第2節 神の出現と働き

日々の神の御言葉 抜粋 46

シオンに讃美がもたらされ、神の存する場所が現れた。栄光に満ちた聖なる名はあらゆる人に讃えられ、広まる。ああ、全能神よ。宇宙の頭、終わりの日のキリスト。この方こそ、全宇宙に堂々と威厳に満ちてそびえ立つシオンの山に登った輝く太陽である。

全能神よ!私たちは喜んであなたに呼びかける。私たちは踊り、歌う。あなたは真に私たちの贖い主、偉大な全宇宙の王!あなたは勝利者の群れを作り、神の経営(救いの)計画を全うした。諸国民はこの山に集い、玉座の前に跪く。あなたこそ唯一の真の神であり、栄光と栄誉はあなたにふさわしい。すべての栄光、讃美、権威がその玉座にあるように。いのちの泉が玉座から流れ出て、神の民の群衆を潤し、養う。いのちは日々変化し、新しい光と啓示が私たちに伴い、常に神についての新たな識見が与えられる。経験により私たちは神についての完全なる確信を得る。神の言葉が絶え間なく現われ、正しい人に現れる。私たちはまさに祝福されている!日々神に対面し、あらゆることにおいて神と交わり、すべてを神の統治に明け渡す。神の言葉を注意深く思い巡らし、私たちの心は神において穏やかで、そのように神の前に出て、そこで神の光りを受ける。毎日、私たちの生活、行動、言葉、思い、考えにおいて、私たちは神の言葉の中に生き、常に識別することができる。神の言葉は針に糸を通す。私たちの内面に隠されたものが不意に次々と現れる。神との交わりは少しの遅れも許さない。私たちの思いや考えは神に露わにされる。一瞬一瞬を私たちはキリストの玉座の前にて生き、そこで裁きを受ける。私たちの身体のどの部分もサタンに占領されたままである。きょう、神の統治を取り戻すため、神殿を清めなければならない。完全に神に獲得されるため、私たちは生死を分ける戦いを経験しなければならない。古い自己がはり付けにされて初めて、キリストの復活したいのちによる最高統治が可能となる。

今や聖霊が私たちの隅々に突撃し、争奪戦を戦う。自己を否定し、進んで神に協力する覚悟があるならば、いつでも神は私たちに光を当てて私たちを内部から清め、サタンが占領していたものを取り戻す。それにより私たちがすぐに完全に神のものとなることができるようにである。時間を無駄にしてはならない。一瞬ごとを神の言葉の中に生きよ。聖徒とともに建て上げられ、神の国に連れて行かれ、神とともに栄光に入れ。

『言葉は肉において現れる』第一部「キリストの初めの言葉」の「第一章」より引用

日々の神の御言葉 抜粋 47

フィラデルフィアの教会の形が整い、これはひとえに神の恵みと憐れみによる。神への愛が多くの聖徒たちの心に生じ、聖徒たちは霊の旅路から外れることはない。聖徒たちは唯一の真の神が肉となり、その神はすべてを司る宇宙の頭であるという信仰を固守する。それを聖霊が確認し、それは山のように揺るぎない。そしてそれは変わることがない!

ああ、全能神よ!今日あなたは私たちの霊の目を開き、盲人を見えるようにし、足の不自由な者を歩けるようにし、ハンセン病患者を癒やした。あなたは天の窓を開き、私たちに霊の世界の奥義を見せた。あなたの聖なる言葉に満たされ、サタンに堕落させられた人間性から救われること、これがあなたの偉大な働き、驚くほどの憐れみである。私たちはあなたの証人である!

あなたは長きに亘り、へりくだって沈黙のうちに自分を隠していた。あなたは死からの復活と磔の苦しみ、人間として生きる喜びと悲しみ、迫害と困難を経験した。人の世の痛みを経験し、時代に見捨てられた。受肉の神は神自身である。あなたは神の旨ゆえに私たちを汚物の山から救い、あなたの右手で私たちを持ち上げ、思うままに私たちに恵みを施した。労を惜しまず、私たちにあなたのいのちを注いだ。あなたが血、汗、涙で払った代価は聖徒たちの上に凝縮している。私たちはあなたの血のにじむような努力の産物[a]であり、あなたが払った代価である。

ああ、全能神よ!あなたの愛にあふれた優しさと憐れみ、義と威厳、聖さと謙遜ゆえに、諸民族はあなたの前にひれ伏し、永遠にあなたを拝する。

今日あなたはあらゆる教会、フィラデルフィアの教会を完全なものとし、それにより六千年に及ぶ経営(救いの)計画を実現した。聖徒たちはあなたの前に身を低くして従うことができる。聖徒たちは霊において互いに繋がり、愛を持って互いに伴い、泉の源に繋がっている。いのちの生ける水は絶え間なく流れ、教会の汚れた泥水をすべて洗い流し、あなたの神殿を再び清くする。私たちは実際的な真の神を知るにいたり、神の言葉の中を歩み、自らの役割と本分をわきまえ、教会のためにできる限りを費やしてきた。あなたの旨が私たちの中で妨げられることのないように、私たちはあなたの前で常に静かにして、聖霊の働きに留意しなければならない。聖徒たちのあいだには互いへの愛があり、力ある聖徒が他の聖徒の弱みを補う。聖霊による啓きと照らしを受け、聖徒たちは常に霊の中を歩くことができる。真理を理解するとすぐに実践し、新たな光に歩調を合わせ、神の足跡に従う。

積極的に神に協力しなさい。神に支配をゆだねることは、神とともに歩むことである。私たちの考え、観念、意見、世俗の束縛はすべて煙のように空中に消える。私たちは霊において神に最高統治を委ね、神と歩み、それにより超越を得、世に打ち勝ち、私たちの霊は自由になって羽ばたく。それが全能神が王になったときの結果である。どうして褒めたたえの踊りと歌をせずに、讃美と新しい賛歌を捧げずにいられようか。

神を褒めたたえる方法は確かにいくつもある。神の名を呼ぶ、神に近づく、神に語りかける、祈りつつ読む、交わる、黙想する、熟考する、祈る、讃美を歌う。このような讃美の行為には喜びがあり、また油注ぎがある。讃美には力があり、また重荷もある。讃美には信仰があり、新たな識見がある。

積極的に神に協力し、協調して奉仕し、ひとつとなり、全能神の旨を満たしなさい。急いで聖い霊の体となり、サタンを蹂躙し、サタンの運命を終わらせなさい。フィラデルフィアの教会は神の前に携挙され、神の栄光の中に現れる。

『言葉は肉において現れる』第一部「キリストの初めの言葉」の「第二章」より引用

脚注

a. 原文に「の産物」という語句はない。

日々の神の御言葉 抜粋 48

勝利を収めた王は栄光の玉座に着く。王は贖いを完成させ、その全ての民を栄光の中に現れるように導く。王はその手に万物を握り、その神聖な知恵と力によりシオンを堅く建て上げた。その威厳をもって、邪悪な世界を裁き、全ての国々と諸国民を裁き、地と海とそこに住むあらゆる生き物を裁き、淫乱の葡萄酒に酔った者たちをも裁く。神は必ず彼らを裁き、怒り、その中に神の威厳が現われる。裁きは瞬時に遅れることなく下される。神の怒りの炎は彼らの凶悪な犯罪を焼き尽くし、災いは彼らに必ず降り注ぐであろう。そのとき彼らは、逃げる場所も隠れる場所もないことを知り、歯ぎしりして泣き、自らに破滅をもたらす。

神に愛される勝ち誇った子ども達は確かにシオンに留まり、そこを離れることはない。群衆は神の声にじっと耳を傾け、神の行いを注意深く見守り、神への讃美の声は絶えることがない。唯一の真の神が現れたのだ!私たちは霊において神について確信し、一心に従い、ためらうことなく全力で進む。世界の終わりが私たちの目前で明らかになりつつある。正しい教会生活、そして私たちを取り囲む人々、出来事、物事が、今でさえ私たちの訓練を強化している。深くこの世を愛してしまった心を急いで取り戻そう。ひどく曇ってしまったビジョンを急いで取り戻そう。境界線を越えないようにこれ以上行き過ぎてはならない。神の言葉によって生きるために言葉を慎まなければならない。自分の損得を言い争うことをやめるのだ。世俗の世界と富への愛を捨てよ。ああ、そこから自由になれ。夫や息子、娘達への愛着から自分を解放せよ。独自の見解や偏見を捨てよ。目覚めよ。時間がないのだから。霊を天に向け、神を見上げて神に支配をゆだねよ。ロトの妻のようになってはいけない。見捨てられることは哀れなこと、それは余りに哀れだ!目覚めよ!

『言葉は肉において現れる』第一部「キリストの初めの言葉」の「第三章」より引用

日々の神の御言葉 抜粋 49

山と河は移り変わり、水は進路に沿って流れ、人間の命は天と地のように永続することはない。唯一全能神だけが世代を超えて、とこしえに生き続ける復活の永遠のいのちである。すべての物、すべての出来事は神の手の中にあり、サタンは神の足の下にある。

今日神が私たちをサタンの魔の手から救ったのは、神が予め定めた選択による。神はまことに私たちの贖い主である。復活したキリストの永遠のいのちが私たちの内に形造られているので、私たちは神のいのちに繋がるよう運命づけられており、神と共にいて向き合っていることができ、神を食し、飲み、享受することができるのである。これは神の苦心と無私無欲の献身である。

季節が移り変わる中、風と霜を経て、幾つもの人生の苦痛、迫害と患難、この世の拒絶と中傷、また政府による偽りの告発に直面しても、神の信念と決意はほんの少しも衰えることがない。神の旨のために、そして神の経営と計画が成し遂げられるために、彼は全身全霊で自分の命を捧げる。自分のすべての民のために、彼はどんな努力も惜しまず、心を配って彼らに糧と水を与える。私たちがどんなに無知であろうと、私たちがどんなに難しかろうと、私たちに必要なのは彼に従うことだけである。そうすれば、キリストの復活のいのちが私たちの古い本性を変えるだろう……これらの長子たちのために、彼はたゆむことなく労し、食事も睡眠もとらない。幾日も、幾夜も、幾つもの焼け付くような暑さと凍える寒さの中でも、彼は一心にシオンで見守る。

彼はこの世も、家庭も、仕事も、自ら進んで捨て、この世のどんな享楽も彼に触れることはない……彼の口から発する言葉は私たちを突き通し、私たちの心の奥底に隠れていることを露わにする。どうして私たちが確信させられないことなどあろうか。彼の口から発する一句一句はいつでも私たちにおいて実現されるだろう。神の前であれ、あるいは神に隠れてであれ、私たちが何をしようと、彼が知らないこと、理解していないことはひとつとしてなく、私たちの計画や采配に関わらず、すべてが彼の前に実際に露わになる。

彼の前に座り、自分の霊の中で楽しみ、くつろぎ、落ち着いていながら、心の中では絶えず空しさを感じ、神に負い目を感じる。これは想像を絶する奇跡であり、成し遂げるのは不可能である。聖霊は全能神が唯一の真実なる神であることを豊かに証しする。議論の余地はない。私たちの一団はほんとうに祝福されている。神の恵みと憐みがなければ、私たちは地獄に行き、サタンについて行かなければならない。唯一全能神だけが私たちを救うことができるのだ。

おお、実際の神、全能神よ!私たちの霊の目を開いたのはあなたである。その結果、私たちは霊的世界の奥義をこの目で見た。神の国の展望は果てしない。目を覚まして見張り、待っていなさい。その日はもう遠くはない。

戦火は巻き起こり、銃口からは煙が漂い、天候は温暖化し、気候は変動し、疫病が広がるだろう。そして人々は、僅かの生存の希望もなく、死ななければならない。

おお、実際の神、全能神よ!あなたは私たちの堅固な塔。私たちの隠れ場。あなたの翼の下で身を寄せ合えば、私たちには災いが及ばない。これがあなたによる神聖な守りと配慮だ。

私たちは皆声を張り上げ、賛美を歌う。シオン中に鳴り響く賛美の歌を!実際の神、全能神は私たちのために、あの栄光に満ちた終着点を用意した。目を覚まして見張っていなさい──見張っていなさい!その時はもう遠くない。

『言葉は肉において現れる』第一部「キリストの初めの言葉」の「第五章」より引用

日々の神の御言葉 抜粋 50

全能神──神の国の王──が証しされて以来、神の経営(救い)の領域は全宇宙に遍く広がっている。中国において神の出現が証しされただけでなく、全能神の名がすべての国々とすべての土地で証しされている。彼らは皆この聖なる名を呼んで、どうにかして神との交わりを持とうとし、全能神の旨を把握し、一致して教会で仕えている。聖霊はこのような不思議な方法で動くのである。

様々な国々の言語は互いに異なっているが、霊は一つである。この霊は、全宇宙の教会を一つに結び、神と一つであり、少しも違わない。そしてこれは疑いの余地のない事実である。聖霊は今、彼らに呼びかけ、その声は彼らを呼び覚ます。それは神の憐みの声である。彼らは皆全能神の聖なる名を呼んでいる。彼らはまた讃美を捧げて歌う。聖霊の働きにおいてはどんな逸脱もあり得ない。そして、これらの人々は正しい道に沿って前進するためなら、どんなことでもする。彼らは退くことがなく、奇跡は次々と起こっている。それは、人々にとって想像し難いことであり、推測するのも不可能である。

全能神は宇宙のいのちの王である。神は栄光の玉座に座り、世界を裁き、すべての上に君臨し、すべての国々を支配する。すべての人々は跪いて神に祈り、神に近づき、神と交わる。どんなに長く神を信じていようと、地位がどれだけ高かろうと、どんなに年の功があろうと、もしあなたが心の中で神に逆らうなら、あなたは裁かれなければならず、神の前にひれ伏して痛々しい懇願の声を出さなければならない。これはまさしく自身の行動の結果を刈り取ることである。この嘆きの声は火と硫黄の池で苦しめられるときの声であり、それは神の鉄の杖によって懲らしめられるときの叫びである。これこそキリストの玉座の前の裁きである。

『言葉は肉において現れる』第一部「キリストの初めの言葉」の「第八章」より引用

日々の神の御言葉 抜粋 51

神の出現はすでにすべての教会で現れている。語るのは霊である。神は燃え盛る火であり、神は威厳を持ち、裁きを行っている。神は人の子であり、足までたれた上着を着、胸に金の帯をしめている。その頭と髪の毛とは、羊毛のように白く、目は燃える炎のようであった。その足は、炉で精錬されて光り輝くしんちゅうのようであり、声は大水のとどろきのようであった。その右手に七つの星を持ち、口からは、鋭いもろ刃のつるぎがつき出ており、顔は、強く照り輝く太陽のようであった。

人の子は証しされ、神自身が公に現された。強く照り輝く太陽のように神の栄光が現れた。神の栄光の顔がまばゆい光とともに明るく輝く。あえて抵抗の目を神に向けるのは誰か。反抗は死を意味する。どんなことを心に思おうが、どんな言葉を言おうが、どんなことを為そうが、ほんの僅かの憐れみも示されはしない。あなたがたが得たものが何であるかを、あなたがたは皆理解し、見るようになるだろう──それはわたしの裁き以外には何もない。あなたがたがわたしの言葉を飲み食いすることに努力を注がず、むやみに妨害してわたしが建て上げたものを破壊するなら、わたしはそれに我慢できようか。わたしはこのような人間は手加減しない。これ以上深刻な事態になるなら、あなたは炎の中で焼き尽くされるだろう。全能なる神は、頭から足の先まで繋がる肉や血は少しもない霊の体に現れる。神は宇宙と世界を超越し、第三の天にある栄光の玉座に座り、万物を治めている。宇宙と万物はわたしの手の中にある。わたしが語ると、そのようになり、わたしが定めると、それは成る。サタンはわたしの足の下にあり、それは底なしの穴にいる。わたしの声が発されると、天と地は滅び、無に帰す。すべてのものは新たにされ、これは真実以外の何ものでもない不変の真理である。わたしは世に打ち勝ち、すべての悪い者たちに打ち勝った。わたしはここに座り、あなたがたに語っている。耳のある者はみな聞くべきである。生ける者はみな受け入れるべきである。

この日は終わりを迎え、世のすべてのものは無に帰す。そしてすべてのものが新たに生まれる。このことを覚えておきなさい。これを覚えておきなさい。曖昧なことは何もない。天地は滅びるであろう。しかしわたしの言葉は滅びることがない。再びあなたがたに忠告する。無駄な走り方をしてはならない。目を覚ましなさい。悔い改めなさい。救いはもうすぐそこまで来ている。わたしはすでにあなたがたの間に現れ、わたしは声を上げた。わたしはあなたがたの前で声を上げ、あなたがたと日々顔を合わせ、それは毎日新鮮で新しい。あなたはわたしを見、わたしはあなたを見る。わたしは顔を合わせて常にあなたに話す。それでもあなたはわたしを拒み、わたしを知らない。わたしの羊はわたしの声に聞き従うが、あなたがたはまだ躊躇している。あなたがたは躊躇している。あなたの心は鈍くなり、あなたの目はサタンによって盲目にされて、わたしの栄光の顔を見ることができない──何と哀れなことか。何と哀れなことか。

