第1節 神の三段階の働き

日々の神の御言葉 抜粋 1

わたしの全経営(救いの)計画、六千年にわたる経営計画は三段階、あるいは三時代から成る。それは始まりの律法の時代、次に恵みの時代(贖いの時代でもある)、そして終わりの日の神の国の時代である。これら三時代におけるわたしの働きは、各時代の性質によって異なるが、それぞれの段階においてこの働きは人間の必要性に対応している。正確には、わたしがサタンに対して行なう戦いでサタンが用いる策略に応じて働きは行われる。わたしの働きの目的は、サタンを打ち負かし、わたしの知恵と全能を明らかにし、サタンの策略をすべてあばくことであり、それによりサタンの支配下に生きる人類全体を救うことである。それはわたしの知恵と全能を示し、サタンの耐え難いおぞましさを明らかにするものである。それに加えて、被造物が善悪を区別し、わたしこそが万物を治める者であることを認識し、サタンが人類の敵であり、下の下、悪い者であることをはっきりと見極められるようにし、善と悪、真理と偽り、聖さと汚れ、偉大さと卑劣の違いを絶対的な明白さをもって区別できるようにすることである。それにより無知な人類は、人類を堕落させるのはわたしではなく、創造主であるわたしだけが人類を救うことができ、人々が享受できるものを彼らに授けることができることをわたしに証しし、わたしこそがすべてを治める者であり、サタンは後にわたしに背いたわたしの被造物の一つにすぎないと人類は知ることができる。わたしの六千年の経営計画は三段階に分けられており、わたしがそのように働くのは被造物がわたしの証人となり、わたしの心を知り、わたしこそが真理であることを知らしめるという成果を達成するためである。したがって、わたしの六千年にわたる経営計画における最初の働きのあいだ、わたしは人々を導いたヤーウェの働きである律法の働きを行なった。第二段階では、ユダヤの村々において恵みの時代の働きが始まった。イエスは恵みの時代におけるすべての働きを表した。イエスは受肉し、十字架につけられ、恵みの時代を開始した。イエスは贖いの働きを完成させ、律法の時代を終了させ、恵みの時代を開始するために十字架にかけられ、そのため「最高司令官」「罪のいけにえ」「贖い主」と呼ばれた。したがって、イエスの働きはヤーウェの働きと中身は異なっていたけれども、原則においては同じである。ヤーウェは律法の時代を開始し、地上における神の働きの拠点、発祥地を定め、律法と戒めを発した。これらがヤーウェが行なった二つの働きであり、それは律法の時代を代表する。イエスが恵みの時代に行なった働きは律法を発することではなく、それらを成就し、それによって恵みの時代が到来したことを告げ、二千年続いた律法の時代を終結させることであった。イエスは恵みの時代をもたらすために来た先駆者であったが、その働きの中心は贖いであった。よってイエスの働きもまた二つの部分から成る。それらは新しい時代を切り開くこと、そして十字架刑を通して贖いの働きを完成させることである。その後、イエスは去った。これで律法の時代は終わり、恵みの時代が始まった。

『言葉は肉において現れる』の「贖いの時代における働きの内幕」より引用

日々の神の御言葉 抜粋 2

神の経営の六千年の働きは、律法の時代、恵みの時代、神の国の時代というように三段階に分かれている。これら三段階の働きはすべて人類の救いのためである。すなわち、それらはサタンによってひどく堕落させられてきた人類の救いのためである。けれども、それは同時に、神がサタンと戦うためでもある。したがって、ちょうど救いの働きが三段階に分かれているように、サタンとの戦いも三段階に分かれおり、この二つの側面の神の働きが同時に行われる。サタンとの戦いは実際、人類の救いのためであり、また、人類の救いの働きは一つの段階ではうまく完成できるものではないから、サタンとの戦いもまた段階と期間に分けられている。そして戦いは、人間の必要とサタンによる人間の堕落の程度に応じて、サタンに対して遂行される。おそらく人は、二つの軍勢が戦うように、神がサタンに向かって武器を取って戦うのだろうと想像の中で考えているだろう。人の知恵はこれくらいしか想像することができない。それはこの上なく曖昧で、非現実的な考えであるが、それが人の信じることである。そして、人の救いの手段はサタンとの戦いを通してである、とわたしがこうして言うので、人はそのような戦いの様子を想像する。人の救いの働きは三段階で実行された。すなわち、サタンとの戦いは、サタンが完全に打ち負かされる前に三段階に分割されたということである。しかし、サタンとの戦いにおける全ての働きに秘められた真理は、人に恵みを施し、人の罪祭となり、人の罪を赦し、人を征服し、人を完全にするといういくつかの段階を通してその効果が達成されるということである。実際、サタンとの戦いは、サタンに武器を持って立ち向かうものではなく、人の救い、人のいのちへの働き、人の性質を変えることであり、それにより人が神を証しすることである。サタンはこのようにして打ち負かされるのである。人の堕落した性質を変えることを通してサタンは打ち負かされる。サタンが敗北すると、つまり、人が完全に救われると、そのとき辱めを受けたサタンは完全に縛られ、こうして人は完全に救われることになる。ゆえに、人の救いの実質はサタンとの戦いであり、サタンとの戦いはおもに人の救いに反映される。人が征服される終わりの日の段階は、サタンとの戦いの最終段階であり、また、人をサタンの領域から完全に救う働きでもある。人の征服の秘められた意味は、サタンの化身、つまりサタンに堕落させられた人間が征服に引き続いて造り主に戻ることであり、これにより人はサタンを見捨て、完全に神に戻る。このようにして、人は完全に救われるだろう。したがって、征服の働きはサタンとの戦いにおける最後の働きであり、サタンを打ち負かすための、神の経営における最終段階である。この働きがなくては、人の完全な救いは最終的には不可能で、サタンの完全敗北もまた不可能になるであろう。そして、人類は決して素晴らしい終着点に入ることができず、サタンの影響から自由になることもできないだろう。従って、人の救いの働きを、サタンとの戦いが終結する前に完了することはできない。というのは神の経営の働きの核心は人類の救いであるからである。最初の人類は神の手の中にあったが、サタンによる誘惑と堕落によって、人はサタンに縛られ、悪しき者の手中に落ちてしまった。こうしてサタンは、神の経営の働きにおいて、打ち負かす対象となった。サタンは人間を自分の所有物としたが、人は神の全経営の資本であるので、人が救われるには、サタンの手から取り戻されなければならない。すなわち、人間はサタンの虜となった後に連れ戻されなければならないのである。かくして、サタンは、人間の古い性質の変化、人間の本来の理知を回復する変化によって打ち負かされなければならず、こうして、虜となっていた人間をサタンの手から取り戻すことができる。もし人がサタンの影響や束縛から自由になると、サタンは辱められ、人は最終的に取り戻され、サタンは打ち負かされるであろう。そして人はサタンの暗闇の影響から解放されたので、人はこのすべての戦いの戦利品となり、この戦いが終わるとサタンは懲罰の対象となるそのとき、人類を救う働きのすべてが完了するのである。

『言葉は肉において現れる』の「人間の正常な生活を回復し、素晴らしい終着点に連れて行く」より引用

日々の神の御言葉 抜粋 3

神は被造物に対して悪意はなく、サタンを打ち負かすことだけを願っている。神の働きのすべては――それが刑罰であろうと裁きであろうと――サタンに向けられている。それは人類の救いのために実行され、すべてサタンを打ち負かすためであり、目的はひとつである。それはサタンと最後まで戦うことである。そして神はサタンに勝利するまで、決して休むことはない。神はサタンを打ち負かして初めて休息する。神によってなされるすべての働きはサタンに向けられており、また、サタンに堕落させられた人たちはすべてサタンの領域で支配され、みなサタンの領域で生きているので、サタンと戦ってそれを断ち切ることがなければ、サタンはその人たちへの掌握をゆるめないだろうし、彼らが神のものとされることもないだろう。もし彼らが神のものとされなかったら、それはサタンが打ち負かされておらず、征服されていないことの証明となるだろう。したがって、神の六千年の経営計画の最初の段階で、神は律法の働きをなし、第二段階で恵みの時代の働き、すなわち、十字架の業をなし、第三段階では、人類征服の働きをなした。このすべての働きは、サタンが人類を堕落させた度合いに応じており、それはすべてサタンを打ち負かすためであり、サタンを打ち負かすためではない段階は一つもない。神の経営の六千年の働きの実質は、赤い大きな竜に対する戦いであり、人類を経営する働きもまたサタンを打ち負かす働き、サタンと戦いを交える働きである。神は六千年も戦い、このようにして、人を最終的に新しい領域に連れて行くため六千年も働いてきた。サタンが打ち負かされるとき、人は完全に自由になる。これこそ現在の神の働きの方向ではないだろうか。これこそ正に現在の働きの方向である。つまり、人を完全に解放し自由にすることである。その結果、人はどんな規則にも支配されず、あらゆる束縛や抑制にも制限されなくなる。この働きのすべてはあなたがたの霊的背丈とあなたがたの必要に応じてなされる。つまりそれは、あなたがたが達成できるものは何であれ与えられるという意味である。それは、「アヒルを追いやって木に止まらせる」というような、あなたがたに何かを課すものではない。そうではなく、このすべての働きは、あなたがたの実際の必要に応じて実行されるのである。それぞれの段階の働きは、人の実際の必要や人への要求とに応じてなされる。働きのそれぞれの段階はサタンを打ち負かすためなのである。実際、初めは造り主と彼の創造物との間に壁はなかった。それらはすべてサタンが引き起こしたのである。人はサタンによる妨害と堕落によって何も見えなくなり、何も触ることができなくなった。人は犠牲者であり、欺かれた者である。サタンが敗北すると、被造物は造り主を見上げ、造り主は被造物に目を注ぎ、自ら彼らを導くことができる。唯一これのみが、人が地上で送るべき生活である。したがって、神の主な働きはサタンを打ち負かすことであり、サタンが敗北すると、すべてが解決される。

『言葉は肉において現れる』の「人間の正常な生活を回復し、素晴らしい終着点に連れて行く」より引用

日々の神の御言葉 抜粋 4

神の経営計画の働きの全ては神自身によって直接行われた。第一段階、即ち世界創造のあとの律法の時代の働きは、神自身によって直接行われた。神はモーセをもちいて律法を公布した。全人類を贖うという第二段階もまた受肉した神によって直接行われた。肉となった神以外には、それを行なう資格のある者は誰もいない。第三段階は言うまでもない――神のすべての働きを終わらせるためには、なおさら神自身が働くことが必要となる。全人類を贖い、征服し、獲得し、完全にする働きは、すべて神自身が直接遂行する。もし彼がこの働きを自ら行わないなら、彼の身分を人によって表すことはできないし、彼の働きが人によってなされることもないだろう。サタンを打ち負かし、人類を獲得するために、また、地上で正常な生活を人に与えるために、神は自ら人を導き、人の間で働く。神のすべての経営計画とすべての働きのために、神は自らこの働きをしなければならない。もし人が、神が来たのは人に見られるため、また人を嬉しがらせるためであるとしか思わないなら、そのような認識には何の価値もなく、また何の意味もないだろう。人の認識はあまりにも浅い。神が自ら遂行して初めて、この働きは余すところ無く完全に行われるのである。人が神に代わってそれをすることはできない。人は神の身分も本質も持っていないので、神の働きをすることは不可能である。たとえ人がそれをしたとしても、何ら効果はないだろう。最初に神が肉となったのは贖いのためであり、それはすべての人間の罪を贖い、人間が清められること、その罪が赦されることを可能にするためであった。征服の働きも神自らによって人の中でなされる。もし、この段階の間、神が預言しか語らないのであれば、預言者か、誰か賜物のある者を見つけて、その人が神に代わることもできよう。もし預言のみが語られるなら、人は神の代役を務めることができよう。しかし、もし神自身の働きを人が自らなし、人が人間のいのちに働くなら、この働きをなすのは不可能であろう。それは神自らによって直接されなければならない。神はこの働きをなすために自ら肉とならなければならない。ことばの時代に、もし預言しか語られないのであれば、この働きをするために預言者イザヤかエリヤを見つけてくればよいし、神自身が直接それをする必要はないだろう。この段階においてなされる働きは、預言を語ることだけではなく、人を征服し、サタンを打ち負かすために用いられる言葉の働きの方が更に重要なので、この働きは人間には不可能であり、神自身によって直接なされなければならない。律法の時代にヤーウェは神の働きの一部を行い、その後、預言者を通していくつかの言葉を語り、働きをなした。それは人がヤーウェの働きの代役を務めることができ、預言者は物事を預言し、神に代わって夢を解き明かすことができたからである。初めになされた働きは、人間の性質を直接変える働きではなく、人間の罪とも関係がなく、人は律法を守ることだけを要求されていた。それゆえ、ヤーウェが肉となって自らを人に現すことはなかった。そして、ヤーウェはモーセや他の人たちに直接語り、ヤーウェの代わりに彼らに語らせ、働かせ、人々の間で彼らが直接働くようにしたのである。神の働きの第一段階は人を指導することであった。それがサタンとの戦いの始まりだったが、この戦いはまだ正式には始まっていなかった。サタンとの正式な戦いは神の最初の受肉とともに始まったが、それは現在に至るまでずっと続いてきた。この戦いの最初の実例は、受肉した神が十字架に釘付けされた事である。受肉した神が十字架に付けられたことによってサタンは打ち負かされたが、それはこの戦いでの最初の成功段階であった。受肉した神が人のいのちに直接働き始めたときこそが、人を取り戻す働きの正式な始まりであり、これは人間の古い性質を変える働きなので、サタンと戦いを交える働きだった。初めにヤーウェによってなされた働きの段階とは、地上での人間生活の指導に過ぎなかった。それは神の働きの始まりであって、まだいかなる戦いも、いかなる大きな働きも関与していなかったが、それはこれから来る戦いの働きの基盤を築いた。その後、恵みの時代の働きの第二段階には、人間の古い性質を変えることが含まれたが、それは神自らが人のいのちに働いたことを意味している。これは神自らが行わなければならなかった。それは神が自ら肉となることを必要とした。そして、もし彼が肉とならなかったなら、他の誰ひとりとしてこの段階の働きにおいて神に代わることはできなかっただろう。というのは、それはサタンと直接戦う働きを表していたからである。もし、人間が神に代わってこの働きをしたとしたら、人がサタンに立ち向かっても、サタンは服従することはなかっただろうし、サタンを打ち負かすことは不可能だったろう。サタンを打ち倒すのは、受肉した神でなければならなかった。なぜなら、受肉した神の本質は依然として神性であり、神がまとう肉は人間の命を持っており、これこそが造り主の現れであるからだ。何が起ころうとも、神の身分と本質は変わらないのである。したがって、神は肉の形をとって、サタンの完全服従をもたらす働きをなした。終わりの日の働きの段階で、もし人がこの働きをなし、言葉を直接語らなければならないとしたら、人はそれらを語ることはできないだろう。そして、もし預言が語られるなら、人間を征服することは不可能であろう。神は、肉の形をとって、サタンを打ち負かして完全服従させるために来る。彼が完全にサタンを敗北させ、完全に人を征服し、完全に人を神のものとすると、この段階の働きが完了し、働きが成功する。神の経営において、人は神の代役を務めることはできない。特に、時代を導き、新しい働きを始めることは、神自身によって直接なされる必要がある。人に啓示を与えたり、預言を与えたりすることは、人間によってなされることが可能だが、もしそれが、神自らがなすべき働き、また神自身とサタンとの戦いの働きであるなら、人間がこれをなすことは不可能である。働きの第一段階で、サタンとの戦いがないときは、ヤーウェは預言者たちによって語られた預言を用いて、自らイスラエルの民を導いた。その後、第二段階はサタンとの戦いとなり、神自らが肉の中に入り、肉となり、この働きを行った。サタンとの戦いが必要とされることは、何であれ神の受肉も必要とする。つまりそれは、この戦いは人間には行うことができないということである。もし人間が戦うことになれば、サタンを打ち負かすことは不可能であろう。サタンの支配下にある人間に、どうしてサタンと戦う力を持つことができようか。人は真ん中にいる。もしあなたがサタンの方に傾くなら、あなたはサタンに属し、あなたが神を満足させるなら、あなたは神に属す。この戦いの働きを神に代わって人がなすなら、人はそれを成し遂げることができるだろうか。もしそうしていたら、人はとうの昔に滅びていたのではなかろうか。人は黄泉の国にとうの昔に入っていたのではなかろうか。このように、人は神に代わってその働きをなすことはできない。すなわち、人は神の本質を持っておらず、もしあなたがサタンと戦いを交えたなら、サタンを打ち負かすことは不可能であろう。人にはある程度の働きしかできない。人は幾人かを勝ち取ることはできるだろうが、神自身の働きにおいて神の代役を務めることはできない。どうして人間がサタンと戦うことなどできようか。サタンは、あなたが戦い始めるやさきに、すでにあなたを虜にするだろう。神自身がサタンと戦い、このことに基づいて人間が神に従い服従するとき初めて、人は神のものとされ、サタンの束縛から逃れることができる。人が自分自身の知恵、能力で達成できることは、あまりにも限られている。人には人間を完全にしたり、導いたり、さらには、サタンを打ち負かしたりすることは不可能である。人の知能と知恵では、サタンの計略を阻止することなど不可能である。どうして人がサタンと戦うことなどできようか。

『言葉は肉において現れる』の「人間の正常な生活を回復し、素晴らしい終着点に連れて行く」より引用

日々の神の御言葉 抜粋 5

人類を経営する働きは三つの段階に分けられるが、それは人類を救う働きが三つの段階に分けられることを意味している。これら三つの段階には、天地創造の働きは含まれず、むしろ、律法の時代、恵みの時代、そして神の国の時代の三つの段階の働きのことである。天地創造の働きは、人類全体を創り出す働きであった。それは人類を救う働きではなく、人類を救う仕事には関係がなかった。なぜなら、天地創造の時、人類はサタンによって堕落させられておらず、人類を救う働きを実行する必要がなかったからである。人類を救う働きは、人類がサタンに堕落させられた後にようやく始まり、そこで人類を経営する働きも人類が堕落させられた後にようやく始まったのである。言い換えれば、人を経営する神の働きは、人類を救う働きの結果として始まったもので、天地創造の働きから生じたものではない。人類が堕落した性質を持つようになったあと初めて、経営の働きが存在するようになった。だから人類を経営する働きは、四つの段階もしくは四つの時代というよりも三つの部分を含むのである。これこそが人類を経営する神の働きへの正しい言及の仕方である。最後の時代が終わるとき、人類を経営する働きは完全に終わっている。経営の働きの終結は、人類すべてを救う働きが完全に終了し、人類がその旅路の終わりに到達したことを意味する。人類全てを救う働きがなければ、人類を経営する働きも存在しないし、三つの段階の働きもないだろう。それは正に人類の堕落ゆえに、また人類がそれほど性急に救いを必要としていたがために、ヤーウェは天地創造を終わらせ、律法の時代の働きを始めたのである。そうして初めて、人類を経営する働きが始まったのだが、それはつまり、人類を救う働きもそこで初めて始まったことを意味する。「人類を経営する」とは、新たに造られた地上の人類(つまり、まだ堕落させられていない人類)の生活を導くという意味ではない。むしろそれは、サタンによって堕落させられた人類の救いであり、つまりは、この堕落した人類を変化させることである。これが人類を経営することの真意である。人類を救う働きが天地創造の働きを含まないのだから、人類を経営する働きも天地創造の働きを含まず、ただ天地創造とは別の三つの段階の働きだけが含まれる。人類を経営する働きを理解するには、三つの段階の働きの歴史を知ることが必要であるが、これは、救われるために、すべての人が知っていなければならないことである。被造物としてあなたがたは、人は神によって造られたということを認識しなければならないし、人類の堕落の源、さらには人の救いの過程を認識しなければならない。あなたがたがもし、神に喜ばれるために教理に従って行動することだけは知っているが、神がいかにして人類を救うかに関して、あるいは人類の堕落の源を少しも知らないのであれば、あなたがたには被造物としてこの部分が欠けているのである。あなたは、神の経営する働きのより幅広い範囲を知らないままでいるのに、それらの実践できる真理を理解するだけで満足してはならないし、もしそうなら、あなたは教条的すぎるということになる。三つの段階の働きは、神による人の経営の内部事情であり、全宇宙の福音の到来であり、全人類における最大の奥義であり、また福音を述べ伝えることの基盤でもあるのだ。もしあなたが自分のいのちに関係する単純な真理を理解することだけに集中し、この最大の奥義とビジョンに関しては一切知らないとすれば、あなたのいのちは、ただ眺めること以外に役に立たない不良品と言えるのではないか。

もし人が実践することだけに集中し、神の働きと人の認識を二次的なものと見るならば、大したことのない詳細にこだわりすぎて重要なことを見過ごすことと同じではないのか。あなたは、認識すべきことは認識すべきであり、実践すべきことは実践しなければならない。そうして初めてあなたは真理をどのように追及すべきか知る人になるのだ。あなたが福音を述べ伝える日が来た時、「神は偉大な正義の神であり、神は最も優れた神であって、いかなる偉大な人も比較できる者がおらず、それ以上に高い者もいない……」ということしか言えず、これらの見当違いで上辺だけの言葉しか言えず、非常に重要で中身のある言葉を全く話すことができず、神を認識すること、あるいは神の働きについて何も言うことができず、そしてさらには真理を説明すること、あるいは人間に欠けているものを提供することができないのであれば、あなたのような人は、立派にその本分を尽くすことはできない。神を証しし神の国の福音を述べ伝えることは、決して簡単な仕事ではない。あなたは、まず真理を身に付け、理解するべきビジョンを身に付けなければならない。神の働きの様々な側面のビジョンと真理について明確に知っているとき、あなたは心の中で神の働きを認識することになり、神が何をするかに関わらず、例えばそれが正義の裁きでも人を精練することでも、あなたは自らの基盤として最大のビジョンを備え、実践すべき正しい真理を備えることになり、結果として、最後まで神に付き従うことができるようになるのである。あなたは、神の働きが何であれ、その働きの目的は変化せず、神の働きの核心は変化せず、そして神の人に対する心も変わらないことを知らなければならない。神の言葉がどれほど厳しいものであっても、環境がどれほど不利であっても、神の働きの原則は変わらないし、人を救うという神の意図も変わらないのである。それが人の終わり、あるいは人の終着点の啓示ではなく、最終段階の働き、あるいは神の経営(救いの)計画全体を終わりにする働きでもないならば、また神が人に対して働いている最中のことであるならば、神の働きの核心は変わらない。つまりそれは常に人類の救いなのである。これこそがあなたがたの神への信仰の基盤であるべきだ。三つの段階の働きの目的は全人類の救いであり、すなわちそれは人をサタンの領域から完全に救い出すことを意味する。三つの段階の働きには、それぞれ異なる目標と意味があるが、そのいずれもが人類を救う働きの一部であり、人類が必要とするものに応じて実行される異なる救いの働きなのだ。いったんこの三つの段階の働きの目的を知れば、各段階の働きの意味をどのように正しく認識すれば良いかが分かるし、神の心を満たすためにはどのように行動すれば良いかが理解できる。この点に到達することができれば、最終的にこの最大のビジョンが神へのあなたの信仰の基盤になるだろう。あなたは実践のためのたやすい方法、あるいは奥深い真理を追い求めるだけでなく、実践とビジョンを組み合わせるべきだ。そうすれば、実践できる真理とビジョンに基づく知識の両方が在ることになる。そうして初めて、あなたは完全に真理を追求する者になれるのである。

『言葉は肉において現れる』の「神の三つの段階の働きを認識することは神を認識する道である」より引用

日々の神の御言葉 抜粋 6

三つの段階の働きは、神の経営全体の核心にあるもので、その三つの段階の中に、神の性質、そして神であるものが表されているのである。神の三段階の働きを知らない者は、神がどのようにしてその性質を表現するかを理解できないだけでなく、神の働きの英知も知らず、そして神が人類を救う様々なやり方や、人類全体に対する神の心を知らないままでいる。三つの段階の働きは、人類を救う働きの完全な表明といえる。三つの段階の働きを知らない人々は、聖霊の働きの様々な手段や原則を知らないままでいる。つまり、一つの段階の働きからそのまま残っている教義に厳格にこだわる人々は、神を教義に限定する人たちであり、神に対する彼らの信仰は曖昧で不確かである。そのような人たちは、決して神の救いを得ることがないだろう。神の三段階の働きだけが神の性質の全てを余すところなく表せるのであり、人類全体を救う神の意図、そして人類の救いの全過程を完全に示すことができるのである。これは、神がサタンを打ち負かし人類を取り戻したということの証拠であり、神の勝利の証拠であり、そして神の性質全体の表明でもある。神の働きの三段階の内一つの段階だけを理解する者は、神の性質の一部しか知らない。人の観念においては、このたった一つの段階の働きは教義になりやすく、人は神に関する規則を定めるようになり、神の性質のこの一部分だけを神の性質全体の代表として使うようになる。その上、人の想像が少なからずこの中に混入するので、神の働きの原則に加えて、神の性質、存在、英知を限られた範囲内に厳格に制限し、神がかつてこのようであれば永遠にこのようであり、絶対に変わることはないと思うようになる。三つの段階の働きを知り、正しく認識できる者だけが、完全にまた正確に神を知ることができる。少なくともその人たちは神をイスラエル人の神、あるいはユダヤ人の神とは定義しないし、人のために永久に十字架にくぎ付けにされる神とは見ないだろう。もし神の働きの一段階だけから神を認識するようになるのならば、その認識はあまりにも少なすぎ、大海原の一滴に過ぎない。そうでなければ、なぜ多くの古い宗教家達が神を生きたまま十字架に磔にしたのか。それは人は神を限られた範囲に制限するからではないのか。多くの人が神に反抗し、聖霊の働きを邪魔するのは、彼らが様々な、多岐にわたる神の働きを認識しないからであり、さらに、彼らがごく僅かな知識と教義しか持ち合わせておらず、それで聖霊の働きを判断するためではないのか。そのような人たちは、経験は上辺だけのものなのに、本性が放漫かつ甘やかされており、聖霊の働きを軽視し、聖霊の懲らしめを無視し、さらには自分の取るに足らない古い論拠を用いて聖霊の働きを「確認」する。また彼らはもったいぶって、自分たちの知識と博識を全面的に確信し、世界中を駆け回ることができると思い込んでいる。そのような人たちは聖霊に軽蔑されて拒絶されるのではないのか、そして新しい時代には排除されるのではないか。神の前に来て公然と神に反抗する人々は、無知で物事をよく知らない偏狭な人々で、単に自分たちがいかに立派かを見せびらかそうとしているだけではないのか。彼らは、聖書についての僅かな知識だけで天下の「学界」にまたがり、人に教える上辺だけの教義でもって、聖霊の働きを覆し、自分たちの思考過程を中心に転回させようと試み、目先のことしか見えないのに、一目で六千年に及ぶ神の働きを見極めようとするのである。この人たちは理性と呼べるようなものをもちあわせていない。実際、神についてよく知っている人ほど、神の働きを評価するのに時間をかける。さらに、彼らは今日の神の働きについて知っていることを僅かしか語らないが、判断することは急がない。神に対して認識がない人ほど、傲慢で自信過剰で、気まぐれに神の存在そのものを言いふらすが、彼らは理論を語っているだけで、実際の証拠は提供しない。このような人は少しも価値のない人である。聖霊の働きを冗談事と捉える人たちは浅はかである。聖霊の新たな働きに出会うとき、慎重にせずベラベラ言いふらして、早まった判断を下し、本能にまかせて聖霊の働きの正しさを否定し、さらには聖霊の働きを侮辱し冒涜する人たち、つまりそんな無礼な人たちは聖霊の働きに対して無知であると言えるのではないか。さらに、そのような人たちは、傲慢で、生まれつき高慢で、そして手に負えない人間ではなかろうか。このような人はいつか聖霊の新しい働きを受け入れる日が来ても、神は彼らを寛容には扱わないだろう。そういう人たちは、神のために働く人たちを見下すだけでなく、神自身をも冒涜しているのである。そのような無謀な人たちは、この世でも後の世でも赦されることがないし、永久に地獄で滅びるだろう。このように無礼でいい加減な人たちは、神を信じているふりをしているだけで、そうすればするほど、行政命令に触れやすくなる。生まれつき放逸で、一度も誰かに従ったことがない、傲慢な人間はすべて、このような道を歩いているのではないか。彼らは、常に新しくて古くならない神に来る日も来る日も反抗しているではないか。

