神の出現と働き

日々の神の御言葉 抜粋 46

シオンに讃美がもたらされ、神の存する場所が現れた。栄光に満ちた聖なる名が万民に讃えられ、広まる。ああ、全能神よ。宇宙の頭、終わりの日のキリスト。この方こそ、全宇宙に堂々と威厳に満ちてそびえ立つシオンの山に登った輝く太陽である。

全能神よ! わたしたちは喜んであなたに呼びかけ、踊り、そして歌う。あなたは真にわたしたちの贖い主、全宇宙の偉大なる王! あなたは勝利者の一団を作り、神の経営(救いの)計画を全うした。すべての民がこの山に集い、玉座の前に跪く。あなたこそ唯一の真の神であり、栄光と栄誉はあなたにふさわしい。すべての栄光、讃美、権威がその玉座にあるように。いのちの泉が玉座から流れ出て、神の民の群衆を潤し、養う。いのちは日々変化し、新しい光と啓示がわたしたちに伴い、神についての新たな識見が絶えず与えられる。わたしたちは経験の中で、神についての完全なる確信を得る。神の言葉が絶え間なく現われ、正しい人に現われる。わたしたちはまさに祝福されている! 日々神に対面し、万事において神と交わり、すべてを神の統治に明け渡す。神の言葉を注意深く思い巡らし、心は神の中で静まり、かくしてわたしたちは神の前に出て、そこで神の光を受ける。自分の生活、行動、言葉、思い、考えにおいて、わたしたちは毎日神の言葉の中で生き、常に識別することができる。神の言葉は針に糸を通す。つまり、わたしたちの内面に隠されたものが不意に次々と現われる。神との交わりは少しの遅れも許さず、わたしたちの思いや考えは神によって露わにされる。わたしたちは一瞬一瞬をキリストの座の前で生きており、そこで裁きを受ける。わたしたちの身体のどの部分もサタンに占領されたままである。今日、神の統治を取り戻すため、神殿を清めなければならない。完全に神のものとされるため、わたしたちは生死を賭けた戦いに加わらなければならない。古い自己が磔にされて初めて、キリストの復活したいのちによる至高の統治が可能となる。

今や聖霊がわたしたちの隅々に突撃し、争奪戦を戦う。自己を否定し、進んで神に協力する覚悟がある限り、神は必ずやわたしたちを内面から照らして清め、サタンが占領していたものを取り戻す。それにより、わたしたちが一刻も早く神によって完全にされるためである。時間を無駄にしてはならない。一瞬ごとを神の言葉の中で生きよ。聖徒とともに築き上げられ、神の国に連れて行かれ、神とともに栄光に入れ。

『神の出現と働き』「キリストの初めの言葉、第一章」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 47

フィラデルフィアの教会が形を整えたが、これはひとえに神の恵みと憐れみによる。神への愛が無数の聖徒たちの心に生じ、聖徒たちは霊の旅路においてよろめくことがない。聖徒たちは、唯一の真の神が肉となり、その神はすべてを司る宇宙の頭であるという信仰を固守する。それは聖霊によって確証され、山のように揺るぎない! そしてそれが変わることはない!

ああ、全能神よ! 今日あなたはわたしたちの霊の目を開き、盲人を見えるようにし、足の不自由な者を歩けるようにし、重い皮膚病の者を癒やした。あなたは天の窓を開き、わたしたちに霊の世界の奥義を見せた。あなたの聖なる言葉に満たされ、サタンに堕落させられた人間性から救われること。これがあなたの計り知れないほど偉大な働き、計り知れないほど偉大な憐れみである。わたしたちはあなたの証人である!

あなたは長きにわたり、沈黙して謙虚に隠れていた。あなたは死からの復活と磔の苦しみ、人間として生きる喜びと悲しみ、迫害と苦難を経験した。人の世の痛みを経験してそれを味わい、時代に見捨てられた。受肉した神は神自身である。あなたは神の旨のためにわたしたちを汚物の山から救い、右手でわたしたちを持ち上げ、思うままにわたしたちに恵みを施した。労を惜しまず、わたしたちにあなたのいのちを注いだ。あなたが血、汗、涙で払った代価は聖徒たちの上に凝縮している。わたしたちはあなたの血のにじむような努力の産物[a]であり、あなたが払った代価である。

ああ、全能神よ! あなたの慈愛と憐れみ、義と威厳、聖さと謙遜ゆえに、すべての民はあなたの前にひれ伏し、永遠にあなたを拝する。

今日、あなたはあらゆる教会、フィラデルフィアの教会を完全なものとし、それにより六千年にわたる経営(救いの)計画を実現した。聖徒たちはあなたの前で謙虚に従うことができ、霊において互いに繋がり、愛の中で互いに伴い、泉の源に繋がっている。いのちの生ける水は絶え間なく流れ、教会の汚れた泥水をすべて洗い流し、あなたの神殿を再び清くする。わたしたちは実際の真なる神を知るに至り、神の言葉の中を歩み、自らの役割と本分をわきまえ、教会のために自分を費やすべく、あらゆることを行なってきた。あなたの旨がわたしたちの中で妨げられることのないように、わたしたちはあなたの前で静まるたび、聖霊の働きに留意しなければならない。聖徒たちのあいだには互いへの愛があり、力ある聖徒が他の聖徒の弱みを補う。聖霊による啓きと照らしを受け、聖徒たちは常に霊の中を歩くことができる。真理を理解するとすぐに実践し、新たな光に歩調を合わせ、神の足跡に従う。

積極的に神に協力しなさい。神に支配をゆだねることは、神とともに歩むことである。わたしたちの考え、観念、意見、世俗の束縛はすべて煙のように空中に消える。わたしたちは霊において神に至高の統治を委ね、神と歩み、それにより超越を得、世に打ち勝ち、わたしたちの霊は自由になって羽ばたく。それが、全能神が王になったときの結果である。どうして踊りと歌で褒め讃え、讃美と新しい賛歌を捧げずにいられようか。

神を讃美する方法は確かにいくつもある。神の名を呼ぶ、神に近づく、神のことを考える、祈りを唱える、交わる、黙想する、熟考する、祈る、讃美歌を歌う。このような讃美の行為には喜びがあり、また聖別がある。讃美には力があり、また重荷もある。讃美には信仰があり、新たな識見がある。

積極的に神に協力し、協調して奉仕を行ない一つになり、全能神の旨を満たし、急いで聖い霊の体となり、サタンを蹂躙し、サタンの運命を終わらせなさい。フィラデルフィアの教会は神の前に携挙され、神の栄光の中に現われる。

『神の出現と働き』「キリストの初めの言葉、第二章」(『言葉』第1巻)

脚注

a. 原文に「の産物」という語句はない。


日々の神の御言葉 抜粋 48

勝利を収めた王は栄光の玉座に着く。王は贖いを成し遂げ、自らの民をすべて導いて、栄光の中に出現させた。王は万物をその手中にしており、その神聖な知恵と力によってシオンを堅く打ち立てた。王はその威厳をもって、罪深い世界を裁く。すべての国々と民とを裁き、地と海とそこに住むあらゆる生き物を裁き、淫乱の葡萄酒に酔いしれた者たちにも裁きを下したのだ。神は必ずや彼らを裁き、必ずや彼らに怒りを示すだろう。そこに神の威厳があらわされる。神の裁きは一瞬のうちに、遅れることなく下される。神の怒りの炎は必ずや彼らの凶悪な犯罪を焼き尽くし、災いはいつでも彼らに降り注ぐだろう。そのとき彼らは、逃げ道も隠れる場所もないことを知り、涙を流して歯ぎしりし、自らに破滅をもたらすだろう。

神に愛された勝利の子らは、確かにシオンに留まり、決してそこを離れることはない。群衆は神の声にじっと耳を傾け、神の行いを注意深く見守り、讃美の声は絶えることがない。唯一の真の神が現れたのだ! わたしたちは霊の中で神を確信し、しっかりと付き従う。全力で突き進み、もうためらうことはない。世界の終わりがわたしたちの目前で明らかになりつつあるのだ。正しい教会生活と、わたしたちを取り囲む人々、出来事、物事は今も、わたしたちの訓練を強化している。深くこの世を愛してしまった心を急いで取り戻そう。ひどく曇ってしまった視力を急いで取り戻そう。境界を越えないように、ここで歩みを止めよう。口を閉ざして神の言葉の中を歩み、自分の損得のために争うことをやめるのだ。ああ、俗世間と富への欲深い愛を手放せ。ああ、夫や息子、娘たちへの愛着から自らを解放せよ。ああ、独自の見解や偏見に背を向けよ。ああ、目を覚ませ、時間がないのだ。霊の中から見上げ、神に支配を委ねなさい。何があっても、ロトの妻のようになってはいけない。見捨てられるのはなんと惨めなことか。ああ、なんと惨めなことか! ああ、目を覚ましなさい!

『神の出現と働き』「キリストの初めの言葉、第三章」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 49

山や河は移り変わり、水は進路に沿って流れ、人間の命は天地のようには永続しない。唯一全能神だけが、復活の永遠のいのちであり、世代を超えてとこしえに生き続ける。すべての物とすべての出来事は神の手中にあり、サタンは神の足の下にあるのだ。

今日神がわたしたちをサタンの魔の手から救ったのは、神が予め定めた選択による。神はまことにわたしたちの贖い主である。復活したキリストの永遠のいのちが、まさにわたしたちの内に形造られているので、わたしたちは神のいのちに繋がるよう運命づけられており、まさに神と向き合うことができ、神を食い、飲み、享受することができるのだ。これは神が心血を注いで行なった、無私無欲の施しなのだ。

季節が移り変わる中、風と霜とを経て、幾多の人生の苦痛や迫害や患難、この世の拒絶と中傷、また政府による数々の偽りの告発に直面しても、神の信念と決意はほんの少しも衰えることがない。神はその旨のため、そしてその経営と計画を成し遂げるため、全身全霊を捧げ、自らの命も顧みない。自らのすべての民のため、彼はどんな苦労も惜しまず、心を配って彼らに糧と水を与える。わたしたちがどんなに無知であろうと、どんなに強情だろうと、必要なのはただ彼に従うことであり、そうすればキリストの復活のいのちが、わたしたちの古い本性を変えてくれるだろう。……彼はすべての長子たちのため、たゆむことなく労し、食事も休息もとらない。幾日も幾夜も、焼け付くような暑さや凍える寒さもいとわず、彼は一心にシオンで見守っているのだ。

彼はこの世も、家庭も、仕事も、何もかもを自ら喜んで捨て去り、この世のどんな享楽とも関わりを持たない。……彼の口から発せられる言葉はわたしたちを突き刺し、心の奥底に隠していたことを露わにする。どうして確信せずにいられるだろうか。彼の口から発せられる一句一句は、いつでもわたしたちの中で実現される。わたしたちが何をしようと、それが神の前でであれあるいは神に隠れてであれ、彼が知らないこと、理解していないことは何一つない。わたしたち自身の計画や采配に関わらず、すべてはまさに彼の前に露わにされるのだ。

彼の前に座し、自らの霊の中で喜びを感じ、穏やかにくつろいでいながら、絶えず空しさと神への負い目を感じている。これは想像もできない奇跡であり、成し遂げるのは不可能である。聖霊は全能神が唯一の真の神であることの証明として十分であり、それは議論の余地のない証明だ。わたしたちの一団は言い尽くせないほど祝福されている。神の恵みと憐みがなければ、わたしたちは地獄に行ってサタンに従うしかない。唯一全能神だけが、わたしたちを救うことができるのだ。

おお、全能神、実践の神よ!わたしたちの霊の目を開かれたのはあなたであり、その結果、わたしたちは霊的世界の奥義をこの目で見た。神の国の展望は果てしない。わたしたちは油断なく待っていよう。その日はもう遠くはない。

戦火は巻き起こり、銃口からの煙が辺りに充満し、天候は温暖化し、気候は変動し、疫病が広がる。そして人々はただ死なねばならず、わずかな生存の希望もない。

おお、全能神、実践の神よ!あなたはわたしたちの堅固な要塞であり、わたしたちの避け所です。あなたの翼の下で身を寄せ合えば、わたしには災いが及びません。これがあなたの神聖な加護と配慮なのです。

わたしたちはみな声を張り上げて賛美を歌い、賛美の歌がシオン中に響きわたる。全能神、実践の神はわたしたちに、あの栄光に満ちた終着点を用意してくださった。注意して、油断なく見張っていなさい。今ならまだ遅くない。

『神の出現と働き』「キリストの初めの言葉、第五章」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 50

全能神――神の国の王――が証しされて以来、神の経営(救い)の領域は全宇宙にあまねく広がっている。神の出現は中国において証しされただけでなく、すべての国とすべての土地で全能神の名が証しされている。人々はみなこの聖なる名を呼び、あらゆる手段で神との交わりを持とうとし、全能神の旨を把握し、一致して教会で仕えている。これが聖霊の驚くべき働き方なのである。

さまざまな国の言語はみな異なっているが、霊はただ一つである。この霊は全宇宙の教会を一つに結びつけており、神と一体で、わずかな相違もない。これは疑いの余地のない事実である。聖霊は今や彼らに呼びかけており、その声は彼らを呼び覚ましている。それは神の憐れみの声である。皆が全能神の聖なる名を呼んでいるのだ。そして彼らは、讃美を捧げ歌っている。聖霊の働きには何の狂いもあり得ない。これらの人々はどんな苦労も惜しまず、正しい道に沿って前進し、退くことはない。奇跡は次々と起こっている。これは人々にとって想像し難いことであり、推測するのも不可能なのだ。

全能神は宇宙のいのちの王である。神は栄光の玉座に就いて世界を裁き、すべての上に君臨し、すべての国々を支配する。すべての人は跪いて神に祈り、神に近づき、神と交わる。どれほど長く神を信じていようと、地位がどれだけ高かろうと、どれほど年功があろうと、心の中で神に逆らう人は裁かれなければならず、神の前にひれ伏して痛々しい懇願の声を出さねばならない。それはまさしく自身の行動の結果を刈り取ることなのだ。その嘆きの声は火と硫黄の池で苦しめられるときの声であり、神の鉄の杖によって懲らしめられるときの叫びである。それこそがキリストの玉座の前の裁きなのだ。

『神の出現と働き』「キリストの初めの言葉、第八章」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 51

神の出現は、すでに諸教会で起こっている。語っているのは霊であり、神は燃え盛る火で、威厳を持ち、裁きを行っている。神は人の子であり、足まで垂れた上着を身に着け、胸に金の帯を締めている。その頭と髪の毛は羊毛のように白く、目は燃える炎のようだ。その足は炉で精錬された真鍮にも似て、声は大水のとどろきのようである。右手には七つの星を持ち、口からは鋭い諸刃のつるぎが突き出ており、顔は燃え盛る太陽のように照り輝いている。

人の子は証しされ、神自身が公に露わにされた。神の栄光が放たれて、燃え盛る太陽のように照り輝いている。神の壮麗な顔貌はまばゆい光とともに輝く。あえて反抗の目を向ける者がいるだろうか。反抗は死を意味する。心に何を思おうと、どんな言葉を言おうと、どんなことをしようと、わずかな憐れみも示されはしない。あなたがたは皆、自分が得たものが何であるかを理解し、目にするようになるだろう──それはわたしの裁き以外の何物でもない。あなたがたがわたしの言葉を飲み食いすることに努めず、気ままに妨害してわたしが建て上げたものを破壊するなら、そんなことに我慢ができようか。そのような人間に手加減はしない。あなたの態度がそれ以上深刻に悪化すれば、あなたは炎の中で焼き尽くされるだろう。全能なる神は霊の体で現れ、頭から足の先までを繋ぐ肉や血は少しも持っていない。神は宇宙世界を超越し、第三の天にある栄光の玉座に着き、万物を治めている。全宇宙と万物はわたしの手中にある。わたしが語ることは実現し、わたしが定めることはその通りになる。サタンはわたしの足下にあり、底なしの穴に沈んでいる。わたしの声が発せられると、天地は滅んで無に帰り、すべてのものは新たにされる。これは何の間違いもない不変の真理である。わたしはこの世に打ち勝ち、すべての邪悪な者に打ち勝った。わたしはここに座り、あなたがたに語っている。耳のある者はみな耳を傾け、生ける者はみな受け入れなさい。

この日は終わりを迎え、世のすべてのものは無に帰る。そして、すべてのものが新たに生まれ変わる。このことを覚えておきなさい。忘れてはならない。何一つ曖昧であってはならない。天地は滅びるが、わたしの言葉は滅びることがないのだ。再びあなたがたに忠告する。無駄に走り回ってはならない。目を覚ましなさい。悔い改めなさい、救いはもうすぐそこまで来ている。わたしはすでにあなたがたの間に現れ、声を上げた。わたしの声はあなたがたの前で上げられ、日々あなたがたと直接対峙しており、いつも新鮮で新しい。あなたはわたしを見、わたしはあなたを見る。わたしは絶えずあなたに語りかけ、直接向き合っている。それにもかかわらず、あなたはわたしを拒んでおり、わたしを知らない。わたしの羊はわたしの声に聞き従うが、あなたがたはまだ躊躇している。そう、躊躇しているのだ。あなたの心は鈍くなっており、あなたの目はサタンによって盲目にされ、わたしの栄光ある顔貌を見ることができない。あなたは何と、何と惨めなことか。

