終わりの日における裁き

日々の神の御言葉 抜粋 77

人が贖われる前、サタンの害毒の多くがすでに人の中に植え付けられていた。そしてサタンによって何千年も堕落させられてきた人間には、神に抵抗する本性がすでに定着していた。だからこそ、人が贖われたとき、それは人が高い代価で買い取られるという贖い以上のものではなく、人の中の害毒に満ちた本性は取り除かれていなかった。ここまで汚れた人は、神に仕えるのにふさわしくなる前に変化を経なければならない。この裁きと刑罰の働きによって、人は自分の中の汚れて堕落した本質を完全に知るようになる。そして完全に変わり、清くなることができる。この方法でしか、人は神の玉座の前へと戻るのにふさわしくなることができない。今日なされるすべての働きは、人が清められて変わるためのものである。言葉による裁きと刑罰、そして精錬を通じ、人は自分の堕落を一掃して清められることが可能になる。この段階の働きを救いの働きと考えるよりは、むしろ清めの働きと言ったほうが適切だろう。事実、この段階は救いの働きの第二段階であるとともに征服の段階でもある。人は言葉による裁きと刑罰を通じて神のものとされる。また言葉を用いて精錬し、裁き、露わにすることで、人の心にある汚れ、観念、動機、そして個人的な願望がすべて完全に暴かれる。人は贖われ、罪を赦されたが、それによって見なし得るのは、神は人の過ちを記憶せず、その過ちに応じて人を取り扱わないということだけである。しかし、肉体において生きる人間が罪から解放されていないと、人は罪を犯し続けることしかできず、堕落したサタン的性質をどこまでも示し続ける。これが人の送る生活であり、罪を犯しては赦されるという終わりのないサイクルなのである。人類の大多数は昼間に罪を犯し、夜になると告白するだけである。このように、たとえ罪の捧げ物が人のために永久に有効だとしても、それで人を罪から救うことはできない。救いの働きは半分しか完成していない。人にはいまだ堕落した性質があるからである。たとえば、自分たちがモアブの子孫であることに気づいた人々は、不満の言葉を述べ、いのちを追い求めることをやめ、すっかり否定的になってしまった。これは、人々がいまだ神の支配に完全に服従できないでいることを示しているのではないか。これがまさに、人々の堕落したサタン的性質ではないのか。あなたが刑罰を受けていなかったとき、あなたの手は他の誰よりも高く、イエスの手よりも高く上げられていた。そしてあなたは大声で叫んだ。「神の愛する子になりたまえ。神と心を通わす者になりたまえ。サタンにひれ伏すくらいなら死ぬほうがましだ。あのいまいましい悪魔に対抗したまえ。赤い大きな竜に対抗したまえ。どうか赤い大きな竜が惨めにも完全に権力の座から落ちるように。どうか神がわたしたちを完全にするように」。あなたの叫び声は他の誰よりも大きかった。しかし、刑罰の時が訪れ、人間の堕落した性質が再び明らかになった。やがて人々の叫びは途絶え、彼らの決意は失われた。これが人間の堕落である。それは罪より根深く、サタンによって植えつけられ、人の奥深くに根ざしたものである。人が自分の罪に気づくのは容易なことではない。人には自分に深く根ざした本性を認識する術がなく、そうするには言葉による裁きに頼らなければならない。そうして初めて、人はその時点から次第に変わってゆくのである。

『神の出現と働き』「受肉の奥義(4)」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 78

「裁き」という言葉を出せば、ヤーウェがあらゆる地域の人々に指示すべく語った言葉、イエスがパリサイ人を非難すべく語った言葉を、あなたはたぶん思い浮かべるであろう。それらの言葉の厳しさにもかかわらず、それらは神の人への裁きの言葉ではなく、様々な環境において、つまり異なる脈絡において、神が語った言葉にすぎなかった。それらの言葉は、終わりの日のキリストが人間を裁きつつ語る言葉とは違う。終わりの日のキリストはさまざまな真理を用いて人間を教え、人間の本質を明らかにし、人間の言動を解剖する。そのような言葉は、人の本分や、人はいかに神に従うべきか、人はいかに神に忠実であるべきか、いかに正常な人間性を生きるべきかや、また神の知恵と性質など、さまざまな真理を含んでいる。これらの言葉はすべて人間の本質とその堕落した性質に向けられている。とくに、人間がいかに神をはねつけるかを明らかにする言葉は、人間がいかにサタンの化身であり、神に敵対する力であるかに関して語られる。神は裁きの働きを行うにあたって、少ない言葉で人間の本性を明らかにすることはない。むしろ長い期間にわたり、それをさらけ出し、取り扱い、刈り込む。こうしたさまざまな方法のさらけ出し、取り扱い、刈り込みはどれも、通常の言葉が取って代わることはできず、人間が一切持ち合わせていない真理でなければ取って代われない。このような方法のみが裁きと呼ばれることができる。このような裁きを通してのみ人間は屈服し、神について徹底的に納得し、さらに神についての真の認識を得ることができる。裁きの働きがもたらすのは、神の真の顔と人間自らの反抗的性質についての真相を人が認識することである。裁きの働きにより、人は神の心、神の働きの目的、人には理解することのできない奥義についてかなり理解できるようになる。また、それにより人は自分の堕落した本質と堕落の根源を認識し知るようになり、人間の醜さを発見する。これらの効果はすべて、裁きの働きによりもたらされる。それは、実際に、この働きの本質は神を信じる人すべてに神の真理、道、いのちを開く働きだからである。この働きが神による裁きの働きである。もしこれらの真理を重要視せず、いかにこれらを避けるかや、いかにこれらとは関わりのない新しい逃げ道を見つけるかしか考えないのならば、あなたは恐ろしい罪人である、とわたしは言う。もしあなたに神への信仰があるのに、神の真理や心を追い求めず、またあなたを神に近づける道を愛さないなら、あなたは裁きを逃れようとしている人であり、偉大な白い玉座から逃げる操り人形であり裏切り者である、とわたしは言う。神の目から逃げる反抗的な者を神は誰一人として容赦しない。そのような人はさらに重い懲罰を受ける。裁かれるために神の前に来る人で、その上、清められた人は、永遠に神の国に住むであろう。もちろん、これは未来に属することである。

『神の出現と働き』「キリストは真理をもって裁きの働きを行う」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 79

裁きの働きは神自身の働きであり、そのため当然ながら神が自ら行わなければならない。それは神の代わりに人が行うことはできない。裁きとは真理を用いて人類を征服することなので、この働きを人のあいだで行うために神が受肉した姿で再び現れることは疑いもないことである。つまり、終わりの日のキリストは真理を用いて世界各地の人々を教え、彼らにあらゆる真理を知らしめる。これが神の裁きの働きである。多くの人が神の二度目の受肉について悪い感情をもっている。神が肉になって裁きの働きを行うということが、人には信じがたいからである。それでも、しばしば神の働きは人間の期待を大幅に超え、それは人間の知性には受け入れがたいことである、とわたしは言わなければならない。人は地上の蛆虫にすぎないが、一方、神は宇宙を満たす至高の存在であるからである。人の知性は蛆虫だけを生み出す汚水のたまった穴に似ており、一方、神の考えが指揮する働きの各段階は神の知恵の結晶である。人は常に神に敵対しようとしているが、これに関しては、最後に誰が負けるかは自明であると、わたしは言う。自分のことを黄金より価値があるとみなさないように、わたしはあなたがたに強く勧める。もし他人が神の裁きを受け入れられるなら、なぜあなたにはできないのか。他人に比べてあなたはどれくらい高位に立っているのか。もし他人が真理の前に頭を垂れるなら、なぜあなたもそうできないのか。神の働きには止めることのできない勢いがある。あなたのした「貢献」のためだけに神は裁きの働きを繰り返すことはなく、このような好機を逃すと、あなたは無限の後悔に苛まれることになる。もしわたしの言葉を信じないなら、天空にある偉大な白い玉座があなたに裁きを下すのを待っていなさい。すべてのイスラエル人がイエスを拒絶し否定したが、それでもイエスによる人類の贖罪の事実は全宇宙に、そして地の果てまで広がったことを知らなければならない。これは神がはるか昔に成し遂げた一つの現実ではないのか。もしイエスがあなたを天に引き上げるのをいまだに待っているのなら、あなたは頑固な一片の枯れ木[a]であるとわたしは言う。あなたのような真理に不忠実で、祝福だけを求める偽信者をイエスは認めることはない。それどころか、何万年も焼かれるように火の湖にあなたを投げ入れるのに憐れみを一切見せないであろう。

『神の出現と働き』「キリストは真理をもって裁きの働きを行う」(『言葉』第1巻)

脚注

a.「一片の枯れ木」とは、中国語の慣用句で、「救いがたい」という意味である。


日々の神の御言葉 抜粋 80

裁きとは何か、真理とは何かをいま理解しているか。もししているならば、裁かれることに従順に従うよう強く勧める。さもなければ、神に称賛され、神の国に連れて行かれる機会を得ることは決してないであろう。裁きを受け入れるだけで清められることのできない人、つまり裁きの働きの只中において逃げる人は、永遠に神に嫌われ拒絶される。彼らの罪は、パリサイ人の罪よりもさらに多く、深刻である。彼らは神を裏切り、神の反逆者だからである。奉仕することさえ相応しくないそのような人は、さらに過酷で、加えていつまでも終わることのない懲罰を受ける。言葉では一度は忠誠を誓いながらその後、神を裏切った反逆者を神は容赦することはない。このような人は霊、魂、体の懲罰を通して報復を受けることになる。これこそ、神の義なる性質の明示ではないのか。これが人を裁き、明らかにする神の目的ではないのか。神は裁きのあいだにあらゆる邪悪な行いをする人々すべてを邪悪な霊がはびこる場所に引き渡し、邪悪な霊に彼らの肉体を好きなように破壊させる。彼らの肉体は死臭を放つ。これは彼らにふさわしい報復である。神は、それら不忠実な偽信者、偽使徒、偽働き人の罪を一つひとつその記録書に書き留める。そして、その時が来ると、神は彼らを不浄な霊の真中に投げ入れ、不浄な霊が彼らの全身を思うままに汚すようにし、そのため彼らは決して生まれ変わることはなく、二度と光を見ることはない。一時期は神に仕えるが最後まで忠実であり続けることのできない偽善者は、神が邪悪なものに含めて数え、そのため彼らはみな悪人とぐるになり、烏合の衆の一部となる。最後には神は彼らを滅ぼす。キリストに忠実であったことがない人、自らの強みをもって何らの貢献をしたことのない人を神は脇へやり、省みることはなく、時代が変わるときに彼らをすべて滅ぼす。彼らはもはや地上には存在せず、神の国へ入ることなどなおさらありえない。神に誠実であったことはないが、状況のせいで強制的に神を表面的に取り扱うことになった人は、神の民のために奉仕する人に含めて数えられる。これらの人々のうちほんの一部だけが生き残るが、大半は基準に達しない奉仕をする人々とともに滅ぶ。最後に、神と同じ考えをもつ人すべて、神の民と子ら、そして神に祭司となるよう予め定められた人々を、神は神の国に連れて行く。彼らは神の働きの結晶となる。神が制定した範疇のどれにも当てはめることのできない人は、未信者に含めて数えられる。彼らの結末がどうなるか、あなたがたは確実に想像できることであろう。わたしは既に言うべきことをすべてあなたがたに語った。あなたがたが選ぶ道は、あなたがただけの選択である。あなたがたが理解するべきことはこれである。神の働きは神と足並みをそろえることのできない人を誰も待たず、神の義なる性質はどんな人にも憐れみを示さない。