『言葉は肉において現れる』の「神の三つの段階の働きを認識することは神を認識する道である」より引用

日々の神の御言葉 抜粋 7

三つの段階の働きは、神の働きすべての記録であり、神の人類の救いの記録であり、そしてそれは架空のものではない。もしあなたがたが、神の性質全体を認識することを真剣に追い求めるのであれば、神によって為された働きの三段階を知らなければならず、しかもどの段階も欠けてはならない。これは神を知ろうと努力する人たちが達成しなければならない最低限のことである。人は思いつきのように独自で本当に神を知ることはできない。それは人が自分で想像できるものでもなければ、聖霊が特定の人に特別に恩恵を授けた結果でもない。むしろそれは、人が神の働きを経験した後に得る認識であり、神の働きの事実を経験した後にだけ訪れる神に対する認識なのである。そのような認識は、ふと思いついて得ることはできないし、教えられるものでもない。それは完全に個人的な体験に関係することなのだ。これらの三つの段階の働きの核心には、神の人に対する救いが在るが、この救いの働きの中には幾つかの働き方と、神の性質を表す手段が含まれている。これは、人がもっとも識別し難いことであり、また理解するのが難しいことである。時代の区分、神の働きの変化、働きの場所の変化、この働きの受益者の変化等、これら全てが三つの段階の働きに含まれている。特に、聖霊の働き方の違い、神の性質、姿、名前、身分、その他の変化など、これら全てが三つの段階の働きの一部である。一つの働きの段階は、一部しか表すことはできず、特定の範囲に限られている。それは時代の区分や神の働きの変化には関連がなく、他の側面にはさらに関連性がない。これは完全に明らかな事実である。三つの段階の働きが人類を救う神の働きの全てなのだ。人は、人類を救う働きの中で、神の働き、そして神の性質を認識しなければならず、この事実なしには、あなたがたの神に対する認識は、ただ無意味な言葉でしかなく、机上の空論にすぎない。そのような認識では、人を納得させることも征服することもできず、そのような認識は実情にそぐわないし、また真理でもない。その認識がたとえ十分で、聞こえの良いものであっても、神の元来の性質と合致しないのであれば、神はあなたを容認しない。神はあなたの認識を称賛しないだけでなく、神を冒涜した罪人としてあなたに天罰を下す。神を認識する言葉は軽々しく語られるものではない。たとえあなたが流暢で弁が立ち、あなたの言葉が優れているために黒いものを白いと、白いものを黒いと議論して説得できるとしても、神に対する認識を語ることに関しては素人同然である。神は、あなたが急いで判断を下したり、気軽に褒めたり、また無頓着に中傷したりできる対象ではない。あなたは誰でもどんな人でも褒めるが、それでもなお神の大徳と恩恵を描写する適切な言葉に悪戦苦闘し、これは全ての失敗者が体験することなのである。神を描写することのできる言語の専門家は大勢いるが、その描写の正確さは、神に属し、限られた語彙しか持たずとも豊かな経験を身に着けている人々によって語られる真理の百分の一にすぎない。よって神への認識は、巧みに言葉を使うことや豊富な語彙によるものではなく、正確さと現実性にかかっていること、また人の知識と神への認識は、全く関係がないことが見て取れる。神を認識するという学びは、人類のどの自然科学よりも高尚である。それは、神を認識することを探し求める非常に少数の人間によってのみ達成できる学びであって、才能があれば誰でも達成できるわけではない。よってあなたがたは、神を認識することと真理を追求することを、ほんの子供でも達成できる、という見方をしてはならない。あなたは、家庭生活、仕事の経歴あるいは結婚生活においては完全に成功を収めているかもしれないが、真理および神を認識する学びに関しては、自分では見せられるものは何も持たないし、また何の成果も上げていない。真理を実践するとはあなたがたにとって非常に難しいことであり、神を認識することは更に困難な問題であると言ってよい。これはあなたがたにとって困難なことであり、同時に人類全体が直面している難事である。神を認識するために何らかの達成した人たちの中で、標準レベルに達する人はほとんどいない。人間は、神を認識することが何を意味するのか、あるいはどうして神を認識する必要があるのか、またはどの程度で神を認識していると見なせるのかを知らないのである。これは人類を非常に困惑させるものであり、ごく簡単に言うと人類が直面する最大の謎であり、誰もこの質問に答えることができないし、誰も進んで答えようとはしないのだが、その理由は、今日まで人類のうち誰一人としてこの働きの研究に成功したことがないからだ。おそらく、三つの段階の働きの謎が人類に明らかにされるときは、神を認識する才能集団を成す人たちが次々と現れるだろう。もちろん、そうなることをわたしは望むし、さらにわたしはこの仕事を実践中であり、近い将来そのような人材がもっとたくさん現われることを願う。彼らは、三つの段階の働きの事実を証しする者となり、そしてもちろん、三つの段階の働きを証しする最初の者となるだろう。神の働きが終わる日になって、もしそのような才能ある者がいなかったならば、あるいは一人か二人しかいなかったならば、そしてこの一人か二人は受肉した神によって完全にされることを自ら受け入れていたとしたら、これ以上悲しく、また悔やまれることはない。もちろんこれは最悪のシナリオにすぎないが。いずれの場合も、真剣に追及する者がこの祝福を得られることを願う。世の始まりの時から、このような働きはかつて一度も存在しなかったし、人類の発展の歴史の中で、かつてなかった仕事である。もしあなたがたが本当に最初に神を認識する者達の一人になることができるならば、被造物全ての中で、最も名誉なことではないだろうか。人類のなかで神によってこれ以上に称賛される人がいるだろうか。このような仕事は簡単に達成できるものではないが、それでも最終的には成果を収める。性別や国籍に関わらず、神を認識することのできる人々は皆、最後に神から最高の名誉を受けるだろうし、また神の権威を備える唯一の者たちとなる。これが今日の仕事であり、未来の仕事でもあるが、要はこれが最終の、また過去六千年の働きの中で達成される最高の仕事ということであり、それによって人間の各区分を明らかにする仕事の一手段である。人に神を認識させるための働きを通して、人の異なるランクが明らかにされる。つまり、神を知る者は神の祝福を受け、神の約束を受け取る資格があるが、一方で、神に対する認識を持たない者は神の祝福を受ける資格、神の約束を受け取る資格がないことになる。神を知る者は、神の知己であり、神に対して認識を持たない者は神の知己とは呼ばれない。すなわち、神の知己は、神のあらゆる祝福を受けることができるが、神の知己でない者は、神の働きのどれにも値しない。苦難であれ、精錬あるいは裁きであれ、全ては人が最終的に神に対する認識を得られるようにするためであり、人が神に服従するようになるためである。これが最終的に達成される唯一の成果である。三つの段階の働きはどれも秘密ではなく、これは人が神を認識するのに役に立つことで、人が神についてもっと完全で徹底的な認識を得る手助けとなる。この働きは全て人のためである。

『言葉は肉において現れる』の「神の三つの段階の働きを認識することは神を認識する道である」より引用

日々の神の御言葉 抜粋 8

神自身の働きは、人が知らなければならないビジョンである。神の働きは人には達成できないし、人には備わっていないものだからである。三つの段階の働きが神の経営の全てであり、人が認識すべき最大のビジョンである。もし人がこの偉大なビジョンを知らないとすれば、神を認識することも神の心を理解するのも容易ではないし、さらに人が歩む道もますます困難になる。ビジョンがなければ、人はここまで来ることはできなかっただろう。人を今日まで守ってきたのはビジョンであり、人に最大の保護を提供してきたのはビジョンである。将来、あなたがたの認識はより深くなるべきであり、あなたがたは神の心の全て、そして三つの段階の働きにおける神の賢明な働きの本質を認識するようにならなければならない。これこそがあなたがたの真の霊的背丈なのだ。働きの最終段階は、独立した段階ではなく、それ以前の二つの段階と一緒に形成された全体の一部であるから、三つの段階の働きのうち一つだけを行うことで救いの働き全体を完成させることは不可能である。たとえ働きの最終段階が人を完全に救うことができたとしても、必要なのはこの単独の段階を実践することだけという意味にはならないし、人をサタンの影響力から救うために、その前の二つの段階の働きは必要ないということにはならない。救いの働き全体が三つの段階の働きであって、その中の一つの段階ではないため、三つの段階の働きのうちどの段階も単独に取り上げて全人類の唯一の認識すべきビジョンとすることはできない。救いの働きが完成されていない限り、神の経営も完全に終わることはできない。神の存在、性質、そして英知が救いの働き全体の中に表現されており、初めは人に対して明らかにされていなかったが、救いの働きの中で徐々に表されるようになった。救いの働きの各段階それぞれが神の性質と神の存在を部分的に表しているが、働きの各段階が直接かつ完全に神の存在全体を表すことはできない。つまり、救いの働きは三つの段階の働きが完成した後全部終わるのだから、神のすべてに関する人の認識は三つの段階の働きから切り離すことはできない。人が一つの段階から得るものは、単に神の働きの一部で表される神の性質にすぎず、それは前後の段階で表される性質と存在を代表することはできない。なぜなら、人類を救う働きは一時期または一箇所ですぐ終わるものではなく、異なった時期、異なった場所で人類の発展の状況によって次第に深くなっていくものだからである。それはいくつかの段階で行われる働きであって、一つの段階で終わるものではない。だから神の英知の全ては、一つの個別の段階よりはむしろ、三つの段階において具体化されるのである。神の存在の全て、神の全ての英知が、これらの三つの段階の中に配置されていて、どの段階の働きの中にも神の存在があり、神の働きの英知が記されている。人は、これらの三つの段階の中に表現されている神の性質の全体を認識しなければならない。この神の存在の全てが人類全てにとって非常に重要であり、神を礼拝するときに、人がもしこの認識を持たないのであれば、彼らはブッダを崇拝する人々と何ら変わらないことになる。人の間で行う神の働きは人に隠されておらず、神を崇拝するすべての人に認識されるべきである。神は、人の間で人を救う三つの段階の働きを行ったのだから、人は、これらの三つの段階の働きの中で表現されている神が持つもの、また神であるものを認識すべきである。これは人がすべきことである。神が人から隠すことは、人が達成できないこと、また人が知るべきでないことであり、一方、神が人に見せることは、人が知るべきこと、そして人が身に付けるべきことなのである。三つの段階の働きの各段階は、それぞれの前の段階を基礎として実行されるもので、単独には働きは行われず、また救いの働きから切り離しては行われない。実行された働きの時代と種類には大きな違いがあるが、その核心はやはり人類の救いであり、救いの働きの各段階は、その前の段階のものより深くなる。

『言葉は肉において現れる』の「神の三つの段階の働きを認識することは神を認識する道である」より引用

日々の神の御言葉 抜粋 9

人の間で行う神の働きは人に隠されておらず、神を崇拝するすべての人に認識されるべきである。神は、人の間で人を救う三つの段階の働きを行ったのだから、人は、これらの三つの段階の働きの中で表現されている神が持つもの、また神であるものを認識すべきである。これは人がすべきことである。神が人から隠すことは、人が達成できないこと、また人が知るべきでないことであり、一方、神が人に見せることは、人が知るべきこと、そして人が身に付けるべきことなのである。三つの段階の働きの各段階は、それぞれの前の段階を基礎として実行されるもので、単独には働きは行われず、また救いの働きから切り離しては行われない。実行された働きの時代と種類には大きな違いがあるが、その核心はやはり人類の救いであり、救いの働きの各段階は、その前の段階のものより深くなる。各段階の働きは、そのひとつ前の段階を基礎として続くものであり、それは無効にならない。このようにして、神の働きは古くならず、常に新しく、その中で神は、今まで見せたことのない自らの性質の側面を人に対して絶えず表現し、そして常に神の新しい働きと存在を明らかにし、たとえ古くからの宗教家たちが最大限反抗し公然と反対するとしても、神は常に意図している新しい働きを実行する。神の働きは常に変化しているため、常に人の反対にあう。そこで、神の働きの時代とその対象と同様に、神の性質も常に変化している。その上、神は常にこれまでしたことのない働きを行い、人から見れば以前と矛盾あるいは相反する働きさえする。人は、一種類の働き、あるいは一つの実践方法だけしか受け入れることができない。人にとって、自分たちと相反する、あるいは自分たちよりも高尚な働きや実践方法は受け入れがたい。しかし聖霊は常に新しい働きを行なっていて、そのために神の新しい働きに反対する宗教専門家の団体が次から次へと出現する。こういう人たちが専門家になったのは、どうして神が常に新しくて古くならないのかを人が認識しておらず、また神の働きの原則についての認識も持たず、そしてさらに神が人を救う様々な方法についての認識も持っていないがためである。というわけで、人はその働きが聖霊から出たものであるかどうか、あるいは神自身の働きかどうかの区別がつかない。多くの人は、前に発せられた言葉と合致すれば受け入れるが、以前の働きと違う点があれば反対して拒絶するという態度にしがみついている。今でも、あなたがたはみなそのような原則に縛られているのではないだろうか。救いの三つの段階の働きは、あなたがたにはあまり効果を上げておらず、また前の二つの段階の働きは負担になるものだからまったく認識する必要がないとさえ信じる者もいる。彼らは、これらの段階は、大衆には発表すべきでなく、早々に撤回されるべきだと考えている。三つの段階の働きのうちの前の二段階によって人々が混乱しないようにである。多くの人は、前の二段階の働きを示すのは余計なことであり、神を認識するのに全然役に立たないと思っている―これがあなたがたの考えである。今日、あなたがたは皆、そのように行動することは正しいと考えているが、いつかわたしの働きの重大さに気づく時が必ず来る。わたしは意義のない働きは行わないことを知らなければならない。わたしがあなたがたに三つの段階の働きを示している以上、それらはきっとあなたがたのためになる。これら三つの段階の働きは神の経営全体の核心であるのだから、きっと全宇宙で全ての人の注目の的となる。いつかあなたがたは皆この働きの重要性に気づくだろう。あなたがたが神の働きに逆らう、あるいは自分の観念により今日の働きを判断するのは、あなたがたが神の働く原則を知らないからであり、またあなたがたが聖霊の働きを真剣に受け止めないからだということを認識しなさい。あなたがたが神に反抗し、聖霊の働きを邪魔するのは、あなたがた自身の観念と生まれつきの尊大さのせいである。それは神の働きが間違っているからではなく、あなたがたが元々あまりにも反抗的だからである。人によっては、神への信仰を持った後に、人がどこから来たのかということさえ確信をもって言えないのに、あえて聖霊の働きが正しいかそうでないかについて演説を行ったりする。彼らは、聖霊の新しい働きを持つ使徒たちに説教したり、意見したり、立場をわきまえないで余計な口を挟んだりさえする。彼らは人間性が非常に低俗で、思慮分別のかけらも持っていないのである。このような人が聖霊の働きによって拒絶され、地獄の火に焼かれる日が来るのではないか。彼らは、神の働きを認識しない代わりに、神の働きを批判し、しかも神に対して働き方の指図までする。このように理不尽な人たちがどうして神を知ることができるだろう。人は、神を求め、経験する過程で、神に対する認識を得るようになる。つまり、気まぐれに神を批判する中で聖霊の啓発を受けて神を認識するのではない。神に対する認識が正しいほど、人は神に反発しなくなる。逆に、神への認識が少ないほど、人は神に逆らう。あなたの観念、古くからの本性、人間性、性格や道徳観は、あなたが神に逆らう「資本」であり、あなたが堕落して下劣で低俗であるほど、あなたはますます神の敵対者になる。欲深い観念の持ち主や独りよがりな性質の者は、さらに受肉した神の憎しみを買い、そのような人たちは反キリストである。もしあなたの観念が正されなければ、常に神に敵対することになり、永久に神と融和することができず、そしていつも神から離れていることになる。

『言葉は肉において現れる』の「神の三つの段階の働きを認識することは神を認識する道である」より引用

日々の神の御言葉 抜粋 10

三つの段階の働きは一人の神によってなされ、そしてこれは最も偉大なビジョンであり、神を認識するための唯一の道である。三つの段階の働きは、神自身にしかできなかったことであり、誰も神の代わりにできることではなく、要するに、初めから今日まで神自身の働きは神にしかできないのである。神の三つの段階の働きは、異なる時期に異なる場所で行われており、またその内容もそれぞれ異なるが、それらは全て唯一の神によってなされたものである。すべてのビジョンの中でも、これが人の認識すべき最も偉大なビジョンであり、もし人がこれを完全に理解するなら、自分の立場を貫くことができる。現在、様々な宗教や宗派が直面している最大の問題は、彼らが聖霊の働きを認識していないということであり、聖霊の働きと聖霊のものでない働きを区別できず、そのために彼らは、先の二つの段階の働きと同様に、この段階の働きが神ヤーウェによるものかどうかが解らないのである。神に従ってはいても、ほとんどの人がそれが正しい道なのかどうかを区別できない。人は、この道が神が自ら導いているものかどうか、神の受肉が事実であるのかどうかを気に病んでいるが、ほとんどの人は、このことに関し、どのように見分ければ良いのか一切手掛かりがないのである。神に従っている人たちは、取る道を決断できず、よって、発せられる言葉はこのような人たちの間では部分的な効果しか持っておらず、また完全な効果を発揮できないために、そのような人々がいのちに入ることに影響を及ぼしている。三つの段階の働きにおいて、それらが違う時期に、違う場所で、そして違う人々に対して神が為したことであると人が見きわめることができ、またたとえ働きが違っていても、それらは全て唯一の神によって為され、それは唯一の神によって為される働きである以上、正しく、間違いがあるはずはなく、またそれが人の観念とは合致せずとも、唯一の神の業であることは否定できないということ――もし人がそれは唯一の神の働きであると確信をもって言えるならば、人の観念はほんの些細な事となり果て、言及する価値もなくなるであろう。人のビジョンが明確でない上に、人はヤーウェが神でありイエスが主であることしか知らず、現在の受肉した神について決めかねているために、多くの人はヤーウェとイエスの働きに専念することに留まり、今日の働きについての観念に悩まされ、ほとんどの人は常に疑いを抱き、今日の働きを真剣に受け止めていないのである。人は、見ることができなかった先の二つの段階の働きに関しては、何の観念も持っていない。それは、人が先の二つの段階の働きの実情を理解せず、またそれらを自ら目撃しなかったからである。見えないからこそ、人は好きなように想像するが、どんなに想像しても証拠となる事実はないし、またその誤りを正す者もいない。人は、本能のままに警戒心を捨てて想像力を逞しくさせているのだが、立証する事実がないので、証拠があるかどうかに関わらず、人の想像したことが「事実」となっている。従って、人は自分で想像した神を心の中で信じているわけで、実際の神を求めないのである。一人の人間が一種類の信仰を持つとすると、100人の人が居れば100通りの信仰があることになる。人は、神の働きを実際に見たことがないため、また耳で聞いたことがあるだけで、自分で目にしたことがないために、そのような信仰に取りつかれている。人は伝説や物語を聞いたことがあっても、神の働きという事実の認識についてはほとんど聞いたことがない。したがって、信者になってたった一年の人も、自らの観念を通して神を信じているし、生涯信者である人も同様である。事実を見ることができない者は、神に対する観念がある信仰から抜け出すことはできない。人は自らの古い観念の束縛から解放され、新しい境地に入ったと信じている。神の真の顔を見ることができない者の認識は、観念や言い伝え以外の何物でもないことを人は知らないのだろうか。人はみな自分の観念が正確で間違いないのだと思い、自分の観念は神から来るものだと思っている。今日、人は神の働きを目の当たりにすると、長年にわたって蓄積した観念を放つのである。だが、過去の想像と考え方がこの段階の働きの障害になったため、人がそのような観念を手放し、またそのような考え方に反論するのが困難になっている。今日まで神に従ってきた多くの人たちの持つ、この段階的な働きに対する観念は以前にも増して危機的なものになっており、これらの人たちは、徐々に受肉した神に対する頑固な敵意を形成しているが、この憎しみは人の観念と想像から出ているのである。事実は人に想像する自由を与えず、さらに人によって簡単に反論されることはない一方、人の観念と想像は事実の存在を許さず、その上に人は事実の正確さと信憑性には考慮せず、ただひたすら自分の観念を自由に働かせ、自分自身の想像力をたくましくするために、人の観念と想像は、人の観念とは相いれない今日の働きの敵となったのである。これは、もっぱら人の観念の誤りと言えるもので、神の働きの誤りではない。人が何を想像しようが自由だが、神の働きの事実は人が侵すことができないものだから、神の働きのどの段階でも、あるいは働きのごく一部でも、それについて軽々しく異議を唱えるべきではない。あなたは自由に想像しても構わないし、ヤーウェとイエスの働きについて、すばらしい話をまとめても構わないが、ヤーウェとイエスの働きの各段階の事実について反論してはならない。これは原則であって、行政命令でもあるが、あなたがたはこれらの問題の重大さを理解しなければならない。人はこの段階の働きは人の観念と合致しないが、先の二つの段階の働きはその限りではないと信じている。人はその想像の中で、先の二つの段階の働きは今日の働きと同じでないことを確信しているが、神の働きの原則は全て同じであり、神の働きは常に実践的であること、時代に関係なく、いつも神の働きの事実に逆らい反対する人が大量に現れることを考えたことがあるだろうか。今、この働きの段階に逆らい、反対する人たちは、過去の時代においても間違いなく反対していただろう。そのような人々は常に神の敵だからだ。神の働きの事実を理解している人たちは、三つの段階の働きを、唯一の神の働きとして捉え、自分の観念は捨てるのである。このような人々が神を知る人々であり、真に神に従う人々である。神の経営の一切が終わりに近づくとき、神は万物を種類に応じて分類する。人は創造主の手で造られたのだから、最後には神が人を神の支配のもとに戻さなければならないのである。これが三つの段階の働きの終結である。終わりの日の働きの段階と、イスラエルとユダヤにおける前の二つの段階は、全宇宙における神の経営計画である。これは誰にも否定できないし、そしてこれが神の働きの事実である。人々はまだこの働きのほとんどを経験もしていなければ見てもいないが、事実は事実であり、人はだれもこれを否定できない。神を信じる全宇宙各地の人々はみなこの三つの段階の働きを受け入れるであろう。もしあなたが一つの特定の段階の働きだけを認識して、他の二段階の働きを理解せず過去の神の働きも理解しないならば、あなたは神の全経営計画の真相を語ることはできないし、あなたの神の認識は偏ったものである。神への信仰においては、あなたは神を知らず、理解していないために、あなたには神を証しする資格がないのである。あなたの現時点でのこれらの事柄に関する認識が深かろうと浅かろうと、最後には、あなたがたは認識を持ち完全に納得するようになるはずであり、あらゆる人が神のすべての働きを目にして、神の支配の下に服従するようになるのである。この働きの終わりには、全ての宗教が一つにまとまり、全ての神の被造物が創造主の支配の下に戻り、唯一の真の神を礼拝して、全ての邪悪な宗教は無に帰して、二度と現れることはない。