わたしの玉座の前にある七つの霊は、地の隅々にまでつかわされ、わたしは教会に語るようにわたしの使者をつかわす。わたしは義であり、信実である。わたしは人の心の奥底を調べる神である。聖霊は諸教会に語り、わたしの子の内側から発せられるのはわたしの言葉である。耳のある者はみな聞くべきである。生ける者はみな受け入れるべきである。ただそれを飲み食いしなさい。そして疑ってはならない。わたしの言葉に従い耳を傾ける者は皆、大いなる祝福を受ける。わたしの顔を誠実に求める者は皆、必ず新たな光と新しい啓示と新しい識見を得るだろう。すべてが新鮮で新しくなるのだ。わたしの言葉はどんな時にもあなたに示され、それらはあなたの霊の目を開き、それによってあなたは霊的領域のすべての奥義を知り、神の国が人間の間にあるのを見るようになる。避難所に入りなさい。そうすれば、すべての恵みと祝福があなたの上に臨み、飢饉や疫病はあなたに触れることができず、狼や蛇、虎や豹もあなたを害することはできない。あなたはわたしと共に行き、わたしと一緒に歩き、わたしと共に栄光へと入るだろう。

『言葉は肉において現れる』第一部「キリストの初めの言葉」の「第十五章」より引用

日々の神の御言葉 抜粋 52

全能神よ。彼の栄光の体が公に出現し、聖なる霊の体が現れる。彼は完全なる神自身である。世と肉は両方とも変えられる。彼の山上の変容は神の姿である。彼は頭に金の冠をかむり、その衣は真っ白で、胸に金の帯をしめる。世界のすべてのものは彼の足台である。目は燃える炎のようで、口からは鋭いもろ刃のつるぎがつき出ており、その右手に七つの星を持っている。神の国への道は限りなく明るい。そして神の栄光が現れ、輝く。山々は喜び、水は笑う。太陽や月、星のすべては、秩序ある配置によって動き、勝利の再来によって六千年の経営(救いの)計画の完成を告げる、唯一の真の神を歓迎する。すべての者たちは喜んで跳び上がり踊る。歓喜せよ。全能なる神は栄光の玉座に座っている。歌え。全能者の勝利の旗は威厳ある壮大なシオンの山の上に高く掲げられている。すべての国々が歓喜の声を上げ、すべての人々が歌っている。シオンの山は喜び笑い、神の栄光が現れた。夢の中でさえ、神の顔を見ることができるとは思わなかったが、私は今日それを見た。日々神と顔を合わせ、私は神に私の心を露わにする。神は食べる物、飲む物をすべて豊かに与える。いのち、言葉、行動、思い、考え──神の栄光がそれらすべてを照らす。神は行くべき道を一歩一歩導き、誰かの心が反抗的であるなら、すぐに神の裁きが下るだろう。

神と共に食べ、共に過ごし、共に暮らし、神と共にいて、共に歩み、共に楽しみ、共に栄光と祝福を得、神と王位を共有し、共に神の国にいる──おお、何という喜びだろう。おお、何と甘美なことか。日々顔を合わせ、毎日語り、常に話し、日々新しい啓示と新たな識見を得る。私たちの霊の目が開かれ、私たちはすべてを見、霊のすべての奥義は私たちに明らかにされる。聖なる生活は実に気楽である。速く走り、止まることなく、ひたすら前へ突き進みなさい。もっと素晴らしい生活が待っている。ただ甘い味に満足していてはならない。常に神の中に入ることを求めなさい。彼はすべてを包み込み、満ち満ちており、私たちに欠けているあらゆる種類のものを持っている。積極的に協力し、神の中に入りなさい。そうすれば、すべては変わるだろう。私たちの生活は超越し、どんな人間も、物事も、私たちを邪魔することはできない。

超越。超越。真の超越。神の超越したいのちは内にあり、すべてのものは実にゆったりとしている。私たちは世界と世俗を超越し、夫や子供たちへの愛着を少しも感じない。私たちは病気や状況の支配を超越する。サタンも私たちを邪魔しようとはしない。すべての災いを完全に超越する──これは神に王位を委ねることである。私たちは足の下にサタンを踏みにじり、教会のために証しに立ち、徹底的にサタンの醜い顔を暴露する。教会を建て上げることはキリストの中にある。栄光の体が現れた──これこそが携挙の中に生きることである。

『言葉は肉において現れる』第一部「キリストの初めの言葉」の「第十五章」より引用

日々の神の御言葉 抜粋 53

全能の神、永遠の父、平和の君、私たちの神は統べ治める。全能神はオリーブ山の上に降り立つ。それは何と美しいことか。聞きなさい。私たち見張り人は声を張り上げ、私たちの声で共に歌う。神がシオンに戻ったからだ。私たちはこの目でエルサレムの荒廃を見る。歓喜し共に歌え。神が私たちに慰めをもたらし、エルサレムを贖ったのだから。神はすべての国々の目の前でその聖なる腕を現し、まことの神の人が姿を現した!地の果て果てまでも、すべてのものが私たちの神の救いを見た。

ああ、全能神よ!あなたの奥義のすべてを明らかにするために、あなたの玉座から七つの霊がすべての教会へ遣わされました。あなたはあなたの栄光の玉座に座り、あなたの国を治め、正義と義によってそれをしっかり安定させ、あなたの前のすべての国々を征服されました。ああ、全能神よ!あなたは王たちの帯を解き、都の門をあなたの前に大きく開いて、二度と閉じないようにされました。あなたの光が到来し、あなたの栄光が昇って輝きを放っているからです。暗闇が地を覆い、濃い闇がすべての国民の上にあります。おお、神よ!しかしあなたは私たちに現れ、私たちをあなたの光でお照らしになり、そして私たちの上にあなたの栄光が見られるでしょう。すべての国々はあなたの光のもとへ来ます。そして王たちはあなたの輝きのもとへ来ます。あなたは目を上げて辺りを見回します。あなたの息子たちはあなたの前に集まり、彼らは遠くから来ます。あなたの娘たちは腕に抱えられ運ばれます。おお、全能神よ!あなたの大いなる愛は私たちをとらえます。あなたの国への道において私たちの歩みを導くのはあなたであり、私たちに浸透するのはあなたの聖なる言葉です。

ああ、全能神よ!私たちは感謝し、あなたを讃美します。私たちはあなたを見上げ、あなたを証しし、あなたを崇め、そして誠実で、落ち着いて、ひたむきな心であなたに歌います。心を一つにして共に築き上げられましょう。そうすれば、あなたはすぐに私たちを、あなたの心に適う者、あなたに用いられる者に変えられます。私たちは、あなたの旨が妨げられることなく全地で成し遂げられることを望みます。

『言葉は肉において現れる』第一部「キリストの初めの言葉」の「第二十五章」より引用

日々の神の御言葉 抜粋 54

全能神は全ての権力を握る方、全てを成し遂げる方であり、完全なる真の神である。この神は七つの星を携えているだけでなく、七つの霊と七つの目を持ち、七つの封印を解いて巻物を広げるが、それだけではなく、七つの疫病と七つの鉢を管理し、七つの雷を開く。ずっと前に全能神は七つのラッパを鳴らした。彼によって造られた全てのものと完全にされた全てのものは彼を讃美し、彼に栄光を帰し、彼の御座を高くかかげるべきである。ああ、全能神よ!あなたは全てであり、あなたは全てを達成し、あなたにあっては、全ては完全であり、全ては明るく、全ては解放されており、全ては自由であり、全ては強く、力に満ちている。隠されたものや覆われたものはなく、あなたにあっては、全ての奥義が現わされている。さらに、あなたは大勢の敵を裁き、あなたの威厳を示し、燃え盛る炎を示し、あなたの怒りを示す。そしてさらに、前例のない、永遠で、全く無限の栄光を示す。全ての民は、目を覚まし、歓声を上げて、ためらうことなく歌い、全能なる方、全てが真実で、常に生きており、豊かで、栄光に満ちた、とこしえからとこしえまで存在する真の神を讃えるべきである。全能神の御座は常に高められ、その聖なる名は讃えられ、栄光を帰されなくてはならない。これがわたしの、すなわち神の永遠の旨であり、神が私たちに現わし、そして授ける限りない祝福である。それを相続しない者が私たちの中にいるだろうか。神の祝福を相続するためには、人は神の聖なる名を讃え、その玉座を囲んで礼拝しなければならない。他の動機や意図によって神の前に出るものは皆、彼の燃え盛る炎によって溶けてなくなるだろう。彼の敵が裁かれるのは今日であり、彼らが滅びるのも今日である。さらにそれは、わたし全能神が明らかにされ、栄光と誉れを得る日でもある。ああ、全ての民よ。すぐに立ち上がって誉め讃え、とこしえまで私たちに慈しみと救いを与え、祝福を与え、彼の子たちを完全にして成功裏に神の国に到達させる、全能神を歓迎しなさい。これは神の素晴らしい業だ。神自身が来て私たちを救い、私たちを完全にし、栄光の中へと連れて行くというのは、神の永遠の予定と采配である。

立ち上がって証しをしない者たちは皆、盲人の祖先であり、無知の王であり、そのような者たちは永遠に無知な者であり、永遠に愚か者で、永遠に盲目の死者となる。それゆえ、私たちの霊は目覚めなくてはならない。全ての民は立ち上がらなくてはならない。歓声を上げて、栄光の王、憐れみの父、贖いの子、豊かさ溢れる七つの霊、そして威厳に満ちた、燃え盛る炎と義の裁きをもたらす全能神、すべてを満たし、豊かさに溢れ、全能で完全なる全能神を、終わることなく讃美し、誉め讃えよ。全能神の御座はとこしえまで高められる。全ての民は、これが神の知恵であり、神の素晴らしい救いの方法であり、神の栄光ある旨の成就であることを見なければならない。私たちが立ち上がって証しせず、その時が過ぎたならば、もう後戻りすることはできない。私たちが祝福を受けるのか、不幸を受けるのかは私たちの旅路の現段階によって決定され、私たちが今何をし、何を考え、何を生きるかによって決まるのである。それではあなたがたはどう行動すべきか。とこしえまでも神を証しし、神を讃え、全能なるキリスト──永遠なる唯一の真の神を誉め讃えなさい。

今後あなたは、神に証ししない者、唯一の真の神に証ししない者、疑いを抱く者は、みな病んでおり、死んでおり、神に逆らう者であることをはっきりと知るべきである。神の言葉はすでに昔から証明されているのだ。わたしとともに集めない者は散らす者であり、わたしと共にいない者はわたしに敵対する者である。これは石に刻まれた不変の真理である。神に証ししない者はサタンの手下である。そのような者たちは神の子ども達を混乱させ、騙し、神の経営を妨害するために来る。そのような者は剣によって打たれなければならない。誰であれ、彼らに善意の意図を示すものは自らの破滅を招くものである。あなた方は神の霊が語ることを聞き、信じ、神の霊の道を歩き、神の霊の言葉に生き、さらに全能なる神の御座をとこしえまでも高めなさい。

全能神は七つの霊の神である。彼はまた七つの目と七つの星をもっている。彼は七つの封印を解き、巻物全体は彼によって広げられる。そして七つのラッパを鳴らし、七つの鉢と七つの疫病は彼の掌中にあり、彼の思いのままに解き放たれる。ああ、長く封印されてきた七つの雷よ。その封印を解く時が来た!七つの雷を開く方が私たちの目の前に既に現れた!

全能神よ!あなたにあっては、全ては解放されており、自由で、困難なことはなく、全ては円滑に流れる。邪魔したり妨げたりするものはなく、全てのものはあなたに従う。従わないものは全て死ぬのだ!

全能神、七つの目を持つ神よ!全ては完全に透き通っており、全ては明るく、隠されたものはない。全てが明らかにされ、露わにされている。全能神にあっては、全ては水晶のように明瞭である。そしてこのようであるのは、神自身だけではなく、その子たちも同様にこのようである。彼と彼の子たちの前に隠されている人はひとりもおらず、隠されている物事もひとつもない。

全能神の七つの星は輝いている。彼によって教会は完全にされており、彼は自身の教会の使者を立てる。そして全ての教会は彼によって施される。彼は七つの封印の全てを解き、自身の経営(救いの)計画を実施し、自身の旨を全うする。巻物は彼の経営(救いの)計画に関する神秘的な霊の言葉である。彼はこれを開いて明らかにしたのである。

全ての民は神の七つのラッパが響き渡るのを聞きなさい。彼にあっては、全てが示され、二度と隠されることはなく、悲しみももはや存在しない。全てが明らかにされ、全ては勝利に満ちている!

全能神の七つのラッパは、開かれた、栄光と勝利に満ちたラッパである。それはまた、彼の敵を裁くラッパでもある。勝利のただ中で、彼の角が掲げられている。彼は宇宙全体を支配するのだ!

彼は七つの疫病の鉢を用意し、それらは目いっぱいまで傾けられて、すっかり敵の上に注がれた。彼らは神の燃える怒りの炎の中で焼き尽くされる。全能神は自身の権威を示し、彼の敵はみな滅びる。最後の七つの雷は、全能神の前にもはや封印されてはおらず、全て開かれている。全て開かれているのだ。彼は七つの雷で彼の敵を撃ち殺し、地を安定させ、それが神に仕えるようにさせ、二度と荒廃することのないようにする。

義なる全能神よ!私たちはあなたの行いを永遠に賞賛します。あなたは止むことのない賛美に値する方。止むことのない歓呼と賞賛に値し、また高められるに値する方!あなたの七つの雷はあなたの裁きのためだけではなく、あなたの栄光と権威のためであり、全てを完成するためです。

全ての民は玉座の前で祝い、歓呼し、喜んで全能なるキリスト、神を高める。声は雷鳴のようにこだまする。実に、全てのものが彼ゆえに存在し、彼ゆえに生まれる。彼に全ての栄光、栄誉、権威、知恵、聖さ、勝利、そして啓示を帰さない者は誰か。これこそが彼の旨の成就であり、彼の経営の建設の最終的完成である!

『言葉は肉において現れる』第一部「キリストの初めの言葉」の「第三十四章」より引用

日々の神の御言葉 抜粋 55

七つの雷が玉座から発せられ、宇宙を揺るがし、天と地をくつがえし、その響きは空を貫く。その貫くような音はすさまじいので、人々は逃げることも隠れることもできない。稲妻と雷鳴が発せられると、たちまち天地は変化し、人々は瀕死の状態になる。すると、空から激しい暴風雨がやって来て、電光石火の速さで宇宙全体を一掃する。地球の隅々では、それは降り注ぐ豪雨となって全ての片隅や割れ目に流れ込み、染みひとつ残さない。頭の先からつま先まで洗い流し、隠れられるものなどひとつもなく、流されずに逃れられるものは何もない。雷鳴の轟きは、輝く稲妻の不気味な閃光と同様、人々を恐怖に震えさせる。鋭い諸刃の剣は反逆の子らを打ち倒し、隠れる場所をもたない敵の勢力は大災害に直面し、荒れ狂う風雨の中で呆然となり、打撃を受けてよろめきつつ、すぐさま息絶えて流れる水に落ち、そして流される。彼らは自分の命を守る術もなく、ただ死んでいく。わたしから七つの雷が発せられ、それらはわたしの意図を伝える。その意図とは、エジプトの長子を打つこと、邪悪な者を罰し、わたしの教会を清め、その結果、人々が互いに寄り添い合い、みなが同じように考えて行動し、わたしとひとつの心になり、そして宇宙のすべての教会がひとつの教会として建て上げられることである。これがわたしの目的である。

雷鳴が轟くとき、泣き叫ぶ声が波のように起こる。一部の者たちは眠りから覚め、酷く驚いて、自分達の心の奥深くを探り、玉座の前に急いで戻る。彼らはごまかしたり、騙したり、犯罪を犯したりすることを止める。そのような者たちが目覚めるのに、まだ遅くはない。わたしは玉座から見る。人々の心の奥深くを見る。わたしは、心から、熱心にわたしを求めるものを救い、そのような者たちに憐れみをかける。他の何にも増してわたしを心から愛する者たち、わたしの旨を理解する者たち、そして道の終わりまでわたしに従う者たちを、わたしは救って永遠へと招き入れる。わたしはこの手で彼らをしっかりと掴んでいるので、彼らがこの光景に直面することはなく、彼らが傷つくことはない。ある者たちは、稲妻が走るこの光景を見て、言葉にできない悲惨な気持ちになり、この上なく後悔する。このようなふるまいに執着するのであれば、彼らはもう手遅れである。ああ、全てが、全てが……全てが完了するのだ。これはまた、わたしによる救いの手段のひとつである。わたしは、わたしを愛するものを救って邪悪な者を打ち倒し、地上でわたしの国を揺らぐことなく安定させ、すべての国々と人々、宇宙と地の隅々のすべての人々に、わたしが威厳であり、燃え盛る炎であり、全ての人の心の奥深くを探る神であることを知らしめる。これからは、偉大な白い玉座の裁きが大衆に公に現され、裁きが始まったことが全ての人に告げられる。語る言葉が心からのものでない全ての者、疑いを抱いて確信を持とうとしない者、ただ無為に時間をつぶす者、わたしの願いを知っていながら実践しようとしない者――これらの者たちは間違いなく、みな裁かれなければならない。あなた方は自分の意図と動機をよく吟味し、自分に相応しい場所に立ち、わたしが言うことをことごとく実践し、いのちの経験に重点を置かなければならない。表面だけ熱心に行動してはならない。自分のいのちが成長し、成熟し、安定し、経験豊かなものとなるようにしなさい。そうして初めて、あなたはわたしの心に適うようになることができる。

