はすべて無に帰し、二度と現れることはない。
『神の出現と働き』「神の三段階の働きを認識することは、神を認識する道である」(『言葉』第1巻)
日々の神の御言葉 抜粋 11
このように連続して三段階の働きに言及するのはなぜか。時代の移り変わり、社会の発展、自然の変貌はみな、この三段階の働きが移り変わるにつれて変化する。人類は神の働きに合わせて随時変化するのであって、単独で発展しているのではない。神による三段階の働きに触れるのは、すべての被造物、そしてあらゆる宗教、あらゆる教派のすべての人を、唯一の神の支配下に導くためである。あなたがどの宗教に属していようと、最終的には誰もが神の支配の下に服従するのである。神自身だけがこの働きを実行できるのであって、それはどの宗教の代表者にも不可能である。世界には主要な宗教がいくつか存在し、それぞれが代表者や指導者を擁しており、信徒も世界中の様々な国や地域に広がっている。大国であろうと小国であろうと、ほぼすべての国にいくつかの異なる宗教が存在する。しかし、世界中にどれほど多くの宗教が存在していようと、宇宙のあらゆる人々は、究極のところ唯一の神による導きの下で生存しているのであって、人々の存在は宗教の代表者や指導者に導かれているわけではない。要するに、人類は特定の宗教の代表者や指導者に導かれているのではなく、天地を造り、万物を造り、そして人類を造った創造主に導かれているのであって、これは事実である。世界にはいくつかの主要な宗教があるものの、その大きさに関係なく、すべて創造主の支配の下に存在しており、いかなる宗教もこの支配の範囲を超えることはできない。人類の発展、社会の盛衰、そして自然科学の発達はどれも、創造主の采配から切り離すことができないし、この働きは特定の宗教の代表者にできるものではない。宗教の代表者というのは、特定の宗教組織の指導者に過ぎず、神を代表することも、天地と万物の創造主を代表することもできない。宗教の代表者は、その宗教全体の内部にいる者たちを率いることはできても、天下のあらゆる被造物を統率することはできないし、これは世界中で認められている事実である。宗教の代表者は指導者に過ぎず、神(創造主)と対等の立場に立つことはできない。万物は創造主の手中にあり、最後はみな創造主の手中に戻る。人類は神によって造られ、宗教に関係なく、すべての人が神の支配下に帰するのであって、これは必然である。神だけが万物のあいだにおける至高の存在であり、すべての被造物の中で最高の支配者であっても、神の支配下に戻らなければならない。人の地位がいくら高くても、人類を適切な終着点へと導くことはできないし、万物をその種類に応じて分類できる者も誰一人存在しない。ヤーウェ自身が人類を造り、種類に応じて一人ひとり分類したのだから、終わりの時が来ても、神はやはり自身でその働きを行い、万物を種類に応じて分類するが、その働きは神にしかできないことである。初めのときから今まで、三段階の働きはすべて神自身によって、唯一の神によって行われた。三段階の働きの事実は、人類全体に対する神の統率力の事実であり、誰も否定できない事実である。三段階の働きの終わりには、万物が種類に応じて分類され、神の支配の下に帰る。と言うのも、宇宙全体にはこの唯一の神しか存在せず、他の宗教は存在しないからである。世界を造ることができない者は、世界を終わらせることもできないが、世界を創造した神は、必ずやそれを終わらせることができる。だから、一つの時代を終わらせることができず、単に人が心を養うのを手助けできるだけなら、その者は断じて神ではないし、断じて人類の主でもない。そのような者にそうした偉大な働きは無理であり、このような働きを行える者は一人しかいない。そして、この働きができない者はみな、必ずや敵であり、神ではない。すべての邪悪な宗教は神と相容れず、神と相容れない以上、それらは神の敵である。すべての働きはこの唯一の真なる神がなすものであり、全宇宙がこの真なる神の支配下にある。それがイスラエルにおける働きであろうと、あるいは中国における働きであろうと、またその働きが聖霊によるものであろうと、あるいは肉体によるものであろうと、すべては神自身によって行われ、他の誰かがそれを行うことはできない。神が全人類の神だからこそ、神はどんな条件にも制限されず自由に働きを行う――これがすべてのビジョンの中で最も偉大なものである。神の被造物の一人として被造物の本分を尽くし、神の旨を理解したいのであれば、神の働きを理解し、被造物に対する神の旨を理解しなければならない。また、神の経営計画、そして神が行う働きの意義をすべて理解しなければならない。これらを理解できない者は、神の被造物の資格がない。神の被造物として、自分がどこから来たかを知らず、人類の歴史や神が行ったすべての働きを理解せず、そしてさらに、人類がいかにして今日まで発展してきたか、また全人類を指揮するのは誰なのかを理解していなければ、自身の本分を尽くすことはできない。神は今日まで人類を導いてきた。そしてこの地上で人類を造って以来、神は一度も人のもとから離れたことがない。聖霊は休むことなく働き続け、ひたすら人類を導き、一度も人のもとから離れたことがない。それなのに、人は神の存在に気づかず、まして神を知らない。神のすべての被造物にとって、これほど屈辱的なことがあるだろうか。神は自ら人を導いているのに、人は神の働きを理解していない。あなたは神の被造物でいながら、自分たちの歴史も知らず、自分の旅路の中で誰が自分を導いてくれたのかも分からずにいて、神による働きに気づいていない。それゆえ、神を認識することができずにいる。今なお知らないのであれば、神を証しする資格は決してない。今日、創造主はあらゆる人をまたも自ら導き、あらゆる人に神の知恵、全能、救い、そして不思議さを目の当たりにさせている。それでもあなたはまだ気づかず、理解せずにいる。ゆえにあなたは、救いを得られない者ではないのか。サタンに属する者は神の言葉を理解できず、神に属する者は神の声を聞くことができる。わたしが語る言葉に気づいて理解する者はみな、救われる者、神を証しする者である。わたしが語る言葉を理解しない者はみな、神を証しすることができず、淘汰される者である。神の旨を理解せず、神の働きに気づかない者たちは、神を認識することができず、そのような人は神を証しできない。神を証ししたいと願うなら、神を知らなければならないし、神についての認識は、神の働きを通して成し遂げられる。結局のところ、神を知りたいと望むなら、神の働きを知らなければならない。つまり、神の働きを知ることが何より重要なのである。三段階の働きが終わるとき、神を証しする者たちの集団、つまり神を知る者たちの集団が作られる。この人たちはみな神についての認識があり、真理を実践することができる。人間性と理知を備え、全員が三段階の救いの働きを知っている。これが最後になし遂げられる働きであり、彼らは六千年にわたる経営の働きの結晶であって、最後にサタンを打ち負かした最も有力な証しである。神を証しできる者は、神の約束と祝福を受けることができ、最後の時に残る集団、神の権威を持ち、神を証しする集団になる。もしかすると、あなたがたの全員がこの集団の一員になれるかもしれず、あるいは半分か、わずか数人だけがそうなれるかもしれない。それはあなたがたの意志と追求にかかっている。
『神の出現と働き』「神の三段階の働きを認識することは、神を認識する道である」(『言葉』第1巻)
日々の神の御言葉 抜粋 12
六千年にわたる経営計画は三段階の働きに分けられる。どの一段階も、それだけで三つの時代の働きを表わすことはできず、全体の一部しか表わせない。ヤーウェの名が神の性質全体を表わすことはできないのである。ヤーウェが律法の時代に働きを行なったという事実は、神が律法の下でしか神でいられないことを証明しているのではない。ヤーウェは人間のために律法を定め、戒めを言い渡し、神殿と祭壇を築くように求めた。ヤーウェが行なった働きは律法の時代だけを表わす。ヤーウェが行なったこの働きは、神は人間に律法を守るよう求める神でしかないとか、神殿にいる神だとか、祭壇の前にいる神だなどと証明するものではない。そのように言うのは誤りだろう。律法の下でなされた働きは一つの時代しか表わせない。よって、もしも神が律法の時代の働きだけを行なったのであれば、人は神を次の定義の中に閉じ込めるだろう。つまり、「神は神殿の中の神である。神に仕えるには、祭司の衣をまとって神殿に入らなければならない」という定義である。恵みの時代の働きが実行されず、律法の時代が現在まで続いていたら、神が慈悲と愛にも溢れていたことを人間は知らなかっただろう。律法の時代の働きが行なわれず、恵みの時代の働きしかなされなかったなら、神は人を贖い、人の罪を赦すことしかできないのだと、すべての人が認識しただろう。神は聖く汚れのない存在であり、人間のために自分を犠牲にし、十字架にかけられることができるとしか、人間は認識しなかったはずである。人はそれらのことしか知らず、他の何も理解しなかっただろう。したがって、それぞれの時代は神の性質の一部だけを表わすのである。律法の時代、恵みの時代、そして今の時代のそれぞれにおいて、神の性質のどの側面が表わされているかに関して言えば、これら三つの時代を一つの全体として統合して初めて、神の性質の全体を表わすことができる。これら三段階をすべて知って初めて、人はそれを完全に理解することができるのである。この三段階のどれも省略することはできない。これら三段階の働きを知るようになると、神の性質全体を見ることができる。神が律法の時代における働きを完成させた事実は、神が律法の下の神でしかないことを証明するものではなく、また神が贖いの働きを完成させた事実は、神が永遠に人類を贖うことを意味するものではない。これらはすべて人間によって引き出された結論である。恵みの時代はすでに終わりを迎えたが、神は十字架のものでしかなく、十字架だけが神の救いを表わすと言うことはできない。そのように言うのであれば、神を定義していることになる。現在の段階において、神はおもに言葉の働きを行なっているが、神は人に対して憐れみ深かったことなどなく、神がもたらしたのは刑罰と裁きだけだなどと言うことはできない。終わりの日の働きはヤーウェの働きとイエスの働き、そして人には理解されていないすべての奥義を明らかにする。これは人類の終着点と終わりを示し、人類のあいだにおける救いの働きを残らず終わらせるためである。終わりの日におけるこの段階の働きはすべてを終わらせる。人に理解されていなかったすべての奥義が解明され、人がその奥義を徹底的に解き明かし、心の中で完全にはっきり理解できるようにしなければならない。その時初めて、人類を種類に応じて分類することができるのである。六千年にわたる経営計画が完成されて初めて、人は神の性質全体を理解できるようになる。なぜなら、神の経営はその時すでに終わっているからである。
『神の出現と働き』「受肉の奥義(4)」(『言葉』第1巻)
日々の神の御言葉 抜粋 13
六千年にわたる経営計画を通じて行なわれたすべての働きは、今やっと終わりに近づいてきた。その働きのすべてが人に明かされ、人類のあいだで実行されて初めて、人は神の性質、そして神が所有するものと神そのものを残らず知る。この段階の働きが完全に終わったとき、人に理解されていなかったすべての奥義が明らかにされ、これまで理解されなかったすべての真理が明確になり、人類は未来の道と終着点を告げられているだろう。これこそが、現段階でなされるべき働きの全体である。人間が今日歩く道は十字架の道であり、苦難の道でもあるが、人間が実践すること、および今日飲み食いして享受することは、律法の下にいる人間、また恵みの時代の人間に降りかかったこととは大きく異なる。今日人に求められることは、過去に求められたこととは異なり、律法の時代に求められたこととはさらに異なる。さて、神がイスラエルで働きを行なっていたとき、律法の下で人に求められたことは何だったか。それは、人は安息日とヤーウェの律法を守らなければならない、ということだけだった。安息日には誰も働くことが許されず、ヤーウェの律法を犯すことも許されなかった。しかし、今はそうではない。安息日でも、人はいつものように働き、集まり、祈り、何の制限も課せられていない。恵みの時代の人たちはバプテスマを受けなければならず、それに加えて断食をし、パンを裂き、ぶどう酒を飲み、頭を覆い、他人の足を洗うことを求められていた。そのような規律は今や廃止されたが、人はもっと大きなことを要求されている。と言うのも、神の働きがますます深まり、人の入りがさらに高いところに到達するからである。かつてイエスは按手して祈ったが、すべてのことが述べられた現在、按手に何の意味があるのか。言葉だけで成果を挙げることができるのだ。かつてイエスが人の上に手を置いたとき、それは人を祝福し、病を癒すためだった。当時、聖霊はそのようにして働きを行なったが、今は違う。現在、聖霊は働きを行なって成果を挙げるために言葉を用いる。その言葉はあなたがたに明らかにされたのであり、あなたがたは言われたとおりにそれを実践しなければならない。神の言葉は神の旨であり、神が行なおうと望む働きである。あなたは神の言葉を通じて、神の旨と、神があなたに達成するよう求めていることを理解できる。そして、あなたは按手を必要とせず、ただ神の言葉を直接実践できる。中には「わたしの上に手を置いてください。あなたの祝福を受け取り、あなたにあずかることができるように、わたしの上に手を置いてください」と言う人もいるだろう。これらはどれも、現在は廃れて時代遅れになった過去の慣習である。聖霊は時代に応じて働きを行なうのであり、無作為に、あるいは一定の規則に応じて働くのではない。時代が変わり、新しい時代はそれとともに必ずや新しい働きをもたらす。これはどの段階の働きにも言えることであり、ゆえに神の働きは決して繰り返されない。恵みの時代、イエスは病を癒したり、悪霊を追い出したり、人の上に手を置いて祈ったり、祝福したりするといった働きを数多く行なった。しかし、現在再びそのようなことをするのは無意味だろう。聖霊は当時そのように働きを行なった。それは恵みの時代だったからであり、人が享受する恵みは十分にあった。人はいかなる支払いも求められず、信仰がある限り恵みを受け取ることができた。誰もが非常に寛大に扱われた。今、時代は変わり、神の働きはさらに前進した。そして刑罰と裁きを通じ、人の反抗的態度や、人の中の汚れたものは取り除かれる。当時は贖いの段階だったので、神はそのように働きを行ない、人が享受するのに十分な恵みを示して、人が罪から贖われ、また恵みによって罪が赦されるようにすることを求められたのである。現在の段階は、刑罰、裁き、言葉の打撃、そして言葉による懲らしめと暴露を通じて人の中の不義を暴き、それによって人が後に救われるためのものである。これは贖いよりもさらに深い働きである。恵みの時代の恵みは、人が享受するのに十分だった。この恵みをすでに経験した今、人がそれを享受することはもはやない。そのような働きは時代遅れであり、もはやなされることはない。今、人は言葉の裁きを通じて救われる。裁かれ、罰せられ、精錬されたあと、人の性質は変わる。これはすべて、わたしが語った言葉のゆえではないのか。各段階の働きは、人類全体の進歩と時代に合わせて行なわれる。すべての働きに意義があり、どれも最後の救いのためになされる。それは、人類が将来良い終着点を得られるようにするためであり、人類が最終的に種類に応じて分類されるようにするためである。
『神の出現と働き』「受肉の奥義(4)」(『言葉』第1巻)
日々の神の御言葉 抜粋 14
聖霊の働きの各段階は、人間の証しも必要とする。働きの各段階は、神とサタンとの戦いであり、その戦いの対象はサタンである一方、その働きによって完全にされるのは人間である。神の働きが実を結ぶかどうかは、人間がどのように神の証しを行なうかによって決まる。この証しは、神に従う者に対して神が要求することであり、それはサタンの前でなされる証しであって、神の働きの成果を証明するものでもある。神の経営全体は三段階に分割され、各段階において、人間に対して適切な要求がなされる。さらに、時代が過ぎ去り進行してゆくにつれ、全人類に対する神の要求はより高くなる。このようにして、神によるこの経営の働きは、人間が「言葉は肉において現われる」という事実を目の当たりにするまで、一歩ずつ絶頂に達する。そしてこのような形で、人間に対する要求がいっそう高くなり、人間が証しすることへの要求もさらに高度化する。人間が神と真に協力できればできるほど、神はますます栄光を得る。人間の協力とは、人間が行なう必要のある証しであり、人間が行なう証しは、人間による実践である。ゆえに、神の働きが然るべき成果を得られるかどうか、真の証しが存在し得るかどうかは、人間による協力と証しに密接に結びついている。働きが終わる時、つまり神による経営のすべてが終わりに達するとき、人間はより高い証しをするよう要求される。そして神の働きが終わりを迎えるとき、人間の実践と入りは頂点に達する。過去において、人間は律法と戒めに従うことを要求され、忍耐強く謙虚であることを求められた。現在、人間は神の采配のすべてに従い、神への至高の愛を備えるよう求められており、最終的には患難のただ中でも神を愛することを要求される。これら三つの段階こそが、神が自身の経営全体にわたって、段階ごとに人間に要求することである。神の働きの各段階は、その前の段階よりも一層深くなり、各段階における人間に対する要求は、その前の段階よりも一層深遠であり、神の経営全体はそのようにして次第に形を成す。人間の性質が神の要求する基準にますます近づくのはまさに、人間に対する要求がさらに高くなってゆくからであり、そのとき初めて、神の働きが完全に終わりを迎え、全人類がサタンの影響から救われるまで、人類は次第にサタンの影響から離れてゆく。その時になると、神の働きは終結し、人間の性質を変化させるために行なわれる、人間による神への協力が終わり、全人類が神の光の中で生き、それ以後は神への反抗や反逆がなくなる。また、神は人間に対して何も要求しなくなり、人間と神とのあいだには、一層調和の取れた協力、つまり人間と神が共にある生活、神の経営が完全に終結し、人間が神によってサタンの手から完全に救われた後に到来する生活がある。神の歩調にしっかり従えない者たちは、そうした生活を得ることができない。彼らは自ら闇へと沈み、そこで泣いて歯ぎしりする。彼らは神を信じているが神に従わず、神を信じているが神の働きのすべてに従わない者である。
『神の出現と働き』「神の働きと人間の実践」(『言葉』第1巻)
日々の神の御言葉 抜粋 15