『言葉は肉において現れる』の「神の三つの段階の働きを認識することは神を認識する道である」より引用

日々の神の御言葉 抜粋 11

なぜこのように連続して三つの段階の働きに言及するのか。時代の移り変わり、社会の発展、自然の変貌はみなこの三段階の働きが変化するにつれて変わるのである。人類は神の働きに合わせて変化するのであって、人類が単独で発展しているのではない。神の三つの段階の働きに触れるのは、全ての被造物と、あらゆる宗教、あらゆる宗派の人々全てを、唯一の神の支配の下に集めるためである。あなたがどの宗教に属していようと、最終的にあなたは皆神の支配の下に従うのである。神自身だけがこの働きを実行できるのであって、それはどの宗教の代表にも不可能である。世界には主要な宗教がいくつか存在し、各宗教がそれぞれ代表あるいは指導者を持っているが、その信徒も世界中の様々な国や地域に広がっている。大国であろうと小国であろうと、どの国にもいくつかの異なる宗教が存在する。しかしながら、世界中にどれほどの数の宗教が存在していようとも、宇宙の中の人はみな、究極のところ唯一の神の導きの下に生存しているのであって、人々の存在は宗教の代表あるいは指導者に導かれているわけではない。要するに、人類は特定の宗教の代表や指導者ではなく、人類全体が、天地を造り、万物を造り、そして人類を造った創造主に導かれているということであり、またこれは事実である。世界にはいくつかの主要な宗教があるが、その大きさに関係なく、それらの全てが創造主の支配の下に存在しているのであって、いかなる宗教もこの支配の範囲を超えることはできない。人類の発展、社会の進化、そして自然科学の発達、これらはそれぞれ創造主の計画から切り離すことはできないし、この働きは特定の宗教の代表にできるものではない。宗教を代表する人というのは、特定の宗教組織の指導者というだけで、神、つまり天地と万物の創造主の代理を務めることはできない。宗教の代表は、その宗教全体の内において人々を率いることはできても、天下のあらゆる被造物を統率することはできないし、これは世界中で認められている事実である。宗教の代表は単なる指導者であり、神(創造主)と対等の立場にはなれない。万物は創造主の支配下にあり、最後には創造主の手中に戻る。人類は元々神に造られ、宗教に関係なく、全ての人が神の支配下に帰するものであり、これは必然である。神だけが万物の中で最も高い地位にいるのであり、すべての被造物の中の最高の支配者でも神の支配の下に帰らなければならない。人の地位がいくら高くても、人類を適切な終着点へと導くことはできないし、誰も万物をその種類に応じて分類することはできない。ヤーウェ自身が人類を造り、人々をそれぞれその種類に分類したのだから、終わりの時にもやはり神は自身でその働きを行い、万物をその種類に従い分類するが、これは全て神以外にはできないことである。初めのときから今まで、三つの段階の働きは全て神自身が行ったのであり、それは唯一の神がしたことである。三つの段階の働きの事実は、人類全体に対する神の統率力の事実であり、誰も否定できない事実である。三つの段階の働きの終わりには、万物が種類に応じて分別されて神の支配の下に帰り、そしてそこには全宇宙を通してただ唯一の神だけが存在し、その他の宗教は存在しなくなる。世界を造ることができない者は、世界を終わらせることもできないが、世界を創造した神は、必ず終わらせることもできる。だから、もし誰かが一つの時代を終わらせることができず、単に人がその心を養うのを手助けできるだけなら、その人は断じて神ではないし、断じて人類の主でもない。そのような者にこのような偉大な働きは可能でなく、このような偉大な働きは唯一の存在によってのみ可能である。そしてこのような働きができない者はみなきっと神以外の敵である。全ての邪悪な宗教は神とは相容れない。そして、神と相容れないなら、それらは神の敵である。すべての働きはこの唯一の真の神が為すものであり、全宇宙がこの真の神の支配下にあるのだ。神の働く場所がイスラエルでも中国でも、またその働きが聖霊によるものでも肉体によるものでも、全ては神自らによって行われるもので、他の誰にもできないことである。神が全人類の神だからこそ、神はどんな条件にも制限されず自由に働き、これはすべてのビジョンの中で最大のものである。もしあなたがたが、神の被造物の一人として被造物の本分を尽くし、神の心を理解したいのであれば、神の働きを理解し、神の被造物に対する心を理解しなければならず、また神の経営計画、そして神の為す仕事の意義の全てを理解しなければならない。これらの事が理解できない者は、神の被造物としての資格がない。もしあなたがたが、神の被造物として、自分がどこから来たのかが分かっておらず、人類の歴史や神が行った働きの全てを知らず、さらには人類がいかにしてここまで発展してきたか、また全人類を支配するのは誰なのかを理解していないのであれば、あなたがたには、その本分を尽くすことはできない。神は今日まで人類を導いてきた。そして神が人類をこの地上に造ってからこれまで、神は一度も人の傍を離れたことがない。聖霊は休むことなく働き続け、人類を導き続けて、一度も人から離れたことがない。それなのに、人は神の存在に気づかず、ましてや神を知らないが、神の全ての被造物にとって、これほど屈辱的なことがあろうか。神は自ら人を導いているのに、人は神の働きを理解していない。あなたは神の被造物であるのにも関わらず、自分たちの歴史も知らず、これまで自分の旅路の中で誰が自分を導いてくれたのかも分からずにいて、神による働きに気付かないから、神を認識できないのだ。あなたがもし今だに知らないとすれば、神を証しする資格はずっとないであろう。今日、創造主は、もう一度あらゆる人々を自ら導き、そしてあらゆる人々に神の英知、全能性、救い、そしてすばらしさを見せている。それでもあなたはまだ気付かず、あるいは理解できずにいるから、それであなたは救いを得られない者になっているのではないか。サタンに属する者たちは神の言葉を理解できず、神に属する者たちには神の声を聴くことができる。わたしの話す言葉に気付いて理解する全ての人々は、救われる者たちであり、また神を証しする者たちなのだ。わたしが言った言葉を理解しない全ての人々は神を証しすることができず、排除される者たちなのだ。神の心を理解できず、また神の働きに気付かない人々は、神の認識を達成することができず、そのような人々は神を証しすることはない。もしあなたがたが神を証ししたいと願うなら、あなたがたは神を知らなければならないし、その神の認識は、神の働きを通して達成される。結局のところ、神を知りたいと望むならば、神の働きを知らなければならない。つまり、神の働きを知ることが最重要なのである。三つの段階の働きが終わるとき、神を証しする者たちの一集団、つまり神を知る者たちの一団が作られる。この人たちはみな神に対する認識があり、真理を実行することができる人たちである。彼らには人間性と理知があり、皆三つの段階の救いの仕事を認識している。これが最後になし遂げられる働きであり、この人たちは六千年にわたる経営の働きの結晶であり、最終的にサタンを打ち負かした最も有力な証しである。神を証しすることができる者は、神の約束と祝福を受けることができる上に、最後の時に残り、神の権威を持ち、神を証しする一団になるだろう。もしかすると、あなたがたの全ての人がこの一団の一員になれるかもしれず、あるいは半分か数人だけがそうなれるかもしれないが、それはあなたがたの意思と追求にかかっている。

『言葉は肉において現れる』の「神の三つの段階の働きを認識することは神を認識する道である」より引用

日々の神の御言葉 抜粋 12

六千年にわたる経営計画は三段階の働きに分けられる。どの一段階も、それだけで三つの時代の働きを表わすことはできず、全体の一部しか表わせない。ヤーウェの名が神の性質全体を表わすことはできないのである。ヤーウェが律法の時代に働きを行なったという事実は、神が律法の下でしか神でいられないことを証明しているのではない。ヤーウェは人間のために律法を定め、戒めを言い渡し、神殿と祭壇を築くように求めた。ヤーウェが行なった働きは律法の時代だけを表わす。ヤーウェが行なったこの働きは、神は人間に律法を守るよう求める神でしかないとか、神殿にいる神だとか、祭壇の前にいる神だなどと証明するものではない。そのように言うのは誤りだろう。律法の下でなされた働きは一つの時代しか表わせない。よって、もしも神が律法の時代の働きだけを行なったのであれば、人は神を次の定義の中に閉じ込めるだろう。つまり、「神は神殿の中の神である。神に仕えるには、祭司の衣をまとって神殿に入らなければならない」という定義である。恵みの時代の働きが実行されず、律法の時代が現在まで続いていたら、神が慈悲と愛にも溢れていたことを人間は知らなかっただろう。律法の時代の働きが行なわれず、恵みの時代の働きしかなされなかったなら、神は人を贖い、人の罪を赦すことしかできないのだと、すべての人が認識しただろう。神は聖く汚れのない存在であり、人間のために自分を犠牲にし、十字架にかけられることができるとしか、人間は認識しなかったはずである。人はそれらのことしか知らず、他の何も理解しなかっただろう。したがって、それぞれの時代は神の性質の一部だけを表わすのである。律法の時代、恵みの時代、そして今の時代のそれぞれにおいて、神の性質のどの側面が表わされているかに関して言えば、これら三つの時代を一つの全体として統合して初めて、神の性質の全体を表わすことができる。これら三段階をすべて知って初めて、人はそれを完全に理解することができるのである。この三段階のどれも省略することはできない。これら三段階の働きを知るようになると、神の性質全体を見ることができる。神が律法の時代における働きを完成させた事実は、神が律法の下の神でしかないことを証明するものではなく、また神が贖いの働きを完成させた事実は、神が永遠に人類を贖うことを意味するものではない。これらはすべて人間によって引き出された結論である。恵みの時代はすでに終わりを迎えたが、神は十字架のものでしかなく、十字架だけが神の救いを表わすと言うことはできない。そのように言うのであれば、神を定義していることになる。現在の段階において、神はおもに言葉の働きを行なっているが、神は人に対して憐れみ深かったことなどなく、神がもたらしたのは刑罰と裁きだけだなどと言うことはできない。終わりの日の働きはヤーウェの働きとイエスの働き、そして人には理解されていないすべての奥義を明らかにする。これは人類の終着点と終わりを示し、人類のあいだにおける救いの働きを残らず終わらせるためである。終わりの日におけるこの段階の働きはすべてを終わらせる。人に理解されていなかったすべての奥義が解明され、人がその奥義を徹底的に解き明かし、心の中で完全にはっきり理解できるようにしなければならない。その時初めて、人類を種類に応じて分類することができるのである。六千年にわたる経営計画が完成されて初めて、人は神の性質全体を理解できるようになる。なぜなら、神の経営はその時すでに終わっているからである。

『言葉は肉において現れる』の「受肉の奥義(4)」より引用

日々の神の御言葉 抜粋 13

六千年にわたる経営計画を通じて行なわれたすべての働きは、今やっと終わりに近づいてきた。その働きのすべてが人に明かされ、人類のあいだで実行されて初めて、人は神の性質、そして神が所有するものと神そのものを残らず知る。この段階の働きが完全に終わったとき、人に理解されていなかったすべての奥義が明らかにされ、これまで理解されなかったすべての真理が明確になり、人類は未来の道と終着点を告げられているだろう。これこそが、現段階でなされるべき働きの全体である。人間が今日歩く道は十字架の道であり、苦難の道でもあるが、人間が実践すること、および今日飲み食いして享受することは、律法の下にいる人間、また恵みの時代の人間に降りかかったこととは大きく異なる。今日人に求められることは、過去に求められたこととは異なり、律法の時代に求められたこととはさらに異なる。さて、神がイスラエルで働きを行なっていたとき、律法の下で人に求められたことは何だったか。それは、人は安息日とヤーウェの律法を守らなければならない、ということだけだった。安息日には誰も働くことが許されず、ヤーウェの律法を犯すことも許されなかった。しかし、今はそうではない。安息日でも、人はいつものように働き、集まり、祈り、何の制限も課せられていない。恵みの時代の人たちはバプテスマを受けなければならず、それに加えて断食をし、パンを裂き、ぶどう酒を飲み、頭を覆い、他人の足を洗うことを求められていた。そのような規律は今や廃止されたが、人はもっと大きなことを要求されている。と言うのも、神の働きがますます深まり、人の入りがさらに高いところに到達するからである。かつてイエスは按手して祈ったが、すべてのことが述べられた現在、按手に何の意味があるのか。言葉だけで成果を挙げることができるのだ。かつてイエスが人の上に手を置いたとき、それは人を祝福し、病を癒すためだった。当時、聖霊はそのようにして働きを行なったが、今は違う。現在、聖霊は働きを行なって成果を挙げるために言葉を用いる。その言葉はあなたがたに明らかにされたのであり、あなたがたは言われたとおりにそれを実践しなければならない。神の言葉は神の旨であり、神が行なおうと望む働きである。あなたは神の言葉を通じて、神の旨と、神があなたに達成するよう求めていることを理解できる。そして、あなたは按手を必要とせず、ただ神の言葉を直接実践できる。中には「私の上に手を置いてください。あなたの祝福を受け取り、あなたにあずかることができるように、わたしの上に手を置いてください」と言う人もいるだろう。これらはどれも、現在は廃れて時代遅れになった過去の慣習である。聖霊は時代に応じて働きを行なうのであり、無作為に、あるいは一定の規則に応じて働くのではない。時代が変わり、新しい時代はそれとともに必ずや新しい働きをもたらす。これはどの段階の働きにも言えることであり、ゆえに神の働きは決して繰り返されない。恵みの時代、イエスは病を癒したり、悪霊を追い出したり、人の上に手を置いて祈ったり、祝福したりするといった働きを数多く行なった。しかし、現在再びそのようなことをするのは無意味だろう。聖霊は当時そのように働きを行なった。それは恵みの時代だったからであり、人が享受する恵みは十分にあった。人はいかなる支払いも求められず、信仰がある限り恵みを受け取ることができた。誰もが非常に寛大に扱われた。今、時代は変わり、神の働きはさらに前進した。そして刑罰と裁きを通じ、人の反抗的態度や、人の中の汚れたものは取り除かれる。当時は贖いの段階だったので、神はそのように働きを行ない、人が享受するのに十分な恵みを示して、人が罪から贖われ、また恵みによって罪が赦されるようにすることを求められたのである。現在の段階は、刑罰、裁き、言葉の打撃、そして言葉による懲らしめと暴露を通じて人の中の不義を暴き、それによって人が後に救われるためのものである。これは贖いよりもさらに深い働きである。恵みの時代の恵みは、人が享受するのに十分だった。この恵みをすでに経験した今、人がそれを享受することはもはやない。そのような働きは時代遅れであり、もはやなされることはない。今、人は言葉の裁きを通じて救われる。裁かれ、罰せられ、精錬されたあと、人の性質は変わる。これはすべて、わたしが語った言葉のゆえではないのか。各段階の働きは、人類全体の進歩と時代に合わせて行なわれる。すべての働きに意義があり、どれも最後の救いのためになされる。それは、人類が将来良い終着点を得られるようにするためであり、人類が最終的に種類に応じて分類されるようにするためである。

『言葉は肉において現れる』の「受肉の奥義(4)」より引用

日々の神の御言葉 抜粋 14

聖霊の働きの各段階には、それと同時に人間の証しが必要とされる。働きの各段階は、神とサタンとの戦いであり、戦いの相手はサタンである一方、その働きより完全にされるのは人間である。神の働きが実を結ぶかどうかは、人間による神への証しの仕方により決まる。この証しとは、神に従う者に神が要求する事である。それはサタンの前で行われる証しであり、また神の働きの成果を証明するものでもある。神の経営全体は、三段階に分割され、各段階において、人間に対して適切な要求が為される。さらに、様々な時代が経過し進行してゆくにつれ、全人類に対する神の要求はより高くなる。このようにして、この神の経営の働きは、人間が「言葉は肉として現れる」という事実を目の当たりにするまで、段階ごとに進んで絶頂に達する。また、そのようにして人間に対する要求と、人間が証しすることへの要求はさらに高度化する。真に神と協力することが可能であればあるほど、一層人間は神に栄光を帰す。人間の協力とは、人間が行うよう要求される証しであり、人間が行う証しは、人間による実践である。ゆえに、神の働きが然るべき成果を得られるかどうか、真の証が存在し得るかどうかは、人間による協力と証と密接に結びついている。働きが終わる時、つまり神の経営が全て終わりに達する時、人間はより高い証しをするよう要求されるであろう。そして神の働きが終局に達する時、人間の実践と霊的成長は頂点に達するだろう。過去において、人間は律法と戒めに従うことを要求され、忍耐強く謙遜であることを要求された。現在、人間は神の采配の全てに従い、神への至高の愛を備えることを要求されており、最終的には患難のただ中でも神を愛することが要求されている。これら三つの段階こそが、神が自身の経営全体にわたって、段階ごとに人間に要求することである。神の働きの各段階は、その前の段階よりも一層深くなり、各段階における人間に対する要求は、その前の段階よりも一層深遠であり、神の経営全体はそのようにして次第に形成される。人間の性質が神によって要求される基準に常に近づいてゆく理由は、正確に言うと、人間に対する要求がさらに高くなってゆくからであり、その時初めて、神の働きが完了し、全人類がサタンの影響から救われるまで、人類は次第にサタンの影響から離れてゆく。その時になると、神の働きは終局に達し、人間の性質の変化を達成するための神への人間の協力が終わり、全人類が神の光の中で生活し、それ以後は神への反抗や反逆は無くなる。また、神は人間に対して何も要求しなくなり、人間と神との間には、一層調和の取れた協力、つまり人間と神が共にある生活、神の経営が完了し、人間がサタンの手から神によって完全に救われた後に到来する生活がある。神の歩調に送れずについて来れない者は、そうした生活を得ることができない。彼らは自ら闇へと沈み、そこで泣いて歯ぎしりするであろう。彼らは神を信じているが神に従わず、神を信じているが神の働きの全てに従わない者である。

『言葉は肉において現れる』の「神の働きと人間の実践」より引用

日々の神の御言葉 抜粋 15

全経営計画を通して、最も重要な働きは人間をサタンの影響から救う働きである。重要な働きは堕落した人間を完全に征服することで、それによって、征服された人間の心に本来あった神への畏敬の念を回復し、正常な生き方ができるようにする。つまり、神の被造物として正常な生き方ができるようにするのだ。この働きは最も重要なもので、経営の働きの核心である。救いの三段階の働きのうち、最初の段階の律法の時代の働きは、救いの働きの核心から遠いものだった。ただ救いの働きをわずかに現したにすぎないし、人間をサタンの領域から救う働きの始まりではなかった。最初の段階の働きは、霊が直接行ったが、それは、律法の下で人間は律法を守ることだけしか知らず、それ以上の真理を知らなかったからであり、律法の時代の働きは、人間の性質の変化はほとんど伴っておらず、どのようにして人間をサタンの領域から救うかという働きとは、さらに関わりがなかったからだ。そのため、神の霊は極めて単純な、人間の堕落した性質とは関わらない段階の働きを終えた。この段階の働きは、経営の核心にほとんど関係がなく、人間の救いという正式の働きとはあまり関係がなかった。だから、神が自ら受肉して働く必要がなかった。霊の働きはさりげなく行われ、測り難いものであり、人間には非常に恐ろしくて近寄りがたいものである。霊は直接救いの働きをするには適していないし、直接人間にいのちを与えるにも適していない。人間に最も適しているのは、霊の働きを人間に近い形に変えることで、それはつまり、最も人間に適しているのは、神が普通の正常な人間になって働きをするということである。これには、神が受肉して霊の代わりに働くことが必要であり、人間のために神が働くのに、これ以上ふさわしい方法はない。こうした三段階の働きの中で、二つの段階は、肉体によって行われたが、その二つの段階は経営計画の中の肝要な部分である。二回の受肉はそれぞれ補い合うもので、補完的である。神が最初に受肉した段階は、第二の段階の基礎を敷いたのだが、これは、神の二回の受肉が一つの全体をなし、互いに相容れないものではないと言える。この二つの段階は全経営の計画の中でまことに重要なものであるため、神が受肉してこの二つの段階を実行する。こう言ってもいいだろう――神の二回の受肉の働きがなければ、経営の計画全体は停止し、人類の救いの働きは空虚な言葉でしかなかっただろう。この働きが重要であるかどうかは、人間の必要、人間の堕落の現実の状態、サタンの甚だしい不服従、それが働きを妨げている程度による。この任務にふさわしい者は、それが行う働きの性質とその働きの重要性によって決まる。この働きの重要性という点では、どんな方法を用いるか、すなわち神の霊が直接働きを行うか、それとも神が受肉して働くのか、あるいは人間を通じて行うかという意味においては、選択肢から最初に除かれるべきは、人間を通じて行う方法である。働きの性質という点では、霊による働きの性質と肉の働きの性質を比べたとき、最終的に、肉によって行う働きが、霊が直接行うより人間にとって有益で、効果的であるということになった。霊と肉のどちらによって働きを行うか決める際、神はこのように考えたのである。各段階の働きには意味と根拠がある。それらは根拠のない想像ではなく、また、恣意的に行われたことでもない。そこにはある種の知恵が働いている。それが神の働きの背後にある真実である。とりわけ、神自らが受肉して人間の間で働くような偉大な働きにおいては、さらなる神の計画がある。そこで、神の知恵と神の存在すべてがあらゆる行為、考え、働きの構想に反映されている。これは神のより確固として体系的なありかたである。こうした緻密な考えや構想は人間には想像しにくく、信じ難いし、そのうえ、知ることも困難だ。人間の行う働きは一般的な原則によるもので、それは人間には極めて満足のいくものだ。しかし、神の働きと比べると、あまりに大きな隔たりがある。神の業は偉大で、神の働きは規模が壮大であるが、その陰には人間には想像もできないような多くの綿密な計画や工夫がある。神の働きの各段階までもが原則に則っているだけではなく、人間の言語では表現できないようなことが数多く含まれている。そして、そうしたものは、人間には見えないものなのだ。霊の働きであろうと、受肉した神の働きであろうと、いずれも神の働きの計画を含んでいる。神は無意味に働きをせず、取るに足りない働きもしない。霊が直接働く時、神の目的を伴っている。神が働きのために人間になるとき(つまり外形を変える時)は、それ以上に目的があってのことである。そうでなければ、どうして進んで身分を変えるだろう。そうでなくて、どうして進んで卑しくみなされ迫害される人になるのか。

『言葉は肉において現れる』の「堕落した人類には受肉した神による救いの方が必要である」より引用

日々の神の御言葉 抜粋 16

今日の働きは恵みの時代の働きを推し進めてきた。すなわち、六千年にわたる経営(救いの)計画全体における働きが前進したのである。恵みの時代は終わったが、神の働きはさらに前進している。今の段階の働きは恵みの時代と律法の時代を基礎にしていると、わたしが繰り返し言うのはなぜか。これは、今日の働きが恵みの時代に行われた働きの延長であり、律法の時代に行われた働きを向上させたものだからである。これら三つの段階は密接に結びついており、それぞれがその次の段階に繋がっている。また、今の段階の働きはイエスによってなされた働きの上に築かれていると、わたしが言うのはなぜか。この段階がイエスによってなされた働きの上に築かれたのでなければ、この段階でもう一つの磔刑が起きていなければならず、過去の段階における贖いの働きも一からやり直す必要があるはずだ。これは無意味なことだろう。従って、働きは完全に終わったのではなく、時代が前進し、働きの水準が以前に比べていっそう高まったということである。今の段階の働きは律法の時代を基礎とし、イエスの働きという岩盤の上に築かれると言うことができるだろう。神の働きは段階ごとに築かれ、今の段階は新しい始まりではない。三段階の働きが結合して初めて六千年にわたる経営(救いの)計画とみなすことができる。今の段階は恵みの時代の働きを基礎として行われる。これら二段階の働きに関連がなければ、なぜ今の段階で磔刑が繰り返されないのか。なぜわたしは人の罪を背負わず、人を直接裁いて罰しに来るのか。人を裁いて罰するわたしの働き、および聖霊の受胎によらないわたしの現在の到来が磔刑に続くものでなかったら、わたしには人を裁いて罰する資格がないだろう。わたしが直接来て人を罰し、裁くのはまさに、わたしがイエスと一つだからである。今の段階の働きはすべて過去の段階の働きの上に築かれている。だからこそ、そのような働きだけが人を一歩一歩救いに導くことができるのである。イエスとわたしは一つの霊から来ている。わたしたちの肉体には何のつながりもないが、わたしたちの霊は一つである。わたしたちが行う内容、わたしたちが担う働きは同じではないが、わたしたちは本質的に同じである。わたしたちの肉体の形は異なるが、これは時代の変化のため、およびわたしたちの働きが異なることを求めているためである。わたしたちの職分は同じではないので、わたしたちが生み出す働きや、わたしたちが人に明かす性質も異なっている。そのようなわけで、人が今日見るものや理解するものは、過去のものと同じではない。それは時代の変化のためである。彼らの肉体の性や形は異なっており、彼らは同じ家族から生まれたのではなく、ましてや同じ時期に生まれたのでもないが、彼らの霊はやはり一つである。彼らの肉体に血縁関係はなく、いかなる物理的関係もないが、彼らが二つの異なる時期に受肉した神であることは否定できない。彼らは同じ血統ではなく、共通する人間の言語をもっていないが(一方はユダヤ人の言語を話す男性であったし、他方は中国語しか話さない女性である)、彼らが受肉した神の肉体であることは否定できない真実である。これらの理由から、彼らは異なる国に暮らし、また異なる期間に、それぞれがなすべき働きを行う。彼らが同じ霊で、同じ本質を有しているという事実にも関わらず、彼らの肉体の外見には絶対的な類似性がまったくない。彼らは同じ人間性を共有しているだけで、肉体的な外見と誕生の状況に関する限り、両者は似ていない。これらのことはそれぞれの働きや、人が彼らに関してもつ認識に何の影響も与えない。なぜなら、最終的に分析すれば、彼らは同じ霊であり、誰も彼らを分けることができないからである。彼らに血縁関係はないが、その霊が彼らの存在全体を担い、異なる時期に異なる働きを割り当て、また彼らの肉体を異なる血統に割り当てる。ヤーウェの霊はイエスの霊の父ではなく、イエスの霊もヤーウェの霊の子ではない。彼らは一つの同じ霊である。同様に、今日の受肉した神とイエスとの間に血縁関係はないが、彼らは一つである。なぜなら、彼らの霊が一つだからである。神は慈悲と慈愛の働きを行うことができ、同様に義なる裁きの働きや人を罰する働き、人にのろいをもたらす働きも行うことができる。そして最終的に、神は世界を滅ぼし、悪しき人々を懲罰する働きを行うことができる。神はこのすべてを自ら行うのではないか。これが神の全能性ではないのか。神は人に律法を布告することも、戒めを発することもでき、また初期のイスラエル人の地上における生活を導くとともに、彼らが神殿や祭壇を建造して、すべてのイスラエル人を統治するよう指導することができた。その権威のため、神は二千年にわたり地上でイスラエル人とともに生きた。イスラエル人はあえて神に反抗しなかった。すべての人がヤーウェを崇拝し、戒めを守ったのである。これが神の権威と全能性によって行われた働きである。恵みの時代、イエスは堕落した全人類(イスラエル人だけではない)を贖うために来た。イエスは人に慈悲と慈愛を示した。恵みの時代に人が見たイエスは慈愛に満ちており、いつも人への愛情にあふれていた。と言うのも、イエスは人を罪から救うために来たからである。イエスは磔刑によって人類を完全に罪から救うまで、人の罪を赦すことができた。その間、神は慈悲と慈愛をもって人の前に現れた。つまり、人が永遠に赦されるよう、イエスは人のために罪の捧げものとなり、人の罪を背負って磔刑に処されたのである。イエスは慈悲深く、憐れみ深く、我慢強く、愛情があった。恵みの時代にイエスに従ったすべての人も、あらゆることにおいて我慢強く、愛情深くあろうとした。彼らは長らく苦しみ、たとえ叩かれても、罵られても、石を投げつけられても、決して反撃しなかった。しかし、この最終段階において、そうなることはもはやあり得ない。イエスとヤーウェの霊は一つだったにもかかわらず、両者の働きはまったく同じというわけではなかった。ヤーウェの働きは時代を終わらせたのではなく、時代を導き、地上における人類の生活を先導したのであり、また今日の働きは、深く堕落させられてきた異邦の民を征服し、中国に暮らす神の選民だけでなく全宇宙と全人類を導くことである。今あなたには、この働きが中国だけで行われているように見えるかもしれないが、実はすでに海外へと広まり始めている。中国の外で暮らす人々が幾度も真の道を探し求めるのはなぜか。それは、霊がすでに働きを開始しており、今日語られる言葉が全宇宙の人々に向けられているからである。これにより、働きの半分がすでに行われている。創世から現在に至るまで、神の霊はこの偉大な働きを推進してきたのであり、またそれ以上に、異なる時代、異なる国々において、異なる働きを行なってきたのである。各時代の人々は、それぞれ異なる神の性質を見ているが、それは神が行う異なる働きを通して自然と明らかにされる。それは神であり、慈悲と慈愛に満ちている。神は人の罪の捧げものであり、人の羊飼いであるが、同時に人の裁き、刑罰、そしてのろいでもある。神は二千年にわたって地上における人間の生活を導くことができ、堕落した人類を罪から贖うこともできた。そして今日、すべての人が神に完全に服従するよう、神は自分のことを知らない人類を征服し、彼らを自身の支配下に置くこともできる。最後に、神は全宇宙の人々の中にある不浄なもの、不義なものをすべて焼き払い、自分が慈悲と慈愛に満ちた神、英知と不思議の神、および聖い神というだけでなく、さらには人を裁く神でもあることを示す。人類の中の悪人にとって、神は燃えさかる炎、裁き、懲罰である。また完全にされるべき人々にとって、神は苦難、精錬、試練であり、同時に慰め、支え、言葉の施し、取り扱い、そして刈り込みである。また淘汰される人々にとって、神は懲罰であり、報いである。