サタンの手下、そしてわたしのすることを妨害し、わたしが建て上げようとしているものを破壊する悪霊どもには、それらに有利となるようなどんな機会も与えてはならない。彼らは厳しく制限され、抑制されなくてはならない。彼らを扱うのは鋭い剣以外にはない。最も悪い者たちは、将来脅威とならないように、直ちに根絶されなくてはならない。教会は完全にされ、障害は一切なくなり、健全で生命力と活力に満ちたものとなるであろう。稲妻の閃光に続いて雷鳴がとどろく。あなたはそれを無視してはならず、また、諦めずに全力で追いつこうとしなければならない。そうすれば必ず、わたしがこの手で何をし、何を得、何を捨て、何を完全にし、何を根絶し、何を打ち倒すのかを見ることができるだろう。わたしの全能性をあなた方がはっきりと見ることができるように、これらの全てがあなた方の目の前で展開するだろう。

玉座から宇宙と地の隅々に至るまで、七つの雷が響き渡る。大勢の人々の群が救われ、わたしの玉座の前で服従するだろう。このいのちの光に続いて、人々は生き残る術を求め、自分ではどうすることも出来ずにわたしの元へ来て、跪いて礼拝し、その口で全能なる真の神の名を呼び、その声で神に懇願する。だが、わたしに逆らう者たち、心頑なな人たちには、その耳に雷鳴がとどろき、彼らは間違いなく消滅しなければならない。これこそが彼らの結末である。勝利を収めたわたしの子どもたちは、シオンに留まり、全ての人々は彼らが獲得するものを見、大いなる栄光があなた方の前に現れるだろう。まことに、これは素晴らしい祝福であり、物語るのが難しい甘美さである。

七つの雷鳴が発せられると、わたしを愛する者たち、心からわたしを求める者たちへの救いがもたらされる。わたしに属する者たちとわたしが予め定めて選んだ者たちは、みなわたしの名の下に集うことができる。彼らはわたしの声、すなわち神の呼ぶ声を聞くことができる。わたしが義であり、忠実であり、愛であり、憐みであり、威厳であり、燃え盛る炎であり、究極的には容赦ない裁きであることを地の果てにいる者たちに知らせよ。

世の全ての人々に、わたしが実在する完全なる神自身であることを知らせよ。全ての人々は心から納得し、敢えて再びわたしに抵抗しようとしたり、わたしを裁いたり、中傷したりしようとはしない。もしそのようなことをする者があれば、彼らはたちまち呪われ、災いが彼らに降りかかるであろう。彼らはただ泣いて歯ぎしりして、自らの破滅を招くであろう。

すべての人々に知らしめよ。宇宙と地の隅々に、すべての家庭に、そしてすべての人にそれを知らしめよ。全能神こそが唯一の真の神であることを。全ての人は代わるがわる膝をかがめて全能神を礼拝する。そして言葉を話し始めたばかりの幼子さえも、「全能神!」と呼び求める。権力を振り回す官僚たちも、真の神の現れを自分の目の前で見、彼らもまたひれ伏して礼拝し、憐れみと赦しを請うであろう。だが、実は手遅れである。彼らの滅びの時が来たからである。彼らは終わりを迎え、判決を受けて計り知れない奈落の底へ落とされるより他にない。わたしは全時代に終結をもたらし、わたしの国をいっそう強固にする。全ての国々と全ての人々はわたしの前で永遠に服従するのだ。

『言葉は肉において現れる』第一部「キリストの初めの言葉」の「第三十五章」より引用

日々の神の御言葉 抜粋 56

全能なる真の神、玉座の王たる神は、全宇宙を支配し、すべての国家とすべての民族に向き合っており、天の下のあらゆるものは神の栄光を受けて光り輝く。全宇宙、世界の隅々に暮らすすべての生物が見るだろう。山々、川、湖、陸地、海、そしてすべての生き物は、真の神の顔貌が放つ光の中で自らの幕を開けた。彼らはみな夢から覚めるように、地中から現われる新芽のように生き返る。

ああ、唯一の真の神が世に現れ出る。あえて神に抵抗する者がいるだろうか。誰もが恐怖に震える。すべての者が完全な確信を抱いて、繰り返し赦しを乞う。すべての者が神の前にひざまずき、すべての者が口々に神を崇める。大陸も海も、山も、川も、あらゆるものが限りなく神を褒めたたえる。暖かなそよ風と共に春が訪れ、繊細な春の雨をもたらす。すべての人々と同様に、小川は悲しみと喜びを織り交ぜて流れ、負い目と自責の念に涙を流す。川も、湖も、打ち寄せる波やうねりも、すべては真の神の聖なる名を褒め称え賛美する。神を称える歌は鮮やかに響き渡る。かつてサタンに堕落させられた古いものはすべて、一つ一つ新たにされ、変化し、真新しい領域に入ることになる……

これは聖なるラッパの音だ。耳を傾けなさい。その甘美な音色は玉座から発せられる声であり、すべての国家や民族に、時が来たこと、終末が来たことを告げている。わたしの経営(救いの)計画は終わった。わたしの国は公然と地上に現れ出た。この世の諸王国は神であるわたしの国となった。わたしの七つのラッパが玉座から鳴り響くと、驚くべきことが起こる。世界の隅々に暮らす人々が、雪崩のような勢いと落雷のような力を持って、あらゆる方向から大急ぎで集まってくる。……

わたしの声を聞いて、あらゆる国や土地から集まってくるわたしの民を、わたしは喜びをもって見渡す。すべての人々は真の神の名を口ずさみながら、褒めたたえ、喜びにとめどもなく跳ね回る。彼らは世界の証しをし、真の神を証しするその声は無数の川の轟音のようだ。すべての人々がわたしの国に押し寄せて来るのだ。

わたしの七つのラッパは鳴り響き、まどろむ人々を目覚めさせる。早く起きなさい、まだ間に合う。自分のいのちに目を向けなさい。目を開けて、今何時か見てみなさい。何を探し求めるべきか。何を考えるべきか。そして何にこだわるべきか。わたしのいのちを得ることと、自分が愛しこだわるものすべてを得ることの、価値の違いを考えたことがないのか。わがままをやめ、遊び回るのもやめなさい。この機会を逃してはならない。この時は二度とやって来ない。今すぐに立ち上がり、あなたの霊を鍛える努力をしなさい。さまざまな手段でサタンのあらゆる企みやごまかしを見抜き阻止し、サタンに打ち勝つことで、いのちの経験を深め、わたしの性質を生き、いのちを熟成し円熟させ、いつもわたしの足跡をたどれるようになりなさい。落胆せず、気弱にならず、まっすぐに道の果てまで一歩一歩絶えず前進しなさい。

七つのラッパが再び鳴り響くとき、それは裁きへの呼び出しである。それは反逆の子らに対する裁きであり、すべての国家とすべての民族に対する裁きであり、各国は神の前にひれ伏すことになる。神の輝かしい顔貌は、必ずやすべての国々とすべての人々の前に示されるだろう。誰もが完全なる確信を抱き、真の神に向かって止めどなく叫ぶことだろう。全能の神の栄光はますます輝き、わたしの子らはその栄光を分かち合い、王の尊厳をわたしと共有し、すべての国々と人々を裁き、悪人を罰し、わたしに属する人々を救い憐れみ、神の国に堅固さと安定をもたらすだろう。七つのラッパの音を通して、大勢の人々が救われ、わたしの前に戻ってひざまずき、絶えず褒め称えつつ崇拝するだろう。

七つのラッパがもう一度鳴り響くとき、それは一つの時代の最終章であり、悪魔サタンに対する勝利を示すラッパの大音響が、地上の神の国での開かれた生活の始まりを告げる礼砲となる。その気高い音は玉座の周りに反響し、天地を揺るがすラッパの大音響は、わたしの経営(救いの)計画の勝利を象徴すると同時にサタンの裁きとなり、この古い世界に完全な死と底知れぬ所の穴への逆戻りを宣告する。このラッパの大音響が意味するものは、恵みの門が閉まりつつあること、そして地上で神の国の暮らしが始まることであり、それは正しく正当なことだ。神は自らを愛する人々を救う。彼らが神の国に戻ると、地上の人々は飢饉と疫病に直面し、神の七つの鉢と七つの疫病が次々に効力を生じることになる。天と地は消え去るが、わたしの言葉は決して消え去らない。

『言葉は肉において現れる』第一部「キリストの初めの言葉」の「第三十六章」より引用

日々の神の御言葉 抜粋 57

全能神の業は偉大である! 何と奇しきことか! 何と素晴らしいことか! 七つのラッパが鳴り響き、七つの雷が起こり、七つの鉢が投げられる――これはただちに公然と明らかにされ、疑いの余地はない。神の愛は日々私たちのところに来る。唯一全能神だけが私たちを救うことができる。私たちが不幸に遭うか祝福を受けるかは、まったく神にかかっており、私たち人間にはこれを決定するすべはない。心から自らを神に捧げる者は、必ず豊かな祝福を受けるが、自分の命を守ろうとする者は命を失うだけである。すべての物事は全能神の手の中にある。もうあなたの歩みを止めてはならない。膨大な変化が天と地に迫っており、人間は隠れるすべがない。苦い痛みを感じつつ嘆き悲しむしか人間には選択の余地はない。聖霊が現在行っている働きに従いなさい。聖霊の働きが進行してきた過程については、あなたは自分の中ではっきりしているべきであり、もはや他の人に思い出させられる必要はない。今はできるだけ多く全能神の前に戻り、すべてのことを尋ねなさい。全能神は必ずあなたの内を照らし、大切な時にはあなたを守る。恐れてはならない。神はすでにあなたの全存在を所有している。神の守りと配慮があれば、何を恐れるというのか。今日、神の旨の成就が間近に迫っておち、恐れる者は誰であれ損失を被ることになる。わたしがあなたに言っていることは真実である。あなたの霊の目を開きなさい。天は瞬時に変化することができるが、あなたが恐れるものは何なのか。神の手がほんの少し動くだけで、天と地はすぐに滅ぼされる。人間がやきもきして何になるというのか。すべてのことは神の手の中にあるのではないのか。神が天と地に変わるように命じれば、それらは変わるのである。神がわたしたちは完全にされると言えば、私たちは完全にされるのである。人間は心配する必要はなく、ただ静かに前進すべきである。しかし、できる限り注意を払って、警戒しているべきである。天は瞬時に変化することがありえる。人間がどれほど肉眼を大きく開けていようと、それでもほとんど何も見ることができない。今、見張っていなさい。神の旨が成就し、神の事業が完了し、神の計画は成功し、神の子らはみな神の玉座に到着した。彼らは全能神と共にすべての国とすべての人を裁きに来る。教会を迫害し、神の子らを傷つけてきた者たちは厳しく罰される。これは確かである。自分自身を心から神に捧げ、すべてを固守する者たちを、神は必ず変わることなく永遠に愛する。

『言葉は肉において現れる』第一部「キリストの初めの言葉」の「第四十二章」より

日々の神の御言葉 抜粋 58

わたしの奥義は明らかにされ、公に現され、もはや隠されておらず、それは専らわたしの恵みと憐みを通してなされている。わたしの言葉が人間の間に現れ、もはや隠されていないことは、いっそうわたしの恵みと憐みを通してである。わたしは心からわたしのために尽くし、わたしに身を捧げる者のすべてを愛する。わたしは、わたしから生まれていながら、わたしを知らず、わたしに抵抗さえする者のすべてを嫌う。わたしは心からわたしに味方する者は誰でも見捨てず、彼らの祝福を倍にする。恩知らずでわたしの優しさを裏切った者には二倍の懲罰を与え、簡単に許すつもりはない。わたしの国では曲がったことや偽り事、この世のものは一切ない。つまり、全く死者の臭いがなく、すべてが公正であり、義であり、すべては純粋であり、開かれており、何も隠れておらず、何の秘密もない。すべてが新鮮で、すべてが喜びであり、すべが啓発的である。誰かが死者の匂いをまだ持っているなら、その者は決してわたしの国に留まることができず、わたしの鉄の杖によって支配される。太古の昔から現在までの無限の奥義のすべてがあなたがたに──終わりの日にわたしのものとされた人たちに──完全に明らかにされている。あなたがたは祝福されていると感じないだろうか。公けの出現の日は、なおさら、あなたがたがわたしの統治を分かち合う日である。

ほんとうに王として統治する者たちは、わたしの予定と選択に依るのであり、そこにはどんな人間の意志もあってはならない。もし誰かがこれに介入しようとするなら、その者はわたしの手によって打たれなければならず、彼はわたしの焼き尽くす火の対象である。これはわたしの義と威厳のもう一つの側面である。わたしは言った。わたしは万物を支配し、完全に権威を振るう知恵ある神であり、わたしは誰にも寛容でなく、情け容赦なく、個人的感情を持っていないと。わたしは誰であれ(その人がどれだけ上手に話そうが、わたしは彼を放免しない)わたしの義と公正と威厳によって取り扱う。そしてその一方、わたしの行いの奇跡を誰もがもっと見られるようにし、わたしの行いの意味を彼らが悟れるようにする。わたしは悪霊たちのあらゆる種類の行いを一つずつ罰し、それらを一つずつ底なしの穴に投げ込む。時が始まる以前にわたしはこれらの働きを完了し、悪霊たちにどんな地位も、彼らが働らけるどんな場所も残さなかった。わたしが予め定め、選んだ人々はすべて、どんなときにも悪霊たちによってとり憑かれることはなく、いつも聖なるものである。わたしが予め定めも選びもしなかった者は、サタンに引き渡し、わたしのもとには留まらせない。わたしの行政命令はすべての面でわたしの義、わたしの威厳を伴う。わたしは、サタンが働きかけている者は一人として許さず、彼らの体と一緒にハデスに投げ込む。それはわたしがサタンを憎んでいるからである。わたしは、どんなことがあろうと、それを簡単には容赦せず、それを完全に滅ぼし、それが働きを為す機会をほんの少しも残さない。サタンによってある程度堕落させられた者たち(災いの対象となる者たち)は、わたし自身の手による賢明な采配によってそうなったのだ。そうなったのはサタンの凶暴さの結果だと思ってはならない。わたしが宇宙と万物を治める全能神であることを知りなさい。わたしには解決できない問題はない。まして、達成できないことや、言うことができない言葉などあろうはずがない。人間はわたしに助言する者のようにふるまってはならない。わたしの手によって打たれ、ハデスに投げ込まれることがないよう気を付けなさい。わたしはあなたに告げる。今日、積極的にわたしと協力する者は賢い人であり、損失を免れ、裁きの苦痛から逃れる。これらすべてはわたしの采配、わたしが予め定めたことである。自分が偉大であると思い、大きなことを言って、思慮の無い発言をしてはならない。それはすべてわたしが予め定めたことではないのか。わたしに助言しようとするような者は恥知らずである。あなたは自分の霊的背丈を知らない。それはどんなに惨めで低いことか。それでも、あなたはそれを軽々しく考え、自分自身を理解していない。幾度となく、あなたがたはわたしの言葉に耳を貸さず、わたしの苦心の努力を無駄にし、それがわたしの恵みと憐みであることなどほとんど考えていない。むしろ、自分の賢さを繰り返し示そうとするだけである。あなたがたは憶えているか。自分を賢いと思う者は、どんな刑罰を受けねばならないのか。わたしの言葉を気にも留めず、わたしの言葉に不忠実で、それらを心の中に刻まず、わたしのふりをしてあれやこれやと行っている。悪を行う者どもよ。いつになったらわたしの心を十分に思いやることができるのか。あなたがたはわたしの心を思いやらない。だから、あなたがたを悪を行う者どもと呼んでも不当ではない。それは全くあなたがたに相応しいのである。