経営の働き全体を通して最も重要な働きは、人間をサタンの影響から救うことである。主要な働きは堕落した人間を完全に征服することで、それによって、征服された人間の心に本来あった神への畏敬の念を回復し、正常な生き方を送れるようにする。つまり、神の被造物としての正常な生き方である。この働きこそが最も重要で、経営の働きの核心である。三段階にわたる救いの働きのうち、最初の段階である律法の時代の働きは、経営の働きの核心から遠いものだった。それは救いの働きをわずかに表したにすぎないし、人間をサタンの領域から救う神の働きの始まりではなかった。最初の段階の働きは霊が直接行ったが、それは、律法の下で人間は律法を守ることだけしか知らず、それ以上の真理を知らなかったから、律法の時代の働きには、人間の性質の変化がほとんど関わっておらず、人間をサタンの領域からいかに救うかという働きとは、さらに関係がなかったからである。そのため、神の霊は極めて単純な、人間の堕落した性質とは関係ない段階の働きを終わらせた。この段階の働きは、経営の核心とはほとんど無関係で、人間の救いという正式の働きともあまり関係がなかった。ゆえに、神が受肉して自ら働く必要はなかった。霊の働きはさりげなく行われ、測り難いものであり、人間にとっては非常に恐ろしく、近寄り難いものである。霊は救いの働きを直接行うのに適していないし、人間に直接いのちを施すのにも適していない。人間に最も適しているのは、霊の働きを人間に近い形に変えることであり、それはつまり、最も人間に適しているのは、神が普通の正常な人間になって働きを行うということである。これには、神が受肉して霊に取って代わり、働きを行うことが必要であり、人間にとって、神が働くのにこれ以上ふさわしい方法はない。これら三段階の働きの中で、二つの段階は肉体によって行われたが、その二つの段階は経営の働きの中の肝要な部分である。二度の受肉はそれぞれ補い合うもので、互いを完全に補完する。神による受肉の第一段階は、第二の段階の基礎を敷いたのだが、神の二度の受肉が一つの全体をなし、互いに相容れないものではないと言える。この二つの段階は経営の働き全体にとってまことに重要なものなので、神が受肉した身分においてこの二段階を実行する。こう言ってもいいだろう――神による二度の受肉の働きがなければ、経営の働き全体が停止し、人類を救う働きは空虚な言葉でしかなかっただろう。この働きが重要かどうかは、人間の必要、人間の堕落の現実、サタンの不服従のひどさ、およびサタンによる働きの妨害の深刻さに左右される。この任務にふさわしい者は、その働き手が行う働きの性質と、その働きの重要性によって決まる。この働きの重要性という点で言えば、どのような方法を用いるか、つまり神の霊が直接働きを行うか、それとも受肉した神が行うか、あるいは人間を通して行うかという観点から見て、選択肢から最初に除かれるべきは、人間を通して行う方法である。また働きの性質という点では、霊による働きの性質と肉の働きの性質を比べたとき、霊によって直接なされる働きよりも、肉によってなされる働きのほうが、人間にとってより有益で、多くの利点をもたらすと、最終的に判断される。霊と肉のどちらによって働きを行うべきか決める際、神はこのように考えたのである。各段階の働きには意味と根拠がある。それらは根拠のない想像ではなく、恣意的に行われるものでもない。そこにはある種の知恵が働いている。それが神によるすべての働きの背後にある真実である。とりわけ、受肉した神が自ら人間のあいだで働くような偉大な働きにおいては、さらなる神の計画がある。そのため、神の知恵と神の存在全体があらゆる行為、考え、および働きの構想に反映されている。これがより具体的かつ体系的な神のありかたである。こうした緻密な考えや構想は人間にとって想像し難く、信じることも難しく、またそれ以上に、知ることが困難である。人間による働きは一般的な原則に沿って行われ、それは人間にとって極めて満足のゆくものだ。しかし、神の働きと比べると、あまりに大きな隔たりがある。神の業は偉大で、神の働きは壮大な規模を誇っているが、その陰には、人間には想像もできない数多くの綿密な計画や工夫がある。神の働きの各段階は原則に沿って行われるだけでなく、人間の言語では表現できないことが数多く含まれている。そしてそれらは、人間には見えないものである。霊の働きであろうと、受肉した神の働きであろうと、いずれも神の働きの計画を含んでいる。神は無意味に働きをせず、取るに足りない働きもしない。霊が直接働くとき、そこには神の目標がある。また神が働きのために人間になるとき(つまり外形を変えるとき)、そこにはさらに多くの神の目標がある。そうでなければ、どうして進んで身分を変えるだろう。そうでなければ、卑しく見なされ迫害される人に、どうして進んでなるだろう。
『神の出現と働き』「堕落した人類は、受肉した神による救いをさらに必要としている」(『言葉』第1巻)
日々の神の御言葉 抜粋 16
今日の働きは恵みの時代の働きを推し進めてきた。すなわち、六千年にわたる経営(救いの)計画全体における働きが前進したのである。恵みの時代は終わったが、神の働きはさらに前進している。今の段階の働きは恵みの時代と律法の時代を基礎にしていると、わたしが繰り返し言うのはなぜか。これは、今日の働きが恵みの時代に行われた働きの延長であり、律法の時代に行われた働きを向上させたものだからである。これら三つの段階は密接に結びついており、それぞれがその次の段階に繋がっている。また、今の段階の働きはイエスによってなされた働きの上に築かれていると、わたしが言うのはなぜか。この段階がイエスによってなされた働きの上に築かれたのでなければ、この段階でもう一つの磔刑が起きていなければならず、過去の段階における贖いの働きも一からやり直す必要があるはずだ。これは無意味なことだろう。従って、働きは完全に終わったのではなく、時代が前進し、働きの水準が以前に比べていっそう高まったということである。今の段階の働きは律法の時代を基礎とし、イエスの働きという岩盤の上に築かれると言うことができるだろう。神の働きは段階ごとに築かれ、今の段階は新しい始まりではない。三段階の働きが結合して初めて六千年にわたる経営(救いの)計画とみなすことができる。今の段階は恵みの時代の働きを基礎として行われる。これら二段階の働きに関連がなければ、なぜ今の段階で磔刑が繰り返されないのか。なぜわたしは人の罪を背負わず、人を直接裁いて罰しに来るのか。人を裁いて罰するわたしの働きが磔刑に続くものでなく、わたしの現在の到来が聖霊の受胎によるものでなかったら、わたしには人を裁いて罰する資格がないだろう。わたしが直接来て人を罰し、裁くのはまさに、わたしがイエスと一つだからである。今の段階の働きはすべて過去の段階の働きの上に築かれている。だからこそ、そのような働きだけが人を一歩一歩救いに導くことができるのである。イエスとわたしは一つの霊から来ている。わたしたちの肉体には何のつながりもないが、わたしたちの霊は一つである。わたしたちが行う内容、わたしたちが担う働きは同じではないが、わたしたちは本質的に同じである。わたしたちの肉体の形は異なるが、これは時代の変化のため、およびわたしたちの働きが異なることを求めているためである。わたしたちの職分は同じではないので、わたしたちが生み出す働きや、わたしたちが人に明かす性質も異なっている。そのようなわけで、人が今日見るものや理解するものは、過去のものと同じではない。それは時代の変化のためである。彼らの肉体の性や形は異なっており、彼らは同じ家族から生まれたのではなく、ましてや同じ時期に生まれたのでもないが、彼らの霊はやはり一つである。彼らの肉体に血縁関係はなく、いかなる物理的関係もないが、彼らが二つの異なる時期に受肉した神であることは否定できない。彼らが受肉した神の肉体であることは否定できない真実である。しかし、彼らは同じ血統ではなく、共通する人間の言語をもっていない(一方はユダヤ人の言語を話す男性であったし、他方は中国語しか話さない女性である)。これらの理由から、彼らは異なる国に暮らし、また異なる期間に、それぞれがなすべき働きを行う。彼らが同じ霊で、同じ本質を有しているという事実にも関わらず、彼らの肉体の外見には絶対的な類似性がまったくない。彼らは同じ人間性を共有しているだけで、肉体的な外見と誕生の状況に関する限り、両者は似ていない。これらのことはそれぞれの働きや、人が彼らに関してもつ認識に何の影響も与えない。なぜなら、最終的に分析すれば、彼らは同じ霊であり、誰も彼らを分けることができないからである。彼らに血縁関係はないが、その霊が彼らの存在全体を担い、異なる時期に異なる働きを割り当て、また彼らの肉体は異なる血統のものである。ヤーウェの霊はイエスの霊の父ではなく、イエスの霊もヤーウェの霊の子ではない。彼らは一つの同じ霊である。同様に、今日の受肉した神とイエスとの間に血縁関係はないが、彼らは一つである。なぜなら、彼らの霊が一つだからである。神は慈悲と慈愛の働きを行うことができ、同様に義なる裁きの働きや人を罰する働き、人にのろいをもたらす働きも行うことができる。そして最終的に、神は世界を滅ぼし、悪しき人々を懲罰する働きを行うことができる。神はこのすべてを自ら行うのではないか。これが神の全能性ではないのか。神は人に律法を布告することも、戒めを発することもでき、また初期のイスラエル人の地上における生活を導くとともに、彼らが神殿や祭壇を建造して、すべてのイスラエル人を統治するよう指導することができた。その権威のため、神は二千年にわたり地上でイスラエル人とともに生きた。イスラエル人はあえて神に反抗しなかった。すべての人がヤーウェを崇拝し、戒めを守ったのである。これが神の権威と全能性によって行われた働きである。恵みの時代、イエスは堕落した全人類(イスラエル人だけではない)を贖うために来た。イエスは人に慈悲と慈愛を示した。恵みの時代に人が見たイエスは慈愛に満ちており、いつも人への愛情にあふれていた。と言うのも、イエスは人を罪から救うために来たからである。イエスは磔刑によって人類を完全に罪から救うまで、人の罪を赦すことができた。その間、神は慈悲と慈愛をもって人の前に現れた。つまり、人が永遠に赦されるよう、イエスは人のために罪の捧げものとなり、人の罪を背負って磔刑に処されたのである。イエスは慈悲深く、憐れみ深く、我慢強く、愛情があった。恵みの時代にイエスに従ったすべての人も、あらゆることにおいて我慢強く、愛情深くあろうとした。彼らは長らく苦しみ、たとえ叩かれても、罵られても、石を投げつけられても、決して反撃しなかった。しかし、この最終段階において、そうなることはもはやあり得ない。イエスとヤーウェの霊は一つだったにもかかわらず、両者の働きはまったく同じというわけではなかった。ヤーウェの働きは時代を終わらせたのではなく、時代を導き、地上における人類の生活を先導したのであり、また今日の働きは、深く堕落させられてきた異邦の民を征服し、中国に暮らす神の選民だけでなく全宇宙と全人類を導くことである。今あなたには、この働きが中国だけで行われているように見えるかもしれないが、実はすでに海外へと広まり始めている。中国の外で暮らす人々が幾度も真の道を探し求めるのはなぜか。それは、霊がすでに働きを開始しており、今日語られる言葉が全宇宙の人々に向けられているからである。これにより、働きの半分がすでに行われている。創世から現在に至るまで、神の霊はこの偉大な働きを推進してきたのであり、またそれ以上に、異なる時代、異なる国々において、異なる働きを行なってきたのである。各時代の人々は、それぞれ異なる神の性質を見ているが、それは神が行う異なる働きを通して自然と明らかにされる。それは神であり、慈悲と慈愛に満ちている。神は人の罪の捧げものであり、人の羊飼いであるが、同時に人の裁き、刑罰、そしてのろいでもある。神は二千年にわたって地上における人間の生活を導くことができ、堕落した人類を罪から贖うこともできた。そして今日、すべての人が神に完全に服従するよう、神は自分のことを知らない人類を征服し、彼らを自身の支配下に置くこともできる。最後に、神は全宇宙の人々の中にある不浄なもの、不義なものをすべて焼き払い、自分が慈悲と慈愛に満ちた神、英知と不思議の神、および聖い神というだけでなく、さらには人を裁く神でもあることを示す。人類の中の悪人にとって、神は燃えさかる炎、裁き、懲罰である。また完全にされるべき人々にとって、神は苦難、精錬、試練であり、同時に慰め、支え、言葉の施し、取り扱い、そして刈り込みである。また淘汰される人々にとって、神は懲罰であり、報いである。
『神の出現と働き』「二度の受肉が、受肉の意義を完成させる」(『言葉』第1巻)
日々の神の御言葉 抜粋 17
現在までの六千年にわたる働きを遂行したことで、神はすでに自らの行為の多くを示してきたが、そのおもな目的は、サタンを倒し、すべての人間に救いをもたらすことだった。神はこの機会を利用して、天のすべてのもの、地上のすべてのもの、海中のすべてのもの、そして神が創造した地上のあらゆるものに、神の全能性を知らしめ、神のすべての行為を目撃させる。神はサタンを倒した機会を捕らえて、人間に自らのすべての業を示し、神を褒めたたえさせ、サタンを倒した神の知恵を賛美させる。地に、天に、そして海中にあるすべてのものが神に栄光をもたらし、神の全能性を褒めたたえ、神のすべての業を褒めたたえ、神の聖なる名前を叫ぶ。それは神がサタンを倒した証であり、サタンを征服した証であり、さらに重要なこととして、神が人間を救った証でもある。神の被造物すべてが、神に栄光をもたらし、敵の打倒と勝利の凱旋を褒めたたえ、偉大な勝利の王として神を褒めたたえる。神の目的はサタンの打倒だけではないため、神の働きは六千年間も続いている。神はサタンの打倒を通して人間を救い、サタンの打倒を通して自らのすべての業とすべての栄光を露わにする。神は栄光を得て、すべての天使たちは神のあらゆる栄光を見るだろう。天の使者たち、地上の人間たち、そして地上のすべての被造物は、創造主の栄光を見るだろう。これが神の行う働きである。天と地における被造物はすべて神の栄光を目の当たりにし、神はサタンを完全に打ち倒した後、意気揚々と凱旋し、人間に自らを褒めたたえさせることで、自らの働きにおける二重の勝利を成し遂げる。最終的にすべての人間は神によって征服され、抵抗したり反抗したりする者は神に一掃される。つまり、サタンに属する者すべてが一掃されるのだ。
『神の出現と働き』「あなたは全人類がこれまでどのように発展してきたかを知らねばならない」(『言葉』第1巻)
日々の神の御言葉 抜粋 18
ヤーウェがイスラエル人に行なった働きは、地上における神の起源の場所を人類の間で確立させたが、それは神が臨在した聖なる場所でもあった。神はその働きをイスラエルの人々に限定した。当初、神はイスラエルの外では働かず、むしろ働きの範囲を限定するため、神が適切とみなした民を選んだ。イスラエルは神がアダムとエバを創った場所であり、ヤーウェはその場所の塵から人間を創造した。この場所は地上におけるヤーウェの働きの拠点となった。イスラエル人はノアの子孫であり、またアダムの子孫でもあるが、地上におけるヤーウェの働きの基盤となる人間だった。
その当時、イスラエルにおけるヤーウェの働きの意義、目的、段階は、全地球上で働きを始めることであり、それはイスラエルを中心としながら徐々に異邦人の国々に広まった。これが全宇宙にわたる神の働きの原則である。つまり、ある模範を確立したあと、宇宙のすべての人が神の福音を受け取るまでそれを広げるのである。最初のイスラエル人はノアの子孫だった。これらの人々はヤーウェの息だけを授けられ、生活する上で必要となる基本的なことに対処できるだけのことを理解したが、ヤーウェがどのような神であるかや、人間に対するヤーウェの旨は知らず、ましてや万物創造の主をどのように崇めるべきかなど知らなかった。従うべき[a]規則や掟があったかどうか、また被造物が創造主のために尽くすべき本分があったかどうかについても、アダムの子孫たちは一切知らなかった。彼らが知っていたのは、夫は家族を養うために汗を流して労働しなければならず、妻は夫に従い、ヤーウェが創造した人類を永続させなければならないことだけだった。言い換えるなら、このような人々は、ヤーウェの息といのちだけをもっており、どのように神の律法に従うべきか、どのように万物創造の主を満足させるべきかについては何も知らなかった。あまりに何も理解していなかったのである。そのため、心の中によこしまなものや不実なものが一切なく、自分たちの間で嫉妬や争いが生じることも滅多になかったが、ヤーウェ、すなわち万物創造の主についてはなんら認識も理解もしていなかった。これら人間の祖先はヤーウェのものを食べ、ヤーウェのものを享受することは知っていたが、ヤーウェを畏れることは知らなかった。ヤーウェはひざまずいて礼拝すべき唯一の方であることを知らなかったのである。ならば、どうして彼らを神の被造物と呼べようか。そうであれば、「ヤーウェは万物創造の主である」そして「人間が神を明らかにし、神の栄光を表し、神を体現するようにすべく、神は人間を創造した」という言葉は、無駄に語られたのではないだろうか。ヤーウェに畏敬の念をもたない人が、どうしてヤーウェの栄光を証しできようか。どうしてヤーウェの栄光を明らかにすることができようか。ならば、「わたしはわたしに似せて人を創った」というヤーウェの言葉は、サタンという邪悪な存在が掌中に収める武器にならないだろうか。そしてこれらの言葉は、ヤーウェによる人の創造にとって不名誉の印とならないだろうか。ヤーウェは働きのその段階を完了すべく、人類創造の後、アダムからノアに至るまで、人類を教えたり導いたりすることはなかった。むしろ、洪水が世界を滅ぼして初めて、ノアの子孫であり、またアダムの子孫でもあるイスラエル人を、ヤーウェは正式に導き始めたのである。イスラエルにおけるヤーウェの働きと発した言葉は、イスラエルのすべての人々がイスラエルの全土で生活するにあたって導きを与えた。そのことは、ヤーウェは人間に息を吹き込み、それによって人間がヤーウェからいのちを与えられ、塵から起き上がって被造物となるようにすることができるだけでなく、人類を焼き尽くしたり、呪ったり、またその杖を使って人類を支配できることをも人に示した。それで人間もまた、ヤーウェが地上における人の生活を導き、昼と夜の時刻に従って人類の間で言葉を語り、働きを行なえることを知った。ヤーウェが行なった働きはひとえに、人がヤーウェによってつまみ上げられた塵に由来すること、そしてさらに、人がヤーウェによって創造されたことを被造物が知るようにするためである。これだけではなく、ヤーウェが最初にイスラエルで働きを行なったのは、他の民族と国々(実際のところ、それらはイスラエルと無関係ではなく、イスラエル人から枝分かれしたものの、依然としてアダムとエバの子孫である)が、イスラエルからヤーウェの福音を受け取るようにするため、そして宇宙のすべての被造物がヤーウェを畏れ、ヤーウェを偉大なものとして掲げられるようにするためである。ヤーウェがイスラエルで働きを開始せず、その代わりに人類を創造した後、彼らを地上でのんきに生活させていたら、その場合、人間は自分の肉体の本性(本性とは、人間は自分に見えないものを決して認識できないことを意味する。つまり人間は、人類を創造したのがヤーウェであることを決して知り得ず、ましてヤーウェがなぜそうしたかなどまったく知ることがないのである)のせいで、人類を創造したのがヤーウェであることも、ヤーウェが万物の主であることも知るはずがなかった。ヤーウェが人間を創造して地上に置いた後、人類の間に一定期間留まって彼らを導かず、ただ手の塵を払って立ち去っていたら、全人類は無に帰していただろう。ヤーウェが創造した天地と無数の万物、そして全人類さえも無に帰し、それ以上に、サタンによって踏みつけられていただろう。そうなれば、「地上において、つまり天地創造の中心において、ヤーウェは立つべき場所、聖なる場所をもたなければならない」というヤーウェの望みは打ち砕かれていただろう。だから、人類創造の後、ヤーウェが人間のもとにとどまって人の生活を導き、彼らの間で話しかけることができたのは、すべてヤーウェの望みをかなえ、その計画を達成するためだった。イスラエルにおいてヤーウェが行なった働きは、万物の創造に先だって定めた計画を実行することだけが目的であり、それゆえイスラエル人の間におけるヤーウェの最初の働きと、ヤーウェによる万物の創造は、互いに相容れないものではなく、いずれもヤーウェの経営(救い)、働き、栄光のためになされたのであり、また人類創造の意義を深めるためになされたものでもあった。ノアの後、ヤーウェは二千年にわたって地上における人類の生活を導いた。その間、ヤーウェは人類に対し、どのようにヤーウェ、すなわち万物の主を畏れるべきか、どのように生活を送るべきか、どのように生き続けるべきか、そして何より、どのようにヤーウェの証人として行動し、ヤーウェに従い、ヤーウェを崇めるべきかを教え、そのため人類は、ダビデとその祭司が行なったように、音楽でヤーウェを讃美することさえした。
『神の出現と働き』「律法の時代における働き」(『言葉』第1巻)
脚注
a. 原文に「従うべき」の語句は含まれていない。
日々の神の御言葉 抜粋 19