わたしの玉座の前の七つの霊は、地の隅々にまで遣わされている。わたしはわたしの使者を遣わして、諸教会に語らせる。わたしは義であり、誠実であり、人の心の奥底を調べる神である。聖霊は諸教会に語りかける。わたしの子の内側から発せられるのは、わたしの言葉である。耳のある者はみな聞きなさい。生ける者はみな受け入れなさい。ただそれを飲み食いしなさい。そして疑ってはならない。わたしの言葉に従い、耳を傾ける者はみな、大いなる祝福を受ける。わたしの顔を真剣に求める者はみな、必ずや新たな光と新しい啓示、そして新たな識見を得るだろう。すべてが新鮮に、新しくなるのだ。わたしの言葉はいつでもあなたに示され、あなたの霊の目を開く。それによってあなたは霊的領域のあらゆる奥義を知り、神の国が人間の中にあることを目にするようになるのだ。避け所に入りなさい、そうすればすべての恵みと祝福が与えられ、飢饉や疫病はあなたに触れることができず、狼や蛇、虎や豹もあなたを害することはできなくなる。あなたはわたしと共に行き、わたしと共に歩き、わたしと共に栄光へと入ることになるのだ。

『神の出現と働き』「キリストの初めの言葉、第十五章」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 52

全能神よ! 栄光ある体が公に出現し、聖なる霊体が現れ出る。彼こそが完全なる神自身なのだ。この世も肉も変えられる。山上における彼の変容は神の本体である。彼は頭に金の冠を戴き、その衣は真っ白で、胸に金の帯を締めており、世界と万物は彼の足台である。目は燃える炎のようで、口からは鋭い諸刃のつるぎが突き出ており、右手には七つの星を持っている。神の国への道は限りなく明るく、神の栄光が現れて輝きわたる。山々は喜び、水は笑う。太陽と月と星々はすべて整然と巡り、唯一の真の神を歓迎する。神の勝利の凱旋は、六千年の経営(救いの)計画の完成を告げているのだ。あらゆるものが喜びに湧き立ち、踊り上がる。歓喜せよ、全能なる神が栄光の玉座に座っている。歌え、全能者の勝利の旗は威厳ある壮大なシオンの山上に高く掲げられている。すべての国々が歓喜の声を上げ、すべての人々が歌い、シオンの山は喜び笑っている。神の栄光が現れたのだ。わたしは夢でさえ、神の顔を見られるなどとは思わなかったが、今日それを見たのだ。日々神と顔を合わせて、神に自分の心を露わにする。神は食べ物や飲み物を豊かに与えてくださる。生活、言葉、行動、思い、考え──神の壮麗な光がそれらすべてを照らしている。道の一歩一歩が神によって導かれ、反抗的な心にはただちに神の裁きが下されることになる。

神と共に食べ、共に過ごし、共に暮らし、神と共にいて、共に歩み、共に楽しみ、共に栄光と祝福を得、神と王権を共有し、共に神の国にいる──おお、何という喜びだろうか。おお、何と甘美なことか。日々神と顔を合わせ、日々話をして常に語り合い、日々新しい啓示と新たな識見を授かる。わたしたちの霊の目は開かれて、すべてが見えるようになり、霊のすべての奥義がわたしたちに露わにされる。聖なる生活は実に気楽なものだ。速く走り、止まることなく、ひたすら前へと突き進みなさい。先にはもっと素晴らしい生活が待っている。ただの甘美な味わいに満足することなく、常に神の中に入ることを求めなさい。神はすべてを包み込んで豊かに満ちており、わたしたちに欠けたあらゆるものを持っている。積極的に協力し、神の中に入りなさい。そうすればすべてが変わることだろう。わたしたちの生活は超越したものになり、どんな人間も物事も、それを邪魔することはできないのだ。

超越。超越。真の超越。神の超越したいのちは内にあり、すべてのものは本当に楽になった。わたしたちはこの世と世俗的なものを超越し、夫や子供たちへの愛着もまったく感じない。病気や状況による支配も超越する。サタンもわたしたちを邪魔しようとはしない。わたしたちはすべての災いを完全に超越する。それによって神は王位を得ることになるのだ。わたしたちは足元にサタンを踏みにじり、教会のために証しを立て、サタンの醜い顔を徹底的に暴露する。教会を建て上げることはキリストの中にあり、栄光の体が現れた。これこそが、携挙の中に生きるということなのだ。

『神の出現と働き』「キリストの初めの言葉、第十五章」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 53

全能の神、とこしえの父、平和の君、わたしたちの神は王である。全能神はオリーブ山に降り立つ。何と美しいことか。聞きなさい。わたしたち見張り人は、声を張り上げて共に歌う。神がシオンに戻られたからだ。わたしたちはこの目でエルサレムの荒廃を見る。歓喜して共に歌え、神がわたしたちに慰めをもたらし、エルサレムを贖ったのだから。神はすべての国々の眼前にその聖なる腕を現し、まことの神の本体が姿を現した! 地の隅々に至るまで、あらゆるものがわたしたちの神の救いを見たのだ。

ああ、全能神よ! あなたの玉座から七つの霊がすべての教会へ遣わされ、あなたの奥義をすべて露わにしています。あなたは栄光の玉座に座り、あなたの国を治め、公平と義によってしっかりと安定させ、あなたの前にすべての国々を従わせました。ああ、全能神よ! あなたは王たちの腰帯を解き、都の門をあなたの前に大きく開いて、二度と閉じないようにされました。あなたの光が到来し、あなたの栄光が昇って輝きを放っているからです。暗闇が地を覆い、濃い闇がすべての国民の上に垂れています。おお、神よ! しかしあなたはわたしたちに姿を現され、わたしたちをあなたの光で照らされました。あなたの栄光はわたしたちの上にあらわされるでしょう。すべての国はあなたの光のもとへ、王たちはあなたの輝きのもとへとやって来ます。あなたが目を上げて辺りを見回すと、息子たちがあなたの前に集まります。彼らは遠くからやって来るのです。あなたの娘たちは、腕に抱えられ運ばれてきます。おお、全能神よ! あなたの大いなる愛はわたしたちをとらえました。あなたの国へと続く道で、わたしたちの歩みを導くのはあなたであり、わたしたちに浸透するのはあなたの聖なる言葉なのです。

ああ、全能神よ! わたしたちは感謝し、あなたを讃美します。わたしたちは誠実で落ち着いたひたむきな心であなたを見上げ、証しし、崇め、そして歌います。わたしたちが心を一つにして、共に築き上げられんことを。そしてあなたがすぐにわたしたちを、あなたの心に適う者、あなたに用いられる者へと変えてくださいますように。あなたの旨が妨げられることなく、全地で成し遂げられますように。

『神の出現と働き』「キリストの初めの言葉、第二十五章」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 54

全能神はすべての権力を握る方、すべてを成し遂げる方であり、完全なる真の神である。七つの星を携えているだけでなく、七つの霊と七つの目を持ち、七つの封印を解いて巻物を広げる。そしてさらに、七つの疫病と七つの鉢を管理し、七つの雷を露わにする。神ははるか昔にも、七つのラッパを鳴らしたのだ。彼によって造られ完全にされたすべてのものは、彼を讃美し、彼に栄光を帰し、その玉座を高くかかげねばならない。ああ、全能神よ! あなたはすべてであり、すべてを成し遂げられた。あなたにあってはすべてが完全で明るく、解放されて自由であり、強く力に満ちている。隠されたものや覆われたものは何一つなく、あなたにあってはすべての奥義が露わにされている。さらにあなたは大勢の敵を裁き、威厳を露わにし、燃え盛る炎を現し、あなたの怒りを示される。そしてさらに、空前の永遠に続く無限の栄光を表されるのだ。すべての民は目を覚まし、歓声を上げて、ためらうことなく歌い、この全能なる方、すべてが真実で生命に溢れ、豊かで栄光に満ちた、永久から永久へと存在する真の神を讃えねばならない。神の玉座は常に高められ、その聖なる名は讃えられ賛美されなくてはならない。これがわたしの、すなわち神の永遠の旨であり、神があらわしてわたしたちに授ける限りない祝福なのだ。わたしたちの中にそれを受け継がない者がいるだろうか。神の祝福を受け継ぐには、神の聖なる名を讃え、その玉座を囲んで崇拝しなければならない。他の動機や意図を持って神の前に出るものは皆、彼の燃え盛る炎によって溶け去るだろう。今日は彼の敵が裁かれる日であり、また彼らが滅びる日でもある。さらにこれは、全能神であるわたしが露わにされ、栄光と誉れを得る日でもあるのだ。ああ、すべての民よ。すぐに立ち上がって誉め讃え、全能神を歓迎しなさい。神はとこしえまでわたしたちに慈しみを与え、救いをもたらし、祝福を授け、彼の子らを完全にして神の国を成就させる。これが神の素晴らしき業だ。これが神の永遠の予定と采配であり、神自身がやって来てわたしたちを救い、わたしたちを完全にし、栄光の中へと連れて行くのだ。

立ち上がって証しをしない者は皆、盲人の祖先であり、無知の王である。そのような者たちは永遠に無知であり、永久に愚か者で、盲目な永遠の死者となる。それゆえわたしたちの霊は目覚めなくてはならないのだ。すべての民が立ち上がらなくてはならない。栄光の王、憐れみの父、贖いの子、豊かさ溢れる七つの霊、そして威厳に満ちた燃え盛る炎と義の裁きをもたらす全能神、完全に満ち足り豊かさに溢れた全能で完全なる全能神を、歓声を上げて讃美し、終わることなく誉め讃えよ。全能神の玉座はとこしえまで高められる。すべての民はこれが神の知恵であることを目にしなければならない。これは神の素晴らしき救いへの方法であり、栄光ある旨の成就なのだ。立ち上がって証しをしないなら、その時が去ってしまえばもう後戻りはできない。祝福を受けるか不幸に見舞われるかは、旅路のこの段階によって決定されようとしている。それはわたしたちが今何をし、何を考え、何を生きるかによって決まるのだ。あなたがたはどう行動すべきか。とこしえまでも神を証しし、讃えなさい。終わりの日のキリストである全能神、永遠なる唯一の真の神を誉め讃えなさい。

今後は、神に証ししない者――この唯一の真の神を証ししない者、さらに神への疑いを抱く者――は、みな病んでおり、死んでおり、神に逆らう者だということをはっきりと知らねばならない。神の言葉はすでに、太古の昔から証明されているのだ。「わたしとともに集めない者は散らす者であり、わたしと共にいない者はわたしに敵対する者である」。これは石に刻まれた不変の真理なのだ。神を証ししない者はサタンの手下である。そのような者たちは神の子らを混乱させ、騙し、神の経営を妨害するために来たのであり、剣によって打たれねばならない。彼らに善意を示す者は誰であれ、自らの破滅を招くことになる。あなたがたは神の霊が語ることを聞き、信じ、神の霊の道を歩き、神の霊の言葉を生きなければならない。そしてさらに、全能なる神の玉座をとこしえまでも高めなければならないのだ。

全能神は七つの霊の神である。彼はまた、七つの目と七つの星を持っている。神は七つの封印を解き、巻物全体が広げられた。そして七つのラッパが鳴らされ、七つの鉢と七つの疫病が彼の掌中にあり、彼の思いのままに解き放たれる。ああ、長く封印されてきた七つの雷よ。その封印を解く時が来た! 七つの雷を放つ方が、すでにわたしたちの目の前に現れたのだ!

全能神よ! あなたにあっては、すべては解放されており自由で、困難なことはなく、すべてが円滑に流れる。あなたを邪魔したり妨げたりするものはなく、すべてがあなたに従う。従わないものはすべて死ぬのだ!

全能神、七つの目を持つ神よ! すべては完全に透き通っており、すべてが明るく、何も隠されたものはない。すべてが暴かれ、露わにされている。全能神においてはすべてが一点の曇りもなく明瞭であり、それは神自身だけでなくその子らも同様だ。彼とその子らの前では、人も物事も何一つとして隠れていることはできないのだ。

全能神の七つの星は明るく輝いている。教会は彼によって完全にされており、彼は自身の教会の使者を立て、すべての教会が彼の施しの中にある。彼は七つの封印をすべて解き、自らの経営(救いの)計画とその旨を全うする。巻物は彼の経営(救いの)計画に関する神秘的な霊の言葉であり、神はそれを開いて露わにしたのだ。

すべての民は神の七つのラッパの大音響に耳を傾けなければならない。彼にあってはすべてが明らかに示され、二度と隠されることはなく、悲しみももはや存在しない。すべてが露わにされ、すべてが勝利に満ちているのだ!

全能神の七つのラッパは、公然と栄光に満ちた勝利のラッパである。そしてまた、彼の敵を裁くラッパでもある。勝利のただ中で、彼の角が掲げられている。彼は宇宙全体を支配するのだ!

彼はすでに七つの疫病の鉢を用意しており、それを敵めがけて激しく降り注ぐ。敵は神の燃え盛る怒りの炎で焼き尽くされることになる。全能神は自らの力強い権威を示し、敵はみな滅びる。最後の七つの雷は、もはや全能神の前に封印されてはおらず、すべて開かれている。すべて開かれているのだ。彼は七つの雷で敵を打ち殺し、地を安定させて、その地を自らに仕えさせる。二度と地が荒廃することがないように。

義なる全能神よ! わたしたちはあなたを永遠に賞賛します。あなたは終わりのない賛美に値し、止むことのない歓呼と賞賛に値する方! あなたの七つの雷はあなたの裁きに用いられるだけでなく、あなたの栄光と権威のために用いられ、すべてを完成するためにあるのです。

すべての民は玉座の前で祝い、終わりの日のキリストである全能神を褒めそやし賛美する。その声は雷鳴のように全宇宙を揺り動かす。実にすべてのものが彼ゆえに存在し、彼ゆえに生まれ出る。誰が彼にすべての栄光、栄誉、権威、知恵、聖さ、勝利、そして啓示を帰そうとしないだろうか。これこそが彼の旨の成就であり、彼の経営における建設の最終的完成なのだ!

『神の出現と働き』「キリストの初めの言葉、第三十四章」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 55

七つの雷が玉座から発せられ、宇宙を揺るがし、天と地をくつがえし、その響きは空を貫く。轟音は耳をつんざき、人々は逃げることも隠れることもできない。稲妻と雷鳴が発せられると、たちまち天地は変化し、人々は死の淵に立たされる。すると電光石火の速さで、宇宙全体が天から降り注ぐ激しい暴風雨に包まれる。それは地の隅々にまで流れ込み、頭の先からつま先まで洗い流し、染みひとつ残さない。隠れられるものなど一つもなく、逃れられる者は一人もいない。雷鳴の轟きは輝く稲妻のように不気味な閃光を放ち、人々を恐怖に震え上がらせる。鋭い諸刃の剣は反逆の子らを打ち倒し、敵の勢力は大災害に直面して隠れる場所もない。彼らは荒れ狂う風雨の中で呆然とし、打撃を受けてよろめきつつ、すぐさま息絶えて流れる水に落ち、押し流されていく。そこには死しかなく、生き残る術はない。七つの雷がわたしから放たれ、わたしの意図を伝える。その意図とはエジプトの長子を打つこと、邪悪な者を罰してわたしの教会を清めること、そしてその結果みなが互いに寄り添い合い、裏表なく行動し、わたしと心を一つにすること、そして全宇宙のすべての教会が一つになることである。これがわたしの目的なのだ。

雷鳴が轟き、それに続いて泣き叫ぶ声が波のように響き渡る。一部の者たちは眠りから覚め、ひどく驚いて自分の心の奥を探り、急いで玉座の前に戻る。彼らは見境のない策略や非道な行いをやめる。そのような者たちが目覚めるのにまだ遅くはない。わたしは玉座から見ている。そして人々の心の奥深くを覗く。わたしは心から熱心にわたしを求める者を救い、そのような者たちに憐れみをかける。わたしが救って永遠へと招き入れるのは、心の中で他の何にも増してわたしを愛する者たち、わたしの旨を理解する者たち、そして道の終わりまでわたしに従う者たちである。わたしの手が彼らを安全に守るので、彼らはこの光景に直面することはなく、危害を受けることもない。中にはこの稲妻が走る光景を見て、言葉にできない悲嘆を感じ、この上なく後悔する者もいる。そのようなふるまいに執着するなら、彼らはもう手遅れだ。ああ、森羅万象よ! すべてが終わりを迎える。これもまた、わたしの救いの一つの手段なのだ。わたしはわたしを愛する者を救い、邪悪な者を打ち倒し、地上にわたしの国を揺るぎなく安定させ、すべての国と人々、宇宙と地の隅々までのあらゆるものに、わたしが威厳であり、燃え盛る炎であり、すべての人の心の奥を探る神であることを知らしめる。これ以降、偉大な白い玉座の裁きが大衆に公に露わにされ、裁きが始まったことがすべての人に告げられる。語る言葉が心からのものでない者、疑いを抱いて確信を持とうとしない者、ただ無為に時間をつぶし、わたしの願いを知りながら実践しようとしない者――そうした者たちは間違いなく、みな裁かれなければならない。あなたがたは自分の意図や動機をよく吟味し、自分にふさわしい場所に立ち、わたしが言うことを本気で実践し、いのちの経験に重点を置かなければならず、うわべだけの熱意をもって行動してはならない。自分のいのちが成長し、成熟し、安定し、経験豊かなものとなるようにしなさい。そうして初めて、あなたがたはわたしの心に適うことができる。