今日、わたしはかつて隠されていたことを、あなたがたに一つずつ示そう。赤い大きな竜は底なしの穴に投げ込まれ、完全に滅ぼされる。それを持っていても何の役にも立たないし、キリストのために奉仕できないことを意味しているからである。この後、この赤い物が存在することはない。それは徐々に衰えて無に帰さなければならない。わたしはわたしが言うことを行う。それはわたしの働きを完成させることである。人間の観念を取り除きなさい。わたしが語ったすべてのことをわたしは行った。利口ぶる者は誰であれ、自らに破壊を招き、自身に軽蔑をもたらし、生きることを望まなくなる。だからわたしは、あなたを満足させ、そのような人々は決して保持しない。これから教会員達は益々精練され、積極的にわたしに協力しない者はみな一掃され、無に帰するだろう。わたしが承認した者たちは、わたしが完全にする者たちである。わたしは彼らを一人として見捨てはしない。わたしの言うことには矛盾はない。積極的にわたしと協力しない者たちは、より多くの刑罰を受けるだろうが、最終的にわたしは必ず彼らを救う。しかしながら、その時までに、彼らのいのちの程度はかなり異なるだろう。あなたはそのような人になりたいか。立ち上がって、わたしに協力しなさい。心からわたしのために尽くす者を、わたしは決して惨めに扱わない。心からわたしに献身するなら、わたしはあなたにわたしのすべての祝福を授けよう。完全に自分自身をわたしに捧げなさい。あなたが食べる物、着る物、あなたの将来、すべてがわたしの手の中にある。わたしはあなたの永遠の尽きることのない楽しみのために、それらのすべてを適切に整える。なぜならわたしは、「心からわたしのために尽くす者へ、わたしは必ず大いにあなたを祝福しよう」と言ったからだ。すべての祝福は、心からわたしのために自分を捧げる一人ひとりのところへ来る。

『言葉は肉において現れる』第一部「キリストの初めの言葉」の「第七十章」より引用

日々の神の御言葉 抜粋 59

あまたの民がわたしに喝采を送り、わたしを賛美する。万民が唯一の真なる神の名を呼び、わたしの業を仰ぎ見る。神の国が人の世に降臨し、わたしの本体は豊かで充実している。誰がこれを喜ばないのか。誰が歓喜のあまり踊らないのか。ああ、シオンよ。勝利の旗を掲げてわたしを祝え。勝利の歌を歌いあげ、わたしの聖なる名を広めよ。地の果てまでも存在するすべての被造物よ。直ちに自らを清めてわたしへの捧げ物となれ。大空の星よ。直ちにもとの位置に戻り、わたしの全能なる力を天空に示せ。わたしは地上の民の声に耳を傾ける。わたしへの無限の愛と畏れを歌に注ぐ民の声に。すべての被造物が蘇るこの日、わたしは人の世に降臨する。この瞬間、まさにこの節目、すべての花が一斉に咲き乱れ、すべての鳥が声を揃えて歌い、すべてのものが喜びに打ち震える。神の国の礼砲が鳴り響くと、サタンの国はよろめき倒れ、神の国の賛歌がとどろく中で滅び、二度と立ち上がることはない。

地上の誰があえて立ち上がり抵抗するというのか。地に降り立つわたしは焼き尽くす火をもたらし、怒りをもたらし、ありとあらゆる災難をもたらす。地上の国々はいまやわたしの国である。空の雲は激しく動いて渦を巻き、地の湖と川はうねりをあげ、感動的な旋律を喜んで奏でる。休んでいた動物はねぐらから現われ、万民はわたしにより眠りから呼び覚まされる。万民の待ち望んでいた日がついに来た。彼らは最も美しい歌をわたしに捧げるのだ。

この美しい瞬間、この心躍るとき、

賛美が天地のあらゆるところで鳴り響く。誰が興奮しないだろうか。

誰の心が明るくならないだろうか。誰がこの光景に涙を流さないだろうか。

空はかつての空でなく、いまや神の国の空である。

地はかつての地でなく、いまや聖なる大地である。

激しい雨が降ったあと、汚れた古い世界は何もかも新しくされる。

山が変わりゆく……水が変わりゆく……

人も変わりゆく……万物が変わりゆく……

ああ、汝静かなる山々よ。立ち上がってわたしのために踊れ。

ああ、汝静かなる水よ。絶えず自由に流れよ。

汝、夢を見ている人間よ。起きあがり追え。

わたしは来た……わたしは王……

全人類がその目でわたしの顔を見、その耳でわたしの声を聞く。

そして自ら神の国の生活を送る……

何と甘美なことか……なんと美しいことか……

忘れられない……忘れることなどできない……

わたしの怒りが燃えさかる中、赤い大きな竜はのた打ち回る。

威厳に満ちたわたしの裁きにおいて、悪魔はその正体を現わす。

わたしの厳格な言葉に人はみな深く恥じ入るが、どこにも隠れる場所がない。

人は過去を振り返り、いかにわたしを嘲りあざ笑ったかを思い出す。

人が自己顕示しなかったときはなく、わたしに挑まなかったときもない。

今日、泣いていない者がいるのか。自責の念を感じない者がいるのか。

全宇宙、全世界が泣き声で満たされる……

歓喜の声で満たされる……笑い声で満たされる……

比類なき喜び……比べるものなき喜び……

小雨がしとしと降り……大雪がしんしん降る……

人は悲喜こもごも……

笑う者……泣きじゃくる者……歓喜する者……

誰もが忘れてしまったかのよう……いまが雨と雲に満ちた春なのか、

花が咲き誇る夏なのか、豊かな収穫の秋なのか、凍えるような冬なのか、誰一人知る者はいない……

空には雲が流れ、地では海がうねりをあげる。

子らは腕を振り……民は足を動かして踊る……

天使は働きにいそしみ……牧養している……

地では人々はみな忙しく立ち回り、地の万物はその数を増す。

『言葉は肉において現れる』第二部「全宇宙への神の言葉」の「神の国の賛歌」より引用

日々の神の御言葉 抜粋 60

人間は誰もみな、わたしの霊による観察を受けなければならない。自分のすべての言葉と行動を細かく調べ、さらに、わたしの驚くべき行いを見なければならない。神の国が地上に来るとき、あなたがたは、どのように感じるだろうか。わたしの子らと民がわたしの玉座に流れ込んで来るとき、わたしは大きな白い玉座の前の裁きを正式に始める。これはつまり、自ら地上での働きを開始し、裁きの時代が終わりに近づくと、わたしの言葉を全宇宙に向け始め、わたしの霊の声を全宇宙に放つということだ。わたしの言葉を通して天と地のすべての人々と物事を洗い清め、地はもはや穢れと淫乱の地ではなく、聖なる国である。わたしはすべてを新たにし、わたしが用いることができるようにし、もはや地上の息を含まず、もはや土のにおいに汚れていないようにする。地上では、人間はわたしの言葉の目的と根源を手探りし、わたしの業を観察したが、誰一人ほんとうにわたしの言葉の根源を知らず、誰一人わたしの業のすばらしさを真に見ていない。ようやく今日、わたしが自分で人間たちの間に来て言葉を発してはじめて、人間はわたしについてわずかの認識を得、彼らの考えにあった「わたし」の場所を取り去り、意識の中に実際の神のための場所を作ったのだ。人間は観念と好奇心に満ちている。誰が神を見ることを望まないだろう。誰が神に会うことを望まないだろう。しかし、人間の心に確かな位置を占めるのは、ただ人間がぼんやりと抽象的に感じている神なのだ。わたしが平明に告げなければ、誰が気づくだろう。わたしがほんとうに存在していると、まことに疑いの影もなく、誰がほんとうに信じるだろう。人間の心にある「わたし」と実際の「わたし」との間には大きな隔たりがあり、誰一人、その二つの違いを述べることができない。わたしが受肉しなければ、人間はけっしてわたしを知らず、たとえわたしを知るようになったとしても、そうした認識は観念的なものに過ぎないのではないか。わたしは毎日、とだえることのない人間の流れの中を歩き、毎日、すべての人の中で働く。人間が真にわたしを見ると、わたしの言葉の内にわたしを知り、わたしの語る方法、わたしの心を理解する。

神の国が正式に地上に着くと、すべての中で、何が沈黙しないだろう。すべての人の中で、誰が恐れないだろう。わたしは宇宙世界のいたるところを歩き回る。すべては、わたしが自分で定めた。このとき、誰が、わたしの業がすばらしいものだと知らないだろう。わたしの手はすべてを支え、同時に、すべての上にある。今日、わたしの受肉とわたしが実際に人間の間にいることとは、わたしの謙遜さと神秘のほんとうの意味なのではないか。表向きには、多くの人がわたしを善であるとしてたたえ、美しいとほめるが、誰がほんとうにわたしを知っているのか。今日なぜわたしは、あなたがたがわたしを知るように要求するのか。わたしのねらいは赤い大きな竜を辱めることではないのだろうか。わたしは、人間にわたしをたたえるよう強制はしたくない。しかしわたしを知り、それを通じてわたしを愛するようにさせ、そうしてわたしをたたえるようにする。そのようなたたえはその名にふさわしく、むなしい言葉ではない。そのようなたたえだけが、わたしの玉座に届き、天に昇るのだ。人間はサタンに誘惑され、堕落させられたから、人間は観念と思考に囚われてしまったから、わたしは自分で全ての人間を征服し、人間の観念を暴き、人間の考えを引き裂くために受肉したのだ。その結果、人間はもはやわたしの前で誇示せず、もはや自分の観念でわたしに仕えることをしなくなる。そうして、人間の観念の中にある「わたし」は完全に消される。わたしの国が来るとき、わたしはまず、この段階の働きをはじめ、それをわが民の間で行う。赤い大きな竜の国に生まれたわが民であれば、まことにあなたがたの中の赤い大きな竜の毒素は、ほんの少しでも、一部だけでもない。だから、わたしの働きのこの段階は、主にあなたがたに集中する。そして、これがわたしの中国での受肉の意義の一面なのだ。たいていの人は、わたしの語る言葉のかけらも理解できない。そして、たとえできたにしても、彼らの理解は曖昧で混乱している。これは、わたしの話す方法の転換点だ。もしすべての人がわたしの言葉を読み、その意味を理解できるなら、誰が救われて、ハデスに投げ落とされずに済むだろう。人間がわたしを知り、従うとき、わたしは憩う。そのときこそ、人間はわたしの言葉を理解できる。今日、あなたがたの霊的背丈は低すぎる。哀れなほどに小さく、わざわざ引き上げる価値もない――あなたがたのわたしについての認識は言うまでもない。

『言葉は肉において現れる』第二部「全宇宙への神の言葉」の「第十一章」より引用

日々の神の御言葉 抜粋 61

東から稲妻が走るときこれはまた、わたしがわたしの言葉を口にし始める、まさにその瞬間である――稲妻が光るそのとき、天空全体が照らされ、すべての星々に変化が起こる。全人類はあたかも選り分けられ、整理されたかのようである。東からの光芒の下、人間はみな本来の形を現し、目がくらみ、混乱し、動きがとれずにいる。まして、自らの醜い顔を隠すことができない。また、彼らはわたしの光から逃げて山の洞窟に隠れようと逃げる動物のようだ。しかし、わたしの光の中では、彼らの一人も姿を消せない。人間はみな仰天し、みなじっと待ち、みな見守っている。わたしの光の出現により、みな自分の生まれた日を喜び、同様に、みな自分の生まれた日を呪う。対立する感情は表現し難い。自己懲罰の涙が川と流れ、勢いの早い流れに運ばれ、瞬く間に跡形もなくなる。再び、わたしの日が人類の上に迫り、再び、人類を目覚めさせ、人類は新たな始まりを迎える。わたしの心臓が拍動し、その鼓動にしたがって、山々が喜びに飛び上がり、水が喜びに踊り、波が律動し、岩礁を叩く。わたしの心にあるものを言い表すのは困難だ。わたしは、わたしの視線ですべての穢れたものが燃えて灰となり、不従順の子らがみな、わたしの目の前から一掃され、もはや存在しなくなることを望む。わたしは赤い大きな竜のすみかに新たな始まりをもたらしたばかりではなく、全宇宙で新たな働きを始めた。間もなく、地上の国々がわたしの国となる。間もなく地上の国々はわたしの国故に永遠に存在しなくなる。わたしがすでに勝利を得たのだから。わたしが勝利のうちに戻ったのだから。赤い大きな竜は、地上でのわたしの働きを打ち消そうと、わたしの計画を妨げるために考え得るあらゆる手段を用いたが、わたしが竜の欺きに満ちた策略のせいでくじけるだろうか。わたしが竜の脅しに怯え、自信を失うだろうか。天にも地にも、わたしのたなごころの内にないものは一つもない。赤い大きな竜、わたしの引き立て役となっているものは、なおさらではないか。これもまた、わたしの手で操れるものではないのか。

わたしが人間の世界で受肉したとき、人間はわたしの導きの手に従って、知らず知らずのうちにこの日に至り、それと知らぬうちに、わたしを知るようになった。しかし、前に続く道をどう歩むかということは、誰にもわからない、誰も知らない。まして、その道がどこに続いているかは、誰も見当がつかないのだ。全能者の見守りがあってはじめて、人はその道を最後まで歩むことができる。東の稲妻に導かれてはじめて、人はわたしの国の敷居を跨ぐことができる。人間たちの間に、わたしの顔を見た者、東に稲妻を見た者は誰もいない。わたしの玉座から出る声を聞いた者は、どれほど少ないだろう。実際、遠い昔から、わたしの本体に直接触れた人間は一人もいない。今日初めて、わたしがこの世界に来て、人間はわたしを見る機会を得る。しかし、今でも、人間はまだわたしを知らず、わたしの顔を見、声を聞くだけで、わたしの意志を理解していない。人間はみな、そういうふうなのだ。わが民として、あなたがたは、わたしの顔を見て、大いに誇りを感じるのではないか。また、わたしを知らないことに惨めな恥ずかしさを覚えないだろうか。わたしは人間の間を歩き、人間の間で暮らす。わたしは受肉し、人間の世界に来たからだ。わたしの目的は、ただ人間がわたしの肉の体を見られるようにするだけではない。より重要なことは、人間がわたしを知ることができるようにすることだ。さらに、わたしは肉の体を通して、人間に対して有罪判決を下す。受肉した体によって、赤い大きな竜を打ち破り、そのすみかを一掃する。

『言葉は肉において現れる』第二部「全宇宙への神の言葉」の「第十二章」より引用

日々の神の御言葉 抜粋 62

全宇宙の人々は、わたしの日の到来を祝い、天使たちがすべてのわたしの民たちの間を歩く。サタンが問題を起こすと、天使たちが天での仕えにより、いつでもわが民を助ける。彼らは人間の弱さのせいで悪魔に欺かれることはないが、闇の勢力の攻撃の結果、よりいっそう霧の中で人生を経験しようと努める。民たちはみな、わたしの名の下に従い、誰もけっして公然とわたしに敵対しようと立ち上がらない。天使たちの働きにより、人間はわたしの名を受け入れ、みな、わたしの働きの流れの中にいる。世界は崩壊しつつある。バビロンは麻痺している。あぁ、宗教界よ。どうしてこれが、わたしの地上の権威により破壊されないことがあろう。誰がまだわたしに逆らい、敵対しようとするのか。律法学者たちか。すべての宗教関係者か。地上の支配者や権力者か。天使たちか。誰がわたしのからだの完全さと豊かさをたたえないだろう。すべての民の中で、誰がわたしの讃えをやむことなく歌わず、誰がいつでも幸福でないのか。わたしは赤い大きな竜のすみかのある国に住んでいる。しかし、わたしはそれで恐れに震えたり、逃げたりはしない。その民がみな、すでに赤い大きな竜を嫌い始めているからだ。竜のために、竜の前でその「本分」が何か尽くされたことはない。その代わり、みな自分がふさわしいと思う振る舞いをし、それぞれの道を進んでいる。どうして地上の国々が滅びないことがあろう。どうして地上の国々が倒れないことがあろう。どうしてわが民が歓声を上げないことがあろう。どうして喜びに歌わないことがあろう。これが人間の働きだろうか。これが人の手のしていることだろうか。わたしは人間に生存する基盤を与え、物質的なものを与えた。しかし、人間は現在の状況に不満で、わたしの国に入りたがる。しかし、代価を払うことなく、また、無私の仕えをささげることを望まないで、どうしてそう容易にわたしの国に入れるだろう。人間から何かを取り立てる代わりに、わたしは人間に条件を出し、地上のわたしの国が栄光に満ちるようにする。人間はこの時代までわたしが導いてきた。人間はこのような状態にあり、わたしの光の導きの中にいる。そうでなければ、地上の人々の誰が、自分たちの前途を知るだろう。誰がわたしの心を理解するだろう。わたしは人間の要求にわたしの条項を加える。これは、自然の法則に適うことではないのか。

『言葉は肉において現れる』第二部「全宇宙への神の言葉」の「第二十二章」より引用

日々の神の御言葉 抜粋 63

わたしの国では、無数の被造物がよみがえりを始め、生気を取り戻す。地上の状態が変化したため、地と地の境界にもまた、変化が起こる。以前、わたしは預言した――地が地から離れ、地が地とつながると、そのとき、わたしは国々を打ち砕くと。このとき、わたしはすべての被造物を新たにし、全宇宙を区切りなおす。それにより、全宇宙を秩序立て、古い状態を新しいものに変える。これがわたしの計画だ。これらがわたしの業だ。国々と世界の人々がみな、わたしの玉座の前に戻ると、わたしは天の富をすべて人間の世界に与え、わたしによって、比類ない富にあふれるようにする。しかし、古い世界が存続する間、わたしは国々の上に怒りを投げつけ、わたしの行政命令を全宇宙に公布し、違反する者には刑罰を下す。