ヤーウェが働きを行なった二千年間の前、人間は何も知らず、ほぼすべての人が堕落し、洪水によって世界が滅ぼされるころには乱交と堕落の深みに陥り、その心にヤーウェは姿も形もなく、ヤーウェの道もさらになかった。人々はヤーウェが行なおうとしていた働きを理解しなかった。彼らには理知がなく、見識などさらになく、まるで息をする機械のように、人間、神、世界、いのちなどについてまったく無知だった。地上において、人々はヘビのように多くの誘惑をなし、ヤーウェを侮辱することを数多く言った。しかし、人々は無知だったので、ヤーウェは彼らを罰することも、懲らしめることもなかった。洪水の後、ノアが六百一歳のときに初めて、ヤーウェは正式にノアのもとに姿を見せ、ノアとその家族を導く一方、ノアとその子孫とともに洪水を生き延びた鳥や野獣を、律法の時代が終わるまで合計二千五百年間にわたって導いた。ヤーウェは二千年のあいだ、イスラエルにおいて、つまり正式な形で働きを行ない、そしてイスラエルの中と外で同時に五百年間働き、合計で二千五百年間働いた。この期間、ヤーウェはイスラエル人に対し、ヤーウェに仕えるためには神殿を建て、祭司の衣服をまとい、履物が神殿を汚してその頂上から火が降り、自分たちが焼き殺されることのないよう、夜明けに裸足で神殿に入ることを命じた。イスラエル人は自分たちの本分を尽くし、ヤーウェの計画に従った。彼らは神殿でヤーウェに祈り、ヤーウェの啓示を受けた後、つまり、ヤーウェが語った後は、多くの人々を導き、彼らの神であるヤーウェを崇めなくてはならないと教えた。そしてヤーウェは彼らに対し、神殿と祭壇を作り、ヤーウェが定めた時間、つまり過越の祭の日には、ヤーウェへの生贄として生まれたばかりの子牛と子羊を用意して、祭壇に供えなければならないと教えた。それは彼らを抑制させるため、ヤーウェへの畏敬の念を心に抱かせるためである。この律法に従ったか否かが彼らのヤーウェへの忠誠を測る尺度となった。またヤーウェはイスラエル人の安息日、つまり天地創造の七日目を定めた。安息日の翌日にヤーウェは最初の日、つまりイスラエル人がヤーウェを讃え、ヤーウェに生け贄を捧げ、ヤーウェのために音楽を奏でる日を定めた。この日、ヤーウェはすべての祭司を呼び集め、祭壇の上の生け贄を分け、人々が食べるように命じた。これは、人々がヤーウェの祭壇の生け贄を享受できるようにするためである。さらにヤーウェは、イスラエル人は祝福されており、ヤーウェと分かち合っており、ヤーウェの選民であると言った(それはヤーウェによるイスラエル人との契約だった)。これが、ヤーウェは自分たちだけの神であって異邦人の神ではないと、イスラエルの人々が今日に至るまで言う理由である。
『神の出現と働き』「律法の時代における働き」(『言葉』第1巻)
日々の神の御言葉 抜粋 20
律法の時代、ヤーウェは多くの戒めを定め、モーセがそれを、自分に従ってエジプトを脱出したイスラエル人に伝えるようにした。それらの戒めはヤーウェによってイスラエル人に与えられたものであり、エジプト人にはなんら関係のないものだった。それらはイスラエル人を抑制するためのものであり、ヤーウェは戒めによってイスラエル人に要求した。安息日を守っているか、両親を敬っているか、偶像を崇拝しているかなどが、彼らが罪深いか義であるかを判断する原則だった。イスラエル人の中には、ヤーウェの火で打ち倒された者、石打ちの刑に処された者、ヤーウェの祝福を受けた者がおり、これはそうした戒めを守ったか否かによって決められた。安息日を守らなかった者は石打ちの刑に処された。安息日を守らなかった祭司はヤーウェの火で打ち倒された。両親を敬わなかった者もまた石打ちの刑に処された。これはすべてヤーウェに称賛されることだった。ヤーウェは戒めと律法を定め、そうすることで人々の生活を導きながら、彼らがヤーウェの言葉を聞いてそれに従い、ヤーウェに反抗することのないようにした。ヤーウェはこれらの律法を用いて生まれたばかりの人類を支配したが、それはヤーウェによる将来の働きの基礎を築く上で有益だった。そのため、ヤーウェが行なった働きにもとづき、最初の時代は律法の時代と呼ばれた。ヤーウェは多くの発言をし、かなりの働きをしたものの、人々を前向きに導き、それら無知な人々に対して、どのように人間になるべきか、どのように生きるべきか、どのようにヤーウェの道を理解するべきかを教えるだけだった。ヤーウェが行なった働きの大半は、人々がヤーウェの道を守り、ヤーウェの律法に従うようにするためだった。その働きは軽く堕落した人々になされたのであって、人々の性質を変化させることや、いのちの進歩までには至らなかった。ヤーウェは律法を用いて人々を抑制、支配することにしか関心がなかったのである。当時のイスラエル人にとって、ヤーウェは神殿にいる神、天にいる神でしかなかった。ヤーウェは雲の柱、火の柱だったのである。ヤーウェが人々に求めたのは、今日の人々にヤーウェの律法、およびヤーウェの戒めとして知られているもの、つまり規則と呼んでも差し支えないものに従うことだけだった。なぜなら、ヤーウェがしたことに人々を変えようとする意図はなく、人々がもつべきものをさらに与え、自らの口で教え導くことが目的だったからである。と言うのも、人間は創造された後、もつべきものを何ももっていなかったからである。それゆえヤーウェは、人々が地上で生活するにあたってもつべきものを与え、自ら導いてきた人々がその先祖であるアダムとエバを超えるようにした。なぜなら、ヤーウェが彼らに与えたものは、最初にアダムとエバに与えたものを超えていたからである。それにもかかわらず、ヤーウェがイスラエルで行なった働きは、人類を導き、人類にその創造主を認識させることだけだった。ヤーウェは人々を征服することも変えることもせず、ただ導いたにすぎない。これが、律法の時代におけるヤーウェの働きの概要である。これがイスラエルの全土におけるヤーウェの働きの背景、内幕、そして本質であり、人類をヤーウェの手中で支配するという、神の六千年にわたる働きの始まりだった。ここから神の六千年にわたる経営計画におけるさらなる働きが生まれたのである。
『神の出現と働き』「律法の時代における働き」(『言葉』第1巻)
日々の神の御言葉 抜粋 21
最初、旧約聖書の律法の時代に人間を導くのは、子どもの生活を導くようなものだった。原初の人類はヤーウェから生まれたばかりで、彼らこそイスラエル人だった。彼らはいかに神を崇めるべきかも、いかに地上で生きるべきかも分からなかった。言うなれば、ヤーウェは人類を創造したが、つまりアダムとエバを造ったが、ヤーウェをいかに崇めるべきかや、地上におけるヤーウェの掟をいかに守るべきかを理解する能力を人類に与えなかったのである。ヤーウェによる直接の導きがなければ、誰もそれらを直接知ることはできなかった。最初のうち、人間はそのような能力をもっていなかったからである。人間はヤーウェが神であるということだけを知っており、いかに神を崇めるべきか、どのような行為が神を崇めることだと言えるのか、どのような心で神を崇めるべきか、あるいは神への畏敬のしるしとして何を捧げるべきかについて、何一つまったく知らなかった。人間は、ヤーウェが創造した万物のなかで享受できるものをいかに享受するかしか知らなかった。地上におけるどういった生活が神の被造物にふさわしいかということについて、人間は少しも知らなかった。彼らに指導する者、彼らを直接導く者がいなければ、このような人間たちは人類にふさわしい生活を送ることなく、密かにサタンの虜にされていただけだろう。ヤーウェは人類を創造したが、つまり人類の祖先であるエバとアダムを造ったが、それ以上に知性や知恵を与えなかった。彼らはすでに地上で暮らしていたが、ほとんど何も理解していなかった。そのため、人類の創造におけるヤーウェの働きは半分しか完了しておらず、完成にはほど遠かった。ヤーウェは土で人間の雛形を造り、それに息を吹き入れただけで、人間に神を崇めようという十分な意欲を授けることはなかった。最初のころ、人間は神を崇めたり恐れたりする心をもたなかった。神の言葉に耳を傾けることを知っていただけで、地上の生活についての基本的知識や人間生活の正しい規則に関しては無知だった。このようなわけで、ヤーウェは男と女を造り、七日間の計画を終えたものの、人間の創造を完成させることは決してなかった。人間は殻でしかなく、人であることの現実を欠いていたからである。人は、人類を創造したのがヤーウェであることしか知らず、ヤーウェの言葉や律法にどう従うべきかについては何も知らなかった。だから人類が存在するようになった後も、ヤーウェの働きは完成からほど遠かった。それでもヤーウェは、人々が地上で共に暮らし、ヤーウェを崇めることができるよう、またヤーウェの導きのもと、人々が地上における正常な人間生活の正しい軌道に入れるよう、人間をしっかりと導き、自身の面前に来させる必要があった。そうすることでのみ、おもにヤーウェの名のもとで行なわれた働きはすっかり完成された。つまり、そのようにして初めて、ヤーウェの創世の働きが完全に完了したのである。このように、人類を創造したヤーウェは、人類がヤーウェの命令と律法に従い、地上における正常な人間生活のあらゆる活動に携われるよう、地上における人類の生活を何千年間も導かねばならなかった。そのとき初めてヤーウェの働きは完全に完成したのである。
『神の出現と働き』「神の働きのビジョン(3)」(『言葉』第1巻)
日々の神の御言葉 抜粋 22
イエスの働きは、その時代における人の必要性に応じて行われた。その務めは人間を贖い、その罪を赦すことであるがゆえに、イエスの性質は全体が謙遜、忍耐、愛、敬虔、寛容、憐れみ、慈しみであった。イエスは人間に豊かな祝福と恵みをもたらし、平和、喜び、イエスの寛容と愛、その憐れみと慈しみといった人々が享受することのできるあらゆるものをもたらした。その当時、人が受け取ったあふれんばかりの楽しむことがら、すなわち心の平安と安心、霊の慰め、救い主イエスによる支え、これらのものは、人の生きた時代ゆえにもたらされたのである。恵みの時代、人はすでにサタンにより堕落させられていたので、すべての人を贖う働きを完遂するためには、満ちあふれる恵み、限りない寛容と忍耐、そしてさらに、効果を及ぼすためには、人間の罪を贖うのに十分な捧げ物が必要であった。恵みの時代に人々が見たのは、人間の罪のためのわたしの捧げ物であるイエスに過ぎなかった。人々は神は憐れみ深く寛容であり得ることだけしか知らず、イエスの慈しみと憐れみしか見なかった。それは彼らが恵みの時代に生きていたからである。そのようなわけで、贖われる前に人々はイエスが彼らに授けるさまざまな恵みを楽しみ、その恩恵を受けなければならなかった。それにより、彼らは恵みを享受することでその罪を赦されることができ、イエスの寛容と忍耐を享受することで贖われる機会を得ることができた。イエスの寛容と忍耐を通してのみ、人々は赦しを受け、イエスが授けるあふれる恵みを楽しむ権利を手にすることができた。それはイエスが、「わたしは義人ではなく罪人を贖い、罪人がその罪を赦されるようにするためにきたのである」と言ったとおりであった。もしイエスが裁きと呪い、人間の過ちに対する不寛容の性質を持って受肉していたなら、人には決して贖われる機会はなく、永遠に罪深いままでいたことであろう。もしそうなっていたなら、六千年の経営計画は律法の時代で止まり、律法の時代は六千年間続いていたであろう。人の罪は数が増し、よりひどいものとなり、人間の創造は無価値なものとなっていたであろう。人は律法のもとでのみヤーウェに仕えることができたではあろうが、彼らの罪は最初に創造された人間の罪をも上回るものとなっていたであろう。イエスが人類を愛し、その罪を赦し、十分な慈しみと憐れみを与えれば与えるほど、人類はイエスにより救われ、イエスが大きな代価で買い戻した迷える子羊と呼ばれる資格があった。イエスは自分の追随者をあたかも母親が我が子を腕のなかであやすように取り扱ったので、サタンはこの働きに干渉することができなかった。イエスは人々に対して腹を立てたり嫌ったりせず、慰めに満ちていた。人々とともにいても激怒するようなことは決してなく、「七の七十倍までも相手を赦しなさい」と言うほどまでに罪に寛容で、人々の愚かさと無知を見逃した。そのようにしてイエスの心は他者の心を変容させ、それゆえに人々はイエスの寛容を通して赦しを受けた。
『神の出現と働き』「贖いの時代における働きの内幕」(『言葉』第1巻)
日々の神の御言葉 抜粋 23
受肉したイエスには全く感情がなかったが、常にその弟子たちを慰め、施し、助け、支えた。どれほどの働きをしても、どれほどの苦しみを耐えても、決して人々に過大な要求を課すことなく、常に忍耐強く、彼らの罪を耐え忍んだ。そのため恵みの時代の人々はイエスを「愛すべき救い主イエス」と愛情を込めて呼んだ。当時の人々、すべての人々にとって、イエスが持っているものとイエスであるものは、慈しみと憐れみであった。イエスは決して人々の過ちを心に留めず、人々への接し方がその過ちをもとにするようなことは決してなかった。それは異なる時代だったため、イエスはよく食べ物をたっぷり人々に与え、彼らが十分食べられるようにした。イエスは追随者すべてに優しく接し、病人をいやし、悪霊を追い出し、死人をよみがえらせた。人々がイエスを信じ、その行いすべてが真剣かつ真心からのものであることが分かるように、腐った死体をよみがえらせることさえして、その手の中では死人さえも生き返ることを彼らに示した。このようにしてイエスは人々のあいだで静かに耐え忍び、その贖いの働きを行なった。十字架につけられる前でさえ、イエスはすでに人間の罪を負い、人類のための罪の捧げ物となっていた。十字架につけられる前から、イエスは人類を贖うために十字架への道をすでに開いていた。ついに十字架で釘づけにされ、十字架のために自分自身を犠牲として捧げ、そのすべての慈しみ、憐れみ、そして聖さを人類に授けた。人々にはイエスは常に寛容であり、決して復讐を求めず、人々の罪を赦し、人々に悔い改めるよう勧め、忍耐、寛容、愛を持ち、自らの足跡に従い、十字架のゆえに自分自身を捧げるよう教えた。イエスの兄弟姉妹への愛は、マリアへの愛に勝るものだった。イエスの働きの原則は、病人をいやし、悪霊を追い出すことであり、それらはすべてその贖いのためであった。どこへ行っても、イエスは従ってくる人すべてに思いやりを持って接した。貧しい者を豊かにし、足の不自由な人を歩けるようにし、目の見えない人を見えるようにし、耳の聞こえない人を聞こえるようにした。身分が一番低かった人々や乏しい人々、罪人さえ招いて共に食卓につき、彼らを遠ざけることなく常に忍耐強く、「羊飼いが羊を百匹持っていて、その一匹が迷ったとすれば、九十九匹を残しておいて、迷った一匹を捜しに行く。そしてそれを見つけたら、大いに喜ぶだろう」とさえ言った。イエスは雌羊がその子羊を愛するように、その追随者を愛した。彼らは愚かしく無知で、イエスの目には罪人であり、さらには社会において最も身分の低い者であったにもかかわらず、イエスは他の人々からさげすまれていたこれらの罪人を自分のひとみのように大切なものとして見た。彼らへの好意ゆえに、イエスは祭壇に捧げられる子羊のように、彼らのためにその命を捨てた。彼らのもとではしもべのようにふるまい、利用され、なぶり殺されるままにし、無条件に彼らに服従した。追随者にとってはイエスは愛すべき救い主であったが、上座から人々に説教したパリサイ人に対しては、イエスは慈しみや憐れみではなく、嫌悪と怒りを示した。イエスはパリサイ人のあいだではあまり働くことはなく、ごくまれに彼らに教えを説き叱責したが、彼らのもとで贖いの働きを行なうことはなく、しるしや奇跡を行うこともなかった。イエスはその慈しみと憐れみを追随者に与え、これら罪人たちのために十字架に釘づけられた最後の最後まで耐え忍び、ありとあらゆる屈辱に耐え、ついにすべての人間を完全に贖った。これがイエスの働きの全体である。
イエスの贖いがなければ、人類は永遠に罪の中に生き、罪の子、悪魔の子孫となっていたはずである。この状態が続けば、地上全体がサタンの住む地、その住まいとなっていたであろう。しかしこの贖いの働きは人類への慈しみと憐れみを示すことを必要とした。そのような手段によってのみ、人類は赦しを受け、ついに全き者とされ、神に完全に得られる資格を得ることができた。この働きの段階がなければ、六千年の経営計画は前に進むことはできなかっただろう。もしイエスが十字架にかけられることなく、ただ病人をいやし、悪霊を追い出しただけだったなら、人々はその罪を完全に赦されることはなかったであろう。イエスが地上で働きをなした三年半のあいだ、イエスはその贖いの働きを半分完成させただけであり、十字架に釘づけにされ、罪深い肉の姿となり、悪しき者に引き渡されることによってのみ、イエスは十字架での働きを完成させ、人間の運命を掌握した。サタンの手に引き渡されて初めて、イエスは人類を贖った。三十三年半のあいだイエスは地上で苦しみ、あざけられ、中傷され、見捨てられ、まくらする場所や休む場所さえないほどにまで放置され、その後十字架につけられ、聖なる罪のない体であるイエスの存在全体が十字架で釘づけにされた。イエスはあらゆる苦しみに耐えた。権力者たちはイエスをあざ笑い、むち打ち、兵士たちはその顔に唾を吐きさえした。それでもイエスは黙ったまま最後まで耐え忍び、死にいたるまで無条件に従い、そこですべての人間を贖った。そのとき初めてイエスは安息することができた。イエスが行なった働きは、恵みの時代のみを表すものであり、律法の時代を表すものではなく、また終わりの日々の働きに代わるものでもない。これが人類にとっての第二の時代である贖いの時代という、恵みの時代におけるイエスの働きの本質である。
『神の出現と働き』「贖いの時代における働きの内幕」(『言葉』第1巻)
日々の神の御言葉 抜粋 24
ヤーウェの働きの後、人のあいだで神の働きを行うためにイエスは受肉した。イエスの働きは単独で実行されたのではなく、ヤーウェの働きの上に築かれた。神が律法の時代を終わらせた後に行ったのは、新しい時代のための働きだった。同様に、イエスの働きが終わった後、神は次の時代のための働きを続行した。神による経営全体はいつも前進しているからである。古い時代が過ぎると、それは新しい時代に置き換えられ、古い働きが完了すると、神の経営を続行する新しい働きがある。今回の受肉は神の二回目の受肉であり、イエスの働きに続くものである。もちろん、この受肉は単独で起こるのではなく、律法の時代と恵みの時代の後の第三段階の働きである。神が新たな段階の働きを始めるたび、そこには常に新たな始まりがあり、それは必ずや新たな時代をもたらす。また、神の性質、神の働く様式、神の働く場所、神の名にも、それに付随する変化がある。ゆえに、新しい時代の神の働きを受け入れるのが人にとって難しいのも無理はない。しかし、いかに人が反対しようと、それには関係なく、神はいつも自分の働きを行っており、いつも人類全体を前方に導いている。人の世に誕生したイエスは恵みの時代を開始し、律法の時代を終わらせた。終わりの日において、神はもう一度肉となり、この受肉とともに、恵みの時代を終わらせ、神の国の時代を開始した。神の二回目の受肉を受け入れられる人はすべて神の国の時代に導かれ、それ以上に、神の導きを直接受け入れることができるだろう。イエスは人のあいだで数多くの働きをしたが、全人類の贖いを完了させ、人の贖罪のためのささげものとなるだけだった。人から堕落した性質のすべてを取り除くことはなかったのである。サタンの影響から完全に人を救うには、イエスが罪のささげものとなって人の罪を背負うことだけでなく、神がさらに偉大な働きを行い、サタンによって堕落させられた性質を完全に取り除くことが必要だった。そこで、人が罪を赦された今、神は人を新しい時代に導くために肉へと戻り、刑罰と裁きの働きを開始した。この働きは人をより高い領域に連れてきた。神の支配の下に従う人はすべてより高い真理を享受し、より大きな祝福を受けるだろう。彼らは本当に光の中に生き、真理、道、いのちを得るだろう。
『神の出現と働き』「序文」(『言葉』第1巻)
日々の神の御言葉 抜粋 25