サタンの手下や、わたしが建て上げるものを混乱させ破壊する悪霊どもには、物事を都合よく利用するどんな機会も与えてはならない。彼らは厳しく制限し、抑制しなくてはならない。彼らは鋭い剣をもって取り扱うしかないのだ。最も悪い者たちは、将来問題とならないように、ただちに根絶されなくてはならない。そうすれば教会は完全にされ、欠陥は一切なくなり、健全で生命力と活力に満ちたものとなるだろう。稲妻の閃光に続いて、雷鳴が轟く。無頓着でいてはならず、諦めずに全力で追いつこうとしなければならない。そうすれば必ず、わたしがこの手で何をするのか、何を得ようとしているのか、何を捨てようとしているのか、何を完全にしようとしているのか、何を根絶しようとしているのか、何を打ち倒そうとしているのかを見ることができるだろう。そのすべてがあなたがたの目の前で展開され、あなたがたはわたしの全能性をはっきりと見ることができるだろう。

玉座から宇宙と地の隅々に至るまで、七つの雷が響き渡る。大勢の人々が救われ、わたしの玉座の前にひれ伏すだろう。このいのちの光に続いて、人々は生き残る術を求め、わたしの元へ来るしかなくなり、跪いて礼拝し、その口で全能なる真の神の名を呼び、哀願を声に出す。だがわたしに逆らう者たち、心を頑なにする者たちは、その耳に雷鳴が轟く。彼らは間違いなく消滅しなければならない。これこそが彼らを待ち受ける結末である。勝利を収めたわたしの愛する子らはシオンに留まり、すべての人が彼らの獲得するものを見る。そして大いなる栄光が、あなたがたの前に現れるだろう。まことにそれは素晴らしい祝福であり、語るのも難しい甘美さなのだ。

七つの雷鳴の轟きは、わたしを愛する者たち、わたしを心から求める者たちへの救いである。わたしに属する者たちと、わたしが予め定めて選んだ者たちは、みなわたしの名の下に集うことができる。彼らはわたしの声、すなわち神が呼びかける声を聞くことができる。地の果てにいる者たちに、わたしが義であり、誠実であり、慈愛であり、憐れみであり、威厳であり、燃え盛る炎であり、そして究極的に容赦ない裁きであることを知らしめなさい。

世のすべての人々に、わたしが実在する完全な神自身であることを知らせなさい。すべての人々は心から納得し、もう二度とわたしに抵抗しようとはせず、再びわたしを裁いたり中傷したりしようともしない。そのようなことをする者があれば、彼らはたちまち呪われ、災いが彼らに降りかかる。彼らは自らの破滅を招いたことで、ただ泣いて歯ぎしりするしかないのだ。

すべての人々に知らせなさい。全宇宙と地の隅々に、すべての家庭に、そしてすべての人に知らしめるのだ、全能神こそが唯一の真の神であることを。すべての人が代わるがわる膝をかがめてわたしを礼拝する。言葉を話し始めたばかりの幼子さえも、「全能神!」と呼び求める。権力を振りかざす官僚たちも、真の神の現れを目の当たりにし、そして彼らもまたひれ伏して礼拝し、憐れみと赦しを請うだろう。しかしそれはまさに手遅れである。彼らの崩壊の時が来たからだ。彼らはただ終わりを迎え、宣告を受けて計り知れぬ奈落の底へ落ちるしかない。わたしは時代そのものを終わらせ、わたしの国をいっそう強固にする。すべての国とすべての人々は、わたしの前に永遠に服従するのだ。

『神の出現と働き』「キリストの初めの言葉、第三十五章」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 56

全能なる真の神、玉座の王たる神は、全宇宙を支配し、すべての国と民に向き合っており、天下のあらゆるものは神の栄光を受けて光り輝く。宇宙、そして地の隅々に暮らすすべての生物が見るだろう。山々、川、湖、陸地、海、そしてすべての生き物は、真の神の顔貌が放つ光の中で自らの幕を開けた。彼らはみな夢から覚めるように、地中から現われる新芽のように生き返るのだ!

ああ! 唯一の真の神が世に現われ出る。あえて神に抵抗する者がいるだろうか。誰もが恐怖に震える。誰もが完全に確信を抱き、繰り返し赦しを乞う。すべての者が神の前にひざまずき、誰もが口々に神を崇める。大陸も海も、山も、川も、あらゆるものがいつまでも神を讃美する。暖かなそよ風と共に春が訪れ、繊細な春の雨をもたらす。すべての人と同様に、小川は悲しみと喜びを織り交ぜて流れ、負い目と自責の念に涙を流す。川も、湖も、打ち寄せる波やうねりも、すべてが真の神の聖なる名を讃えて歌っている。讃美の音が鮮やかに響き渡る。かつてサタンに堕落させられた古いものは一つ残らず新たにされ、変化し、真新しい領域に入ることになる……

これは聖なるラッパであり、すでに鳴り始めた。耳を傾けなさい。その甘美な音色は玉座から発せられる声であり、すべての国と民に、時が来たこと、終末が来たことを告げている。わたしの経営(救いの)計画は終わった。わたしの国は公然と地上に現われ出た。この世の国は神であるわたしの国となった。わたしの七つのラッパが玉座から鳴り響くと、そうした驚くべきことが起こる。世界の隅々に暮らす人たちが、雪崩のような勢いと落雷のような力でもって、あらゆる方向から押し寄せる。

わたしの声を聞いて、あらゆる国や土地から集まってくるわたしの民を、わたしは喜びと共に見渡す。すべての人は真の神の名を口ずさみながら讃美し、喜びにとめどもなく跳ね回る。彼らは世界に向かって証しをし、真の神を証しするその声は無数の川の轟音のようだ。すべての人がわたしの国に押し寄せて来るのだ。

わたしの七つのラッパは鳴り響き、まどろむ人々を目覚めさせる。早く起きなさい、まだ間に合う。自分のいのちに目を向けなさい。目を開けて、今何時か見てみなさい。何を探し求めるべきか。何を考えるべきか。そして何にこだわるべきか。わたしのいのちを得ることと、自分が愛しこだわるものをすべて得ることの、価値の違いを考えたことがないのか。わがままをやめ、遊び回るのもやめなさい。この機会を逃してはならない。この時は二度とやって来ない。今すぐ立ち上がり、自分の霊を鍛える努力をしなさい。さまざまな手段でサタンのあらゆる企みやごまかしを見抜いて阻止し、サタンに打ち勝つことで、いのちの経験を深め、わたしの性質を生き、いのちを熟成して円熟させ、いつもわたしの足跡をたどれるようになりなさい。落胆せず、気弱にならず、まっすぐに道の果てまで一歩一歩絶えず前進しなさい。

七つのラッパが再び鳴り響くとき、それは裁きへの呼び出しである。それは反逆の子らに対する裁きであり、すべての国と民に対する裁きであり、各国は神の前にひれ伏すことになる。神の輝かしい顔貌は、必ずやすべての国と民の前に示されるだろう。誰もが完全なる確信を抱き、真の神に向かっていつまでも叫ぶことだろう。全能の神の栄光はますます輝き、わたしの子らとわたしはその栄光を分かち合い、王権を共有し、すべての国と民を裁き、悪人を罰し、わたしに属する人々を救って憐れみをかけ、神の国に堅固さと安定をもたらすだろう。七つのラッパの音を通じ、大勢の人が救われ、わたしの前に戻ってひざまずき、絶えず褒め称えつつ崇拝するだろう!

七つのラッパがもう一度鳴り響くとき、それは一つの時代の最終章であり、悪魔サタンに対する勝利を示すラッパの大音響が、地上の神の国において開かれた生活が始まったことを告げる礼砲となる。その気高い音は玉座の周りで反響し、天地を揺るがすこのラッパの大音響は、わたしの経営(救いの)計画の勝利を象徴すると同時にサタンの裁きとなり、この古い世界に完全な死と底なしの穴への逆戻りを宣告する。このラッパの大音響が意味するものは、恵みの門が閉まりつつあること、そして地上で神の国の暮らしが始まることであり、それは正しく正当なことだ。神を愛する人々を神は救う。彼らが神の国に戻ると、地上の人々は飢饉と疫病に直面し、神の七つの鉢と七つの疫病が次々に効力を生じることになる。天と地は消え去るが、わたしの言葉は決して消え去らない!

『神の出現と働き』「キリストの初めの言葉、第三十六章」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 57

終わりの日のキリストはいのちをもたらし、変わることなく永遠に続く真理の道をもたらす。人はこの真理を通していのちを得ることができ、この真理を通してのみ、神を知り、神に良しと認められる。終わりの日のキリストが与えるいのちの道を求めないなら、あなたは決してイエスに良しと認められず、天国の門をくぐる資格も得られない。なぜなら、あなたは歴史の操り人形であり、歴史に囚われた人だからである。規則や文字に支配され、歴史に束縛される者は、決していのちを得ることができず、永遠のいのちの道も得られない。と言うのも、彼らがもっているのはどれも、玉座から流れるいのちの水ではなく、何千年も執着してきた汚水だからである。いのちの水を施されない者は永遠に死体であり、サタンの玩具であり、地獄の子である。そのような者がどうして神を目にできようか。ひたすら過去にしがみつき、足踏みしながら現状を維持しようとし、現状を変えて歴史を棄てようとしないなら、あなたは絶えず神に反することになるのではないか。神の働きの歩みは、押し寄せる波や轟く雷鳴のごとく広大で力強い。それでも、あなたは自分の愚かさに固執して何もしないまま、座して滅びを待っている。このままで、あなたは小羊の足跡に従う者だと見なされようか。あなたが神として固執するものが、常にあたらしく古びない神だと正当化できようか。あなたの黄ばんだ本の言葉があなたを新しい時代に運んでくれることがあろうか。神の働きの歩みをたどれるよう導いてくれようか。そして、それらがあなたを天国に引き上げられるだろうか。あなたがその手でつかんでいる物は、つかの間の慰めを与えられる文字でしかなく、いのちを与えられる真理ではない。あなたが読む聖句は、あなたの舌を肥やせるだけで、あなたが人生を知るうえで助けとなる哲学の言葉ではなく、ましてやあなたを完全にするよう導く道などではない。この食い違いを見て、あなたはよく考えてみようとは思わないのか。そこに含まれる奥義をあなたに理解させることはないのか。あなたは、自分で自分を天に引き上げ、神に会わせることができるのか。神が来なくても、あなたは自らを天に引き上げ、神と共に家族の幸福を楽しむことができるのか。あなたはいまだに夢を見ているのか。それなら、わたしは勧める。夢を見るのを止めよ。今働いているのが誰かを見よ。今、終わりの日に人を救う働きをしているのが誰かを見よ。そうしなければ、あなたが真理を得ることは決してなく、いのちを得ることも決してない。

キリストが語る真理に頼ることなくいのちを得たいと望む者は、地上で最も愚かな者であり、キリストがもたらすいのちの道を受け入れない者は、幻想の世界で迷子になった者である。ゆえにわたしは、終わりの日のキリストを受け入れない者は神から永遠に忌み嫌われると言う。キリストは、人が終わりの日に神の国へと入る門であり、それを迂回できる者は誰一人いない。キリストを通してでなければ、誰も神によって完全にされることはない。あなたは神を信じているのだから、神の言葉を受け入れ、神の道に従わなければならない。真理を受け取ることも、いのちの施しを受け入れることもできないのに、祝福を得ることだけを考えることはできない。キリストは、自身を真に信じる者にいのちを施せるよう、終わりの日に来る。その働きは、古い時代を終わらせ新しい時代に入るためのもので、新しい時代に入る人が必ず進まなければならない道である。キリストを認められず、非難したり、冒涜したり、さらには迫害したりするなら、あなたは永遠に火で焼かれなければならず、神の国には決して入れない。このキリストこそが聖霊の顕現であり、神の顕現であり、神が地上での働きを託した者だからである。したがって、終わりの日のキリストによってなされる一切のことを受け入れられないなら、あなたは聖霊を冒涜しているとわたしは言う。聖霊を冒涜する者が受ける報いは、誰の目にも自明である。これもあなたに言っておくが、あなたが終わりの日のキリストに抵抗し、終わりの日のキリストを足蹴にするなら、その結末をあなたに代わって引き受ける人は誰もいない。さらに、これから先、あなたが神に認めてもらう機会はない。たとえ自らの罪を贖おうとしても、あなたが神の顔を拝することは二度とない。なぜなら、あなたが抵抗したのは人ではなく、あなたが足蹴にしたのは卑小な存在ではなく、他でもないキリストだからである。あなたはその結末がどのようなものか知っているのか。あなたが犯すのは小さな過ちではなく、重罪である。だから、わたしはすべての人に忠告する。真理の前に牙をむき出したり、軽率に批判したりしてはいけない。あなたにいのちをもたらせるのは真理以外になく、あなたが生まれ変わり、再び神の顔を仰げるようにするものは、真理以外にはないからである。

『神の出現と働き』「終わりの日のキリストだけが人に永遠のいのちの道を与えられる」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 58

わたしの奥義が明らかになり、公けに現れ、もはや隠されていないのは、完全にわたしの恵みと憐れみによる。さらに、わたしの言葉が人に現れ、もはや覆い隠されていないのも、わたしの恵みと憐れみによる。心からわたしのために尽くし、わたしに身を捧げるすべての者をわたしは愛する。わたしから生まれていながらわたしを知らず、わたしに反抗さえするすべての者をわたしは憎む。心からわたしのためにある者をわたしは誰一人捨て去ることなく、それどころかその祝福を二倍にする。恩知らずでわたしの思いやりを無にする者には二倍の懲罰を与え、容易に赦しはしない。わたしの国には何の不正も欺瞞もなく、世俗性もない。つまり、死臭は存在しない。かわりにすべては清廉かつ義であり、すべては純粋で開放されており、何一つ隠されず覆われてもいない。すべてが新鮮で、すべてが喜びであり、すべてが高揚である。それでもまだ死人の臭いを漂わせる者は誰であれわたしの国に残ることはできず、わたしの鉄の杖に支配される。太古の昔から今日に至るまでの、すべての終わりなき奥義があなたがた、終わりの日にわたしのものとされる人の集団に完全に明らかにされている。祝福されていると感じるのではないか。すべてが公けに明らかにされる日は、また、あなたがたがわたしの統治に加わる日である。

王として真に統治する人の集団は、わたしの予定と選択にかかっており、そこに人の意志は一切関わらない。これにあえて参加する勇気があるならば、わたしの手による一撃を受けなければならず、そのような者はわたしの激しい火にさらされる。これはわたしの義と威厳のもう一つの側面である。わたしはすべてを支配しており、完全な権威をふるう知恵のある神であり、誰に対しても情け深くないと言った。わたしはまったく非情であり、私情は一切持ち合わせない。わたしは誰であろうとも(どれほど口が上手でも容赦しない)わたしの義と清廉と威厳をもって扱い、同時にわたしの業の不思議と、わたしの業が意味するものがすべての者にさらによく見えるようにする。わたしは悪霊を一つずつ、それらが犯したあらゆる行いゆえに懲罰し、それぞれを奈落の底へ投げ落とした。わたしはこの働きを時が始まる前に終え、それらから地位を奪い、業を行う場所を奪った。わたしの選民、つまりわたしが予定し選択した者の誰一人として悪霊に取りつかれることはなく、常に聖くある。わたしが予定し選択していない者はサタンに引き渡し、これ以上留まることは許さない。わたしの行政命令にはあらゆる面で、わたしの義と威厳が関わっている。わたしはサタンの働きを受けている者を誰一人として見逃さず、その体ごと冥府へ投げ落とす。わたしはサタンを憎むからである。サタンを決して簡単に許しはしないどころか、徹底的に打ち破り、その業を行う機会を一切与えない。サタンがある程度まで堕落させた者(すなわち災いを被ることになる者)は、わたしの手による賢明な采配のもとにある。これをサタンの凶悪さの結果として起こったことだと考えてはならない。わたしは全宇宙と万物を支配する全能神であることを知りなさい。わたしに解決できない問題はなく、まして成し遂げられないことや、発せられない言葉などない。人間はわたしの助言者であるかのように振る舞ってはならない。わたしの手に打ち倒され、冥府に落とされないよう注意しなさい。あなたに言う。今日わたしと積極的に協力している者がもっとも賢いのであり、彼らは損失を免れ、裁きの痛みを逃れる。これはすべてわたしの采配であり、わたしが予定していることである。軽率な発言をせず、自分を偉大だと思って大げさに語ってはいけない。これらはすべてわたしの予定によるのではないのか。わたしの助言者気取りのあなたがたは、恥知らずである。あなたがたは自分の霊的背丈を知らないが、それはなんと哀れなまでに小さいことか。それでもそれを大したことではないと考えており、おのれを知らない。あなたがたは幾度となくわたしの言葉を無視し、わたしの血のにじむような努力を無駄にして、その言葉がわたしの恵みと憐れみの表明であることに少しも気づかなかった。そのかわりに、何度となく自分の利口さを見せつけようとする。このことを覚えているか。自分をとても賢いと思っている人が受けるべき刑罰は何か。あなたがたはわたしの言葉に無関心で不実で、言葉を心に刻みもせず、わたしを自分のさまざまな行為の言い訳にする。悪人たちよ! いつになったら、わたしの心を十分に思いやれるようになるのか。あなたがたはわたしの心など気にも留めないのだから、「悪人」と呼ぶのはひどい扱いではない。ぴったりの呼び名である。