わたしが全宇宙に向かって話すと、人間はみなわたしの声を聞き、そこで、わたしが全宇宙で行なってきた業を見る。わたしの心に逆らう者、つまり、人間の行いでわたしに敵対する者は、わたしの刑罰を受けて倒れる。わたしは天の多くの星々を取ってそれらを新しくし、わたしにより、太陽と月は新たになる――空はもはや以前のものではない。地上の無数の物事が新たになる。すべては、わたしの言葉により完全になる。全宇宙の多くの国々は新たに区切られ、わたしの国に置き換わる。それにより、地上の国々は永遠に消え去り、すべてがわたしを崇める一つの国になる。地上のすべての国々は破壊され、存在しなくなる。全宇宙の人間のうち、悪魔に属する者はみな、滅ぼし尽くされる。サタンを礼拝する者はみな、わたしの燃える炎に倒れる――つまり、今、流れの中にいる者以外は、灰になるのだ。わたしが多くの民を罰するとき、宗教界にいる者は、わたしの業に征服され、程度の差はあれ、わたしの国に戻る。彼らは聖なる方が白い雲の上に乗って降臨するのを見たからである。人間はみな、種類に従い、それぞれの行いに応じて刑罰を受ける。わたしに敵対した者たちは、みな滅びる。地上での行いがわたしと関わりのなかった人たち、その人たちは、自分たちの行いによって、地上にわたしの子らとわが民の支配下で存在を続ける。わたしは無数の人々と無数の国々にわたしを現し、わたしは自ら声を発して地上にわたしの大いなる働きの完了を告げ、全人類が自分たちの目でそれを見られるようにする。

わたしの話が深くなる中で、わたしはまた宇宙のありさまも見ている。わたしの言葉によって、無数の被造物がみな新たになる。天は変わり、地も変わる。人間は本来の形を現し、ゆっくりと、それぞれ同じ種類のものたちと共に、それと知らぬ間に家族のもとに戻っていく。そこで、わたしは大いに喜ぶだろう。わたしは妨げられることなく、わたしの大いなる働きは知らぬ間に成し遂げられ、無数の被造物は変化する。わたしが世界を創ったとき、わたしはすべてのものをそれぞれに創った。すべての形あるものをそれぞれの種類に集まるようにした。わたしの経営(救いの)計画が終わりに近づくと、天地創造当初の状態を回復させ、すべてを本来の姿に戻す。すべては大きく変わり、すべてはわたしの計画の内に戻る。時は来た。わたしの計画の最後の段階が終わろうとしている。ああ、不浄な古き世界。必ずや、わたしの言葉に倒れる。必ずや、わたしの計画で無になる。ああ、無数の被造物たち。あなたがたは、みな、わたしの言葉の内で新たないのちを得る。あなたがたには主を持つのだ。ああ、純粋でしみ一つない新たな世界。必ずやわたしの栄光の中でよみがえる。ああ、シオンの山よ。もはや沈黙するな。わたしは勝利の内に帰ってきた。被造物の中から、わたしは全地を調べる。地上で、人間たちは新たな生活を始め、新たな希望を得た。ああ、わが民よ。どうして、あなたがたがわたしの光の中で復活しないでいられようか。どうして、あなたがたがわたしの導きの下、喜びに跳ね上がらないことがあろうか。地は歓喜の声を上げ、水は楽しい笑い声を響かせる。ああ、よみがえったイスラエルよ。わたしの定めをどうして誇りに感じないことがあろう。誰が泣いたのか。誰がうめき声を上げたのか。かつてのイスラエルは、もうない。そして、今日のイスラエルは立ち上がった、塔のようにまっすぐに、この世に、すべての人間の心の中に立ち上がった。今日のイスラエルは必ずや、わが民を通じて存在の源を得る。ああ、忌まわしいエジプトよ。まことに、もうわたしに敵対はしないだろう。どうしてわたしの憐れみを利用してわたしの刑罰を免れようとするのか。どうしてわたしの刑罰の内に存在できないのか。わたしの愛する者はみな、必ず永遠に生き、わたしに敵対する者はみな、必ず永遠に刑罰を受ける。わたしはねたみ深い神だから、わたしは人間の行いを軽々しく赦さない。わたしは地上すべてを観察し、世界の東に義と威厳、怒り、刑罰をもって現れ、すべての人間たちにわたしを現す。

『言葉は肉において現れる』第二部「全宇宙への神の言葉」の「第二十六章」より引用

日々の神の御言葉 抜粋 64

天使たちがわたしを讃えて音楽を奏でるとき、人に対するわたしの同情がかき立てられずにはいられない。わたしの心は即座に悲しみで満たされ、わたしからこのつらい感情を取り除くことはできない。人から引き離され、その後再会する喜びと悲しみの中で、私たちは感情を交わすことができない。上にある天と、下にある地とに引き離され、人とわたしが会えることは滅多にない。過去の感情に対する懐古の情から誰が抜け出せよう。過去の思い出にふけるのを誰がやめられよう。過去の感慨が続くことを誰が望まないだろう。わたしの再臨を誰が切望しないだろう。わたしと人の再会を誰が待ち焦がれないだろう。わたしの心は深く悩み、人の霊には深い憂いがある。霊においては似ていても、私たちはあまり一緒にはいられないし、頻繁に会うこともできない。だから、人類の人生はどれも悲しみに満ち、活力に欠けている。人がいつもわたしを渇望してきたからである。人間はあたかも天から叩き出された物体のようである。彼らは地上でわたしの名を呼び、地上からわたしを見上げる。しかし、飢えた狼の口からいかにして逃れることができようか。狼の脅しや試みからいかにして逃れることができようか。わたしの計画の采配に従うがゆえに、人間はどうして自分を犠牲にしないでいられようか。彼らが大声で懇願するとき、わたしは彼らから顔をそむけ、もはや見つめることに耐えられない。しかし、どうして彼らの涙ながらの叫びを聞かずにいられようか。わたしは人間界の不正義を正す。わたしは世界中において自らの手で働きを行い、サタンがわたしの民に危害を加えるのを禁じ、敵が好き放題に行うのを禁じる。わたしは地上の王になり、玉座をそこに移し、わたしの敵をすべて地面に倒し、わたしの前でその罪を自白させる。わたしの悲しみに怒りが混じり合い、わたしは全宇宙を踏みつけて平らにし、誰も見逃さず、敵の心に恐怖を抱かせる。わたしは全世界を廃墟とし、敵をその廃墟に落とし入れるので、これ以降敵が人類を堕落させることはない。わたしの計画はすでに決定しており、誰も、何者であろうとも、それを変えてはならない。わたしが全宇宙の上方を堂々と荘厳に歩き回るとき、全人類は新しくなり、すべては復活する。もはや人が嘆くことはなく、助けを求めてわたしに叫ぶこともなくなる。そのとき、わたしの心は大いに喜び、人々はわたしを祝うために戻って来る。そして全宇宙が上から下まで喜びに湧きかえる……

今日、世界の国々で、わたしは成し遂げるべく着手した働きを行っている。わたしは人類の間で動き回り、わたしの計画にある働きを残らず行っており、全人類はわたしの旨に従って各国を解体している。地上の人々は自分自身の終着点にしっかり注意を向けている。その日が実際に近づきつつあり、天使たちがラッパを吹き鳴らしているからである。これ以上遅れることはなく、すべての被造物がすぐに歓喜して踊り始める。誰がわたしの日を自分の意志で引き延ばせるのか。地球の人間だろうか。それとも空の星だろうか。それとも天使だろうか。わたしがイスラエルの民の救いを始めようと声を発するとき、わたしの日は全人類の上にのしかかる。すべての人はイスラエルが戻るのを恐れる。イスラエルが戻るとき、それはわたしの栄光の日であり、すべてが変化し、新しくされる日でもある。義なる裁きがまもなく全宇宙に差し迫るにつれて、すべての人は臆病になって怯える。人間界では誰も義について聞いたことがないからである。義の太陽が現れると、まず東方が、次に全宇宙が照らされ、すべての人に光が届く。人が本当にわたしの義を実行することができれば、恐れるものなどあるだろうか。わたしの民はみなわたしの日の到来を待っている。みなその日を心待ちにしている。彼らは、わたしが義の太陽としての役割に従って、すべての人類に報いをもたらし、人類の終着点を采配するのを待っている。わたしの国は全宇宙の上で形をなしつつあり、わたしの玉座は何億もの人々の心を統治する。天使たちの助けを借りて、わたしの偉業はまもなく実現される。わたしの子らとわたしの民は、みなわたしが戻るのを待ち切れず、自分たちが二度と切り離されないよう、わたしと再会することを切望している。わたしの国の多くの民が、わたしが自分たちと共にいるのを祝い喜んで、互いに駆け寄らずにはいられまい。これは代価を支払う必要のない再会なのだろうか。わたしはすべての人の目に尊敬すべき者として映り、すべての人の言葉にのぼる。そのうえ、わたしは戻るとき、すべての敵の力を征服する。時は来た。わたしは自分の働きを始動させ、人々の王として支配する。わたしは今まさに戻る。そしてわたしはまもなく立ち去る。これはすべての人が望んでいること、彼らが希望することである。わたしは全人類にわたしの日の到来を見させよう。すると彼らはみな、わたしの日の到来を喜びのうちに歓迎するはずだ。

『言葉は肉において現れる』第二部「全宇宙への神の言葉」の「第二十七章」より引用

日々の神の御言葉 抜粋 65

すべてのものがよみがえりを受けた日、わたしは人間の中に来て、すばらしい日と夜を過ごした。そのとき初めて、人間は、わたしの親しみやすさを少し感じるのである。交流が頻繁になり、わたしの所有しているもの、わたしであるものの幾分かを知るようになった結果、人間はわたしについて、何らかの認識を得る。すべての人々の中で、わたしは頭を上げて見守り、彼らみなにわたしが見える。しかし、世界に災いが降りかかると、彼らはすぐさま不安になり、彼らの心からわたしの姿が消える。災いのために恐怖に駆られた彼らは、わたしの言いつけを聞こうとしない。わたしは何年も人間の間で過ごしたが、人間はいつでもわたしに気づかず、けっしてわたしを知らなかった。今日、わたしは人間に対して自分の口でこのことを話し、すべての人がわたしの前に来て、何かをわたしから得るようにさせるが、それでも彼らはわたしに近づこうとしないので、彼らはわたしを知らないのだ。わたしの足音が宇宙をまたぎ、地の果てまでゆくとき、人間は自らを省みるようになり、すべての人はわたしのもとに来て、ひれ伏してわたしを崇める。これこそ、わたしが栄光を得る日、わたしが再来する日、そしてまた、わたしが立ち去る日でもある。今、わたしはすべての人々の間でわたしの働きにとりかかり、全宇宙で正式にわたしの経営(救いの)計画の仕上げを開始している。この瞬間から後、不注意な者は、いつ無慈悲な刑罰を受けることになるか知れない。これは、わたしが無情なのではなく、わたしの経営計画の手順の一つなのだ。すべてはわたしの計画の手順に沿って進められる。そして、誰一人、これを変えることができない。わたしが正式に働きを始めると、すべての人はわたしの動きにつれて動く。そのようにして、全宇宙の人々はわたしと共に働く。全宇宙に「歓呼の声」が響き、人間はわたしと共に勢いよく前進する。その結果、赤い大きな竜はうろたえ、狂乱し、わたしの働きに仕え、望まずとも、自分のしたいことができず、わたしの支配に従うしかなくなる。わたしの計画すべてにおいて、赤い大きな竜はわたしの引き立て役、わたしの敵、そしてまた、わたしのしもべである。したがって、わたしはけっして竜の「要求」を緩めたことがない。だから、受肉におけるわたしの働きの最終段階は、その家の中で完了するのである。このようにすれば、赤い大きな竜はよりよくわたしに仕えることができ、それによって、わたしはこれに打ち勝ち、計画を完了するのである。わたしが働く時、すべての天使が、最終段階のわたしの意思を実現すべく決意して、わたしとともに決戦に臨み、地上の人々が天使たち同様にわたしに従い、わたしに逆らおうという気持ちをいっさい持たず、わたしに逆らう行為を何もしないようにする。それがわたしの全宇宙での働きの動態なのだ。

わたしが人間たちのもとに来る目的と意味は、すべての人間を救い、すべての人間をわたしの家に連れ帰り、天と地とを再び一つにし、天と地の間で人間に「合図」を伝えさせることだ。それが、人間本来の役目なのだ。わたしが人間を創った時、わたしは人間のためにすべてを準備しており、後に、わたしの要求に応じて、わたしの与える富を受けられるようにした。だから、わたしの導きのもと、すべての人間が今日に至ったのだと言える。そして、これはすべてわたしの計画である。すべての人間の中で、無数の人々がわたしの愛の守りの下で存在し、無数の人々がわたしの憎しみの刑罰を受けている。人々はみなわたしに祈るが、それでも、彼らは現在の状況を変えることができない。一度希望を失うと、自然のなすがままとなり、わたしに逆らうことをしなくなる。それが人間にできるすべてだからだ。人間の生活の状態について、人間は、まだ真の人生を見出しておらず、世界の不公平、荒廃、惨めな状態を見通しておらず、そのため災いが降りかかることがなければ、大抵の人は、まだ母なる自然を信奉し、「人生」の味わいに夢中になっていることだろう。これが世界の現実ではないのか。これが、わたしが人間に語っている救いの声ではないのか。なぜ、人間の誰一人、真にわたしを愛さないのか。なぜ、人間は刑罰と試練の中でだけわたしを愛し、わたしの守りを受けている時には、誰もわたしを愛さないのか。わたしは何度も人間に刑罰を与えた。人間はそれを見るが、無視し、その時にそれを調べることも、考えることもしない。そのため、人間には無慈悲な裁きだけが下ることになる。これは、わたしの働きの方法の一つにすぎないが、これも、人間を変え、わたしを愛するようにさせるためなのだ。

『言葉は肉において現れる』第二部「全宇宙への神の言葉」の「第二十九章」より引用

日々の神の御言葉 抜粋 66

わたしは神の国を支配し、さらに、全宇宙を支配している。わたしは神の国の王であるとともに、全宇宙の主でもある。今から後、わたしは選民でない人々をすべて集め、異邦人の間で働きを始める。そして、わたしの行政を全宇宙に告げ、わたしの働きの次の段階を開始できるようにする。わたしは異邦人の間にわたしの働きを広めるために刑罰を与える。つまり、異邦人である者たちには力を用いるということだ。当然、この働きは、選民たちの間でのわたしの働きと同時に進められる。わたしの民が支配し、地上で力を振るう時はまた、地上のすべての人が征服される日であり、そして、さらに、わたしが憩うときでもある。そして、その時初めて、わたしは征服した人々みなの前に姿を現す。わたしは聖なる国では姿を現し、汚れの地では姿を隠す。征服されわたしに従順となった者はみな、その目でわたしを見ることができ、その耳でわたしの声を聞くことができる。これが終わりの日に生まれた者の恵み、これがわたしの定めた恵みであり、これはどの人間にも変えることができないのだ。今日、わたしは将来の働きのために、このように働きを行っている。わたしの働きはすべて関連していて、その全体は呼びかけとそれへの応えである。どの段階も突然止まることはない。そして、どの段階も他のものと独立して実行されたことがない。そうではないか。過去の働きは、今日の働きの基礎なのではないか。過去の言葉は、今日の言葉の先触れなのではないか。過去の手順は今日の手順の元なのではないか。わたしが正式に巻物を広げる時、全宇宙の人々は罰され、世界中の人々は試練を受ける。それがわたしの働きのクライマックスなのだ。すべての人々は光のない場所に住み、すべての人々は、環境の脅威にさらされながら生きる。つまり、これは、創造の時以来、現在に至るまで、人間が経験したことのない生活であり、全ての時代を通じて、誰一人こうした生活を「享受」した者はいないのだ。だから、わたしは、かつて行われたことのない働きをすると言うのである。これが実際的な状況なのであり、これが内なる意味なのだ。わたしの日がすべての人類に近づいており、それは天の果てにあるのではなく人間の目の前にあるのだから、誰が恐れずにいられよう。そして、誰がこれを喜ばずにいられよう。汚れたバビロンはついに終わりを迎える。人間はま新しい世界に再び出会い、天と地は変わり、新たになった。