『言葉は肉において現れる』の「二度の受肉が、受肉の意義を完成させる」より引用

日々の神の御言葉 抜粋 17

現在までの六千年にわたる働きを遂行したことで、神はすでに自らの行為の多くを示してきたが、そのおもな目的は、サタンを倒し、すべての人間に救いをもたらすことだった。神はこの機会を利用して、天のすべてのもの、地上のすべてのもの、海中のすべてのもの、そして神が創造した地上のあらゆるものに、神の全能性を知らしめ、神のすべての行為を目撃させる。神はサタンを倒した機会を捕らえて、人間に自らのすべての業を示し、神を褒めたたえさせ、サタンを倒した神の知恵を賛美させる。地に、天に、そして海中にあるすべてのものが神に栄光をもたらし、神の全能性を褒めたたえ、神のすべての業を褒めたたえ、神の聖なる名前を叫ぶ。それは神がサタンを倒した証であり、サタンを征服した証であり、さらに重要なこととして、神が人間を救った証でもある。神の被造物すべてが、神に栄光をもたらし、敵の打倒と勝利の凱旋を褒めたたえ、偉大な勝利の王として神を褒めたたえる。神の目的はサタンの打倒だけではないため、神の働きは六千年間も続いている。神はサタンの打倒を通して人間を救い、サタンの打倒を通して自らのすべての業とすべての栄光を露わにする。神は栄光を手にし、すべての天使たちは神のあらゆる栄光を見るだろう。天の使者たち、地上の人間たち、そして地上のすべての被造物は、創造主の栄光を見るだろう。これが神の行う働きである。天と地における被造物はすべて神の栄光を目の当たりにし、神はサタンを完全に打ち倒した後、意気揚々と凱旋し、人間に自らを褒めたたえさせることで、自らの働きにおける二重の勝利を成し遂げる。最終的にすべての人間は神によって征服され、抵抗したり反抗したりする者は神に一掃される。つまり、サタンに属する者すべてが一掃されるのだ。

『言葉は肉において現れる』の「あなたは全人類がこれまでどのように発展してきたかを知らねばならない」より引用

日々の神の御言葉 抜粋 18

ヤーウェがイスラエル人に行なった働きは、地上における神の起源の場所を人類の間で確立させたが、それは神が臨在した聖なる場所でもあった。神はその働きをイスラエルの人々に限定した。当初、神はイスラエルの外では働かず、むしろ働きの範囲を限定するため、神が適切とみなした民を選んだ。イスラエルは神がアダムとエバを創った場所であり、ヤーウェはその場所の塵から人間を創造した。この場所は地上におけるヤーウェの働きの拠点となった。イスラエル人はノアの子孫であり、またアダムの子孫でもあるが、地上におけるヤーウェの働きの基盤となる人間だった。

その当時、イスラエルにおけるヤーウェの働きの意義、目的、段階は、全地球上で働きを始めることであり、それはイスラエルを中心としながら徐々に異邦人の国々に広まった。これが全宇宙にわたる神の働きの原則である。つまり、ある模範を確立したあと、宇宙のすべての人が神の福音を受け取るまでそれを広げるのである。最初のイスラエル人はノアの子孫だった。これらの人々はヤーウェの息だけを授けられ、生活する上で必要となる基本的なことに対処できるだけのことを理解したが、ヤーウェがどのような神であるかや、人間に対するヤーウェの旨は知らず、ましてや万物創造の主をどのように崇めるべきかなど知らなかった。従うべき[a]規則や掟があったかどうか、また被造物が創造主のために尽くすべき本分があったかどうかについても、アダムの子孫たちは一切知らなかった。彼らが知っていたのは、夫は家族を養うために汗を流して労働しなければならず、妻は夫に従い、ヤーウェが創造した人類を永続させなければならないことだけだった。言い換えるなら、このような人々は、ヤーウェの息といのちだけをもっており、どのように神の律法に従うべきか、どのように万物創造の主を満足させるべきかについては何も知らなかった。あまりに何も理解していなかったのである。そのため、心の中によこしまなものや不実なものが一切なく、自分たちの間で嫉妬や争いが生じることも滅多になかったが、ヤーウェ、すなわち万物創造の主についてはなんら認識も理解もしていなかった。これら人間の祖先はヤーウェのものを食べ、ヤーウェのものを享受することは知っていたが、ヤーウェを畏れることは知らなかった。ヤーウェはひざまずいて礼拝すべき唯一の方であることを知らなかったのである。ならば、どうして彼らを神の被造物と呼べようか。そうであれば、「ヤーウェは万物創造の主である」そして「人間が神を明らかにし、神の栄光を表し、神を体現するようにすべく、神は人間を創造した」という言葉は、無駄に語られたのではないだろうか。ヤーウェに畏敬の念をもたない人が、どうしてヤーウェの栄光を証しできようか。どうしてヤーウェの栄光を明らかにすることができようか。ならば、「わたしはわたしに似せて人を創った」というヤーウェの言葉は、サタンという邪悪な存在が掌中に収める武器にならないだろうか。そしてこれらの言葉は、ヤーウェによる人の創造にとって不名誉の印とならないだろうか。ヤーウェは働きのその段階を完了すべく、人類創造の後、アダムからノアに至るまで、人類を教えたり導いたりすることはなかった。むしろ、洪水が世界を滅ぼして初めて、ノアの子孫であり、またアダムの子孫でもあるイスラエル人を、ヤーウェは正式に導き始めたのである。イスラエルにおけるヤーウェの働きと発した言葉は、イスラエルのすべての人々がイスラエルの全土で生活するにあたって導きを与えた。そのことは、ヤーウェは人間に息を吹き込み、それによって人間がヤーウェからいのちを与えられ、塵から起き上がって被造物となるようにすることができるだけでなく、人類を焼き尽くしたり、呪ったり、またその杖を使って人類を支配できることをも人に示した。それで人間もまた、ヤーウェが地上における人の生活を導き、昼と夜の時刻に従って人類の間で言葉を語り、働きを行なえることを知った。ヤーウェが行なった働きはひとえに、人がヤーウェによってつまみ上げられた塵に由来すること、そしてさらに、人がヤーウェによって創造されたことを被造物が知るようにするためである。これだけではなく、ヤーウェが最初にイスラエルで働きを行なったのは、他の民族と国々(実際のところ、それらはイスラエルと無関係ではなく、イスラエル人から枝分かれしたものの、依然としてアダムとエバの子孫である)が、イスラエルからヤーウェの福音を受け取るようにするため、そして宇宙のすべての被造物がヤーウェを畏れ、ヤーウェを偉大なものとして掲げられるようにするためである。ヤーウェがイスラエルで働きを開始せず、その代わりに人類を創造した後、彼らを地上でのんきに生活させていたら、その場合、人間は自分の肉体の本性(本性とは、人間は自分に見えないものを決して認識できないことを意味する。つまり人間は、人類を創造したのがヤーウェであることを決して知り得ず、ましてヤーウェがなぜそうしたかなどまったく知ることがないのである)のせいで、人類を創造したのがヤーウェであることも、ヤーウェが万物の主であることも知るはずがなかった。ヤーウェが人間を創造して地上に置いた後、人類の間に一定期間留まって彼らを導かず、ただ手の塵を払って立ち去っていたら、全人類は無に帰していただろう。ヤーウェが創造した天地と無数の万物、そして全人類さえも無に帰し、それ以上に、サタンによって踏みつけられていただろう。そうなれば、「地上において、つまり天地創造の中心において、ヤーウェは立つべき場所、聖なる場所をもたなければならない」というヤーウェの望みは打ち砕かれていただろう。だから、人類創造の後、ヤーウェが人間のもとにとどまって人の生活を導き、彼らの間で話しかけることができたのは、すべてヤーウェの望みをかなえ、その計画を達成するためだった。イスラエルにおいてヤーウェが行なった働きは、万物の創造に先だって定めた計画を実行することだけが目的であり、それゆえイスラエル人の間におけるヤーウェの最初の働きと、ヤーウェによる万物の創造は、互いに相容れないものではなく、いずれもヤーウェの経営(救い)、働き、栄光のためになされたのであり、また人類創造の意義を深めるためになされたものでもあった。ノアの後、ヤーウェは二千年にわたって地上における人類の生活を導いた。その間、ヤーウェは人類に対し、どのようにヤーウェ、すなわち万物の主を畏れるべきか、どのように生活を送るべきか、どのように生き続けるべきか、そして何より、どのようにヤーウェの証人として行動し、ヤーウェに従い、ヤーウェを崇めるべきかを教え、そのため人類は、ダビデとその祭司が行なったように、音楽でヤーウェを讃美することさえした。

『言葉は肉において現れる』の「律法の時代における働き」より引用

脚注

a. 原文に「従うべき」の語句は含まれていない。

日々の神の御言葉 抜粋 19

ヤーウェが働きを行なった二千年間の前、人間は何も知らず、ほぼすべての人が堕落し、洪水によって世界が滅ぼされるころには乱交と堕落の深みに陥り、その心にヤーウェは姿も形もなく、ヤーウェの道もさらになかった。人々はヤーウェが行なおうとしていた働きを理解しなかった。彼らには理知がなく、見識などさらになく、まるで息をする機械のように、人間、神、世界、いのちなどについてまったく無知だった。地上において、人々はヘビのように多くの誘惑をなし、ヤーウェを侮辱することを数多く言った。しかし、人々は無知だったので、ヤーウェは彼らを罰することも、懲らしめることもなかった。洪水の後、ノアが六百一歳のときに初めて、ヤーウェは正式にノアのもとに姿を見せ、ノアとその家族を導く一方、ノアとその子孫とともに洪水を生き延びた鳥や野獣を、律法の時代が終わるまで合計二千五百年間にわたって導いた。ヤーウェは二千年のあいだ、イスラエルにおいて、つまり正式な形で働きを行ない、そしてイスラエルの中と外で同時に五百年間働き、合計で二千五百年間働いた。この期間、ヤーウェはイスラエル人に対し、ヤーウェに仕えるためには神殿を建て、祭司の衣服をまとい、履物が神殿を汚してその頂上から火が降り、自分たちが焼き殺されることのないよう、夜明けに裸足で神殿に入ることを命じた。イスラエル人は自分たちの本分を尽くし、ヤーウェの計画に従った。彼らは神殿でヤーウェに祈り、ヤーウェの啓示を受けた後、つまり、ヤーウェが語った後は、多くの人々を導き、彼らの神であるヤーウェを崇めなくてはならないと教えた。そしてヤーウェは彼らに対し、神殿と祭壇を作り、ヤーウェが定めた時間、つまり過越の祭の日には、ヤーウェへの生贄として生まれたばかりの子牛と子羊を用意して、祭壇に供えなければならないと教えた。それは彼らを抑制させるため、ヤーウェへの畏敬の念を心に抱かせるためである。この律法に従ったか否かが彼らのヤーウェへの忠誠を測る尺度となった。またヤーウェはイスラエル人の安息日、つまり天地創造の七日目を定めた。安息日の翌日にヤーウェは最初の日、つまりイスラエル人がヤーウェを讃え、ヤーウェに生け贄を捧げ、ヤーウェのために音楽を奏でる日を定めた。この日、ヤーウェはすべての祭司を呼び集め、祭壇の上の生け贄を分け、人々が食べるように命じた。これは、人々がヤーウェの祭壇の生け贄を享受できるようにするためである。さらにヤーウェは、イスラエル人は祝福されており、ヤーウェと分かち合っており、ヤーウェの選民であると言った(それはヤーウェによるイスラエル人との契約だった)。これが、ヤーウェは自分たちだけの神であって異邦人の神ではないと、イスラエルの人々が今日に至るまで言う理由である。

『言葉は肉において現れる』の「律法の時代における働き」より引用

日々の神の御言葉 抜粋 20

律法の時代、ヤーウェは多くの戒めを定め、モーセがそれを、自分に従ってエジプトを脱出したイスラエル人に伝えるようにした。それらの戒めはヤーウェによってイスラエル人に与えられたものであり、エジプト人にはなんら関係のないものだった。それらはイスラエル人を抑制するためのものであり、ヤーウェは戒めによってイスラエル人に要求した。安息日を守っているか、両親を敬っているか、偶像を崇拝しているかなどが、彼らが罪深いか義であるかを判断する原則だった。イスラエル人の中には、ヤーウェの火で打ち倒された者、石打ちの刑に処された者、ヤーウェの祝福を受けた者がおり、これはそうした戒めを守ったか否かによって決められた。安息日を守らなかった者は石打ちの刑に処された。安息日を守らなかった祭司はヤーウェの火で打ち倒された。両親を敬わなかった者もまた石打ちの刑に処された。これはすべてヤーウェに称賛されることだった。ヤーウェは戒めと律法を定め、そうすることで人々の生活を導きながら、彼らがヤーウェの言葉を聞いてそれに従い、ヤーウェに反抗することのないようにした。ヤーウェはこれらの律法を用いて生まれたばかりの人類を支配したが、それはヤーウェによる将来の働きの基礎を築く上で有益だった。そのため、ヤーウェが行なった働きにもとづき、最初の時代は律法の時代と呼ばれた。ヤーウェは多くの発言をし、かなりの働きをしたものの、人々を前向きに導き、それら無知な人々に対して、どのように人間になるべきか、どのように生きるべきか、どのようにヤーウェの道を理解するべきかを教えるだけだった。ヤーウェが行なった働きの大半は、人々がヤーウェの道を守り、ヤーウェの律法に従うようにするためだった。その働きは軽く堕落した人々になされたのであって、人々の性質を変化させることや、いのちの進歩までには至らなかった。ヤーウェは律法を用いて人々を抑制、支配することにしか関心がなかったのである。当時のイスラエル人にとって、ヤーウェは神殿にいる神、天にいる神でしかなかった。ヤーウェは雲の柱、火の柱だったのである。ヤーウェが人々に求めたのは、今日の人々にヤーウェの律法、およびヤーウェの戒めとして知られているもの、つまり規則と呼んでも差し支えないものに従うことだけだった。なぜなら、ヤーウェがしたことに人々を変えようとする意図はなく、人々がもつべきものをさらに与え、自らの口で教え導くことが目的だったからである。と言うのも、人間は創造された後、もつべきものを何ももっていなかったからである。それゆえヤーウェは、人々が地上で生活するにあたってもつべきものを与え、自ら導いてきた人々がその先祖であるアダムとエバを超えるようにした。なぜなら、ヤーウェが彼らに与えたものは、最初にアダムとエバに与えたものを超えていたからである。それにもかかわらず、ヤーウェがイスラエルで行なった働きは、人類を導き、人類にその創造主を認識させることだけだった。ヤーウェは人々を征服することも変えることもせず、ただ導いたにすぎない。これが、律法の時代におけるヤーウェの働きの概要である。これがイスラエルの全土におけるヤーウェの働きの背景、内幕、そして本質であり、人類をヤーウェの手中で支配するという、神の六千年にわたる働きの始まりだった。ここから神の六千年にわたる経営計画におけるさらなる働きが生まれたのである。

『言葉は肉において現れる』の「律法の時代における働き」より引用

日々の神の御言葉 抜粋 21

最初、旧約聖書の律法の時代に人間を導くのは、子どもの生活を導くようなものだった。原初の人類はヤーウェから生まれたばかりで、彼らこそイスラエル人だった。彼らはいかに神を崇めるべきかも、いかに地上で生きるべきかも分からなかった。言うなれば、ヤーウェは人類を創造したが、つまりアダムとエバを造ったが、ヤーウェをいかに崇めるべきかや、地上におけるヤーウェの掟をいかに守るべきかを理解する能力を人類に与えなかったのである。ヤーウェによる直接の導きがなければ、誰もそれらを直接知ることはできなかった。最初のうち、人間はそのような能力をもっていなかったからである。人間はヤーウェが神であるということだけを知っており、いかに神を崇めるべきか、どのような行為が神を崇めることだと言えるのか、どのような心で神を崇めるべきか、あるいは神への畏敬のしるしとして何を捧げるべきかについて、何一つまったく知らなかった。人間は、ヤーウェが創造した万物のなかで享受できるものをいかに享受するかしか知らなかった。地上におけるどういった生活が神の被造物にふさわしいかということについて、人間は少しも知らなかった。彼らに指導する者、彼らを直接導く者がいなければ、このような人間たちは人類にふさわしい生活を送ることなく、密かにサタンの虜にされていただけだろう。ヤーウェは人類を創造したが、つまり人類の祖先であるエバとアダムを造ったが、それ以上に知性や知恵を与えなかった。彼らはすでに地上で暮らしていたが、ほとんど何も理解していなかった。そのため、人類の創造におけるヤーウェの働きは半分しか完了しておらず、完成にはほど遠かった。ヤーウェは土で人間の雛形を造り、それに息を吹き入れただけで、人間に神を崇めようという十分な意欲を授けることはなかった。最初のころ、人間は神を崇めたり恐れたりする心をもたなかった。神の言葉に耳を傾けることを知っていただけで、地上の生活についての基本的知識や人間生活の正しい規則に関しては無知だった。このようなわけで、ヤーウェは男と女を造り、七日間の計画を終えたものの、人間の創造を完成させることは決してなかった。人間は殻でしかなく、人であることの現実を欠いていたからである。人は、人類を創造したのがヤーウェであることしか知らず、ヤーウェの言葉や律法にどう従うべきかについては何も知らなかった。だから人類が存在するようになった後も、ヤーウェの働きは完成からほど遠かった。それでもヤーウェは、人々が地上で共に暮らし、ヤーウェを崇めることができるよう、またヤーウェの導きのもと、人々が地上における正常な人間生活の正しい軌道に入れるよう、人間をしっかりと導き、自身の面前に来させる必要があった。そうすることでのみ、おもにヤーウェの名のもとで行なわれた働きはすっかり完成された。つまり、そのようにして初めて、ヤーウェの創世の働きが完全に完了したのである。このように、人類を創造したヤーウェは、人類がヤーウェの命令と律法に従い、地上における正常な人間生活のあらゆる活動に携われるよう、地上における人類の生活を何千年間も導かねばならなかった。そのとき初めてヤーウェの働きは完全に完成したのである。

『言葉は肉において現れる』の「神の働きのビジョン(3)」より引用

日々の神の御言葉 抜粋 22

イエスの働きは、その時代における人の必要性に応じて行われた。その務めは人間を贖い、その罪を赦すことであるがゆえに、イエスの性質は全体が謙遜、忍耐、愛、敬虔、寛容、憐れみ、慈しみであった。イエスは人間に豊かな祝福と恵みをもたらし、平和、喜び、イエスの寛容と愛、その憐れみと慈しみといった人々が享受することのできるあらゆるものをもたらした。その当時、人が受け取ったあふれんばかりの楽しむことがら、すなわち心の平安と安心、霊の慰め、救い主イエスによる支え、これらのものは、人の生きた時代ゆえにもたらされたのである。恵みの時代、人はすでにサタンにより堕落させられていたので、すべての人を贖う働きを完遂するためには、満ちあふれる恵み、限りない寛容と忍耐、そしてさらに、効果を及ぼすためには、人間の罪を贖うのに十分な捧げ物が必要であった。恵みの時代に人々が見たのは、人間の罪のためのわたしの捧げ物であるイエスに過ぎなかった。人々は神は憐れみ深く寛容であり得ることだけしか知らず、イエスの慈しみと憐れみしか見なかった。それは彼らが恵みの時代に生きていたからである。そのようなわけで、贖われる前に人々はイエスが彼らに授けるさまざまな恵みを楽しみ、その恩恵を受けなければならなかった。それにより、彼らは恵みを享受することでその罪を赦されることができ、イエスの寛容と忍耐を享受することで贖われる機会を得ることができた。イエスの寛容と忍耐を通してのみ、人々は赦しを受け、イエスが授けるあふれる恵みを楽しむ権利を手にすることができた。それはイエスが、「わたしは義人ではなく罪人を贖い、罪人がその罪を赦されるようにするためにきたのである」と言ったとおりであった。もしイエスが裁きと呪い、人間の過ちに対する不寛容の性質を持って受肉していたなら、人には決して贖われる機会はなく、永遠に罪深いままでいたことであろう。もしそうなっていたなら、六千年の経営計画は律法の時代で止まり、律法の時代は六千年間続いていたであろう。人の罪は数が増し、よりひどいものとなり、人間の創造は無価値なものとなっていたであろう。人は律法のもとでのみヤーウェに仕えることができたではあろうが、彼らの罪は最初に創造された人間の罪をも上回るものとなっていたであろう。イエスが人類を愛し、その罪を赦し、十分な慈しみと憐れみを与えれば与えるほど、人類はイエスにより救われ、イエスが大きな代価で買い戻した迷える子羊と呼ばれる資格があった。イエスは自分の追随者をあたかも母親が我が子を腕のなかであやすように取り扱ったので、サタンはこの働きに干渉することができなかった。イエスは人々に対して腹を立てたり嫌ったりせず、慰めに満ちていた。人々とともにいても激怒するようなことは決してなく、「七の七十倍までも相手を赦しなさい」と言うほどまでに罪に寛容で、人々の愚かさと無知を見逃した。そのようにしてイエスの心は他者の心を変容させ、それゆえに人々はイエスの寛容を通して赦しを受けた。

『言葉は肉において現れる』の「贖いの時代における働きの内幕」より引用

日々の神の御言葉 抜粋 23

受肉したイエスには全く感情がなかったが、常にその弟子たちを慰め、施し、助け、支えた。どれほどの働きをしても、どれほどの苦しみを耐えても、決して人々に過大な要求を課すことなく、常に忍耐強く、彼らの罪を耐え忍んだ。そのため恵みの時代の人々はイエスを「愛すべき救い主イエス」と愛情を込めて呼んだ。当時の人々、すべての人々にとって、イエスが持っているものとイエスであるものは、慈しみと憐れみであった。イエスは決して人々の過ちを心に留めず、人々への接し方がその過ちをもとにするようなことは決してなかった。それは異なる時代だったため、イエスはよく食べ物をたっぷり人々に与え、彼らが十分食べられるようにした。イエスは追随者すべてに優しく接し、病人をいやし、悪霊を追い出し、死人をよみがえらせた。人々がイエスを信じ、その行いすべてが真剣かつ真心からのものであることが分かるように、腐った死体をよみがえらせることさえして、その手の中では死人さえも生き返ることを彼らに示した。このようにしてイエスは人々のあいだで静かに耐え忍び、その贖いの働きを行なった。十字架につけられる前でさえ、イエスはすでに人間の罪を負い、人類のための罪の捧げ物となっていた。十字架につけられる前から、イエスは人類を贖うために十字架への道をすでに開いていた。ついに十字架で釘づけにされ、十字架のために自分自身を犠牲として捧げ、そのすべての慈しみ、憐れみ、そして聖さを人類に授けた。人々にはイエスは常に寛容であり、決して復讐を求めず、人々の罪を赦し、人々に悔い改めるよう勧め、忍耐、寛容、愛を持ち、自らの足跡に従い、十字架のゆえに自分自身を捧げるよう教えた。イエスの兄弟姉妹への愛は、マリアへの愛に勝るものだった。イエスの働きの原則は、病人をいやし、悪霊を追い出すことであり、それらはすべてその贖いのためであった。どこへ行っても、イエスは従ってくる人すべてに思いやりを持って接した。貧しい者を豊かにし、足の不自由な人を歩けるようにし、目の見えない人を見えるようにし、耳の聞こえない人を聞こえるようにした。身分が一番低かった人々や乏しい人々、罪人さえ招いて共に食卓につき、彼らを遠ざけることなく常に忍耐強く、「羊飼いが羊を百匹持っていて、その一匹が迷ったとすれば、九十九匹を残しておいて、迷った一匹を捜しに行く。そしてそれを見つけたら、大いに喜ぶだろう」とさえ言った。イエスは雌羊がその子羊を愛するように、その追随者を愛した。彼らは愚かしく無知で、イエスの目には罪人であり、さらには社会において最も身分の低い者であったにもかかわらず、イエスは他の人々からさげすまれていたこれらの罪人を自分のひとみのように大切なものとして見た。彼らへの好意ゆえに、イエスは祭壇に捧げられる子羊のように、彼らのためにその命を捨てた。彼らのもとではしもべのようにふるまい、利用され、なぶり殺されるままにし、無条件に彼らに服従した。追随者にとってはイエスは愛すべき救い主であったが、上座から人々に説教したパリサイ人に対しては、イエスは慈しみや憐れみではなく、嫌悪と怒りを示した。イエスはパリサイ人のあいだではあまり働くことはなく、ごくまれに彼らに教えを説き叱責したが、彼らのもとで贖いの働きを行なうことはなく、しるしや奇跡を行うこともなかった。イエスはその慈しみと憐れみを追随者に与え、これら罪人たちのために十字架に釘づけられた最後の最後まで耐え忍び、ありとあらゆる屈辱に耐え、ついにすべての人間を完全に贖った。これがイエスの働きの全体である。