『神の出現と働き』「キリストは真理をもって裁きの働きを行う」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 81

どの時代においても、神は自身の働きを繰り返さない。終わりの日が到来したので、神は終わりの日に行なう働きを行ない、終わりの日における自身の性質を余すところなく現わす。終わりの日と言うとき、それは別の時代を指しており、その際イエスは、あなたがたは必ずや災害に見舞われ、地震、飢饉、疫病に遭遇すると言ったが、そのことは、それが新しい時代であり、もはや古くなった恵みの時代ではないことを示す。人々が言うように、神が永久に不変で、その性質は常に憐れみ深く慈愛に満ち、人間を自身のように愛し、すべての人に救いを提供し、決して人を憎むことがないのなら、神の働きが終わりを迎えることは果たしてあるだろうか。到来して十字架にかけられ、すべての罪人のために自分を犠牲にし、自身を祭壇に捧げたとき、イエスはすでに贖いの働きを完了させ、恵みの時代に終止符を打っていた。ならば、終わりの日にその時代の働きを繰り返す意味は何だろうか。同じことをするのは、イエスの働きを否定することではないだろうか。もしも神がこの段階に来た際に磔刑の働きを行なわず、慈愛に満ちて憐れみ深いままならば、時代を終わらせることができるだろうか。慈愛に満ちて憐れみ深い神は、その時代に終止符を打つことができるだろうか。時代を終わらせる神の最後の働きにおいて、神の性質は刑罰と裁きであり、神はその中で不義なるすべてのものを暴き、それによってすべての人を公然と裁き、真摯な心で神を愛する人たちを完全にする。このような性質だけが時代を終わらせることができる。終わりの日はすでに来ている。すべての被造物は種類ごとに選り分けられ、その本性を基にして異なる種類に分けられる。その瞬間、神は人の結末と終着点を明らかにする。もし人が刑罰と裁きを受けなければ、その人の不従順と不義を暴く術はない。刑罰と裁きを通じてでなければ、すべての被造物の結末を明らかにすることはできない。罰せられ、裁かれて初めて、人は本当の姿を示す。悪は悪と共に、善は善と共に置かれ、すべての人は種類ごとに選り分けられる。刑罰と裁きを通じ、すべての被造物の結末が明らかにされ、それによって悪人は罰せられ、善人は報いられる。そして、すべての人が神の支配に従属することになる。この働きのすべては義なる刑罰と裁きを通じて達成されなければならない。人の堕落は頂点に達し、人の不従順は極度に深刻になってしまったので、おもに刑罰と裁きから成り、終わりの日に明らかにされる神の義なる性質だけが、人をすっかり変えて完全な者とすることができる。この性質だけが悪を暴き、よってすべての不義なる者を厳しく懲罰することができる。したがって、このような性質には時代の意義が吹き込まれており、神の性質はそれぞれの新しい時代における働きのために顕示され、表出される。そのことは、神が自身の性質を気まぐれに意味もなく明らかにするということではない。終わりの日に人の結末を明らかにする中で、神が依然として人に無限の憐れみと愛を授け、相変わらず人に愛情深く、人を義なる裁きにさらさず、むしろ寛容、忍耐、赦しを示し、人がどんなに深刻な罪を犯してもそれを赦し、義なる裁きが少しもないのであれば、神の経営のすべてはいったいいつ終わりを迎えるだろうか。このような性質がいつ人々を導き、人類の正しい終着点へと連れ出せるだろうか。いつも愛情に満ちている裁判官、優しい表情と柔和な心をもつ裁判官を例に取ってみよう。この裁判官は犯した罪に関係なく人々を愛し、また相手が誰であっても、愛情深く寛容である。そうであれば、いったいいつ正しい判決にたどり着けるのか。終わりの日には、義なる裁きだけが人を種類ごとに選り分け、新しい領域に連れて行くことができる。このように、裁きと刑罰から成る神の義なる性質を通じ、時代全体に終わりがもたらされるのである。

『神の出現と働き』「神の働きのビジョン(3)」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 82

受肉した神の働きはこの上なく有意義である。それは働きについて語られ、最終的に働きを完結させるのは受肉した神であって霊ではない。神はいつか地上に来て、人間に姿を見せ、誰一人残すことなく人類全体を自ら裁き、一人ひとり試みると信じる人がいる。このように考える者は、この受肉の働きの段階を知らない。神は人間を一人ひとり裁きはしないし、一人ずつ試みもしない。それは裁きの働きではない。人類の堕落はどれも同じではないか。人類の実質はすべて同じではないか。裁かれるのは人間の堕落した実質、サタンのせいで堕落した人間の実質、そして人間のあらゆる罪である。神は些細で取るに足らない人間の過ちを裁かない。裁きの働きは代表的なものであり、特定の誰かのために行われるものではない。そうではなく、この働きでは、一群の人々が全人類を代表して裁きを受ける。受肉した神は一群の人々に自ら働きかけることにより、自身の働きを用いて人類全体の働きを代表し、その後、その働きは徐々に広まる。裁きの働きもそのように行われる。神は特定の人や特定の人の集団を裁くのではなく、人類全体の不義を裁く――例えば、神への敵対、神に対する不遜、神の働きの妨害などである。裁かれるのは人類による神への敵対の実質であって、この働きが終わりの日の征服の働きである。人間が目撃する受肉した神の働きと言葉は、終わりの日に行われる大きな白い玉座の前での裁きの働きであり、これは過去に人間が着想したものだが、受肉した神が現在行っている働きこそまさに、大きな白い玉座の前での裁きなのである。今日の受肉した神は、終わりの日に人類全体を裁く神である。この肉体と神の働き、言葉、そして性質全体が神の総体である。受肉した神による働きの範囲は限られているし、宇宙全体に直接関わるものではないが、裁きの働きの実質は、全人類に対する直接の裁きであって、中国の選民のためだけでも、少数の人のためでもない。受肉した神の働きの間、この働きの範囲は全宇宙に及びはしないが、全宇宙への働きを代表しており、受肉した肉体による働きの範囲内でその働きを終えた後、神は直ちにこの働きを宇宙全体に広める。それはちょうど、イエスの福音が彼の復活と昇天の後、全宇宙に広まったのと同じである。霊の働きであろうと、あるいは肉の働きであろうと、それは限られた範囲内で実行される働きだが、宇宙全体への働きを代表している。終わりの日、神は受肉した身分において現れ、それによって自身の働きを行うが、受肉した神は、大きな白い玉座の前で人間を裁く神である。霊であるか肉体であるかにかかわらず、裁きの働きを行うのは、終わりの日に人類を裁く神である。これは、神の働きによって規定されたことであって、神の外見やその他の要素によって決まるものではない。人間はこうした言葉について観念を抱いているが、受肉した神が全人類を裁き、征服することは誰も否定できない。人間がそれをどう考えようと、事実は結局のところ事実である。「働きは神によってなされるが、その肉体は神ではない」とは誰も言えない。これは戯言に過ぎない。この働きは、受肉した神以外にはできないからである。この働きはすでに完了しているのだから、それに続き、神による人間の裁きの働きが再度出現することはあり得ない。二度目に受肉した神は経営全体の働きをすでにすべて完結させており、神の働きの第四段階というものはない。裁かれるのは人間、すなわち肉体を持つ堕落した人間であり、直接裁かれるのはサタンの霊ではないのだから、裁きの働きは霊の世界ではなく、人間のあいだで行われる。

『神の出現と働き』「堕落した人類は、受肉した神による救いをさらに必要としている」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 83

人間の肉体の堕落を裁くことについては、受肉した神以上にふさわしい者はおらず、その資格がある者も神以外にいない。仮に神の霊が直接裁いたならば、それはすべてを含むものではないだろう。そのうえ、そうした働きは、人間にとって受け入れがたいものだったろう。なぜなら、霊は人間と直接会うことができないからであり、そのため効果は即座に上がらず、まして人間が神の侵しがたい性質をより明確に見ることはできないだろう。受肉した神が人類の堕落を裁かなければ、サタンを完全に打ち負かすことはできない。受肉して普通の人間性を備えた神は、人間の不義を直接裁くことができる。これが神本来の聖さと非凡さのしるしである。人間を裁く資格は神だけにあり、また神はその地位にいる。神には真理と義があり、ゆえに人間を裁くことができるからである。真理と義のない者は、他人を裁くのにふさわしくない。この働きが神の霊によって行われたなら、サタンに勝利したことにはならないだろう。霊は本来、死すべき者たちよりも高い地位にあり、神の霊は本質的に聖く、肉体に優る。仮にこの働きを霊が直接行ったならば、人間の不服従を残らず裁くことができず、人間の不義をすべて露わにすることもできないだろう。裁きの働きもまた、神に関する人間の観念を通して行われ、人間は霊について何の観念も抱いたことがないからである。そのため霊は、人間の不義をよりよく暴くことができないし、まして、そうした不義を完全に明らかにすることもできない。受肉した神は、神を知らないすべての者の敵である。人間の観念と神への敵対を裁くことで、神は人類のあらゆる不服従を明らかにする。受肉した神の働きの成果は、霊の働きよりも明らかである。そのため、全人類の裁きは霊が直接行うのではなく、受肉した神の働きなのである。受肉した神は、人間が目で見て触れることができる。また、受肉した神は人間を完全に征服できる。人間は受肉した神との関係の中で、敵対から従順、迫害から受容、観念から認識、そして拒絶から愛へと進化する。これが受肉した神による働きの成果である。人間は神の裁きを受け入れることでのみ救われ、また神の口から出る言葉を通してのみ、徐々に神を知るようになり、神に敵対しているあいだに神に征服され、神の刑罰を受けているあいだにいのちの糧を受ける。この働きはどれも受肉した神の働きであって、霊としての身分を持つ神の働きではない。受肉した神の働きは最も偉大で、最も深遠な働きであり、神による三段階の働きの中で最も大事な部分は、二段階にわたる受肉による働きである。人間の甚だしい堕落は、受肉した神の働きにとって大きな障害である。とりわけ、終わりの日の人々に対する働きは極めて困難で、その環境は敵意に満ちており、どの種類の人々の素質もまことに乏しい。しかし、この働きの終わりには、滞りなく望ましい結果を得る。これが肉の働きの成果であり、この成果は霊の働きの成果よりも説得力がある。神による三段階の働きは、肉において完結する。そしてそれらは、受肉した神によって完結しなければならない。最も重要かつ肝要な働きは肉においてなされ、人間の救いは神が受肉して自ら行わなければならない。人類はみな、受肉した神は人間と関係なさそうだと感じているが、実際には、この肉体こそが、人類全体の運命と存在に関わっているのだ。