わたしがすべての国々とすべての人々の前に現れるとき、白い雲が激しく空に動き、わたしを護る。また、地の鳥たちはわたしを喜んで歌い踊り、地上の空気を生き生きさせる。そうして、地上のすべてのものに活気を与え、もはや「憂鬱に沈む」ことなく、代わりに活力のある雰囲気の中で生きられるようにする。わたしが雲の中にいると、人間はぼんやりとわたしの顔と目を認め、そうした時、少しの恐怖を感じる。昔、人間は伝説でわたしに関する歴史的記録を聞いたことがあるが、その結果、わたしについて半信半疑である。人間には、わたしがどこにいるか、わたしの顔がどれほど大きいか、わからない。それは海ほど広いのか、それとも、緑の野のように際限がないのか。誰一人、そうしたことを知らない。人間が今日、雲の中にあるわたしの顔を見てはじめて、伝説のわたしは実在すると感じ、そこで、もう少し、わたしに好感を持つようになる。わたしの行ないがあればこそ、人間のわたしへの崇敬は少しだけ増す。しかし、人間はまだわたしを知らず、雲の中にわたしの一部を見ているだけである。その後、わたしは両腕を伸ばし、人間に見せる。人間は驚き、わたしの手で打ち倒されるのではないかと深く恐れて、口を手で塞ぐ。そこで、わたしへの尊崇の念にすこしばかりの畏れが加わる。人間はわたしのあらゆる動きをじっと見ている。よそ見をしている時にわたしに打ち倒されるのではないかと、深く恐れている。しかし、人間に見られているからといって、わたしは気にせず、手を動かして働きを続ける。わたしの行いすべてによってはじめて、人間はわたしを好意的に見、そうして徐々にわたしの前に来て、わたしと交流するようになる。わたしのすべてが人間に明かされると、人間はわたしの顔を見、それ以後、わたしはもはや自分を隠したり、ぼんやりと見せたりすることをしない。全宇宙で、わたしは公然とすべての人の前に現れ、肉なる者はみな、わたしの行いをすべて見る。霊に属する者は、必ずわたしの家に安らかに住まい、必ずわたしとともにすばらしい恵みを享受する。わたしが大事にする者たちは、必ず刑罰を免れ、霊の痛みと肉の苦しみを免れる。わたしはすべての人の前に公然と現れ、支配し、力を振るう。そうして、死体の臭いがもはや全宇宙に満ちることがなく、代わりに、わたしのさわやかな香気が全世界に広まる。わたしの日が近づいたので、人間は目覚めつつある。地上のすべてが秩序立てられ、地の生き残りの日が終わったのだ。わたしが到着したのだから。

『言葉は肉において現れる』第二部「全宇宙への神の言葉」の「第二十九章」より引用

日々の神の御言葉 抜粋 67

わたしの働きの表出は天空に満ち、わたしの力の下で地上のあらゆるものはひれ伏し、「世界統一」のわたしの計画を実行し、わたしのひとつの願いを実現する。それゆえ人々は地の表を「さまよう」ことはなくなり、すぐに適切な終着点を見つける。あらゆる方法でわたしは人を熟慮し、全人類がすぐに平和と幸福の地に住むようになり、人々の生活の日々はもはや悲しくも惨めでもなく、わたしの計画が地上で無になることはないようにする。人がそこに存在するので、わたしは地上にわたしの国を建てる。わたしの栄光の表出の一部は地上にあるためである。天上では、わたしの都市を良い状態に戻し、それゆえ地上と天上ですべてを新しくする。地上と天上に存在するものをすべてひとつにするので、地上のすべてのものは天上のすべてのものとひとつになるだろう。これはわたしの計画であり、わたしが最後の時代に達成するものである。誰もわたしの働きのこの部分に干渉させはしないでおこう。わたしの働きを異邦人の諸国に拡大することは、わたしの地上の働きの最後の部分である。わたしが行う働きを理解することは誰にもできず、それゆえ人々は完全に混乱する。わたしは地上での働きに忙しく取り組んでいるので、人々はこの機会に「遊び回る」。人々が手に負えなくならないように、わたしは当初人々をわたしの刑罰の下におき、火の湖の鍛錬に耐えるようにした。これはわたしの働きの一過程であり、火の湖の力を使ってわたしの働きを達成する。さもなければわたしの働きは実行できないだろう。宇宙のいたるところの人々をわたしの玉座の前に服従させ、わたしの裁きに従って人々を様々な範疇に分別し、これらの範疇に沿って人々を分類し、さらに人々を家族に整理し、それゆえ人類全体がわたしにそむかなくなり、代わりに、わたしが名づけた分類に沿ってきれいで整然とした配列に収まる。何者も恣意的に動かせはしない。全宇宙でわたしは新しい働きを行った。全宇宙で、全人類がわたしの突然の出現に呆然とし、驚きで口がきけなくなり、わたしの公の突然の出現により人々の地平はかつてないほどに爆発した。今日はまさにこのようなものではないか。

『言葉は肉において現れる』第二部「全宇宙への神の言葉」の「第四十三章」より引用

日々の神の御言葉 抜粋 68

わたしは異邦人の国々に働きを広めている。わたしの栄光は全宇宙に閃く。わたしの旨は星のように点々と散らばる人々の中に具現化され、皆がわたしの手によって導かれ、わたしが与えた仕事をしている。この時点からわたしは新しい時代へと入り、すべての人々を別の世界へ連れて行く。わたしは自分の「故郷」へ戻ったとき、当初の計画に含まれる働きの、また別の部分に着手した。人々がわたしをより深く知れるようにするためだ。わたしは宇宙全体を眺めて、今が働きに絶好の機会だとわかったため[a]、急いで行き来しながら、人々に新しい働きを行なっている。いずれにせよこれは新たな時代であり、わたしはより多くの新しい人々を新たな時代へと引き入れ、淘汰すべき者達をより多く投げ捨てるため、新しい働きをもたらした。赤い大きな竜の国家で、わたしは人々に理解し難い働きの段階を実行し、彼らを風の中で揺らす。その後、多くの者が風に吹かれて静かに漂い去る。これこそまさに、わたしが一掃しようとしている「脱穀場」だ。それはわたしが切に願っていることであり、またわたしの計画でもある。というのも、わたしが働いている間に多くの悪い者たちが忍び込んだからだ。しかしわたしは彼らを追い払うことを急いではいない。適切な時が来たら、彼らを追い散らすつもりだ。そうして初めてわたしはいのちの泉となり、真にわたしを愛する人々がわたしからいちじくの実やゆりの香りを受け取れるようになる。サタンがとどまる塵の地には、砂があるだけで純金は残っていない。こうした状況なので、わたしは働きのこのような段階を実行するのだ。わたしが自分のものとするのは砂ではなく、精錬された純金であることを知らなければならない。悪い者がどうしてわたしの家に残れるだろうか。わたしの楽園に狐が寄生することなど許せるだろうか。わたしは考えられるすべての方法で、こうしたものを追い払う。わたしの旨が露わになるまでは、誰一人わたしがしようとしていることに気づかない。わたしはこの機会を利用して悪い者たちを追い払い、彼らはわたしから去らざるを得なくなる。わたしは悪い者たちをこのように扱うが、彼らがわたしに仕える日はまだあるだろう。人々は神の恵みを望む心が強すぎるので、わたしは向きを変えて、栄光に満ちた顔を異邦人たちに示し、人々がみな自分の世界に住んで自らを裁けるようにする。そして同時に、わたしは言うべき言葉を言い続け、人々が必要とするものを与え続ける。人々が我に返るころには、とうの昔にわたしの働きが広まっていることだろう。それからわたしは人間にわたしの旨を表し、人間に対する働きの第二の部分に着手する。すべての人間をわたしにしっかりと付き従わせて働きに協力させ、能力の限りを尽くしてこの必要な働きをわたしとともに遂行させるのだ。

『言葉は肉において現れる』の「七つの雷が轟く――神の国の福音が宇宙の隅々まで広まることを預言」より引用

脚注

a. 原文に「だとわかった」の語句は含まれていない。

日々の神の御言葉 抜粋 69

わたしの栄光を見るという信念を持つものは誰もいない。わたしは彼らに強要することはせず、ただ人々の間からわたしの栄光を奪い去り、別の世界へと移す。人々が再び後悔するなら、わたしは信仰を持つより多くの人々へわたしの栄光を示すだろう。これがわたしの働きの原則である。わたしの栄光はカナンの地から去る時もあり、選ばれた者たちから去る時もあるからだ。さらに、わたしの栄光が地上全体から去る時もある。そのとき地上は光を失って暗闇へと陥り、カナンの地さえ太陽には照らされなくなる。すべての人々は信仰を失うが、誰もカナンの地の香りを失うことには耐えられない。わたしは新たな天地へと進むときに初めて、わたしの栄光のもう一つの部分を、まずカナンの地で現す。すると夜の真っ暗闇の底に沈んだ全地にかすかな光が輝き、全地がその光のもとに集まる。地上のすべての人々がその光から力を得て、わたしの栄光は増大しすべての国々に新たに現れるだろう。わたしがはるか昔から人間の世に現れており、はるか昔にわたしの栄光をイスラエルから東方へともたらしたことを、すべての人々に気づかせよう。わたしの栄光は東方から輝きを放つのであり、恵みの時代から今日へともたらされたからだ。しかしわたしが出発した地はイスラエルであり、そこから東方に到着した。東方の光が徐々に白く変わって初めて、地上の暗闇は光に変わり始める。その時初めて、人はわたしがはるか昔にイスラエルを去っており、東方で新たに現れようとしていることを知るだろう。わたしは一度イスラエルへと下り、その後そこから立ち去ったため、再びイスラエルに生まれることはできない。なぜならわたしの働きは全宇宙を導くからであり、さらに稲妻は東から西へとひらめき渡るからだ。だからわたしは東方へと下り、カナンの地を東方の人々にもたらしたのである。わたしは全地の人々をカナンの地へ連れて行きたいと願っている。それゆえ全宇宙を支配するため、カナンの地で声を発し続ける。現在、カナンの地以外のどこにも光はなく、すべての人々は飢えと寒さにさらされている。わたしはまずイスラエルにわたしの栄光を与え、その後それを奪い去って、後にイスラエルの人々を東方へ連れて行き、すべての人々を東方へと導いた。わたしは彼らをみな光へと導き、彼らが光と再会して光と交われるようにし、もう探し求めなくていいようにした。わたしは探し求めるすべての者が再び光を見られるようにし、わたしがイスラエルに示した栄光を目にできるようにするつもりだ。わたしがはるか昔に白い雲に乗って人々の間に降り立ったことを彼らに理解させ、無数の白い雲と豊かな果実を見せ、さらにイスラエルのヤーウェ神を目撃させよう。そして彼らに、ユダヤ人の先生であり、待望のメシアであり、歴代の王たちによって迫害されてきたわたしの完全な姿を見せよう。わたしは全宇宙に対して働き、偉大な働きを行い、わたしのすべての栄光と業を、終わりの日の人々に対して露わにする。そしてわたしの栄光に満ちた顔を、長年わたしを待っていた人々、わたしが白い雲に乗ってくるのを熱望してきた人々、わたしの再来を熱望してきたイスラエル、そしてわたしを迫害するすべての人間に対して、余すところなく示そう。それによって、わたしがはるか昔にわたしの栄光を運び去って東方へともたらしており、それがもはやユダヤにはないことを、すべての者が知るだろう。なぜなら、終わりの日はすでに到来しているからである。

わたしは宇宙の隅々まで自らの働きを行なっており、東方では雷のような轟音が終わりなく発生し、すべての国々と教派を震わせている。すべての人々を現在へと導いてきたのはわたしの声である。わたしはすべての人がわたしの声によって征服され、この流れの中に入り、わたしの前に帰服するようにするつもりだ。わたしははるか昔に全地からわたしの栄光を取り戻し、それを東方で新たに発したからだ。わたしの栄光を見ることを願わない者がいるだろうか。わたしの再臨を心待ちにしない者がいるだろうか。わたしが再び現れることを渇望しない者がいるだろうか。わたしの愛らしさを思慕しない者がいるだろうか。光のもとへ来ようとしない者がいるだろうか。カナンの地の豊かさを目にとめない者がいるだろうか。贖い主の再来を待ち望まない者がいるだろうか。偉大なる全能者を敬慕しない者がいるだろうか。わたしの声は地上の隅々まで行き渡るだろう。わたしは選ばれた者たちと向き合って、もっと彼らに話しかけたいと願っている。山々や川を震わせる強大な雷のように、わたしは全宇宙と人類にむかってわたしの言葉を語りかける。こうしてわたしの口から出る言葉は人の宝となっており、すべての人々はわたしの言葉を大切にしている。稲妻は東から西へとひらめき渡る。わたしの言葉は、人が手放したがらないと同時に人には理解し難いものだが、それ以上に彼らに大きな喜びをもたらすものである。すべての人々は生まれたての赤児のように喜びに満ち、わたしの到来を祝っている。わたしはすべての人々を、わたしの声によってわたしの前へ連れてくる。その時からわたしは正式に人類の中へ入り、彼らはわたしを崇拝するようになる。わたしが放つ栄光とわたしの口から出る言葉によって、人々はみなわたしの前へ来るようになり、稲妻が東方から閃くこと、そしてわたしが東方の「オリーブ山」にも降臨したことを知るようになる。彼らはわたしがすでにずっと前から地上にいたことを知り、すでにユダヤ人の息子ではなく、東方の稲妻であることを知るだろう。なぜならわたしはずっと前に復活し、人々の間から去って、その後再び栄光とともに人々の中に現れたからである。わたしは幾時代も前に崇拝された神であり、幾時代も前にイスラエル人によって見捨てられた赤児である。そしてそれ以上に、今この時代の栄光に満ちた全能神なのだ。すべての者をわたしの玉座の前に来させ、わたしの栄光に満ちた顔を見せ、わたしの声を聞かせ、わたしの業を目撃させなさい。これがわたしの旨のすべてであり、わたしの計画の結末かつ頂点であると同時に、わたしの経営の目的でもある。すべての国々にわたしにひれ伏させ、すべての人にその言葉でわたしを認めさせ、すべての人にわたしを信頼させ、またすべての人がわたしに服従するようにしなさい。

『言葉は肉において現れる』の「七つの雷が轟く――神の国の福音が宇宙の隅々まで広まることを預言」より引用

日々の神の御言葉 抜粋 70

数千年もの間、人は救い主の到来に立ち会えることを熱望してきた。何千年も救い主イエスを切望し、渇望してきた人々のもとにイエスが白い雲に乗って直接降りてくるのを見ることを望んできた。救い主が戻って来て人々と再会すること、すなわち、救い主イエスが何千年もの間離れていた人々のもとに戻ってくることを望んできた。そしてイエスがユダヤ人の間で行なった贖いの働きをもう一度実行すること、人に対して憐れみ深く愛情にあふれていること、人の罪を赦し、人の罪を負い、人のすべての過ちさえ引き受け、人を罪から救うことを望んでいる。人々は救い主イエスが以前と同じであること、つまり愛すべき、心優しい、尊敬すべき救い主、人に対して決して激怒せず、決して人を非難しない救い主であることを望んでいる。この救い主は人の罪のすべてを赦し、引き受け、人のためにもう一度十字架上で死にさえする。イエスが旅立って以来、彼に従った使徒たちや、彼の名前のおかげで救われたすべての聖徒はイエスを切望し待っている。恵みの時代にイエス・キリストの恵みによって救われた人々はすべて、終わりの日の喜びに満ちたある日、救い主イエスが白い雲に乗って到着し、人々のもとに現れる日をずっと待ち焦がれている。もちろん、これは今日救い主イエスの名前を受け入れるすべての人々が共有する望みでもある。全世界のあらゆる場所で、救い主イエスの救済について知っている人々はすべて、イエス・キリストが突然到来し、「わたしは旅立った時とまったく同じようにやって来る」と地上で言った言葉を実現させることを心底切望している。磔刑と復活の後、イエスは白い雲に乗って天に戻り、いと高き者の右側に座したと人は信じている。イエスは同様に再び白い雲に乗って(この雲はイエスが天に戻るとき乗った雲を指している)何千年もの間イエスを待ち焦がれている人々のもとに降りて来るであろうこと、イエスはユダヤ人の姿をし、ユダヤ人の衣服を身に着けているであろうことを人は心に描いている。人の前に現れた後、イエスは食物を彼らに授け、生ける水を人々に向けてほとばしり出るように流し、恵みと愛に満ち、人々のあいだで生き生きと現実に暮らすだろう、等々。しかし、救い主イエスはそうはしなかった。彼は人が心に抱いたこととは反対のことをした。イエスはその再来を切望していた人々のもとには到来せず、白い雲に乗ってすべての人の前に現れもしなかった。彼はすでに来ていたが、人は彼を知らず、彼に気づかないままである。人は虚しく彼を待つだけで、彼がすでに白い雲(彼の霊、言葉、全性質、そして彼のすべてである雲)に乗って降臨し、今や終わりの日に彼が作る勝利者の一団のもとにいることに気づいていない。人はこのことを知らない。聖なる救い主イエスは人に対して慈しみと愛に満ちているが、どうして彼が腐敗と不純な霊が宿っている「神殿」で働くことができようか。人はイエスの到来をずっと待っているが、不義の者の肉を食べ、不義の者の血を飲み、不義の者の衣服を着る人々、イエスを信じるが彼を知らない人々、絶えず彼からだまし取る人々の前にどうしてイエスが現れることができようか。人は救い主イエスが愛と憐れみに満ちており、贖いに満ちた罪の捧げものであることしか知らない。しかし、イエスは同時に神自身であり、義、威厳、怒り、および裁きにあふれており、権威を所有し、尊厳に満ちていることはまったくわかっていない。そこで、たとえ人が贖い主の再来をしきりに切望し、天が人の祈りによって動かされたとしても、救い主イエスは、彼の存在は信じても、彼のことを知らない人々の前には現れない。