人々が恵みの時代から抜け出せないでいれば、堕落した性質を決して除去できないし、ましてや神の本来の性質を知ることはない。人々がいつも豊かな恵みのただ中に生きていても、神を知り、あるいは神を満足させることを可能にするいのちの道を持たなければ、神への信仰で神を真に得ることは決してない。その種の信仰は実に哀れである。あなたがこの本を読み終えた時、神の国の時代における受肉した神の働きの各段階を経験した時、あなたは長年抱いてきた願望がついに実現されたことを感じるだろう。あなたはそのとき初めて本当に神を直接見たと感じるだろう。そのとき初めて神の顔つきをじっと見つめ、神が自ら発する言葉を聞き、神の働きの英知を正しく理解し、神がいかに現実的で全能かを本当に感じるだろう。過去の時代の人々が決して目にしたことも所有したこともない多くの事柄を獲得したと、あなたは感じるだろう。この時、あなたは神を信じるとは何か、神の旨に沿うとは何かをはっきりと知るだろう。もちろん、あなたが過去の考えに執着し、神の二度目の受肉の事実を否定、あるいは拒絶するならば、あなたは手ぶらのままで、何も獲得せず、ついには神に反抗したことで有罪を宣告されるだろう。真理に従い、神の働きに服従することができる人々は、再び受肉した神――全能者の名の下に取り戻されるだろう。彼らは神自らの導きを受け入れ、さらに多くのより高い真理と、本当の人生を得るだろう。彼らは過去の人々がそれまで決して目にすることのなかったビジョンを見るだろう。「そこでわたしは、わたしに呼びかけたその声を見ようとしてふりむいた。ふりむくと、七つの金の燭台が目についた。それらの燭台の間に、足までたれた上着を着、胸に金の帯をしめている人の子のような者がいた。そのかしらと髪の毛とは、雪のように白い羊毛に似て真白であり、目は燃える炎のようであった。その足は、炉で精錬されて光り輝くしんちゅうのようであり、声は大水のとどろきのようであった。その右手に七つの星を持ち、口からは、鋭いもろ刃のつるぎがつき出ており、顔は、強く照り輝く太陽のようであった」(ヨハネの黙示録 1:12-16)。このビジョンは神の全性質の現れであり、この神の性質全体の現れは、今回受肉した神による働きの現れでもある。刑罰と裁きを連発する中で、人の子は言葉を発するという手段によって本来の性質を表現し、その刑罰と裁きを受け入れるすべての人々が人の子の本当の顔、すなわちヨハネが見た人の子の顔の忠実な描写である顔を見ることを認める。(もちろん、このすべては神の国の時代の神の働きを受け入れない人々には見えないだろう。)神の本当の顔を人間の言語で十分明確に表現することはできないので、神は自身の本来の性質を現す手段を用いて人に本当の顔を示す。すなわち、人の子の本来の性質を理解した人々はすべて、人の子の本当の顔を見たのである。神はあまりに偉大なので、人の言語で十分明確に表現することができないからである。いったん神の国の時代における神の働きの各段階を経験したら、ヨハネが燭台の明かりの中にいる人の子について語った言葉の意味を人は知るだろう。「そのかしらと髪の毛とは、雪のように白い羊毛に似て真白であり、目は燃える炎のようであった。その足は、炉で精錬されて光り輝くしんちゅうのようであり、声は大水のとどろきのようであった。その右手に七つの星を持ち、口からは、鋭いもろ刃のつるぎがつき出ており、顔は、強く照り輝く太陽のようであった」。その時、あなたは、これほど多くのことを言ったこの普通の肉体が、間違いなく二度目の受肉した神であるということを、まったく疑う余地なく知るだろう。さらに、自分がいかに祝福されているかを実感し、自分がもっとも幸運であると感じるだろう。あなたはこの祝福を進んで受け入れたくはないのか。
『神の出現と働き』「序文」(『言葉』第1巻)
日々の神の御言葉 抜粋 26
終わりの日の働きは言葉を語ることである。言葉により、大きな変化が人の中で生じ得る。現在、それらの言葉を受け入れた人たちに生じる変化は、恵みの時代にしるしや不思議を受け入れた人たちに生じた変化よりもはるかに大きい。と言うのも、恵みの時代において、悪霊は按手と祈りによって人から追い出されたが、人の中の堕落した性質が依然残っていたからである。人は病を癒され、罪を赦されたが、人の中にある堕落したサタン的性質がいかに清められるかについて言えば、その働きはまだなされていなかったのである。人は信仰のゆえに救われ、罪を赦されただけで、人の罪深い本性は根絶されず、依然としてその内面に残っていた。人の罪は神の受肉を通じて赦されたが、それはその人の中にもはや罪がないという意味ではない。人の罪は、罪の捧げ物を通じて赦されることができたものの、どうすれば人がこれ以上罪を犯さないようになり、その罪深い本性が完全に根絶され、変化するかということについて言えば、人にはその問題を解決する術がないのである。人の罪は神による磔刑の働きゆえに赦されたが、人は以前の堕落したサタン的性質の中で生き続けた。そのため、人は堕落したサタン的性質から完全に救われなければならない。そうすることで、その人の罪深い本性が完全に根絶され、二度と芽生えなくなり、かくして人の性質が変わるのである。そのためにも、人はいのちの成長の筋道、いのちの道、そして性質を変える道を把握しなければならない。さらに、人はこの道に沿って行動することが求められる。その結果、人の性質は次第に変わり、その人は光の輝きの下で生き、何事も神の旨に沿って行ない、堕落したサタン的な性質を捨て去り、サタンの闇の影響から自由になることができ、それにより罪から完全に抜け出せるのである。このとき初めて人は完全なる救いを受けることになる。イエスが働きを行なっていたとき、イエスに関する人の認識はいまだ漠然として不明瞭だった。人はずっとイエスをダビデの子と信じ、イエスは偉大な預言者で、人の罪を贖う慈悲深い主であると宣言した。信仰のおかげで、イエスの衣の端を触っただけで癒された人もいたし、盲人たちは見えるようになり、死人さえ生き返った。しかし、人は堕落したサタン的性質が自分自身に深く根づいているのを見出すことができず、それを捨て去る方法も知らなかった。人は肉の平安や幸福、一人の信仰による家族全体の祝福、そして病人の癒しなど、多くの恵みを受けた。残りは人の善行や外見上の信心深さだった。そのようなものを基に生きることができるなら、その人はまずまずの信者だと思われた。そのような信者だけが死後、天国に入ることができるとされたのだが、それは彼らが救われたという意味だった。しかし、このような人たちはその生涯において、いのちの道をまったく理解していなかった。ひたすら罪を犯しては告白することを繰り返すばかりで、自身の性質を変える道はもたなかったのである。これが恵みの時代における人間の状態だった。人は完全な救いを得たのか。いや、得てはいない。したがって、その段階の働きが終わったあとも、依然として裁きと刑罰の働きが残っているのである。この段階は言葉によって人を清めるものであり、それによって人に従う道を与える。悪霊を追い出すことを続けるなら、この段階は有益でも意義深くもないだろう。と言うのも、人の罪深い本性が根絶されることはないだろうし、人は罪の赦しで行き詰まるはずだからである。罪の捧げ物を通じ、人は罪を赦されてきた。なぜなら、十字架の働きがすでに終わり、神はサタンに勝利したからである。しかし、人の堕落した性質は依然として人の中に残っており、人は依然として罪を犯し、神に抵抗することができ、よって神はまだ人類を得ていない。そのため、神はこの段階の働きにおいて、言葉を用いて人の堕落した性質を暴き、人に正しい道に沿って実践させるのである。この段階は前の段階よりもさらに有意義であり、いっそう有益である。と言うのも、今、人に直接いのちを施し、人の性質を完全に一新させられるのは言葉だからである。それははるかに徹底的な働きの段階である。ゆえに、終わりの日における受肉は神の受肉の意義を完成させ、人を救う神の経営計画を完全に終わらせたのである。
『神の出現と働き』「受肉の奥義(4)」(『言葉』第1巻)
日々の神の御言葉 抜粋 27
終わりの日の働きにおいて、言葉はしるしや不思議の顕示よりも力強く、言葉の権威はしるしや不思議の権威を超越する。言葉は人の心に深く埋もれた堕落した性質を残らず暴く。あなたには自分でそれらを認識する術がない。それらが言葉を通じて暴かれるとき、あなたは当然それを見つけるが、否定することはできず、完全に納得するだろう。これが言葉の権威ではないのか。これが現在の言葉の働きによって得られる成果である。したがって、病を癒したり悪霊を追い出したりすることで、人が罪から完全に救われることはなく、またしるしや不思議を示すことで人がすっかり完全にされることもないのである。病を癒したり悪霊を追い出したりする権威は人に恵みを与えるだけで、人の肉は依然としてサタンに属し、堕落したサタン的性質は依然として人の中に残っている。言い換えると、まだ清められていないものは依然として罪と汚れに属しているのである。人は言葉によって清められて初めて、神のものとされ、聖いものとなる。悪霊が人から追い出されたとき、あるいは人が贖われたとき、それはサタンの手から人をもぎ取り、神のもとに戻したという意味でしかなかった。神によって清められておらず、変えられてもいないなら、人は堕落したままである。人の中には汚れ、敵対心、そして反抗心が依然として存在する。人は神による贖いを通じて神のもとに立ち返っただけで、神についての認識が一切なく、依然として神に抵抗し、神を裏切ることができる。人が贖われる前、サタンの害毒の多くがすでに人の中に植え付けられていた。そしてサタンによって何千年も堕落させられてきた人間には、神に抵抗する本性がすでに定着していた。だからこそ、人が贖われたとき、それは人が高い代価で買い取られるという贖い以上のものではなく、人の中の害毒に満ちた本性は取り除かれていなかった。ここまで汚れた人は、神に仕えるのにふさわしくなる前に変化を経なければならない。この裁きと刑罰の働きによって、人は自分の中の汚れて堕落した本質を完全に知るようになる。そして完全に変わり、清くなることができる。この方法でしか、人は神の玉座の前へと戻るのにふさわしくなることができない。今日なされるすべての働きは、人が清められて変わるためのものである。言葉による裁きと刑罰、そして精錬を通じ、人は自分の堕落を一掃して清められることが可能になる。この段階の働きを救いの働きと考えるよりは、むしろ清めの働きと言ったほうが適切だろう。事実、この段階は救いの働きの第二段階であるとともに征服の段階でもある。人は言葉による裁きと刑罰を通じて神のものとされる。また言葉を用いて精錬し、裁き、露わにすることで、人の心にある汚れ、観念、動機、そして個人的な願望がすべて完全に暴かれる。人は贖われ、罪を赦されたが、それによって見なし得るのは、神は人の過ちを記憶せず、その過ちに応じて人を取り扱わないということだけである。しかし、肉体において生きる人間が罪から解放されていないと、人は罪を犯し続けることしかできず、堕落したサタン的性質をどこまでも示し続ける。これが人の送る生活であり、罪を犯しては赦されるという終わりのないサイクルなのである。人類の大多数は昼間に罪を犯し、夜になると告白するだけである。このように、たとえ罪の捧げ物が人のために永久に有効だとしても、それで人を罪から救うことはできない。救いの働きは半分しか完成していない。人にはいまだ堕落した性質があるからである。たとえば、自分たちがモアブの子孫であることに気づいた人々は、不満の言葉を述べ、いのちを追い求めることをやめ、すっかり否定的になってしまった。これは、人々がいまだ神の支配に完全に服従できないでいることを示しているのではないか。これがまさに、人々の堕落したサタン的性質ではないのか。あなたが刑罰を受けていなかったとき、あなたの手は他の誰よりも高く、イエスの手よりも高く上げられていた。そしてあなたは大声で叫んだ。「神の愛する子になりたまえ。神と心を通わす者になりたまえ。サタンにひれ伏すくらいなら死ぬほうがましだ。あのいまいましい悪魔に対抗したまえ。赤い大きな竜に対抗したまえ。どうか赤い大きな竜が惨めにも完全に権力の座から落ちるように。どうか神がわたしたちを完全にするように」。あなたの叫び声は他の誰よりも大きかった。しかし、刑罰の時が訪れ、人間の堕落した性質が再び明らかになった。やがて人々の叫びは途絶え、彼らの決意は失われた。これが人間の堕落である。それは罪より根深く、サタンによって植えつけられ、人の奥深くに根ざしたものである。人が自分の罪に気づくのは容易なことではない。人には自分に深く根ざした本性を認識する術がなく、そうするには言葉による裁きに頼らなければならない。そうして初めて、人はその時点から次第に変わってゆくのである。人が過去にそう叫んだのは、自分に本来備わる堕落した性質を認識していなかったからである。これが人間の中に存在する不純なものである。これほど長期間にわたる裁きと刑罰の中、人間はずっと緊張状態の中で生きた。これはすべて言葉によって成し遂げられたのではなかったか。効力者の試練に先立ち、あなたも大声で叫んだのではないか。「神の国に入れ。この名を受け入れる者はみな、神の国に入るだろう。誰もが神にあずかるだろう」と。効力者の試練が訪れたとき、あなたはもはや叫ばなかった。初めは誰もが、「ああ、神よ。あなたがわたしをいかなる場所に置かれようと、わたしはあなたの導かれるままに従います」と叫んだ。「誰がわたしのパウロになるのか」という神の言葉を読んだ人々は、「わたしがなります」と言った。次いで「ヨブの信仰についてはどうか」という言葉を目にして、「ヨブの信仰を身につけようと思います。神よ、どうかわたしを試してください」と言った。効力者の試練が訪れたとき、人々はすぐさま崩れ落ち、再び立ち上がることもままならなかった。その後、彼らの心の中の不純なものは少しずつ減っていった。これは言葉を通じて成し遂げられたのではないか。したがって、あなたがたが今日経験してきたことは、言葉によって達成された成果であり、イエスによるしるしや不思議の働きを通じて達成された成果よりもさらに大きなものである。あなたが目にする神の栄光と神自身の権威は、磔刑を通じて、あるいは病を癒して悪霊を追い払うことによって見えるだけでなく、神の言葉の裁きを通じてさらにはっきり見えるのである。そのことは、神の権威と力がしるしの働きだけ、あるいは病を癒して悪霊を追い払うことだけから成っているのではなく、神の言葉の裁きが神の権威をよりよく表わし、神の全能をよりよく明らかにできることを示している。
『神の出現と働き』「受肉の奥義(4)」(『言葉』第1巻)
日々の神の御言葉 抜粋 28
神の国の時代、神は言葉を用いて新たな時代の到来を知らせ、その働きの方法を変え、その時代全体の働きを行う。これが言葉の時代における神の働きの原則である。神はさまざまな視点から語るために肉となって、肉に現れた言葉である神を人間が真に目のあたりにし、神の知恵と驚くべき素晴らしさを目にできるようにした。このような働きは人間を征服し、完全にし、淘汰するという目的をより効果的に達成するために行われており、それが言葉の時代に言葉を用いて働きを行うことの真の意味なのである。こうした言葉を通して、人々は神の働き、神の性質、人間の本質、そして人間が何に入るべきかを知るようになる。言葉を通して、神が言葉の時代に行おうとしている働きの全体が実を結ぶのだ。こうした言葉を通して、人間は明らかにされ、淘汰され、試される。人々は神の言葉を目にし、その言葉を聞き、その言葉の存在を認識した。その結果、人間は神の存在、神の全能性と知恵、そして神の人間への愛と、人間を救いたいという願望とを信じるようになった。「言葉」という語は単純でごく普通かもしれないが、受肉した神の口から出る言葉は宇宙全体を揺るがし、人々の心を変革し、人々の観念と古い性質を変革し、世界全体の古い現れ方を変革する。多くの時代の中で、今日の神だけがこのように働いてきており、そして今日の神だけがこのように語り、このように人間を救いに来る。これ以降、人間は言葉の導きの下に生き、神の言葉により牧され、施しを受けることになる。人々は神の言葉の世界で、神の言葉の呪いと祝福の内に生きている。そしてさらに多くの人々が、神の言葉の裁きと刑罰との下に生きるようになっている。これらの言葉とこの働きはすべて人間の救いのため、神の旨を成就するため、そして過去の創造による世界の元来の状況を変えるためである。神は言葉をもって世界を創造し、言葉をもって全宇宙の人々を導き、言葉をもって彼らを征服し救う。そして最終的に、神は言葉をもって古い世界全体を終わらせ、その経営(救いの)計画全体を完了させる。神の国の時代全体を通じて、神は言葉を用いて働きを行い、その働きの成果を得る。神は不思議や奇跡を行うことなく、ただ言葉をとおして働きを行う。これらの言葉によって、人間は養われ、施しを受け認識と真の経験とを得る。言葉の時代の人間は格別の祝福を受けている。肉体的な痛みに苦しむことなく、ただ神の言葉の豊かな施しを享受し、無闇に探し求めたり旅をしたりする必要もなく、安穏の只中から神の出現を目にし、神がその口で話すのを聞き、神が施すものを受け取り、神が自らその働きを行うのを見守っている。これらは過去の時代の人々には享受できなかったことであり、彼らが決して受けることのできなかった祝福なのである。
『神の出現と働き』「神の国の時代は言葉の時代である」(『言葉』第1巻)
日々の神の御言葉 抜粋 29
サタンに深く堕落させられた人類は、神なるものが存在することを知らず、神を礼拝することをやめてしまった。初めに、アダムとエバが創造された時、ヤーウェの栄光と証しは常に存在していた。しかし、人間は堕落させられた後、その栄光と証しを失った。なぜなら、誰もが神に反抗し、神を畏れ敬うことをすっかりやめてしまったからである。今日の征服の働きは、その証しと栄光のすべてを取り戻し、あらゆる人間に神を崇めさせ、被造物の間に証しを生み出すためである。これが、この段階の働きにおいて達成されなければならないことである。厳密に言って人類はどのように征服されるのか。それは、この段階の言葉の働きを用いて、人間を充分に確信させることによって行われる。また、暴露、裁き、刑罰、情け容赦ない呪いを用いて人間を完全に説き伏せることによっても行われる。人間の反抗的性質を明らかにし、その抵抗を裁くことで人間に人類の不義と汚れを知らしめ、それらを神の義なる性質の引き立て役として使うことによっても行われる。このように言葉をおもに用いて人間を征服し、完全に確信させる。言葉は人類を征服するための究極的手段であり、神の征服を受け入れる者はみな、神の言葉による鞭と裁きを受け入れなければならない。現在の言葉を語る過程は、征服そのものの過程である。では具体的に、人はどのように協力するべきなのか。これらの言葉をどのように飲食するかを知り、言葉を理解することで協力するのである。人がどのように征服されるかについては、それは人が自分でできることではない。あなたにできるのは、これらの言葉を飲み食いすることによって自分の堕落と汚れ、反抗心と不義とを知り、神の前にひれ伏すことだけである。神の心意を把握した後に、それを実行に移すことができ、そしてビジョンを持ち、これらの言葉に完全に従うことができ、自分勝手な選択をしないならば、あなたは征服されている。そして、それは言葉による成果である。なぜ人類は証しを失ったのか。それは誰も神を信じず、もはや人の心には神の居場所がなくなったからである。人類の征服とは、人類にこの信仰を回復させることである。人は常にこの世に向こう見ずに突き進み、あまりにも多くの望みを胸に抱き、将来にあまりにも多くの期待をかけ、あまりにも多くの途方もない要求をする。人はいつも自分の肉のことを考え、肉のために計画しているが、神を信じる道を求めることにはまったく興味がない。人の心はサタンの虜となり、神を畏れ敬う心を失い、サタンに執着している。しかし、人間は神に創られた。こうして、人間は証しを失ってしまった。つまり、神の栄光を失ったということである。人類を征服する目的は、人間の神への畏敬による栄光を取り戻すことである。それは次のようにも言える。いのちを追い求めない人が大勢いて、たとえいのちを求める人がいたとしても、それは極少数である。人はもっぱら自分の将来のことに気をとられており、いのちのことにはまったく注意を払わない。神に逆らい、抵抗し、背後で神を裁き、真理を実践しない人もいる。今は、このような人は無視され、当分はこのような反逆の子たちについて何も行われない。しかし将来は、あなたは闇の中に住み、泣き叫んで歯ぎしりすることになる。光の中に生きているうちは、その貴重さを感じないだろうが、いったん暗夜の中に住めばそれに気づき、そのとき後悔する。今はいいかもしれないが、後悔する日が訪れる。その日が到来し、暗闇が地を覆い、もはや光がなくなった時、後悔しても遅すぎる。今の時を大切にしないのは、現代における働きを理解していないからである。いちど全宇宙の働きが始まれば、すなわち、わたしが今日言っていることのすべてが現実となる時、多くの人が頭を抱えて悔し涙を流すことになる。これこそ、暗闇の中に落ち、泣き叫び、歯ぎしりすることではないのか。心からいのちを追い求め、完全にされる人は役に立つことができる。一方、役に立たない反逆の子らは暗闇の中に落ちる。聖霊の働きを失い、何もかも意味がわからなくなる。彼らはこのように懲罰の中に陥り、呻いては泣き叫ぶのである。もしあなたがこの段階の働きにおいて充分に用意が整い、いのちにおいて成長しているなら、あなたは用いられるに相応しい。少しも用意が整っていないなら、たとえ次の段階の働きのために呼ばれたとしても、役に立つには不適格である。この時点でいくら自分を整えたくとも、次の機会はもうない。神はもう去ってしまっている。そうなれば、今あなたの目の前にあるような機会をいったいどこに行って見つけるのか。今、神自身が提供している訓練をいったいどこに行って受けようというのか。その時には、神が自ら語り声を発することはない。あなたにできるのは、今日語られていることを読むことだけである。どうして容易に理解できるであろうか。どうして後の生活が今より良いことがありえようか。その時点で、泣き叫び、歯ぎしりし、生き地獄そのものを苦しむことにならないのか。祝福は今あなたに授けられているというのに、それをどのように享受するべきなのかがわかっていない。祝福の中で生きているのに、気付いていない。あなたが破滅し苦しむように運命付けられている証拠である。現代は抵抗する人もいれば、反逆する人もいるし、あれをしたりこれをしたりという人もいて、わたしはそれをただ無視する――しかし、あなたがたが何をしているかわたしが気付いていないと思ってはならない。わたしはあなたがたの本質を理解していないのか。なぜわたしに逆らい続けるのか。あなたは自分のために、いのちと祝福を追い求めるために、神を信じているのではないのか。あなたに信仰があるのは、自分のためではないのか。現在、わたしは言葉を語ることでのみ征服の働きを行っている。この征服の働きが完了すれば、あなたの最後は明らかになる。はっきりと説明しなければならないであろうか。