『神の出現と働き』「堕落した人類は、受肉した神による救いをさらに必要としている」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 84

今日、神はあなたがたを裁き、あなたがたを罰し、あなたがたを罪に定めるが、罪に定めることの要点はあなたが自分を知るためであることを知らなければならない。神は罪に定め、のろい、裁き、刑罰を与えるが、これはあなたが自分を知るため、あなたの性質が変わるためである。そしてさらに、あなたが自分の価値を知り、神の行動はすべて義であり、それは神の性質と神の働きが要求することに適っていること、神は人を救う計画に従って働くこと、神は人を愛し、救い、裁き、罰する義なる神であることを理解するためである。もしあなたが、自分は地位が低く、堕落して、不従順であることだけを知り、神が今日あなたに行う裁きや刑罰を通して救いを明らかにしようと望んでいることを知らないならば、あなたは経験を得るすべがなく、ましてや前に進み続けることはできない。神は人を殺したり、滅ぼしたりするためにではなく、裁き、のろい、罰し、救うために来た。神の六千年の経営(救いの)計画が終了するまで、つまり神が範疇ごとの人間の結末を明らかにするまでは、地上における神の働きは人の救いのためであり、その目的は神を愛する人を純粋にすっかり完全にし、神の統治の下に服従させることである。神がどのように人を救おうとも、そのすべては人を古いサタン的な性質から脱却させることによってなされる。すなわち、神は人にいのちを求めさせることで救うのである。人がそうしなければ、神の救いを受け入れることはできない。救いは神自身の働きであり、いのちを求めることは救いを受け入れるために人が負わなければならないものである。人の目から見れば、救いは神の愛であり、神の愛は刑罰、裁き、呪いであるはずがない。救いは愛、憐れみ、さらには、慰めの言葉を含んでいなければならず、神から授けられる無限の祝福も含んでいなければならない。神が人を救う時は、神は人を祝福と恵みで動かし、人が心を神に捧げることによって救うのだと人は信じている。すなわち、神が人を動かすのは神が人を救うことなのである。このような救いは取引によって行われる救いである。神が人に百倍のものを授けて初めて、人は神の名の前に服従し、神のために尽くして栄光をもたらそうと努力する。これは人類のための神が意図することではない。神は堕落した人類を救うために地上で働きに来た。このことに嘘はない。もしあれば、神が働きを行うために自ら来ることは絶対になかっただろう。過去において、神の救いは最大限の慈愛と憐れみを見せることで、神は全人類と交換するために自らのすべてをサタンに与えたほどであった。現在は過去とはまったく違っている。今日、あなたがたに与えられる救いは終わりの日に、各人を種類ごとに分類するときに起こる。あなたがたの救いの手段は愛や憐れみではなく、人が徹底的に救われるための刑罰と裁きである。従って、あなたがたが受けるのは刑罰、裁き、容赦のない鞭だけである。知りなさい。この無情な鞭打ちの中に罰はほんの少しもない。わたしの言葉がどんなに辛辣であったとしても、あなたがたに降りかかるのは、あなたがたにはまったく無情だと思われるかもしれないほんの数語だけであり、わたしがどれほど怒っていようとも、あなたがたに注がれるのは教えの言葉であり、わたしはあなたがたに危害を加えるつもりはないし、あなたがたを殺すつもりもない。これはすべて事実ではないのか。今日、義の裁きであろうと、無情な精錬や刑罰であろうと、すべては救いのためであることを知りなさい。今日各人が種類に応じて分類されようと、人の範疇が露わにされようと、神の発する言葉と働きのすべての目的は本当に神を愛する人を救うことである。義の裁きは人を清めるためにもたらされ、無情な精錬は人を浄化するために行われる。厳しい言葉、あるいは懲らしめはどちらも純化のためであり、救いのためである。従って、今日の救いの方法は過去のものとは違う。今日、義の裁きを通してあなたがたに救いはもたらされ、これは種類に応じてあなたがたを分類するためのよい道具である。さらに、無情な刑罰はあなたがたに最高の救いとして機能する。このような刑罰と裁きに直面して、あなたがたは何と言うのか。あなたがたはいつも、初めから終わりまで救いを享受してきたのではなかったのか。あなたがたは受肉の神を見たし、神の全能と知恵も悟った。そのうえ、あなたがたは繰り返し鞭打たれ、訓練も経験した。しかし、あなたがたは最高の恵みも受けたのではないのか。あなたがたの祝福は他の誰のものより大きくないのか。あなたがたの恵みはソロモンが享受した栄光や富よりも遥かに豊富である。考えてもみなさい。もしわたしが来た意図があなたがたを救うことではなく、罪に定め、罰することであったなら、あなたがたはこのように長く生き続けていただろうか。肉と血から成る罪深い存在であるあなたがたは今日まで生き残れていただろうか。もしわたしの目的がただあなたがたを罰するためであったなら、なぜわたしは肉となり、そのような大きな事業に着手していたのか。ただの人間にすぎないあなたがたを罰するには、わずか一言発するだけで済んだのではないのか。わたしはあなたがたをわざわざ罪に定めた後でもなお滅ぼす必要があるのだろうか。あなたがたはわたしのこの言葉をまだ信じないのか。わたしには愛と憐れみだけで人を救うことができるだろうか。それともわたしは人を救うために十字架しか使えないのだろうか。わたしの義なる性質は人を完全に従順にさせるのをさらに促進しないだろうか。それは人を完全に救うことがさらにできるのではないのか。

『神の出現と働き』「地位の祝福は脇に置き、人に救いをもたらす神の心意を理解するべきである」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 85

わたしの言葉は厳しいかもしれないが、それはすべて人を救うために語られる。わたしは言葉を語っているだけで、人の肉を罰しているのではない。この言葉により、人は光の中で生きるようになり、光が存在すること、その光は貴重であること、またこの言葉が人にとっていかに有益であるか、そして神は救いであることを知る。わたしは刑罰と裁きの言葉を数多く語ったが、それが表現することは実際にあなたがたに行われてはいない。わたしは働きを行うために、言葉を話すために来たのであり、わたしの言葉は厳しいかもしれないが、あなたがたの堕落と反抗を裁くために語られる。わたしがこれを行う目的は依然として人をサタンの支配下から救うことである。人を救うためにわたしは言葉を使う。わたしの目的は言葉で人を傷つけることではない。わたしの言葉が厳しいのは、働きから成果を達成するためである。このような働きを通してのみ、人は自分自身を知ることができ、反抗的性質を断つことができる。言葉の働きで一番大きな意義は、真理を理解した人に真理を実践させ、人の性質において変化を達成させ、自分自身および神の働きについての認識を獲得させることである。言葉を話すことで働くことのみが神と人の意思疎通を可能にし、言葉のみが真理を説明できる。このような方法で働くことは、人を征服する最善の手段である。言葉を発すること以外では、真理や神の働きを明確に人に理解させることのできる手段は他にない。そこで神の働きの最終段階において、神は人に話しかけ、人がまだ理解していないすべての真理や奥義を明らかにして、それにより人が神から真理の道といのちを得て、神の心を満足させることができるようにする。神が人に働きかける目的は、人が神の心を満足させることができるようにするためであり、それは人に救いをもたらすために行われる。従って、神による人の救いの期間においては、神は人を罰する働きはしない。人に救いをもたらしつつ、神は悪を罰したり、善人に報いたりせず、さまざまな種類の人の終着点を明らかにすることもない。その代わり、神の働きの最終段階が完了して初めて、神は悪を罰し、善に報いる業を行い、そこで初めてさまざまな種類の人々の最後を明らかにする。罰せられるのは実際に救いようのない人である。一方、救われる人は神が人を救う間に神の救いを獲得した人である。神による救いの働きが行われている間、救われることが出来る人はすべて、最大限まで救われ、誰ひとりとして見捨てられることはない。神の働きの目的は人を救うことだからである。神による人の救いの期間に、自分たちの性質の変化を達成できない者、また、完全に神に従うことのできない者はみな懲罰の対象となる。この段階の働き、すなわち言葉の働きは、人が理解していないあらゆる道と奥義を人に明らかにし、人が神の心意と神が人に要求することを理解できるようにし、神の言葉を実行に移すための前提条件を人が備えられるようにし、性質の変化を達成できるようにする。神は働きを行うためにだけ言葉を使い、人が少し反抗的だからといって罰したりすることはない。今は救いの働きの時だからである。もし反抗的に振舞えば誰でも罰せられるとしたら、誰にも救われる機会がないだろう。誰もが罰せられ黄泉の国に落ちるだろう。人を裁く言葉の目的は、人が自分自身を知り、神に従うようになることである。それはそのような裁きによって人を罰することではない。言葉の働きの期間、多くの人がその反抗性と反逆性を、また受肉の神への不服従を露わにする。しかし、神はこのためにこれらの人をすべて罰したりはしない。そうではなく神は心の芯まで堕落して、救いようのない人を取り除くだけである。神はそのような人の肉をサタンに与え、数は少なくとも場合によっては肉を始末する。残っている者は従い続け、取り扱いと刈り込みを経験する。従っている間もなお取り扱いと刈り込みを受け入れることができず、ますます堕落していくならば、そのような人は救いの機会を失っている。神の言葉による征服を受け入れた一人ひとりには救いの機会が豊富にある。これら一人ひとりの神による救いは、彼らへの神の最大限の情け深さを示している。つまり、彼らには最大限の寛容さが示されるのである。人が間違った道から引き返し、悔い改めることができる限り、神は人に神の救いを受ける機会を与える。人が初めて神に反抗した時、神には人を殺そうなどという願望はない。それよりは、神は人を救うためにできる限りのことをする。本当に救う余地がない人であれば、神は取り除く。神がある種の人をすぐには罰しないのは、救われることができる人をすべてを救いたいからである。神はただ言葉によって人を裁き、啓き、導くのであって、杖で人を殺さない。人に救いをもたらすために言葉を使うことは、神の働きの最終段階の目的と意義である。

『神の出現と働き』「地位の祝福は脇に置き、人に救いをもたらす神の心意を理解するべきである」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 86