『言葉は肉において現れる』の「救い主はすでに『白い雲』に乗って戻って来た」より引用

日々の神の御言葉 抜粋 71

六千年間にわたる神の経営(救いの)計画が終わりを告げようとしている。そして、神の国の門は神の現れを求めるすべての人にすでに開かれている。兄弟姉妹たちよ、何を待っているのか。あなたがたが探し求めているものは何か。神の現れを待っているのか。神の足跡を探し求めているのか。神の現れがどれほど慕わしいものか。だが、神の足跡を見出すことはいかに難しいことか。今のような時代に、このような世界で、神の現れる日をこの目で見るために何をするべきであろうか。神の足跡をたどるには何をするべきであろうか。神の現れを待つすべての人が、このような疑問を抱いている。あなたがたもこのような疑問を何度か抱いたが、その結果はどうであったのか。神はどこに現れるのか。神の足跡はどこにあるのか。答えは見つかったのか。多くの人は、「神は自分に従う人々に現れ、神の足跡は私たちのただ中にある。単純なことだ」と答える。決まり切った答えであればだれにでも言える。だがあなたがたは、神の現れとは何かを、神の足跡とは何かを本当に理解しているのか。神の現れとは、神がその働きを行うためにみずから地上に来ることである。神としての身分と性質をもち、また神に固有の方法で、一つの時代を始め、別の時代を終わらせる仕事を行うために、神は人類のもとに下ってくる。このような神の現れは儀式の一形式ではない。それはしるしでも、図画でも、奇跡でも、大いなる幻でもない。ましてや宗教的な過程でもない。それは、実際に手で触れ、目で見ることのできる現実的で実際的な事実である。このような現れはただ表面的な動作をするためでも、短期間の作業のためのものでもない。それは、神の経営計画の中にある一つの働きの段階のためである。神の現れは必ず何かの意味があり、必ず神の経営計画と関係している。ここで言う「現れ」は、神が人を案内し、導き、啓く「現れ」とは全く異なる。神は自身を現す度に、神の大いなる働きの一段階を実行する。この働きは他のどの時代の働きとも異なる。それは人には想像もできないもので、人が経験したことがないものである。その働きは、新しい時代を到来させ、古い時代を完結させるもので、人類を救う働きの新しく向上したかたちである。さらには、人類を新しい時代に導き入れる働きである。これが神の現れの意義である。

ひとたび神の現れが何であるかがわかれば、神の足跡をどのように探し求めるべきであろうか。この問いに答えるのは難しくはない。神の現れるところはどこであれ、そこに神の足跡も見つかる。このような説明は単純に聞こえるが、実際にはそれほど単純ではない。多くの人は、神がどこに現れるか、ましてや神がどこに現れるつもりか、あるいは現れるべきかを知らないからである。聖霊の働きがあるところには神が現れると、感情にかられて考える人がいる。または、霊的な指導者がいるところに神が現れると思っている。あるいは、名声が高い人のいるところであれば、どこであれ神が現れると思っている。そうした考えが正しいかどうかは、今のところは深く考えないでおこう。このような問題を解説するには、まず目的をはっきりさせる必要がある。私たちが探し求めているのは神の足跡である。霊的な指導者を求めているのでもなく、ましてや有名人でもない。私たちがたどっているのは神の足跡である。このため、神の足跡を探し求めている私たちは、神の心意、神の言葉、神の発する声を探り求めなければならない。神が語る新しい言葉があるところには神の声があり、神の足跡があるところには神の業があるからである。神による表現があるところに神が現れ、神が現れるところには真理、道、いのちがある。神の足跡を探し求める中で、あなたがたは「神は真理であり、道であり、いのちである」という言葉を無視していた。そのため、真理を受け取っても神の足跡を見出したとは思わない人が多いのである。ましてや、神の現れを認めることなどない。なんと大きな過ちであることか。神の現れは人の観念と一致することはない。ましてや神は人の言うままに現れない。神は自らの判断で、自らの計画に従って働く。さらに、神にはその目的と方法がある。神がどのような働きをしようと、人と話し合ったり人の助言を求める必要はない。ましてや神が人間一人一人にその働きを知らせる必要などなおさらない。これが神の性質であり、さらにそれはすべての人が認識すべきことである。もし神の現れをその目で見、神の足跡をたどりたいと願うなら、自分自身の観念を捨て去らなければならない。神にこれをせよあれをせよと命じてはならない。ましてや神を自分の枠の中に閉じ込めたり、自分の観念の中に押し込めたりすべきでない。そうではなく、どのように神の足跡をたどるべきか、どのように神の現れを受け止めるべきか、どのように神の新しい働きに従うべきかと問うべきなのである。これが人のすべきことである。人は真理ではなく、真理を自分のものにしていないので、人は探し求め、受け入れ、従うべきである。

アメリカ人であれ、イギリス人であれ、国籍がどこであれ、自分の国籍の枠を乗り越え、自分自身を超越し、神の被造物として神の働きを見なくてはならない。そうすれば、神の足跡を枠にはめることはない。それは、現在は特定の国や民族に神が現れることは不可能だと多くの人が考えているからである。神の働きはなんと意義深く、神の現れはなんと重要なことか。どうして人の観念や考えで測ることができようか。そのため、神の現れを探し求めるためには、国籍や民族性という観念を突き抜けるべきである、とわたしは言うのである。そうして初めて、自分自身の観念に制約されることなく、神の現れを迎えるにふさわしくなる。そうでなければ、暗闇の中にいつまでもとどまり、神から認められることもない。

『言葉は肉において現れる』の「神の現れによる新時代の到来」より引用

日々の神の御言葉 抜粋 72

神は全人類の神である。神は自らを一つの国や民族の所有物とみなさない。神が自ら計画したとおりに働きを行い、形式や国、民族といった制限を受けることはない。これまであなたはこのような形式を想像したこともなかったかもしれないし、そのような形式を否定するかもしれない。神が現れる国や民族はたまたま誰からも差別されている地上で一番遅れている国や民族かもしれない。しかし、神には神の知恵がある。神はその偉大な力とその真理と性質により、神と心を一つとする人々の一群を本当に得ている。それは神が完成させたいと願う人々の一群で、神に征服され、あらゆる試練と困難、あらゆる迫害に耐え、最後の最後まで神に従うことのできる一群である。神が形式や国の制約を受けずに現れる目的は、その計画どおりに働きを完成させることである。それはちょうど神がユダヤの地で肉となったときと同じである。神の目的は全人類をあがなうことで十字架の働きを完成させることであった。しかし、ユダヤ人は神がそれを行うのは不可能だと考えた。神が肉となって、主イエスの姿をとるのは不可能だと考えたのである。この「不可能」が、ユダヤ人が神を罪に定め、神に敵対する根拠となった。そして、最終的にはイスラエルの破滅へとつながった。今日、多くの人が同じような間違いを犯している。神は今すぐにでも現れると強く主張しながら、同時に神の現れを断罪している。その「不可能」が再び、神の現れを自分たちの想像できる範囲に押し込めているのである。神の言葉に出会うと、多くの人が騒々しく大笑いするのをわたしは見てきた。しかし、その笑いはユダヤ人による神への断罪と冒涜とどこか違うであろうか。あなたがたは真理を目の前にしても敬虔さがなく、ましてや真理を慕い求める態度もない。ただ手あたり次第に研究し、気楽に待っているだけである。そのように研究し、待っていることで得られるものは何なのか。神から直に導きを受け取ることができると思っているのか。神の発言を聞き分けることができないなら、どうして神の現れをその目で見る資格があるというのか。神が現れるところでは、真理が表され神の声がある。真理を受け入れることができる人だけが神の声を聞くことができる。そしてそういう人だけが神の現れを見ることができる。観念を捨てなさい。落ち着いて、これらの言葉を注意深く読みなさい。真理を慕い求めるなら、神はあなたを照らし、あなたは神の心意と言葉を理解できるようになる。「不可能」だと思うことについての意見を捨て去りなさい。人が何かを不可能だと思えば思うほど、それは実現しやすくなる。神の知恵は天より高く、神の思いは人の思いより高く、神の働きは人の考えや観念をはるかに超越するからである。何かが不可能であればあるほど、そこには探し求めることのできる真理がある。人の観念と想像を超えるものであればあるほど、そこには神の心意がある。神がどこに現れようとも、神はやはり神であり、神の本質が現れる場所や方法で変わることはないからである。神の性質は、神の足跡がある場所によらず、いつも同じである。神の足跡がどこにあろうとも、神は全人類の神である。それはちょうど主イエスはイスラエル人の神というだけでなく、アジア、ヨーロッパ、アメリカの人々の神でもあり、さらに、全宇宙で唯一無二の神であるのと同じである。だから、神の言葉に神の心意を探し求め、神の現れを発見し、神の足跡に従おう。神は真理であり、道であり、いのちである。神の言葉とその現れは同時に存在する。また、神の性質と足跡はいつでも人類に対して開いている。兄弟姉妹たちよ。あなたがたがこれらの言葉に神の現れを見てとり、新しい時代に向かって進みながら、神の足跡をたどり始め、神の現れを待ち望む人のために用意された美しく新しい天地に入れることを望む。

『言葉は肉において現れる』の「神の現れによる新時代の到来」より引用

日々の神の御言葉 抜粋 73

神は沈黙しており、私たちの前に姿を現したことはないが、神の働きは止むことがない。神は全世界を見渡し、あらゆる物事を支配しており、人の言葉と行動の一切をつぶさに見ている。神はその経営を計画に従ってゆっくりと慎重に行っており、それは静かに、特に劇的な効果も見せず進行しているが、神の歩みは一歩一歩進んでますます人類に近付き、神の裁きの座は電光石火の速さで宇宙に設けられ、その直後に神の玉座が私たちのもとに降りて来る。それは何と神々しい光景であり、威厳と神聖に満ちた情景だろうか。鳩のように、うなり声をあげるライオンのように、聖霊が私たちのもとにやって来る。神は知恵であり、義であり、威厳である。神は権威を持ち、愛と憐れみに満ちて、そっと私たちの間にやって来る。誰も神の到来に気づかず、誰もその到来を歓迎せず、その上誰も神がこれからしようとしていることを知らない。人の生活は相変わらずで、心にも変化は無く、毎日がいつも通りに過ぎていく。神は私たちの間に、普通の人のように、信仰者の中で最も取るに足らない者として、平凡な一信者として生きている。彼には独自の探求や目標があり、そのうえ神は普通の人にない神性を備えている。誰もその神性の存在に気づいておらず、誰も彼と人の本質の違いを見抜いていない。彼は私たちの目には取るに足らない一人の信者にしか見えないので、私たちはのびのびと恐れることもなく彼と共に暮らしている。彼は私たちの一挙一動を観察しており、私たちの考えや思いつきはすべて彼の前に晒されている。誰一人として彼の存在に関心を持たないし、その役割を想像もせず、さらに誰一人その正体をかけらも疑っていない。私たちはただ自分たちの活動を継続している。あたかも彼は私たちと何の関係もないとでも言うように。

聖霊がたまたまこの人を「通して」一編の言葉を発することもあり、それは非常に意外なことのように感じられるが、私たちはそれを神の発した声だと認め、すぐに神から出たものとして受け入れる。なぜならその言葉を誰が発しようと、それが聖霊から出たものである限り、私たちはそれを受け入れるべきであり、否定することはできないからだ。次の発言は私を通して出されるかもしれないし、あなたや他の誰かを通して出されるかもしれない。それが誰かにかかわらず、すべては神の恵みなのだ。しかしそれが誰であろうと、その人を崇拝してはならない。何があろうとその人が神であることはありえないし、そのようなごく普通の人を選んで私たちの神とすることは決してできないからだ。私たちの神は非常に偉大でかつ尊い。どうしてそのような取るに足らない人が、神に代わることなどできようか。さらに私たちは神が天の国へと連れ戻しに来てくれるのを待っているのに、そのような重大で困難な仕事を、そんな取るに足らない人がどうして行えようか。主が再臨するとすれば、白い雲の上に乗って現れるはずなのだから、すべての人がそうとわかるだろう。それは何と荘厳なことだろうか。どうして神が平凡な人々の中にそっと隠れていることなどできるだろうか。

しかしそれでも、人々の間に紛れているこの平凡な人こそが、私たちを救うための新しい働きを行っているのだ。この人は何も説明することはないし、来た理由を話すこともなく、ただ意図した働きを整然と、自分の計画に沿って行うだけだ。彼はますます頻繁に声を発し、発言するようになる。それには慰め、励まし、忠告、警告から非難や懲らしめまで、そして穏やかで優しい口調から荒々しく荘厳な言葉までがあり、そのすべてが人に憐れみを与えるとともに戦慄を植え付ける。彼が言うことはすべて、私たちの奥深くに隠された秘密に命中し、彼の言葉は私たちの心を突き刺し、霊を突き刺し、私たちを耐え難いほど恥じ入らせ、どこに隠れてよいかもわからない気持ちにさせる。そして私たちは、この人物の心の中にいる神は本当に私たちを愛しているのか、一体何をしようとしているのか、と疑い始める。もしかすると、このような痛みに耐えなければ天国に引き上げてもらえないのだろうか。これからの行く先や未来の運命について、私たちは頭の中で思案する。しかしそれでもまだ、誰一人として神がすでに肉体を得て私たちの間で働きを行っているとは考えない。神はこれほど長い間私たちと共にあり、これほど多くの言葉を私たちに直接語ってきたが、私たちはいまだにそのような平凡な人を、自分たちの未来の神だとは認めたがらないし、ましてその取るに足らない人に自分たちの未来と運命の支配を任せたりはしたがらないのだ。私たちは彼から絶えることのないいのちの水を享受し、彼を通して神と向き合いながら生活している。しかし私たちは天におられる主イエスの恵みには感謝するが、神性を備えたこの普通の人の気持ちには一切注意を払ってこなかった。それでも彼は従来どおり、肉体の中に隠れて謙虚に仕事を続け、その心の奥に秘めた思いを表し、人類が彼を拒んでも気にもならないかのように、また人の稚拙さも無知も永久に赦すかのように、自らに対する人々の非礼をひたすら黙認しているのだ。

私たちが知らないうちに、この取るに足らない人は私たちを神の働きの一つ一つの段階へと導き入れてきた。私たちは数え切れないほどの試練に耐え、数々の懲らしめを受け、死をもって試される。そして神の義なる威厳に満ちた性質を知り、神の愛と憐れみも享受し、神の偉大な力と知恵を感じられるようになり、神の愛らしさを目のあたりにし、そして人類を救いたいという神の強い願いを目にする。この平凡な人の言葉を通して、私たちは神の性質と本質を知り、神の旨を理解し、人の本性と本質をも理解し、そして救いへの道と完全にされるための方法を知るようになる。その言葉は私たちを「死なせ」、そして「生き返らせる」。その言葉は安らぎを与えるが、同時に罪悪感と恩義の念で私たちを苦しめもする。その言葉は私たちに喜びと平安をもたらすが、同時に無限の痛みも与える。私たちは時にその手によって屠られる子羊のようであり、時に最愛のもののようにその慈愛を享受する。また時にはその人の敵のようでもあり、そのまなざしのもとでその怒りによって焼かれ灰にされる。私たちは彼に救われる人類であり、その目から見れば蛆であり、彼が日夜見つけ出そうと躍起になっている迷える子羊である。彼は私たちに対して慈悲深くもあれば、私たちを軽蔑もし、立ち上がらせ、慰め励まし、導き啓き、懲らしめ鍛え、そして呪いさえする。彼は昼も夜も私たちのことを心配し続け、昼も夜も守り気遣い、決して私たちの傍を離れず、私たちのためにその心血を注ぎ、いかなる代償も払う。この小さく平凡な肉体から出る言葉の中に、私たちは神のすべてを享受し、神が私たちに授けた終着点を見た。それにもかかわらず、私たちの心の中ではいまだ虚栄心のために問題が起こっており、このような人を積極的に神として受け入れることができずにいる。この人は私たちに非常に多くのマナや、多くの喜びを与えたが、それでも私たちの心の内にある主の地位を奪うことはできない。私たちはこの人の特別な身分と地位を嫌々ながらに尊重しているのだ。彼が口を開いて、私たちに自分が神であることを認めるよう求めない限り、私たちは決してこの人を、まもなく現れる、そして同時にすでに私たちのもとで長く働いてきた神として、あえて認めようとはしないだろう。