今日わたしはあなたがたに、かつて隠されていたものを一つ一つ見せている。赤い大きな竜は奈落の底に落とされ、完全に打ち倒される。生かしておいても何の役にも立たないからである。すなわちキリストに奉仕することができないということである。これ以降、赤いものは存在しなくなる。それらは徐々に無に帰さなければならない。わたしは言うとおりに行う。これはわたしの働きの完結である。人間の観念を捨てなさい。わたしは言ったことをすべて行なった。利口になろうとする者は誰でも、自らに破滅と侮蔑をもたらしているだけであり、生きたいとは思っていない。そのため、わたしはその願いを叶え、そのような人を断じて残しておかない。それ以後は、人々は優秀度を増すが、わたしと積極的に協力しない者はみな一掃されて無に帰すことになる。わたしが認めた者を、わたしは完全にし、誰一人として投げ捨てない。わたしの言うことに矛盾はない。わたしと積極的に協力しない者はさらなる刑罰を受けるが、最終的には間違いなく彼らも救う。しかしそのときには、彼らのいのちの程度は大きく変わっている。そのような人になりたいか。立ち上がってわたしに協力しなさい。わたしは心からわたしのために尽くす者を決して粗末には扱わない。わたしに本気で自分自身を捧げる者には、わたしの祝福をすべて授ける。あなた自身を完全にわたしに捧げなさい。食べるもの、着るもの、そして未来はすべてわたしの手の中にある。わたしはすべてを正しく計らうので、あなたは終わりのない喜びを得られ、それは決して尽きることがない。それはわたしが、「心からわたしのために尽くす者よ、わたしは必ずあなたを大いに祝福する」と言ったからである。あらゆる祝福が、わたしのために心から尽くす一人ひとりに与えられる。

『神の出現と働き』「キリストの初めの言葉、第七十章」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 59

あまたの民がわたしに喝采を送り、わたしを賛美する。万民が唯一の真なる神の名を呼び、わたしの業を仰ぎ見る。神の国が人の世に降臨し、わたしの本体は豊かで充実している。誰がこれを喜ばないのか。誰が歓喜のあまり踊らないのか。ああ、シオンよ。勝利の旗を掲げてわたしを祝え。勝利の歌を歌いあげ、わたしの聖なる名を広めよ。地の果てまでも存在するすべての被造物よ。直ちに自らを清めてわたしへの捧げ物となれ。天の星よ。直ちにもとの位置に戻り、わたしの全能なる力を天空に示せ。わたしは地上の民の声に耳を傾ける。わたしへの無限の愛と畏れを歌に注ぐ民の声に。すべての被造物が蘇るこの日、わたしは人の世に降臨する。この瞬間、まさにこの節目、すべての花が一斉に咲き乱れ、すべての鳥が声を揃えて歌い、すべてのものが喜びに打ち震える。神の国の礼砲が鳴り響くと、サタンの国はよろめき倒れ、神の国の賛歌がとどろく中で滅び、二度と立ち上がることはない。

地上の誰があえて立ち上がり抵抗するというのか。地に降り立つわたしは焼き尽くす火をもたらし、怒りをもたらし、ありとあらゆる災難をもたらす。地上の国々はいまやわたしの国である。空の雲は激しく動いて渦を巻き、地の湖と川はうねりをあげ、感動的な旋律を喜んで奏でる。休んでいた動物はねぐらから現われ、万民はわたしにより眠りから呼び覚まされる。万民の待ち望んでいた日がついに来た。彼らは最も美しい歌をわたしに捧げるのだ。

この美しい瞬間、この心躍るとき、

賛美が天地のあらゆるところで鳴り響く。誰が興奮しないだろうか。

誰の心が明るくならないだろうか。誰がこの光景に涙を流さないだろうか。

空はかつての空でなく、いまや神の国の空である。

地はかつての地でなく、いまや聖なる大地である。

激しい雨が降ったあと、汚れた古い世界は何もかも新しくされる。

山が変わりゆく……水が変わりゆく……

人も変わりゆく……万物が変わりゆく……

ああ、汝静かなる山々よ。立ち上がってわたしのために踊れ。

ああ、汝静かなる水よ。絶えず自由に流れよ。

汝、夢を見ている人間よ。起きあがり追え。

わたしは来た……わたしは王……

全人類がその目でわたしの顔を見、その耳でわたしの声を聞く。

そして自ら神の国の生活を送る……

何と甘美なことか……なんと美しいことか……

忘れられない……忘れることなどできない……


わたしの怒りが燃えさかる中、赤い大きな竜はのた打ち回る。

威厳に満ちたわたしの裁きにおいて、悪魔はその正体を現わす。

わたしの厳格な言葉に人はみな深く恥じ入るが、どこにも隠れる場所がない。

人は過去を振り返り、いかにわたしを嘲りあざ笑ったかを思い出す。

人が自己顕示しなかったときはなく、わたしに挑まなかったときもない。

今日、泣いていない者がいるのか。自責の念を感じない者がいるのか。

全宇宙、全世界が泣き声で満たされる……

歓喜の声で満たされる……笑い声で満たされる……

比類なき喜び……比べるものなき喜び……


小雨がしとしと降り……大雪がしんしん降る……

人は悲喜こもごも……笑う者……

泣きじゃくる者……歓喜する者……

誰もが忘れてしまったかのよう……いまが雨と雲に満ちた春なのか、

花が咲き誇る夏なのか、豊かな収穫の秋なのか、

凍えるような冬なのか、誰一人知る者はいない……

空には雲が流れ、地では海がうねりをあげる。

子らは腕を振り……民は足を動かして踊る……

天使は働きにいそしみ……牧養している……

地では人々はみな忙しく立ち回り、地の万物はその数を増す。

『神の出現と働き』「全宇宙への神の言葉、神の国の賛歌」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 60

人類の誰もが、わたしの霊に吟味されることを受け入れ、自分のすべての言葉と行動を細かく調べ、さらに、わたしの驚くべき行いを見なければならない。神の国が地上に来るとき、あなたがたは、どのように感じるだろうか。わたしの子らと民がわたしの玉座に流れ込んで来るとき、わたしは大きな白い玉座の前の裁きを正式に始める。つまり、自ら地上での働きを開始し、裁きの時代が終わりに近づくと、わたしの言葉を全宇宙に向け始め、わたしの霊の声を全宇宙に放つということだ。わたしの言葉を通して天と地のすべての人々と物事を洗い清め、地はもはや穢れと淫乱の地ではなく、聖なる国である。わたしはすべてを新たにし、わたしが用いることができるようにし、もはや地上の息を含まず、もはや土のにおいに汚れていないようにする。地上では、人間はわたしの言葉の目的と根源を手探りし、わたしの業を観察したが、誰一人ほんとうにわたしの言葉の根源を知らず、誰一人わたしの業のすばらしさを真に見ていない。ようやく今日、わたしが自分で人間たちの間に来て言葉を発してはじめて、人間はわたしについてわずかの認識を得、彼らの考えの中で「わたし」が占める場所を取り去り、それに代わり、意識の中に実際の神のための場所を作ったのだ。人間には観念があり、好奇心に満ちている。誰が神を見ることを望まないだろう。誰が神に会うことを望まないだろう。しかし、人間の心に確かな位置を占めるのは、ただ人間がぼんやりと抽象的に感じている神なのだ。わたしが平明に告げなければ、誰が気づくだろう。わたしがほんとうに存在していると、確信を持って、一点の疑いさえもなく、誰がほんとうに信じるだろう。人間の心にある「わたし」と実際の「わたし」との間には大きな隔たりがあり、誰一人、その二つの違いを述べることができない。わたしが受肉しなければ、人間はけっしてわたしを知らず、たとえわたしを知るようになったとしても、そうした認識はやはり観念なのではないだろうか。わたしは毎日、とだえることのない人間の流れの中を歩き、毎日、すべての人の中で働く。人間が真にわたしを見ると、わたしの言葉の内にわたしを知り、わたしの語る方法、わたしの心を理解する。

神の国が正式に地上に着くと、すべての中で、何が沈黙しないだろう。すべての人の中で、誰が恐れないだろう。わたしは宇宙世界のいたるところを歩き回る。すべては、わたしが自分で定めた。このとき、誰が、わたしの業がすばらしいものだと知らないだろう。わたしの手はすべてを支え、同時に、すべての上にある。今日、わたしの受肉とわたしが実際に人間の間にいることとは、わたしの謙遜さと神秘のほんとうの意味なのではないか。表向きには、多くの人がわたしを善であるとしてたたえ、美しいとほめるが、誰がほんとうにわたしを知っているのか。今日なぜわたしは、あなたがたがわたしを知るように要求するのか。わたしのねらいは赤い大きな竜を辱めることではないのだろうか。わたしは、人間にわたしをたたえるよう強制はしたくない。しかしわたしを知り、それを通じてわたしを愛するようにさせ、そうしてわたしをたたえるようにする。そのようなたたえはその名にふさわしく、むなしい言葉ではない。そのようなたたえだけが、わたしの玉座に届き、天に昇るのだ。人間はサタンに誘惑され、堕落させられたから、人間は観念と思考に囚われてしまったから、わたしは自分で全ての人間を征服し、人間の観念を暴き、人間の考えを引き裂くために受肉したのだ。その結果、人間はもはやわたしの前で誇示せず、それ以上自分の観念でわたしに仕えることをしなくなる。そうして、人間の観念の中にある「わたし」は完全に取り除かれる。わたしの国が来るとき、わたしが最初にするのはこの段階の働きを開始することであり、それをわが民の間で行う。あなたがたは赤い大きな竜の国に生まれたわが民であり、まことにあなたがたの中の赤い大きな竜の毒素は、ほんの少しでも、一部だけでもない。だから、わたしの働きのこの段階は、主にあなたがたに集中する。そして、これがわたしの中国での受肉の意義の一面なのだ。たいていの人は、わたしの語る言葉のかけらも理解できない。そして、たとえできたにしても、彼らの理解は曖昧で混乱している。これは、わたしの話す方法の転換点だ。もしすべての人がわたしの言葉を読み、その意味を理解できるなら、誰が救われて、ハデスに投げ落とされずに済むだろう。人間がわたしを知り、従うとき、それはわたしが憩うときであり、人間がわたしの言葉を理解できるまさにそのときである。今日、あなたがたの霊的背丈は低すぎる――それは哀れなほどに小さく、わざわざ引き上げる価値もない――あなたがたのわたしについての認識は言うまでもない。

『神の出現と働き』「全宇宙への神の言葉、第十一章」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 61

東から稲妻が走るとき、これはまた、わたしがわたしの言葉を口にし始める、まさにその瞬間である――稲妻が光るそのとき、宇宙全体が照らされ、すべての星々に変化が起こる。全人類はあたかも選り分けられ、整理されたかのようである。東からの光芒の下、人間はみな本来の形を現し、目がくらみ、どうしていいかわからず、まして、自らの醜い顔を隠す方法などわからない。また、彼らはわたしの光から逃げて山の洞窟に隠れようとする動物のようだ――しかし、わたしの光の中では、彼らの一人も姿を消せない。人間はみな仰天し、みなじっと待ち、みな見守っている。わたしの光の出現により、みな自分の生まれた日を喜び、同様に、みな自分の生まれた日を呪う。対立する感情は表現し難い。自己懲罰の涙が川と流れ、勢いの早い流れとなって運ばれ、即座に跡形もなくなる。再び、わたしの日が全人類の上に迫り、再び、人類を目覚めさせ、人類は別の新たな始まりを迎える。わたしの心臓が拍動し、その鼓動にしたがって、山々が喜びに飛び上がり、水が喜びに踊り、波が岩礁を叩く。わたしの心にあるものを言い表すのは困難だ。わたしは、わたしの視線ですべての穢れたものを燃え上がらせて灰とし、不従順の子ら全員が、わたしの目の前から一掃され、それ以上存在しなくなるようにすることを望む。わたしは赤い大きな竜のすみかに新たな始まりをもたらしたばかりではなく、全宇宙で新たな働きを始めた。間もなく、地上の国々がわたしの国となる。間もなく、地上の国々はわたしの国故に永遠に存在しなくなる。わたしがすでに勝利を得たのだから。わたしが勝利のうちに戻ったのだから。赤い大きな竜は、地上でのわたしの働きを打ち消そうと、わたしの計画を妨げるために考え得るあらゆる手段を用いたが、わたしが竜の欺きに満ちた策略のせいでくじけるだろうか。わたしが竜の脅しに怯え、自信を失うだろうか。天にも地にも、わたしのたなごころに握られていないものは一つもない。赤い大きな竜、わたしの引き立て役となっているものは、なおさらではないか。これもまた、わたしの手の中で操れるものではないのか。

わたしが人間の世界で受肉していた間、人間はわたしの導きの下、知らず知らずのうちにこの日に至り、それと知らぬうちに、わたしを知るようになった。しかし、前に続く道をどう歩むかということは、誰にもわからず、誰も気づかない――まして、その道がどこに続いているかについては、誰も見当がつかないのだ。全能者の見守りがあってはじめて、人はその道を最後まで歩むことができる。東の稲妻に導かれてはじめて、人はわたしの国につながる敷居を跨ぐことができる。人間たちの間に、わたしの顔を見た者、東に稲妻を見た者は誰もいない。わたしの玉座から発せられる声を聞いた者は、それよりどれほど少なかっただろう。実際、古代の時から、わたしの本体に直接触れた人間は一人もいない。今日初めて、わたしがこの世界に来た今、人間はわたしを見る機会を得る。しかし、今でも、人間はまだわたしを知らず、わたしの顔を見、声を聞くだけで、わたしが意味するところを理解していない。人間はみな、そういうふうなのだ。わが民として、あなたがたは、わたしの顔を見て、大いに誇りを感じるのではないか。また、わたしを知らないことに惨めな恥ずかしさを覚えないだろうか。わたしは人間の間を歩き、人間の間で暮らす。わたしは受肉し、人間の世界に来たからだ。わたしの目的は、ただ人間がわたしの肉の体を見られるようにするだけではない。より重要なことは、人間がわたしを知ることができるようにすることだ。さらに、わたしは肉の体を通して、人間に対して有罪判決を下す。受肉した体によって、赤い大きな竜を打ち破り、そのすみかを一掃する。

『神の出現と働き』「全宇宙への神の言葉、第十二章」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 62

全宇宙の人々は、わたしの日の到来を祝い、天使たちがすべてのわたしの民たちの間を歩く。サタンが問題を起こすと、天使たちが天での仕えにより、いつでもわが民を助ける。彼らは人間の弱さのせいで悪魔に欺かれることはないが、闇の勢力の攻撃のせいで、よりいっそう霧の中で人生を経験しようと努める。わが民たちはみな、わたしの名の下に従い、誰もけっして公然とわたしに敵対しようと立ち上がらない。天使たちの働きにより、人間はわたしの名を受け入れ、みな、わたしの働きの流れの中にいる。世界は崩壊しつつある。バビロンは麻痺している。あぁ、宗教界よ。どうしてこれが、わたしの地上の権威により破壊されないことがあろう。誰がまだわたしに逆らい、敵対しようとするのか。律法学者たちか。すべての宗教幹部か。地上の支配者や権力者か。天使たちか。誰がわたしのからだの完全さと豊かさをたたえないだろう。すべての民の中で、誰がわたしの讃えをやむことなく歌わず、誰がいつでも幸福でないのか。わたしは赤い大きな竜のすみかのある国に住んでいる。しかし、わたしはそれで恐れに震えたり、逃げたりはしない。その民がみな、すでに赤い大きな竜を嫌い始めているからだ。竜のために、竜の前でその「本分」が何か尽くされたことはない。その代わり、みな自分がふさわしいと思う振る舞いをし、それぞれの道を進んでいる。どうして地上の国々が滅びないことがあろう。どうして地上の国々が倒れないことがあろう。どうしてわが民が歓声を上げないことがあろう。どうして喜びに歌わないことがあろう。これが人間の働きだろうか。これが人の手のしていることだろうか。わたしは人間に生存する基盤を与え、物質的なものを与えた。しかし、人間は現在の状況に不満で、わたしの国に入らせてほしいと頼む。しかし、代価を払うことなく、無私の献身をささげることを望まないで、どうしてそう容易にわたしの国に入れるだろう。人間から何かを取り立てる代わりに、わたしは人間に条件を出し、地上のわたしの国が栄光に満ちるようにする。人間はこの時代までわたしが導いてきた。人間はこのような状況にあり、わたしの光の導きの只中にいる。そうでなければ、地上の人々の誰が、自分たちの前途を知るだろう。誰がわたしの心を理解するだろう。わたしは人間の要求にわたしの条項を加える。これは、自然の法則に適うことではないのか。

『神の出現と働き』「全宇宙への神の言葉、第二十二章」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 63