『神の出現と働き』「征服の働きの内幕(1)」(『言葉』第1巻)
日々の神の御言葉 抜粋 30
現在の征服の働きは、人間の結末がどのようになるかを明らかにすることを意図する。なぜわたしは今日の刑罰と裁きは、終わりの日における大いなる白い玉座の前での裁きだと言われるのか。あなたにはこれがわからないのか。なぜ征服の働きは最終段階なのか。これはまさしく、それぞれの種類の人間が最後にどうなるかを明らかにすることではないのか。それは、刑罰と裁きとによる征服の働きの過程において、あらゆる人が自分のありのままの姿をあらわし、その後それぞれの種類に分類されるようにするためではないのか。人類の征服というよりも、これはむしろ各種の人間がどのような最後を迎えるのかを示すことだと言った方が良いくらいである。つまり、これは人の罪を裁き、それから人の様々な種類を明らかにし、それにより、人が悪であるか義であるかを判定することである。征服の働きの後に、善に報い悪を罰する働きが続く。完全に従う人々、つまり、完全に征服された人々は、神の働きを全宇宙に広める次の段階に配置される。征服されなかった者は闇の中に置かれ、災厄に遭う。このように人間はその種類によって分類され、悪を行う者は悪として分類され、二度と陽の光を浴びることがない。義人は善として分類され、光を受け、永遠に光の中で生きる。あらゆるものの終わりは近く、人間の終わりは目の前にはっきりと示され、あらゆるものはその種類によって分けられる。それなら、どうして人間が種類別に分類されるという苦悩から逃れられようか。各種の人間の結末は、あらゆるものの終わりが近づいた時に明らかにされる。それは全宇宙の征服の働き(現在の働きに始まるすべての征服の働きを含む)の間に行われる。この全人類の終わりの明示は、裁きの座の前で、刑罰と終わりの日の征服の働きの過程で行われる。種類に従って人々を分類することは、人々を元の部類に戻すことではない。なぜなら、天地創造の際、人間が創られた時には一種類の人間しかなく、唯一の区別は男と女しか存在しなかったからである。人間には多数の種類など存在しなかった。さまざまな種類の人間が現れたのは、何千年にも及ぶ堕落の後になってからでる。ある者は汚らわしい悪魔の領域に、またある者は邪悪な悪霊の領域に、また、いのちの道を追い求める者は、全能者の統治に属する。ただこのようにしてのみ、人々の間に種類が徐々に形成され、それによってのみ人々は人間という大家族の中でさまざまな部類に分かれるのである。人々はみな異なる「父」を持つようになる。人間は極めて反抗的なので、すべての者が完全に全能者の統治のもとにあるわけではない。義なる裁きは、各種類の人間の本来の姿を表に曝け出し、隠れたままになるものは何もない。あらゆる者が光の中でほんとうの顔を現す。この時点では、人はもはや本来のあり方ではなくなっており、先祖の元の面影はとうの昔に消え去っている。なぜなら、アダムとエバの無数の子孫たちが、長らくサタンの虜となり、もう二度と天日を知ることはないからである。また、人々があらゆる種類のサタンの毒に満たされてきたからである。こうして人々にはそれぞれに相応しい終着点がある。さらに、人はその様々な毒を基準にして、種類ごとに分類される。すなわち、今日征服されている度合いに応じて人は分類されるのである。人間の終わりは天地創造以来、予め定められてきたものではない。なぜなら、初めにはまとめて「人類」と呼ばれる一種類の人間しか存在せず、また人間は最初はサタンに堕落させられてはおらず、神の光の中に生き、闇は降りていなかったからである。しかし、人間がサタンに堕落させられた後、あらゆる類型と種類の人々が地の至るところに広がった。まとめて「人類」と呼ばれ、男と女から成る家族から出たあらゆる類型と種類の人々である。彼らはみな祖先に導かれ、最も古い祖先である男と女から成る人類(つまり、始まりのアダムとエバ、最古の祖先)のもとから迷い出てしまった。その当時、地上での生活をヤーウェに導かれていたのは唯一イスラエル人であった。全イスラエル(つまり、最初の部族)から出た様々な種類の人々は、その後ヤーウェの導きを失った。これらの初期の人々は、人間世界のことにはまったく無知で、祖先とともに自分たちのものとした土地で暮らし、それが今日まで続いた。彼らはまだ自分たちがどのようにヤーウェのもとから離れ、今日に至るまで、どのようにあらゆる種類の汚れた悪魔や邪霊に堕落させられたかについては無知なままである。これまで深く堕落させられ、毒されてきた者たち、つまり、最終的に救いようのない者たちは、その祖先、彼らを堕落させた汚れた悪魔である祖先と共に行くしかない。最終的に救われることのできる者たちは、人類の相応しい終着点に行く。つまり、救われ、征服された者たちのために用意された最後にたどり着くのである。救うことのできる人をみな救うために、あらゆることが為される。しかし、鈍感で救いようのない人は、先祖の後を追って刑罰の底なしの穴へ落ちるしかない。あなたの終わりは最初から予め定められていて、それが今になってやっと明らかにされたと考えてはいけない。そのように考えているのなら、最初に人類が創造された時にはそれとは別にサタンという種類は創られなかったことを忘れたのか。アダムとエバから成る一種類の人間だけが(つまり、男と女だけが)創造されたことを忘れてしまったのか。あなたが始めからサタンの子孫であったなら、人間を創造した時ヤーウェはサタンの集団もいっしょに創造したことにならないか。神がそのようなことをしたであろうか。神は自分の証しのために人間を創造した。神は自分の栄光のために人間を創った。なぜ神は意図的にサタンの子孫という種族を自分に抵抗させるためにわざわざ創造したりするであろうか。どうしてヤーウェがそんなことをすることがありえようか。もしそんなことをしていたなら、誰が神を義なる神だと言えるであろうか。わたしが今、あなたがたのうちには終いにはサタンと共に行く者がいると言っても、それはあなたが初めからサタンと共にあったという意味ではない。そうではなく、あまりにも低い所まで堕落したので、たとえ神が救おうとしたとしても、あなたは救いをのがしてしまったという意味である。あなたをサタンといっしょに分類する他ない。それはただ、あなたは救いようがないからであり、神があなたに対して不義で、意図的にあなたの運命をサタンの具現化と定め、サタンと共に分類し、わざとあなたを苦しませようとしているからではない。それは征服の働きの内なる真実ではない。あなたがそのように信じているのなら、あなたの認識はひどく偏っている。征服の最終段階は、人を救い、また、人の結末を明らかにするためである。裁きを通して人の堕落を暴露し、それにより人を悔い改めさせ、立ち上がらせ、いのちと人として生きる正しい道を追い求めさせるためである。鈍く頑な人の心を目覚めさせ、裁きによって人の内にある反抗的性質を示すためである。しかしながら、人がまだ悔い改めることができず、なおも人として生きる正しい道を追い求めることができず、これらの堕落を捨て去ることができなければ、人は救われることはなく、サタンにのみ込まれる。これが征服の意味である。つまり、人を救い、また人の結末を見せることである。良い結末と悪い結末があり、すべては征服の働きにより明らかにされる。人が救われるか呪われるかは、みな征服の働きの間に明らかにされる。
『神の出現と働き』「征服の働きの内幕(1)」(『言葉』第1巻)
日々の神の御言葉 抜粋 31
終わりの日とは、すべてのものが征服を通して、その種類に分類される時のことである。征服は終わりの日の働きである。つまり、一人ひとりの罪を裁くことが終わりの日の働きである。そうでなければ、どうして人を分類できるというのか。あなたがたの間で行われる分類の働きは、全宇宙におけるそうした働きの始まりである。この後、すべての地のあらゆる民も征服の働きの対象となる。つまり、被造物であるすべての人が種類別に分類され、裁きの座の前で服従し、裁かれるということである。誰一人、何ものもこの刑罰と裁きの苦しみから逃れることはできない。また、誰も何ものも種類別に分類されることを避けることはできない。あらゆる人が種類ごとに分けられる。それは、万物の終わりが近く、天地のすべてが終結に至ったからである。どうして人間が己の存在の終結の日を逃れられようか。したがって、あとどれほどあなたがたは不服従の行いを続けられるのか。あなたがたの終わりの日がそこまで迫っているのが見えないのか。どうして神を畏れ敬い、神の現れを待ち焦がれている者たちが、神の義が出現する日を見られないのか。彼らがその善ゆえの最後の報酬を受けられないということが、どうしてあるのか。あなたは善を行う人なのか。それとも悪を行う人なのか。あなたは義なる裁きを受け入れて従う人なのか。それとも義なる裁きを受け入れて呪われる人なのか。光の中にある裁きの座の前で生きているのか。それとも闇に覆われたハデスで生きているのか。自分の終りが報酬を受けることになるのか、それとも罰を受けることになるのかを一番はっきり知っているのは、あなた自身ではないのか。神が義であることを一番はっきり知り、最も深く理解しているのは、あなたではないのか。それでは、あなたの行いと心は一体、どのようであるのか。今日、わたしがあなたを征服するに及んで、あなたのふるまいが悪であるか、それとも善であるかをわたしがいちいち説明する必要があるのか。あなたは、わたしのためにどれほどの犠牲を払ったのか。どれほど深くわたしを礼拝するのか。わたしに対して自分がどのようにふるまっているかをあなた自身が一番よく知っているのではないのか。自分が最終的にどのような結末を迎えるのかを、あなたは他の誰よりも良く知っているはずである。わたしは、まことにあなたに告げる。わたしは人類を創造し、あなたを創造しただけである。わたしはあなたがたをサタンに手渡さなかった。あなたがたを意図的にわたしに逆らわせ反抗させて、そのためにわたしに罰されるように仕向けもしなかった。これらの災難や苦しみを招いたのは、あなたがたの心があまりにも頑なで、あなたがたの行いが極めて下劣であるからではないのか。だから、あなたがたが迎える結末は、自分自身が決定するものではないのか。自分がどのような最後を迎えるのかを、あなたがたは内心、他の誰よりもよく知っているのではないのか。わたしが人を征服する理由は、人を暴露するためである。またそれは、あなたの救いを確かなものにするためでもある。それは、あなたに悪を行わせるためでもなく、あなたを意図的に破滅の地獄に向かって歩ませるためでもない。その時が来れば、あなたの大いなる苦しみ、泣き叫び、歯ぎしりはすべて、あなたの罪ゆえではないのか。したがって、あなた自身の善あるいは悪が、あなたを最も正しく裁いてくれるのではないのか。それがあなたの終りがどうなるのかを示す最良の証拠ではないのか。
『神の出現と働き』「征服の働きの内幕(1)」(『言葉』第1巻)
日々の神の御言葉 抜粋 32
終わりの日において、神はおもに言葉を発するために来た。神は聖霊の観点から、人間の観点から、第三者の観点から話す。神は異なった話し方をする。ある期間は一つの話し方をし、人間の観念を変え、漠然とした神の姿を人間の心から取り除くための話し方をする。これが神が行う主要な働きである。人間は神が病人を癒やし、悪霊を追い払い、奇跡を行い、人間に物質的な祝福をもたらすために来たと考えているため、神はこの段階の働き、つまり刑罰と裁きの働きをそうした観念を人間の思考から取り除くために行う。人間が神の現実性、神の正常を知るように、そしてイエスの姿が人間の心から消え、新たな姿に置き換えられるようにである。人間の心の中にある神の姿が古くなると、ただちにそれは偶像になる。イエスが来てその段階での働きをしたとき、神の全体を表さなかった。イエスはいくつかのしるしや不思議を示し、言葉を語り、最後に磔刑に処せられた。イエスは神の一部分を表した。イエスは神の全体像を表すことはできず、神の働きの一部を行うことで神を表した。これは、神があまりに偉大で、驚くべきであり、また計り知れないからであり、神はそれぞれの時代にその働きの一部だけをするからである。神がこの時代に実行する働きは、おもに人間のいのちのための言葉を与えること、人間の本性実質、堕落した性質を暴くこと、そして宗教的観念、封建的思考、時代遅れの考えを一掃することであり、人間の知識と文化は神の言葉による暴きを通して清められなければならない。終わりの日において、神はしるしや不思議ではなく、言葉を用いて人間を完全にする。神は言葉によって人間を露わにし、裁き、罰し、人間を完全にし、それにより人間が言葉の中に神の知恵と愛らしさを見、神の性質を知り、神の業を目にするようにする。律法の時代、ヤーウェは言葉によりモーセを導いてエジプトを脱出させ、イスラエル人に言葉を語った。当時、神の業の一部はわかりやすいものであったが、人間の素質が限られていて、認識を完全にすることができなかったため、神は話し、働き続けた。恵みの時代、人間は再び神の業の一部を見た。イエスはしるしや不思議を見せ、病人を癒やし、悪霊を追い払い、十字架につけられ、三日後によみがえり、人間の前に肉の身で現れることができた。神について、人間はこれ以上のことを知らなかった。人間は神の示されたことだけを知っているが、神がそれ以上人間に見せなければ、それで神について人間が把握できることはそこまでに限られる。だから、神は自分に関する人間の認識が深まるように、人間が徐々に神の実質を知るようにと働き続ける。終わりの日に神は言葉を用いて人間を完全にする。あなたの堕落した性質は神の言葉により明らかになり、宗教的観念は神の現実性に置き換えられる。終わりの日の受肉した神が来たのはおもに「言葉は肉となり、言葉は肉に現れ、そして言葉は肉となって現れる」という言葉を成就するためであるが、このことを完全に認識していなければ、堅く立つことはできない。終わりの日に、神はおもに言葉が肉において現れるという働きをするつもりだが、これは、神の経営計画の一部である。だから、あなたがたの認識は明確でなければならない。神がどのように働こうと、人間が神を限定することを神は許さない。もし神が終わりの日にこの働きをしなければ、人間の神についての認識はそれ以上進まない。神が十字架につけられることができ、ソドムを滅ぼすことができ、イエスが死からよみがえってペテロの前に現れることができることだけを知っているだろう……。しかし、神の言葉はすべてを成し遂げることができ、人間を征服できるとはあなたは絶対に言わないであろう。神の言葉を経験してはじめて、そうした認識について話せるのである。また、神の働きを経験すればするほど、神についての認識が充実していく。そうしてはじめて、自分の観念の枠内に神を限定しなくなる。人間は神の働きを経験して神を知るようになる。これ以外に神を知る正しい方法はない。
『神の出現と働き』「今日の神の働きを知ること」(『言葉』第1巻)
日々の神の御言葉 抜粋 33
この最後の段階の働きにおいて、成果は言葉によって達成される。人は言葉を通じ、多くの奥義や、過去の世代を通じて神が行なってきた働きを理解するようになる。人は言葉を通じて聖霊に啓かれ、過去の世代が解明し得なかった奥義、昔の預言者たちや使徒たちの働き、そして彼らの働きの原則を理解するようになる。人は言葉を通じて神自身の性質を理解するようになると同時に、人の不従順や反抗心を理解し、自分の本質を認識するようになる。これらの働きの段階と、語られたすべての言葉を通じ、人は霊の働き、神の受肉した肉体の働きを知り、さらにはその性質全体を知るようになる。六千年以上にわたる神の経営の働きについても、あなたはそれに関する認識を言葉によって得た。自分の以前の観念を知ったのも、それを脇にのけることができたのも、言葉を通じてではなかったのか。前の段階で、イエスはしるしや不思議の働きを行なったが、この段階にしるしや不思議はない。なぜ神がしるしや不思議を示さないのかという理解も、言葉を通じて得られたのではないのか。よって、この段階で語られる言葉はかつての世代の使徒たちや預言者たちによってなされた働きを越えている。預言者たちによる預言でさえも、このような成果を挙げることはできなかった。預言者たちは預言だけ、つまり将来何が起こるかを語っただけで、当時神が行なおうと望んでいた働きについては語っていない。彼らは人類の生活を導くため、人類に真理を授けるため、あるいは彼らに奥義を明かすために語ったのではなく、ましてやいのちを授けるために語ったのでもない。この段階で語られる言葉には預言と真理があるものの、それらはおもに人にいのちを授けるためのものである。現在の言葉は預言者たちの預言と異なる。これは預言を語るためでなく、人のいのちのため、人のいのちの性質を変えるための働きの段階である。最初の段階はヤーウェの働きであり、人が地上で神を礼拝するよう、その道を整える働きだった。それは地上において働きの源となる場所を見つけるという、始まりの働きだったのである。当時、ヤーウェはイスラエルの民に対し、安息日を守り、両親を敬い、互いに平和に暮らすよう教えた。なぜなら当時の人々は、人間とは何であるかも、地上でどのように生きるべきかも理解していなかったからである。神はその最初の働きの段階において、人類の生活を導く必要があった。ヤーウェが彼らに語ったことは、人類がそれまで認識しておらず、所有もしていないものばかりだった。当時、神は多くの預言者を立ち上がらせて預言を語らせたが、彼らはみなヤーウェの導きの下でそうしたのである。これは単に神の働きの一つだった。最初の段階で神が肉となることはなく、よって神は預言者たちを通じてあらゆる部族や国々に指示を与えた。イエスは自身の生涯において働きを行なったとき、今日のように多くは語らなかった。終わりの日におけるこの言葉の働きの段階が、かつての時代や世代において行なわれたことはない。イザヤ、ダニエル、そしてヨハネは多くの預言を語ったが、彼らの預言は今語られている言葉とまったく異なっていた。彼らが語ったことは預言でしかなかったが、今語られている言葉は違う。わたしが今話していることをすべて預言にしたなら、あなたがたは理解できるだろうか。わたしが語ったのが、わたしが去ったあとのことについてだったとしたら、あなたはどうしてそれを理解できただろうか。言葉の働きはイエスの時代にも律法の時代にも決してなされなかった。中には「ヤーウェも自身の働きを行なった際に言葉を語りませんでしたか。イエスも病を癒したり、悪霊を追い出したり、しるしや不思議の働きを行なったりするのに加えて、その時言葉を語りませんでしたか」と言う人がおそらくいるかもしれない。語られる物事の間には違いがある。ヤーウェが発した言葉の本質は何だったか。ヤーウェは地上における人類の生活を導いただけで、それはいのちにおける霊的な事柄とは無関係だった。ヤーウェが語ったとき、それはすべての地で人々に指示を与えるためだったと言われているのはなぜか。「指示を与える」という言葉は、明白に語り、直接命じることを意味する。ヤーウェは人にいのちを施したのではなく、むしろただ人の手を取って、どのようにヤーウェを崇めるべきかを教えたのであり、たとえ話で教えることはあまりなかった。イスラエルにおいてヤーウェが行なった働きは、人を取り扱ったり鍛練したりするものでも、裁きや刑罰を与えるものでもなく、人を導くものだった。ヤーウェはモーセに対し、神の民に荒野でマナを集めさせるよう命じた。毎朝日の出前に、彼らはその日に食べる分だけマナを集めなければならなかった。マナは翌日まで保存することができなかった。次の日になるとカビが生えたからである。ヤーウェは人々に説教したり、人間の本性を暴いたりすることはせず、人の発想や思考を暴露することもしなかった。ヤーウェは人々を変えなかったが、彼らの生活を導いた。当時、人は子どもと同じで何も理解せず、いくつかの基本的な機械的動作しかできなかった。よって、ヤーウェは大衆を導くために律法を制定しただけなのである。