神は裁きと刑罰の働きを行なうが、それは人が神についての認識を得られるようにするためであり、また神の証しのためでもある。神が人の堕落した性質を裁かなければ、人は犯すべからざる神の義なる性質を知ることができず、神についての古い認識を新たにすることもできない。神はその証しのため、そして神の経営(救い)のため、その存在すべてを公にし、それによって人は、その神の公的な出現を通して、神の認識に到達し、性質を変化させ、明確な神の証しを立てられるようになる。人の性質の変化は、神のさまざまな働きを通して成し遂げられる。そのような性質の変化なくして、人は神の証しを立てることができず、神の心にかなうこともできない。人の性質の変化は、人がサタンの束縛と闇の影響から解放され、真に神の働きの見本かつ標本、神の証人、そして神の心にかなう者となったことを意味する。今日、受肉した神はその働きを行なうため地上に到来した。そして神は、人が神を認識し、神に服従し、神の証しとなって、神の実際的な普通の働きを知り、人の観念と合致しない神の言葉と働きのすべてに従い、神が人間を救うために行なうあらゆる働きと人間を征服するために成し遂げるあらゆる業の証しをすることを求めている。神の証しをする人々は、神についての認識を持たなければならない。この種の証しだけが正確かつ現実的であり、この種の証しだけがサタンを恥じ入らせることができる。神はその裁きと刑罰、取り扱いと刈り込みを経験することで神を知るようになった人々を用いて、自らを証しさせる。神はサタンにより堕落させられた人々を用いて自らを証しさせると同時に、性質が変わったことで神の祝福を得た人々を用いて自らを証しさせる。神は人による口先だけの称賛を必要とせず、神に救われていないサタンの同類による称賛や証しも必要としない。神を知る人々だけが神の証しをする資格があり、その性質が変化させられた人々だけが神の証しをする資格がある。神は人が意図的に神の名を汚すことを許さない。

『神の出現と働き』「神を知る者だけが神に証しをすることができる」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 87

神はどのような手段で人を完全にするのか。それは神の義なる性質によって成し遂げられる。神の性質はおもに義、怒り、威厳、裁き、呪いから成り立っており、神はおもに裁きという手段で人を完全にする。中にはそれが理解できず、なぜ神は裁きと呪いによってしか人を完全にできないのかと問う人がいる。そのような人は「神が人を呪ったら、人は死ぬのではないか。神が人を裁いたら、人は断罪されるのではないか。それにもかかわらず、人はどうして完全になれるのか」と言う。神の働きを理解しない人はこのように言うのである。神が呪うのは人間の不従順であり、神が裁くのは人間の罪である。神の言葉は厳しく容赦がないものの、人の中にあるあらゆるものを明らかにし、そうした厳しい言葉を通じて人の中にある本質的な物事を露わにするが、神はそのような裁きを通じて肉の本質に関する深遠な認識を人に授け、そうして人は神の前で服従する。人の肉は罪から成り、サタンに属するものであり、不従順であり、神の刑罰の対象である。ゆえに、人に自分を認識させるには、神の裁きの言葉がその人に降りかかり、ありとあらゆる精錬が用いられなければならない。そのとき初めて神の働きは成果を生む。

神の語る言葉から、神はすでに人の肉を断罪したことがわかる。では、その言葉は呪いの言葉ではないのか。神によって語られる言葉は人の本性を暴き、その人はそうした暴きを通じて裁かれる。そして神の旨を満たせないと知ったとき、心の中で悲しみと悔恨を感じ、自分が神に大きな借りがあり、神の旨に到達できないことを感じるのである。時として、聖霊が内側からあなたを懲らしめることがあるが、この懲らしめは神の裁きに由来する。時として、神があなたを責め、あなたから顔を隠し、あなたに注意を払わず、あなたの中で働きを行なわず、あなたを精錬すべく無言で罰することがある。人における神の働きは、おもに神の義なる性質を明らかにするためのものである。最終的に、人は神に対してどのような証しを行なうのか。神が義なる神であること、そして神の性質が義、怒り、刑罰、裁きであることを、人は証しする。つまり、人は神の義なる性質を証しするのである。神は自身の裁きを用いて人を完全にしており、人を愛し、救ってきた。しかし、神の愛にはどれだけのものが含まれているのか。そこには裁き、威厳、怒り、呪いがある。神は過去に人を呪ったが、底なしの淵に完全に放り投げたわけではなく、そうした手段を用いて人の信仰を精錬した。人を死に追いやったわけではなく、人を完全にすべく業を行なったのである。肉の本質はサタンに属するものである。それは神が言った通りなのだが、神が為した事実はその言葉通りに成就したのではなかった。神があなたを呪うのは、あなたが神を愛するようになるため、肉の本質を知るようになるためである。神があなたを罰するのは、あなたが目覚めるようにするため、そして内なる欠点を認識し、人が完全に無価値であることを知るようにするためである。このように、神の呪い、裁き、威厳、怒りはどれも、人を完全にするためのものである。神が今日行なうすべてのこと、神があなたがたの中で明らかにする自身の義なる性質は、いずれも人を完全にするためのものである。それが神の愛である。

『神の出現と働き』「辛い試練を経験することでのみ、神の素晴らしさを知ることができる」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 88

人は自身の伝統的な観念の中で、神の愛は恵み、慈悲、そして人の弱さに対する憐れみだと信じている。それらも神の愛ではあるが、あまりに一方的であり、神が人を完全にする主たる手段ではない。病気のために神を信じ始める人もいるが、その病気はあなたに対する神の恵みである。それがなければ、あなたは神を信じることがなかったはずだ。そして神を信じていなければ、ここまで到達することはなかっただろう。ゆえに、そうした恵みでさえも神の愛なのである。イエスを信じていたとき、人々は真理を理解していなかったので、神に愛されないようなことを多数行なった。しかし、神には愛と慈悲があり、人をここに至らせた。そして、人が何も理解していないにもかかわらず、神は人が自分に従うのを許し、さらには人を今日へと導いてきたのである。これは神の愛ではないのか。神の性質において表わされるのは、神の愛である。これはまったく正しい。教会の建設が頂点に達したとき、神は効力者という段階の働きを行ない、人を底なしの淵に放り投げた。効力者の時代における言葉はすべて呪いだった。つまり、あなたの肉への呪い、堕落したサタン的性質への呪い、そしてあなたに関することのうち、神の旨を満たさないものへの呪いである。その段階で神が行なった働きは威厳として表わされた。その直後、神は刑罰という段階の働きを実行し、死の試練がもたらされた。そのような働きの中、人は神の怒り、威厳、裁き、刑罰を目の当たりにしたが、同時に神の恵み、愛、そして慈悲も見たのである。神が行なったすべてのこと、そして神の性質として表わされたすべてのことは人に対する愛であり、神が行なったすべてのことは、人の必要を満たすことができた。神がそれを行なったのは人を完全にするためであり、人の霊的背丈に応じて糧を施したのである。神がそれを行なっていなければ、人は神の前に出られず、神の真の顔を知る術は一切なかったはずだ。人が最初に神を信じ始めた時から今日に至るまで、神は人の霊的背丈に応じて徐々に糧を施し、人が内面において少しずつ神を知るようにしたのである。今日に至って初めて、人は神の裁きの素晴らしさに気づく。効力者という段階の働きは、創世から今日に至るまでの中で、最初になされた呪いの働きの実例だった。人は呪われて底なしの淵に放り込まれたが、仮に神がそれを行なわなければ、人は今日、神に対する真の認識を得ていなかっただろう。神の呪いを通じてでなければ、人が正式に神の性質と出会うことはなかったのである。人は効力者の試練を通じて暴かれる。自分の忠誠が受け入れ難いものであり、霊的背丈があまりに小さく、神の旨を満たせず、いつでも神を満足させるという自分の主張が言葉に過ぎないことを理解したのである。効力者という段階の働きにおいて、神は人を呪ったものの、今振り返ると、神の働きのその段階は素晴らしいものだった。人にとって素晴らしい転機となり、いのちの性質を大きく変えたからである。効力者の時代の前、人はいのちを追い求めること、神を信じる意味、あるいは神の働きの知恵を何ら理解しておらず、神の働きが人を試せることも理解していなかった。効力者の時代から今日に至るまで、人は人知を超える神の働きがいかに素晴らしいかを目の当たりにしている。人の頭脳では、神がいかに働きを行なうかなど理解できないし、自分の霊的背丈がいかに小さいかや、自分に不従順な物事があまりに多いことを悟ってもいる。神が人を呪ったとき、それはある効果を生じさせるためであり、人を死に追いやることはなかった。神は人を呪ったものの、それは言葉によって行なわれたのであり、神の呪いが実際に人に降りかかることはなかった。なぜなら、神が呪ったのは人の不従順であり、ゆえに神が呪いの言葉を発したのは人を完全にするためでもあったからである。神が人を裁くにしても、あるいは呪うにしても、それは人間を完全にする。どちらも人の中にある不純なものを完全にすべくなされるのである。この手段を通じて人は精錬され、人の中に欠けているものが神の言葉と働きを通じて完全にされる。厳しい言葉であれ、裁きであれ、あるいは刑罰であれ、神の働きの各段階は人を完全にするものであり、絶対的に適切なものである。どの時代においても、神がこのような働きを行なったことはない。今日、あなたがたが神の知恵を理解するよう、神はあなたがたの中で働きを行なっている。あなたがたは内面においていくばくかの苦痛を味わってきたが、心は安定していて平安である。神の働きのこの段階を享受できるのは、あなたがたの祝福である。将来得られるものが何であるかにかかわらず、あなたがたが今日、自分における神の働きの中で見られるものは愛である。神の裁きと精錬を経験しなければ、その人の行ないや情熱は表面的なものにとどまり、性質はいつまでも変わらない。それで神に得られたと言えるのか。今日、人の中には傲慢やうぬぼれがいまだ数多くあるものの、その性質は以前に比べてずっと安定している。神があなたを取り扱うのはあなたを救うためであり、取り扱われる際に苦痛を感じることがあっても、あなたの性質に変化が起こる日はいずれやって来る。その時、あなたは振り返って神の働きがいかに賢明かを知る。またその時、あなたは神の旨を真に理解できる。今日、自分は神の旨を理解していると言う人がいる。しかし、それはまったく現実的でない。実際のところ、彼らは嘘をついている。と言うのも、目下のところ、神の旨が人を救うことなのか、それとも呪うことなのか、彼らはまだわかっていないからである。おそらくあなたは、今ははっきりとわからないだろう。しかし、神が栄光を得る日がすでに訪れたことを知るときがいつか来る。また、神を愛することがいかに意義深いかを知ることで、あなたは人生を知るようになり、あなたの肉は神を愛する世界に生きる。あなたの霊は解放され、あなたの生活は歓びに溢れ、あなたは常に神のそばにいて神を仰ぎ見る。その時あなたは、今日の神の働きがいかに価値あるものかを真に理解する。

『神の出現と働き』「辛い試練を経験することでのみ、神の素晴らしさを知ることができる」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 89