イエスの贖いがなければ、人類は永遠に罪の中に生き、罪の子、悪魔の子孫となっていたはずである。この状態が続けば、地上全体がサタンの住む地、その住まいとなっていたであろう。しかしこの贖いの働きは人類への慈しみと憐れみを示すことを必要とした。そのような手段によってのみ、人類は赦しを受け、ついに全き者とされ、神に完全に得られる資格を得ることができた。この働きの段階がなければ、六千年の経営計画は前に進むことはできなかっただろう。もしイエスが十字架にかけられることなく、ただ病人をいやし、悪霊を追い出しただけだったなら、人々はその罪を完全に赦されることはなかったであろう。イエスが地上で働きをなした三年半のあいだ、イエスはその贖いの働きを半分完成させただけであり、十字架に釘づけにされ、罪深い肉の姿となり、悪しき者に引き渡されることによってのみ、イエスは十字架での働きを完成させ、人間の運命を掌握した。サタンの手に引き渡されて初めて、イエスは人類を贖った。三十三年半のあいだイエスは地上で苦しみ、あざけられ、中傷され、見捨てられ、まくらする場所や休む場所さえないほどにまで放置され、その後十字架につけられ、聖なる罪のない体であるイエスの存在全体が十字架で釘づけにされた。イエスはあらゆる苦しみに耐えた。権力者たちはイエスをあざ笑い、むち打ち、兵士たちはその顔に唾を吐きさえした。それでもイエスは黙ったまま最後まで耐え忍び、死にいたるまで無条件に従い、そこですべての人間を贖った。そのとき初めてイエスは安息することができた。イエスが行なった働きは、恵みの時代のみを表すものであり、律法の時代を表すものではなく、また終わりの日々の働きに代わるものでもない。これが人類にとっての第二の時代である贖いの時代という、恵みの時代におけるイエスの働きの本質である。

『言葉は肉において現れる』の「贖いの時代における働きの内幕」より引用

日々の神の御言葉 抜粋 24

ヤーウェの働きの後、人のあいだで神の働きを行うためにイエスは受肉した。イエスの働きは単独で実行されたのではなく、ヤーウェの働きの上に築かれた。それは律法の時代を神が終わらせた後の新しい時代のための働きであった。同様に、イエスの働きが終わった後、神は次の時代のためにさらに神の働きを続行した。神による経営(救い)全体はいつも前進しているからである。古い時代が過ぎると、新しい時代に置き換えられ、古い働きが完了すると、新しい働きが神の経営を続行する。今回の受肉はイエスの働きの完了に続く神の二回目の受肉である。もちろん、この受肉は単独で起こるのではなく、律法の時代と恵みの時代の後の第三段階の働きである。神の働きの新しい段階はそれぞれいつも新しい始まりと新しい時代をもたらす。そこで神の性質、神の働き方、神の働く場所、神の名にもそれに付随した変化がある。したがって、人にとっては、新しい時代の神の働きを受け入れるのが難しいのは無理もない。しかし、いかに人が反対しようと、それには関係なく、神はいつも自分の働きを行っており、いつも人類全体を前方に導いている。イエスが人の世に誕生した時、イエスは恵みの時代をもたらし、律法の時代を終わらせた。終わりの日において神はもう一度肉となり、今回人間の姿になった時、神は恵みの時代を終わらせ、神の国の時代をもたらした。神の二回目の受肉を受け入れる人々はすべて神の国の時代に導かれ、直接神の導きを受け入れることができるだろう。イエスは人間のあいだでたくさんの働きをしたが、全人類の贖いを完了しただけで、人の贖罪のためのささげものとなり、人から堕落した性質のすべてを取り除くことはなかった。サタンの影響から完全に人を救うためには、イエスが贖罪のささげものとして人の罪を引き受けることが必要だっただけではなく、神にとっても、サタンによって堕落させられた人の性質を完全に取り除くためにもっと大きな働きを行うことが必要だった。そこで、人が罪を赦された後、神は人を新しい時代に導くために人間の姿に戻り、刑罰と裁きの働きを開始し、この働きは人をより高い領域に連れてきた。神の支配の下に従う人々はすべてより高い真理を享受し、より大きな祝福を受けるだろう。彼らは本当に光の中に生き、真理、道、いのちを得るだろう。

『言葉は肉において現れる』の「序文」より引用

日々の神の御言葉 抜粋 25

人々が恵みの時代に留まっていれば、彼らは堕落した性質を決して免れないし、ましてや神の本来の性質を知ることはない。人々がいつも豊かな恵みの中に生きていても、神を知り、神を満足させることを可能にするいのちの道がなければ、いくら神を信じても決して本当に神を得ることはないだろう。それはなんと哀れな形の信仰ではないか。あなたがこの本を読み終えた時、神の国の時代における受肉した神の働きの各段階を経験した時、あなたは長年の希望がついに実現されたことを感じるだろう。あなたはそのとき初めて本当に神を直接見たと感じるだろう。初めて神の顔をじっと見つめ、神自らの発言を聞き、神の働きの英知を正しく理解し、神がなんと現実的で全能かを本当に感じるだろう。あなたは過去の人々が決して目にしたり、所有したりしたことのない多くの事柄を獲得したことを感じるだろう。この時、あなたは神を信じるとは何か、神の心に従うとは何かをはっきりと知るだろう。もちろん、あなたが過去の考えに執着し、神の二度目の受肉の事実を否定、あるいは拒絶するならば、あなたがたは手ぶらなままでとどまり、何も獲得せず、ついには神に反抗するという罪を犯すだろう。真理に従い、神の働きに服従する人々は再び受肉した神――全能者の名の下に集うだろう。彼らは神自らの導きを受け入れ、さらに多くの高い真理を手に入れ、本当の人生を受けるだろう。彼らは過去の人々が決して目にすることのなかったビジョンを見るだろう。「そこでわたしは、わたしに呼びかけたその声を見ようとしてふりむいた。ふりむくと、七つの金の燭台が目についた。それらの燭台の間に、足までたれた上着を着、胸に金の帯をしめている人の子のような者がいた。そのかしらと髪の毛とは、雪のように白い羊毛に似て真白であり、目は燃える炎のようであった。その足は、炉で精錬されて光り輝くしんちゅうのようであり、声は大水のとどろきのようであった。その右手に七つの星を持ち、口からは、鋭いもろ刃のつるぎがつき出ており、顔は、強く照り輝く太陽のようであった」(ヨハネの黙示録 1:12-16)。このビジョンは神の全性質の現れであり、このような神の全性質の現れは、今回人の姿となった神の働きの現れでもある。刑罰と裁きを連発する中で、人の子は言葉を話すことによって本来の性質を表現し、その刑罰と裁きを受け入れるすべての人々が人の子の本当の顔、ヨハネが見た人の子の顔の忠実な描写である顔を見ることを認める。(もちろん、このすべては神の国の時代の神の働きを受け入れない人々には見えないだろう。)神の本当の顔は人間の言葉では十分明確に表現することはできないので、神はその本来の性質の表現を用いて人に本当の顔を示す。すなわち、人の子の本来の性質を経験した人々はすべて、人の子の本当の顔を見たのである。神はあまりに偉大なので、人の言葉で十分明確に表現することができないからである。いったん神の国の時代における神の働きの各段階を経験したら、ヨハネが燭台の明かりの中にいる人の子について語った言葉の意味を人は知るだろう。「そのかしらと髪の毛とは、雪のように白い羊毛に似て真白であり、目は燃える炎のようであった。その足は、炉で精錬されて光り輝くしんちゅうのようであり、声は大水のとどろきのようであった。その右手に七つの星を持ち、口からは、鋭いもろ刃のつるぎがつき出ており、顔は、強く照り輝く太陽のようであった」。その時、あなたは、これほどの多くの言葉を語ったこの普通の人間が、本当は二度目の受肉した神であることをまったく疑う余地なく知るだろう。そしてあなたは自分がいかに祝福されているかを本当に感じ、自分がもっとも幸運であると感じるであろう。あなたはこの恩恵を受け入れたくないだろうか。

『言葉は肉において現れる』の「序文」より引用

日々の神の御言葉 抜粋 26

終わりの日の働きは言葉を語ることである。言葉により、大きな変化が人の中で生じ得る。現在、それらの言葉を受け入れた人たちに生じる変化は、恵みの時代にしるしや不思議を受け入れた人たちに生じた変化よりもはるかに大きい。と言うのも、恵みの時代において、悪霊は按手と祈りによって人から追い出されたが、人の中の堕落した性質が依然残っていたからである。人は病を癒され、罪を赦されたが、人の中にある堕落したサタン的性質がいかに清められるかについて言えば、その働きはまだなされていなかったのである。人は信仰のゆえに救われ、罪を赦されただけで、人の罪深い本性は根絶されず、依然としてその内面に残っていた。人の罪は神の受肉を通じて赦されたが、それはその人の中にもはや罪がないという意味ではない。人の罪は、罪の捧げ物を通じて赦されることができたものの、どうすれば人がこれ以上罪を犯さないようになり、その罪深い本性が完全に根絶され、変化するかということについて言えば、人にはその問題を解決する術がないのである。人の罪は神による磔刑の働きゆえに赦されたが、人は以前の堕落したサタン的性質の中で生き続けた。そのため、人は堕落したサタン的性質から完全に救われなければならない。そうすることで、その人の罪深い本性が完全に根絶され、二度と芽生えなくなり、かくして人の性質が変わるのである。そのためにも、人はいのちの成長の筋道、いのちの道、そして性質を変える道を把握しなければならない。さらに、人はこの道に沿って行動することが求められる。その結果、人の性質は次第に変わり、その人は光の輝きの下で生き、何事も神の旨に沿って行ない、堕落したサタン的な性質を捨て去り、サタンの闇の影響から自由になることができ、それにより罪から完全に抜け出せるのである。このとき初めて人は完全なる救いを受けることになる。イエスが働きを行なっていたとき、イエスに関する人の認識はいまだ漠然として不明瞭だった。人はずっとイエスをダビデの子と信じ、イエスは偉大な預言者で、人の罪を贖う慈悲深い主であると宣言した。信仰のおかげで、イエスの衣の端を触っただけで癒された人もいたし、盲人たちは見えるようになり、死人さえ生き返った。しかし、人は堕落したサタン的性質が自分自身に深く根づいているのを見出すことができず、それを捨て去る方法も知らなかった。人は肉の平安や幸福、一人の信仰による家族全体の祝福、そして病人の癒しなど、多くの恵みを受けた。残りは人の善行や外見上の信心深さだった。そのようなものを基に生きることができるなら、その人はまずまずの信者だと思われた。そのような信者だけが死後、天国に入ることができるとされたのだが、それは彼らが救われたという意味だった。しかし、このような人たちはその生涯において、いのちの道をまったく理解していなかった。ひたすら罪を犯しては告白することを繰り返すばかりで、自身の性質を変える道はもたなかったのである。これが恵みの時代における人間の状態だった。人は完全な救いを得たのか。いや、得てはいない。したがって、その段階の働きが終わったあとも、依然として裁きと刑罰の働きが残っているのである。この段階は言葉によって人を清めるものであり、それによって人に従う道を与える。悪霊を追い出すことを続けるなら、この段階は有益でも意義深くもないだろう。と言うのも、人の罪深い本性が根絶されることはないだろうし、人は罪の赦しで行き詰まるはずだからである。罪の捧げ物を通じ、人は罪を赦されてきた。なぜなら、十字架の働きがすでに終わり、神はサタンに勝利したからである。しかし、人の堕落した性質は依然として人の中に残っており、人は依然として罪を犯し、神に抵抗することができ、よって神はまだ人類を得ていない。そのため、神はこの段階の働きにおいて、言葉を用いて人の堕落した性質を暴き、人に正しい道に沿って実践させるのである。この段階は前の段階よりもさらに有意義であり、いっそう有益である。と言うのも、今、人に直接いのちを施し、人の性質を完全に一新させられるのは言葉だからである。それははるかに徹底的な働きの段階である。ゆえに、終わりの日における受肉は神の受肉の意義を完成させ、人を救う神の経営計画を完全に終わらせたのである。

『言葉は肉において現れる』の「受肉の奥義(4)」より引用

日々の神の御言葉 抜粋 27

終わりの日の働きにおいて、言葉はしるしや不思議の顕示よりも力強く、言葉の権威はしるしや不思議の権威を超越する。言葉は人の心に深く埋もれた堕落した性質を残らず暴く。あなたには自分でそれらを認識する術がない。それらが言葉を通じて暴かれるとき、あなたは当然それを見つけるが、否定することはできず、完全に納得するだろう。これが言葉の権威ではないのか。これが現在の言葉の働きによって得られる成果である。したがって、病を癒したり悪霊を追い出したりすることで、人が罪から完全に救われることはなく、またしるしや不思議を示すことで人がすっかり完全にされることもないのである。病を癒したり悪霊を追い出したりする権威は人に恵みを与えるだけで、人の肉は依然としてサタンに属し、堕落したサタン的性質は依然として人の中に残っている。言い換えると、まだ清められていないものは依然として罪と汚れに属しているのである。人は言葉によって清められて初めて、神のものとされ、聖いものとなる。悪霊が人から追い出されたとき、あるいは人が贖われたとき、それはサタンの手から人をもぎ取り、神のもとに戻したという意味でしかなかった。神によって清められておらず、変えられてもいないなら、人は堕落したままである。人の中には汚れ、敵対心、そして反抗心が依然として存在する。人は神による贖いを通じて神のもとに立ち返っただけで、神についての認識が一切なく、依然として神に抵抗し、神を裏切ることができる。人が贖われる前、サタンの害毒の多くがすでに人の中に植え付けられていた。そしてサタンによって何千年も堕落させられてきた人間には、神に抵抗する本性がすでに定着していた。だからこそ、人が贖われたとき、それは人が高い代価で買い取られるという贖い以上のものではなく、人の中の害毒に満ちた本性は取り除かれていなかった。ここまで汚れた人は、神に仕えるのにふさわしくなる前に変化を経なければならない。この裁きと刑罰の働きによって、人は自分の中の汚れて堕落した本質を完全に知るようになる。そして完全に変わり、清くなることができる。この方法でしか、人は神の玉座の前へと戻るのにふさわしくなることができない。今日なされるすべての働きは、人が清められて変わるためのものである。言葉による裁きと刑罰、そして精錬を通じ、人は自分の堕落を一掃して清められることが可能になる。この段階の働きを救いの働きと考えるよりは、むしろ清めの働きと言ったほうが適切だろう。事実、この段階は救いの働きの第二段階であるとともに征服の段階でもある。人は言葉による裁きと刑罰を通じて神のものとされる。また言葉を用いて精錬し、裁き、露わにすることで、人の心にある汚れ、観念、動機、そして個人的な願望がすべて完全に暴かれる。人は贖われ、罪を赦されたが、それによって見なし得るのは、神は人の過ちを記憶せず、その過ちに応じて人を取り扱わないということだけである。しかし、肉体において生きる人間が罪から解放されていないと、人は罪を犯し続けることしかできず、堕落したサタン的性質をどこまでも示し続ける。これが人の送る生活であり、罪を犯しては赦されるという終わりのないサイクルなのである。人類の大多数は昼間に罪を犯し、夜になると告白するだけである。このように、たとえ罪の捧げ物が人のために永久に有効だとしても、それで人を罪から救うことはできない。救いの働きは半分しか完成していない。人にはいまだ堕落した性質があるからである。たとえば、自分たちがモアブの子孫であることに気づいた人々は、不満の言葉を述べ、いのちを追い求めることをやめ、すっかり否定的になってしまった。これは、人々がいまだ神の支配に完全に服従できないでいることを示しているのではないか。これがまさに、人々の堕落したサタン的性質ではないのか。あなたが刑罰を受けていなかったとき、あなたの手は他の誰よりも高く、イエスの手よりも高く上げられていた。そしてあなたは大声で叫んだ。「神の愛する子になりたまえ。神と心を通わす者になりたまえ。サタンにひれ伏すくらいなら死ぬほうがましだ。あのいまいましい悪魔に対抗したまえ。赤い大きな竜に対抗したまえ。どうか赤い大きな竜が惨めにも完全に権力の座から落ちるように。どうか神が私たちを完全にするように」。あなたの叫び声は他の誰よりも大きかった。しかし、刑罰の時が訪れ、人間の堕落した性質が再び明らかになった。やがて人々の叫びは途絶え、彼らの決意は失われた。これが人間の堕落である。それは罪より根深く、サタンによって植えつけられ、人の奥深くに根ざしたものである。人が自分の罪に気づくのは容易なことではない。人には自分に深く根ざした本性を認識する術がなく、そうするには言葉による裁きに頼らなければならない。そうして初めて、人はその時点から次第に変わってゆくのである。人が過去にそう叫んだのは、自分本来の堕落した性質を認識していなかったからである。これが人間の中に存在する不純なものである。これほど長期間にわたる裁きと刑罰の中、人間はずっと緊張状態の中で生きた。これはすべて言葉によって成し遂げられたのではなかったか。効力者の試練に先立ち、あなたも大声で叫んだのではないか。「神の国に入れ。この名を受け入れる者はみな、神の国に入るだろう。誰もが神にあずかるだろう」と。効力者の試練が訪れたとき、あなたはもはや叫ばなかった。初めは誰もが、「ああ、神よ。あなたが私をいかなる場所に置かれようと、私はあなたの導かれるままに従います」と叫んだ。「誰がわたしのパウロになるのか」という神の言葉を読んだ人々は、「私がなります」と言った。次いで「ヨブの信仰についてはどうか」という言葉を目にして、「ヨブの信仰を身につけようと思います。神よ、どうか私を試してください」と言った。効力者の試練が訪れたとき、人々はすぐさま崩れ落ち、再び立ち上がることもままならなかった。その後、彼らの心の中の不純なものは少しずつ減っていった。これは言葉を通じて成し遂げられたのではないか。したがって、あなたがたが今日経験してきたことは、言葉によって達成された成果であり、イエスによるしるしや不思議の働きを通じて達成された成果よりもさらに大きなものである。あなたが目にする神の栄光と神自身の権威は、磔刑を通じて、あるいは病を癒して悪霊を追い払うことによって見えるだけでなく、神の言葉の裁きを通じてさらにはっきり見えるのである。そのことは、神の権威と力がしるしの働きだけ、あるいは病を癒して悪霊を追い払うことだけから成っているのではなく、神の言葉の裁きが神の権威をよりよく表わし、神の全能をよりよく明らかにできることを示している。

『言葉は肉において現れる』の「受肉の奥義(4)」より引用

日々の神の御言葉 抜粋 28

神の国の時代、神は言葉を用いて新たな時代の到来を知らせ、その働きの方法を変え、その時代全体の働きを行う。これが言葉の時代における神の働きの原則である。神はさまざまな視点から語るために肉となって、肉に現れた言葉である神を人間が真に目のあたりにし、神の知恵と驚くべき素晴らしさを目にできるようにした。このような働きは人間を征服し、完全にし、淘汰するという目的をより効果的に達成するために行われており、それが言葉の時代に言葉を用いて働きを行うことの真の意味なのである。こうした言葉を通して、人々は神の働き、神の性質、人間の本質、そして人間が何に入るべきかを知るようになる。言葉を通して、神が言葉の時代に行おうとしている働きの全体が実を結ぶのだ。こうした言葉を通して、人間は明らかにされ、淘汰され、試される。人々は神の言葉を目にし、その言葉を聞き、その言葉の存在を認識した。その結果、人間は神の存在、神の全能性と知恵、そして神の人間への愛と、人間を救いたいという願望とを信じるようになった。「言葉」という語は単純でごく普通かもしれないが、受肉した神の口から出る言葉は宇宙全体を揺るがし、人々の心を変革し、人々の観念と古い性質を変革し、世界全体の古い現れ方を変革する。多くの時代の中で、今日の神だけがこのように働いてきており、そして今日の神だけがこのように語り、このように人間を救いに来る。これ以降、人間は言葉の導きの下に生き、神の言葉により牧され、施しを受けることになる。人々は神の言葉の世界で、神の言葉の呪いと祝福の内に生きている。そしてさらに多くの人々が、神の言葉の裁きと刑罰との下に生きるようになっている。これらの言葉とこの働きはすべて人間の救いのため、神の旨を成就するため、そして過去の創造による世界の元来の状況を変えるためである。神は言葉をもって世界を創造し、言葉をもって全宇宙の人々を導き、言葉をもって彼らを征服し救う。そして最終的に、神は言葉をもって古い世界全体を終わらせ、その経営(救いの)計画全体を完了させる。神の国の時代全体を通じて、神は言葉を用いて働きを行い、その働きの成果を得る。神は不思議や奇跡を行うことなく、ただ言葉をとおして働きを行う。これらの言葉によって、人間は養われ、施しを受け認識と真の経験とを得る。言葉の時代の人間は格別の祝福を受けている。肉体的な痛みに苦しむことなく、ただ神の言葉の豊かな施しを享受し、無闇に探し求めたり旅をしたりする必要もなく、安穏の只中から神の出現を目にし、神がその口で話すのを聞き、神が施すものを受け取り、神が自らその働きを行うのを見守っている。これらは過去の時代の人々には享受できなかったことであり、彼らが決して受けることのできなかった祝福なのである。

『言葉は肉において現れる』の「神の国の時代は言葉の時代である」より引用

日々の神の御言葉 抜粋 29

サタンに深く堕落させられた人類は、神なるものが存在することを知らず、神を礼拝することをやめてしまった。初めに、アダムとエバが創造された時、ヤーウェの栄光と証しは常に存在していた。しかし、人間は堕落させられた後、その栄光と証しを失った。なぜなら、誰もが神に反抗し、神を畏れ敬うことをすっかりやめてしまったからである。今日の征服の働きは、その証しと栄光のすべてを取り戻し、あらゆる人間に神を崇めさせ、被造物の間に証しを生み出すためである。これが、この段階の働きにおいて達成されなければならないことである。厳密に言って人類はどのように征服されるのか。それは、この段階の言葉の働きを用いて、人間を充分に確信させることによって行われる。また、暴露、裁き、刑罰、情け容赦ない呪いを用いて人間を完全に服従させることによっても行われる。人間の反抗的性質を明らかにし、その抵抗を裁くことで人間に人類の不義と汚れを知らしめ、それらを神の義なる性質の引き立て役として使うことによっても行われる。このように言葉をおもに用いて人間を征服し、完全に確信させる。言葉は人類を征服するための究極的手段であり、神の征服を受け入れる者はみな、神の言葉による鞭と裁きを受け入れなければならない。現在の言葉を語る過程は、征服そのものの過程である。では具体的に、人はどのように協力するべきなのか。これらの言葉をどのように飲食するかを知り、言葉を理解することで協力するのである。人がどのように征服されるかについては、それは人が自分でできることではない。あなたにできるのは、これらの言葉を飲み食いすることによって自分の堕落と汚れ、反抗心と不義とを知り、神の前にひれ伏すことだけである。神の心意を把握した後に、それを実行に移すことができ、そしてビジョンを持ち、これらの言葉に完全に従うことができ、自分勝手な選択をしないならば、あなたは征服されている。そして、それは言葉による成果である。なぜ人類は証しを失ったのか。それは誰も神を信じず、もはや人の心には神の居場所がなくなったからである。人類の征服とは、人類にこの信仰を回復させることである。人は常にこの世に向こう見ずに突き進み、あまりにも多くの望みを胸に抱き、将来にあまりにも多くの期待をかけ、あまりにも多くの途方もない要求をする。人はいつも自分の肉のことを考え、肉のために計画しているが、神を信じる道を求めることにはまったく興味がない。人の心はサタンの虜となり、神を畏れ敬う心を失い、サタンに執着している。しかし、人間は神に創られた。こうして、人間は証しを失ってしまった。つまり、神の栄光を失ったということである。人類を征服する目的は、人間の神への畏敬による栄光を取り戻すことである。それは次のようにも言える。いのちを追い求めない人が大勢いて、たとえいのちを求める人がいたとしても、それは極少数である。人はもっぱら自分の将来のことに気をとられており、いのちのことにはまったく注意を払わない。神に逆らい、抵抗し、背後で神を裁き、真理を実践しない人もいる。今は、このような人は無視され、当分はこのような反逆の子たちについて何も行われない。しかし将来は、あなたは闇の中に住み、泣き叫んで歯ぎしりすることになる。光の中に生きているうちは、その貴重さを感じないだろうが、いったん暗夜の中に住めばそれに気づき、そのとき後悔する。今はいいかもしれないが、後悔する日が訪れる。その日が到来し、暗闇が地を覆い、もはや光がなくなった時、後悔しても遅すぎる。今の時を大切にしないのは、現代における働きを理解していないからである。いちど全宇宙の働きが始まれば、すなわち、わたしが今日言っていることのすべてが現実となる時、多くの人が頭を抱えて悔し涙を流すことになる。これこそ、暗闇の中に落ち、泣き叫び、歯ぎしりすることではないのか。心からいのちを追い求め、完全にされる人は役に立つことができる。一方、役に立たない反逆の子らは暗闇の中に落ちる。聖霊の働きを失い、何もかも意味がわからなくなる。彼らはこのように懲罰の中に陥り、呻いては泣き叫ぶのである。もしあなたがこの段階の働きにおいて充分に用意が整い、いのちにおいて成長しているなら、あなたは用いられるに相応しい。少しも用意が整っていないなら、たとえ次の段階の働きのために呼ばれたとしても、役に立つには不適格である。この時点でいくら自分を整えたくとも、次の機会はもうない。神はもう去ってしまっている。そうなれば、今あなたの目の前にあるような機会をいったいどこに行って見つけるのか。今、神自身が提供している訓練をいったいどこに行って受けようというのか。その時には、神が自ら語り声を発することはない。あなたにできるのは、今日語られていることを読むことだけである。どうして容易に理解できるであろうか。どうして後の生活が今より良いことがありえようか。その時点で、泣き叫び、歯ぎしりし、生き地獄そのものを苦しむことにならないのか。祝福は今あなたに授けられているというのに、それをどのように享受するべきなのかがわかっていない。祝福の中で生きているのに、気付いていない。あなたが破滅し苦しむように運命付けられている証拠である。現代は抵抗する人もいれば、反逆する人もいるし、あれをしたりこれをしたりという人もいる。わたしはあなたをただ無視するが、わたしがあなたがたが何をしているか気付いていないと思ってはならない。わたしはあなたがたの本質を理解していないのか。なぜわたしに逆らい続けるのか。あなたは自分のために、いのちと祝福を追い求めるために、神を信じているのではないのか。あなたに信仰があるのは、自分のためではないのか。現在、わたしは言葉を語ることでのみ征服の働きを行っている。この征服の働きが完了すれば、あなたの最後は明らかになる。はっきりと説明しなければならないであろうか。