『神の出現と働き』「受肉の奥義(4)」(『言葉』第1巻)
日々の神の御言葉 抜粋 34
神はそれぞれの時代において言葉を語り、働きをする。そして神は異なる時代において異なる言葉を話す。神は規則に従わず、同じ働きを繰り返さず、過去の事柄への懐旧の念を抱かない。神は常に新しく、古さとは無縁であり、毎日、新しい言葉を話す。あなたは今日従うべきことに従うべきである。それが人の責任であり本分である。現在における神の光と言葉を軸として実践することが不可欠である。神は規則に従わず、神の知恵や全能性を明らかにするために多くの異なる視点から話すことができる。神が霊の視点から話すか、人の視点から話すか、あるいは第三者の視点から話すかは問題ではない。神は常に神であり、人の視点から話すので神は神ではないと言うことはできない。神が様々な側面から話す結果、一部の人に観念が生まれた。そのような人は神について何の認識ももっておらず、神の働きについても何の認識もない。神が常に一つの視点から話せば、人は神に関して規則を定めないであろうか。人がそのように振舞うことを神が許すことができるであろうか。神がどの視点から話すにせよ、神にはそうする目的がある。もし、神が常に霊の視点から話したなら、あなたは神と関わりをもつことができるであろうか。それゆえ、神は時おり第三者の立場で語り、あなたに言葉を与え、あなたを現実性へと導く。神が行なう万事が適切である。要するに、すべては神になされているのであり、あなたはこのことを疑うべきではない。神は神であり、それゆえ、どの視点から話しても、神は常に神である。これは不変の真理である。どのように働きをしても、神は依然として神であり、神の本質は変わることがない。ペテロは深く神を愛し、神の心に叶う人であったが、神はペテロを主あるいはキリストとして証ししなかった。なぜなら、存在するものの本質は、それ自体であり、決して変わることはできないからである。働きにおいて、神は規則に従うのでなく、働きを効果的にし、人の神についての認識を深めるために種々の方法を用いる。神が働きをする方法のすべてが、人が神を知るのを助け、そしてそれは人を完全にするためである。神がどのような働きの方法を用いても、それぞれが人を作り上げ完全にするためである。神が働きをする方法のうちの一つが非常に長い時間続いたかもしれないが、それは人の神への信仰を強化するためである。したがって、あなたがたの心には疑いがあってはならない。これらはすべて神の働きの過程であり、あなたがたはそれらに従わなければならない。
『神の出現と働き』「すべては神の言葉が達成する」(『言葉』第1巻)
日々の神の御言葉 抜粋 35
神はおもに言葉を話すために地上に来た。あなたが関りをもつのは神の言葉である。あなたが知るのは神の言葉である。あなたが聞くのは神の言葉である。あなたが従うのは神の言葉である。あなたが経験するのは神の言葉である。そしてこの肉となった神は、人を完全にするのにおもに言葉を用いる。しるしや奇跡を示さず、イエスが過去に行った働きは特に行わない。どちらも神であるが、肉でもある。両者の職分は同一ではない。イエスが現れたとき、イエスは神の働きの部分も行い、言葉も話した。しかし、イエスが成し遂げたおもな働きは何であろうか。イエスがおもに成し遂げたのは磔の働きであった。イエスは磔の働きを完成し全人類を贖うために罪深い肉の似姿になった。そしてイエスが罪の贖いの供え物となったのは、全人類の罪のためであった。これが、イエスが成し遂げたおもな働きであった。最終的に、イエスは後から来る人たちを導くために、十字架の道を与えた。イエスが現れたとき、それはおもに贖いの働きを完了するためであった。イエスは全人類を贖い、天の国の福音を人にもたらし、そして天の国へ至る道をもたらした。その結果、その後に来た人は皆、「我々は十字架の道を歩き、十字架のために我々自身を犠牲にすべきだ」と言った。もちろん、最初イエスは、人に悔い改めさせ罪を告白させるための他の働きも行い、そのための言葉も語った。しかし、イエスの職分はやはり磔であり、イエスが道を説きながら費やした三年半は、その後に起こるべき磔への準備であった。イエスが何度か祈ったのも磔のためであった。イエスの普通の人としての生涯と地上での三十三年半は、おもに磔という働きを完成するためであった。それはこの働きに取り組む力をイエスに与えるためであり、その結果として神はイエスに磔という働きを託した。今日、肉となった神は、どのような働きを成し遂げるのであろうか。今日、神はおもに「言葉が肉において現れる」という働きを完成するために、言葉を用いて人を完全にするために、そして人が言葉による取り扱いと精錬を受け入れるように、肉になった。神の言葉において、あなたは神に施され、いのちを与えられる。神の言葉において、あなたは神の働きと業を見る。神はあなたを罰し精錬するために言葉を用いる。したがって、もしあなたが苦難に会うなら、それはまた神の言葉によるものである。今日、神は事実でなく言葉を用いて働く。神の言葉があなたに届いてはじめて、聖霊はあなたの中で働きをすることができ、あなたに苦痛を感じさせたり甘美さを感じさせたりすることができる。神の言葉だけが、あなたを現実に至らせることができ、神の言葉だけが、あなたを完全にすることができる。したがって、終わりの日に神が行う働きはおもに言葉を用い、すべての人を完全にし、人を導くことであることを、せめてあなたは理解しなければならない。神はその働きのすべてを言葉を通じて行なう。神はあなたを罰するために事実を用いない。時には神に抵抗する人もいる。神はあなたに大きな不快感をもたらさず、あなたの肉は罰せられず、あなたは苦痛を味わうことはない。しかし、神の言葉があなたに届き、あなたを鍛錬するようになるとただちに、それはあなたにとって耐えられないものになる。そうではないであろうか。効力者の期間に、人を底なしの穴に投げ入れると神は言った。人は実際に底なしの穴に落ちたであろうか。人を鍛錬するための言葉だけで、人は底なしの穴に入っていった。このように、神が肉となる終わりの日には、神はすべてを成し遂げ、すべてを明らかにするためにおもに言葉を用いる。神の言葉の中においてのみ、神であるものを知ることができる。神の言葉の中においてのみ、神が神自身であることを知ることができる。肉となった神が地上に来るとき、神は言葉を話すこと以外のどのような他の働きもしない。したがって、事実は必要でない。言葉で十分である。おもにこの働きをするために、神の力と至高を人が神の言葉の中に見ることができるように、神が身を低くして自身を隠していることを人が神の言葉の中に見ることができるように、そして神の完全性を人が神の言葉の中に知ることができるように、神は来たからである。神が所有するものおよび神の存在のすべてが、神の言葉の中にある。神の知恵や素晴らしさも神の言葉の中にある。この中に、神が言葉を話す多くの方法を人は見ることができる。これまでずっと、神の働きのほとんどは、人間への施しであり、明かしであり、取り扱いであった。神は軽々しく人を呪いはしないし、そうするときでさえ言葉を通して行う。したがって、この肉となった神の時代において、神が再び病人を癒やし、悪魔を追い出すのを見ようとしてはならず、また常にしるしを探し続けてはならない。それは無意味である。そのようなしるしは、人を完全にしはしない。わかりやすく言うならば、つまり、今日、肉となった現実の神自身は行動せず、話すだけなのである。これが真理である。神は言葉を用いてあなたを完全にし、あなたに食べ物を与え、水をやる。神はまた言葉を用いて働き、さらに神の現実性をあなたに知らせるために、事実の代わりに言葉を用いる。このような神の働き方を感知することができるなら、否定的でいることは難しい。否定的なことに集中する代わりに、肯定的な事柄にのみ集中すべきである。つまり、神の言葉が成就しようとしまいと、あるいは事実の到来があろうとなかろうと、神はその言葉から人がいのちを得ることを可能にする。これはあらゆるしるしの中の最大のしるしである。そしてさらに、それは議論の余地のない事実である。これこそ、神を知るための最良の証拠であり、しるしよりも偉大なしるしである。このような言葉だけが、人を完全にできるのである。
『神の出現と働き』「すべては神の言葉が達成する」(『言葉』第1巻)
日々の神の御言葉 抜粋 36
神の国の時代が始まるや否や、神は言葉を放ち始めた。未来において、これらの言葉が徐々に成就していく。そしてそのときには、人のいのちが成長する。人の堕落した性質を明らかにするために神が言葉を用いることは、より現実的であり、そしてより必要である。そして神は、人の信仰を完全にするために働きを行うのに言葉以外の何ものも用いない。なぜなら、今は言葉の時代であり、そしてそれは、人の信仰、決意、協調性を必要とするからである。終わりの日の、肉となった神の働きとは、人間に奉仕し与えるために言葉を用いることである。肉となった神がその言葉を話し終えてはじめて、言葉は成就し始める。神が話している間は、神の言葉は成就しない。なぜなら、神が肉の段階にあるとき神の言葉が成就することはできないからである。これは、神が肉であり霊ではないのを人が見ることができるようにするためだからである。この結果、人は自身の目で神の現実性を見ることができる。神の働きが完了する日、すなわち地上で神によって話されるべきすべての言葉が話されたその日、神の言葉は成就し始める。今は、神の言葉の成就の時代ではない。なぜなら神は言葉をまだ話し終えていないからである。従って、神が地上でその言葉をまだ話しているのを見ると、あなたは神の言葉が成就するのを待ち構えてはいけない。神が言葉を話すのを止め、地上での神の働きが完了する時、それが神の言葉が成就し始める時である。地上で神が話す言葉の中には、ある観点では、いのちの提供が存在し、もう一つの観点では、預言が存在する。来るべき諸事についての預言、行われるであろう諸事についての預言、さらに未だ成し遂げられていない諸事についての預言である。イエスの言葉の中にも預言はあった。ある観点からは、イエスはいのちを供給し、別の観点からは、イエスは預言を話した。今日、言葉と事実を同時に遂行することについて語られることはない。なぜなら、人が自身の目で見ることができることと、神が行うこととの間の差異は大きすぎるからである。ひとたび神の働きが完了したなら、神の言葉は成就し、言葉の後に事実が到来する、とだけ言うことができる。終わりの日において、肉となった神は地上において言葉の職分を果たす。そしてこれを実行するとき、神は言葉だけを話し、その他の問題には注意を払わない。ひとたび神の働きに変化が現れたら、神の言葉は、成就され始める。今日、言葉はまず、あなたを完全にするために用いられる。神が全宇宙で栄光を獲得する時、それは神の働きが完了する時、話されるべきあらゆる言葉が話され、全ての言葉が事実になった時である。神は、人類が神を知ることができるように言葉における働きをするため、終わりの日に地上にやって来た。その結果、人類は神であるものを知り、神の知恵と、神の言葉がもたらす神の驚くべき業を全て知ることが可能になる。神の国の時代を通じて、神は全人類を征服するために言葉を用いる。未来においては、神の言葉は、あらゆる宗教、分野、国家、教派にも届くであろう。神はすべての人を征服し、神の言葉が権威や力を帯びるのをすべての人に知らしめるために、言葉を用いる。したがって今日、あなたがたは、神の言葉にのみ面するのである。
今の時代に神によって話される言葉は、律法の時代に話された言葉とは異なり、また恵みの時代に話された言葉とも異なる。恵みの時代には、神は言葉の働きをせず、全人類を贖うためにキリストは十字架に磔にされると語っただけである。聖書は、イエスがなぜ磔にされる運命にあったのか、さらに、イエスが十字架上で受けた苦しみ、そして人がどのように神のために磔にされるべきかだけを記述する。その時代を通じて、神によってなされる働きはすべて、キリストの十字架上の死を中心に展開していた。神の国の時代には、肉となった神は、神を信ずるすべての人たちを征服するために、言葉を用いる。これが、「言葉が肉において現れる」ということである。神は、この働きをするために終わりの日にやって来た。つまり、神は、言葉が肉において現れることの実際の意義を成し遂げるためにやって来た。神は言葉を話すだけであり、事実の到来は稀である。これがまさに、言葉が肉において現れることの実質である。そして肉となった神が自身の言葉を話すとき、これが肉における言葉の出現であり、肉へ入り来る言葉である。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。そして言は肉体となった」。このこと(言葉が肉において現れるという働き)が、終わりの日に神が成し遂げるだろう働きであり、自身の全経営計画の最終章である。したがって、神は地上に来て、肉の中で自身の言葉を表さなければならない。今日行われること、未来において行われるであろうこと、神によって成し遂げられるであろうこと、人の終着点、救われるであろう人々、滅ぼされるであろう人々、等々、最後に成し遂げられるべきこのような働きはすべて、明確に述べられてきた。そしてこれらはすべて、言葉が肉において現れることの実際の意義を成し遂げることを目的にしている。かつて発行された行政命令や憲法、滅ぼされるであろう人々、安息へ入るであろう人々、これらの言葉はすべて成就されなければならない。これが、終わりの日を通じて、肉となった神によっておもに成し遂げられた働きである。神は、神によって運命づけられた人々はどこに属し、運命づけられない人々はどこに属するか、神の民や息子たちはどのように分類されるか、イスラエルに何が起こるか、エジプトに何が起こるかを人々に理解させる。未来には、これらの言葉のすべてが成し遂げられる。神の働きの歩調は加速している。神は、あらゆる時代に何がなされるべきか、肉となった神によって終わりの日に何が行われるよう予定されているか、そして行われるべき神の職分が何であるかを、人に明らかにするための手段として言葉を用いる。これらの言葉はすべて、言葉が肉において現れることの実際の意義を成し遂げるためのものである。
『神の出現と働き』「すべては神の言葉が達成する」(『言葉』第1巻)
日々の神の御言葉 抜粋 37
神は自身の働きを全宇宙において行う。神を信じる者はすべて、神の言葉を受け入れ、神の言葉を飲み食いしなければならない。何人といえども、神によって示されるしるしや不思議を見ることで神のものとされることはあり得ない。時代を超えて、神は常に、人を完全にするのに言葉を用いてきた。したがって、あなたがたの注意のすべてをしるしや不思議に向けるべきではなく、神によって完全にされるよう努めるすべきである。旧約聖書の律法の時代において、神はいくつかの言葉を語った。そして恵みの時代において、イエスもまた多くの言葉を話した。イエスが数多くの言葉を話した後、後の使徒や弟子たちが人々を導き、イエスが発した戒めに従って実践し、イエスの語った言葉と原則に従って経験するようにさせた。終わりの日において、神は人を完全にするのに、おもに言葉を用いる。神は、人に圧力をかけたり人を確信させたりするのに、しるしや不思議を用いない。それは、神の力を明らかにしない。もし神がしるしや不思議を示すだけならば、神の実在性を明らかにすることは不可能である。したがって、人を完全にすることも不可能である。神は、しるしや不思議によって人を完全にせず、人を潤し牧養するのに言葉を用いる。そしてその後、人は完全な従順と神についての認識を達成することができる。これが、神が行う働きと神が話す言葉の目的である。神は、人を完全にするのにしるしや不思議を示すという方法を用いない。神は言葉を用い、多くの異なる働きの方法を用いて人を完全にする。それが精錬であろうと、取り扱い、刈り込み、あるいは言葉の施しであろうと、神は、人を完全にするために、人に神の働き、神の知恵や驚くべき力についてのより大きな認識を与えるために、多くの異なる観点から話す。終わりの日に神が時代を終え、人が完全にされたならば、そのとき、人はしるしや不思議を見るにふさわしくなる。神を認識するようになり、神が何をしようと神に従うことができるとき、あなたはしるしと不思議を見ても、神についての観念をこれ以上もたなくなる。今、あなたは堕落し完全に従順であることはできない。あなたはそんな状態にいる自分のことを、しるしや不思議を見るにふさわしいと思っているであろうか。神がしるしや不思議を示す時は、神が人を罰するときであり、時代が変わるときでもある。さらに、時代が完結するときでもある。神の働きが順当に遂行されているとき、神はしるしや不思議を示さない。しるしや不思議を示すことは神にとって極めて容易であるが、それは神の働きの原則ではないし、神による人の経営(救い)の目的でもない。もし、人がしるしや不思議を見たら、そしてもし、神の霊の体が人の前に現れるようなことがあったら、神を信じない人がいるであろうか。わたしは以前、東方から勝利者たちを獲得する、彼らは大きな苦難のただ中からやって来ると言ったことがある。この言葉は何を意味しているのか。それは、このような神のものとされた人たちは、裁きと刑罰、取り扱いと刈り込み、そしてあらゆる種類の精錬を経た後に、ただ真に従順であったということを意味する。そのような人の信仰は漠然としておらず、抽象的でもなく、本物である。彼らはしるしや不思議、そして奇跡も見たことがない。彼らは難解な文字や教義あるいは深遠な洞察について話さない。その代わり、彼らには実在性さらに神の言葉、そして神の実在についての本物の認識がある。そのような集団は、神の力を一層明らかにすることができないであろうか。終わりの日の神の働きは、実際の働きである。イエスの時代に、イエスは人を完全にするためではなく、人を贖うためにやって来た。したがって、イエスは人々を自身に従わせるためにいくつかの奇跡を見せた。なぜなら、イエスはおもに磔という働きを完了するためにやってきたのであり、しるしを示すことは彼の使命の働きの一部ではなかった。そのようなしるしや不思議は、イエスの働きを効果的にするために行われた働きであった。それらは追加的な働きであり、その時代全体の働きを表すものではなかった。旧約聖書の律法の時代においては、神はいくつかのしるしや不思議を示した。しかし、神が今日行う働きは、実際の働きであり、神は今や、決してしるしや不思議を示さない。神がしるしや不思議を示したとすれば、神の実際の働きは掻き乱され、神はそれ以上の働きを行うことができなくなるであろう。もし神が言葉を用いて人を完全にすると言いながら、しるしや不思議も示したとしたら、人が神を真に信じるかどうかを明らかにすることができるであろうか。したがって、神はそのようなことは行わない。人の内面には宗教的なものがあふれている。人の内面にある宗教的な観念や超自然的な事柄のすべてを追い出し、人に神の実在性を知らしめるために、終わりの日に神はやって来た。抽象的で空想的な神のイメージを、言い換えれば、全く存在しない神のイメージを取り去るために、神はやって来た。したがって、今や、唯一の貴重な事とは、あなたが実在性について認識を持つことである。真理は、あらゆるものより優先する。あなたは今日、どれだけ多くの真理を持っているだろうか。しるしや不思議を示すものはすべて神なのか。悪霊もしるしや不思議を示すことができる。彼らはすべて神なのか。神への信仰において、人が求めるのは真理であり、追求するのはいのちである。しるしや不思議ではない。これが神を信じる人すべての目標でなければならない。
『神の出現と働き』「すべては神の言葉が達成する」(『言葉』第1巻)
日々の神の御言葉 抜粋 38