現在なされている働きは、人々に古い祖先であるサタンを捨て去らせるためのものだ。言葉による裁きはすべて、人間の堕落した性質を明らかにし、人々に人生の本質を理解させることを目的としている。繰り返されるこれらの裁きはすべて、人々の心を貫き通す。一つ一つの裁きは人々の運命に直接関連しており、人々の心を傷つけるためのものだ。その結果、彼らはそれらすべてを手離し、それによって人生を知り、この汚れた世界を知り、神の知恵と全能性を知り、そしてサタンに堕落させられた人類を知ることができるからだ。この種の刑罰や裁きを受ければ受けるほど、人の心は傷つき、霊は目覚めることができる。こうした極端に堕落し、最も深く騙されている人々の霊を目覚めさせることが、この種の裁きの目標である。人には霊がなく、すなわち人の霊はとうの昔に死んでしまっていて、人は天が存在することも神が存在することも知らず、自分が死の淵で葛藤していることなど知るよしもない。自分がこの邪悪な地上の地獄に生きていることなど、どうして知ることができようか。自分のこの腐った屍が、サタンによる堕落のため黄泉の国に落ちたのだと、どうして知ることができようか。地上のすべてはもうずっと前から、人類によって修復不能なほどに破壊されてしまっていることを、どうして知ることができようか。そして今日、創造主が地上に到来し、救うことができる堕落した人々を探していることを、どうして知ることができようか。ありとあらゆる精錬と裁きを体験した後でさえ、人の鈍った良心はほとんど奮い立つこともなく、事実上まったく反応しない。人間はいかに堕落していることか! この種の裁きは空から降って来る残酷な雹のようなものだが、人にとっては甚大な利益がある。人々がこのように裁かれなければ、何の成果も得ることはできず、人々を苦悩の淵から救い出すのはまったく不可能だろう。この働きがなければ、人々が黄泉の国から這い上がることは非常に難しいだろう。彼らの心ははるか昔に死んでおり、彼らの霊ははるか昔にサタンに踏みにじられてしまったからだ。堕落の底に沈み込んでしまったあなたがたを救うには、熱心にあなたがたに呼びかけ、熱心に裁くことが必要であり、そうして初めてあなたがたの凍りついた心を呼び覚ますことができるのだ。

『神の出現と働き』「完全にされた者だけが意義ある人生を生きられる」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 90

神は最も遅れた不浄の地で肉となったが、そうすることでのみ、神はその聖く義なる性質のすべてをはっきり示すことができる。では、神の義なる性質は何を通じて示されるのか。それは神が人の罪を裁くとき、サタンを裁くとき、罪を忌み嫌うとき、神に反対、反抗する敵を憎むときに示される。わたしが今日語る言葉は、人の罪を裁き、人の不義を裁き、人の不従順を呪うためである。人の狡猾さや不実さ、人の言葉や行ないなど、神の旨にそぐわないものはどれも裁きの対象にされなければならず、人の不従順はすべて罪として非難されなければならない。神の言葉は裁きの原則を中心としており、神は人の不義を裁き、人の反抗心を呪い、人の醜い顔を暴くことで神自身の義なる性質を明らかにする。聖さは神の義なる性質の表われの一つであり、神の聖さとは実のところ神の義なる性質なのである。あなたがたの堕落した性質が今日の言葉の背景であり、わたしはそれを用いて語り、裁き、征服の働きを実行する。それだけが実際的な働きであり、それだけが神の聖さを完全に光り輝かせる。あなたの中に堕落した性質の痕跡が一切なければ、神はあなたを裁かず、あなたに神の義なる性質を示すこともない。あなたには堕落した性質があるのだから、神はあなたを逃さず、これを通じて神の聖さが示される。もしも神が人の汚れと反抗心があまりに大きいことを知りながら、語ることもあなたを裁くこともせず、あなたの不義を罰することもないならば、それは神ではないことを証明する。罪に対する憎しみがなく、人と同じくらい汚れているからである。今日、わたしがあなたを裁くのはあなたの汚れのためであり、わたしがあなたを罰するのはあなたの堕落と反抗心のためである。わたしはあなたがたに力を見せびらかしているのでも、わざとあなたがたを抑圧しているのでもない。わたしがそうしたことを行なうのは、この不浄の地に生まれたあなたがたが、かくも深く汚れに染まっているからである。あなたがたは、汚れた場所で暮らす豚のように高潔さと人間性をすっかり失った。あなたがたが裁かれ、わたしがあなたがたに怒りを解き放つのは、あなたがたの汚れと堕落のためである。まさにこれらの言葉の裁きのために、神が義なる神であること、神が聖い神であることをあなたがたは理解できたのである。まさに神の聖さと義のために、神はあなたがたを裁き、あなたがたに怒りを解き放つのである。まさに人類の反抗心を見るがゆえに、神は自身の義なる性質を明かすのである。人類の汚れと堕落のために、神の聖さが明かされる。これは神が神自身であり、聖く汚れがない存在でありながら、不浄の地で暮らしていることを示すのに十分である。人が誰かと悪事にふけり、聖いところも義なる性質もなければ、その人に人間の不義を裁く資格はなく、人間の裁きを実行するのにもふさわしくない。互いに同じくらい汚れている人たちに、どうして自分と似た者を裁く資格があるだろうか。聖い神自身だけが汚れた人類全体を裁けるのである。人がどうして人の罪を裁けようか。人の罪を見てその罪を非難する資格がどうして人にあり得ようか。神に人の罪を裁く資格がないのであれば、どうしてそれが義なる神自身でありえようか。神が人を裁くために語るのは、人が堕落した性質を示すからであり、そのとき初めて、神が聖い神であることを人は目の当たりにすることができる。神が人の罪を暴きつつ、その罪を裁き罰するとき、その裁きから逃れられる人や物はない。汚れているものはすべて神に裁かれるが、そうすることでのみ神の性質は義だと示される。さもなければ、あなたがたが名実ともに引き立て役だとどうして言えるだろうか。

『神の出現と働き』「征服の働きの第二段階の効果はいかにして成し遂げられるのか」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 91

イスラエルで行なわれた働きと今日の働きには大きな違いがある。ヤーウェはイスラエル人の生活を導き、刑罰や裁きはさほどなかった。当時、人はこの世のことをあまりに理解しておらず、堕落した性質がほとんどなかったからである。その時代、イスラエル人は言わず語らずヤーウェに従った。ヤーウェが祭壇を建てるように言えばすぐに建てたし、祭司の衣服をまとうように言えばそれに従った。当時、ヤーウェは羊の群れを牧する羊飼いのようであり、羊は羊飼いの導きに従って草場の草を食んだ。ヤーウェは彼らの生活を導き、衣食住や旅の仕方を指導した。当時は神の性質を明らかにする時ではなかった。当時の人類は生まれたばかりであり、反抗的かつ敵対的な者はほとんどおらず、人類のあいだに汚れもさほどなかったので、人は神の性質の引き立て役を務めることができなかったからである。神の聖さが示されるのは、不浄の地から来る人を通じてである。今日、神は不浄の地の人が示す汚れを用いて裁きを行なうが、そのようにして裁きのさなかに神であるものが表わされる。神はなぜ裁くのか。神は罪を憎むので裁きの言葉を語ることができる。人類の反抗心を忌み嫌っていなければ、どうしてそこまで怒ることができるというのか。神に嫌悪や不快が一切なく、人の反抗心を気に留めなかったならば、それは神が人と同じくらい汚れていることを証明するであろう。神が人を裁き罰することができるのは汚れを忌み嫌うからであり、神が忌み嫌うものは神の中に存在しない。神の中にも抵抗や反抗心があれば、神が敵対的で反抗的な者を憎まないであろう。終わりの日の働きがイスラエルで行なわれたなら、それには何の意味もないであろう。中国というどこよりも暗く遅れた地で終わりの日の働きが行われているのはなぜか。それは神の聖さと義を示すためである。要するに、その地が暗ければ暗いほど、神の聖さがさらに明瞭に示されるのである。事実、このことはすべて神の働きのためである。今日あなたがたは初めて、神が天から降臨して自分たちのあいだに立ち、自分たちの汚れと反抗が際立たせていることに気づいた。そして今初めて、あなたがたは神を知る。これは最も偉大な高揚ではないか。実のところ、あなたがたは中国における選ばれた民の一団である。あなたがたが選ばれて神の恵みを享受したが、偉大な恵みを享受するのにふさわしくないのだから、これはすべてあなたがたが最大限に高く掲げられていることを証明する。神はあなたがたの前に姿を現わし、その聖い性質を残らずあなたがたに示し、そのすべてをあなたがたに授け、享受し得るすべての祝福をあなたがたに享受させた。あなたがたは神の義なる性質を味わっただけでなく、それ以上に、神の救い、神の贖い、無限の神の愛を味わった。他の何より汚れた存在であるあなたがたが、そのような偉大な恵みを享受したのである。あなたがたは祝福されていないのか。これは神による高揚ではないのか。あなたがたは最も地位が低く、こうした偉大な祝福を享受するのに本質的にふさわしくない。それでも神はあなたがたを高揚して例外を設けたのである。あなたは恥ずかしくないのか。自分の本分を尽くせなければ、最後は自分を恥じて罰することになる。今日、あなたは鍛錬されておらず、懲罰されてもいない。あなたの肉は安全かつ健全だが、最終的にこの言葉があなたに恥をかかせる。今のところ、わたしは誰一人として公然と罰していない。わたしの言葉は厳しいかもしれないが、わたしは人にどのように振る舞うのか。わたしは人を慰め、訓戒を与え、記憶を呼び起こす。わたしがそうするのはあなたがたを救うために他ならない。あなたがたは本当にわたしの旨を理解していないのか。あなたがたはわたしの言うことを理解し、それに鼓舞されなければならない。今ようやく、理解する人が数多くいる。これが引き立て役であることの祝福ではないのか。引き立て役であるのは最も祝福されたことではないのか。最終的に、福音を広めに行くとき、あなたがたは「わたしたちは典型的な引き立て役です」と言う。すると相手が「典型的な引き立て役だというのはどういうことか」と訊くので、「わたしたちは神の働き、そして神の偉大な力の引き立て役です。わたしたちの反抗心が神の義なる性質全体を明らかにするのです。わたしたちは終わりの日における神の働きに奉仕する存在であり、神の働きの付属物、またその道具なのです」と答える。それを聞くと相手は興味をそそられる。次にあなたはこう言う。「神が全宇宙の働きを完了させ、全人類を征服するにあたり、わたしたちはその見本にして模範なのです。要するに、聖かろうと汚れていようと、わたしたちはやはりあなたがたよりも祝福されています。わたしたちはすでに神を見ており、また神がわたしたちを征服するという機会を通じて、神の偉大な力が示されるからです。神の義なる性質が強調されたのは、ひとえにわたしたちが汚れて堕落しているからです。あなたがたは終わりの日における神の働きをこのように証しすることができますか。あなたがたにその資格はありません。これはわたしたちを神が高揚していることに他ならないのです。たとえ傲慢でなくても、わたしたちは誇りをもって神を讃えることができます。かくも偉大な約束を受け継げる人は誰もおらず、かくも偉大な祝福を享受できる人もいないからです。神による経営において、かくも汚れている自分たちが引き立て役として働けることに、わたしたちは深く感謝しています」。そして「見本と模範とは何ですか」と訊かれたら、あなたはこう答える。「わたしたちは人類の中で最も反抗的かつ汚れた存在です。サタンに最も深く堕落させられ、最も遅れて卑しい肉の存在なのです。わたしたちはサタンに利用された者の典型的な実例です。今日、わたしたちは人類の中で最初に征服される者として神に選ばれ、神の義なる性質を目の当たりにし、神の約束を受け継いできました。さらに多くの人を征服するのに用いられるので、わたしたちは人類の中で征服される者の見本にして模範なのです」。この言葉以上に優れた証しはなく、これはあなたの最上の経験である。