『言葉は肉において現れる』の「征服の働きの内幕(1)」より引用

日々の神の御言葉 抜粋 30

現在の征服の働きは、人間の結末がどのようになるかを明らかにすることを意図する。なぜわたしは今日の刑罰と裁きは、終わりの日における大いなる白い玉座の前での裁きだと言うのか。あなたにはこれがわからないのか。なぜ征服の働きは最終段階なのか。これはまさしく、それぞれの種類の人間が最後にどうなるかを明らかにすることではないのか。それは、刑罰と裁きとによる征服の働きの過程において、あらゆる人が自分のありのままの姿をあらわし、その後それぞれの種類に分類されるようにするためではないのか。人類の征服というよりも、これはむしろ各種の人間がどのような最後を迎えるのかを示すことだと言った方が良いくらいである。つまり、これは人の罪を裁き、それから人の様々な種類を明らかにし、それにより、人が悪であるか義であるかを判定することである。征服の働きの後に、善に報い悪を罰する働きが続く。完全に従う人々、つまり、完全に征服された人々は、神の働きを全宇宙に広める次の段階に配置される。征服されなかった者は闇の中に置かれ、災厄に遭う。このように人間はその種類によって分類され、悪を行う者は悪として分類され、二度と陽の光を浴びることがない。義人は善として分類され、光を受け、永遠に光の中で生きる。あらゆるものの終わりは近く、人間の終わりは目の前にはっきりと示され、あらゆるものはその種類によって分けられる。それなら、どうして人間が種類別に分類されるという苦悩から逃れられようか。それぞれの種類の人間の異なる結末は、あらゆるものの終わりが近づいた時に明らかにされる。それは全宇宙の征服の働き(現在の働きに始まるすべての征服の働きを含む)の間に行われる。この全人類の終わりの明示は、裁きの座の前で、刑罰と終わりの日の征服の働きの過程で行われる。種類に従って人々を分類することは、人々を元の部類に戻すことではない。なぜなら、天地創造の際、人間が創られた時には一種類の人間しかなく、唯一の区別は男と女しか存在しなかったからである。人間には多数の種類など存在しなかった。さまざまな種類の人間が現れたのは、何千年にも及ぶ堕落の後になってからでる。ある者は汚らわしい悪魔の領域に、またある者は邪悪な悪霊の領域に、また、いのちの道を追い求める者は、全能者の統治に属する。ただこのようにしてのみ、人々の間に種類が徐々に形成され、それによってのみ人々は人間という大家族の中でさまざまな部類に分かれるのである。人々はみな異なる「父」を持つようになる。人間は極めて反抗的なので、すべての者が完全に全能者の統治のもとにあるわけではない。義なる裁きは、各種類の人間の本来の姿を表に曝け出し、隠れたままになるものは何もない。あらゆる者が光の中でほんとうの顔を現す。この時点では、人はもはや本来のあり方ではなくなっており、先祖の元の面影はとうの昔に消え去っている。なぜなら、アダムとエバの無数の子孫たちが、長らくサタンの虜となり、もう二度と天日を知ることはないからである。また、人々があらゆる種類のサタンの毒に満たされてきたからである。こうして人々にはそれぞれに相応しい終着点がある。さらに、人はその様々な毒を基準にして、種類ごとに分類される。すなわち、今日征服されている度合いに応じて人は分類されるのである。人間の終わりは天地創造以来、予め定められてきたものではない。なぜなら、初めにはまとめて「人類」と呼ばれる一種類の人間しか存在せず、また人間は最初はサタンに堕落させられてはおらず、神の光の中に生き、闇は降りていなかったからである。しかし、人間がサタンに堕落させられた後、あらゆる類型と種類の人々が地の至るところに広がった。まとめて「人類」と呼ばれ、男と女から成る家族から出たあらゆる類型と種類の人々である。彼らはみな祖先に導かれ、最も古い祖先である男と女から成る人類(つまり、始祖であるアダムとエバ、最古の祖先)のもとから迷い出てしまった。その当時、地上での生活をヤーウェに導かれていたのは唯一イスラエル人であった。全イスラエル(つまり、最初の部族)から出た様々な種類の人々は、その後ヤーウェの導きを失った。これらの初期の人々は、人間世界のことにはまったく無知で、祖先とともに自分たちのものとした土地で暮らし、それが今日まで続いた。彼らはまだ自分たちがどのようにヤーウェのもとから離れ、今日に至るまで、どのようにあらゆる種類の汚れた悪魔や邪霊に堕落させられたかについては無知なままである。これまで深く堕落させられ、毒されてきた者たち、つまり、最終的に救いようのない者たちは、その祖先、彼らを堕落させた汚れた悪魔である祖先と共に行くしかない。最終的に救われることのできる者たちは、人類の相応しい終着点に行く。つまり、救われ、征服された者たちのために用意された最後にたどり着くのである。救うことのできる人をみな救うために、あらゆることが為される。しかし、鈍感で救いようのない人は、先祖の後を追って刑罰の底なしの穴へ落ちるしかない。あなたの終わりは最初から予め定められていて、それが今になってやっと明らかにされたと考えてはいけない。そのように考えているのなら、最初に人類が創造された時にはそれとは別にサタンという種類は創られなかったことを忘れたのか。アダムとエバから成る一種類の人間だけが(つまり、男と女だけが)創造されたことを忘れてしまったのか。あなたが始めからサタンの子孫であったなら、人間を創造した時ヤーウェはサタンの集団もいっしょに創造したことにならないか。神がそのようなことをしたであろうか。神は自分の証しのために人間を創造した。神は自分の栄光のために人間を創った。なぜ神は意図的にサタンの子孫という種族を自分に抵抗させるためにわざわざ創造したりするであろうか。どうしてヤーウェがそんなことをすることがありえようか。もしそんなことをしていたなら、誰が神を義なる神だと言えるであろうか。わたしが今、あなたがたのうちには終いにはサタンと共に行く者がいると言っても、それはあなたが初めからサタンと共にあったという意味ではない。そうではなく、あまりにも低い所まで堕落したので、たとえ神が救おうとしたとしても、あなたは救いをのがしてしまったという意味である。あなたをサタンといっしょに分類する他ない。それはただ、あなたは救いようがないからであり、神があなたに対して不義で、意図的にあなたの運命をサタンの具現化と定め、サタンと共に分類し、わざとあなたを苦しませようとしているからではない。それは征服の働きの内なる真実ではない。あなたがそのように信じているのなら、あなたの認識はひどく偏っている。征服の最終段階は、人を救い、また、人の結末を明らかにするためである。裁きを通して人の堕落を暴露し、それにより人を悔い改めさせ、立ち上がらせ、いのちと人として生きる正しい道を追い求めさせるためである。鈍く頑な人の心を目覚めさせ、裁きによって人の内にある反抗的性質を示すためである。しかしながら、人がまだ悔い改めることができず、なおも人として生きる正しい道を追い求めることができず、これらの堕落を捨て去ることができなければ、人は救われることはなく、サタンにのみ込まれる。これが征服の意味である。つまり、人を救い、また人の結末を見せることである。良い結末と悪い結末があり、すべては征服の働きにより明らかにされる。人が救われるか呪われるかは、みな征服の働きの間に明らかにされる。

『言葉は肉において現れる』の「征服の働きの内幕(1)」より引用

日々の神の御言葉 抜粋 31

終わりの日とは、すべてのものが征服を通して、その種類に分類される時のことである。征服は終わりの日の働きである。つまり、一人ひとりの罪を裁くことが終わりの日の働きである。そうでなければ、どうして人を分類できるというのか。あなたがたの間で行われる分類の働きは、全宇宙におけるそうした働きの始まりである。この後、すべての地のあらゆる民も征服の働きの対象となる。つまり、被造物であるすべての人が種類別に分類され、裁きの座の前に進み出て裁かれるということである。誰一人、何ものもこの刑罰と裁きの苦しみから逃れることはできない。また、誰も何ものも種類別に分類されることを避けることはできない。あらゆる人が種類ごとに分けられる。それは、万物の終わりが近く、天と地にあるすべてが終結に至ったからである。どうして人間が己の存在の終結の日を逃れられようか。したがって、あとどれほどあなたがたは不服従の行いを続けられるのか。あなたがたの終わりの日がそこまで迫っているのが見えないのか。どうして神を畏れ敬い、神の現れを待ち焦がれている者たちが、神の義が出現する日を見られないのか。彼らがその善ゆえの最後の報酬を受けられないということが、どうしてあるのか。あなたは善を行う人なのか。それとも悪を行う人なのか。あなたは義なる裁きを受け入れて従う人なのか。それとも義なる裁きを受け入れて呪われる人なのか。光の中にある裁きの座の前で生きているのか。それとも闇に覆われたハデスで生きているのか。自分の終りが報酬を受けることになるのか、それとも罰を受けることになるのかを一番はっきり知っているのは、あなた自身ではないのか。神が義であることを一番はっきり知り、最も深く理解しているのは、あなたではないのか。それでは、あなたの行いと心は一体、どのようであるのか。今日、わたしがあなたを征服するに及んで、あなたのふるまいが悪であるか、それとも善であるかをわたしがいちいち説明する必要があるのか。あなたは、わたしのためにどれほどの犠牲を払ったのか。どれほど深くわたしを礼拝するのか。わたしに対して自分がどのようにふるまっているかをあなた自身が一番よく知っているのではないのか。自分が最終的にどのような結末を迎えるのかを、あなたは他の誰よりも良く知っているはずである。わたしは、まことにあなたに告げる。わたしは人類を創造し、あなたを創造しただけである。わたしはあなたがたをサタンに手渡さなかった。あなたがたを意図的にわたしに逆らわせ反抗させて、そのためにわたしに罰されるように仕向けもしなかった。これらの災難や苦しみを招いたのは、あなたがたの心があまりにも頑なで、あなたがたの行いが極めて下劣であるからではないのか。だから、あなたがたが迎える結末は、自分自身が決定するものではないのか。自分がどのような最後を迎えるのかを、あなたがたは内心、他の誰よりもよく知っているのではないのか。わたしが人を征服する理由は、人を暴露するためである。またそれは、あなたの救いを確かなものにするためでもある。それは、あなたに悪を行わせるためでもなく、あなたを意図的に破滅の地獄に向かって歩ませるためでもない。その時が来れば、あなたの大いなる苦しみ、泣き叫び、歯ぎしりはすべて、あなたの罪ゆえではないのか。したがって、あなた自身の善あるいは悪が、あなたを最も正しく裁いてくれるのではないのか。それがあなたの終りがどうなるのかを示す最良の証拠ではないのか。

『言葉は肉において現れる』の「征服の働きの内幕(1)」より引用

日々の神の御言葉 抜粋 32

終わりの日において、神はおもに言葉を発するために来た。神は聖霊の観点から、人間の観点から、第三者の観点から話す。神は異なった話し方をする。ある期間は一つの話し方をし、人間の観念を変え、漠然とした神の姿を人間の心から取り除くための話し方をする。これが神が行う主要な働きである。人間は神が病人を癒やし、悪霊を追い払い、奇跡を行い、人間に物質的な祝福をもたらすために来たと考えているため、神はこの段階の働き、つまり刑罰と裁きの働きをそうした観念を人間の思考から取り除くために行う。人間が神の現実性、神の正常を知るように、そしてイエスの姿が人間の心から消え、新たな姿に置き換えられるようにである。人間の心の中にある神の姿が古くなると、ただちにそれは偶像になる。イエスが来てその段階での働きをしたとき、神の全体を表さなかった。イエスはいくつかのしるしや不思議を示し、言葉を語り、最後に磔刑に処せられた。イエスは神の一部分を表した。イエスは神の全体像を表すことはできず、神の働きの一部を行うことで神を表した。これは、神があまりに偉大で、驚くべきであり、また計り知れないからであり、神はそれぞれの時代にその働きの一部だけをするからである。神がこの時代に実行する働きは、おもに人間のいのちのための言葉を与えること、人間の堕落した性質および人間の本性の実質を暴くこと、そして宗教的観念、封建的思考、時代遅れの考え、さらに人間の知識と文化を一掃することである。これらのことはすべて神の言葉による暴きを通して清められなければならない。終わりの日において、神はしるしや不思議ではなく、言葉を用いて人間を完全にする。神は言葉によって人間を露わにし、裁き、罰し、人間を完全にし、それにより人間が言葉の中に神の知恵と愛らしさを見、神の性質を知り、神の業を目にするようにする。律法の時代、ヤーウェは言葉によりモーセを導いてエジプトを脱出させ、イスラエル人に言葉を語った。当時、神の業の一部はわかりやすいものであったが、人間の素質が限られていて、認識を完全にすることができなかったため、神は話し、働き続けた。恵みの時代、人間は再び神の業の一部を見た。イエスはしるしや不思議を見せ、病人を癒やし、悪霊を追い払い、十字架につけられ、三日後によみがえり、人間の前に肉の身で現れることができた。神について、人間はこれ以上のことを知らなかった。人間は神の示されたことだけを知っているが、神がそれ以上人間に見せなければ、それで神について人間が把握できることはそこまでに限られる。だから、神は自分に関する人間の認識が深まるように、人間が徐々に神の実質を知るようにと働き続ける。終わりの日に神は言葉を用いて人間を完全にする。あなたの堕落した性質は神の言葉により明らかになり、宗教的観念は神の現実性に置き換えられる。終わりの日の受肉した神が来たのはおもに「言葉は肉となり、言葉は肉に現れ、そして言葉は肉となって現れる」という言葉を成就するためであるが、このことを完全に認識していなければ、堅く立つことはできない。終わりの日に、神はおもに言葉が肉において現れるという働きをするつもりだが、これは、神の経営計画の一部である。だから、あなたがたの認識は明確でなければならない。神がどのように働こうと、人間が神を限定することを神は許さない。もし神が終わりの日にこの働きをしなければ、人間の神についての認識はそれ以上進まない。神が十字架につけられることができ、ソドムを滅ぼすことができ、イエスが死からよみがえってペテロの前に現れることができることだけを知っているだろう……。しかし、神の言葉はすべてを成し遂げることができ、人間を征服できるとはあなたは絶対に言わないであろう。神の言葉を経験してはじめて、そうした認識について話せるのである。また、神の働きを経験すればするほど、神についての認識が充実していく。そうしてはじめて、自分の観念の枠内に神を限定しなくなる。人間は神の働きを経験して神を知るようになる。これ以外に神を知る正しい方法はない。

『言葉は肉において現れる』の「今日の神の働きを知ること」より引用

日々の神の御言葉 抜粋 33

この最後の段階の働きにおいて、成果は言葉によって達成される。人は言葉を通じ、多くの奥義や、過去の世代を通じて神が行なってきた働きを理解するようになる。人は言葉を通じて聖霊に啓かれ、過去の世代が解明し得なかった奥義、昔の預言者たちや使徒たちの働き、そして彼らの働きの原則を理解するようになる。人は言葉を通じて神自身の性質を理解するようになると同時に、人の不従順や反抗心を理解し、自分の本質を認識するようになる。これらの働きの段階と、語られたすべての言葉を通じ、人は霊の働き、神の受肉した肉体の働きを知り、さらにはその性質全体を知るようになる。六千年以上にわたる神の経営の働きについても、あなたはそれに関する認識を言葉によって得た。自分の以前の観念を知ったのも、それを脇にのけることができたのも、言葉を通じてではなかったのか。前の段階で、イエスはしるしや不思議の働きを行なったが、この段階にしるしや不思議はない。なぜ神がしるしや不思議を示さないのかという理解も、言葉を通じて得られたのではないのか。よって、この段階で語られる言葉はかつての世代の使徒たちや預言者たちによってなされた働きを越えている。預言者たちによる預言でさえも、このような成果を挙げることはできなかった。預言者たちは預言だけ、つまり将来何が起こるかを語っただけで、当時神が行なおうと望んでいた働きについては語っていない。彼らは人類の生活を導くため、人類に真理を授けるため、あるいは彼らに奥義を明かすために語ったのではなく、ましてやいのちを授けるために語ったのでもない。この段階で語られる言葉には預言と真理があるものの、それらはおもに人にいのちを授けるためのものである。現在の言葉は預言者たちの預言と異なる。これは預言を語るためでなく、人のいのちのため、人のいのちの性質を変えるための働きの段階である。最初の段階はヤーウェの働きであり、人が地上で神を礼拝するよう、その道を整える働きだった。それは地上において働きの源となる場所を見つけるという、始まりの働きだったのである。当時、ヤーウェはイスラエルの民に対し、安息日を守り、両親を敬い、互いに平和に暮らすよう教えた。なぜなら当時の人々は、人間とは何であるかも、地上でどのように生きるべきかも理解していなかったからである。神はその最初の働きの段階において、人類の生活を導く必要があった。ヤーウェが彼らに語ったことは、人類がそれまで認識しておらず、所有もしていないものばかりだった。当時、神は多くの預言者を立ち上がらせて預言を語らせたが、彼らはみなヤーウェの導きの下でそうしたのである。これは単に神の働きの一つだった。最初の段階で神が肉となることはなく、よって神は預言者たちを通じてあらゆる部族や国々に指示を与えた。イエスは自身の生涯において働きを行なったとき、今日のように多くは語らなかった。終わりの日におけるこの言葉の働きの段階が、かつての時代や世代において行なわれたことはない。イザヤ、ダニエル、そしてヨハネは多くの預言を語ったが、彼らの預言は今語られている言葉とまったく異なっていた。彼らが語ったことは預言でしかなかったが、今語られている言葉は違う。わたしが今話していることをすべて預言にしたなら、あなたがたは理解できるだろうか。わたしが語ったのが、わたしが去ったあとのことについてだったとしたら、あなたはどうしてそれを理解できただろうか。言葉の働きはイエスの時代にも律法の時代にも決してなされなかった。中には「ヤーウェも自身の働きを行なった際に言葉を語りませんでしたか。イエスも病を癒したり、悪霊を追い出したり、しるしや不思議の働きを行なったりするのに加えて、その時言葉を語りませんでしたか」と言う人がおそらくいるかもしれない。言葉がどのように語られるかには違いがある。ヤーウェが発した言葉の本質は何だったか。ヤーウェは地上における人類の生活を導いただけで、それはいのちにおける霊的な事柄とは無関係だった。ヤーウェが語ったとき、それはすべての地で人々に指示を与えるためだったと言われているのはなぜか。「指示を与える」という言葉は、明白に語り、直接命じることを意味する。ヤーウェは人にいのちを施したのではなく、むしろただ人の手を取って、どのようにヤーウェを崇めるべきかを教えたのであり、たとえ話で教えることはあまりなかった。イスラエルにおいてヤーウェが行なった働きは、人を取り扱ったり鍛練したりするものでも、裁きや刑罰を与えるものでもなく、人を導くものだった。ヤーウェはモーセに対し、神の民に荒野でマナを集めさせるよう命じた。毎朝日の出前に、彼らはその日に食べる分だけマナを集めなければならなかった。マナは翌日まで保存することができなかった。次の日になるとカビが生えたからである。ヤーウェは人々に説教したり、人間の本性を暴いたりすることはせず、人の発想や思考を暴露することもしなかった。ヤーウェは人々を変えなかったが、彼らの生活を導いた。当時、人は子どもと同じで何も理解せず、いくつかの基本的な機械的動作しかできなかった。よって、ヤーウェは大衆を導くために律法を制定しただけなのである。

『言葉は肉において現れる』の「受肉の奥義(4)」より引用

日々の神の御言葉 抜粋 34

神はそれぞれの時代において言葉を語り、働きをする。そして神は異なる時代において異なる言葉を話す。神は規則に従わず、同じ働きを繰り返さず、過去の事柄への懐旧の念を抱かない。神は常に新しく、古さとは無縁であり、毎日、新しい言葉を話す。あなたは今日従うべきことに従うべきである。それが人の責任であり本分である。現在における神の光と言葉を軸として実践することが不可欠である。神は規則に従わず、神の知恵や全能性を明らかにするために多くの異なる視点から話すことができる。神が霊の視点から話すか、人の視点から話すか、あるいは第三者の視点から話すかは問題ではない。神は常に神であり、人の視点から話すので神は神ではないと言うことはできない。神が様々な側面から話す結果、一部の人に観念が生まれた。そのような人は神について何の認識ももっておらず、神の働きについても何の認識もない。神が常に一つの視点から話せば、人は神に関して規則を定めないであろうか。人がそのように振舞うことを神が許すことができるであろうか。神がどの視点から話すにせよ、神にはそうする目的がある。もし、神が常に霊の視点から話したなら、あなたは神と関わりをもつことができるであろうか。それゆえ、神は時おり第三者の立場で語り、あなたに言葉を与え、あなたを現実性へと導く。神が行なう万事が適切である。要するに、すべては神になされているのであり、あなたはこのことを疑うべきではない。神は神であり、それゆえ、どの視点から話しても、神は常に神である。これは不変の真理である。どのように働きをしても、神は依然として神であり、神の本質は変わることがない。ペテロは深く神を愛し、神の心に叶う人であったが、神はペテロを主あるいはキリストとして証ししなかった。なぜなら、存在するものの本質は、それ自体であり、決して変わることはできないからである。働きにおいて、神は規則に従うのでなく、働きを効果的にし、人の神についての認識を深めるために種々の方法を用いる。神が働きをする方法のすべてが、人が神を知るのを助け、そしてそれは人を完全にするためである。神がどのような働きの方法を用いても、それぞれが人を作り上げ完全にするためである。神が働きをする方法のうちの一つが非常に長い時間続いたかもしれないが、それは人の神への信仰を強化するためである。したがって、あなたがたの心には疑いがあってはならない。これらはすべて神の働きの過程であり、あなたがたはそれらに従わなければならない。

『言葉は肉において現れる』の「すべては神の言葉が達成する」より引用

日々の神の御言葉 抜粋 35

神はおもに言葉を話すために地上に来た。あなたが関りをもつのは神の言葉である。あなたが知るのは神の言葉である。あなたが聞くのは神の言葉である。あなたが従うのは神の言葉である。あなたが経験するのは神の言葉である。そしてこの肉となった神は、人を完全にするのにおもに言葉を用いる。しるしや奇跡を示さず、イエスが過去に行った働きは特に行わない。どちらも神であるが、肉でもある。両者の職分は同一ではない。イエスが現れたとき、イエスは神の働きの部分も行い、言葉も話した。しかし、イエスが成し遂げたおもな働きは何であろうか。イエスがおもに成し遂げたのは磔の働きであった。イエスは磔の働きを完成し全人類を贖うために罪深い肉の似姿になった。そしてイエスが罪の贖いの供え物となったのは、全人類の罪のためであった。これが、イエスが成し遂げたおもな働きであった。最終的に、イエスは後から来る人たちを導くために、十字架の道を与えた。イエスが現れたとき、それはおもに贖いの働きを完了するためであった。イエスは全人類を贖い、天の国の福音を人にもたらし、そして天の国へ至る道をもたらした。その結果、その後に来た人は皆、「我々は十字架の道を歩き、十字架のために我々自身を犠牲にすべきだ」と言った。もちろん、最初イエスは、人に悔い改めさせ罪を告白させるための他の働きも行い、そのための言葉も語った。しかし、イエスの職分はやはり磔であり、イエスが道を説きながら費やした三年半は、その後に起こるべき磔への準備であった。イエスが何度か祈ったのも磔のためであった。イエスの普通の人としての生涯と地上での三十三年半は、おもに磔という働きを完成するためであった。それはこの働きに取り組む力をイエスに与えるためであり、その結果として神はイエスに磔という働きを託した。今日、肉となった神は、どのような働きを成し遂げるのであろうか。今日、神はおもに「言葉が肉において現れる」という働きを完成するために、言葉を用いて人を完全にするために、そして人が言葉による取り扱いと精錬を受け入れるように、肉になった。神の言葉において、あなたは神に施され、いのちを与えられる。神の言葉において、あなたは神の働きと業を見る。神はあなたを罰し精錬するために言葉を用いる。したがって、もしあなたが苦難に会うなら、それはまた神の言葉によるものである。今日、神は事実でなく言葉を用いて働く。神の言葉があなたに届いてはじめて、聖霊はあなたの中で働きをすることができ、あなたに苦痛を感じさせたり甘美さを感じさせたりすることができる。神の言葉だけが、あなたを現実に至らせることができ、神の言葉だけが、あなたを完全にすることができる。したがって、終わりの日に神が行う働きはおもに言葉を用い、すべての人を完全にし、人を導くことであることを、せめてあなたは理解しなければならない。神はその働きのすべてを言葉を通じて行なう。神はあなたを罰するために事実を用いない。時には神に抵抗する人もいる。神はあなたに大きな不快感をもたらさず、あなたの肉は罰せられず、あなたは苦痛を味わうことはない。しかし、神の言葉があなたに届き、あなたを鍛錬するようになるとただちに、それはあなたにとって耐えられないものになる。そうではないであろうか。効力者の期間に、人を底なしの穴に投げ入れると神は言った。人は実際に底なしの穴に落ちたであろうか。人を鍛錬するための言葉だけで、人は底なしの穴に入っていった。このように、神が肉となる終わりの日には、神はすべてを成し遂げ、すべてを明らかにするためにおもに言葉を用いる。神の言葉の中においてのみ、神であるものを知ることができる。神の言葉の中においてのみ、神が神自身であることを知ることができる。肉となった神が地上に来るとき、神は言葉を話すこと以外のどのような他の働きもしない。したがって、事実は必要でない。言葉で十分である。おもにこの働きをするために、神の力と至高を人が神の言葉の中に見ることができるように、神が身を低くして自身を隠していることを人が神の言葉の中に見ることができるように、そして神の完全性を人が神の言葉の中に知ることができるように、神は来たからである。神が所有するものおよび神の存在のすべてが、神の言葉の中にある。神の知恵や素晴らしさも神の言葉の中にある。この中に、神が言葉を話す多くの方法を人は見ることができる。これまでずっと、神の働きのほとんどは、人間への施しであり、明かしであり、取り扱いであった。神は軽々しく人を呪いはしないし、そうするときでさえ言葉を通して行う。したがって、この肉となった神の時代において、神が再び病人を癒やし、悪魔を追い出すのを見ようとしてはならず、また常にしるしを探し続けてはならない。それは無意味である。そのようなしるしは、人を完全にしはしない。わかりやすく言うならば、つまり、今日、肉となった現実の神自身は行動せず、話すだけなのである。これが真理である。神は言葉を用いてあなたを完全にし、あなたに食べ物を与え、水をやる。神はまた言葉を用いて働き、さらに神の現実性をあなたに知らせるために、事実の代わりに言葉を用いる。このような神の働き方を感知することができるなら、否定的でいることは難しい。否定的なことに集中する代わりに、肯定的な事柄にのみ集中すべきである。つまり、神の言葉が成就しようとしまいと、あるいは事実の到来があろうとなかろうと、神はその言葉から人がいのちを得ることを可能にする。これはあらゆるしるしの中の最大のしるしである。そしてさらに、それは議論の余地のない事実である。これこそ、神を知るための最良の証拠であり、しるしよりも偉大なしるしである。このような言葉だけが、人を完全できるのである。