わたしの国では、無数の被造物がよみがえりを始め、生気を取り戻す。地上の状態が変化したため、地と地の境界にもまた、変化が起こる。地が地から離れ、地が地とつながるとき、わたしはすべての国を粉々に打ち砕くと、わたしは預言した。このとき、わたしはすべての被造物を新たにし、全宇宙を区切りなおす。それにより、全宇宙を秩序立て、古いものを新しいものに変える――これがわたしの計画であり、これらがわたしの業である。国々と世界の人々がみな、わたしの玉座の前に戻ると、わたしは天の富をすべて取って人間の世界に与え、わたしによって、その世界が比類なき富にあふれるようにする。しかし、古い世界が存続する限り、わたしは国々の上に怒りを投げつけ、わたしの行政命令を全宇宙に公布し、違反する者には刑罰を下す。

わたしが全宇宙に面と向かって話すと、人間はみなわたしの声を聞き、そこで、わたしが全宇宙で行なってきたすべての働きを見る。わたしの旨に逆らう者、つまり、人間の行ないでわたしに敵対する者は、わたしの刑罰を受けて倒れる。わたしは天の無数の星々を取ってそれらを新しくし、またわたしのおかげで、太陽と月は新たになる――空はもはや以前の空ではなく、地上の無数の物事が新たになる。すべては、わたしの言葉により完全になる。全宇宙の多くの国々は新たに区切られ、わたしの国に置き換わる。それにより、地上の国々は永遠に消え去り、すべてがわたしを崇める一つの国になる。地上のすべての国々は滅ぼされ、存在しなくなる。全宇宙の人間のうち、悪魔に属する者はみな、滅ぼし尽くされる。サタンを崇める者はみな、わたしの燃える炎に倒れる――つまり、今、流れの中にいる者以外は、みな灰になるのだ。わたしが多くの民を罰するとき、宗教界にいる者は、わたしの働きによって征服され、程度の差はあれ、わたしの国に戻る。彼らは聖なる方が白い雲に乗って降臨するのを見たからである。すべての人がその種類に応じて選り分けられ、それぞれの行いにふさわしい刑罰を受ける。わたしに敵対した者たちは、みな滅びる。地上での行ないがわたしと関わりのなかった人たちは、自分たちの振る舞いのために、わたしの子らとわが民による支配の下、地上で存在し続ける。わたしは無数の人々と無数の国々にわたしを現わし、自ら地上に声を発してわたしの大いなる働きの完了を告げ、全人類が自分の目でそれを見られるようにする。

わたしの話が深くなる中で、わたしはまた宇宙のありさまも観察する。わたしの言葉によって、無数の被造物がみな新たになる。地と同じように天も変わる。人間は本来の形を現し、各人はゆっくりと、それぞれの種類に応じて分けられ、知らぬ間に家族のもとに戻っていく。それに、わたしは大いに喜ぶだろう。わたしは妨げられることなく、わたしの大いなる働きは知らぬ間に成し遂げられ、無数の被造物は変化する。わたしが世界を創ったとき、わたしはすべてのものをそれぞれに創った。すべての形あるものをそれぞれの種類に集まるようにした。わたしの経営(救いの)計画が終わりに近づくと、天地創造当初の状態を回復させ、すべてを本来の姿に戻す。すべては大きく変わり、すべてはわたしの計画の内に戻る。時は来た。わたしの計画の最後の段階が成し遂げられようとしている。ああ、不浄な古き世界。必ずや、わたしの言葉の下に倒れる。必ずや、わたしの計画で無になる。ああ、無数の被造物たち。あなたがたは、みな、わたしの言葉の内で新たないのちを得る。あなたがたには主を持つのだ。ああ、純粋でしみ一つない新たな世界。必ずやわたしの栄光の中でよみがえる。ああ、シオンの山よ。これ以上沈黙するな――わたしは勝利のうちに帰ってきた。被造物の中から、わたしは全地を調べる。地上で、人間たちは新たな生活を始め、新たな希望を得た。ああ、わが民よ。どうして、あなたがたがわたしの光の中で復活しないでいられようか。どうして、あなたがたがわたしの導きの下、喜びに跳ね上がらないことがあろうか。地は歓喜の声を上げ、水は楽しい笑い声を響かせる。ああ、よみがえったイスラエルよ。わたしの定めをどうして誇りに感じないことがあろう。誰が泣いたのか。誰がうめき声を上げたのか。かつてのイスラエルは、もうない。そして、今日のイスラエルは立ち上がった、この世にまっすぐそびえ立ち、すべての人間の心の中に立ち上がった。今日のイスラエルは必ずや、わが民を通じて存在の源を得る。ああ、忌まわしいエジプトよ。まことに、もうわたしに敵対はしないだろう。どうしてわたしの憐れみを利用してわたしの刑罰を免れようとするのか。どうしてわたしの刑罰の内に存在できないのか。わたしの愛する者はみな、必ずや永遠に生き、わたしに敵対する者はみな、必ず永遠に刑罰を受ける。わたしはねたみ深い神だから、わたしは人間の行いを軽々しく赦さない。わたしは地上すべてを観察し、世界の東に義と威厳、怒り、刑罰をもって現れ、無数の人間たちにわたしを現す。

『神の出現と働き』「全宇宙への神の言葉、第二十六章」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 64

天使たちがわたしを称えて音楽を奏でる時、それは人に対するわたしの同情を掻き立てずにはいられない。たちどころにわたしの心は悲しみで満たされ、このつらい感情をわたしから取り除くことはできない。人と切り離され、その後再会する喜びと悲しみの中で、わたしたちは感情を交わすことができない。上にある天と、下にある地とに引き離され、人とわたしが会えることは滅多にない。過去の感情に対する懐古の情から誰が抜け出せよう。過去の思い出にふけるのを誰がやめられよう。過去の感慨が続くことを誰が望まないだろう。わたしの再臨を誰が切望しないだろう。わたしと人の再会を誰が待ち焦がれないだろう。わたしの心は深く悩み、人の霊には深い憂いがある。霊においては似ていても、わたしたちはあまり一緒にはいられないし、頻繁に会うこともできない。だから、人類の人生はどれも悲しみに満ち、活力に欠けている。人がいつもわたしを渇望してきたからである。人間はあたかも天から叩き出された物体のようである。彼らは地上でわたしの名を呼び、地上からわたしを見上げる。しかし、どうしたら彼らはひどく飢えた狼の口から逃れられるだろう。どうしたら彼らは狼の脅しや誘惑から逃れることができるだろう。わたしの計画の采配に従うがゆえに、人間はどうして自分を犠牲にしないでいられようか。彼らが大声で懇願するとき、わたしは彼らから顔をそむけ、もはや見つめることに耐えられない。しかし、どうして彼らの涙ながらの叫びを聞かずにいられようか。わたしは人間世界の不正な行為を正すつもりである。わたしは自分の手でわたしの働きを世界中で行い、サタンがわたしの民を再び害するのを許さないし、敵が何でも好き勝手に行うことを許さない。わたしは地上の王になり、玉座をそこに動かし、わたしのすべての敵を地面に倒し、わたしの前で彼らの罪を告白させる。わたしの悲しみに怒りが混じり合い、わたしは全宇宙を踏みつけて平らにし、誰も見逃さず、敵の心に恐怖を抱かせる。わたしは全世界を廃墟とし、敵をその廃墟に落とし入れるので、これ以降敵が人類を堕落させることはない。わたしの計画はすでに決定しており、誰も、何者であろうとも、それを変えてはならない。わたしが全宇宙の上方を堂々と荘厳に歩き回るとき、全人類は新しくなり、すべては復活する。もはや人が嘆くことはなく、助けを求めてわたしに叫ぶこともなくなる。そのとき、わたしの心は大いに喜び、人々はわたしを祝うために戻って来る。そして全宇宙が上から下まで喜びに湧きかえる……

今日、世界の国々で、わたしは成し遂げるべく着手した働きを行っている。わたしは人類の間で動き回り、わたしの計画にある働きを残らず行っており、すべての人間はわたしの旨にしたがって、世界のさまざまな国家を壊してばらばらにしている。地上の人々は自分自身の終着点にしっかり注意を向けている。その日が実際に近づきつつあり、天使たちがラッパを吹き鳴らしているからである。これ以上遅れることはなく、すべての被造物がすぐに歓喜して踊り始める。誰がわたしの日を自分の意志で引き延ばせるのか。地球の人間だろうか。それとも空の星だろうか。それとも天使だろうか。わたしがイスラエルの民の救いを始めようと声を発するとき、わたしの日は全人類の上にのしかかる。すべての人はイスラエルが戻るのを恐れる。イスラエルが戻るとき、それはわたしの栄光の日であり、すべてが変化し、新しくされる日でもある。義なる裁きがまもなく全宇宙に差し迫るにつれて、すべての人は臆病になって怯える。人間界では誰も義について聞いたことがないからである。義の太陽が現れると、東方に光が当てられ、次に光は全宇宙に当てられ、すべての人に到達する。人が本当にわたしの義を実行することができれば、恐れるものなどあるだろうか。わたしの民はみなわたしの日の到来を待っている。みなその日を心待ちにしている。彼らは、わたしが義の太陽としての役割に従って、すべての人類に報いをもたらし、人類の終着点を采配するのを待っている。わたしの国は全宇宙の上で形をなしつつあり、わたしの玉座は何億もの人々の心を統治する。天使たちの助けを借りて、わたしの偉業はまもなく実現される。わたしの子らとわたしの民は、みなわたしが戻るのを待ち切れず、自分たちが二度と切り離されないよう、わたしと再会することを切望している。わたしの国の多くの民が、わたしが自分たちと共にいるのを祝い喜んで、互いに駆け寄らずにはいられまい。これは代価を支払う必要のない再会なのだろうか。わたしはすべての人の目に尊敬すべき者として映り、すべての人の言葉にのぼる。そのうえ、わたしは戻るとき、すべての敵の力を征服する。時は来た。わたしは自分の働きを始動させ、わたしは人々の間にいて王として支配する。わたしは今まさに戻る。そしてわたしはまもなく立ち去る。これはすべての人が望んでいること、彼らが希望することである。わたしは全人類にわたしの日の到来を見させよう。すると彼らはみな、わたしの日の到来を喜びのうちに歓迎するはずだ。

『神の出現と働き』「全宇宙への神の言葉、第二十七章」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 65

万物が蘇った日、わたしは人間のあいだに来て、人間とともにすばらしい日夜を過ごしてきた。そのとき初めて、人間はわたしの親しみやすさを少しばかり感じる。そして交流がより頻繁になる中、わたしが所有するものとわたしそのものをいくらか知るようになり、その結果、わたしについて多少の認識を得る。すべての人のあいだで、わたしは頭を上げて見守り、彼らはみなわたしを見る。しかし、世界に災いが降りかかると、彼らはたちまち不安になり、彼らの心からわたしの姿が消える。災いの到来のせいで恐怖に駆られた彼らは、わたしの言いつけを聞こうとしない。わたしは何年も人間のあいだで過ごしたが、人間はいつもわたしに気づかず、決してわたしを認識しなかった。今日、わたしは自分の口で人間にこのことを話し、すべての人がわたしの前に来て、わたしから何かを受け取るようにさせるが、それでも彼らはわたしから距離を置くので、わたしを認識せずにいる。わたしの歩みが宇宙をまたぎ、地の果てへと至るとき、人間は自身を省みるようになり、すべての人がわたしのもとに来て、ひれ伏してわたしを崇める。これこそ、わたしが栄光を得る日、わたしが再臨する日、そしてまた、わたしが立ち去る日でもある。今、わたしは全人類のあいだで自身の働きにとりかかり、全宇宙でわたしの経営計画の仕上げを正式に開始している。この瞬間から後、注意深くない者は無慈悲な刑罰の中に落ちるのを免れず、これはいつでも起こり得る。わたしが無情だからではなく、むしろそれはわたしの経営計画の一段階であり、すべてはわたしの計画の各段階に沿って進められなければならない。そして誰一人、これを変えることができない。わたしが正式に働きを始めると、すべての人はわたしの動きに合わせて動く。そのようにして、全宇宙の人々はわたしと歩むことに没頭し、全宇宙に「歓声」が響き渡り、人間はわたしと共に勢いよく前進する。その結果、赤い大きな竜はうろたえ、狂乱し、わたしの働きに仕え、望まずとも、自分のしたいことができず、わたしの支配に従うしかなくなる。わたしの計画のすべてにおいて、赤い大きな竜はわたしの引き立て役、わたしの敵、そしてまた、わたしのしもべである。このように、わたしは竜への「要求」を緩めたことが一度もない。したがって、肉におけるわたしの働きの最終段階は、竜の家の中で完了するのである。このようにすれば、赤い大きな竜はよりよくわたしに仕えることができ、それによって、わたしは竜に打ち勝ち、計画を完了するのである。わたしが働く中、すべての天使がわたしとともに決戦に臨み、最終段階においてわたしの望みを成就させようと決意する。それにより、地上の人々は天使たちと同じくわたしの前で服従し、わたしに逆らおうという気持ちを一切持たず、わたしに逆らうことを何もしないようになる。それが全宇宙におけるわたしの働きの動態なのだ。

わたしが人間のもとに来る目的と意味は、全人類を救い、全人類をわたしの家に連れ帰り、天と地を再び一つにし、天地のあいだで人間に「合図」を伝えさせることである。それが人間本来の役目だからである。人類を創ったとき、わたしは人類のためにすべてを準備しており、後に、人類がわたしの要求に応じて、わたしの与える豊かさを受け取れるようにした。だからこそ、わたしの導きのもと、全人類が今日に至ったのだとわたしは言う。そして、これはすべてわたしの計画である。全人類のうち、無数の人がわたしの愛の加護の下で存在し、無数の人がわたしの憎しみの刑罰の下で生きている。人はみなわたしに祈るが、それでも現状を変えられずにいる。ひとたび希望を失うと、自然のなすがままとなり、わたしに逆らうのをやめる。人間にはそれしかできないからである。人間の生活状況について言えば、人間はいまだ真の人生を見出しておらず、世の不公平、荒廃、惨めな状態を見通していない。そのため、災いの到来がなければ、大半の人は依然として母なる自然を信奉し、「人生」の味わいにひたっていることだろう。これが世の現実ではないのか。これが、わたしが人間に向けて語る救いの声ではないのか。人類の誰一人として、真にわたしを愛したことがないのはなぜか。人間が、刑罰と試練のさなかにあるときだけわたしを愛し、わたしの加護の下にあるときは、誰もわたしを愛さないのはなぜか。わたしは何度も人類に刑罰を与えた。人間はそれを見ても無視し、その時にそれを調べることも、深く考えることもしない。そのため、人間には無慈悲な裁きだけが下る。これはわたしの働きの方法の一つに過ぎないが、それでも人間を変え、わたしを愛するようにさせるためのものなのだ。

『神の出現と働き』「全宇宙への神の言葉、第二十九章」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 66

わたしは神の国を支配し、さらに全宇宙を支配している。わたしは神の国の王であり、全宇宙の頭でもある。今から後、わたしは選民でない者をすべて集め、異邦人のあいだで働きを始める。そして、わたしの行政命令を全宇宙に告げ、わたしの働きの次なる段階を無事開始できるようにする。わたしは刑罰を用いて異邦人のあいだにわたしの働きを広める。つまり、異邦人である者たちには力を用いるということだ。当然、この働きは、選民たちのあいだでの働きと同時に進められる。わたしの民が地上で支配し、力を振るう時はまた、地上のすべての人が征服される日であり、そしてさらに、わたしが憩うときでもある。そのとき初めて、わたしは征服された全員の前に姿を現わす。わたしは聖なる国で姿を現わし、汚れの地では姿を隠す。征服され、わたしの前で従順になった者はみな、その目でわたしの顔を見ることができ、その耳でわたしの声を聞くことができる。これが終わりの日に生まれた者の恵み、わたしが予め定めた恵みであり、いかなる人間にも変えることができない。今日、わたしは将来の働きのために、このように働きを行なっている。わたしの働きはすべて相互に関連していて、そのすべてに呼びかけと反応がある。どの段階も突然止まったことはなく、またどの段階も他のものと独立して実行されたことはない。そうではないか。過去の働きは、今日の働きの基礎ではないのか。過去の言葉は、今日の言葉の先触れではないのか。過去の歩みは、今日の歩みの起源ではないのか。わたしが正式に巻物を開くとき、全宇宙の人々は罰せられ、世界中の人々が試練を受ける。それがわたしの働きのクライマックスである。すべての人が光のない場所で暮らし、またすべての人が環境の脅威にさらされながら生きる。つまりこれは、創世から現在に至るまで、人間が経験したことのない生活であり、すべての時代を通じて、こうした生活を「享受」した者は誰一人いない。だからわたしは、かつて行なわれたことのない働きをしたと言う。これが物事の実際の状況であり、その内なる意味である。わたしの日がすべての人類に近づいており、それは天の果てにあるのではなく人間の目の前にあるのだから、誰が結果として恐れずにいられよう。そして、誰がこれを喜ばずにいられよう。汚れたバビロンの都市はついに終わりを迎える。人間は真新しい世界に再び出会い、天と地は変わり、新たになった。