『神の出現と働き』「征服の働きの第二段階の効果はいかにして成し遂げられるのか」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 92

あなたがたに行われる征服の働きはもっとも意義深い。ある見方では、この働きの目的は一つの集団を完全にすることである。つまり、この人たちを完全にすることであり、彼らは完全にされた最初の一群、言わば初穂として勝利者の集団となる。別の見方では、それは被造物に神の愛を享受させ、神の完全で最も偉大な救いを受けさせ、人間が憐れみと慈愛を享受するだけではなく、さらに重要なことに、刑罰と裁きをも享受させることなのである。創世の時から今日に至るまで、神がその働きで行ったことはすべて愛であり、人間への憎しみは欠片ほどもない。あなたの見た刑罰と裁きでさえ愛であり、それはさらに真実で現実的な愛であり、人を人生の正しい道へと導く愛である。また別の見方では、これはサタンの前で証しすることである。そしてもうひとつの見方では、それは将来の福音の働きを広めるための基礎を築くことである。神が行ったすべての働きは、人を人生の正しい道へと導くことがその目的であり、それにより人間として正常な生き方ができるようにする。なぜなら人間はどのように人生を歩むべきか知らないからである。この導きがなければ、虚しい人生しか送れない。あなたの人生は価値のない無意味なものになり、正常な人間でいることなどまったくできない。これが人間を征服することの最も深い意義である。あなたがたはみなモアブの子孫である。あなたがたに征服の働きが行われることは、大きな救いである。あなたがたはみな罪と放蕩の場所で生きており、あなたがたはみな淫らで罪深い。今日、あなたがたは神を見ることができるだけではなく、もっと重要なことに、刑罰と裁きを受け、真に深い救い、つまり、神の最大の愛を受けた。することすべてにおいて、神はあなたがたに真に愛情深く接している。神に悪意はまったくない。神があなたがたを裁くのは、あなたがたの罪ゆえであり、それはあなたがたが自省し、このすばらしい救いを受けられるようにするためである。これはみな人間を完全にすることを目的として行われる。始めから終わりまで、神は人間を救うために全力を尽くしており、神が自らの手で創造した人間を完全に破壊したいという願望はない。今、神は働くためにあなたがたのもとに来ているが、これはなおさら救いではないのか。もし神があなたがたを憎んでいるのなら、あなたがたを直接導くためにそれ程大きな働きをするだろうか。なぜ神がそのように苦しむ必要があるのか。神はあなたがたを憎んでいないし、あなたがたに何の悪意ももっていない。あなたがたは神の愛が最も真実な愛であることを知らなければいけない。神が裁きを通して人を救わなければならないのは、唯一人が不服従だからである。そうでなければ、人を救うのは不可能であろう。あなたがたはいかに生きるべきかを知らず、いかに生きるべきかに気づいてもいないため、また、あなたがたはこの淫らで罪深い地に住み、あなたがた自身が淫らで汚れた悪魔であるため、神はあなたがたがいっそう堕落してゆくままにしておくことに耐えられず、また、あなたがたが現在のようにこのような汚れた地で生活し、サタンの思うままに踏みつけられるのは見るにしのびず、あなたがたがハデスに落ちてゆくままにしておくことには耐えられないのである。神はただこの集団の人たちを獲得し、あなたがたを完全に救いたいと願っている。これがあなたがたに征服の働きを行う主要目的である。ただ救いのためである。もしあなたに為されていることはすべて愛と救いであるということがわからないのなら、これが単なる方式の一つ、人間を苦しめる方法の一つであり、信用できないものであると考えるのなら、あなたは自分の世界に戻り苦痛と苦難を受けた方がいいであろう。もし自らこの流れの中に身を置き、この裁きとこの大いなる救いを楽しみ、人間世界のどこにも見いだせないこの祝福のすべてとこの愛を享受したいなら、善であれ。この流れの中に留まり、完全にされるように征服の働きを受け入れなさい。今、あなたは神の裁きのために苦痛と鍛錬を少々体験しているかもしれないが、この苦痛には価値と意味がある。人間は神の刑罰と裁きにより精錬され、容赦のない暴露を受け、その目的は罪ゆえに人を罰し人の肉体を罰することであるが、このどれも肉を罪に定めて滅ぼすことを意図してはいない。言葉による厳しい暴露はすべてあなたを正しい道に導くためである。あなたがたはこの働きの多くを直接に体験しており、明らかにそれはあなたがたを悪の道へとは導かなかった。それはすべてあなたに正常な人間性を実際に生きさせるためであり、これはみなあなたがたの正常な人間性をもって達成できる。神の働きの一つひとつの段階はあなたの必要にもとづいて、あなたの弱点と実際の背丈に沿っており、荷えないような重荷は一つとしてあなたがたの上には置かれていない。今日あなたにはこのことが明らかではなく、まるでわたしがあなたに厳し過ぎるように感じている。わたしが毎日あなたを罰し、裁き、責めるのは、わたしがあなたを憎んでいるからだと確かにあなたはいつも思っている。しかし、あなたが受けて苦しむのは刑罰と裁きだが、これは実際はすべてあなたへの愛であり、最も偉大な保護である。もしこの働きの深い意味が把握できないのなら、あなたが経験を続けることは不可能である。この救いはあなたに慰めをもたらすべきである。我に返るのを拒んではならない。ここまで来たのだから、この征服の働きの意義はあなたにはっきりわかるはずである。このことについて、もはやあれこれと考えを抱いてはならない。

『神の出現と働き』「征服の働きの内幕(4)」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 93

終わりの日における神の裁きと刑罰の働き、すなわち、最後の清めの働きの中で揺るぎなく立てる者たちが、神と共に最後の安息に入る者たちである。このように、安息に入る者はみな、神による最後の清めの働きを経たあと、サタンの支配から解放され、神によって得られている。最終的に神によって得られたこのような人々が、最後の安息へと入るのである。神による刑罰と裁きの働きの目的は、本質的に、最後の安息のために人類を清めることである。こうした清めがなければ、人類の誰も、種類に応じて異なる種類に選り分けられることができず、安息に入ることもできない。この働きは、人類が安息に入るための唯一の道なのである。神による清めの働きだけが人類の不義を清め、神による刑罰と裁きの働きだけが人類の不従順な要素を明るみに出す。それによって、救われる人と救われない人、留まれる人と留まれない人が選り分けられる。この働きが終わるとき、留まることを許された人はみな清められ、人類のより高い境地に入って、地上でのさらにすばらしい第二の人生を享受する。言い換えると、彼らは人類の安息の日を開始し、神と共存するのである。留まることを許されない者たちは罰せられ、裁かれたあと、正体が完全に暴かれる。その後はみな滅ぼされ、サタンと同じように、地上で生き残ることをそれ以上許されない。未来の人類に、この種類の人々はもはや含まれない。このような人々は最後の安息の地に入る資格がなく、神と人類が共有する安息の日に加わる資格もない。なぜなら、彼らは懲罰の対象であり、邪悪で、不義なる人だからである。彼らはかつて贖われ、また裁かれ、罰せられたことがあり、神への奉仕をしたこともある。しかし、終わりの日が来るとき、彼らはやはり、自身の邪悪のゆえに、そして不従順さと、贖う術もない有様の結果として、淘汰され、滅ぼされる。彼らが未来の世界に再び生まれることはないし、未来の人類のあいだで生きることもない。死者の霊であれ、いまだ肉体の中で生きている人であれ、人類の中の聖なる者たちがひとたび安息に入ると、悪を働く者や救われなかった者はみな滅ぼされる。悪を働くこれらの霊や人々、または義人の霊や義を行う人々が、どの時代に属していたとしても、悪を行う者はみな最後に滅ぼされ、義なる人はみな生き残る。人あるいは霊が救いを受けるかどうかは、終わりの時代の働きによってのみ決まるのではなく、むしろ、神に逆らってきたかどうか、あるいは神に背いてきたかどうかによって決まるのである。悪事を犯して救われなかった以前の時代の人々は、間違いなく懲罰の対象となる。そして、悪事を犯して救われない今の時代の人々も、間違いなく懲罰の対象となる。人々は善悪を基に分類されるのであって、生きる時代を基に分類されるのではない。ひとたびこのように分類された後も、人々はただちに懲罰されたり報いを受けたりするのではない。むしろ神は、終わりの日における征服の働きを遂行して初めて、悪を行う者を罰し、善を行う者に報いる働きを行う。実を言えば、人類の救いという働きを始めて以来ずっと、神は人類を善と悪に選り分けている。それは単に、働きが完了して初めて、神が義なる人に報いて悪人を罰するということに過ぎない。働きを終えるや否や人々を種類ごとに選り分け、その後すぐ、悪を罰して善に報いる任務に取りかかるというわけではないのである。そうではなく、神の働きが完全に終わって初めて、この任務がなされるのである。悪を罰し、善に報いるという神の最終的な働きの目的は、ひとえに全人類を徹底的に清めることであり、それによって、完全に聖くなった人類を永遠の安息に導き入れることができる。神のこの段階の働きこそが最も重要であり、神による経営の働き全体の最終段階である。神が悪しき者たちを滅ぼさず、彼らが留まることを許してしまえば、どの人間もやはり安息の中に入ることができず、神も全人類をよりよい領域に導き入れることができない。このような働きが完結することはないだろう。神の働きが終わるとき、全人類は完全に聖いものとなる。このようにして初めて、神は安息の中で安らかに暮らせる。

『神の出現と働き』「神と人は共に安息へと入る」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 94

わたしの足跡は宇宙と地の隅々まで行き渡っており、わたしの目はありとあらゆる人を絶えず細かく観察しており、さらにわたしは宇宙全体を見守っている。わたしの言葉は実際に宇宙の隅々で働いている。わたしに奉仕しようとしない者、わたしに不実であろうとする者、わたしの名に裁きを下そうとする者、わたしの子らを罵り中傷しようとする者──真にそのようなことができる者は誰であれ、厳しい裁きを受けなければならない。わたしの裁きは完全に下される。すなわち今は裁きの時代であり、注意深く観察すれば、わたしの裁きが宇宙世界全体に及ぶことがわかるだろう。もちろんわたしの家も例外ではない。考えや言葉、行動がわたしの旨に一致しない者は裁かれることになる。このことを理解しなさい。わたしの裁きは全宇宙世界に向けられており、特定の人々や物事に向けられているのではない。このことに気づいただろうか。心の奥でわたしについての考えが葛藤を起こしているなら、あなたはただちに内面で裁かれることになるだろう。