『言葉は肉において現れる』の「すべては神の言葉が達成する」より引用

日々の神の御言葉 抜粋 36

神の国の時代が始まるや否や、神は言葉を放ち始めた。未来において、これらの言葉が徐々に成就していく。そしてそのときには、人はいのちへと成長する。人の堕落した性質を明らかにするために神が言葉を用いることは、より現実的であり、そしてより必要である。そして神は、人の信仰を完全にするために働きを行うのに言葉以外の何ものも用いない。なぜなら、今は言葉の時代であり、そしてそれは、人の信仰、決意、協調性を必要とするからである。終わりの日の、肉となった神の働きとは、人間に奉仕し与えるために言葉を用いることである。肉となった神がその言葉を話し終えてはじめて、言葉は成就し始める。神が話している間は、神の言葉は成就しない。なぜなら、神が肉の段階にあるとき神の言葉が成就することはできないからである。これは、神が肉であり霊ではないのを人が見ることができるようにするためだからである。この結果、人は自身の目で神の現実性を見ることができる。神の働きが完了する日、すなわち地上で神によって話されるべきすべての言葉が話されたその日、神の言葉は成就し始める。今は、神の言葉の成就の時代ではない。なぜなら神は言葉をまだ話し終えていないからである。従って、神が地上でその言葉をまだ話しているのを見ると、あなたは神の言葉が成就するのを待ち構えてはいけない。神が言葉を話すのを止め、地上での神の働きが完了する時、それが神の言葉が成就し始める時である。地上で神が話す言葉の中には、ある観点では、いのちの提供が存在し、もう一つの観点では、預言が存在する。来るべき諸事についての預言、行われるであろう諸事についての預言、さらに未だ成し遂げられていない諸事についての預言である。イエスの言葉の中にも預言はあった。ある観点からは、イエスはいのちを供給し、別の観点からは、イエスは預言を話した。今日、言葉と事実を同時に遂行することについて語られることはない。なぜなら、人が自身の目で見ることができることと、神が行うこととの間の差異は大きすぎるからである。ひとたび神の働きが完了したなら、神の言葉は成就し、言葉の後に事実が到来する、とだけ言うことができる。終わりの日において、肉となった神は地上において言葉の職分を果たす。そしてこれを実行するとき、神は言葉だけを話し、その他の問題には注意を払わない。ひとたび神の働きに変化が現れたら、神の言葉は、成就され始める。今日、言葉はまず、あなたを完全にするために用いられる。神が全宇宙で栄光を獲得する時、それは神の働きが完了する時、話されるべきあらゆる言葉が話され、全ての言葉が事実になった時である。神は、人類が神を知ることができるように言葉における働きをするため、終わりの日に地上にやって来た。その結果、人類は神であるものを知り、神の知恵と、神の言葉がもたらす神の驚くべき業を全て知ることが可能になる。神の国の時代を通じて、神は全人類を征服するために言葉を用いる。未来においては、神の言葉は、あらゆる宗教、分野、国家、教派にも届くであろう。神はすべての人を征服し、神の言葉が権威や力を帯びるのをすべての人に知らしめるために、言葉を用いる。したがって今日、あなたがたは、神の言葉にのみ面するのである。

今の時代に神によって話される言葉は、律法の時代に話された言葉とは異なり、また恵みの時代に話された言葉とも異なる。恵みの時代には、神は言葉の働きをせず、全人類を贖うためにキリストは十字架に磔にされると語っただけである。聖書は、イエスがなぜ磔にされる運命にあったのか、さらに、イエスが十字架上で受けた苦しみ、そして人がどのように神のために磔にされるべきかだけを記述する。その時代を通じて、神によってなされる働きはすべて、キリストの十字架上の死を中心に展開していた。神の国の時代には、肉となった神は、神を信ずるすべての人たちを征服するために、言葉を用いる。これが、「言葉が肉において現れる」ということである。神は、この働きをするために終わりの日にやって来た。つまり、神は、言葉が肉において現れることの実際の意義を成し遂げるためにやって来た。神は言葉を話すだけであり、事実の到来は稀である。これがまさに、言葉が肉において現れることの実質である。そして肉となった神が自身の言葉を話すとき、これが肉における言葉の出現であり、肉へ入り来る言葉である。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。そして言は肉となった」。このこと(言葉が肉において現れるという働き)が、終わりの日に神が成し遂げるだろう働きであり、自身の全経営計画の最終章である。したがって、神は地上に来て、肉の中で自身の言葉を表さなければならない。今日行われること、未来において行われるであろうこと、神によって成し遂げられるであろうこと、人の終着点、救われるであろう人々、滅ぼされるであろう人々、等々、最後に成し遂げられるべきこのような働きはすべて、明確に述べられてきた。そしてこれらはすべて、言葉が肉において現れることの実際の意義を成し遂げることを目的にしている。かつて発行された行政命令や憲法、滅ぼされるであろう人々、安息へ入るであろう人々、これらの言葉はすべて成就されなければならない。これが、終わりの日を通じて、肉となった神によっておもに成し遂げられた働きである。神は、神によって運命づけられた人々はどこに属し、運命づけられない人々はどこに属するか、神の民や息子たちはどのように分類されるか、イスラエルに何が起こるか、エジプトに何が起こるかを人々に理解させる。未来には、これらの言葉のすべてが成し遂げられる。神の働きの歩調は加速している。神は、あらゆる時代に何がなされるべきか、肉となった神によって終わりの日に何が行われるよう予定されているか、そして行われるべき神の職分が何であるかを、人に明らかにするための手段として言葉を用いる。これらの言葉はすべて、言葉が肉において現れることの実際の意義を成し遂げるためのものである。

『言葉は肉において現れる』の「すべては神の言葉が達成する」より引用

日々の神の御言葉 抜粋 37

神は自身の働きを全宇宙において行う。神を信じる者はすべて、神の言葉を受け入れ、神の言葉を飲み食いしなければならない。何人といえども、神によって示されるしるしや不思議を見ることで神のものとされることはあり得ない。時代を超えて、神は常に、人を完全にするのに言葉を用いてきた。したがって、あなたがたの注意のすべてをしるしや不思議に向けるべきではなく、神によって完全にされるよう努めるすべきである。旧約聖書の律法の時代において、神はいくつかの言葉を語った。そして恵みの時代において、イエスもまた多くの言葉を話した。イエスが数多くの言葉を話した後、後の使徒や弟子たちが人々を導き、イエスが発した戒めに従って実践し、イエスの語った言葉と原則に従って経験するようにさせた。終わりの日において、神は人を完全にするのに、おもに言葉を用いる。神は、人に圧力をかけたり人を確信させたりするのに、しるしや不思議を用いない。それは、神の力を明らかにしない。もし神がしるしや不思議を示すだけならば、神の実在性を明らかにすることは不可能である。したがって、人を完全にすることも不可能である。神は、しるしや不思議によって人を完全にせず、人を潤し牧養するのに言葉を用いる。そしてその後、人は完全な従順と神についての認識を達成することができる。これが、神が行う働きと神が話す言葉の目的である。神は、人を完全にするのにしるしや不思議を示すという方法を用いない。神は言葉を用い、多くの異なる働きの方法を用いて人を完全にする。それが精錬であろうと、取り扱い、刈り込み、あるいは言葉の施しであろうと、神は、人を完全にするために、人に神の働き、神の知恵や驚くべき力についてのより大きな認識を与えるために、多くの異なる観点から話す。終わりの日に神が時代を終え、人が完全にされたならば、そのとき、人はしるしや不思議を見るにふさわしくなる。神を認識するようになり、神が何をしようと神に従うことができるとき、あなたはしるしと不思議を見ても、神についての観念をこれ以上もたなくなる。今、あなたは堕落し完全に従順であることはできない。あなたはそんな状態にいる自分のことを、しるしや不思議を見るにふさわしいと思っているであろうか。神がしるしや不思議を示す時は、神が人を罰するときであり、時代が変わるときでもある。さらに、時代が完結するときでもある。神の働きが順当に遂行されているとき、神はしるしや不思議を示さない。しるしや不思議を示すことは神にとって極めて容易であるが、それは神の働きの原則ではないし、神による人の経営(救い)の目的でもない。もし、人がしるしや不思議を見たら、そしてもし、神の霊の体が人の前に現れるようなことがあったら、神を信じない人がいるであろうか。わたしは以前、東方から勝利者たちを獲得する、彼らは大きな苦難のただ中からやって来ると言ったことがある。この言葉は何を意味しているのか。それは、このような神のものとされた人たちは、裁きと刑罰、取り扱いと刈り込み、そしてあらゆる種類の精錬を経た後に、ただ真に従順であったということを意味する。そのような人の信仰は漠然としておらず、抽象的でもなく、本物である。彼らはしるしや不思議、そして奇跡も見たことがない。彼らは難解な文字や教義あるいは深遠な洞察について話さない。その代わり、彼らには実在性さらに神の言葉、そして神の実在についての本物の認識がある。そのような集団は、神の力を一層明らかにすることができないであろうか。終わりの日の神の働きは、実際の働きである。イエスの時代に、イエスは人を完全にするためではなく、人を贖うためにやって来た。したがって、イエスは人々を自身に従わせるためにいくつかの奇跡を見せた。なぜなら、イエスはおもに磔という働きを完了するためにやってきたのであり、しるしを示すことは彼の使命の働きの一部ではなかった。そのようなしるしや不思議は、イエスの働きを効果的にするために行われた働きであった。それらは追加的な働きであり、その時代全体の働きを表すものではなかった。旧約聖書の律法の時代においては、神はいくつかのしるしや不思議を示した。しかし、神が今日行う働きは、実際の働きであり、神は今や、決してしるしや不思議を示さない。神がしるしや不思議を示したとすれば、神の実際の働きは掻き乱され、神はそれ以上の働きを行うことができなくなるであろう。もし神が言葉を用いて人を完全にすると言いながら、しるしや不思議も示したとしたら、人が神を真に信じるかどうかを明らかにすることができるであろうか。したがって、神はそのようなことは行わない。人の内面には宗教的なものがあふれている。人の内面にある宗教的な観念や超自然的な事柄のすべてを追い出し、人に神の実在性を知らしめるために、終わりの日に神はやって来た。抽象的で空想的な神のイメージを、言い換えれば、全く存在しない神のイメージを取り去るために、神はやって来た。したがって、今や、唯一の貴重な事とは、あなたが実在性について認識を持つことである。真理は、あらゆるものより優先する。あなたは今日、どれだけ多くの真理を持っているだろうか。しるしや不思議を示すものはすべて神なのか。悪霊もしるしや不思議を示すことができる。彼らはすべて神なのか。神への信仰において、人が求めるのは真理であり、追求するのはいのちである。しるしや不思議ではない。これが神を信じる人すべての目標でなければならない。

『言葉は肉において現れる』の「すべては神の言葉が達成する」より引用

日々の神の御言葉 抜粋 38

当時、イエスの働きは全人類を贖う働きだった。イエスを信じるすべての人の罪は赦され、あなたがイエスを信じる限り、イエスはあなたを贖っただろう。イエスを信じるなら、もはや罪人ではなく、罪から解放されたのである。これが救われるということ、信仰によって義とされるということである。しかし、信じている人たちの中には反抗的で、神に逆らうものが残っており、それはやはり徐々に取り除く必要があった。救いとは、人が完全にイエスのものとなったことを意味したのではなく、その人がもう罪の中におらず、罪を赦されたことを意味した。信じるならば、もう罪の中にはいないのである。当時、イエスは弟子たちにとって不可解な働きを多数行ない、人々には理解できないことを数多く言った。これは当時イエスが何一つ説明しなかったからである。そのため、イエスが去ってから数年後、マタイがイエスの系図を作り、他の者も人間の意志による働きを数多く行なった。イエスは人を完全にして自分のものとするために来たのではなく、働きの一段階を行なうために来たのである。それは天の国の福音をもたらし、磔刑の働きを完成させることであり、イエスが十字架にかけられた時点でその働きは完了している。しかし、現在の段階、つまり征服の働きにおいては、より多くの言葉が語られ、より多くの働きがなされ、そして多くの過程を踏まなければならない。イエスとヤーウェの働きの奥義も明らかにされ、それによってすべての人が信仰において理解と明瞭さを得られるようにしなければならない。なぜなら、それは終わりの日の働きで、終わりの日は神の働きの終わりであり、働きが完了するときだからである。働きのこの段階はあなたに対し、ヤーウェの律法とイエスの贖いを明確にするだろう。この働きはおもに、あなたが神の六千年にわたる経営(救いの)計画の全体像を理解し、六千年の経営計画の意義と本質をすべて理解し、イエスによってなされたすべての働きとイエスが語った言葉の目的、そして聖書に対するあなたの盲目的な信頼と崇拝さえも理解するためである。それにより、あなたはそのすべてを完全に理解できるだろう。イエスによってなされた働きと今日の神の働きの両方を理解するようになるだろう。すべての真理、いのち、そして道を理解し、目の当たりにするだろう。イエスによってなされた働きの段階で、イエスはなぜ締めくくりの働きを行なわずに去ったのだろうか。それは、イエスによる働きの段階が完了の働きではなかったからである。イエスが十字架に釘付けにされたとき、イエスの言葉もまた終わりを迎えた。磔刑の後、イエスの働きは完全に終わったのである。現段階は違う。言葉が最後まで語られ、神の働きの全体が完了したあと、そこでようやく神の働きは終わる。イエスによる働きの段階の期間、多くの言葉が語られないままだったか、あるいは明確に述べられなかった。しかしイエスの職分は言葉による職分ではなかったため、イエスは自分が何を語って何を語らなかったかは気にかけず、そのため、十字架にかけられた後に去って行った。その段階の働きはおもに磔刑のためであり、現段階とは異なる。この現段階の働きは、基本的には完了すること、片づけること、そしてすべての働きを終結させるためのものである。もし言葉が最後の最後まで語られないなら、この働きを終える術はないだろう。この段階の働きにおいて、すべての働きは言葉を用いて終わり、達成されるからである。当時、イエスは人に理解できない数多くの働きを行なった。イエスは静かに去り、今日依然としてイエスの言葉を理解できない人が多数いる。彼らの理解は間違っているが、それでも彼らは正しいと信じており、間違っていることを知らない。最終的に、この現段階は神の働きを完全に終わらせ、その終結をもたらすだろう。すべての人が神の経営計画を理解し、知るようになるだろう。人の中にある観念、意図、間違った理解、ヤーウェとイエスの働きに関する観念、異邦人についての見方、そしてその他の逸脱と間違いは正されるだろう。そして人は人生の正しい道、神によってなされた働き、および真理をすべて理解するだろう。そうなったとき、この段階の働きは終わりを迎える。ヤーウェの働きは世界の創造であり、始まりだった。この段階の働きは働きの終わりであり、終結である。最初に、神の働きはイスラエルの選民のあいだで実行され、最も聖なる地における新しい時代の夜明けだった。最後の段階の働きは、世界を裁き、時代を終わらせるために最も汚れた国で実行される。最初の段階において、神の働きは最も明るい地で行なわれたが、最後の段階は最も暗い地で実行され、この暗闇は一掃され、光がもたらされ、すべての人が征服される。この最も汚れた、最も暗い場所にいる人々が征服され、すべての人が神の存在と誰が真の神であるかを認め、あらゆる人がすっかり確信したとき、この事実は征服の働きを全宇宙で行なうのに用いられるだろう。この段階の働きは象徴的である。ひとたびこの時代の働きが終わると、六千年にわたる経営の働きは完全に終わりを迎える。ひとたび最も暗いこの場所にいる人々が征服されると、他のあらゆる場所でもそうなることは言うまでもない。そのように、中国における征服の働きだけが、象徴としての意味をもつ。中国は闇のすべての勢力を具現化しており、中国の人々は肉なる者、サタンの者、そして血肉による者を表わしている。赤い大きな竜によって最も堕落させられ、神に最も反抗し、人間性が最も卑しく汚れているのは中国人である。だから彼らは堕落した全人類の典型なのである。これは、他の国々にはまったく問題がないということではない。人間の観念はどれも同じである。他国の人々は優れた素質をもっているかもしれないが、神を知らなければ、彼らは神に逆らっているはずである。なぜユダヤ人も神に逆らい、神を拒んだのか。なぜパリサイ人も神に逆らったのか。なぜユダはイエスを裏切ったのか。当時、弟子の多くはイエスのことを知らなかった。なぜ人々は、イエスが十字架にかけられ、そして復活した後でさえもイエスを信じなかったのか。人間の不服従はどれも同じではないのか。中国の人々は単にひとつの例にされたというだけである。征服されたとき、彼らは模範、見本となり、他の人々の参考として役立つだろう。あなたがたはわたしの経営計画の付属物であると、わたしが常に言ってきたのはなぜか。堕落、汚れ、不義、敵対、そして反抗が最も完全に現われ、あらゆる形で示されているのは、中国の人々においてである。中国人は素質に乏しい一方、中国人の生活と考え方は遅れており、習慣、社会環境、そして生まれ育った家族など、すべてが劣っており、最も遅れている。地位もまた低い。この場所での働きは象徴的で、この試験的な働きがすべて実行された後、神の次の働きはもっと順調に進むだろう。もしこの段階の働きが完了し得るなら、次の働きもそうなるのは言うまでもない。この段階の働きが達成されたなら、大いなる成功がおさめられ、全宇宙におよぶ征服の働きは完全に終わりを迎えるだろう。

『言葉は肉において現れる』の「神の働きのビジョン(2)」より引用

日々の神の御言葉 抜粋 39

恵みの時代はイエスの名と共に始まった。イエスが自身の職分を始めたとき、聖霊はイエスの名に対する証しを始め、ヤーウェの名はもはや語られなかった。その代わり、聖霊はおもにイエスの名のもとに新しい働きに着手した。神を信じる人たちの証しはイエス・キリストのためになされ、彼らが行なった働きもまたイエス・キリストのためだった。旧約聖書における律法の時代の終わりは、おもにヤーウェの名のもとで行なわれた働きが完結したことを意味していた。その後、神の名はもはやヤーウェではなくなった。神は代わりにイエスと呼ばれ、それ以降、聖霊はおもにイエスの名のもとで働きを始めることになった。人々は今日もなおヤーウェの言葉を飲み食いし、いまだに律法の時代の働きにしたがってあらゆることを行なっているが、あなたは盲目的に規則に従っているのではないか。過去から抜け出せずにいるのではないか。現在、あなたがたは終わりの日が来たことを知っている。イエスが来るとき、彼はやはりイエスと呼ばれるということなのか。ヤーウェはイスラエルの人々にメシアが来つつあると言ったが、メシアが本当に来たとき、それはメシアでなくイエスと呼ばれた。イエスは、自分は再び来る、去ったときと同じように現われると言った。これらはイエスの言葉だが、あなたはイエスの去り方を見たのか。イエスは白い雲に乗って去ったが、白い雲に乗って自ら人々のもとに戻ってくるということなのか。そうであれば、やはりイエスとは呼ばれないのだろうか。イエスが再び来るとき、時代はすでに変わっているが、それでもやはりイエスと呼ばれることがあり得るのか。神はイエスという名でしか知られないということなのか。神が新しい時代に新しい名で呼ばれることはないのか。ひとりの人の姿とある特定の名前が神の全体を表わすことができるのか。それぞれの時代、神は新しい働きを行ない、新しい名で呼ばれる。どうして神が異なる時代に同じ働きを行なえるのか。どうして神が古いものにしがみつけるというのか。イエスの名は贖いの働きのために使われたが、それならば終わりの日にイエスが再臨するとき、依然として同じ名前で呼ばれるのだろうか。イエスはまだ贖いの働きを行なっているのだろうか。ヤーウェとイエスは一つでありながら、異なる時代に異なる名前で呼ばれるのはなぜか。それは働きの時代が違うからではないのか。一つの名前で神の全体を表わすことができるのだろうか。そのようなわけで、神は異なる時代に異なる名前で呼ばれなければならず、名前を使って時代を変え、時代を表わさなければならない。なぜなら、一つの名前だけで神を完全に表わすことはできず、それぞれの名前はある時代における神の性質の一時的な側面しか表わせないからである。必要なのは、神の働きを表わすことだけである。よって、神は時代全体を表わすために、どんな名前であれ自身の性質に合う名前を選ぶことができる。ヤーウェの時代であれ、イエスの時代であれ、それぞれの時代は名前によって表わされている。恵みの時代の終わりに最後の時代が来て、イエスはすでに到来した。それなのに、神はどうしていまだにイエスと呼ばれ得るのか。どうして人々のあいだでイエスの姿をとれるのだろうか。イエスはナザレ人の姿に過ぎなかったことを忘れたのか。イエスは人類の贖い主でしかなかったことを忘れたのか。どうしてイエスが終わりの日に人を征服し、完全にする働きに取り組めるというのか。イエスは白い雲に乗って去って行った。それは事実である。しかし、イエスが白い雲に乗って人間のもとに帰ってきて、依然イエスと呼ばれることなどどうしてあり得ようか。イエスが本当に雲に乗って来たなら、人間が認識できないのはどういうことだろうか。世界中の人々がイエスを認識するのではないだろうか。その場合、イエスだけが神だということになるのではないか。その場合、神の姿はユダヤ人の外見であり、またそれ以上に、永遠に同じということになるはずだ。イエスは、自分は去ったときと同じように来ると言ったが、その言葉の本当の意味をあなたは知っているのか。あなたがたの集団に告げたということがあり得るのか。あなたが知っているのは、イエスは去ったときと同じく、雲に乗って来るということだけである。しかし、神自身がいかに自分の働きを行なうのか、あなたは正確に知っているのか。あなたが本当にわかっているのなら、イエスが語った言葉はいかに説明されるのか。イエスは、「人の子が終わりの日に来るとき、人の子自身それを知らず、天使たちも知らず、天の御使たちも知らず、すべての人も知らない。ただ父だけが知っている。つまり、霊だけが知っている」と言った。人の子自身でさえ知らないというのに、あなたは知り、見ることができるのか。あなたが自分の目で見て知ることができるのであれば、これらの言葉は無駄に語られたことにならないだろうか。そしてその際、イエスは何と言ったのか。「その日、その時は、だれも知らない。天の御使たちも、また子も知らない、ただ父だけが知っておられる。人の子の現れるのも、ちょうどノアの時のようであろう。……だから、あなたがたも用意をしていなさい。思いがけない時に人の子が来るからである。」その日がいつ来るのかは、人の子自身も知らない。人の子とは神の受肉した肉体のことであり、普通で平凡な人である。人の子自身でさえ知らないのに、どうしてあなたが知り得るのか。イエスは、去った時と同じように来ると言った。いつ来るのかは、イエス自身も知らないのである。ならば、イエスがあなたに前もって知らせることができるだろうか。あなたは彼の到来を見ることができるのか。それは冗談ではないのか。

『言葉は肉において現れる』の「神の働きのビジョン(3)」より引用

日々の神の御言葉 抜粋 40

神は地上に来るたび、自身の名前、性別、姿、働きを変えるものの、自身の働きを繰り返すことはない。神は常に新しく、決して古くない神である。以前に来たとき、神はイエスと呼ばれた。再び到来した今回、神はやはりイエスと呼ばれ得るのか。以前に来たとき、神は男性だった。今回も男性であり得るのか。神が恵みの時代に来たとき、その働きは十字架にかけられることだった。神が再び来るとき、依然として人類を罪から贖い得るのか。再び十字架にかけられ得るのか。それは自身の働きを繰り返すことではなかろうか。神は常に新しく、決して古くないことを知らないのか。神は不変だという人たちがいる。それは正しいが、そのことは神の性質と本質が変わらないことを指している。神の名前と働きの変化は、神の本質が変わったことを証明しているのではない。言い換えるなら、神は常に神であり、これは決して変わらない。神の働きは決して変わらないと言うのなら、神が六千年にわたる自身の経営(救いの)計画を終えることはできるだろうか。あなたは神が永遠に不変であることしか知らないが、神は常に新しく決して古くないことを知っているのか。神の働きが決して変わらないなら、神は人類を現代までずっと導くことができただろうか。神が不変なら、すでに二つの時代の働きを行なったのはなぜか。神の働きは止まることなく前進している。つまり、神の性質が徐々に人間に明かされており、そして明かされているのは神の本来の性質である。最初のころ、神の性質は人から隠されていて、神は決して自身の性質を人に公然と明かさず、人は神についての認識がまったくなかった。そのため、神は働きを用いて自身の性質を徐々に人に明かした。しかし、そのように働くことは、神の性質が時代ごとに変化するという意味ではない。神の旨が常に変わるために、神の性質が絶えず変化しているということではない。むしろ、神の働きの時代が異なるため、神は自身の本来の性質全体を一つひとつ人に明かし、それによって人は神を知ることができるのである。しかしそれは、神がもともと特有の性質をもたないことの証明でも、神の性質が時代と共に徐々に変わっていったことの証明でもない。そのような理解は間違いだと言えよう。時代の移り変わりに応じて、神は人に対し、自身だけがもつ固有の性質、すなわち神そのものを明らかにする。一つの時代の働きで神の性質全体を表現することはできない。だから「神は常に新しく、決して古くない」という言葉は神の働きを指しているのであり、また「神は不変である」という言葉は、神が本来所有するものと神そのものを指しているのである。いずれにせよ、六千年の働きを一点に絞ることはできないし、死んだ言葉で限定することもできない。そのようなことは人間の愚かさである。神は人が想像するほど単純ではないし、神の働きが一つの時代に留まることもあり得ない。たとえば、ヤーウェは常に神の名前を表わすわけではない。神はイエスの名のもとでも働くことができる。そのことは、神の働きが常に前へと進んでいることのしるしである。