当時、イエスの働きは全人類を贖う働きだった。イエスを信じるすべての人の罪は赦され、あなたがイエスを信じる限り、イエスはあなたを贖っただろう。イエスを信じるなら、もはや罪ある人ではなく、罪から解放されたのである。これが救われるということ、信仰によって義とされるということである。しかし、信じている人たちの中には反抗的で、神に逆らうものが残っており、それはやはり徐々に取り除く必要があった。救いとは、人が完全にイエスのものとなったことを意味したのではなく、その人がもう罪の中におらず、罪を赦されたことを意味した。信じるならば、もう罪の中にはいないのである。当時、イエスは弟子たちにとって不可解な働きを多数行ない、人々には理解できないことを数多く言った。これは当時イエスが何一つ説明しなかったからである。そのため、イエスが去ってから数年後、マタイがイエスの系図を作り、他の者も人間の意志による働きを数多く行なった。イエスは人を完全にして自分のものとするために来たのではなく、働きの一段階を行なうために来たのである。それは天の国の福音をもたらし、磔刑の働きを完成させることであり、イエスが十字架にかけられた時点でその働きは完了している。しかし、現在の段階、つまり征服の働きにおいては、より多くの言葉が語られ、より多くの働きがなされ、そして多くの過程を踏まなければならない。イエスとヤーウェの働きの奥義も明らかにされ、それによってすべての人が信仰において理解と明瞭さを得られるようにしなければならない。なぜなら、それは終わりの日の働きで、終わりの日は神の働きの終わりであり、働きが完了するときだからである。働きのこの段階はあなたに対し、ヤーウェの律法とイエスの贖いを明確にするだろう。この働きはおもに、あなたが神の六千年にわたる経営(救いの)計画の全体像を理解し、六千年の経営計画の意義と本質をすべて理解し、イエスによってなされたすべての働きとイエスが語った言葉の目的、そして聖書に対するあなたの盲目的な信頼と崇拝さえも理解するためである。それにより、あなたはそのすべてを完全に理解できるだろう。イエスによってなされた働きと今日の神の働きの両方を理解するようになるだろう。すべての真理、いのち、そして道を理解し、目の当たりにするだろう。イエスによってなされた働きの段階で、イエスはなぜ締めくくりの働きを行なわずに去ったのだろうか。それは、イエスによる働きの段階が完了の働きではなかったからである。イエスが十字架に釘付けにされたとき、イエスの言葉もまた終わりを迎えた。磔刑の後、イエスの働きは完全に終わったのである。現段階は違う。言葉が最後まで語られ、神の働きの全体が完了したあと、そこでようやく神の働きは終わる。イエスによる働きの段階の期間、多くの言葉が語られないままだったか、あるいは明確に述べられなかった。しかしイエスの職分は言葉による職分ではなかったため、イエスは自分が何を語って何を語らなかったかは気にかけず、そのため、十字架にかけられた後に去って行った。その段階の働きはおもに磔刑のためであり、現段階とは異なる。この現段階の働きは、基本的には完了すること、片づけること、そしてすべての働きを終結させるためのものである。もし言葉が最後の最後まで語られないなら、この働きを終える術はないだろう。この段階の働きにおいて、すべての働きは言葉を用いて終わり、達成されるからである。当時、イエスは人に理解できない数多くの働きを行なった。イエスは静かに去り、今日依然としてイエスの言葉を理解できない人が多数いる。彼らの理解は間違っているが、それでも彼らは正しいと信じており、間違っていることを知らない。最後の段階は神の働きを完全に終わらせ、その終結をもたらすだろう。すべての人が神の経営計画を理解し、知るようになるだろう。人の中にある観念、意図、間違っている馬鹿げた理解、ヤーウェとイエスの働きに関する観念、異邦人についての見方、そしてその他の逸脱と間違いは正されるだろう。そして人は人生の正しい道、神によってなされた働き、および真理をすべて理解するだろう。そうなったとき、この段階の働きは終わりを迎える。ヤーウェの働きは世界の創造であり、始まりだった。この段階の働きは働きの終わりであり、終結である。最初に、神の働きはイスラエルの選民のあいだで実行され、最も聖なる地における新しい時代の夜明けだった。最後の段階の働きは、世界を裁き、時代を終わらせるために最も汚れた国で実行される。最初の段階において、神の働きは最も明るい地で行なわれたが、最後の段階は最も暗い地で実行され、この暗闇は一掃され、光がもたらされ、すべての人が征服される。この最も汚れた、最も暗い場所にいる人々が征服され、すべての人が神の存在と誰が真の神であるかを認め、あらゆる人がすっかり確信したとき、この事実は征服の働きを全宇宙で行なうのに用いられるだろう。この段階の働きは象徴的である。ひとたびこの時代の働きが終わると、六千年にわたる経営の働きは完全に終わりを迎える。ひとたび最も暗いこの場所にいる人々が征服されると、他のあらゆる場所でもそうなることは言うまでもない。そのように、中国における征服の働きだけが、象徴としての意味をもつ。中国は闇のすべての勢力を具現化しており、中国の人々は肉なる者、サタンの者、そして血肉による者を表わしている。赤い大きな竜によって最も堕落させられ、神に最も反抗し、人間性が最も卑しく汚れているのは中国人である。だから彼らは堕落した全人類の典型なのである。これは、他の国々にはまったく問題がないということではない。人間の観念はどれも同じである。他国の人々は優れた素質をもっているかもしれないが、神を知らなければ、彼らは神に逆らっているはずである。なぜユダヤ人も神に逆らい、神を拒んだのか。なぜパリサイ人も神に逆らったのか。なぜユダはイエスを裏切ったのか。当時、弟子の多くはイエスのことを知らなかった。なぜ人々は、イエスが十字架にかけられ、そして復活した後でさえもイエスを信じなかったのか。人間の不服従はどれも同じではないのか。中国の人々は単にひとつの例にされたというだけである。征服されたとき、彼らは模範、見本となり、他の人々の参考として役立つだろう。あなたがたはわたしの経営計画の付属物であると、わたしが常に言ってきたのはなぜか。堕落、汚れ、不義、敵対、そして反抗が最も完全に現われ、あらゆる形で示されているのは、中国の人々においてである。中国人は素質に乏しい一方、中国人の生活と考え方は遅れており、習慣、社会環境、そして生まれ育った家族など、すべてが劣っており、最も遅れている。地位もまた低い。この場所での働きは象徴的で、この試験的な働きがすべて実行された後、神の次の働きはずっと簡単になるだろう。もしこの段階の働きが完了し得るなら、次の働きもそうなるのは言うまでもない。この段階の働きが達成されたなら、大いなる成功がおさめられ、全宇宙におよぶ征服の働きは完全に終わりを迎えるだろう。
『神の出現と働き』「神の働きのビジョン(2)」(『言葉』第1巻)
日々の神の御言葉 抜粋 39
恵みの時代はイエスの名と共に始まった。イエスが自身の職分を始めたとき、聖霊はイエスの名に対する証しを始め、ヤーウェの名はもはや語られなかった。その代わり、聖霊はおもにイエスの名のもとに新しい働きに着手した。神を信じる人たちの証しはイエス・キリストのためになされ、彼らが行なった働きもまたイエス・キリストのためだった。旧約聖書における律法の時代の終わりは、おもにヤーウェの名のもとで行なわれた働きが完結したことを意味していた。その後、神の名はもはやヤーウェではなくなった。神は代わりにイエスと呼ばれ、それ以降、聖霊はおもにイエスの名のもとで働きを始めることになった。人々は今日もなおヤーウェの言葉を飲み食いし、いまだに律法の時代の働きにしたがってあらゆることを行なっているが、あなたは盲目的に規則に従っているのではないか。過去から抜け出せずにいるのではないか。現在、あなたがたは終わりの日が来たことを知っている。イエスが来るとき、彼はやはりイエスと呼ばれるということなのか。ヤーウェはイスラエルの人々にメシアが来つつあると言ったが、メシアが本当に来たとき、それはメシアでなくイエスと呼ばれた。イエスは、自分は再び来る、去ったときと同じように現われると言った。これらはイエスの言葉だが、あなたはイエスの去り方を見たのか。イエスは白い雲に乗って去ったが、白い雲に乗って自ら人々のもとに戻ってくるということなのか。そうであれば、やはりイエスとは呼ばれないのだろうか。イエスが再び来るとき、時代はすでに変わっているが、それでもやはりイエスと呼ばれることがあり得るのか。神はイエスという名でしか知られないということなのか。神が新しい時代に新しい名で呼ばれることはないのか。ひとりの人の姿とある特定の名前が神の全体を表わすことができるのか。それぞれの時代、神は新しい働きを行ない、新しい名で呼ばれる。どうして神が異なる時代に同じ働きを行なえるのか。どうして神が古いものにしがみつけるというのか。イエスの名は贖いの働きのために使われたが、それならば終わりの日にイエスが再臨するとき、依然として同じ名前で呼ばれるのだろうか。イエスはまだ贖いの働きを行なっているのだろうか。ヤーウェとイエスは一つでありながら、異なる時代に異なる名前で呼ばれるのはなぜか。それは働きの時代が違うからではないのか。一つの名前で神の全体を表わすことができるのだろうか。そのようなわけで、神は異なる時代に異なる名前で呼ばれなければならず、名前を使って時代を変え、時代を表わさなければならない。なぜなら、一つの名前だけで神を完全に表わすことはできず、それぞれの名前はある時代における神の性質の一時的な側面しか表わせないからである。必要なのは、神の働きを表わすことだけである。よって、神は時代全体を表わすために、どんな名前であれ自身の性質に合う名前を選ぶことができる。ヤーウェの時代であれ、イエスの時代であれ、それぞれの時代は名前によって表わされている。恵みの時代の終わりに最後の時代が来て、イエスはすでに到来した。それなのに、神はどうしていまだにイエスと呼ばれ得るのか。どうして人々のあいだでイエスの姿をとれるのだろうか。イエスはナザレ人の姿に過ぎなかったことを忘れたのか。イエスは人類の贖い主でしかなかったことを忘れたのか。どうしてイエスが終わりの日に人を征服し、完全にする働きに取り組めるというのか。イエスは白い雲に乗って去って行った。それは事実である。しかし、イエスが白い雲に乗って人間のもとに帰ってきて、依然イエスと呼ばれることなどどうしてあり得ようか。イエスが本当に雲に乗って来たなら、人間が認識できないのはどういうことだろうか。世界中の人々がイエスを認識するのではないだろうか。その場合、イエスだけが神だということになるのではないか。その場合、神の姿はユダヤ人の外見であり、またそれ以上に、永遠に同じということになるはずだ。イエスは、自分は去ったときと同じように来ると言ったが、その言葉の本当の意味をあなたは知っているのか。あなたがたの集団に告げたということがあり得るのか。あなたが知っているのは、イエスは去ったときと同じく、雲に乗って来るということだけである。しかし、神自身がいかに自分の働きを行なうのか、あなたは正確に知っているのか。あなたが本当にわかっているのなら、イエスが語った言葉はいかに説明されるのか。イエスは、「人の子が終わりの日に来るとき、人の子自身それを知らず、天使たちも知らず、天の御使たちも知らず、すべての人も知らない。ただ父だけが知っている。つまり、霊だけが知っている」と言った。人の子自身でさえ知らないというのに、あなたは知り、見ることができるのか。あなたが自分の目で見て知ることができるのであれば、これらの言葉は無駄に語られたことにならないだろうか。そしてその際、イエスは何と言ったのか。「その日、その時は、だれも知らない。天の御使たちも、また子も知らない、ただ父だけが知っておられる。人の子の現れるのも、ちょうどノアの時のようであろう。……だから、あなたがたも用意をしていなさい。思いがけない時に人の子が来るからである。」その日がいつ来るのかは、人の子自身も知らない。人の子とは神の受肉した肉体のことであり、普通で平凡な人である。人の子自身でさえ知らないのに、どうしてあなたが知り得るのか。イエスは、去った時と同じように来ると言った。いつ来るのかは、イエス自身も知らないのである。ならば、イエスがあなたに前もって知らせることができるだろうか。あなたは彼の到来を見ることができるのか。それは冗談ではないのか。
『神の出現と働き』「神の働きのビジョン(3)」(『言葉』第1巻)
日々の神の御言葉 抜粋 40
神は地上に来るたび、自身の名前、性別、姿、働きを変えるものの、自身の働きを繰り返すことはない。神は常に新しく、決して古くない神である。以前に来たとき、神はイエスと呼ばれた。再び到来した今回、神はやはりイエスと呼ばれ得るのか。以前に来たとき、神は男性だった。今回も男性であり得るのか。神が恵みの時代に来たとき、その働きは十字架にかけられることだった。神が再び来るとき、依然として人類を罪から贖い得るのか。再び十字架にかけられ得るのか。それは自身の働きを繰り返すことではなかろうか。神は常に新しく、決して古くないことを知らないのか。神は不変だという人たちがいる。それは正しいが、そのことは神の性質と本質が変わらないことを指している。神の名前と働きの変化は、神の本質が変わったことを証明しているのではない。言い換えるなら、神は常に神であり、これは決して変わらない。神の働きは決して変わらないと言うのなら、神が六千年にわたる自身の経営(救いの)計画を終えることはできるだろうか。あなたは神が永遠に不変であることしか知らないが、神は常に新しく決して古くないことを知っているのか。神の働きが決して変わらないなら、神は人類を現代までずっと導くことができただろうか。神が不変なら、すでに二つの時代の働きを行なったのはなぜか。神の働きは止まることなく前進している。つまり、神の性質が徐々に人間に明かされており、そして明かされているのは神の本来の性質である。最初のころ、神の性質は人から隠されていて、神は決して自身の性質を人に公然と明かさず、人は神についての認識がまったくなかった。そのため、神は働きを用いて自身の性質を徐々に人に明かした。しかし、そのように働くことは、神の性質が時代ごとに変化するという意味ではない。神の旨が常に変わるために、神の性質が絶えず変化しているということではない。むしろ、神の働きの時代が異なるため、神は自身の本来の性質全体を一つひとつ人に明かし、それによって人は神を知ることができるのである。しかしそれは、神がもともと特有の性質をもたないことの証明でも、神の性質が時代と共に徐々に変わっていったことの証明でもない。そのような理解は間違いだと言えよう。時代の移り変わりに応じて、神は人に対し、自身だけがもつ固有の性質、すなわち神そのものを明らかにする。一つの時代の働きで神の性質全体を表現することはできない。だから「神は常に新しく、決して古くない」という言葉は神の働きを指しているのであり、また「神は不変である」という言葉は、神が本来所有するものと神そのものを指しているのである。いずれにせよ、六千年の働きを一点に絞ることはできないし、死んだ言葉で限定することもできない。そのようなことは人間の愚かさである。神は人が想像するほど単純ではないし、神の働きが一つの時代に留まることもあり得ない。たとえば、ヤーウェは常に神の名前を表わすわけではない。神はイエスの名のもとでも働くことができる。そのことは、神の働きが常に前へと進んでいることのしるしである。
神は常に神であり、決してサタンになることはない。サタンは常にサタンであり、決して神になることはない。神の知恵、神の素晴らしさ、神の義、そして神の威厳は決して変わることがない。神の本質、神が所有するものと神そのものは決して変わることがない。しかし、神の働きについて言えば、それは常に前へと進んでおり、絶えず深化している。神は常に新しく、決して古くないからである。神は時代ごとに新しい名前を名乗り、時代ごとに新しい働きを行ない、また時代ごとに、被造物に対して自身の新しい旨と新しい性質を見せる。新しい時代において、もし人々が神の新しい性質の表われを見られなければ、彼らは永遠に神を十字架にかけるのではないだろうか。またそうすることで、神を定義するのではないだろうか。もしも神が男性としてのみ受肉したならば、人々は神を男性として、男たちの神として定義し、女たちの神だとは決して信じないはずだ。すると男たちは、神は自分たちと同じ性別であり、男たちの長であるとするだろう。しかし、女たちにとっては何になるのか。これは不公平であるし、えこひいきではないか。そうであれば、神が救ったすべての人は神と同じ男ということになり、女は一人も救われないということになる。神は人類を創造したとき、アダムを創り、そしてエバを創った。神はアダムだけを創造したのではなく、自分にかたどって男と女の両方を創ったのである。神は男たちだけの神ではなく、女たちの神でもある。神は終わりの日における新たな働きの段階に入っている。神は自身の性質をより一層明らかにするが、それはイエスの時代の憐れみと愛ではない。神の手には新たな働きがあるので、それは新たな性質を伴う。ゆえに、もしもこの働きが霊により行なわれたならば、つまり神が受肉せず、代わりに霊が雷鳴を通じて直接語り、人間には神と直接接触する術がないようにしたならば、人間は神の性質を知ることができるだろうか。もしもこの働きを行なうのが霊だけであれば、人間に神の性質を知る術はないだろう。人々が神の性質を自らの目で見ることができるのは、神が肉となるとき、言葉が肉において現われるとき、そして神が自身の性質全体を肉によって表現するときだけである。神は本当に、真に人間のあいだで暮らしている。神は触れることができ、人間は神の性質、および神が所有するものと神そのものと実際に関わりをもつことができる。そうすることでのみ、人間は真に神を知るようになるのである。また同時に、神は「男たちの神であり、女たちの神である」という状態での働きを完了させ、肉における自身の働きを残らず成し遂げた。
『神の出現と働き』「神の働きのビジョン(3)」(『言葉』第1巻)
日々の神の御言葉 抜粋 41
神の経営のすべてにおよぶ神の働きは完全に明白である。恵みの時代は恵みの時代であり、終わりの日は終わりの日である。それぞれの時代には明確な違いがある。と言うのも、神はそれぞれの時代にその時代を表わす働きを行なうからである。終わりの日の働きがなされるには、その時代を終わらせる燃焼、裁き、刑罰、怒り、破壊がなければならない。終わりの日は最後の時代を指している。最後の時代において、神は時代を終わらせないのか。時代を終わらせるため、神は自ら刑罰と裁きをもたらさなければならない。このようにしてのみ、神は時代を終わらせることができる。イエスの目的は、人が生存して生き続けられるようにすること、そしてより良い方法で存在できるようにすることだった。人が堕落に陥るのをやめ、それ以上ハデスと地獄の中で生きることがないよう、イエスは人間を罪から救い、また人間をハデスと地獄から救い出すことで、その人が生き続けられるようにした。今や終わりの日は来ている。神は人を絶滅させ、人類を完全に滅ぼすだろう。つまり、神は人類の反逆心を変えるのである。そのため、神が憐れみ深く愛に満ちたかつての性質をもって時代を終わらせるのは不可能であり、六千年にわたる経営計画を結実させることもできないだろう。すべての時代は神の性質の特別な表われを特徴とし、すべての時代は神によってなされるべき働きを含んでいる。したがって、それぞれの時代で神自身によってなされる働きは神の真の性質の表現を含んでおり、神の名前と神の行なう働きはいずれも時代とともに変わり、それらはすべて新しい。律法の時代、人類を導く働きはヤーウェの名のもとになされた。そして第一段階の働きは地上で始められた。この段階において、働きは神殿と祭壇を建てること、および律法を用いてイスラエルの人々を導き、彼らのさなかで働くことから成っていた。イスラエルの人々を導くことで、神は地上における働きの拠点を築いた。この拠点から、神は自身の働きをイスラエルの外に拡張させた。すなわち、イスラエルを皮切りに、自身の働きを外に向けて拡張したのである。それにより、後の世代は徐々に、ヤーウェが神であること、天地と万物を造ったのがヤーウェであること、そしてすべての被造物を造ったのもヤーウェであることを知るようになった。神はイスラエルの人々を通じ、自身の働きを外に向けて広めた。イスラエルの地は地上におけるヤーウェの働きの最初の聖なる地であり、神が地上で働きを行なうべく最初に来たのもイスラエルの地だった。それが律法の時代の働きだった。恵みの時代、イエスは人を救う神だった。イエスが所有するものとイエスそのものは恵み、愛、憐れみ、慎み、忍耐、謙遜、思いやり、寛容であり、イエスが行なった働きの多くは人の贖いのためだった。イエスの性質は憐れみと愛であり、イエスは憐れみと慈愛に満ちていたので、人間のために十字架にかけられる必要があった。そうすることで、神は自身のすべてを捧げるほど、人類を自分のように愛していることを示したのである。恵みの時代、神の名はイエスであり、それはつまり、神は人類を救う神であり、憐れみと慈愛に満ちていたということである。神は人と共にいた。神の愛、神の憐れみ、そして神の救いは一人ひとりに伴っていた。イエスの名前と存在を受け入れることでのみ、人は平安と喜びを得ることができ、神の祝福、無数の大いなる恵み、そして救いを受け取ることができたのである。イエスの磔刑を通じ、イエスに従うすべての人が救いを受け、その罪が赦された。恵みの時代、イエスは神の名だった。つまり、恵みの時代の働きはおもにイエスの名のもとでなされたのである。恵みの時代において、神はイエスと呼ばれた。イエスは旧約聖書を越えて新しい働きの段階に着手し、その働きは磔刑で終わった。それがイエスの働きのすべてだった。したがって、律法の時代においてはヤーウェが神の名であり、恵みの時代においてはイエスの名が神を表わした。終わりの日、神の名は全能神、すなわち全能者であり、自身の力で人を導き、人を征服し、人を自分のものとし、最終的にはその時代を終わらせる。どの時代でも、また神の働きのどの段階でも、神の性質は明らかである。