わたしの裁きはあらゆる形と形式をとって行われる。このことを知りなさい。わたしは宇宙世界で唯一の賢い神である。わたしの力に勝るものはない。わたしの裁きはすべて露わにされる。思考の中でわたしについて葛藤しているなら、わたしはあなたを啓く。それは警告だ。それを聞こうとしなければ、わたしはただちにあなたを見捨てる(これはわたしの名を疑うということではなく、肉の快楽に関連する外的な行動を意味している)。わたしに対する考えが反抗的で、わたしに不平を言い、何度もサタンの意見を受け入れ、いのちの感覚に従わないなら、あなたの霊は暗闇に入り、肉体は痛みに苦しむだろう。あなたはもっとわたしに近づかなければならない。わずか一日か二日で正常な状態を回復することなど絶対に不可能であり、あなたのいのちは目に見えて大きく後れを取るだろう。自堕落に話す人々よ、わたしはあなたの口と舌を懲らしめ、あなたの舌を取り扱いの対象とする。抑制なく自堕落な行動をしている人々よ、わたしはあなたの霊に警告し、聞こうとしない者は厳しく罰する。公然とわたしを裁き反抗する人々、つまり言葉や行為で不従順を示す人々は、完全に淘汰し見捨て、滅びに至らしめて最高の祝福を失わせる。これは選ばれた後に淘汰されることになる人々だ。無知な人々、つまりビジョンが明確でない人々は、まだ啓示を与えて救うが、真理を理解していながら実践しない人々は、無知であろうとなかろうと、先に述べた規定に従って処罰されることになる。最初から誤った意図を持っていた人々は、永久に現実を把握できないようにし、最終的には徐々に一人ずつ淘汰していく。一人として残ることはないが、彼らはまだ今はわたしの采配によって残っている(わたしは物事を急がず、秩序立てて行うからだ)。

わたしの裁きは完全に明らかにされ、さまざまな人々に向けられている。人々はみな所定の位置につかねばならない。わたしは人々がどの規定を破ったかに従って、彼らを管理し裁く。この名によらない者、終わりの日のキリストを受け入れない者には、ただ一つの規定が適用される――逆らう者は誰であれ、ただちにその霊、魂、体を取り上げ、ハデスに投げ入れるだろう。逆らわない者は皆、成熟するのを待ってから第二の裁きを行う。わたしの言葉はすべてを完全に明確に説明し、何も隠されることはない。わたしが望むのはただ、あなたがたが常にわたしの言葉を心に留めておけるということだけだ。

『神の出現と働き』「キリストの初めの言葉、第六十七章」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 95

終わりの日とは、すべてのものが征服を通して、その種類に分類される時のことである。征服は終わりの日の働きである。つまり、一人ひとりの罪を裁くことが終わりの日の働きである。そうでなければ、どうして人を分類できるというのか。あなたがたの間で行われる分類の働きは、全宇宙におけるそうした働きの始まりである。この後、すべての地のあらゆる民も征服の働きの対象となる。つまり、被造物であるすべての人が種類別に分類され、裁きの座の前で服従し、裁かれるということである。誰一人、何ものもこの刑罰と裁きの苦しみから逃れることはできない。また、誰も何ものも種類別に分類されることを避けることはできない。あらゆる人が種類ごとに分けられる。それは、万物の終わりが近く、天地のすべてが終結に至ったからである。どうして人間が己の存在の終結の日を逃れられようか。したがって、あとどれほどあなたがたは不服従の行いを続けられるのか。あなたがたの終わりの日がそこまで迫っているのが見えないのか。どうして神を畏れ敬い、神の現れを待ち焦がれている者たちが、神の義が出現する日を見られないのか。彼らがその善ゆえの最後の報酬を受けられないということが、どうしてあるのか。あなたは善を行う人なのか。それとも悪を行う人なのか。あなたは義なる裁きを受け入れて従う人なのか。それとも義なる裁きを受け入れて呪われる人なのか。光の中にある裁きの座の前で生きているのか。それとも闇に覆われたハデスで生きているのか。自分の終りが報酬を受けることになるのか、それとも罰を受けることになるのかを一番はっきり知っているのは、あなた自身ではないのか。神が義であることを一番はっきり知り、最も深く理解しているのは、あなたではないのか。それでは、あなたの行いと心は一体、どのようであるのか。今日、わたしがあなたを征服するに及んで、あなたのふるまいが悪であるか、それとも善であるかをわたしがいちいち説明する必要があるのか。あなたは、わたしのためにどれほどの犠牲を払ったのか。どれほど深くわたしを礼拝するのか。わたしに対して自分がどのようにふるまっているかをあなた自身が一番よく知っているのではないのか。自分が最終的にどのような結末を迎えるのかを、あなたは他の誰よりも良く知っているはずである。わたしは、まことにあなたに告げる。わたしは人類を創造し、あなたを創造しただけである。わたしはあなたがたをサタンに手渡さなかった。あなたがたを意図的にわたしに逆らわせ反抗させて、そのためにわたしに罰されるように仕向けもしなかった。これらの災難や苦しみを招いたのは、あなたがたの心があまりにも頑なで、あなたがたの行いが極めて下劣であるからではないのか。だから、あなたがたが迎える結末は、自分自身が決定するものではないのか。自分がどのような最後を迎えるのかを、あなたがたは内心、他の誰よりもよく知っているのではないのか。わたしが人を征服する理由は、人を暴露するためである。またそれは、あなたの救いを確かなものにするためでもある。それは、あなたに悪を行わせるためでもなく、あなたを意図的に破滅の地獄に向かって歩ませるためでもない。その時が来れば、あなたの大いなる苦しみ、泣き叫び、歯ぎしりはすべて、あなたの罪ゆえではないのか。したがって、あなた自身の善あるいは悪が、あなたを最も正しく裁いてくれるのではないのか。それがあなたの終りがどうなるのかを示す最良の証拠ではないのか。

『神の出現と働き』「征服の働きの内幕(1)」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 96

雷鳴のような声が発せられて、全宇宙を揺るがす。その声は人々の耳をつんざき、身をかわそうとしても間に合わない。ある者は殺され、ある者は滅ぼされ、またある者は裁かれる。それはまさに誰も見たことのない光景である。耳を澄ましてみなさい、雷鳴の轟きとともに泣き叫ぶ声が聞こえる。その声は冥府から、地獄から響いてくるのだ。それはわたしに裁かれた反逆の子らの悲痛な声である。わたしの言うことを聞かずその言葉を実践しなかった者は、厳しく裁かれ、わたしの怒りの呪いを受けた。わたしの声は裁きであり、怒りである。わたしは誰一人優しく扱わず、誰にも憐れみを示さない。わたしは義なる神自身であり、憤怒を備え、燃え盛る炎を備え、清めを備え、破滅を備えているからだ。わたしの中に隠されたものや感情的なものは一つもなく、逆にすべてが開かれており、義であり、公平である。わたしの長子たちはすでにわたしと共に玉座に就き、すべての国とすべての民族を支配しているので、不正な不義の物や人々は裁かれ始めている。わたしは彼らを一つずつ精査し、何一つ見逃すことなく完全に暴く。わたしの裁きは完全に露わにされ、完全に開かれており、何一つ隠されてはいないからだ。わたしの旨に適わないものはすべて投げ棄て、永遠に底なしの穴で滅ぼし、そこで永遠に焼き尽くさせる。これがわたしの義であり公正さである。誰もそれを変えることはできず、すべてはわたしの命令に従わなければならない。

ほとんどの人がわたしの言葉を無視しており、言葉は単なる言葉で事実は事実だと思っている。彼らは盲目なのだ。わたしが誠実な神自身であることを知らないのか。わたしの言葉と事実とは同時に起こる。それはまさに真実ではないか。人々はわたしの言葉を一切把握できず、啓示を受けた者だけが真に理解することができる。これは事実である。人々はわたしの言葉を目にするやいなや、気が動転してしまい、隠れ場所を探して走り回る。わたしの裁きが下るときはなおさらだ。わたしが万物を創造したとき、わたしが世界を滅ぼすとき、そしてわたしが長子たちを完全にするとき――こうしたすべてのことは、わたしの口から出るただ一つの言葉で成し遂げられる。それはわたしの言葉そのものが権威であり、裁きであるからだ。わたしという人間が裁きであり、威厳であると言うことができ、それは不変の事実なのだ。これはわたしの行政命令の一面であり、わたしが人々を裁く一つの方法にすぎない。わたしの目には、すべての人、すべての出来事、すべての物を含む万物がわたしの手中にあり、わたしの裁きの下にある。誰も何物も、あえて無闇に自分勝手に行動しようとはしない。すべてはわたしが発する言葉に従って成し遂げられなければならない。人間はみなその観念の中から、わたしという人間の言葉を信じている。わたしの霊が声を発すると、皆が疑いを抱く。人々はわたしの全能性をかけらも認識しておらず、わたしを不当に非難さえする。今あなたに告げるが、誰であれわたしの言葉に疑問を抱く者、わたしの言葉を軽視する者は、まさに滅ぼされる者であり、永遠に地獄の子なのだ。このことから、長子である者は極めて少ないことがわかる。これがわたしの働き方だからだ。以前言ったように、わたしは指一本動かすことなく、言葉だけを用いてすべてを成し遂げる。つまり、そこにわたしの全能性があるのだ。わたしの言葉の中に、その根源と目的とを見出せる者は誰もいない。人がこれを達成することはできず、彼らはただわたしの導きに従って行動し、わたしの旨に沿うすべてのことをわたしの義に従って行うことができるだけであり、その結果、わたしの家族は義と平和を得て永遠に生き、永久にしっかりと揺るぎなく立つことができるのだ。

わたしの裁きはすべての者に下り、わたしの行政命令はすべての者に及び、わたしの言葉と本体はすべての者に露わにされる。今はわたしの霊による大いなる働きの時である(ここで祝福される者と災いを受ける者が区別される)。わたしの言葉が発せられるやいなや、祝福される者と災いを受ける者が区別されたことになる。すべてはこの上なく明瞭であり、わたしにはすべて一目で見分けられる。(これはわたしの人間性について言っているのであり、わたしが行なった予定と選択に矛盾するものではない)。わたしは全宇宙の山と川と万物の間を行き巡り、あらゆる場所を観察し清める。そして汚れた場所やみだらな地はすべて、わたしの言葉によって消え去り、燃やし尽くされて無に帰すのだ。わたしにはすべてが容易だ。もしも今が世界を滅ぼすようわたしが予定した時であるなら、わたしはただ一つの言葉を発して世界を呑み込むこともできるが、今はその時ではない。わたしがこの働きをする前にすべてが準備され、計画への妨害や経営の中断が起こらないようにしなければならない。わたしはそれを合理的に行う方法を知っている。わたしには知恵があり、わたし自身の采配がある。人々は指一本動かしてはならない――わたしの手によって殺されないように気をつけなさい。これはすでにわたしの行政命令に触れている。このことから人はわたしの行政命令の厳しさだけでなく、その背後にある原則も見ることができる。その原則には二つの側面があり、一つはわたしの旨に適わず行政命令に違反するすべての者が殺されるということで、他方はわたしの行政命令に違反するすべての者がわたしの怒りの中で呪われるということだ。この二つの側面は不可欠であり、わたしの行政命令の背後にある大原則である。すべての人は、どれほど忠実かによらず、この二つの原則に従って感情なしに扱われる。これはわたしの義、威厳、そして怒りを示すのに十分であり、それらが地上のすべてのもの、世のすべてのもの、そしてわたしの旨と一致しないすべてのものを焼き尽くすのだ。わたしの言葉の中には隠されたままの奥義があり、また同時に、露わにされた奥義もある。そのため人間の観念に従えば、人間の心の中ではわたしの言葉は永遠に理解不能であり、わたしの心は永遠に計り知れないのだ。つまり、わたしは人間に観念と思考を捨て去らせなければならない。これはわたしの経営(救いの)計画の最も重要な事項である。わたしは長子たちを獲得し、成し遂げたいことを成し遂げるため、それをそのように行わねばならないのだ。