わたしが万国万民の前に現われるとき、白い雲が空で激しく渦を巻き、わたしを護る。また、地の鳥たちもわたしのために喜んで歌い踊り、地上の空気を生き生きとさせる。そうして、地上の万物に活気を与え、もはや「徐々に沈み込む」ことなく、代わりに活力のある雰囲気の中で生きられるようにする。わたしが雲の中にいると、人間はわたしの顔と目をうっすら認め、そのとき少しの恐怖を感じる。その昔、人間は伝説の中でわたしに関する歴史的記録を聞いたことがあり、その結果、わたしについて半信半疑である。わたしがどこにいるか、わたしの顔がどれほど大きいか、人間にはわからない。それは海ほど広いのか、それとも、緑の草原のように果てしないのか。誰一人、そうしたことを知らない。今日、人間が雲の中にあるわたしの顔を見て初めて、伝説のわたしは実在すると感じ、そこでわたしにもう少し好意を抱くようになる。わたしの業があればこそ、わたしに対する人間の崇敬は少しだけ増す。しかし、人間はいまだわたしを知らず、雲の中にわたしの一部を見ているだけである。その後、わたしは両腕を伸ばし、人間に見せる。人間は驚き、わたしの手で打ち倒されるのではないかと深く恐れ、口を手で塞ぐ。そこで、わたしへの崇敬の念に少しばかりの畏れが加わる。よそ見をしている隙にわたしに打ち倒されるのではないかと深く恐れ、人間はわたしの一挙一動から目を離さずにいる。しかし、人間に見られているからといって、わたしはそれに縛られず、手を動かして働きを続ける。わたしが行なうすべての業の中でのみ、人間はわたしをいくぶん好意的に見、そうして徐々にわたしの前に来て、わたしと交流するようになる。わたしのすべてが人間に明かされると、人間はわたしの顔を見、それ以後、わたしはもはや人間から自分を隠したり、ぼかしたりすることはない。全宇宙で、わたしは公然と万民の前に現われ、血と肉でできた者はみな、わたしの業を残らず見る。霊に属する者は、必ずやわたしの家で安らかに暮らし、必ずやわたしとともにすばらしい祝福を享受する。わたしが思いやる者たちは、必ずや刑罰を免れ、間違いなく霊の痛みと肉の苦しみを免れる。わたしは万民の前に公然と現われ、支配し、力を振るう。そうして、死臭が全宇宙を満たすことはなくなり、代わってわたしのさわやかな香気が全世界に広まる。わたしの日が近づいているので、人間は目覚めつつあり、地上のすべてが整然とし、地の生存の日々が終わった。わたしが到着したのだから。

『神の出現と働き』「全宇宙への神の言葉、第二十九章」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 67

わたしは自分の業の顕示で天空を満たし、地上のあらゆるものがわたしの力の下にひれ伏し、そうして「世界統一」に向けたわたしの計画を実行し、わたしのその願いを実現するようにさせる。それにより、人々が地表を「さまよう」ことはなくなり、すぐに適切な終着点を見つける。わたしはあらゆる方法で人を熟慮し、全人類がいますぐ平和と幸福の地に住むようになり、人々の生活の日々がもはや悲しくも惨めでもなく、わたしの計画が地上で無になることのないようにする。人がそこに存在するので、わたしは地上にわたしの国を建てる。と言うのも、わたしの栄光の一部は地上に現われるからである。天上では、わたしの町を正し、それゆえ天地ですべてを新しくする。わたしは天地に存在するものをすべて一つにし、それによって地上のすべてのものは天上のすべてのものと一つになるだろう。それがわたしの計画であり、わたしが最後の時代に成し遂げることである。誰もわたしの働きのこの部分に干渉しないように。わたしの働きを異邦の諸国に広めることは、地上におけるわたしの働きの最終部分である。わたしが行なう働きを理解することは誰にもできず、それゆえ人々はすっかり混乱する。わたしは地上での働きに忙しく取り組んでいるので、人々はこの機会に「遊び回る」。人々が手に負えなくならないように、わたしは当初彼らをわたしの刑罰の下におき、火の湖の鍛錬に耐えるようにした。これはわたしの働きの一段階であり、火の湖の力を使ってわたしの働きのこの段階を成し遂げる。さもなければ、わたしの働きを実行するのは不可能だろう。わたしは全宇宙の人々をわたしの玉座の前に服従させ、わたしの裁きに従って彼らを様々な範疇に分け、これらの範疇に沿って分類し、さらに彼らを家族に整理し、それによって人類全体がわたしに背くのを止め、代わりに、わたしが名づけた分類に沿って整然とした秩序ある配列に収まるようにする。何者も無秩序に動き回ってはならない。わたしは全宇宙で新しい働きを行なった。宇宙の至るところで、全人類がわたしの突然の出現に呆然とし、驚きで口がきけなくなり、またわたしが公の場に出現したことで、人々の視野は大いに広がった。今日はまさにこのようなものではないか。

『神の出現と働き』「全宇宙への神の言葉、第四十三章」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 68

わたしは異邦人の国々に働きを広めている。わたしの栄光は全宇宙に閃く。星のように点々と散らばる人々はみな、自分の中にわたしの旨を抱き、わたしの手によって導かれ、わたしが与えた仕事に取りかかる。この時点からわたしは新しい時代へと入り、すべての人々を別の世界へ連れて行く。わたしは自分の「故郷」へ戻ったとき、当初の計画に含まれる働きの、また別の部分に着手した。人々がわたしをより深く知れるようにするためだ。わたしは宇宙全体を眺めて、今が働きに絶好の機会だとわかった[a]ため、あちこち駆けずり回り、人々に新しい働きを行なっている。いずれにせよこれは新たな時代であり、わたしはより多くの新しい人々を新たな時代へと引き入れ、淘汰すべき者たちをより多く捨て去るため、新しい働きをもたらした。赤い大きな竜の国家で、わたしは人々に理解し難い働きの段階を実行し、彼らを風の中で揺らす。その後、多くの者が風に吹かれて静かに漂い去る。これこそまさに、わたしが一掃しようとしている「脱穀場」だ。それはわたしが切に願っていることであり、またわたしの計画でもある。というのも、わたしが働いている間に多くの悪い者たちが忍び込んだからだ。しかしわたしは彼らを追い払うことを急いではいない。適切な時が来たら、彼らを追い散らすつもりだ。そうして初めてわたしはいのちの泉となり、真にわたしを愛する人々がわたしからいちじくの実やゆりの香りを受け取れるようになる。サタンがとどまる塵の地には、砂があるだけで純金は残っていない。こうした状況なので、わたしは働きのこのような段階を実行するのだ。わたしが自分のものとするのは砂ではなく、精錬された純金であることを知らなければならない。悪い者がどうしてわたしの家に残れるだろうか。わたしの楽園に狐が寄生することなど許せるだろうか。わたしは考えられるすべての方法で、こうしたものを追い払う。わたしの旨が露わになるまでは、誰一人わたしがしようとしていることに気づかない。わたしはこの機会を利用して悪い者たちを追い払い、彼らはわたしから去らざるを得なくなる。わたしは悪い者たちをこのように扱うが、彼らがわたしに仕える日はまだあるだろう。人々は神の恵みを望む心が強すぎるので、わたしは向きを変えて、栄光に満ちた顔を異邦人たちに示し、人々がみな自分の世界に住んで自らを裁けるようにする。そして同時に、わたしは言うべき言葉を言い続け、人々が必要とするものを与え続ける。人々が我に返るころには、とうの昔にわたしの働きが広まっていることだろう。それからわたしは人間にわたしの旨を表し、人間に対する働きの第二の部分に着手する。すべての人間をわたしにしっかりと付き従わせて働きに協力させ、能力の限りを尽くしてこの必要な働きをわたしとともに遂行させるのだ。

『神の出現と働き』「七つの雷が轟く――神の国の福音が宇宙の隅々まで広まることを預言」(『言葉』第1巻)

脚注

a. 原文に「だとわかった」の語句は含まれていない。


日々の神の御言葉 抜粋 69

わたしの栄光を見るという信念を持つものは誰もいない。わたしは彼らに強要することはせず、ただ人々の間からわたしの栄光を奪い去り、別の世界へと移す。人々が再び後悔するなら、わたしは信仰を持つより多くの人々へわたしの栄光を示すだろう。これがわたしの働きの原則である。わたしの栄光はカナンの地から去る時もあり、選ばれた者たちから去る時もあるからだ。さらに、わたしの栄光が地上全体から去る時もある。そのとき地上は光を失って暗闇へと陥り、カナンの地さえ太陽には照らされなくなる。すべての人々は信仰を失うが、誰もカナンの地の香りを失うことには耐えられない。わたしは新たな天地へと進むときに初めて、わたしの栄光のもう一つの部分を、まずカナンの地で現す。すると夜の真っ暗闇の底に沈んだ全地にかすかな光が輝く。それにより、全地がその光のもとに集まるとともに、地上のすべての人々がその光から力を得て、わたしの栄光は増大し、すべての国々に新たに現れ、わたしがはるか昔から人間の世に現れており、はるか昔にわたしの栄光をイスラエルから東方へともたらしたことを、すべての人が気づけるだろう。わたしの栄光は東方から輝きを放つのであり、恵みの時代から今日へともたらされたからだ。しかしわたしが出発した地はイスラエルであり、そこから東方に到着した。東方の光が徐々に白く変わって初めて、地上の暗闇は光に変わり始める。その時初めて、人はわたしがはるか昔にイスラエルを去っており、東方で新たに現れようとしていることを知るだろう。わたしは一度イスラエルへと下り、その後そこから立ち去ったため、再びイスラエルに生まれることはできない。なぜならわたしの働きは全宇宙を導くからであり、さらに稲妻は東から西へとひらめき渡るからだ。だからわたしは東方へと下り、カナンの地を東方の人々にもたらしたのである。わたしは全地の人々をカナンの地へと連れて行く。それゆえ全宇宙を支配するため、カナンの地で声を発し続ける。現在、カナンの地以外のどこにも光はなく、すべての人々は飢えと寒さにさらされている。わたしはまずイスラエルにわたしの栄光を与え、その後それを奪い去り、それによってイスラエルの人々を東方へと導き、すべての人々を東方へと導いた。わたしは彼らをみな光へと導き、彼らが光と再会して光と交われるようにし、もう探し求めなくていいようにした。わたしは探し求めるすべての者が再び光を見られるようにし、わたしがイスラエルに示した栄光を目にできるようにするつもりだ。わたしがはるか昔に白い雲に乗って人々の間に降り立ったことを彼らに理解させ、無数の白い雲と豊かな果実を見せ、さらにイスラエルのヤーウェ神を目撃させよう。そして彼らに、ユダヤ人の先生であり、待望のメシアであり、歴代の王たちによって迫害されてきたわたしの完全な姿を見せよう。わたしは全宇宙に対して働き、偉大な働きを行い、わたしのすべての栄光と業を、終わりの日の人々に対して露わにする。そしてわたしの栄光に満ちた顔を、長年わたしを待っていた人々、わたしが白い雲に乗ってくるのを熱望してきた人々、わたしの再来を熱望してきたイスラエル、そしてわたしを迫害するすべての人間に対して、余すところなく示そう。それによって、わたしがはるか昔にわたしの栄光を運び去って東方へともたらしており、それがもはやユダヤにはないことを、すべての者が知るだろう。なぜなら、終わりの日はすでに到来しているからである。

わたしは宇宙の隅々まで自らの働きを行なっており、東方では雷のような轟音が終わりなく発生し、すべての国々と教派を震わせている。すべての人々を現在へと導いてきたのはわたしの声である。わたしはすべての人がわたしの声によって征服され、この流れの中に入り、わたしの前に帰服するようにする。わたしははるか昔に全地からわたしの栄光を取り戻し、それを東方で新たに発したからだ。わたしの栄光を見ることを願わない者がいるだろうか。わたしの再臨を心待ちにしない者がいるだろうか。わたしが再び現れることを渇望しない者がいるだろうか。わたしの愛らしさを思慕しない者がいるだろうか。光のもとへ来ようとしない者がいるだろうか。カナンの地の豊かさを目にとめない者がいるだろうか。贖い主の再来を待ち望まない者がいるだろうか。偉大な力を持つ全能者を敬慕しない者がいるだろうか。わたしの声は地上の隅々まで行き渡るだろう。わたしは我が選民と向き合って、さらに多くの言葉を彼らに語りかける。山々や川を震わせる強大な雷のように、わたしは全宇宙と人類にむかってわたしの言葉を語りかける。こうしてわたしの口から出る言葉は人の宝となっており、すべての人々はわたしの言葉を大切にしている。稲妻は東から西へとひらめき渡る。わたしの言葉は、人が手放したがらないと同時に人には理解し難いものだが、それ以上に彼らに大きな喜びをもたらすものである。あたかも赤児が生まれたばかりであるかのように、すべての人々が喜びに満ち、わたしの到来を祝っている。わたしはすべての人々を、わたしの声によってわたしの前へ連れてくる。その時からわたしは正式に人類の中へ入り、彼らはわたしを崇拝するようになる。わたしが放つ栄光とわたしの口から出る言葉によって、人々はみなわたしの前へ来るようになり、稲妻が東方から閃くこと、そしてわたしが東方の「オリーブ山」にも降臨したことを知るようになる。彼らはわたしがすでにずっと前から地上にいたことを知り、すでにユダヤ人の息子ではなく、東方の稲妻であることを知るだろう。なぜならわたしはずっと前に復活し、人々の間から去って、その後再び栄光とともに人々の中に現れたからである。わたしは幾時代も前に崇拝された神であり、幾時代も前にイスラエル人によって見捨てられた赤児である。そしてそれ以上に、今この時代の栄光に満ちた全能神なのだ。すべての者をわたしの玉座の前に来させ、わたしの栄光に満ちた顔を見せ、わたしの声を聞かせ、わたしの業を目撃させなさい。これがわたしの旨のすべてであり、わたしの計画の結末かつ頂点であると同時に、わたしの経営の目的でもある。つまり、すべての国がわたしにひれ伏し、すべての人がその言葉でわたしを認め、すべての人がわたしを信頼し、またすべての人がわたしに服従するようにすることである。

『神の出現と働き』「七つの雷が轟く――神の国の福音が宇宙の隅々まで広まることを預言」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 70

数千年ものあいだ、人は救い主の到来を目の当たりにできることを熱望してきた。何千年にもわたって救い主イエスを切望し、渇望してきた人々のもとに、救い主イエスが白い雲に乗って自ら降臨するのを見たいと望んできたのだ。人はまた、救い主が戻ってきて自分たちと再会すること、すなわち、数千年にわたって人々から離れていた救い主イエスが戻ってきて、ユダヤ人のあいだで行った贖いの働きをもう一度実行し、人に対して憐れみ深く愛情に溢れ、人の罪を赦し、人の罪を負い、人のすべての過ちさえも引き受け、人を罪から救うことを望んでいる。人が切望しているのは、救い主イエスが以前と変わらないことである。つまり、愛おしく、心優しく、尊敬すべき存在で、人に対して激怒したり、人を非難したりすることが決してなく、人の罪をすべて赦して引き受け、昔のように人のために十字架の上で死にさえする救い主であることを望んでいる。イエスが去って以来、彼に付き従った弟子たちや、イエスの名において救われたすべての聖者がイエスを必死に切望し、待ち続けてきた。恵みの時代にイエス・キリストの恵みによって救われたすべての人は、終わりの日の喜びに満ちたある日、救い主イエスが白い雲に乗って降臨し、万民の前に現れるのをずっと待ち焦がれている。これはもちろん、今日救い主イエスの名を受け入れるすべての人が共有する望みでもある。救い主イエスによる救いを知る宇宙の全員が、イエス・キリストが突然到来し、「わたしは去ったときとまったく同じようにやって来る」と地上で言った言葉を実現させることを心底切望している。磔刑と復活の後、イエスは白い雲に乗って天に戻り、いと高き者の右側に座したと人は信じている。それと同様に、イエスは再び白い雲(この雲は、イエスが天に戻るときに乗った雲を指す)に乗って、何千年ものあいだイエスを待ち焦がれてきた人々のもとに降り立ち、ユダヤ人の姿をし、ユダヤ人の衣服をまとうのである。人の前に現れた後、イエスは食物を彼らに授け、彼らのために生ける水を湧き出させ、恵みと愛に満ち、人々のあいだで生き生きと現実に暮らす。こうした観念はどれも、人々が信じていることである。しかし、救い主イエスはそのようにせず、人が心に抱いているのと正反対のことをした。イエスは再来を切望していた人々のもとには到来せず、白い雲に乗ってすべての人の前に現れもしなかった。彼はすでに来ていたが、人は知らず、気づかないままである。人は虚しく彼を待つだけで、彼がすでに「白い雲」(彼の霊、言葉、全性質、そして彼のすべてであるところの雲)に乗って降臨し、今や終わりの日に彼が作る勝利者の一団のもとにいることに気づいていない。人は次のことを知らない。すなわち、聖なる救い主イエスは人に対して慈しみと愛を抱いているにもかかわらず、どうして腐敗と不純な霊が宿るそれらの「神殿」で働くことができようか。人はイエスの到来をずっと待っているが、不義の者の肉を食べ、不義の者の血を飲み、不義の者の衣服を着る者、イエスを信じているが彼を知らない者、絶えず彼からゆすり取る者の前に、どうしてイエスが現れようか。人は、救い主イエスが愛に満ち、憐れみに溢れ、贖いに満ちた罪の捧げものであることしか知らない。しかし、イエスは同時に神自身であり、義、威厳、怒り、および裁きに満ち溢れていて、権威があり、尊厳に満ちていることはまったくわかっていない。したがって、たとえ人が贖い主の再来をしきりに切望し、彼らの祈りが「天」を動かしたとしても、救い主イエスは、彼を信じてはいるが彼のことを知らない者たちの前には現れない。