『神の出現と働き』「神の働きのビジョン(3)」(『言葉』第1巻)
日々の神の御言葉 抜粋 42
「神はわたしたちと共におられる」というイエスの名は、神の性質の全体を表わせるだろうか。神を完全に表現できるだろうか。もしも、神は自身の性質を変えることができないので、イエスと呼ばれることしかできず、他の名をもつことはないと人が言うなら、それらの言葉はまさに冒涜である。あなたは、「神は共におられる」というイエスの名前だけで神の全体を表せると信じているのか。神は多くの名で呼ばれ得るが、それらの多くの名前の中に、神のすべてを要約できるものは一つとしてなく、神を完全に表わせるものもない。それゆえ、神は多くの名前をもっているが、これらの多くの名が神の性質を余すところなく明確に表現することはできない。なぜなら、神の性質はあまりにも豊かで、神に関する人の認識能力を完全に越えているからである。人が人間の言語を使うことで、神を完全な形で要約することはできない。神の性質について自分たちが知っているすべてのことを要約するにあたり、人間には限られた語彙しかない。偉大な、りっぱな、驚くべき、計り知れない、至高の、聖なる、義なる、知恵に満ちたなど、何と多くの言葉があることか。この限られた語彙では、人間が神の性質に関して目の当たりにしたことを、ほんの少しでも記述することは不可能である。やがて、自分の心の中の熱情をもっと上手に記述できるはずだと、他の多くの人がさらに言葉を追加した。神はとても偉大だ。神はとても神聖だ。神はとても美しい。今日、人間がこのように言うことはその頂点に達しているが、それでも自分自身を明確に表現できずにいる。だから、人間にとって神には多くの名前があるものの、神がもつのは一つの名前ではない。なぜなら、神の存在はあまりに豊富で、人間の言語はあまりに乏しいからである。ある一つの特定の言葉や名前では、神の全体を表わすことができない。そうであれば、神の名は固定され得るとあなたは考えているのか。神は極めて偉大で聖いのに、神がそれぞれの新しい時代に名前を変えるのを許さないつもりなのか。したがって、神は自ら働きを行なうそれぞれの時代に、自身が行なおうとしている働きを要約するため、その時代に合った名前を用いるのである。神はその時代における自身の性質を表わすために、一時的な意義を有する特定の名前を用いる。これは、神が自身の性質を表現するために人間の言語を用いるということである。たとえそうでも、霊的な体験をして神をじかに見たことがある多くの人は、この特定の名前が神の全体を表わすことはできないと感じている。ああ、何と救いがたいことか。そのせいで、人間はもはや神を名前で呼ぶことはなく、ただ「神」と呼ぶのである。それはあたかも、人間の心が愛であふれていながら、同時に矛盾に悩まされているかのようである。人間は神をいかに説明すればよいか分からないからである。神そのものは極めて豊かなので、それを表現する術はまったくない。神の性質を要約できる一つの名前はなく、神が所有するものと神そのものを余すところなく表現できる一つの名前もないのである。もしも誰かがわたしに「あなたはいったい何という名前を使うのですか」と尋ねるならば、こう答えるだろう。「神は神である」と。これこそが神にとって最良の名前ではないのか。神の性質の最高の要約ではないのか。そうであれば、神の名を求めてなぜそんなに苦労するのか。どうして名前のことで寝食を忘れ、頭脳を振り絞るのか。神がヤーウェ、イエス、あるいはメシアと呼ばれない日がやって来るだろう。神はただ創造主と呼ばれるのである。その時、神が地上で名乗ったすべての名前は終わりを迎える。なぜなら、地上における神の働きが終わり、その後神の名はなくなるからである。万物が創造主の支配下に入るとき、神がどうして適切ではあるが不完全な名前をもつ必要があるのか。あなたは今なお神の名を求めているのか。神はヤーウェとしか呼ばれないとあえていまだに言うつもりか。神はイエスとしか呼ばれないとあえていまだに言うつもりか。神を冒涜する罪を背負えるのか。神は本来どんな名前ももたなかったということを知るべきである。神には行なうべき働きがあり、人類を経営しなければならなかったのだから、一つや二つの、あるいは多くの名前を名乗っただけのことである。どのような名で呼ばれるにしても、神はそれを自ら自由に選んだのではないか。神がそれを決めるのに、被造物の一つであるあなたを必要とするだろうか。神が呼ばれる名前は、人が理解できること、および人の言語に沿うものだが、その名前は人が考え出せるものではない。天には神がいて、それは神と呼ばれ、偉大な力をもつ神自身であり、大いに知恵があり、大いに高められ、大いに素晴らしく、大いに神秘的で、大いに全能であるとしかあなたは言えず、それ以上は言うことができない。あなたが知り得るのはこのわずかなことだけである。そうであれば、たかだかイエスの名だけで神自身を表わすことができるだろうか。終わりの日が来るとき、神の働きは依然として神が行なうものの、時代が異なるので神の名は変わらなければならないのである。
『神の出現と働き』「神の働きのビジョン(3)」(『言葉』第1巻)
日々の神の御言葉 抜粋 43
イエスが自身の働きを行なうために来たとき、それは聖霊の指示によるものだった。イエスは聖霊の望み通りに行ない、それは旧約聖書の律法の時代にしたがうものでも、ヤーウェの働きにしたがうものでもなかった。イエスが来て行なった働きは、ヤーウェの律法やヤーウェの戒めを遵守することではなかったが、それらの源泉は同じ一つのものだった。イエスが行なった働きはイエスの名を表わし、恵みの時代を代表した。ヤーウェによってなされた働きについて言えば、それはヤーウェを表わし、律法の時代を代表した。それらの働きは二つの異なる時代における一つの霊の働きだった。イエスが行なった働きは恵みの時代しか代表できず、ヤーウェが行なった働きは旧約聖書の律法の時代しか代表できなかった。ヤーウェはイスラエルの民とエジプトの民を導き、そしてイスラエル以外のあらゆる国の民を導いただけだった。新約聖書の恵みの時代におけるイエスの働きは、神がその時代を導く中で、イエスの名のもとで行なう働きだった。イエスの働きはヤーウェの働きに基づいていて、新しい働きに一切着手せず、イエスが行なったのはヤーウェの言葉にしたがい、ヤーウェの働きとイザヤの預言にしたがうことだけだったと言うのなら、イエスは肉となった神ではなかったはずだ。仮にイエスがそのような形で自身の働きを行なっていたなら、イエスは律法の時代の使徒もしくは働き手だったはずである。もしもあなたの言う通りなら、イエスは一つの時代を始めることも、他の働きを行なうこともできなかっただろう。同じように、聖霊はおもにヤーウェを通じてその働きを行なわなければならず、またヤーウェを通じてでなければ、いかなる新しい働きもできなかっただろう。人がイエスの働きをこのように理解するのは間違っている。イエスによる働きがヤーウェの言葉とイザヤの預言にしたがってなされたと信じるなら、イエスは受肉した神だったのか、それとも預言者の一人だったのか。この見方によれば、恵みの時代などというものはなく、イエスは神の受肉ではなかったということになる。と言うのも、イエスが行なった働きは恵みの時代を表わすことができず、旧約聖書の律法の時代しか表わせなかったからである。あり得るのは新しい時代だけであり、そのときイエスが来て新しい働きを行ない、新しい時代を始め、イスラエルで以前に行なわれた働きを打ち破り、イスラエルでヤーウェが行なった働き、ヤーウェの古い規則、あるいは何らかの規制にしたがって自身の働きを行なうのではなく、むしろなすべき新しい働きを行なったのである。神自身が時代を始めるために来て、神自身が時代を終えるために来るのである。人は時代を始めたり、時代を終えたりする働きをすることができない。到来したイエスがヤーウェの働きを終わらせなかったら、そのことは、イエスはただの人であり、神を表わすことができなかったという証明になるだろう。イエスが来てヤーウェの働きを終わらせ、ヤーウェの働きを引き継ぎ、またそれ以上に自分自身の働き、つまり新しい働きを行なったからこそ、それは新しい時代で、イエスは神自身だったことが証明される。両者ははっきり異なる二つの段階の働きを行なったのである。一つの段階は神殿の中でなされ、もう一つは神殿の外でなされた。一つの段階は律法にしたがって人の生活を導くことであり、もう一つは罪の捧げ物を供えることだった。これら二つの段階の働きは明確に異なっていた。それは新しい時代と古い時代を分け、それらは二つの異なる時代だと言うのは絶対に正しい。両者の働きの場所は異なり、働きの内容も異なり、働きの目的も異なっていた。そのため、それらは二つの時代に区分することができる。つまり新約聖書と旧約聖書であり、すなわち新しい時代と古い時代である。到来したイエスは神殿に入らなかった。そのことは、ヤーウェの時代がすでに終わっていたことを証明する。イエスが神殿に入らなかったのは、神殿におけるヤーウェの働きが終わっており、再度行なわれる必要がなく、再度行なうことは繰り返しになるからである。神殿を離れ、新しい働きを開始し、神殿の外で新しい道を切り開くことでのみ、イエスは神の働きを絶頂に至らせることができたのである。イエスが神殿の外に出て自身の働きを行なっていなければ、神の働きは神殿の基礎に停滞し、なんら新しい変化は起きなかっただろう。だから到来したイエスは神殿に入らず、神殿の中で働きを行なうこともなかったのである。イエスは神殿の外で自身の働きを行ない、弟子を率いて自由に働きに取り組んだ。神が神殿を離れて働きを行なったことは、神に新しい計画があることを意味していた。神の働きは神殿の外で行なわれることになっており、それは実行する方法に拘束されない新しい働きのはずだった。イエスは到来するやいなや、旧約聖書の時代におけるヤーウェの働きを終了させたのである。両者は二つの異なる名前で呼ばれたが、二つの段階の働きを成し遂げたのは同じ霊であり、なされた働きは継続的なものだった。名前が違い、働きの内容も違っていたように、時代も違っていたのである。ヤーウェが来たとき、それはヤーウェの時代で、イエスが来たとき、それはイエスの時代だった。したがって、神は来るたびに一つの名で呼ばれ、一つの時代を表わし、新しい道を切り開く。それぞれの新しい道において神は新しい名を名乗り、またそのことは、神が常に新しく決して古くないことと、神の働きが絶えず前方に進んでいることを示すのである。歴史は常に前進しており、神の働きは常に前進している。六千年にわたる神の経営計画が終わりを迎えるには、前方へと進み続けなければならない。毎日、神は新しい働きを行なわなければならず、毎年、神は新しい働きを行なわなければならない。神は新しい道を切り開き、新しい時代を始め、新しくさらに偉大な働きを開始し、それらとともに新しい名前と新しい働きをもたらさなければならない。
『神の出現と働き』「神の働きのビジョン(3)」(『言葉』第1巻)
日々の神の御言葉 抜粋 44
「ヤーウェ」はわたしがイスラエルで働きを行なっている間に用いた名前であり、人を憐れみ、人を呪い、人の生活を導くことのできる、イスラエル人(神の選民)の神という意味である。それは偉大な力を有し、英知に満ちた神である。「イエス」はインマヌエルであり、愛に満ち、慈悲に満ち、人を贖う罪の捧げものを意味する。イエスは恵みの時代の働きを行ない、恵みの時代を表すので、経営計画の働きの一部分しか表せない。すなわち、ヤーウェだけがイスラエルの選民の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、モーセの神、イスラエルのすべての民の神なのである。そのため現代では、ユダヤの民を除いたすべてのイスラエル人がヤーウェを崇拝している。彼らは祭壇にヤーウェへのいけにえを捧げ、神殿で祭司の祭服を着てヤーウェに仕える。彼らが望むのは、ヤーウェが再び現れることである。イエスだけが人類の贖い主であり、罪から人類を救った捧げものである。つまり、イエスの名前は恵みの時代に由来し、恵みの時代における贖いの働きゆえに生じたものである。イエスの名前は、恵みの時代の人々が生き返り、救われるために生じたのであり、全人類の贖いのための特別な名前である。ゆえに、イエスという名前は贖いの働きを表し、恵みの時代を意味する。ヤーウェの名前は律法の下で生きたイスラエルの人々のための特別な名前である。各時代、および働きの各段階において、わたしの名前は根拠のないものではなく、代表的な意義がある。それぞれの名前は一つの時代を表す。「ヤーウェ」は律法の時代を表し、イスラエルの人々が崇拝した神の敬称である。「イエス」は恵みの時代を表し、恵みの時代に贖われたすべての人々の神の名前である。人がいまだ、終わりの日に救い主イエスが到来することを待ち望み、ユダヤの地にいたときの姿で到来することを依然として期待するなら、六千年の経営計画全体は贖いの時代で止まり、それ以上進展することはできなかったはずだ。そのうえ、終わりの日は決して到来せず、時代に終止符が打たれることもないだろう。救い主イエスは人類の贖いと救いのためだけにあるからである。わたしがイエスと名乗ったのは、ただ恵みの時代におけるすべての罪人のためだが、わたしが人類全体を終らせるのはこの名によってではない。ヤーウェ、イエス、メシアはすべてわたしの霊を表すが、これらの名前は単にわたしの経営計画の異なる時代を示すものであり、わたしの全体を表すものではない。地上の人々がわたしを呼ぶ名前のどれも、わたしの性質全体、わたしそのもののすべてを明確に示すことはできない。それらは単に、それぞれの時代にわたしが呼ばれる異なる名前にすぎない。だから最後の時代――終わりの日の時代――が来た時、わたしの名前はまた変わるのである。わたしはヤーウェやイエスとは呼ばれないし、ましてやメシアとは呼ばれない。力ある全能神自身と呼ばれ、この名前の下で時代全体を終らせる。わたしはかつてヤーウェとして知られていた。わたしはメシアとも呼ばれ、また、人々はかつて愛と尊敬をもって、わたしを救い主イエスとも呼んだ。しかし今日、わたしはもはや、人々が過去に知っていたヤーウェでもイエスでもない。わたしは終わりの日に戻ってきた神、時代を終らせる神である。わたしは、自身の全性質を余すところなく表し、権威、名誉、栄光に満ちつつ、地の果てから立ち上がる神自身である。人々は一度もわたしと関わったことがなく、わたしを知ったことがなく、ずっとわたしの性質に無知であった。創世から今日に至るまで、わたしを見たことがある者は一人としていない。これは終わりの日に人の前に現れるが、人々のあいだに隠れている神なのである。神は真実かつ現実に、照りつける太陽や燃えさかる炎のように、力に満ち、権威にあふれて人々のあいだに住まう。わたしの言葉によって裁きを受けない人や物は一人としておらず、一つとしてない。燃える火によって清められない人や物は一人としておらず、一つとしてない。最終的に、あらゆる諸国はわたしの言葉のために祝福され、わたしの言葉のために粉々に砕かれもする。このようにして、終わりの日のすべての人は、わたしが戻ってきた救い主であること、わたしが全人類を征服する全能神であることを理解する。また、かつては人のための罪の捧げものであったが、終わりの日にはすべてを灰にする太陽の炎、そしてすべてのものを露わにする義の太陽になることを理解する。それが終わりの日におけるわたしの働きである。わたしはこの名前を名乗り、この性質を持つことで、わたしが義の神、照りつける太陽、そして燃えさかる炎であることをすべての人が理解し、誰もが唯一の真の神であるわたしを崇め、わたしの本当の顔を見られるようにする。わたしはイスラエル人の神であるだけでなく、贖い主であるだけでもない。わたしは天、地、海の至る所にあるすべての被造物の神なのである。
『神の出現と働き』「救い主はすでに『白い雲』に乗って戻ってきた」(『言葉』第1巻)
日々の神の御言葉 抜粋 45
終わりの日に救い主が到来し、依然としてイエスと呼ばれていたら、そして再びユダヤの地に生まれ、そこで働きを行ったとしたら、これはわたしがイスラエルの民だけを造り、イスラエルの民だけを贖い、異邦人とは関係がないことの証明になるだろう。それは「わたしは天地と万物を造った主である」というわたしの言葉と矛盾しないだろうか。わたしはユダヤの地を離れ、異邦人のもとで働きを行う。なぜなら、わたしはイスラエルの民の神というだけでなく、すべての被造物の神だからである。終わりの日、わたしは異邦人のもとに現れる。なぜなら、わたしはヤーウェ、つまりイスラエルの民の神であるだけでなく、それ以上に、異邦人の中にいるわたしの選民全員の創造主だからである。わたしはイスラエル、エジプト、レバノンを造っただけでなく、イスラエルの外にあるすべての異邦人の国々も造った。そのため、わたしはあらゆる被造物の主なのである。わたしは働きの出発点としてイスラエルを使い、ユダヤとガリラヤを贖いの働きの拠点として用いたに過ぎず、そして現在、異邦人の国々を、時代全体を終らせる起点として使うだけである。わたしはイスラエルで二段階の働き(律法の時代の働きと、恵みの時代の働きの二段階)を行い、イスラエルの外のあらゆる地でさらに二段階の働き(恵みの時代と神の国の時代)を行ってきた。わたしは異邦人の国々で征服の働きを行ない、時代を終らせる。人がいつまでもわたしをイエス・キリストと呼び、わたしが終わりの日に新しい時代を始め、新しい働きに着手していることを知らず、取りつかれたように救い主イエスの到来を待ち続けるなら、わたしはこのような人々を、わたしを信じない者と呼ぶ。彼らはわたしを知らない人々で、わたしへの信仰は偽りである。救い主イエスが天から到来するのを、このような人々が目の当たりにできようか。彼らが待っているのはわたしの到来ではなくユダヤ人の王の到来である。彼らは、わたしがこの不純な古い世界を滅ぼすことを切望しているのではなく、むしろイエスの第二の到来を望み、それによって罪から贖われることを願っている。この汚れた不義の地から、イエスが全人類をもう一度贖うことを彼らは切望している。このような人々が、どうして終わりの日にわたしの働きを完成させる者になれようか。人の願望はわたしの望みを満たすことも、わたしの働きを完成させることもできない。人は、わたしが以前になした働きを賞賛し、大切にするだけで、わたしがいつも新しく、決して古くない神自身であることにまったく気づいていないからである。人は、わたしがヤーウェでイエスであることを知っているだけで、わたしが最後に人類を終わらせる、終わりの日の者であることに少しも感づいていない。人が熱望し、知っていることはどれも自身の観念から生じており、自分の目で見ることができるものに過ぎない。それはわたしの働きと一致しておらず、調和していない。わたしの働きが人の考えに沿ってなされるとしたら、いつ終わるだろう。いつ人類は安息に入るだろう。そしてわたしはどうしたら7日目の安息日に入ることができるだろう。わたしは、わたしの計画に沿って、そしてわたしの目的に沿って働くのであり、人の意図に沿って働くことはしない。
『神の出現と働き』「救い主はすでに『白い雲』に乗って戻ってきた」(『言葉』第1巻)