『神の出現と働き』「キリストの初めの言葉、第百三章」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 97

シオンよ! 歓呼せよ! シオンよ! 大声で歌え! わたしは勝ち誇って戻ってきた。わたしは勝利して帰って来た。すべての民よ、急いで整列せよ。すべての被造物よ、動きを止めなさい、わたしの本体が全宇宙に向き合い、世界の東に現れるからだ。ひざまずいて崇めようとしない者などあるだろうか。わたしを真の神と呼ばない者などあるだろうか。畏敬の念を持って見上げない者などあるだろうか。讃美しない者などあるだろうか。歓呼しない者などあるだろうか。わたしの民はわたしの声を聞き、わたしの子らはわたしの国で生き残るのだ。山々も川もすべてのものが止むことなく歓呼し、休むことなく飛び跳ねる。今や誰一人退こうとする者はなく、立ち上がって抵抗しようとする者もいない。これはわたしの素晴らしき業であり、そしてそれ以上に、わたしの偉大な力なのだ。わたしはすべてのものに心からわたしを崇めさせ、そしてさらに、すべてのものにわたしを称賛させる。これはわたしの六千年にわたる経営(救いの)計画の究極の目的であり、わたしが定めたことなのだ。一人の人間も、一つの物体も、一つの出来事も、あえて立ち上がって抵抗したり反逆したりすることはない。わたしの民は皆わたしの山(すなわちわたしが後に創造する世界)に流れ着き、わたしの前で服従する。わたしには威厳と裁きがあり、わたしが権威を宿しているからだ。(これはわたしが体に宿っているときのことである。わたしは肉においても権威を持つが、肉の中では時間と空間の制限を超越できないため、完全な栄光を得たとは言えない。わたしは長子たちを肉において獲得するが、それでも栄光を得たとは言えないのだ。シオンに戻り、外観を変えたとき初めて、わたしは権威を備え、すなわち栄光を得たと言えるのだ。)わたしに難しいことは何もない。わたしの口から出る言葉によってあらゆるものが破壊され、わたしの口から出る言葉によってあらゆるものが実現し完全にされる。それがわたしの偉大な力であり、わたしの権威である。わたしは力と権威に満ち溢れているため、わたしを妨げようとする者は誰もいない。わたしはすでにすべてのものに勝利し、すべての反逆の子らに打ち勝った。わたしは長子たちを自分と一緒にシオンに連れ戻す。わたしは一人でシオンに戻るのではない。そのためすべての者がわたしの長子たちを見て、わたしへの畏敬の念を抱くようになる。それこそが長子たちを得ることの目的であり、それが創世の時からのわたしの計画なのだ。

すべての準備ができたとき、それはわたしがシオンに戻る日となり、その日はすべての人々によって祝われることになる。わたしがシオンに戻ると、地上のすべては静まりかえり、地上のすべてが安らぐ。わたしがシオンに戻ると、すべてのものは本来の姿を取り戻す。それからわたしはシオンで働きを開始し、悪人を罰し、善人に報い、わたしの義を実践し、わたしの裁きを実行する。わたしは言葉を使ってすべてを成し遂げ、あらゆる人とあらゆるものにわたしの刑罰の手を体験させる。そしてあらゆる人々に、わたしの栄光のすべて、知恵のすべて、豊かさのすべてを見せる。わたしの中にはすべてが完成されているため、立ち上がって批判する者は誰もいない。そしてここで、あらゆる人にわたしの名誉のすべてを見せ、わたしの勝利のすべてを味わわせよう。わたしの中にはあらゆるものが現れるからだ。ここからわたしの偉大な力と権威を見ることができる。誰もあえてわたしを憤慨させようとはせず、誰もわたしを妨げようとはしない。わたしの中ではすべてのことが明らかにされる。誰があえて何かを隠そうとするだろうか。わたしはそのような者には決して憐みを示さない。そのような惨めな者はわたしの厳しい罰を受け、そのような屑はわたしの目の前から追放されなければならない。わたしは鉄つえをもって彼らを支配し、わたしの権威を用いて彼らを裁く。一切の哀れみをかけることも、彼らの気持ちを考えることもない。なぜならわたしは神自身であり、感情を持たず、威厳に満ち、侵すことのできない者だからだ。すべての者がこのことを理解し、目にしなければならない。そうでないと、「原因や理由もなく」わたしに打ち倒され、滅ぼされることになる。わたしの鉄のつえはわたしに背くすべての者を打ち倒すからだ。わたしは彼らがわたしの行政命令を知っていようがいまいが気にはしない。それはわたしにはまったく重要ではない。わたしの本体は誰の背きも許さないからだ。このため、わたしは獅子だと言われているのだ。わたしが触れる者は誰でも、わたしに打ち倒される。そのため、今ではわたしを憐れみと慈しみの神と呼ぶことは冒涜だと言われているのだ。本質的に、わたしは子羊ではなく、獅子である。誰もあえてわたしに背くことはなく、わたしに背く者は誰であれ、わたしがただちに容赦なく死をもって罰する。このことはわたしの性質を示すのに十分である。そのため終わりの時代には、大多数の人々が身を引くはずであり、それは人間にとっては耐え難いことだが、わたしは安らいで満足しており、これを困難な仕事だとはまったく思っていない。これがわたしの性質である。

『神の出現と働き』「キリストの初めの言葉、第一百二十章」(『言葉』第1巻)

日々の神の御言葉 抜粋 98

わたしの国では、無数の被造物がよみがえりを始め、生気を取り戻す。地上の状態が変化したため、地と地の境界にもまた、変化が起こる。地が地から離れ、地が地とつながるとき、わたしはすべての国を粉々に打ち砕くと、わたしは預言した。このとき、わたしはすべての被造物を新たにし、全宇宙を区切りなおす。それにより、全宇宙を秩序立て、古いものを新しいものに変える――これがわたしの計画であり、これらがわたしの業である。国々と世界の人々がみな、わたしの玉座の前に戻ると、わたしは天の富をすべて取って人間の世界に与え、わたしによって、その世界が比類なき富にあふれるようにする。しかし、古い世界が存続する限り、わたしは国々の上に怒りを投げつけ、わたしの行政命令を全宇宙に公布し、違反する者には刑罰を下す。

わたしが全宇宙に面と向かって話すと、人間はみなわたしの声を聞き、そこで、わたしが全宇宙で行なってきたすべての働きを見る。わたしの旨に逆らう者、つまり、人間の行ないでわたしに敵対する者は、わたしの刑罰を受けて倒れる。わたしは天の無数の星々を取ってそれらを新しくし、またわたしのおかげで、太陽と月は新たになる――空はもはや以前の空ではなく、地上の無数の物事が新たになる。すべては、わたしの言葉により完全になる。全宇宙の多くの国々は新たに区切られ、わたしの国に置き換わる。それにより、地上の国々は永遠に消え去り、すべてがわたしを崇める一つの国になる。地上のすべての国々は滅ぼされ、存在しなくなる。全宇宙の人間のうち、悪魔に属する者はみな、滅ぼし尽くされる。サタンを崇める者はみな、わたしの燃える炎に倒れる――つまり、今、流れの中にいる者以外は、みな灰になるのだ。わたしが多くの民を罰するとき、宗教界にいる者は、わたしの働きによって征服され、程度の差はあれ、わたしの国に戻る。彼らは聖なる方が白い雲に乗って降臨するのを見たからである。すべての人がその種類に応じて選り分けられ、それぞれの行いにふさわしい刑罰を受ける。わたしに敵対した者たちは、みな滅びる。地上での行ないがわたしと関わりのなかった人たちは、自分たちの振る舞いのために、わたしの子らとわが民による支配の下、地上で存在し続ける。わたしは無数の人々と無数の国々にわたしを現わし、自ら地上に声を発してわたしの大いなる働きの完了を告げ、全人類が自分の目でそれを見られるようにする。

わたしの話が深くなる中で、わたしはまた宇宙のありさまも観察する。わたしの言葉によって、無数の被造物がみな新たになる。地と同じように天も変わる。人間は本来の形を現し、各人はゆっくりと、それぞれの種類に応じて分けられ、知らぬ間に家族のもとに戻っていく。それに、わたしは大いに喜ぶだろう。わたしは妨げられることなく、わたしの大いなる働きは知らぬ間に成し遂げられ、無数の被造物は変化する。わたしが世界を創ったとき、わたしはすべてのものをそれぞれに創った。すべての形あるものをそれぞれの種類に集まるようにした。わたしの経営(救いの)計画が終わりに近づくと、天地創造当初の状態を回復させ、すべてを本来の姿に戻す。すべては大きく変わり、すべてはわたしの計画の内に戻る。時は来た。わたしの計画の最後の段階が成し遂げられようとしている。ああ、不浄な古き世界。必ずや、わたしの言葉の下に倒れる。必ずや、わたしの計画で無になる。ああ、無数の被造物たち。あなたがたは、みな、わたしの言葉の内で新たないのちを得る。あなたがたには主を持つのだ。ああ、純粋でしみ一つない新たな世界。必ずやわたしの栄光の中でよみがえる。ああ、シオンの山よ。これ以上沈黙するな――わたしは勝利のうちに帰ってきた。被造物の中から、わたしは全地を調べる。地上で、人間たちは新たな生活を始め、新たな希望を得た。ああ、わが民よ。どうして、あなたがたがわたしの光の中で復活しないでいられようか。どうして、あなたがたがわたしの導きの下、喜びに跳ね上がらないことがあろうか。地は歓喜の声を上げ、水は楽しい笑い声を響かせる。ああ、よみがえったイスラエルよ。わたしの定めをどうして誇りに感じないことがあろう。誰が泣いたのか。誰がうめき声を上げたのか。かつてのイスラエルは、もうない。そして、今日のイスラエルは立ち上がった、この世にまっすぐそびえ立ち、すべての人間の心の中に立ち上がった。今日のイスラエルは必ずや、わが民を通じて存在の源を得る。ああ、忌まわしいエジプトよ。まことに、もうわたしに敵対はしないだろう。どうしてわたしの憐れみを利用してわたしの刑罰を免れようとするのか。どうしてわたしの刑罰の内に存在できないのか。わたしの愛する者はみな、必ずや永遠に生き、わたしに敵対する者はみな、必ず永遠に刑罰を受ける。わたしはねたみ深い神だから、わたしは人間の行いを軽々しく赦さない。わたしは地上すべてを観察し、世界の東に義と威厳、怒り、刑罰をもって現れ、無数の人間たちにわたしを現す。

『神の出現と働き』「全宇宙への神の言葉、第二十六章」(『言葉』第1巻)

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