『神の出現と働き』「救い主はすでに『白い雲』に乗って戻ってきた」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 71

六千年間にわたる神の経営(救いの)計画が終わりを告げようとしている。そして、神の国の門は神の現れを求めるすべての人にすでに開かれている。兄弟姉妹たちよ、何を待っているのか。あなたがたが探し求めているものは何か。神の現れを待っているのか。神の足跡を探し求めているのか。神の現れがどれほど待ち望まれていることか。だが、神の足跡を見出すことはいかに難しいことか。今のような時代に、このような世界で、神の現れる日をこの目で見るために何をするべきであろうか。神の足跡をたどるには何をするべきであろうか。神の現れを待つすべての人が、このような疑問を抱いている。あなたがたもこのような疑問を何度か抱いたが、その結果はどうであったのか。神はどこに現れるのか。神の足跡はどこにあるのか。答えは見つかったのか。多くの人は、「神は自分に従う人々に現れ、神の足跡はわたしたちのただ中にある。単純なことだ」と答える。決まり切った答えであればだれにでも言える。だがあなたがたは、神の現れとは何かを、神の足跡とは何かを本当に理解しているのか。神の現れとは、神がその働きを行うためにみずから地上に来ることである。神としての身分と性質をもち、また神に固有の方法で、一つの時代を始め、別の時代を終わらせる仕事を行うために、神は人類のもとに下ってくる。このような神の現れは儀式の一形式ではない。それはしるしでも、図画でも、奇跡でも、大いなる幻でもない。ましてや宗教的な過程でもない。それは、実際に手で触れ、目で見ることのできる現実的で実際的な事実である。このような現れはただ表面的な動作をするためでも、短期間の作業のためのものでもない。それは、神の経営計画の中にある一つの働きの段階のためである。神の現れは必ず何かの意味があり、必ず神の経営計画と関係している。ここで言う「現れ」は、神が人を案内し、導き、啓く「現れ」とは全く異なる。神は自身を現す度に、神の大いなる働きの一段階を実行する。この働きは他のどの時代の働きとも異なる。それは人には想像もできないもので、人が経験したことがないものである。その働きは、新しい時代を到来させ、古い時代を完結させるもので、人類を救う働きの新しく向上したかたちである。さらには、人類を新しい時代に導き入れる働きである。これが神の現れの意義である。

ひとたび神の現れが何であるかがわかれば、神の足跡をどのように探し求めるべきであろうか。この問いに答えるのは難しくはない。神の現れるところはどこであれ、そこに神の足跡も見つかる。このような説明は単純に聞こえるが、実際にはそれほど単純ではない。多くの人は、神がどこに現れるか、ましてや神がどこに現れるつもりか、あるいは現れるべきかを知らないからである。聖霊の働きがあるところには神が現れると、感情にかられて考える人がいる。または、霊的な指導者がいるところに神が現れると思っている。あるいは、名声が高い人のいるところであれば、どこであれ神が現れると思っている。そうした考えが正しいかどうかは、今のところは深く考えないでおこう。このような問題を解説するには、まず目的をはっきりさせる必要がある。わたしたちが探し求めているのは神の足跡である。霊的な指導者を求めているのでもなく、ましてや有名人でもない。わたしたちがたどっているのは神の足跡である。このため、神の足跡を探し求めているわたしたちは、神の心意、神の言葉、神の発する声を探り求めなければならない。神が語る新しい言葉があるところには神の声があり、神の足跡があるところには神の業があるからである。神による表現があるところに神が現れ、神が現れるところには真理、道、いのちがある。神の足跡を探し求める中で、あなたがたは「神は真理であり、道であり、いのちである」という言葉を無視していた。そのため、真理を受け取っても神の足跡を見出したとは思わない人が多いのである。ましてや、神の現れを認めることなどない。なんと大きな過ちであることか。神の現れは人の観念と一致することはない。ましてや神は人の言うままに現れない。神は自らの判断で、自らの計画に従って働く。さらに、神にはその目的と方法がある。神がどのような働きをしようと、人と話し合ったり人の助言を求める必要はない。ましてや神が人間一人一人にその働きを知らせる必要などなおさらない。これが神の性質であり、さらにそれはすべての人が認識すべきことである。もし神の現れをその目で見、神の足跡をたどりたいと願うなら、自分自身の観念を捨て去らなければならない。神にこれをせよあれをせよと命じてはならない。ましてや神を自分の枠の中に閉じ込めたり、自分の観念の中に押し込めたりすべきでない。そうではなく、どのように神の足跡をたどるべきか、どのように神の現れを受け止めるべきか、どのように神の新しい働きに従うべきかを、自分に問うべきなのである。これが人のすべきことである。人は真理ではなく、真理を自分のものにしていないので、人は探し求め、受け入れ、従うべきである。

『神の出現と働き』「附録1:神の現れによる新時代の到来」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 72

アメリカ人であれ、イギリス人であれ、国籍がどこであれ、自分の国籍の枠を乗り越え、自分自身を超越し、被造物としての立場から神の働きを見なくてはならない。そうすれば、神の足跡を枠にはめることはない。それは、現在は特定の国や民族に神が現れることは不可能だと多くの人が考えているからである。神の働きはなんと意義深く、神の現れはなんと重要なことか。どうして人の観念や考えで測ることができようか。そのため、神の現れを探し求めるためには、国籍や民族性という観念を突き抜けるべきである、とわたしは言うのである。そうして初めて、自分自身の観念に制約されることなく、神の現れを迎えるにふさわしくなる。そうでなければ、暗闇の中にいつまでもとどまり、神から認められることもない。

神は全人類の神である。神は自らを一つの国や民族の所有物とみなさない。神が自ら計画したとおりに働きを行い、いかなる形式や国、民族にも限定されることはない。これまであなたはこのような形式を想像したこともなかったかもしれないし、そのような形式を否定するかもしれない。神が現れる国や民族はたまたま誰からも差別されている地上で一番遅れている国や民族かもしれない。しかし、神には神の知恵がある。神はその偉大な力とその真理と性質により、神と心を一つとする人々の一群を本当に得ている。それは神が完成させたいと願う人々の一群で、神に征服され、あらゆる試練と困難、あらゆる迫害に耐え、最後の最後まで神に従うことのできる一群である。いかなる形式や国にも限定されない、神の出現の目的は、その計画どおりに働きを完成させることである。それはちょうど神がユダヤの地で肉となったときと同じである。神の目的は全人類をあがなうことで十字架の働きを完成させることであった。しかし、ユダヤ人は神がそれを行うのは不可能だと考えた。神が肉となって、主イエスの姿をとるのは不可能だと考えたのである。この「不可能」が、ユダヤ人が神を罪に定め、神に敵対する根拠となった。そして、最終的にはイスラエルの破滅へとつながった。今日、多くの人が同じような間違いを犯している。神は今すぐにでも現れると強く主張しながら、同時に神の現れを断罪している。その「不可能」が再び、神の現れを自分たちの想像できる範囲に押し込めているのである。神の言葉に出会うと、多くの人が騒々しく大笑いするのをわたしは見てきた。しかし、その笑いはユダヤ人による神への断罪と冒涜とどこか違うであろうか。あなたがたは真理を目の前にしても敬虔さがなく、ましてや真理を慕い求める態度もない。ただ手あたり次第に研究し、気楽に待っているだけである。そのように研究し、待っていることで得られるものは何なのか。神から直に導きを受け取ることができると思っているのか。神の発言を聞き分けることができないなら、どうして神の現れをその目で見る資格があるというのか。神が現れるところでは、真理が表され神の声がある。真理を受け入れることができる人だけが神の声を聞くことができる。そしてそういう人だけが神の現れを見ることができる。観念を捨てなさい。落ち着いて、これらの言葉を注意深く読みなさい。真理を慕い求めるなら、神はあなたを照らし、あなたは神の心意と言葉を理解できるようになる。「不可能」だと思うことについての意見を捨て去りなさい。人が何かを不可能だと思えば思うほど、それは実現しやすくなる。神の知恵は天より高く、神の思いは人の思いより高く、神の働きは人の考えや観念をはるかに超越するからである。何かが不可能であればあるほど、そこには探し求めることのできる真理がある。人の観念と想像を超えるものであればあるほど、そこには神の心意がある。神がどこに現れようとも、神はやはり神であり、神の本質が現れる場所や方法で変わることはないからである。神の性質は、神の足跡がある場所によらず、いつも同じである。神の足跡がどこにあろうとも、神は全人類の神である。それはちょうど主イエスはイスラエル人の神というだけでなく、アジア、ヨーロッパ、アメリカの人々の神でもあり、さらに、全宇宙で唯一無二の神であるのと同じである。だから、神の言葉に神の心意を探し求め、神の現れを発見し、神の足跡に従おう。神は真理であり、道であり、いのちである。神の言葉とその現れは同時に存在する。また、神の性質と足跡はいつでも人類に対して開いている。兄弟姉妹たちよ。あなたがたがこれらの言葉に神の現れを見てとり、新しい時代に向かって進みながら、神の足跡をたどり始め、神の現れを待ち望む人のために用意された美しく新しい天地に入れることを望む。

『神の出現と働き』「附録1:神の現れによる新時代の到来」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 73

神は沈黙しており、わたしたちの前に姿を現したことはないが、神の働きは止むことがない。神は全世界を見渡し、あらゆる物事を支配しており、人の言葉と行動の一切をつぶさに見ている。神はその経営を計画に従ってゆっくりと慎重に行っており、それは静かに、特に劇的な効果も見せず進行しているが、神の歩みは一歩一歩進んでますます人類に近付き、神の裁きの座は電光石火の速さで宇宙に設けられ、その直後に神の玉座がわたしたちのもとに降りて来る。それは何と神々しい光景であり、威厳と神聖に満ちた情景だろうか。鳩のように、うなり声をあげるライオンのように、聖霊がわたしたちのもとにやって来る。神は知恵であり、義であり、威厳である。神は権威を持ち、愛と憐れみに満ちて、そっとわたしたちの間にやって来る。誰も神の到来に気づかず、誰もその到来を歓迎せず、その上誰も神がこれからしようとしていることを知らない。人の生活は相変わらずで、心にも変化は無く、毎日がいつも通りに過ぎていく。神はわたしたちの間に、普通の人のように、信仰者の中で最も取るに足らない者として、平凡な一信者として生きている。彼には独自の探求や目標があり、そのうえ神は普通の人にない神性を備えている。誰もその神性の存在に気づいておらず、誰も彼と人の本質の違いを見抜いていない。彼はわたしたちの目には取るに足らない一人の信者にしか見えないので、わたしたちはのびのびと恐れることもなく彼と共に暮らしている。彼はわたしたちの一挙一動を観察しており、わたしたちの考えや思いつきはすべて彼の前に晒されている。誰一人として彼の存在に関心を持たないし、その役割を想像もせず、さらに誰一人その正体をかけらも疑っていない。わたしたちはただ自分たちの活動を継続している。あたかも彼はわたしたちと何の関係もないとでも言うように。

聖霊がたまたまこの人を「通して」一編の言葉を発することもあり、それは非常に意外なことのように感じられるが、わたしたちはそれを神の発した声だと認め、すぐに神から出たものとして受け入れる。なぜならその言葉を誰が発しようと、それが聖霊から出たものである限り、わたしたちはそれを受け入れるべきであり、否定することはできないからだ。次の発言はわたしを通して出されるかもしれないし、あなたや他の誰かを通して出されるかもしれない。それが誰かにかかわらず、すべては神の恵みなのだ。しかしそれが誰であろうと、その人を崇拝してはならない。何があろうとその人が神であることはありえないし、そのようなごく普通の人を選んでわたしたちの神とすることは決してできないからだ。わたしたちの神は非常に偉大でかつ尊い。どうしてそのような取るに足らない人が、神に代わることなどできようか。さらにわたしたちは神が天の国へと連れ戻しに来てくれるのを待っているのに、そのような重大で困難な仕事を、そんな取るに足らない人がどうして行えようか。主が再臨するとすれば、白い雲の上に乗って現れるはずなのだから、すべての人がそうとわかるだろう。それは何と荘厳なことだろうか。どうして神が平凡な人々の中にそっと隠れていることなどできるだろうか。

しかしそれでも、人々の間に紛れているこの平凡な人こそが、わたしたちを救うための新しい働きを行っているのだ。この人は何も説明することはないし、来た理由を話すこともなく、ただ意図した働きを整然と、自分の計画に沿って行うだけだ。彼はますます頻繁に声を発し、発言するようになる。それには慰め、励まし、忠告、警告から非難や懲らしめまで、そして穏やかで優しい口調から荒々しく荘厳な言葉までがあり、そのすべてが人に憐れみを与えるとともに戦慄を植え付ける。彼が言うことはすべて、わたしたちの奥深くに隠された秘密に命中し、彼の言葉はわたしたちの心を突き刺し、霊を突き刺し、わたしたちを耐え難いほど恥じ入らせ、どこに隠れてよいかもわからない気持ちにさせる。そしてわたしたちは、この人物の心の中にいる神は本当にわたしたちを愛しているのか、一体何をしようとしているのか、と疑い始める。もしかすると、このような痛みに耐えなければ天国に引き上げてもらえないのだろうか。これからの行く先や未来の運命について、わたしたちは頭の中で思案する。しかしそれでもまだ、誰一人として神がすでに肉体を得てわたしたちの間で働きを行っているとは考えない。神はこれほど長い間わたしたちと共にあり、これほど多くの言葉をわたしたちに面と向かって語ってきたが、わたしたちはいまだにそのような平凡な人を、自分たちの未来の神だとは認めたがらないし、ましてその取るに足らない人に自分たちの未来と運命の支配を任せたりはしたがらないのだ。わたしたちは彼から絶えることのないいのちの水を享受し、彼を通して神と向き合いながら生活している。しかしわたしたちは天におられる主イエスの恵みには感謝するが、神性を備えたこの普通の人の気持ちには一切注意を払ってこなかった。それでも彼は従来どおり、肉体の中に隠れて謙虚に仕事を続け、その心の奥に秘めた思いを表し、人類が彼を拒んでも気にもならないかのように、また人の稚拙さも無知も永久に赦すかのように、自らに対する人々の非礼をひたすら黙認しているのだ。

わたしたちが知らないうちに、この取るに足らない人はわたしたちを神の働きの一つ一つの段階へと導き入れてきた。わたしたちは数え切れないほどの試練に耐え、数々の懲らしめを受け、死をもって試される。そして神の義なる威厳に満ちた性質を知り、神の愛と憐れみも享受し、神の偉大な力と知恵を感じられるようになり、神の愛らしさを目のあたりにし、そして人類を救いたいという神の強い願いを目にする。この平凡な人の言葉を通して、わたしたちは神の性質と本質を知り、神の旨を理解し、人の本性実質をも理解し、そして救いへの道と完全にされるための方法を知るようになる。その言葉はわたしたちを「死なせ」、そして「生き返らせる」。その言葉は安らぎを与えるが、同時に罪悪感と恩義の念でわたしたちを苦しめもする。その言葉はわたしたちに喜びと平安をもたらすが、同時に無限の痛みも与える。わたしたちは時にその手によって屠られる子羊のようであり、時に最愛のもののようにその慈愛を享受する。また時にはその人の敵のようでもあり、そのまなざしのもとでその怒りによって焼かれ灰にされる。わたしたちは彼に救われる人類であり、その目から見れば蛆であり、彼が日夜見つけ出そうと躍起になっている迷える子羊である。彼はわたしたちに対して慈悲深くもあれば、わたしたちを軽蔑もし、立ち上がらせ、慰め励まし、導き啓き、懲らしめ鍛え、そして呪いさえする。彼は昼も夜もわたしたちのことを心配し続け、昼も夜も守り気遣い、決してわたしたちの傍を離れず、わたしたちのためにその心血を注ぎ、いかなる代償も払う。この小さく平凡な肉体から出る言葉の中に、わたしたちは神のすべてを享受し、神がわたしたちに授けた終着点を見た。それにもかかわらず、わたしたちの心の中ではいまだ虚栄心のために問題が起こっており、このような人を積極的に神として受け入れることができずにいる。この人はわたしたちに非常に多くのマナや、多くの喜びを与えたが、それでもわたしたちの心の内にある主の地位を奪うことはできない。わたしたちはこの人の特別な身分と地位を嫌々ながらに尊重しているのだ。彼が口を開いて、わたしたちに自分が神であることを認めるよう求めない限り、わたしたちは決してこの人を、まもなく現れる、そして同時にすでにわたしたちのもとで長く働いてきた神として、あえて認めようとはしないだろう。