神は常に神であり、決してサタンになることはない。サタンは常にサタンであり、決して神になることはない。神の知恵、神の素晴らしさ、神の義、そして神の威厳は決して変わることがない。神の本質、神が所有するものと神そのものは決して変わることがない。しかし、神の働きについて言えば、それは常に前へと進んでおり、絶えず深化している。神は常に新しく、決して古くないからである。神は時代ごとに新しい名前を名乗り、時代ごとに新しい働きを行ない、また時代ごとに、被造物に対して自身の新しい旨と新しい性質を見せる。新しい時代において、もし人々が神の新しい性質の表われを見られなければ、彼らは永遠に神を十字架にかけるのではないだろうか。またそうすることで、神を定義するのではないだろうか。もしも神が男性としてのみ受肉したならば、人々は神を男性として、男たちの神として定義し、女たちの神だとは決して信じないはずだ。すると男たちは、神は自分たちと同じ性別であり、男たちの長であるとするだろう。しかし、女たちにとっては何になるのか。これは不公平であるし、えこひいきではないか。そうであれば、神が救ったすべての人は神と同じ男ということになり、女は一人も救われないということになる。神は人類を創造したとき、アダムを創り、そしてエバを創った。神はアダムだけを創造したのではなく、自分にかたどって男と女の両方を創ったのである。神は男たちだけの神ではなく、女たちの神でもある。神は終わりの日における新たな働きの段階に入っている。神は自身の性質をより一層明らかにするが、それはイエスの時代の憐れみと愛ではない。神の手には新たな働きがあるので、それは新たな性質を伴う。ゆえに、もしもこの働きが霊により行なわれたならば、つまり神が受肉せず、代わりに霊が雷鳴を通じて直接語り、人間には神と直接接触する術がないようにしたならば、人間は神の性質を知ることができるだろうか。もしもこの働きを行なうのが霊だけであれば、人間に神の性質を知る術はないだろう。人々が神の性質を自らの目で見ることができるのは、神が肉となるとき、言葉が肉において現われるとき、そして神が自身の性質全体を肉によって表現するときだけである。神は本当に、真に人間のあいだで暮らしている。神は触れることができ、人間は神の性質、および神が所有するものと神そのものと実際に関わりをもつことができる。そうすることでのみ、人間は真に神を知るようになるのである。また同時に、神は「男たちの神であり、女たちの神である」という状態での働きを完了させ、肉における自身の働きを残らず成し遂げた。

『言葉は肉において現れる』の「神の働きのビジョン(3)」より引用

日々の神の御言葉 抜粋 41

神の経営のすべてにおよぶ神の働きは完全に明白である。恵みの時代は恵みの時代であり、終わりの日は終わりの日である。それぞれの時代には明確な違いがある。と言うのも、神はそれぞれの時代にその時代を表わす働きを行なうからである。終わりの日の働きがなされるには、その時代を終わらせる燃焼、裁き、刑罰、怒り、破壊がなければならない。終わりの日は最後の時代を指している。最後の時代において、神は時代を終わらせないのか。時代を終わらせるため、神は自ら刑罰と裁きをもたらさなければならない。このようにしてのみ、神は時代を終わらせることができる。イエスの目的は、人が生存して生き続けられるようにすること、そしてより良い方法で存在できるようにすることだった。人が堕落に陥るのをやめ、それ以上ハデスと地獄の中で生きることがないよう、イエスは人間を罪から救い、また人間をハデスと地獄から救い出すことで、その人が生き続けられるようにした。今や終わりの日は来ている。神は人を絶滅させ、人類を完全に滅ぼすだろう。つまり、神は人類の反逆心を変えるのである。そのため、神が憐れみ深く愛に満ちたかつての性質をもって時代を終わらせるのは不可能であり、六千年にわたる経営計画を結実させることもできないだろう。すべての時代は神の性質の特別な表われを特徴とし、すべての時代は神によってなされるべき働きを含んでいる。したがって、それぞれの時代で神自身によってなされる働きは神の真の性質の表現を含んでおり、神の名前と神の行なう働きはいずれも時代とともに変わり、それらはすべて新しい。律法の時代、人類を導く働きはヤーウェの名のもとになされた。そして第一段階の働きは地上で始められた。この段階において、働きは神殿と祭壇を建てること、および律法を用いてイスラエルの人々を導き、彼らのさなかで働くことから成っていた。イスラエルの人々を導くことで、神は地上における働きの拠点を築いた。この拠点から、神は自身の働きをイスラエルの外に拡張させた。すなわち、イスラエルを皮切りに、自身の働きを外に向けて拡張したのである。それにより、後の世代は徐々に、ヤーウェが神であること、天地と万物を造ったのがヤーウェであること、そしてすべての被造物を造ったのもヤーウェであることを知るようになった。神はイスラエルの人々を通じ、自身の働きを外に向けて広めた。イスラエルの地は地上におけるヤーウェの働きの最初の聖なる地であり、神が地上で働きを行なうべく最初に来たのもイスラエルの地だった。それが律法の時代の働きだった。恵みの時代、イエスは人を救う神だった。イエスが所有するものとイエスそのものは恵み、愛、憐れみ、慎み、忍耐、謙遜、思いやり、寛容であり、イエスが行なった働きの多くは人の贖いのためだった。イエスの性質は憐れみと愛であり、イエスは憐れみと慈愛に満ちていたので、人間のために十字架にかけられる必要があった。そうすることで、神は自身のすべてを捧げるほど、人類を自分のように愛していることを示したのである。恵みの時代、神の名はイエスであり、それはつまり、神は人類を救う神であり、憐れみと慈愛に満ちていたということである。神は人と共にいた。神の愛、神の憐れみ、そして神の救いは一人ひとりに伴っていた。イエスの名前と存在を受け入れることでのみ、人は平安と喜びを得ることができ、神の祝福、無数の大いなる恵み、そして救いを受け取ることができたのである。イエスの磔刑を通じ、イエスに従うすべての人が救いを受け、その罪が赦された。恵みの時代、イエスは神の名だった。つまり、恵みの時代の働きはおもにイエスの名のもとでなされたのである。恵みの時代において、神はイエスと呼ばれた。イエスは旧約聖書を越えて新しい働きの段階に着手し、その働きは磔刑で終わった。それがイエスの働きのすべてだった。したがって、律法の時代においてはヤーウェが神の名であり、恵みの時代においてはイエスの名が神を表わした。終わりの日、神の名は全能神、すなわち全能者であり、自身の力で人を導き、人を征服し、人を自分のものとし、最終的にはその時代を終わらせる。どの時代でも、また神の働きのどの段階でも、神の性質は明らかである。

『言葉は肉において現れる』の「神の働きのビジョン(3)」より引用

日々の神の御言葉 抜粋 42

「神は私たちと共におられる」というイエスの名は、神の性質の全体を表わせるだろうか。神を完全に表現できるだろうか。もしも、神は自身の性質を変えることができないので、イエスと呼ばれることしかできず、他の名をもつことはないと人が言うなら、それらの言葉はまさに冒涜である。あなたは、「神は共におられる」というイエスの名前だけで神の全体を表せると信じているのか。神は多くの名で呼ばれ得るが、それらの多くの名前の中に、神のすべてを要約できるものは一つとしてなく、神を完全に表わせるものもない。それゆえ、神は多くの名前をもっているが、これらの多くの名が神の性質を余すところなく明確に表現することはできない。なぜなら、神の性質はあまりにも豊かで、神に関する人の認識能力を完全に越えているからである。人が人間の言語を使うことで、神を完全な形で要約することはできない。神の性質について自分たちが知っているすべてのことを要約するにあたり、人間には限られた語彙しかない。偉大な、りっぱな、驚くべき、計り知れない、至高の、聖なる、義なる、知恵に満ちたなど、何と多くの言葉があることか。この限られた語彙では、人間が神の性質に関して目の当たりにしたことを、ほんの少しでも記述することは不可能である。やがて、自分の心の中の熱情をもっと上手に記述できるはずだと、他の多くの人がさらに言葉を追加した。神はとても偉大だ。神はとても神聖だ。神はとても美しい。今日、人間がこのように言うことはその頂点に達しているが、それでも自分自身を明確に表現できずにいる。だから、人間にとって神には多くの名前があるものの、神がもつのは一つの名前ではない。なぜなら、神の存在はあまりに豊富で、人間の言語はあまりに乏しいからである。ある一つの特定の言葉や名前では、神の全体を表わすことができない。そうであれば、神の名は固定され得るとあなたは考えているのか。神は極めて偉大で聖いのに、神がそれぞれの新しい時代に名前を変えるのを許さないつもりなのか。したがって、神は自ら働きを行なうそれぞれの時代に、自身が行なおうとしている働きを要約するため、その時代に合った名前を用いるのである。神はその時代における自身の性質を表わすために、一時的な意義を有する特定の名前を用いる。これは、神が自身の性質を表現するために人間の言語を用いるということである。たとえそうでも、霊的な体験をして神をじかに見たことがある多くの人は、この特定の名前が神の全体を表わすことはできないと感じている。ああ、何と救いがたいことか。そのせいで、人間はもはや神を名前で呼ぶことはなく、ただ「神」と呼ぶのである。それはあたかも、人間の心が愛であふれていながら、同時に矛盾に悩まされているかのようである。人間は神をいかに説明すればよいか分からないからである。神そのものは極めて豊かなので、それを表現する術はまったくない。神の性質を要約できる一つの名前はなく、神が所有するものと神そのものを余すところなく表現できる一つの名前もないのである。もしも誰かがわたしに「あなたはいったい何という名前を使うのですか」と尋ねるならば、こう答えるだろう。「神は神である」と。これこそが神にとって最良の名前ではないのか。神の性質の最高の要約ではないのか。そうであれば、神の名を求めてなぜそんなに苦労するのか。どうして名前のことで寝食を忘れ、頭脳を振り絞るのか。神がヤーウェ、イエス、あるいはメシアと呼ばれない日がやって来るだろう。神はただ創造主と呼ばれるのである。その時、神が地上で名乗ったすべての名前は終わりを迎える。なぜなら、地上における神の働きが終わり、その後神の名はなくなるからである。万物が創造主の支配下に入るとき、神がどうして適切ではあるが不完全な名前をもつ必要があるのか。あなたは今なお神の名を求めているのか。神はヤーウェとしか呼ばれないとあえていまだに言うつもりか。神はイエスとしか呼ばれないとあえていまだに言うつもりか。神を冒涜する罪を背負えるのか。神は本来どんな名前ももたなかったということを知るべきである。神には行なうべき働きがあり、人類を経営しなければならなかったのだから、一つや二つの、あるいは多くの名前を名乗っただけのことである。どのような名で呼ばれるにしても、神はそれを自ら自由に選んだのではないか。神がそれを決めるのに、被造物の一つであるあなたを必要とするだろうか。神が呼ばれる名前は、人が理解できること、および人の言語に沿うものだが、その名前は人が考え出せるものではない。天には神がいて、それは神と呼ばれ、偉大な力をもつ神自身であり、大いに知恵があり、大いに高められ、大いに素晴らしく、大いに神秘的で、大いに全能であるとしかあなたは言えず、それ以上は言うことができない。あなたが知り得るのはこのわずかなことだけである。そうであれば、たかだかイエスの名だけで神自身を表わすことができるだろうか。終わりの日が来るとき、神の働きは依然として神が行なうものの、時代が異なるので神の名は変わらなければならないのである。

『言葉は肉において現れる』の「神の働きのビジョン(3)」より引用

日々の神の御言葉 抜粋 43

イエスが自身の働きを行なうために来たとき、それは聖霊の指示によるものだった。イエスは聖霊の望み通りに行ない、それは旧約聖書の律法の時代にしたがうものでも、ヤーウェの働きにしたがうものでもなかった。イエスが来て行なった働きは、ヤーウェの律法やヤーウェの戒めを遵守することではなかったが、それらの源泉は同じ一つのものだった。イエスが行なった働きはイエスの名を表わし、恵みの時代を代表した。ヤーウェによってなされた働きについて言えば、それはヤーウェを表わし、律法の時代を代表した。それらの働きは二つの異なる時代における一つの霊の働きだった。イエスが行なった働きは恵みの時代しか代表できず、ヤーウェが行なった働きは旧約聖書の律法の時代しか代表できなかった。ヤーウェはイスラエルの民とエジプトの民を導き、そしてイスラエル以外のあらゆる国の民を導いただけだった。新約聖書の恵みの時代におけるイエスの働きは、神がその時代を導く中で、イエスの名のもとで行なう働きだった。イエスの働きはヤーウェの働きに基づいていて、新しい働きに一切着手せず、イエスが行なったのはヤーウェの言葉にしたがい、ヤーウェの働きとイザヤの預言にしたがうことだけだったと言うのなら、イエスは肉となった神ではなかったはずだ。仮にイエスがそのような形で自身の働きを行なっていたなら、イエスは律法の時代の使徒もしくは働き手だったはずである。もしもあなたの言う通りなら、イエスは一つの時代を始めることも、他の働きを行なうこともできなかっただろう。同じように、聖霊はおもにヤーウェを通じてその働きを行なわなければならず、またヤーウェを通じてでなければ、いかなる新しい働きもできなかっただろう。人がイエスの働きをこのように理解するのは間違っている。イエスによる働きがヤーウェの言葉とイザヤの預言にしたがってなされたと信じるなら、イエスは受肉した神だったのか、それとも預言者の一人だったのか。この見方によれば、恵みの時代などというものはなく、イエスは神の受肉ではなかったということになる。と言うのも、イエスが行なった働きは恵みの時代を表わすことができず、旧約聖書の律法の時代しか表わせなかったからである。あり得るのは新しい時代だけであり、そのときイエスが来て新しい働きを行ない、新しい時代を始め、イスラエルで以前に行なわれた働きを打ち破り、イスラエルでヤーウェが行なった働き、ヤーウェの古い規則、あるいは何らかの規制にしたがって自身の働きを行なうのではなく、むしろなすべき新しい働きを行なったのである。神自身が時代を始めるために来て、神自身が時代を終えるために来るのである。人は時代を始めたり、時代を終えたりする働きをすることができない。到来したイエスがヤーウェの働きを終わらせなかったら、そのことは、イエスはただの人であり、神を表わすことができなかったという証明になるだろう。イエスが来てヤーウェの働きを終わらせ、ヤーウェの働きを引き継ぎ、またそれ以上に自分自身の働き、つまり新しい働きを行なったからこそ、それは新しい時代で、イエスは神自身だったことが証明される。両者ははっきり異なる二つの段階の働きを行なったのである。一つの段階は神殿の中でなされ、もう一つは神殿の外でなされた。一つの段階は律法にしたがって人の生活を導くことであり、もう一つは罪の捧げ物を供えることだった。これら二つの段階の働きは明確に異なっていた。それは新しい時代と古い時代を分け、それらは二つの異なる時代だと言うのは絶対に正しい。両者の働きの場所は異なり、働きの内容も異なり、働きの目的も異なっていた。そのため、それらは二つの時代に区分することができる。つまり新約聖書と旧約聖書であり、すなわち新しい時代と古い時代である。到来したイエスは神殿に入らなかった。そのことは、ヤーウェの時代がすでに終わっていたことを証明する。イエスが神殿に入らなかったのは、神殿におけるヤーウェの働きが終わっており、再度行なわれる必要がなく、再度行なうことは繰り返しになるからである。神殿を離れ、新しい働きを開始し、神殿の外で新しい道を切り開くことでのみ、イエスは神の働きを絶頂に至らせることができたのである。イエスが神殿の外に出て自身の働きを行なっていなければ、神の働きは神殿の基礎に停滞し、なんら新しい変化は起きなかっただろう。だから到来したイエスは神殿に入らず、神殿の中で働きを行なうこともなかったのである。イエスは神殿の外で自身の働きを行ない、弟子を率いて自由に働きに取り組んだ。神が神殿を離れて働きを行なったことは、神に新しい計画があることを意味していた。神の働きは神殿の外で行なわれることになっており、それは実行する方法に拘束されない新しい働きのはずだった。イエスは到来するやいなや、旧約聖書の時代におけるヤーウェの働きを終了させたのである。両者は二つの異なる名前で呼ばれたが、二つの段階の働きを成し遂げたのは同じ霊であり、なされた働きは継続的なものだった。名前が違い、働きの内容も違っていたように、時代も違っていたのである。ヤーウェが来たとき、それはヤーウェの時代で、イエスが来たとき、それはイエスの時代だった。したがって、神は来るたびに一つの名で呼ばれ、一つの時代を表わし、新しい道を切り開く。それぞれの新しい道において神は新しい名を名乗り、またそのことは、神が常に新しく決して古くないことと、神の働きが絶えず前方に進んでいることを示すのである。歴史は常に前進しており、神の働きは常に前進している。六千年にわたる神の経営計画が終わりを迎えるには、前方へと進み続けなければならない。毎日、神は新しい働きを行なわなければならず、毎年、神は新しい働きを行なわなければならない。神は新しい道を切り開き、新しい時代を始め、新しくさらに偉大な働きを開始し、それらとともに新しい名前と新しい働きをもたらさなければならない。

『言葉は肉において現れる』の「神の働きのビジョン(3)」より引用

日々の神の御言葉 抜粋 44

「ヤーウェ」はわたしがイスラエルで働きを行なっている間に用いた名前であり、人を憐れみ、人を呪い、人の生活を導くことのできる、イスラエル人(神に選ばれた人々)の神という意味である。それは偉大な力を所有し、英知に満ちた神という意味である。「イエス」はインマヌエルであり、愛に満ち、慈悲心に満ち、人の罪を贖う捧げものを意味する。イエスは恵みの時代の働きを行ない、恵みの時代を表すので、経営(救いの)計画の一部分しか表すことはできない。すなわち、ヤーウェだけがイスラエルの選ばれた人々の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、モーセの神、イスラエルのすべての人々の神である。そこで現代、すべてのイスラエル人は、ユダヤの民は別として、ヤーウェを崇拝している。彼らは祭壇でヤーウェに捧げものをし、神殿で祭司の祭服を着て神に仕える。彼らが望むのは、ヤーウェの再現である。イエスだけが人類の贖い主である。イエスは罪から人類を救った捧げものである。つまり、イエスの名前は恵みの時代から来ており、恵みの時代の贖いの働きのために存在した。イエスの名前は恵みの時代の人々が生き返り、救われるために存在したのであり、全人類の贖いのための特別な名前である。そこで、イエスという名前は贖いの働きを表し、恵みの時代を意味する。ヤーウェの名前は律法の下に生きたイスラエルの人々のための特別な名前である。各時代、各段階の働きにおいて、わたしの名前は根拠のないものではなく、代表的意味を持っている。それぞれの名前は一つの時代を表す。「ヤーウェ」は律法の時代を表し、イスラエルの人々が崇拝した神の敬称である。「イエス」は恵みの時代を表し、恵みの時代に贖われたすべての人々の神の名前である。人が終わりの日に救い主イエスが到来することをまだ望み、ユダヤの地にいたときの姿で到来することをまだ期待するなら、六千年の経営計画全体は贖いの時代に停止し、それ以上進展することはできないだろう。そのうえ、終わりの日は決して来ることはなく、時代にピリオドが打たれることはないだろう。救い主イエスは人類の贖いと救いのためだけにあるからである。わたしは恵みの時代のすべての罪人のためにイエスの名を名乗ったのであり、わたしが人類全体を終らせるのはこの名においてではない。ヤーウェ、イエス、メシアはすべてわたしの霊を表すが、これらの名前は単にわたしの経営計画の異なる時代を示すものであり、わたしの全体を表すものではない。地上の人々がわたしを呼ぶ名前のどれも、わたしの性質全体、わたしであるすべてを明確に示すことはできない。それらは単に異なる時代にわたしが呼ばれる異なる名前にすぎない。だから最後の時代――終わりの日の時代――が来た時、わたしの名前はまた変わるのである。わたしはヤーウェやイエスとは呼ばれないし、ましてやメシアとは呼ばれないが、力ある全能の神自身と呼ばれ、この名前の下でわたしは時代全体を終らせるだろう。わたしはかつてヤーウェとして知られていた。わたしはメシアとも呼ばれ、また、人々はかつてわたしを救い主イエスとも呼んだ。わたしを愛し、尊敬したからである。しかし、今日わたしは人々が過去に知っていたヤーウェでもイエスでもない。わたしは終わりの日に戻ってきた神、時代を終らせる神である。わたしは、わたしの全性質を余すところなく顕し、権威、名誉、栄光に満ちて地の果てから立ち上がる神自身である。人々は一度もわたしと関わったことがなく、わたしを知ったことがなく、ずっとわたしの性質に無知であった。天地創造から今日に至るまで、わたしを見たことがある者はひとりとしていなかった。これは終わりの日に人の前に現れるが、人々の間に隠れている神なのである。神は真実で現実的に、照りつける太陽や燃え立つ火のように、力に満たされ、権威にあふれて人々のあいだに存在する。わたしの言葉によって裁きを受けない人や物は一人として、一つとしてない。燃える火によって浄化されない人や物は一人として、一つとしてない。最終的には、あらゆる諸国はわたしの言葉のために祝福され、わたしの言葉のために粉々に砕かれもする。このようにして、終わりの日にすべての人は、わたしが戻ってきた救い主であり、人類のすべてを征服する全能神であり、かつては人のための罪の捧げものであったが、終わりの日にはすべてを焼き尽くす太陽の炎にもなり、またすべてのものを露わにする義の太陽でもあることを理解するだろう。それが終わりの日のわたしの働きである。わたしはこの名前を名乗り、この性質を持ち、すべての人がわたしが義の神であり、照りつける太陽、燃え立つ火であることが理解できるようにする。そうするのはすべての人が唯一の真の神であるわたしを崇め、わたしの本当の顔を見ることができるようにである。わたしはイスラエル人たちの神であるだけではなく、贖い主であるだけでもなく、天、地、海の至る所にあるすべての創造物の神である。

『言葉は肉において現れる』の「救い主はすでに『白い雲』に乗って戻って来た」より引用

日々の神の御言葉 抜粋 45

終わりの日に救い主が到来する時、まだイエスと呼ばれていたら、そしてもう一度ユダヤで生まれ、そこで働きを行なったら、これはわたしがイスラエルの人々だけを造り、イスラエルの人々だけを贖い、異邦人とは関係がないことの証明になるだろう。これは「わたしは天と地、すべてのものを造った主である」というわたしの言葉と矛盾しないだろうか。わたしはユダヤを離れ、異邦人のもとで働きを行なう。なぜならわたしはイスラエルの人々の神というだけでなく、すべての創造物の神だからである。わたしは終わりの日には異邦人のもとに現れる。なぜならわたしはヤーウェ、つまりイスラエルの人々の神であるだけでなく、さらに、異邦人の中でわたしが選んだ者すべての創造主だからである。わたしはイスラエル、エジプト、レバノンを造っただけでなく、イスラエルの域を超えてすべての異邦人の国々も造った。そしてこのために、わたしはすべての創造物の主なのである。わたしは働きのための出発点としてイスラエルを使い、ユダヤとガリラヤを贖いの働きの拠点として用い、異邦人の国々を時代全体を終らせる起点として使うだけである。わたしはイスラエルで二段階の働き(律法の時代と恵みの時代の二段階の働き)を行ない、イスラエルの域を超えた国々の至る所でさらに二段階の働き(恵みの時代と神の国の時代)を行なってきた。異邦人の国々でわたしは征服の働きを行ない、時代を終らせる。もし人がいつまでもわたしをイエス・キリストと呼び、わたしが終わりの日に新しい時代を始め、新しい働きに着手していることを知らず、いつまでも取りつかれたように救い主イエスの到来を待つならば、わたしはこのような人々をわたしの存在を信じない人々と呼ぶだろう。彼らはわたしを知らない人々で、わたしへの信仰は偽りである。このような人々が救い主イエスの天からの再来に立ち会うことができるだろうか。彼らが待っているのはわたしの到来ではなくユダヤ人の王の到来である。彼らはこの不純な古い世界をわたしが絶滅させることを切望しているのではなく、その代わりにイエスの再来を望み、それにより罪から贖われることを願っている。彼らはイエスがこの汚れた、よこしまな地から全人類をもう一度贖うことを切望している。どうしてこのような人々が終わりの日にわたしの働きを完成させる人々になれるだろう。人の願望はわたしの望みを達成することも、わたしの働きを完成させることもできない。人はわたしが以前になした働きを賞賛し、大切にするだけで、わたしがいつも新しく、決して古くならない神自身であることにまったく気づかないからである。人はわたしがヤーウェでイエスであることを知っているだけで、わたしが最後に来る人類を終らせるものであることに少しも感づいていない。人が熱望し知っているすべては、自分の観念に関するものや、自分の目で見ることができるものに過ぎない。それはわたしの働きと一致しておらず、調和していない。わたしの働きが人の考えに従って行なわれるとしたら、いつ終わるだろう。いつ人類は安息に入るだろう。そしてわたしはどうしたら7日目の安息日に入ることができるだろう。わたしは、わたしの計画に従って、わたしの目的に従って働くのであり、人の意図に従っては働かない。

『言葉は肉において現れる』の「救い主はすでに『白い雲』に乗って戻って来た」より引用

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