神は発話を続けており、さまざまな方法や観点を用いて私たちにすべきことを諭しつつ、同時にその心を言葉に表している。その言葉は生命力を備えており、私たちが歩むべき道を示し、真理とは何かを理解させてくれる。私たちはその言葉に引き付けられるようになり、その口調や話し方に注目し始め、そして無意識のうちに、この目立たない人の心の内に関心を持ち始める。彼は私たちのために労力を惜しまず、私たちのために睡眠も食欲もなくし、涙を流し溜息をつき、病気に苦しみ、私たちの終着点と救いのために屈辱を耐え忍び、私たちが鈍感で反抗的なために心から涙と血を流している。このような存在とその持てるものは、普通の人を超えているし、堕落した人間が誰一人として所有も到達もできないものだ。彼には普通の人にない寛容と忍耐力が備わっており、その愛はどんな被造物にも授けられていないものなのだ。私たちの考えをすべて知り、私たちの本性や本質をこれほど明確かつ完全に把握し、人類の反抗的で堕落した性質を裁き、天国の神の代理として私たちに語りかけ、このように人の間で働くことができる人は、この人をおいて他にいない。彼以外に神の権威、英知、そして威厳を授けられている者はいない。この人からは神の性質、そして神が所有するものと神そのものが、あますところなく発せられている。この人以外に、私たちに道を示し、光をもたらせる者はいない。彼以外に、神が天地創造から今日まで明かしてこなかった奥義を明らかにできる者はいない。彼以外に、私たちをサタンの束縛や私たち自身の堕落した性質から救える者はいない。彼は神を体現しており、神の心の奥底にあるものと訓戒、そして全人類に対する神の裁きの言葉を表現している。彼は新しい時代、新しい紀元を開き、新たな天地と新しい働きを到来させた。そして彼は私たちに希望をもたらし、漠然としていた私たちの生活を終わらせ、私たちの全存在をもって救済の道を完全にはっきりと目撃できるようにしてくれたのである。彼は私たちの存在そのものを征服し、私たちの心を得た。その瞬間から私たちの心は覚醒しており、霊が生き返ったように思われる。この平凡で取るに足らない人物、私たちの間で生きながらも長年私たちに拒否され続けてきたこの人こそ、私たちが寝ても覚めても絶えず思い続け、日夜待ち望んできた主イエスではないだろうか。そう、彼なのだ。実際そうなのだ。この人こそが私たちの神なのだ。彼こそが真理であり、道であり、いのちである。彼は私たちがもう一度生きて光を見ることができるようにし、私たちの心のさまよいを止めてくれたのだ。私たちは神の家に戻り、神の玉座の前に戻り、神と顔を合わせ、神の顔を目撃し、行く手にある道をこの目で見た。今、私たちの心は完全に彼に征服され、私たちはもはや彼が誰であるか疑わず、もうその働きや言葉に反抗することもなく、ただ彼の前にひれ伏す。私たちの望みは、ただ残りの人生をずっと神の足跡に従って生きること、神に完全にされること、そして神の恵みと私たちへの愛に報い、神の指揮と采配に従い、神の働きに協力し、できる限りのことをして神に委ねられた物事を全うすることだけである。

『言葉は肉において現れる』の「神の裁きと刑罰に神の出現を見る」より引用

日々の神の御言葉 抜粋 74

神と人を同等なものとして語ることはできない。神の本質と神の働きは人にとって最も深遠で理解しがたい。神が人の世で自ら働きを行わず、言葉を話さなかったら、人は決して神の旨を理解することはできないし、全生涯を神に捧げてきた人々でさえ、神の承認を得ることはできない。神の働きがなければ、人の行いがどんなによくても無駄である。神の考えはいつも人の考えより高く、神の英知は人にとって測り知れないものだからである。そのため、神と神の働きを「完全に理解している」と主張する人たちは無能な輩で、皆自惚れていて無知だとわたしは言う。人は神の働きを決め付けるべきではないし、その上、人は神の働きを決め付けることはできない。神の目には人は蟻よりも小さいのに、どうして人が神の働きを推し測ることなどできようか。「神はあんな方法やこんな方法では働かない」とか「神はこのようである、あのようである」といつも言っている人々――彼らは皆高慢ではないだろうか。私たちは皆、肉なる人々は残らずサタンによって堕落させられていることを知るべきである。神に反抗するのは彼らの本性であり、彼らは神と同等ではなく、ましてや神の働きに助言することなどできない。神が人をいかに導くかは神自身の働きである。人は服従するべきであり、これこれしかじかの意見を持つべきではない。人はちり芥にすぎないのだから。私たちは神を見つけようとしているのであり、神が考慮するべき神の働きの上に自分たちの観念を重ね合わせるべきではないし、神の働きに故意に反対するために自分たちの堕落した性質を用いることなどもってのほかである。そのような行為は私たちを反キリストにさせるのではないだろうか。どうしてそのような人々が神を信じているなどと言えるだろう。私たちは神の存在を信じているので、神を満足させ、神を見たいと望んでいるので、真理の道を求め、神と融和するための道を探すべきである。私たちはかたくなに神に反抗するべきではない。そのような行動に何の益があるだろう。

今日、神には新しい働きがある。あなたはこれらの言葉を受け入れないかもしれない。あなたには奇妙な言葉に感じられるかもしれないが、わたしはあなたに本性を表さないよう忠告する。神の前で本当に義に飢えかわいている人々だけが真理を得ることができ、本当に敬虔な人々だけが神によって啓かれ、導かれることができるからである。口論を通して真理を求めてもそこからは何も生じない。静かに求めることによってのみ私たちは結果を得ることができる。わたしが「今日、神には新しい働きがある」と言う時、わたしは神が再び肉となることに言及している。おそらく、あなたはこれらの言葉を気にしないか、これらの言葉を軽蔑するか、あるいはおそらくあなたにとって極めて興味深い言葉であるかもしれない。いずれにせよ、わたしは神の出現を本当に切望するすべての人々がこの事実を直視し、慎重に考慮することを希望する。結論に飛びつかない方がよい。これが賢い人々の行動すべきやり方である。

このようなことを考察するのは難しいことではないが、私たちそれぞれにこの真理を知ることが要求される。受肉した神は神の本質を有し、受肉した神は神による表現を有する。神は人間の姿になるので、なすべき働きを打ち出し、神は人間の姿になるので、自分が何であるかを表して、人に真理をもたらし、人にいのちを与え、人に進むべき道を示すことができる。神の本質を含んでいない肉体が受肉した神ではないことは間違いなく、これについて疑う余地はない。受肉した神かどうか調べるためには、その人が表す性質や話す言葉からそれを決めなければならない。つまり、人間の姿になった神かどうか、それが真の道かどうかは、その人の本質から判断しなければならない。そこで、人間の姿になった神かどうかを決定するとき、鍵となるのは、外見よりもむしろその人の本質(働き、言葉、性質、その他いろいろ)に注意を払うことである。外見だけを見て本質を見落とす者は、自分の無知、単純さをさらけ出すことになる。外見は本質を決定しない。その上、神の働きは決して人の観念と一致することはない。イエスの外見は人の観念とはまったく違っていたではないか。イエスの外見と衣服はイエスの真の正体に関し何らの手がかりも与えることができなかったのではないだろうか。古代のパリサイ人がイエスに反対したのは、彼らがイエスの外見を見ただけで、イエスの語る言葉を真剣に受け止めなかったからではないだろうか。神の出現を求める兄弟姉妹には歴史の悲劇を繰り返さないで欲しい。あなたがたは、現代のパリサイ人になって神を再び十字架につけるようなことをしてはならない。あなたがたは神の再来をどのように歓迎するか慎重に考え、真理に服従する人になるにはどうしたらよいか、はっきりした考えを持つべきである。これが、イエスが雲に乗って再臨するのを待っているすべての人の責任である。私たちは霊的な目をこすり、非現実的な考えに満ちた言葉の餌食になってはならない。私たちは神が現実に行う働きについて考え、神の実際的な面を見るべきである。イエスをまったく知らず、見たこともなく、イエスの旨をどう行ったらよいかわからないあなたがたを引き上げるために、主イエスが突然雲に乗ってあなたがたのもとに降りて来る日をひたすら楽しみにしながら、調子に乗ったり、空想にふけって自分を見失ったりしてはいけない。現実的な事柄を考えているほうがよい。

『言葉は肉において現れる』の「序文」より引用

日々の神の御言葉 抜粋 75

あなたがたはパリサイ人がイエスに逆らったことの根源を知りたいか。あなたがたはパリサイ人の本質を知りたいか。彼らはメシアに関する空想に満ちていた。さらに、彼らはメシアが来ると信じていただけで、いのちの真理を求めなかった。だから今日になっても未だに彼らはメシアを待ち続けている。いのちの道に関して何の認識もなく、真理の道がどのようなものかも知らないからである。これほど愚かで頑固で無知な人々が、神の祝福を得ることなどあり得ようか。彼らがメシアを見ることなどできるだろうか。彼らは聖霊の働きの方向を知らなかったために、イエスの語った真理の道を知らなかったために、さらにはメシアを理解しなかったためにイエスに敵対した。彼らはメシアに会ったことがなく、メシアとともに過ごしたこともないために、彼らはみなメシアの名前にむなしく固執しながら、できる限りのことをしてメシアの本質に逆らうという過ちを犯した。これらのパリサイ人は本質的に頑固で、傲慢で、真理に従わなかった。彼らの神への信仰の原則は、「どれほど説教が奥深く、どれほど権威が高かろうとも、あなたがメシアと呼ばれない限り、あなたはキリストではない」というものである。これらの見方は不合理でばかばかしくないであろうか。あなたがたにもう一度問う。あなたがたが全くイエスを理解してこなかったことを考えれば、最初のパリサイ人たちと同じ誤りを簡単に起こしてしまうのではないか。あなたは真理の道を識別することはできるのか。あなたがキリストに逆らわないとあなたは本当に請け合えるか。あなたは聖霊の働きに従うことができるのか。自分がキリストに逆らうかどうかがわからないのなら、あなたは既に死ぬぎりぎりのところに生きているとわたしは言う。メシアを理解しなかった人々は皆、イエスに逆らい、イエスを拒絶し、イエスを中傷することができた。イエスを理解しない人々は皆、イエスを否定し、イエスをののしることができる。そればかりか、彼らはイエスの再臨をサタンの惑わしとして見ることができ、さらに多くの人が受肉し再来したイエスを非難するであろう。これらのことのせいで、あなたがたは恐ろしくならないのか。あなたがたが直面することは聖霊に対する冒涜であり、諸教会に向けた聖霊の言葉を台無しにし、イエスが表した全てをはねつけることとなる。それほど混乱しているのなら、イエスから何を得られるというのか。あなたがたが頑なに自分の間違いに気づくのを拒絶しているのならば、イエスが白い雲に乗って肉に戻ってくる時にイエスの働きをどのようにしてあなたがたが理解できるというのか。わたしは言う。真理を受け入れず白い雲に乗ったイエスの再臨を盲目的に待つ人々は、確実に聖霊を冒涜することになり、彼らは滅ぼされる種類である。あなたがたは単にイエスの恵みを望んでおり、この上なく幸せな天国を楽しみたいだけであるが、イエスの語る言葉に従ったことはなく、肉に戻ったイエスが表した真理を受け入れてこなかった。あなたがたはイエスが白い雲に乗って戻るという事実と引き替えに何を差し出すのか。あなたがたが繰り返し罪を犯しては何度もその罪を告白するという誠意か。白い雲に乗って戻ってくるイエスへの捧げ物としてあなたがたは何を差し出すのか。自らを称賛する長年の仕事という資本だろうか。あなたがたは戻ってきたイエスに信用してもらうために何を差し出すのだろうか。それはあなたがたの、いかなる真理にも従わない傲慢な本性だろうか。

『言葉は肉において現れる』の「あなたがイエスの霊体を見る時、神はすでに天地を新しくしている」より引用

日々の神の御言葉 抜粋 76

あなたがたの忠誠心は言葉の中のみにあり、あなたがたの認識は単に知的で観念的であり、あなたがたの労働は天国の祝福を受けるためのものであるが、それではあなたがたの信仰はどのようなものでなければならないのか。今日なお、あなたがたは真理の言葉の一つ一つに対し、耳を貸そうとしない。あなたがたは神が何かを知らない。キリストが何かを知らない。あなたがたはヤーウェを畏れる方法を知らない。どのように聖霊の働きに入っていくのかを知らない。あなたがたは神自身の働きと人の惑わしの区別の仕方を知らない。ただ、自分の考えに沿わない、神が表した真理の言葉を非難することだけを知っている。あなたの謙虚さはどこにあるのか。あなたの従順はどこにあるのか。あなたの忠誠心はどこにあるのか。真理を求める気持ちはどこにあるのか。あなたの神への畏敬はどこにあるのか。わたしはあなたがたに言う。しるし故に神を信じる者は、滅ぼされる部類であることは確かである。肉に戻ったイエスの言葉を受け入れることができない者は、地獄の子孫であり、天使長の末裔であり、永遠の破滅を逃れることのできない部類である。多くの者はわたしの言うことに耳を傾けないかもしれない。だがそれでも、天からイエスが白い雲に乗って降臨するのをあなたがたが自分の目で見る時、これは義の太陽が公に現れることであると、わたしはイエスに付き従ういわゆる聖徒全員に伝えたい。おそらく、その時あなたにとって大いなる興奮の時となるであろう。だが、あなたがイエスが天から降臨するのを見る時は、あなたが地獄へ落ち、懲罰を受ける時でもあることを知るべきである。それは神の経営(救いの)計画の終わりの時であり、神が善良な人々を報い、邪悪な者たちを罰する時である。神の裁きは人間がしるしを見る前に、真理の現れだけがある時には終わっている。真理を受け入れてしるしを求めることがなく、故に清められている人々は、神の玉座の前に戻り、造物主の胸に抱かれる。「白い雲に乗らないイエスは偽キリストだ」という信念に執着する者たちだけは、永久に続く懲罰を受けなければならない。彼らはただしるしを示すイエスしか信じず、厳しい裁きを宣言し真のいのちの道を解き放つイエスを認めないからである。そのような者たちは、イエスが白い雲に乗って公に戻ってくる時に取り扱うしかない。彼らはあまりに頑なで、自信過剰で、傲慢である。どうしてこのような堕落した者たちがイエスに報いてもらえるだろうか。イエスの再臨は、真理を受け入れることのできる者には大いなる救いであるが、真理を受け入れることのできない者にとっては、罪に定められるしるしである。あなたがたは自分自身の道を選ぶべきで、聖霊を冒涜したり真理を拒んだりするべきではない。あなたがたは無知で傲慢な者でなく、聖霊の導きに従い真理を慕い求める者にならなければならない。そうすることでのみ、あなたがたの益となる。わたしは、注意深く神への信仰の道を歩むようにあなたがたに助言する。結論を急いではならない。さらに、あなたがたは神への信仰において、無頓着であったり、軽率であってはならない。少なくとも、神を信じる者は謙虚で畏敬の念に満ちているべきだということを知らなければならない。真理を聞いたことがありながら鼻であしらうものは愚かで無知である。真理を聞いたことがありながら不注意に結論を急いだり非難したりする者は、おごりで包まれている。イエスを信じる者は誰も、他人をののしったり非難したりする権利はない。あなたがたは皆、理知があり、真理を受け入れる者でなければならない。真理の道を聞き、いのちの言葉を読んだのち、自分の信念と聖書に沿っている言葉は一万語にひとつだと信じているかもしれない。そうであれば、その一万分の一の言葉の中で求め続けなければならない。それでもわたしはあなたに謙虚であり、自信過剰にならず、思い上がらないようにと助言する。あなたの心が抱いている神へのわずかな畏敬の念から、より大きな光を得ることになる。もしあなたがこれらの言葉をよく吟味し、繰り返し思い巡らすならば、それらが真理かどうか、それらがいのちかどうかが分かるであろう。ほんの数行読んだだけで、「これは聖霊によるちょっとした照らしでしかない」とか、「これは人々を惑わすために来た偽キリストだ」と盲目的に非難する人たちもいるであろう。そのようなことを言う人たちは、無知ゆえに目が見えなくなっている。あなたは神の働きや知恵をほとんど理解していない。わたしはあなたに助言する。最初からやり直しなさい。終わりの日における偽キリストの出現のせいで、神の言葉を盲目的に非難してはならない。惑わされることを恐れる為に、聖霊を冒涜する者となってはならない。それはとても残念なことではないであろうか。もし良く調べた後で、これらの言葉が真理ではない、道ではない、神が表したことではないと未だに信じるならば、あなたは最後に懲罰を受けなければならず、祝福されない。もしこれほどわかりやすく明確に話された真理を受け入れられないなら、あなたは神の救いにそぐわないのではないのか。あなたは神の玉座の前に戻るほど幸運ではない人ではないのか。このことを考えなさい。軽はずみで衝動的になってはいけない。神への信仰をまるでゲームのように考えてはいけない。あなたの終着点のために、前途のために、そしてあなたのいのちのために、考えなさい。自らをいい加減に扱ってはならない。あなたはこれらの言葉を受け入れることができるであろうか。

『言葉は肉において現れる』の「あなたがイエスの霊体を見る時、神はすでに天地を新しくしている」より引用

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