神は発話を続けており、さまざまな方法や観点を用いてわたしたちにすべきことを諭しつつ、同時にその心を言葉に表している。その言葉は生命力を備えており、わたしたちが歩むべき道を示し、真理とは何かを理解させてくれる。わたしたちはその言葉に引き付けられるようになり、その口調や話し方に注目し始め、そして無意識のうちに、この目立たない人の心の内に関心を持ち始める。彼はわたしたちのために労力を惜しまず、わたしたちのために睡眠も食欲もなくし、涙を流し溜息をつき、病気に苦しみ、わたしたちの終着点と救いのために屈辱を耐え忍び、わたしたちが鈍感で反抗的なために心から涙と血を流している。このような存在とその持てるものは、普通の人を超えているし、堕落した人間が誰一人として所有も到達もできないものだ。彼には普通の人にない寛容と忍耐力が備わっており、その愛はどんな被造物にも授けられていないものなのだ。わたしたちの考えをすべて知り、わたしたちの本性や本質をこれほど明確かつ完全に把握し、人類の反抗的で堕落した性質を裁き、天国の神の代理としてわたしたちに語りかけ、このようにわたしたちに働きかけることができる人は、この人をおいて他にいない。彼以外に神の権威、英知、そして威厳を授けられている者はいない。この人からは神の性質、そして神が所有するものと神そのものが、あますところなく発せられている。この人以外に、わたしたちに道を示し、光をもたらせる者はいない。彼以外に、神が天地創造から今日まで明かしてこなかった奥義を明らかにできる者はいない。彼以外に、わたしたちをサタンの束縛やわたしたち自身の堕落した性質から救える者はいない。彼は神を体現しており、神の心の奥底にあるものと訓戒、そして全人類に対する神の裁きの言葉を表現している。彼は新しい時代、新しい紀元を開き、新たな天地と新しい働きを到来させた。そして彼はわたしたちに希望をもたらし、漠然としていたわたしたちの生活を終わらせ、わたしたちの全存在をもって救済の道を完全にはっきりと目撃できるようにしてくれたのである。彼はわたしたちの存在そのものを征服し、わたしたちの心を得た。その瞬間からわたしたちの心は覚醒しており、霊が生き返ったように思われる。この平凡で取るに足らない人物、わたしたちの間で生きながらも長年わたしたちに拒否され続けてきたこの人こそ、わたしたちが寝ても覚めても絶えず思い続け、日夜待ち望んできた主イエスではないだろうか。そう、彼なのだ。実際そうなのだ。この人こそがわたしたちの神なのだ。彼こそが真理であり、道であり、いのちである。彼はわたしたちがもう一度生きて光を見ることができるようにし、わたしたちの心のさまよいを止めてくれたのだ。わたしたちは神の家に戻り、神の玉座の前に戻り、神と顔を合わせ、神の顔を目撃し、行く手にある道をこの目で見た。今、わたしたちの心は完全に彼に征服され、わたしたちはもはや彼が誰であるか疑わず、もうその働きや言葉に反抗することもなく、ただ彼の前にひれ伏す。わたしたちの望みは、ただ残りの人生をずっと神の足跡に従って生きること、神に完全にされること、そして神の恵みとわたしたちへの愛に報い、神の指揮と采配に従い、神の働きに協力し、できる限りのことをして神に委ねられた物事を全うすることだけである。

『神の出現と働き』「附録4:神の裁きと刑罰に神の出現を見る」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 74

神と人を同列に語ることはできない。神の実質と神の働きは人にとって最も深遠で理解しがたい。神が人の世で自ら働きを行わず、言葉を話さなかったら、人は決して神の旨を理解することはできない。一生を神に捧げてきた人々でさえ、神の承認を受けることはできないだろう。神が働きに乗り出さなければ、人がどれほど立派に行動しようと無駄である。神の考えはいつも人の考えより高く、神の英知は人の理解を超えているからである。そのため、神と神の働きを「完全に理解している」と主張する人たちは無能な輩で、皆自惚れていて無知だとわたしは言う。人は神の働きを決め付けるべきではないし、その上、人は神の働きを決め付けることはできない。神の目には、人は蟻と同じくらい取るに足らないのに、どうして人が神の働きを推し測ることなどできようか。「神はあんな方法やこんな方法では働かない」とか「神はこのようである、あのようである」などと好んでまくし立てる人々――彼らは皆傲慢に話しているのではないだろうか。わたしたちは皆、肉なる存在である人間はサタンによって堕落させられていることを知るべきである。神に反抗するというのがまさに人の本性である。人が神と同等になることはできず、ましてや神の働きに助言しようと望むことなどできない。神が人をいかに導くかについて言えば、これは神自身の働きである。人はあれこれ見解を言わず、服従するのがふさわしい。人はちり芥にすぎないのだから。神を探求するのがわたしたちの意図なのだから、神が考慮するべき神の働きの上に自分の観念を重ね合わせるべきではないし、ましてや神の働きに故意に反対するために自分の堕落した性質を最大限用いるなどもってのほかである。そのような行為はわたしたちを反キリストにさせるのではないだろうか。そのような人々がどうして神を信じていようか。わたしたちは神の存在を信じているので、神を満足させ、神を見たいと望んでいるので、真理の道を求め、神と融和するための道を探すべきである。わたしたちはかたくなに神に反抗するべきではない。そのような行動にいったい何の益があるだろう。

今日、神は新しい働きを行ってきた。あなたはこれらの言葉を受け入れることができず、奇妙な言葉に思えるかもしれないが、わたしはあなたに本性を表さないよう忠告する。神の前で本当に義に飢えかわいている人々だけが真理を得ることができ、本当に敬虔な人々だけが神によって啓かれ、導かれることができるからである。口論や対立ではなく、地道に心を静めて真理を探求することで、結果を得られる。わたしが「今日、神は新しい働きを行ってきた」と言う時、神が再び肉へと戻ることに言及している。おそらく、これらの言葉があなたを悩ませることはない。あなたはこれらの言葉を軽蔑するか、あなたにとって極めて興味深い言葉ですらあるかもしれない。いずれにせよ、わたしは、神が出現するのを本当に切望するすべての人々が、結論に飛びつくのではなく、この事実を直視し、慎重に検討することを希望する。これが賢い人の行うべきことである。

このようなことを考察するのは難しいことではないものの、わたしたち一人ひとりが、この一つの真理を知る必要がある。受肉した神は神の実質を有し、受肉した神は神の表現を有する。神は肉となるので、なそうと意図している働きを打ち出し、また神は肉となるので、自分が何であるかを表して、人に真理をもたらし、人にいのちを授け、人に道を指し示すことができる。神の実質を含んでいない肉体は決して受肉した神ではなく、これについて疑う余地はない。受肉した神かどうかを人が考察しようとするならば、その者が表す性質や話す言葉からそれを裏付けなければならない。つまり、神の受肉した肉体かどうか、それが真の道かどうかを裏付けるには、その者の実質を基に判別しなければならないのである。そこで、受肉した神の肉体かどうかを決定するとき、鍵となるのは、外見よりもむしろその者の実質(働き、発する言葉、性質、およびその他多数の側面)である。外見だけをじっくり見て、結果として実質を見落とすならば、その人が暗愚で無知であることを示している。外見が実質を決定することはできない。その上、神の働きが人の観念と一致することは決してありえない。イエスの外見は人の観念と正反対ではなかったか。イエスの顔つきと衣服はイエスの真の正体に関し何らの手がかりも与えることができなかったのではないだろうか。古代のパリサイ人がイエスに反対したのはまさに、彼らがイエスの外見を見ただけで、イエスの口から出る言葉を真剣に受け止めなかったからではないだろうか。神の出現を求める兄弟姉妹の一人ひとりが、歴史の悲劇を繰り返さないようわたしは望む。あなたがたは、現代のパリサイ人になって神を再び十字架につけるようなことをしてはならない。あなたがたは神の再来をどのように歓迎するか慎重に考え、真理に服従する人になるにはどうしたらよいかについて、はっきりした考えを持つべきである。これが、イエスが雲に乗って再臨するのを待っているすべての人の責任である。わたしたちは霊の目をこすってそれをはっきりさせ、誇張された空想の言葉に囚われてはならない。わたしたちは神が現実に行う働きについて考え、神の実際的な側面を見るべきである。雲に乗った主イエスが突然自分たちの間に降り立ち、イエスを認識したことも見たこともなく、イエスの旨をどう行うべきかも知らないあなたがたを連れていく日をいつも待ちわびながら、白昼夢の中で我を忘れたり、自分を失ったりしてはいけない。より現実的な事柄を考えているほうがよい。

『神の出現と働き』「序文」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 75

あなたがたはパリサイ人がイエスに逆らったことの根源を知りたいか。あなたがたはパリサイ人の実質を知りたいか。彼らはメシアに関する空想に満ちていた。さらに、彼らはメシアが来ると信じていただけで、いのち真理を追い求めなかった。だから今日になっても未だに彼らはメシアを待ち続けている。いのちの道に関して何の認識もなく、真理の道がどのようなものかも知らないからである。あなたがたに訊くが、これほど愚かで頑固で無知な人々が神の祝福を得るなど、どうしてあり得ようか。彼らがメシアを見るなど、どうしてあり得ようか。彼らは聖霊の働きの方向を知らなかったために、イエスの語った真理の道を知らなかったために、さらにはメシアを理解しなかったためにイエスに敵対した。彼らはメシアに会ったことがなく、メシアとともに過ごしたこともないために、彼らはみな、ただメシアの名前に固執しながら、できる限りのことをしてメシアの実質に逆らうという過ちを犯した。これらのパリサイ人の実質は頑固で、傲慢で、真理に従うものではなかった。彼らの神への信仰の原則は、「どれほど説教が奥深く、どれほど権威が高かろうとも、あなたがメシアと呼ばれない限り、あなたはキリストではない」というものだった。この信仰は不合理でばかばかしくないであろうか。あなたがたにさらに問う。あなたがたが全くイエスを理解してこなかったことを考えれば、最初のパリサイ人たちと同じ誤りを簡単に起こしてしまうのではないか。あなたは真理の道を識別することはできるのか。あなたがキリストに逆らわないとあなたは本当に請け合えるか。あなたは聖霊の働きに従うことができるのか。自分がキリストに逆らうかどうかがわからないのなら、あなたは既に死ぬぎりぎりのところに生きているとわたしは言う。メシアを理解しなかった人々は皆、イエスに逆らい、イエスを拒絶し、イエスを中傷することができた。イエスを理解しない人々は皆、イエスを拒み、イエスをののしることができる。そればかりか、彼らはイエスの再臨をサタンの惑わしとして見ることができ、さらに多くの人が受肉し再来したイエスを非難するであろう。これらのことのせいで、あなたがたは恐ろしくならないのか。あなたがたが直面することは聖霊に対する冒涜であり、諸教会に向けた聖霊の言葉を台無しにし、イエスが表した全てをはねつけることとなる。それほど混乱しているのなら、イエスから何を得られるというのか。あなたがたが頑なに自分の間違いに気づくのを拒絶しているのならば、イエスが白い雲に乗って肉に戻ってくる時にイエスの働きをどのようにしてあなたがたが理解できるというのか。わたしは言う。真理を受け取らず、白い雲に乗ったイエスの再臨を盲目的に待つ人々は、確実に聖霊を冒涜することになり、彼らは滅ぼされる種類である。あなたがたは単にイエスの恵みを望んでおり、この上なく幸せな天国を楽しみたいだけであるが、イエスの語る言葉に従ったことはなく、肉に戻ったイエスが表した真理を受け入れてこなかった。あなたがたはイエスが白い雲に乗って戻るという事実と引き替えに何を差し出すのか。あなたがたが繰り返し罪を犯しては何度も告白を口にするという誠意か。白い雲に乗って戻ってくるイエスへの捧げ物としてあなたがたは何を差し出すのか。自らを称賛する長年の仕事という資本だろうか。あなたがたは戻ってきたイエスに信用してもらうために何を差し出すのだろうか。それはあなたがたの、いかなる真理にも従わない傲慢な本性だろうか。

『神の出現と働き』「あなたがイエスの霊体を見る時、神はすでに天地を新しくしている」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 76

あなたがたの忠誠心は言葉の中のみにあり、あなたがたの認識は単に知的で観念的であり、あなたがたの労働は天国の祝福を受けるためのものであるが、それではあなたがたの信仰はどのようなものでなければならないのか。今日なお、あなたがたは真理の言葉の一つ一つに対し、耳を貸そうとしない。あなたがたは神が何かを知らない。キリストが何かを知らない。あなたがたはヤーウェを畏れる方法を知らない。どのように聖霊の働きに入っていくのかを知らない。あなたがたは神自身の働きと人の惑わしの区別の仕方を知らない。ただ、自分自身の考えに沿わない、神が表した真理の言葉を非難することだけを知っている。あなたの謙虚さはどこにあるのか。あなたの従順はどこにあるのか。あなたの忠誠心はどこにあるのか。真理を求める気持ちはどこにあるのか。あなたの神への畏敬はどこにあるのか。わたしはあなたがたに言う。しるし故に神を信じる者は、滅ぼされる部類であることは確かである。肉に戻ったイエスの言葉を受け取ることができない者は、地獄の子孫であり、天使長の末裔であり、永遠の破滅を逃れることのできない部類である。多くの者はわたしの言うことに耳を傾けないかもしれない。だがそれでも、天からイエスが白い雲に乗って降臨するのをあなたがたが自分の目で見る時、これは義の太陽が公に現れることであると、わたしはイエスに付き従ういわゆる聖徒全員に伝えたい。おそらく、その時あなたにとって大いなる興奮の時となるであろう。だが、あなたがイエスが天から降臨するのを見る時は、あなたが地獄へ落ち、懲罰を受ける時でもあることを知るべきである。それは神の経営計画の終わりの時であり、神が善良な人々を報い、邪悪な者たちを罰する時である。神の裁きは人間がしるしを見る前に、真理の現れだけがある時には終わっている。真理を受け入れてしるしを求めることがなく、故に清められている人々は、神の玉座の前に戻り、造物主の胸に抱かれる。「白い雲に乗らないイエスは偽キリストだ」という信念に執着する者たちだけは、永久に続く懲罰を受けなければならない。彼らはただしるしを示すイエスしか信じず、厳しい裁きを宣言し、真の道といのちを解き放つイエスを認めないからである。そのような者たちは、イエスが白い雲に乗って公に戻ってくる時に取り扱うしかない。彼らはあまりに頑なで、自信過剰で、傲慢である。どうしてこのような堕落した者たちがイエスに報いてもらえるだろうか。イエスの再臨は、真理を受け入れることのできる者には大いなる救いであるが、真理を受け入れることのできない者にとっては、罪に定められるしるしである。あなたがたは自分自身の道を選ぶべきで、聖霊を冒涜したり真理を拒んだりするべきではない。あなたがたは無知で傲慢な者でなく、聖霊の導きに従い真理を慕い求める者にならなければならない。そうすることでのみ、あなたがたの益となる。わたしは、注意深く神への信仰の道を歩むようにあなたがたに助言する。結論を急いではならない。さらに、あなたがたは神への信仰において、無頓着であったり、軽率であってはならない。少なくとも、神を信じる者は謙虚で畏敬の念に満ちているべきだということを知らなければならない。真理を聞いたことがありながら鼻であしらうものは愚かで無知である。真理を聞いたことがありながら不注意に結論を急いだり非難したりする者は、おごりで包まれている。イエスを信じる者は誰も、他人をののしったり非難したりする権利はない。あなたがたは皆、理知を備え、真理を受け入れる者でなければならない。真理の道を聞き、いのちの言葉を読んだのち、自分の信念と聖書に沿っている言葉は一万語にひとつだと信じているかもしれない。そうであれば、その一万分の一の言葉の中で求め続けなければならない。それでもわたしはあなたに謙虚であり、自信過剰にならず、思い上がらないようにと助言する。あなたの心が抱いている神へのわずかな畏敬の念から、より大きな光を得ることになる。もしあなたがこれらの言葉をよく吟味し、繰り返し思い巡らすならば、それらが真理かどうか、それらがいのちかどうかが分かるであろう。ほんの数行読んだだけで、「これは聖霊によるちょっとした照らしでしかない」とか、「これは人々を惑わすために来た偽キリストだ」と盲目的に非難する人たちもいるであろう。そのようなことを言う人たちは、無知ゆえに目が見えなくなっている。あなたは神の働きや知恵をほとんど理解していない。わたしはあなたに助言する。最初からやり直しなさい。終わりの日における偽キリストの出現のせいで、神の言葉を盲目的に非難してはならない。惑わされることを恐れる為に、聖霊を冒涜する者となってはならない。それはとても残念なことではないであろうか。もし良く調べた後で、これらの言葉が真理ではない、道ではない、神が表したことではないと未だに信じるならば、あなたは最後に懲罰を受けなければならず、祝福されない。もしこれほどわかりやすく明確に話された真理を受け入れられないなら、あなたは神の救いにそぐわないのではないのか。あなたは神の玉座の前に戻るほど祝福されている人ではないのか。このことを考えなさい。軽はずみで衝動的になってはいけない。神への信仰をまるでゲームのように考えてはいけない。あなたの終着点のために、前途のために、そしてあなたのいのちのために、考えなさい。自分をもてあそんではならない。あなたはこれらの言葉を受け入れることができるであろうか。

『神の出現と働き』「あなたがイエスの霊体を見る時、神はすでに天地を新しくしている」(『言葉』第1巻)

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